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== 概説 ==
事件は、ホラート・シャフイル山([[:en:Kholat Syakhl|Kholat Syakhl]]、{{ru|Холат-Сяхыл}}、[[マンシ語]]で「死の山」の意<ref>{{Efn|「死者の山」と解釈する人もいるが、野生動物の生息数が乏しく、この地域では[[ジビエ|狩りの獲物]]が見込めないところから来ている名前である。</ref>}})の東斜面で起こった。事件があった峠は一行のリーダーであったイーゴリ・ディアトロフ(ディヤトロフ、ジャートロフ、ジャトロフ、{{ru|Игорь Дятлов}})の名前から、''ディアトロフ峠''(ジャートロフ峠、ジャトロフ峠、{{ru|Перевал Дятлова}})と呼ばれるようになった。
 
当時の調査では、一行は摂氏[[氷点下|マイナス]]30度の極寒の中、[[テント]]を内側から引き裂いて裸足で外に飛び出した([[矛盾脱衣]])とされた。遺体には争った形跡はなかったが、2体に[[頭蓋骨]][[骨折]]が見られ、別の2体は[[肋骨]]を損傷、1体は[[眼球]]および[[舌]]を失っていた<ref name="osadchuk">{{cite news|url = http://www.sptimes.ru/story/25093 |title = Mysterious Deaths of 9 Skiers Still Unresolved |author = Svetlana Osadchuk |publisher = [[セントピーターズバーグ・タイムズ (ロシア)]] |accessdate =2008-02-28 |date = February 19, 2008 |url-status=dead |deadlinkdate=2024-06-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080226101529/http://www.sptimes.ru/story/25093 |archivedate=2024-06-16}}</ref>。さらに何人かの犠牲者の衣服から、高い線量の[[放射性物質]]が検出された。
| url = http://www.sptimes.ru/story/25093
| title = Mysterious Deaths of 9 Skiers Still Unresolved
| author = Svetlana Osadchuk
| publisher = [[セントピーターズバーグ・タイムズ (ロシア)]]
| accessdate = 2008–02–28
| date = February 19, 2008
}}</ref>。さらに何人かの犠牲者の衣服から、高い線量の[[放射性物質]]が検出された。
 
事件は人里から隔絶した山奥で発生し生還者も存在しないため、いまだに全容が解明されず、不明な点が残されている<ref name="guschin" /><ref name="matveyeva" />。当時のソ連の捜査当局は「抗いがたい自然の力」によって9人が死に至ったとし<ref name="guschin" />、事件後3年間にわたって、スキー客や探検家などが事件の発生した地域へ立ち入ることを禁じた<ref name="osadchuk" />。
 
ソ連を引き継いだ[[ロシア連邦]]の最高検察庁は2020年7月13日、雪崩が原因との見解を示した<ref name=sankei20200713>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/world/news/200713/wor2007130022-n1.html|title=6060年前の謎“ディアトロフ峠事件”  「雪崩が原因」で結論  ロシア検察当局|work=産経ニュース|newspaper=[[産経新聞]]|date=2020-07-13|accessdate=2020-07-13}}</ref>。
 
== 事件発生まで ==
[[File:Фото членов тургруппы Игоря Дятлова.jpg|thumb|ディアトロフ峠事件の犠牲者の慰霊碑]]
一行は男性8名女性2名からなり、[[スヴェルドロフスク州]]内のウラル山脈北部において[[スキー]]での[[トレッキング]]を計画していた。グループの多くはウラル科学技術学校 ({{ru|Уральский Политехнический Институт, УПИ}})、現在の[[ウラル工科大学]]の学生か卒業生だった。メンバーは次の通りである。
# イーゴリ・アレクセーエヴィチ・ディアトロフ ({{ru|Игорь Алексеевич Дятлов}})、一行のリーダー、[[1936年]]1月13日{{Sfn|ドニー・アイカー|2018|p=329}}生まれ。
[[File:Фото членов тургруппы Игоря Дятлова.jpg|thumb|ディアトロフ峠事件の犠牲者の慰霊碑]]
# ジナーゴリ・アレクセーエヴィチディアトコルモゴ ({{ru|ИгорьЗинаида АлексеевичАлексеевна ДятловКолмогорова}})、一行のリーダー、[[19361937年]][[1月1312]]{{Sfn|ドニー・アイカー|2018|p=329}}生まれ。
# ジナイダリュドミラ・アレクセーエサンドロヴナ・コルモゴロワドゥビニナ ({{ru|ЗинаидаЛюдмила АлексеевнаАлександровна КолмогороваДубинина}})、[[19371938年]][[15月12日]]{{Sfn|ドニー・アイカー|2018|p=329}}生まれ。
# リュドミラ・アレクサンドル・セルゲーエィチドゥビニナコレヴァトフ ({{ru|ЛюдмилаАлександр АлександровнаСергеевич ДубининаКолеватов}})、[[19381934年]][[5111216]]生まれ。
# アレクサンドステムセルゲウラジミロヴィチ・コレヴァトフスロボディン ({{ru|АлександрРустем СергеевичВладимирович КолеватовСлободин}})、[[19341936]][[1111611]]{{Sfn|ドニー・アイカー|2018|p=329}}生まれ。
# ユーリー(ゲオステムギー)ウラジアレクセミロヴィチ・スロボディクリヴォニシチェ ({{ru|РустемЮрий Владимирович(Георгий) Алексеевич СлободинКривонищенко}})、1936年[[1月11日1935年]]2月7日{{Sfn|ドニー・アイカー|2018|p=329}}生まれ。
# ユーリー(ゲオルギー)アレクセーニコラエヴィチ・クリヴォニドロェンコ ({{ru|Юрий (Георгий)Николаевич Алексеевич КривонищенкоДорошенко}})[[19351938]][[21729]]{{Sfn|ドニー・アイカー|2018|p=329}}生まれ。
# ユーリー・ニコライ・ウラジーミロヴィチ・ドロシェンコチボ=ブリニョーリ ({{ru|ЮрийНиколай НиколаевичВладимирович ДорошенкоТибо-Бриньоль}})1938年[[1月29日1935年]]7月5日生まれ。
# ニコライ・ウラジーョーン(アレクサンドル)・アレクサンドロヴィチ・チボ=ブゾロターリ ({{ru|НиколайСемен Владимирович(Александр) Александрович Тибо-БриньольЗолотарёв}})、[[19351921年]][[7252]]{{Sfn|ドニー・アイカー|2018|p=329}}生まれ。
# ユーリー・エフィモヴィチ・ユーディン ({{ru|Юрий Ефимович Юдин}})、1937年[[7月19日]]{{Sfn|ドニー・アイカー|2018|p=329}}生まれ、[[2013年]][[4月27日]]没<ref>{{cite news |title={{ru|Умер последний дятловец}} |author={{ru|Дарья Кезина}} |url=http://www.rg.ru/2013/04/28/reg-urfo/yudin.html |newspaper=[[Rossiyskaya Gazeta]] |date=27 April 2013 |accessdate=27 April 2013}}</ref>。
# セミョーン(アレクサンドル)・アレクサンドロヴィチ・ゾロタリョフ ({{ru|Семен (Александр) Александрович Золотарёв}})、[[1921年]][[2月2日]]生まれ。
# ユーリー・エフィモヴィチ・ユーディン ({{ru|Юрий Ефимович Юдин}})、1937年[[7月19日]]生まれ、[[2013年]][[4月27日]]没<ref>{{cite news |title={{ru|Умер последний дятловец}} |author={{ru|Дарья Кезина}} |url=http://www.rg.ru/2013/04/28/reg-urfo/yudin.html |newspaper=[[Rossiyskaya Gazeta]] |date=27 April 2013 |accessdate=27 April 2013}}</ref>。
 
一行の最終目的地は、事件発生現場から北に約10[[キロメートル|キロ]]の{{仮リンク|オトルテン|ru|Отортен}}山に設定{{Sfn|ドニー・アイカー|2018|p=85}}されていた。そのルートは、事件当時の季節においては踏破難易度がきわめて高いと推定されたが、最上位のトレッキング資格を取得するために難易度の高い山行に挑む必要があった{{Sfn|ドニー・アイカー|2018|pp=32-33}}。一行の全員が長距離スキー旅行や山岳遠征の経験を有しており{{Sfn|ドニー・アイカー|2018|p=21}}、この探検計画に表立って反対するものはいなかった。
 
[[1月25日]]、スヴェルドロフスク州北部の中心地{{仮リンク|イヴデリ|en|Ivdel}}に一行の乗った列車が到着した。彼らは[[貨物自動車{{Sfn|トラック]]をチャドニ・アイカしてさ|2018|p=107}}。彼はバス奥地に入り乗って、イヴデリから約80キロメートル北方にある最後の有人集落、{{仮リンク|ヴィジャイ (ロシア)|label=ヴィジャイ|ru|Вижай (Свердловская область)}}に到着した{{Sfn|ドニー・アイカー|2018|pp=110-111}}。ヴィジャイで1泊した後、トラックで第41区の伐採者居住地へ向かい、1泊した{{Sfn|ドニー・アイカー|2018|pp=131-137, 161-170}}。そして[[1月27日]]、いよいよヴィジャイからオトルテン山へ向け出発した{{Sfn|ドニー・アイカー|2018|pp=170-172}}。しかし翌日、ユーリー・ユーディンが持病の[[リウマチ]]の悪化から離脱、一行は9人になった{{Sfn|ドニー・アイカー|2018|pp=135-137, 176-177}}
 
ユーディンと別れたあと、生前の一行と遭遇した人間は現在に至るまで見つかっていない。ここから先の一行の行動は、最後のキャンプ地で発見された日記やカメラに撮影された写真などを材料に推定されたものである{{Sfn|ドニー・アイカー|2018|p=203}}[[{{要出典範囲|1月31日]]、未開の原生林を北西方向に進んできた一行はオトルテン山麓に到達し、本格的な[[登山]]準備に入る一方で、下山までに必要と思われる食料や物資を取り分け、余剰分は帰路に備えて残置した。翌[[2月1日]]、一行はオトルテン山へ続く渓谷へと分け入った。適した場所で渓谷を北に越え、そこで[[テント]]を張ろうとしていたようだが、悪天候と[[吹雪]]による[[視程|視界]]の減少によって方向を見失い、西に道を逸れてオトルテン山の南側にあるホラート・シャフイル山へ登り始めてしまった。|date=2024-06-16}}
 
{{要出典範囲|彼らはやがて誤りに気づいたが|date=2024-06-16}}、1.5キロメートルほど下方の森林地帯に入って風雪を凌ぐのではなく、何の[[シェルター|遮蔽物]]もない山の斜面にキャンプを設営することにした<ref name="osadchuk" />。木々の中でのキャンプ設営は容易だが、難ルートを踏破しトレッキング第3級の条件を満たす斜面での設営に決めたともされている。たった1人の生存者であるユーリー・ユーディンは一行の行動について「ディアトロフはすでに登った地点から降りることを嫌ったか、この際山の斜面でのキャンプ経験を積むことに決めたのではないか」と推測している<ref name="osadchuk" />。
 
== 捜索と発見 ==
一行が登山を終えてヴィジャイに戻り次第、ディアトロフが速やかに彼のスポーツクラブ宛に[[電報]]を送ることになっており、おそらく[[予定では2月12日]]までは電報が送られてくヴィジャイに戻だろう{{Sfn|ドニー・アイカー|2018|p=337}}こ予想されになっていた。しかし、事前にディアトロフがユーディンにもう少し遠征が長引くかもしれないと話していたこともあり、2月12日が過ぎて連絡がなかったにもかかわらず、誰もこのことに特に反応しなかった。こうした遠征では数日の遅れはつきものだったためである{{Sfn|ドニー・アイカー|2018|pp=46-47}}[[2月20日]]になってようやく、一行の親族たちの要請で、ウラル科学技術学校は[[ボランティア]]の学生や教師からなる最初の救助捜索隊を送っ組織し、航空機による捜索を開始し<ref name{{Sfn|ドニー・アイカー|2018|pp="osadchuk"52-55, />338-339}}その後[[軍]]と[[警察]]が腰を上げ同日救助活動は[[ヘイヴデコプター]]や航空機検察局は犯罪捜査投入開始した{{Sfn|ドニー・アイカー|2018|p=83}}。2月22日に規模なも学から追加捜索隊が派遣された{{Sfn|ドニー・アイカー|2018|p=339}}。以降ボランティアも加わり地上なっ空から捜索が行われ{{Sfn|ドニー・アイカー|2018|p=83-87 ,339}}
 
[[2月26日]]、捜索隊がホラート・シャフイル山で、ひどく損傷して放棄されたテントを発見した{{Sfn|ドニー・アイカー|2018|pp=115, 340}}。テントを発見した学生、ミハイル・シャラヴィンは「テントは半分に引き裂かれ、雪に覆われていました。中には誰もおらず、荷物はテントに置き去りにされていました」と述べている<ref name="osadchuk" />。調べによると、テントは内側から切り裂かれていた{{Sfn|ドニー・アイカー|2018|pp=217-218}}8つないし9つの靴下の足跡、片足だけ靴を履いた足跡、そして裸足の足跡が、近くの森(谷の反対側、1.5キロ北東)にかって続いていたが、500800メートル進んだところで雪に覆われて見えなくなった{{Sfn|ドニー・アイカー|2018|p=119}}。捜索隊は渓谷のはずれの大きな[[ヒマラヤスギ]]の下で、下着姿で靴[[焚き火]]の跡履いていない発見し、雪に埋もれたユーリー・クリヴォニシェンコと、ユーリー・ニコラエヴィチの遺体、そして[[焚き火]]の跡を発見した{{Sfn|ドニー・アイカー|2018|pp=217-218}}。木の枝が5メートルの高さまで折られていたことは、彼らのうちの1人が木の上に登って、何か(おそらくテント)を探していたことを示すものだった。捜索隊はさらにヒマラヤスギとキャンプの間で、ディアトロフ、ジナイダ・コルモゴロワ、そしてルステム・スロボディンの3人の遺体を発見した。遺体はそれぞれ木から300メートル、480メートル、630メートル離れた位置で別々に見つかり、その姿勢は彼らがテントに戻ろうとしていた状態で亡くなったことを示唆していた。
 
残り4人の遺体を探すのにはさらに2か月を要した{{Sfn|ドニー・アイカー|2018|pp=342-354}}。残りの遺体は、ヒマラヤスギの木からさらに森に75メートル分け入った先にある渓谷の中で、4メートルの深さの雪の下から発見された。4人はほかの遺体よりまともな服装をしており、これはどうやら最初に亡くなったメンバーが、自分たちの服を残りの者たちに譲ったらしいことを示していた。ゾロタリョフはドゥビニナの人工毛皮のコートと帽子を被っており、同時にドゥビニナの足にはクリヴォニシェンコのウールのズボンの切れ端が巻かれていた。
 
== 捜査 ==
[[File:Dyatlov Pass incident 02.jpg|thumb|right|1959年2月26日、救助隊が発見したテントの光景。テントは内側から切開されており、一行のメンバーたちは靴下や裸足でテントから逃げ出していた。]]
最初の5人の遺体が発見された直後は3月4日3月11日に[[死因審問検視解剖]]が始めらた。[[検死]]の結果、5人は死に直接結びつく怪我は負っていなかったことがわかりおらず、5人全員の死因が[[低体温症]]であることが判明した{{Sfn|ドニー・アイカー|2018|p=218}}。スロボディンは頭蓋骨に小さな亀裂を負っていたが、これが致命傷になったとは考えられなかった。
 
5月に発見された4人の遺体の検死は事情が違った。彼らのうち3人が致命傷を負っていたのである。チボ=ブリニョールの遺体は頭部に大きな怪我を負っており、ドゥビニナとゾロタリョフの両名は肋骨をひどく骨折していた{{Sfn|ドニー・アイカー|2018|pp=270-271}}。ボリス・ヴォズロジデンヌイ博士 (Dr. Boris Vozrozhdenny) は、このような損傷を引き起こす力は非常に強いものであり、[[交通事故]]の衝撃に匹敵するとしている。特筆すべきは、遺体は[[外傷]]を負っておらず、あたかも非常に高い圧力を加えられたかのようであったことと、ドゥビニナが舌を失っていたことであった<ref name="osadchuk" />。当初、[[先住民]]の[[マンシ人]]が、彼らの土地に侵入した一行を襲撃して殺害したのではないかとする憶測も流れたが、現場に一行の足跡しか残っておらず、至近距離で争った形跡がないという状況から、この説は否定された<ref name="osadchuk" />。
最初の5人の遺体が発見された直後、[[死因審問]]が始められた。[[検死]]の結果、5人は死に直接結びつく怪我は負っていなかったことがわかり、5人全員の死因が[[低体温症]]であることが判明した。スロボディンは頭蓋骨に小さな亀裂を負っていたが、これが致命傷になったとは考えられなかった。
 
5月に発見された4人の遺体の検死は事情が違った。彼らのうち3人が致命傷を負っていたのである。チボ=ブリニョールの遺体は頭部に大きな怪我を負っており、ドゥビニナとゾロタリョフの両名は肋骨をひどく骨折していた。ボリス・ヴォズロジデンヌイ博士 (Dr. Boris Vozrozhdenny) は、このような損傷を引き起こす力は非常に強いものであり、[[交通事故]]の衝撃に匹敵するとしている。特筆すべきは、遺体は[[外傷]]を負っておらず、あたかも非常に高い圧力を加えられたかのようであったことと、ドゥビニナが舌を失っていたことであった<ref name="osadchuk" />。当初、[[先住民]]の[[マンシ人]]が、彼らの土地に侵入した一行を襲撃して殺害したのではないかとする憶測も流れたが、現場に一行の足跡しか残っておらず、至近距離で争った形跡がないという状況から、この説は否定された<ref name="osadchuk" />。
 
気温が摂氏マイナス25度から30度ときわめて低く、嵐が吹き荒れていたにもかかわらず、遺体は薄着だった。彼らの内の何人かは片方しか靴を履いておらず、同時にその他の者は靴を履いていなかったか、靴下しか履いていなかった。何人かの足は、先に亡くなった者の衣服を引き裂いたらしい衣服の切れ端で巻かれていた。低体温症による死亡のうち、20%から50%50%はいわゆる[[矛盾脱衣]]と関連があり<ref>{{cite journal|pmid=541627 | volume=24 | issue=3 | title="Paradoxical undressing" in fatal hypothermia | year=1979 | month=July | journal=J. Forensic Sci. | pages=543–53}}</ref>、これは通常、人が[[失見当識]]状態や混乱状態、好戦的な状態に陥るような中程度から重度の低体温症のときに起こる。おそらくこれが彼らが服を脱いだ理由であり、服を脱げば脱ぐほど、身体から熱を失う速度は早まったのだろうと考えられる<ref>{{cite journal |title=The word: Paradoxical undressing – being-human |year=2007 |author=New Scientist |journal=New Scientist |url=http://www.newscientist.com/channel/being-human/mg19426002.600-the-word-paradoxical-undressing.html |accessdate=2008-06-18}}</ref><ref name="pmid541627">{{cite journal |author=Wedin B, Vanggaard L, Hirvonen J |title="Paradoxical undressing" in fatal hypothermia |journal=J. Forensic Sci. |volume=24 |issue=3 |pages=543–53 |year=1979 |month=July |pmid=541627 |doi= |url= }}</ref>。
 
=== 事件の原因 ===
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一方で、雪崩は傾斜30度以上で発生することが多く、この一帯は傾斜15度で雪崩の起こりやすい地域ではないという主張はある<ref name="Curious World Q&A">{{cite web|title=Dyatlov Pass – Some Answers|url=http://www.aquiziam.com/dyatlov_pass_answers.html|work=Curious World|publisher=Curious Britannia Ltd.|accessdate=1 September 2012|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121004234442/http://aquiziam.com/dyatlov_pass_answers.html|archivedate=2012年10月4日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。捜査当局がキャンプ地から続く足跡を見たことは、雪崩説を否定する根拠になる。さらに彼らから放射線が検出された謎や、遺体から眼球や舌が喪失していた点も雪崩だけでは解明できない。
 
[[ジャーナリスト]]ら{{誰|date=2024-06-16}}は、入手可能な死因審問の資料の一部が、次のような内容であると報告している。
* 一行のメンバーのうち、6人は低体温症で死亡し、3人は致命的な怪我を負って死亡した。
* 9人以外に、ホラート・シャフイル山にほかの者がいた様子も、その周辺地域に誰かがいた様子もなかった。
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==== 事件を巡る議論 ====
研究者の中には、捜査当局が以下のような事実を見落としたか、意図的に無視したと主張している者もいる{{誰|date=2024-06-16}}
 
* のちに[[エカテリンブルク]]に拠点を置くディアトロフ財団(下記参照)の理事長となる、当時12歳のユーリー・クンツェヴィチ ({{ru|Юрий Кунцевич}}) は、一行のメンバーたちの葬式に出席しており、彼らの肌の色が「濃い茶褐色」になっていたと回想している<ref name="osadchuk" />。
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* 一部の報告は、軍がこの地域を(何らかの目的で)密かに利用し、そのことの隠蔽に取り組んできたのではないかという憶測につながる大量の金属くずが、この地域に置かれていたことを示唆している。
* ディアトロフ一行の最後のキャンプ地は、[[バイコヌール宇宙基地]](ここから、R-7大陸間弾道ミサイルの試験発射が何度か行われた)から、[[ノヴァヤゼムリャ]]のチェルナヤ・グバ(ソビエト連邦内の主要な[[核実験場]]だった)に直接通じる道の途上に位置していた。
* テント内に残されたカメラのフィルムが現像された。彼らの姿を映したものが多数を占めたが、最後の1枚が判別不可能ながら「光体」のようなものであった{{Sfn|ドニー・アイカー|2018|pp=247-248}}
*アメリカの[[ドキュメンタリー映画]]監督[[:en:Donnie Eichar{{ill|ドニー・アイカー]]|en|Donnie Eichar}}の取材に対し、[[アメリカ海洋大気庁]]で超低周波音研究グループのリーダーを務めていたベダード博士は、現場のドーム状かつ左右対称の地形はヘアピン渦([[カルマン渦]])現象と呼ばれる特異な気象現象が起こるには理想的な環境であり、繰り返し起こった[[竜巻]]カルマン渦による強風轟音や振動[[低周波音]]に晒されて一行がパニックに陥りキャンプを飛び出し、凍死や転落死に至ったのではないかと推測しており、これはアイカーの著作『死に山』において発表された{{Sfn|ドニー・アイカー|2018|pp=293-307}}事件現場の近く放射線は核実験場があるが、ついてアイカーは、核ミサイルによる被ばくなら通常の2倍程度の放射線量では済まず、その程度の量なら大気汚染1400キロメートル北にある核実験場の影響でもあり得ること(実験場から放射線が届いた可能性も)、また日焼けについても長時間雪原で日光に晒されていれば起こり得ると結論づけている{{Sfn|ドニー・アイカー|2018|pp=293-307}}。同著にて、犠牲者の眼球や舌の喪失は、野生動物による捕食や、水に浸かっていたことによるバクテリア腐敗に起因するものだと推測されていた{{Sfn|ドニー・アイカー|2018|pp=121, 252-254 281}}
 
== その後 ==
1967年、スヴェルドロフスク州の[[著述家]]でジャーナリストのユーリー・ヤロヴォイ ({{ru|Юрий Яровой}}) は、この事件にインスピレーションを受けた小説『最高次の複雑性 (''Of the highest rank of complexity'', ''{{ru|Высшей категории трудности}}'')』<ref>{{ru|Яровой Юрий: ''Высшей категории трудности'', Средне-Уральское Кн. Изд-во, Свердловск}}, 1967 (Yarovoi, Yuri: ''Of the highest rank of complexity'', Sredneuralskoye knizhnoye izdatelstvo, Sverdlovsk, 1967) {{Verify credibility|date=April 2009}}</ref>を出版した。ヤロヴォイはディアトロフ一行の捜索活動や、捜査の初期段階において公式[[カメラマン]]として関与しており、事件に対する見識を有していた。小説は事件の詳細が秘匿されていたソビエト時代に書かれ、ヤロヴォイは当局の公式見解以外のことや、当時すでに広く知られていた事実以外のことを書くことは避けた。小説は現実の事件と比較すると美化されており、一行のリーダーだけが死亡する結末など、よりハッピーエンドになるよう書かれている。ヤロヴォイの知人によると、彼はこの小説の別バージョンをいくつか書いたようであるが、いずれも[[検閲]]で出版を拒否された。1980年に彼が亡くなって以降、彼の持っていた写真や原稿などの資料はすべて失われてしまった。
 
1990年になると、事件の詳細の一部が出版物やスヴェルドロフスク州の地元メディアで公にされるようになった{{citation needed|date=April 2012}}。そうした最初の出版物の著者の1人が、アナトリー・グシチン ({{ru|Анатолий Гущин}}) である。グシチンは、死因審問のオリジナルの資料を調査し出版物に使うことに、警察当局が特別許可を出したと報告している{{citation needed|date=April 2012}}。彼は、事件の物品目録の中で言及されていた謎の「エンベロープ (envelope)」などに関する多数のページが、資料から消されていたことに気づいた。同じころ、いくつかの資料のコピーが、ほかの非公式な研究者の間に出回り始めた{{citation needed|date=April 2012}}。グシチンは、著書『国家機密の価値は、9人の生命 (''The Price of State Secrets Is Nine Lives'', ''{{ru|Цена гостайны – девять жизней}}'')』の中で、調査結果をまとめている<ref name="guschin">{{ru|Гущин Анатолий: ''Цена гостайны – девять жизней'', изд-во "Уральский рабочий", Свердловск}}, 1990 (Gushchin Anatoly: ''The price of state secrets is nine lives'', Izdatelstvo "Uralskyi Rabochyi", Sverdlovsk, 1990){{Verify credibility|date=April 2009}}</ref>。一部の研究者は、この本の内容が「ソビエト軍の秘密兵器実験」説に入れ込み過ぎていると批判したが、本は[[超常現象]]への関心を刺激し、公の議論を沸き起こした。実際、30年間口を閉ざしていた人々が、事件に関する新たな事実を報告したのである。
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== 事件を扱った作品 ==
=== ノンフィクション ===
* [[:en:Donnie Eichar|Donnie Eichar]] ''"Dead Mountain: <small>The Untold True Story of the Dyatlov Pass Incident</small>"'' Chronicle Books, 2014年10月 ISBN {{ISBN2|978-1452140032}}
** 『死に山: 世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真相』ドニー・アイカー著、安原和見訳、[[河出書房新社]]、2018年8月 ISBN {{ISBN2|978-4309207445}}
=== 小説 ===
* アレック・ネヴァラ=リー (Alec Nevala-Lee) の2012年の小説『''City of Exiles''』の中では、事件が重要な位置を占めているという設定である<ref>{{cite web|url=http://www.publishersweekly.com/978-0-451-23878-8|title=City of Exiles|publisher=Publishers Weekly|accessdate=February 2013}}</ref>。
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== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist|30em}}
 
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|title=死に山: 世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真相 |author=ドニー・アイカー |translator=安原和見 |publisher=河出書房新社 |year=2018 |origyear=2014 |isbn=9784309207445 |ref=harv}}
{{参照方法|date=2024-06-16|section=1}}
* McCloskey, Keith ''Mountain of the Dead: The Dyatlov Pass Incident'' (The History Press Ltd, 1 July 2013, ISBN 978-0-7524-9148-6)
 
== 外部リンク ==
{{外部リンクの注意|section=1}}
{{Commons category}}
* [http://otorten.ru/otorten-karta-kilometrovka.html Map sheet of the Dyatlov Pass region (sheet P-40-83,84) scale 1:100000] {{ru icon}}
* [httphttps://www.rbth.rucom/travel/2013/02/25/extreme_tourism_in_the_urals_dyatlovs_footsteps_23259.html Deathly Urals location draws in tourists]
* [http://infodjatlov.narod.ru/fg4/index.htm Complete photo gallery including search party photos] {{ru icon}}
* [http://www.skitalets.ru/works/2004/legend_sobolev/index.htm Some photos and text]{{リンク切れ|date=2020年7月}} {{ru icon}}
* [http://fotki.yandex.ru/users/aleksej-koskin/view/298590/?page=0 Photo gallery including: party photos, photos of some investigator's documents including termination of criminal case act] {{ru icon}}
* [http://skeptoid.com/episodes/4108 ''Mystery at Dyatlov Pass – A look at one of the most bizarre cases in Russian cross country skiing history'' [[Skeptoid|Skeptoid: Critical Analysis of Pop Phenomena]]]
* [http://www.aquiziam.com/dyatlov_pass_1.html The Dyatlov Pass Accident]{{リンク切れ|date=2020年7月}}
* [http://www.ermaktravel.com/Europe/Russia/Cholat-%20Syachil/Kholat%20Syakhl.htm EErmaktravel.com article on the incident, part of series of "spooky" sites]{{リンク切れ|date=2020年7月}}