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|name=レミー・ボンヤスキー
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'''レミー・ボンヤスキー'''(Remy Bonjasky、[[1976年]][[1月10日]] - )は、[[スリナム|スリナム共和国]][[パラマリボ]]出身の[[オランダ]]人[[キックボクサー]]。バックボーンは[[ムエタイ]]。チームボンヤスキー所属。元[[ABNアムロ銀行]]勤務の銀行員という異色の経歴を持つ。
 
恵まれた体格を持ち、巧みな防御技術と、高い身体能力を生かしたフライング・ニー(跳び膝蹴り)、フライング・ハイ([[ハイキック]])などの蹴り技が武器。[[K-1]] WORLD GPで3度の優勝を果たしている。ただし、2004年と2008年のGP優勝については疑惑の判定を経ての優勝であった為、物議を醸す事となった。
[[K-1]] WORLD GPで3度の優勝を果たしている。
 
== 来歴 ==
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[[2002年]]7月14日、K-1 WORLD GP 2002 in 福岡で[[ミルコ・クロコップ]]にパンチの連打でダウンを奪われ、2RTKO負け。
 
[[2003年2002]]8月1517日、K-1 WORLD GP 20032002 in ラスベガス最終予選、決勝で[[マイケルステファンマクドナルド (格闘家)|マイケル・マクドナルドレコ]]と対戦し判定勝ち負け。GP開幕戦への出場は逃たが、2戦連続でベスト8ファイターと互角の負を展開した
 
[[2003年]]8月15日、K-1 WORLD GP 2003 ラスベガス最終予選トーナメントに出場。決勝で[[マイケル・マクドナルド (格闘家)|マイケル・マクドナルド]]に判定勝ちし優勝。
2003年10月11日、K-1 WORLD GP 2003 開幕戦のGP1回戦で[[ボブ・サップ]]と対戦。ダウンを奪うが、ボンヤスキーがスリップして倒れた際にサップの反則攻撃を受け試合続行不可能となったため、反則勝ちで準々決勝に駒を進める。
 
2003年1210611日、K-1 WORLD GP 2003 決勝開幕戦のGP準々決勝GP1回戦で[[ピーターボブグラハムサップ]]と対戦。ダウン跳び膝蹴りで1RKO勝ち。準決勝で[[シ奪うが、ボンヤスキーがスル・アビディ]]を膝蹴りで1RKO勝ち。そップして[[決勝]]で[[武蔵 (格闘家)|武蔵]]倒れた際にサップの反則攻撃判定で破受け試合続行不可能。サップが反則負けとなり、WORLD GP初優準々決に駒果たし進めた。
 
2003年12月6日、K-1 WORLD GP 2003 決勝戦のGP準々決勝で[[ピーター・グラハム]]を跳び膝蹴りで1RKO勝ち。準決勝で[[シリル・アビディ]]を膝蹴りで1RKO勝ち。そして[[決勝]]で[[武蔵 (格闘家)|武蔵]]を判定で破り、WORLD GP初優勝を果たした<ref>世界最終予選優勝者がその年のWORLD GP王者となったのはボンヤスキーと2001年に王者になった[[マーク・ハント]]の2名のみ</ref>。
 
[[2004年]]5月30日、一撃キックルールで[[フランシスコ・フィリォ]]と対戦し、ダウンを奪われて判定負け。フィリォはこの試合の勝利を最後に現役を引退した。
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2004年9月25日、K-1 WORLD GP 2004 開幕戦では、前年度王者ということで1回戦をシードされたため、スーパーファイトで[[曙太郎|曙]]と対戦し、ハイキックで3RKO勝ち。
 
2004年12月4日、K-1 WORLD GP 2004 決勝戦のGP準々決勝で[[アーネスト・ホースト]]と接戦を演じて延長戦の末に僅差の判定勝ち。準決勝では[[フランソワ・"ザ・ホワイトバッファロー"・ボタ]]、武蔵を破り2連覇を果たす。だが、ホースト戦判定がおかしいと言う意見もあり、一部の格闘技雑誌でも疑惑の判定として取り上げられた。タとそのトレーナーのステ・カラコダはこの試合を控え室で見ていて、レミが判定で勝った時は驚いていた。 次のボタ戦でも、不可解な判定でレミーが勝利ている。特にジャッジのうちの一人である御座岡正人の採点が「27.5-25.5でレミーを支持」という、明かにボタへの採点が低すぎるものであった(通常試合終了数十秒前ダウンを奪えずハイキック全3ラウンド優勢だったとしても10-9が3回続いて30-27、そこにダウンを一つったのを追加しても30-26となり、ボタの採点は最大でも4ポイント減までが限界のはずだが、ダウン以外の場面は全てボタが完封して判定勝ちたにもかかわらず、4.5ポイント減となっている)。 さらに続く決勝戦で、[[の相手となった武蔵 (格闘もレミーと同様に疑惑の判定によって決勝に進出してきたため、ファンや専門)|武蔵]]から多くの批判と抗議破りWORLD GP2連覇を果たし浴びた。 優勝後、レミーは「昨年のGPではホーストが欠場していた為優勝出来たのではないかと言われたが、今回はホーストを倒して優勝した事で、真の王者だと証明できて嬉しい。」とコメントした。
 
2005年3月19日、K-1 WORLD GP 2005 IN SEOULで[[レイ・マーサー]]にハイキックで試合開始22秒でKO勝ち。
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2005年9月23日、K-1 WORLD GP 2005 IN OSAKA 開幕戦にて、スーパーファイトで[[アレクセイ・イグナショフ]]と対戦。3R終了時に判定でドローとなったため、延長戦を行い3-0の判定勝ちを収めた。
 
2005年11月19日、K-1 WORLD GP 2005 IN TOKYO 決勝戦にて、前年に続いてWORLD GP王者ということで1回戦をシードされて迎えたGP準々決勝で[[チェ・ホンマン]]と対戦し、3R判定勝ち。続く準決勝で[[セミー・シュルト]]と対戦し、自らしゃがみこんでダウンするなど、心を折られての1RKO負けを喫した。
 
2005年12月31日、[[K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!]]にて[[ザ・プレデター]]と対戦、プレデターの圧力に苦戦し劣勢となるも判定2-1で勝利。会場で この試合、K-1ファンのみならず関係者の間でもプレデターが勝っていたという意見が多く、判定に対してでレミーの勝ちが告げられた瞬間、観客からはざわめきとブーイングが起こった。大会直後記者会見試合の判定ついK-1プロデューサーの[[谷川貞治]]、格闘技通信やKamiproなどで「プ露骨なデタ贔屓勝ちでも良か判定だったと指摘されてます」とコメントし、る。K-1競技統括やレフェリーを務めてい[[角田信朗]]もブログにて「立場上強くは言えないが、あの判定、ブーイングが出ても致し方ない」とこの試合の判定についてコメントした。 さらに大会直後にK-1プロデューサーの谷川貞治も「あれはプレデターの勝ちで良いと思う」とコメントしている。<ref name="名前なし-20231105132544">紙のプロレス Kamipro 95</ref> 数カ月後にチェ・ホンマン戦の直前に行われたK-1公式サイトのインタビューにて当事者であるプレデターは「あの試合は俺が勝っていたんじゃないか?何度試合を見直しても俺の方が手数で上回っているし優勢だ。まあ仲間は俺の勝ちだと言ってくれているのでそれで良いが」と判定への不満こそ述べなかったが、自分が勝っていたとの見解を示している
なお、この試合は不可解な判定だった為か、地上波ではほぼカットされ、エンドロールでわずかに結果と映像が流されたのみとなっている。<ref name="名前なし-20231105132544"/>
 
[[2006年]]5月13日、K-1 WORLD GP 2006 IN AMSTERDAMで[[ジェロム・レ・バンナ]]と対戦。3R中盤にバンナのミドルキックで明らかにダメージを受け劣勢となるも、2-0判定勝ちを収めた。しかしその後、バンナ側の抗議により、K-1公認審判団の日本人6名とアメリカ人2名によって判定の検証が行われた結果、6月30日付でレミーの0-3の判定負けに記録が変更された<ref>[http://www.k-1.co.jp/report/20060630r.html 「ジェロム・レ・バンナ選手側からの判定に対する異議申し立てについての回答」] [[K-1]]公式ウェブサイト 2006年6月30日</ref><ref>[https://www.boutreview.com/data/news05/060513k1wgp-banner.html オランダ大会のバンナ×ボンヤスキー、バンナの勝利に裁定変更] BOUTREVIEW 2006年7月3日</ref>
 
2006年7月30日、K-1 REVENGE 2006 K-1 WORLD GP 2006 IN SAPPOROで僅差で敗れた[[マイティ・モー]]と再戦を行い、ローキックなどでダメージを与えモーを完封して判定勝ち。リベンジを果たした。
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2006年12月2日、K-1 WORLD GP 2006 決勝戦のGP準々決勝で[[ステファン・レコ|ステファン"ブリッツ"レコ]]と対戦。2度の金的を受けるアクシデントに苦しみながらも、3Rにカウンターでダウンを奪い判定勝ち。試合後、金的のダメージで同日の準決勝を棄権した。
 
[[2007年]]4月28日、K-1 WORLD GP 2007 in HAWAIIで[[グラウベ・フェイトーザ]]と初対戦、お互いに蹴りが効いた素振りを見せる接戦となるも、3Rにやや優勢になり、2-0の判定勝ち
 
2007年8月、[[ミルコ・クロコップ]]の[[チーム・クロコップ]]のトレーニングにスパーリング・パートナーとして参加。
 
2007年9月29日、K-1 WORLD GP 2007 IN SEOUL FINAL16のGP1回戦にて[[ステファン・レコ|ステファン"ブリッツ"レコ]]と再戦。右跳び膝蹴りでKO勝ち。ただし、レコはダウンを喫した後、10カウント以内に立ち上がったにもかかわらず、レフェリーに試合を止められているた為、物議を醸した
 
2007年12月8日、K-1 WORLD GP 2007 FINALのGP準々決勝で[[バダ・ハリ]]と対戦。3R判定勝ち。準決勝では[[ピーター・アーツ]]に3R判定負け。
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[[2008年]]4月26日、[[K-1 WORLD GP 2008 IN AMSTERDAM]]にて[[メルヴィン・マヌーフ]]にハイキックで2RKO勝ち。
 
2008年9月27日、[[K-1 WORLD GP 2008 IN SEOUL FINAL16]]のGP1回戦で[[ポール・スロウィンスキー]]と対戦し、3Rにスロウィンスキーのラッシュで完全に動きが止まり、ラッシュをクリンチで逃れるなど、ダウン寸前の劣勢となるも判定勝ち。この不可解な判定について試合後、スロウィンスキーは『自分の勝ちか、せめてドローの試合、レミーの判定勝ちになったのは人気選手だからだと思う』と不服を唱えていた。レミーもこの事に関して「彼が不服を唱えたのにもそれなりの理由があるのだろう。」とコメントしている。<ref>[https://web.archive.org/web/20080930022628/http://www.k-1.co.jp/database/080927more/20080927_05.html 『FieLDS K-1 WORLD GP 2008 IN SEOUL -FINAL16-』大会結果] K-1公式ウェブサイト 2008年9月27日</ref>ただし、数日後に行われたインタビューでレミーはこの発言を撤回している。なお、この試合は不可解な判定だった為か、地上波ではほぼカットされ、結果と数秒間のダイジェストしか放送されなかった。
2008年9月27日、[[K-1 WORLD GP 2008 IN SEOUL FINAL16]]のGP1回戦で[[ポール・スロウィンスキー]]と対戦し、判定勝ち。
 
2008年12月6日、[[K-1 WORLD GP 2008 FINAL]]のGP準々決勝で[[ジェロム・レ・バンナ]]と対戦。3Rにミドルキックでダウンを奪い、そのままバンナの骨折の疑いによりドクターストップによるTKO勝利。
2008年12月6日、[[K-1 WORLD GP 2008 FINAL]]のGP準々決勝で[[ジェロム・レ・バンナ]]と対戦。3Rにミドルキックでダウンを奪い、そのままバンナの骨折の疑いによりドクターストップによるTKO勝利。準決勝では[[グーカン・サキ]]に2RKO勝利を収めた。決勝では[[バダ・ハリ]]と対戦し、1Rにハリからダウンを奪ったが、2Rに足を掴まれ倒されると、ハリの反則攻撃(倒れた相手の頭部へのパンチと踏みつけ)を受けた。ダメージ回復のため試合が中断されたが、レミーはダブルビジョン(物が二重に見えること)を訴え試合続行不可能。この反則行為によりバダ・ハリが失格負けとなり、レミーが4年ぶり3度目のGP王者となった。試合後、対戦相手のハリは反則攻撃後のボンヤスキーの一連の行動に対して「演技」の可能性を指摘した。それに対して当のボンヤスキーは、その翌日のインタビューにおいて、一夜を越して起きてもまだダブルビジョンと頭痛が治まっていなかったという旨のことを述べている<ref>[http://www.sherdog.com/news/pressreleases/K-1-WGP-08-Post-Event-Interview-with-Remy-Bonjasky-amp-Comments-from-Sadaharu-Tanikawa-15428 "K-1 WGP 08 Post-Event Interview with Remy Bonjasky & Comments from Sadaharu Tanikawa"] 2008年12月7日 ''[[SHERDOG]]'' {{En icon}}</ref>。
 
同日、準決勝では[[グーカン・サキ]]に2RKO勝利を収めた。
[[2009年]]3月28日、[[K-1 WORLD GP 2009 IN YOKOHAMA]]で[[アリスター・オーフレイム]]と対戦。全体的にアリスターにペースを握られるも、3Rにダウンを奪い判定勝ち。ボンヤスキーは試合後の会見で2日前に膝の裏側の筋を痛め歩行も困難な状態になり、試合当日は鎮痛剤を打って試合をしたことを告白した<ref>[https://gbring.com/sokuho/news/2009_03/0328_k-1.htm 【K-1】ボンヤスキー「試合の2日前に怪我して歩行も困難な状態だった」と告白]GBR 2009年3月28日</ref>。
 
2008年12月6日、[[K-1 WORLD GP 2008 FINAL]]のGP準々決勝で[[ジェロム・レ・バンナ]]と対戦。3Rにミドルキックでダウンを奪い、そのままバンナの骨折の疑いによりドクターストップによるTKO勝利。準決勝では[[グーカン・サキ]]に2RKO勝利を収めた。決勝では[[バダ・ハリ]]と対戦し、1Rにハリからダウンを奪ったが、2Rに足を掴まれ倒されるとハリの反則攻撃(倒れた相手の頭部へのパンチと踏みつけ)を受けた。反則攻撃を続けるハリをレフェリーが引き剥がし、ダメージ回復のため試合が中断されたが、レミーはダブルビジョン(物が二重に見えること)を訴え試合続行不可能。この反則行為によりバダ・ハリが失格負けとなり、レミーが4年ぶり3度目のGP王者となった。試合後、対戦相手のハリは反則攻撃後のボンヤスキーの一連の行動に対して「演技」の可能性を指摘して挑発した。それに対して当のボンヤスキレミーは、その翌日のインタビューにおいて、一夜を越して起きてもまだダブルビジョンと頭痛が治まっていなかったとう旨のことを述べている<ref>[http://www.sherdog.com/news/pressreleases/K-1-WGP-08-Post-Event-Interview-with-Remy-Bonjasky-amp-Comments-from-Sadaharu-Tanikawa-15428 "K-1 WGP 08 Post-Event Interview with Remy Bonjasky & Comments from Sadaharu Tanikawa"] 2008年12月7日 ''[[SHERDOG]]'' {{En icon}}</ref>。
 
[[2009年]]3月28日、[[K-1 WORLD GP 2009 IN YOKOHAMA]]で[[アリスター・オーフレイム]]と対戦。1R、2Rとプレッシャーをかけ続けるアリスターにペースを握られるも、3Rにフラッシュダウン気味のダウンを奪い判定勝ち。しかし、3R以外のダウン以外は終始アリスターが圧倒しており、この試合の解説者全員が1Rと2Rはアリスターが優勢であると発言する程であったにもかかわらず、1Rと2Rにアリスターにポイントが入らないと言う不可解な判定があり、もし2Rまでにアリスターにポイントが入っていれば、レミーはカウンター狙いの戦法を取れず、アリスターも無理に攻める必要がなかった為、ダウンを奪われることもなく、試合の展開自体が変わっていた可能性が非常に高い為、判定について批判が起こった。K-1プロデューサーの谷川貞治はこの試合について「ほとんどアリスターの勝ちですね。2Rもアリスターのポイントで良いと思いますし、ダウン以外は全てアリスターが勝っていました」とコメントしている。<ref>[https://gbring.com/sokuho/news/2009_03/0328_k-1_03.htm 【K-1】谷川EP、メインイベントは「ほぼアリスターの勝ちだった」] 格闘技ウェブマガジンGBR 2009年3月28日</ref>。試合後の会見で2日前に膝の裏側の筋を痛め歩行も困難な状態になり、試合当日は鎮痛剤を打って試合をしたことを告白した。
 
2009年9月26日、[[K-1 WORLD GP 2009 IN SEOUL FINAL16]]のGP1回戦で[[メルヴィン・マヌーフ]]と対戦し、判定勝ち。
 
2009年12月5日、[[K-1 WORLD GP 2009 FINAL]]のGP準々決勝で[[エロール・ジマーマン]]に判定勝ち。

同日、準決勝では[[セミー・シュルト]]と対戦し、ジマーマン戦で受けた足のダメージが響き、1R開始直後に左フックでフラッシュダウン気味のダウンを奪うも、徐々にシュルトに盛り返されて2度のダウンによりKO負けを喫し1RKO負け。連覇はならなかった。
 
2010年9月6日、[[オランダ]]・[[アルメレ]]にキックボクシングジム「ボンヤスキー・アカデミー」を開設。
 
[[2010年]]8月、[[網膜剥離]]の手術を受け、成功した<ref>[http://gbring.com/sokuho/news/2010_09/0919_k-1_02.htm 【K-1】10・2バダ・ハリが暴行容疑を晴らすため、ボンヤスキーが網膜はく離のため欠場] 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年9月19日</ref>。以後はボンヤスキー・アカデミーで[[ダニョ・イルンガ]]ら後進の指導をしつつ、欧州のキックボクシング団体である[[IT'S SHOWTIME]]のリポーターなどを務めながら、あと1試合で現役を引退することを表明し、引退試合をK-1かIT'S SHOWTIMEのどちらかで行うべく交渉を行っていたが、結局、引退試合を行わないまま一度目の現役引退となった<ref>[http://www.boutreview.com/2/news/itsshowtime/item_6520.html ルッツ会長インタビュー「我々は『K-1後』を考えていますよ」] - boutreview・2011年1月26日</ref>。
 
[[2012年]]に入り、IT'S SHOWTIMEを買収した[[GLORY (格闘技)|GLORY]]と契約。同年[[10月6日]]にブリュッセルで開催のGLORY 2にて2年10ヶ月ぶりの現役復帰戦で[[アンダーソン・ブラドック・シルバ]]と対戦し、延長戦の末に4-1の判定勝ち<ref>[http://mmaplanet.jp/archives/1725369.html 【Glory02】復活レミーは苦しみ抜いて、シウバを延長判定で下す] MMAPLANET 2012年10月7日</ref><ref>[http://mmaplanet.jp/archives/1725765.html 【Glory02】レミー・ボンヤスキー、グーカン・サキらの試合後の談話] MMAPLANET 2012年10月8日</ref>。
 
2012年12月31日、[[DREAM.18 & GLORY 4]]のGLORY GRAND SLAM ヘビー級世界トーナメント2012にて、1回戦でフィリップ・ヴェルリンデンに2分3R判定143-142で判定勝ち。

同日、準々決勝で[[ジャマール・ベン・サディック]]と対戦、サディックのリーチ苦戦し、2分2R判定90-100で判定負けを喫した。
 
[[2013年]]3月23日、GLORY 5 LONDONにて[[タイロン・スポーン]]と対戦、2R右ストレートでキャリア初となる失神KO負け<ref>[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/fight/all/2013/columndtl/201303250005-spnavi レミー・ボンヤスキー、世代交代マッチで失神KO負け 3.23グローリーロンドン大会] スポーツナビ 2013年3月25日</ref>。
 
2013年12月21日、[[有明コロシアム]]で行われた[[GLORY 13 TOKYO]]にて、日本で最後となる試合を行い[[アンダーソン・ブラドック・シルバ]]と再戦。蹴りを使い試合を有効に勧めていたが、物議を醸す判定により判定負け。レミーは判定に苦笑いをしながらもファンに日本語で感謝の気持ちを伝えた。
 
2014年3月8日、[[アレナ・ザグレブ]]で行われた[[GLORY14 ZAGREB]]にて、[[ミルコ・クロコップ]]と再戦。お互いに見せ場を作れず、精彩を欠いた内容となったが、2-0で判定勝ち。
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*[[アレクセイ・イグナショフ]]と並んでK-1きってのインテリファイターとして知られており、格闘雑誌のインタビューで国立大学出身で数学を専攻していたと語っている。
*2003年に結婚するが、2005年に離婚。2004年2月に長男が生まれ、[[モハメド・アリ]]の本名から取って「カシアス」と名付けた。
*20062004年に[[ジェロムアーネストレ・バンナホースト]]に疑惑の判定で勝利した後、バンナ陣営疑惑抗議によって裁定が覆った事について、レミーは『ファイターならば、会場で判定が言い渡された時点で負けを受け入れるべきだ。真のファイターは判定文句を言わ納得しないものだ。ホーストに対して『諦めろ』とコメントしている。
*2006年に[[ジェロム・レ・バンナ]]に疑惑の判定で勝利した後、バンナ陣営の抗議によって裁定が覆った事について、レミーは『ファイターならば、会場で判定が言い渡された時点で負けを受け入れるべきだ。真のファイターは判定に文句を言わないものだ。』とコメントしている。しかし、実はレミー自身も2005年の[[アレクセイ・イグナショフ]]戦前後のインタビューにて、過去にイグナショフに判定で敗れた事について、判定が正当な物ではなかったとして自分が勝っていたと主張している。また、2006年の[[ステファン・レコ]]戦前のインタビューでも、過去にレコに判定負けした試合についても、自分が勝っていたと主張している
*[[セミー・シュルト]]については『シュルトは王者だったけど、それがファンに伝わっていなかった。ルックスも王者らしくないし、トークもできない。しかもファイトスタイルはつまらない。』と酷評コメントしている。
*2007年の開幕戦後のインタビューでは『セミー・シュルトと戦いたい』、『今ならシュルトに勝てると思う』とコメントしている。しかし、2008年のシュルト不在時に優勝した後には、『GPで十分に自分の強さは示したと思うし、今更セームと戦いたいとは思わない』とコメントしている。この事について、K-1携帯公式サイトにて、『レミーはシュルトから逃げているのではないか?』という質問を受けたK-1プロデューサーの谷川貞治は『僕もレミーはシュルトとの対戦をかなり嫌がっていると思いますよ。』とコメントし、レミーがシュルトから逃げたということを肯定する発言をしている。
*武蔵によると、『レミーはK-1WGPで優勝した時期から天狗になっており、オランダのファイターや周囲の人間ほぼ全員から嫌われ、日本で試合をする際、セコンドすらおらず、武蔵のトレーナーのフランクにセコンドについてほしいと頼むほど孤立していた時期』があった。そして、『その雰囲気は最後まで残っていたが、ピーター・アーツだけはレミーを露骨に嫌わずに気を遣って接していた』と西山茉希は語っている。<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=9bzOPoGg81E 5代目格闘ビジュアルクイーン登場!当時のK-1の裏側をぶっちゃける。] 魔裟斗&武蔵チャンネル ムサマサ! 2021年7月24日</ref>。
 
== 評価 ==
* 他の歴代K-1王者と比べると、K-1ファンのみならず選手や関係者の間でも王者としてのレミーの実力を疑問視する声は非常に多く、格闘技ウェブマガジンGBRでも、『かつてのアーツやホーストのような高い評価を得られていないのも事実』と評されている<ref name="名前なし_2-20231105132544">[http://gbring.com/sokuho/result/result2009_12/1205_k-1_02.htm 【K-1】セミー・シュルトが大活躍のバダ・ハリをKOし、史上最多タイ4度目の優勝] 格闘技ウェブマガジンGBR 2009年12月5日</ref>。
 
*初優勝した2003年のGPでは[[ジェロム・レ・バンナ]]、[[アーネスト・ホースト]]、[[マーク・ハント]]、[[ミルコ・クロコップ]]、[[ステファン・レコ]]らの多くのトップファイターが欠場していた為、GPトーナメントの対戦相手は、[[ピーター・グラハム]]、[[シリル・アビディ]]、[[武蔵 (格闘家)]]と有力選手と対戦しないまま優勝したため『レミーが優勝できたのは有力選手らが欠場していた為ではないのか』とレミーの実力を疑問視する声が上がった。[[アーネスト・ホースト]]はレミーの2003年の優勝後、このトーナメントについて『トップ選手が出ていない楽なトーナメントだったから優勝出来た』と評価している。<ref>[https://gbring.com/sokuho/news/2004_12/1203_koshin.htm 【立ち読み】レミー・ボンヤスキーGP決勝直前インタビュー] 格闘技ウェブマガジンGBR 2004年12月3日</ref>。
 
*2度目の優勝を果たした2004年のWGPでは、前年度王者ということで開幕戦を免除され(なお、翌2005年も1回戦をシードされており、K-1史上全てのトーナメントにおいて開幕戦を免除された選手は2004年と2005年のレミーのみである。)決勝大会では、前述のように準々決勝のホースト戦、準決勝のボタ戦で疑惑の判定で勝利し、さらに決勝の対戦相手の[[武蔵 (格闘家)]]もレミーと同様に準々決勝と準決勝で疑惑の判定勝利によって決勝に進出してきたため、大会終了後には、K-1のジャッジに対する批判が相次ぎ、K-1公式サイトで、疑惑の判定の検証が発表されると言った前代未聞の事態となった。<ref>[https://web.archive.org/web/20041229002635/http://www.so-net.ne.jp/feg/report/20041217r_11.html 『アルゼ K-1 WORLD GP 2004 決勝戦での判定に関してのお知らせ] K-1公式ウェブサイト 2004年12月17日</ref> ホーストはこの時点で39歳で、年齢的にも引退が近いと思われており、衰えていたホーストに疑惑判定で辛勝するのがやっとだった為、『レミーは王者になるような実力ではないのではないか』という声がさらに強まる結果となった。またその年のオランダ格闘技界の年間MVPは[[エロル・パリス]]、[[アジス・カトゥー]]、[[グーカン・サキ]](この時のサキは無名であり下積み時代であった)、[[ゲーリー・ターナー]]と言った無名選手にしか勝利していない[[バダ・ハリ]]となっている事からも、本国オランダでもこの優勝が評価されていない事が窺える。
 
*3度目の優勝を果たした2008年のWGPでは開幕戦の[[ポール・スロウィンスキー]]戦で3Rに追い込まれながらも、またしても疑惑の判定勝ちを収めた事。そして、WGP決勝では準々決勝の対戦相手のバンナが試合前から左腕を負傷していた為(左腕に水が溜まっており、強いパンチが打てない状態)<ref>[https://gbring.com/sokuho/news/2008_12/1211_dynamite_04.htm 【Dynamite!!】12・31バンナ、左腕は問題なし「ハント、激しく殴り合おうじゃないか」] 格闘技ウェブマガジンGBR 2008年12月11日</ref>[[ピーター・アーツ]]、[[エロール・ジマーマン]]と言った強豪と対戦して消耗していた[[バダ・ハリ]]に比べて、明らかに組合せに恵まれていた面もあり、更に決勝の[[バダ・ハリ]]戦での勝利が反則による決着であった為、またしてもレミーの実力を疑問視する声が上がった。
 
*[[アレクセイ・イグナショフ]]は2005年のパリ大会前にボンヤスキー何かに2連覇させてしまった事を後悔していると発言している。また2005年の開幕戦前のインタビューでは『レミーの事はチャンピオンだとは思っていない。レミーが優勝した2003年と2004年、特に2003年は強い選手がいなかったんだ』と述べている。
 
*[[ステファン・レコ]]は2007年の開幕戦前のインタビューで、レミーが優勝したトーナメントはレベルが低かった為価値がないと述べている。
 
*[[バダ・ハリ]]『レミーは2回優勝しているが、トップファイターが揃ったトーナメントで優勝したのではない。果たして彼がふさわしいチャンピオンなのか、疑問だね。みんな気付いていると思うけど、言わないだけだろう。』と2007年のGP決勝トーナメント前にコメントしている<ref name="#1">[https://gbring.com/sokuho/news/2007_12/1206_k-1_04.htm 【K-1】12・8バダ・ハリ、レミーに挑発返し!「彼はフェイクチャンピオンだ」] 格闘技ウェブマガジンGBR 2007年12月6日</ref>。
 
*[[エロール・ジマーマン]]は『レミーはK-1で3度チャンピオンになっているけど、強い選手だとは思わない。彼は運が良かっただけだ。』と評している。<ref>[https://gbring.com/sokuho/news/2009_12/1203_k-1_10.htm 【K-1】12・5エロジマンが豪語「全試合KOで終わらせて六本木だ!」] 格闘技ウェブマガジンGBR 2009年12月03日</ref>。
 
*レミー本人は、こういったレミーの実力を疑問視する声について、2009年のジマーマン戦前のインタビューにて『私が優勝するといつも文句が出る。』とコメントしている<ref name="名前なし_2-20231105132544"/>。
 
== 2度にわたる名誉賞の受賞 ==
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{{Commonscat|Remy Bonjasky}}
* [http://www.remybonjasky.com/ Remy Bonjasky AKA The Flying Gentleman] - 公式サイト
* {{Instagram|remybonjasky|Remy Kenneth Bonjasky}}
* [http://www.k-1.co.jp/jp/fighter/player.php?index=bonjasky K-1 選手データ]
* {{Facebook|remybonjasky|Remy Bonjasky}}
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{{Championshiptitle2||[[K-1]] WORLD GP 2003||アーネスト・ホースト|レミー・ボンヤスキー|2003年12月6日}}
{{Championshiptitle2||K-1 WORLD GP 2004||レミー・ボンヤスキー|セーム・シュルト|2004年12月4日}}
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[[Category:オランダのキックボクサー]]