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{{別人|x1=空手家・総合格闘家の|池田祥規}}
{{記事名の制約|title=池田慶德}}
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 池田 慶徳
| 画像 = Portrait of Ikeda Yoshinori.JPGjpg
| 画像サイズ = 250px210px
| 画像説明 = 池田慶徳(鳥取藩主池田家墓所パンフレット県郷士史より)
| 時代 = [[江戸時代]]後期 - [[明治|明治時代]]
| 生誕 = [[天保]]8年[[7月13日 (旧暦)|7月13日]]([[1837年]][[8月13日]])
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| 霊名 =
| 墓所 = [[鳥取県]][[鳥取市]]立川町の[[大雲院 (鳥取市)|大雲院]]
| 官位 = [[従四位|従四位上]][[相模国|相模守]]、[[因幡国#江戸時代|因幡守]]、[[近衛府|左近衛中将]]、[[従二位]]、[[権中納言]]、[[贈位|贈]][[正二位]]、贈[[従一位]]
| 幕府 = [[江戸幕府]]
| 主君 = [[徳川家慶]][[徳川家定|家定]][[徳川家茂|家茂]][[徳川慶喜|慶喜]][[明治天皇]]
| 藩 = [[因幡国|因幡]][[鳥取藩]]主鳥取[[知藩事|藩知事]]
| 氏族 = [[水戸徳川家]][[池田氏#近世大名→華族の池田|因州池田氏(忠継流)]]
| 父母 = 父:[[徳川斉昭]]、母:松波春子<br>養父:[[池田慶栄]]
| 兄弟 = 賢姫、祝姫、[[徳川慶篤]]、松姫、[[徳川慶喜]]、'''慶徳'''、[[池田茂政|茂政]]、[[松平直侯]]、八代姫、<br/>[[松平武聰]]、[[喜連川縄氏]]、[[松平昭訓]]、<br/>[[徳川貞子]]、[[松平忠和 (島原藩主)|松平忠和]]、[[土屋挙直]]、愛子、<br/>[[徳川昭武]]、[[松平喜徳]]、[[松平頼之]]、正姫ら22男15女
| 妻 = 正室:'''池田寛子'''([[池田清直]]養女寛子'''
| 子 = 某、'''[[池田輝知|輝知]]'''<br>養子:正姫(異母妹)、常子
| 特記事項 =
}}
'''池田 慶徳'''(いけだ よしのり)は、[[幕末]]の[[大名]]、[[明治]]前期の[[華族]]。[[因幡国|因幡]][[鳥取藩]]12代(最後藩主のち鳥取同藩初代[[知藩事|藩知事]]。鳥取[[池田氏|池田家位階]]は[[従一位]]14代
 
'''池田 慶徳'''(いけだ よしのり)は、[[幕末]]の[[大名]]。[[因幡国|因幡]][[鳥取藩]]12代(最後の)藩主、のち鳥取[[知藩事|藩知事]]。鳥取[[池田氏|池田家]]14代。
 
15代[[征夷大将軍|将軍]]となる[[徳川慶喜]]は同年生まれの異母弟、[[備前国|備前]][[岡山藩]]主[[池田茂政]]は同母弟にあたる。
 
== 生涯 ==
{{出典の明記| section = 1| date = 2024-02}}
 
=== 水戸徳川家から鳥取因州池田家へ ===
幕末の[[尊皇攘夷]]運動に大きな影響を与えた[[水戸学|水戸思想]]の主導者・[[水戸藩]]主[[徳川斉昭]]の五男(庶子)で<ref>上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 87頁。</ref>、母は[[側室]]の松波春子。幼名は'''五郎麿'''。[[元服]]して父斉昭より偏[[諱]]を受け'''昭徳'''(あきのり)と名乗る<ref group="注釈">池田家を継ぎ慶徳と改名したのち、昭徳の諱は異母弟(慶徳が水戸家を出た後に生まれた)の余八麿に付けられたが、こちらも後に改名して[[徳川昭武]]を名乗った。</ref>。斉昭は「堂上風にて御美男、御品よく、少しく御柔和に過ぎ、俗に申す養子向」と評したようである。
 
[[嘉永]]3年10月29日([[1850年]][[12月2日]])、鳥取藩主[[池田慶栄]]が嗣子なくして急死したことから、幕命によりその[[末期養子|養子]]となる。将軍[[徳川家慶]]より偏諱を受けて'''慶徳'''に改名、'''松平相模守'''を称した。家督を継ぐと藩政改革に着手し、藩校[[尚徳館]]を拡充して下士にも通学を許すなど学問を奨励し、藩内に水戸学が浸透した。民意を聞くことに努め、軍制の改革にも力を入れた。嘉永6年(1853年)に、[[江戸]][[桶町千葉道場]]を開いた[[千葉定吉]]を剣術師範として召し抱えている。
 
=== 文久政局に乗り出す ===
[[文久]]2年(1862年)4月に[[島津忠義|薩摩藩主]]の実父[[島津久光]]が藩兵を率いて上洛し、朝幕間の周旋に乗り出す。これを機に鳥取藩でも慶徳の国事周旋を推進しようとする声が尚徳館教授方を中心に上がったが、慶徳にその気はなく、藩主側近の保守派は周旋方(推進派)に取り合わなかった。しかし、同年7月に[[長州藩]]主[[毛利敬親|毛利慶親]]、[[土佐藩]]主[[山内豊範]]が相次いで入洛し、[[京都]]で尊王攘夷の機運が高まるとの報に接すると、国事周旋に乗り出す決意を固める<ref group="注釈">自分は水戸斉昭の子であり、また鳥取因州池田家は徳川準一門の扱いを受ける家であることから、「外藩」が国事に参画する状況は容認できず、[[江戸幕府|幕府]]や有力[[親藩]]が主体的に攘夷を唱え、この政局に関わっていくべきというのが、慶徳の考え方だった。</ref>。
 
9月に朝廷が幕府に攘夷を促すための勅使派遣を決定すると、幕府の優柔を懸念した慶徳は10月15日に入洛して国事周旋の勅諚を受け、20日には敬親・豊範に続いて[[昇殿|参内]]を果たした。そして東下周旋の命を受け、11月5日に[[江戸]]に着くと[[政事総裁職]]の[[松平春嶽]]や[[山内容堂]]・[[松平容保]]らと会談を重ねた。さらに、奉勅攘夷と決した幕議に対し、異議を唱えて[[将軍後見職]]辞任を表明し登城を拒否していた異母弟[[徳川慶喜|一橋慶喜]]の説得にあたった。
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このとき、在京兵力の少ない薩摩藩は会津藩を引き込み、攘夷親征派への対抗クーデターを画策する。8月18日、クーデターが決行されると阿波・岡山・鳥取・米沢も会津に次ぐ兵力を動員し、[[三条実美]]ら親征派の公家や長州の勢力を朝廷から一掃した([[八月十八日の政変]])。
 
この政変の前日、京都留守居役[[河田景与|河田左久馬]]ら22名の鳥取藩士が「主君の勤王の志を妨げ、天下の汚名を蒙らせた」として慶徳側近の[[黒部権之助]]、[[高沢省己]]、[[早川卓之丞]]の3名を[[本圀寺]]において惨殺し、斬奸状で名指しされたもう一人の[[加藤十次郎]]も翌日自害するという事件が起こった(本圀寺事件)。尊攘派へ傾倒した河田らは、長州を支援する意見などを持っており、親征阻止に動く自藩の姿勢に憤った結果だった<ref group="注釈">直接的には、8月16日に「松平慶徳は、二条家や幕府に通じて今度の攘夷親征を妨げ、奸計を巡らす大罪人である。速やかに天誅を加えるべきところ、烈公(斉昭)に免じて暫く猶予する」と京中に貼り紙され、慶徳が天誅の標的とされたことが引き金となった。黒部は単なる脅しと取り合わなかったが、驚愕した河田ら22名が直ちに行動に出たのである。家老の[[荒尾成裕|荒尾但馬]]が22名の宥免を求めて運動し、慶徳も彼らの誠心を酌み、穏便な処置に留めた。</ref>。
 
政変に参加し成功させた慶徳らだったが、長州に対しては寛大な処置を求めた。やがて、尊攘激派の没落によって開国論を明確にした薩摩の島津久光や越前の松平春嶽ら開明派諸侯が再び上洛に動き出すと、これに対抗しえないと見た慶徳ら在洛諸侯は相次いで帰国していった。
 
その後、慶喜が横浜鎖港を主張して鎖港に否定的な久光・春嶽らに対抗し、孝明天皇の信任を得て[[一会桑政権|一会桑体制]]を構築したが、慶喜の期待にもかかわらず慶徳・茂政兄弟が再び自ら京都政局に乗り出すことはなかった。
 
=== 明治期の慶徳 ===
[[慶応]]4年2月3日([[1868年]][[2月25日]])、慶徳は新政府の[[議定]]に就任する。翌[[明治]]2年52月3日([[1869年]][[3月15日(1869]])、[[従二位]]・[[権中納言]]に叙される<ref>[https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F0000000000000000153&ID=M0000000000000827941&TYPE=&NO= 池田慶徳ヲ議定権中納言ニ任シ従二位ニ叙ス](太政類典・第1編・慶応3~明治4年)、国立公文書館 デジタルアーカイブ</ref>。5月15日(新暦[[6月24日]])、議定から[[麝香間祗候]]に移る。また、[[戊辰戦争]]では[[東北地方]]に出兵している。6月2日、戊辰戦争の戦功[[賞典禄|賞典]]として3万石を賜った。6月19日、[[版籍奉還]]により鳥取[[知藩事|藩知事]]に就任した。
 
鳥取藩の財政難などのこともあり、知藩事の立場にありながら[[廃藩置県]]を自ら明治政府に提案した。明治7年(1874年)7月14日、廃藩置県により免職となった。明治8年(1875年)5月27日に[[隠居]]し、次男の[[池田輝知|輝知]]に[[家督]]を譲った。
 
明治10年(1877年)8月2日、[[肺炎]]のため[[神戸市|神戸]]で死去した。8月18日、[[正二位]]を追贈された<ref>田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年) 特旨贈位年表 p.2</ref>。墓所は[[弘福寺]]、大正14年(1925年)に[[多磨霊園]]、[[平成]]15年([[2003年]])に[[鳥取市]]内の[[大雲院 (鳥取市)|大雲院]]に移転改葬された。
 
明治40年([[1907年]])[[5月10日]]、特旨をもって位階追昇された。贈[[従一位]]<ref>『官報』第7157号「叙任及辞令」1907年5月11日。</ref>。
 
== 系譜 ==
*父:[[徳川斉昭]](1800-1860) 1860年)
*母:松波春子
*正室:寛子 - [[池田清直]]養女、[[池田定保]]五女
*側室:野本氏
*生母不明の子女
**長男:某
**次男:[[池田輝知|輝知]](1861 - 1890)
*養子
 
**女子:正姫(1858 - 1873)- [[徳川斉昭]]十五女、[[池田徳澄]]正室
 
**女子:常子(1855 - 1913)- [[池田敬三郎]]娘、[[池田徳定]]正室
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* [[池田徳潤|池田'''徳'''潤]]
* [[乾徳脩|乾'''徳'''脩('''徳''')]] - 鳥取[[乾氏]]10代当主。[[鳥取藩]]家老。彼の場合、曾祖父[[乾長徳|長徳]]から一字を取った可能性もある。
* [[池田徳真|池田'''徳'''真]] - 鳥取因州池田家15代当主。慶徳は大伯父にあたる。
 
== 脚注 ==
;出典
{{Reflist}}
=== ;注釈 ===
<references group="注釈" />
 
== 参考文献 ==
{{脚注の不足|section=1|date=2024-02}}
* {{Cite book|和書|editor=財団法人史跡鳥取藩主池田家墓所保存会/作成|title=史跡 鳥取藩主池田家墓所|date=2006年3月31日刊行}}
 
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{{-}}
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{{鳥取藩主|池田家(忠雄流)|12代|1850年 - 1871年}}
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| title = [[鳥取藩]]主[[池田氏|池田家]]
| years = 14代<br />1850年 - 1875年
| before = [[池田慶栄]]
| after = [[池田輝知]]
}}
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{{鳥取藩主|因州池田家(忠雄流)|12代|1850年 - 1871年}}
{{Normdaten}}
 
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[[Category:鳥取藩主|よしのり]]
[[Category:幕末の大名]]
[[Category:知藩事]]
[[Category:徳川斉昭の子女]]
[[Category:幕末鳥取藩の人物]]
[[Category:日本明治時代前期の華族当主]]
[[Category:明治時代の人物]]
[[Category:従一位受位者]]