削除された内容 追加された内容
誤記修正
 
(25人の利用者による、間の40版が非表示)
1行目:
*[[{{日本の城一覧]]郭概要表
'''渟足柵'''(ぬたりのき、ぬたりのさく)は、古代日本の[[城柵]]の一つで[[越国]]に置かれた。'''沼垂城'''とも書いた。[[647年]]に現在の[[新潟県]][[新潟市]][[中央区 (新潟市)|中央区]][[沼垂町]]の付近に置かれ、廃絶の時期は不明だが8世紀初めまでは存在した。史上最初の城柵と目される。
| img =
| img_capt =
| img_width =
| name =渟足柵<br />(沼垂城)
| pref = 新潟県
| ar_called =
| struct = 古代[[城柵]]
| tower_struct = <!-- なし:ないのが当然なので不要 -->
| builders = [[大和朝廷]]
| build_y = [[大化]]3年([[647年]])
| revamp =
| rulers =
| reject_y = 不明
| remains =
| cultural asset =
}}
 
'''渟足柵'''(ぬたりのき/ぬたりのさく)は、[[越国]](高志国)にあった日本の古代[[城柵]]。「'''沼垂城'''」とも。
また、渟足柵とは別に戦国時代には[[上杉家]]家臣の[[新発田氏]]の出城としての沼垂城もあった。なお、新発田氏は上杉家家臣ではあったものの上杉家に反抗し、攻められて落城(廃城)となった。
 
[[大化]]3年([[647年]])に築かれたとされる。詳細な所在地は不明だが、現在の[[新潟県]][[新潟市]][[東区 (新潟市)|東区]]にあったと考えられている。
なお、渟足柵・沼垂城共に遺構は発見されていない。ただでさえ当時は信濃川と阿賀野川の河口の沼地だった上、度重なる洪水により流されたものと思われる。
 
== 概要 ==
<!--[[古墳時代]]の[[前方後円墳]]([[ヤマト王権]]との関係がある)の分布は、[[日本海]]側では現在の[[新潟県]]および[[山形県]]([[太平洋]]側では[[岩手県]])が北限であるが、:関係なし-->越国(高志国)の北端は、[[斉明天皇|皇極天皇]]元年([[642年]])頃には現在の[[新潟県]]の[[弥彦山]]と[[長岡市]]を結ぶ線辺りであったと考えられている<ref name="FukuiHistory2-4-4">[http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/2a3-01-04-04-03.htm 第二章 若越地域の形成 第四節 ヤマト勢力の浸透 四 迫る力役と貢納 「蝦夷」対策の基地](『福井県史』通史編1 原始・古代)</ref>。
 
[[645年]]の[[乙巳の変]]後に即位した[[孝徳天皇]]が、[[大化]]2年([[646年]])正月1日に[[改新の詔]]を示し、[[大化の改新]]という体制変革が起こった。すると、
『[[日本書紀]]』の大化3年([[647年]])是歳条に、「渟足柵を造り、[[柵戸]]を置く」とあり、これが渟足柵のみならず北東辺境における城柵の初見である。これ以前に他の柵が存在した可能性は否定できないが、最初の城柵である可能性は高い。
<!--郷土史家の説という指摘を受けCO
 
越国では大化元年(645年)に同国の海浜に住む[[蝦夷]]{{efn|戊午越國言海畔[[蝦夷|枯査]]向東移去沙上有跡如耕田狀([[日本書紀]])}}<ref name="Fujita">[http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_25.html 日本書紀巻第廿五](フジタ企画)</ref><ref name="J-Texts">[http://www.j-texts.com/jodai/shoki25.html 《巻首》◆日本書紀巻第二十五]{{リンク切れ|date=2023年2月}}(J-TEXTS 日本文学電子図書館)</ref>が、翌大化2年(646年)には同国の内陸に住む蝦夷{{efn|是歲越國之[[蝦夷|鼠]]晝夜相連向東移去(日本書紀)}}<ref name="Fujita"/><ref name="J-Texts"/>が、中央側勢力の拡大を受けて東{{efn|おそらく[[越後平野]]が開けている北東方向。}}に向かって移動したとされる<ref name="Murakami">[http://www.lib-murakami.jp/t/kyoudo/ogoto/ogoto3.htm 古代の郷土](村上市教育情報センター)</ref>。
翌大化4年([[648年]])には、[[磐舟柵]]が造られた。渟足の約40キロメートル北方、現在の同県[[村上市]]岩船の辺りと推測される<ref>[[荒川 (羽越)|荒川]]と[[三面川]]の両河口のほぼ中間地点。</ref>。 [[蝦夷]]の勢力圏に接する当時の日本海側最前線拠点は磐舟柵周辺にあり、渟足柵はそれより南方にあった。
-->
大化3年([[647年]])には渟足柵(新潟県新潟市東区辺り)が造られて[[柵戸]]も置かれ{{efn|造'''渟足柵'''置[[柵戸]]老人等相謂之曰數年[[蝦夷|鼠]]向東行此造'''柵'''之兆乎(日本書紀)}}<ref name="Fujita">[http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_25.html 日本書紀巻第廿五](フジタ企画)</ref><ref name="J-Texts">[http://www.j-texts.com/jodai/shoki25.html 《巻首》◆日本書紀巻第二十五]{{リンク切れ|date=2023年2月}}(J-TEXTS 日本文学電子図書館)</ref>、翌大化4年([[648年]])には[[磐舟柵]](新潟県[[村上市]]岩船辺り)が設置され[[蝦夷]]に備えた{{efn|治'''[[磐舟柵]]'''以備[[蝦夷]]遂選[[越国|越]][[と|與]][[信濃国|信濃]]之民始置[[柵戸]](日本書紀)}}<ref name="Fujita"/><ref name="J-Texts"/>。なお、史料にはないが、この時期の[[太平洋]]側では[[陸奥国]]に[[郡山遺跡]]として知られる名称不明の城柵が造られた。
 
[[斉明天皇]]4年([[658年]])7月4日に、渟足柵造の[[大伴君稲積|大伴稲積]]が、蝦夷の朝献に際して[[小乙下]]の[[冠位]]を授けられた。このときには、位置不明の[[都岐沙羅柵]]造とともに、多数の蝦夷が位と物を授かった。蝦夷が招かれたのは[[阿倍比羅夫]]の北航の成果であり、渟足柵造がそこで何らかの役割を果たしたことが示唆される。
 
文献史料にみる渟足柵の跡はここで途切れるが、[[1990年]]に、[[三島郡 (新潟県)|三島郡]][[和島村]](現・[[長岡市]])の[[八幡林遺跡]]で、「沼垂城」「養老」という字が書かれた[[木簡]]が出土した。そこで、[[養老]]年間([[717年]] - [[723年]])に渟足柵が沼垂城の名で機能していたと推定できる。
 
別に、[[威奈大村]]の[[威奈大村#威奈真人大村骨蔵器|墓誌]]に見える[[慶雲]]2年([[705年]])の[[越後城]]が、改名された渟足柵ではないかとする説もある<ref>『高志の城柵』110-113頁。</ref>。
磐舟柵、都岐沙羅柵、渟足柵はともども遺跡が発見されていない。この当時の柵がどのようなものだったかは推測というより想像で語るほかない状況である。
 
==脚注 立地 ==
渟足柵は平安時代の『[[倭名類聚抄]]』に見える[[沼垂郡]]沼垂郷にあったと考えられる。そして近世以降現在に至るまで沼垂という地名がある。地形的には[[信濃川]]と[[阿賀野川]]の合流点付近の海岸平野で、水運が重要だった当時の高志(越)の実情に合った立地である。しかし、冬期間や水運が使えないときの食糧確保は、水運だけに頼るには難しいことをみれば、大瀬附近が適地とは言えない面がある。
<references />
 
それでも単純に現在の沼垂とすることはできないのは、[[沼垂町]]が河道変化の影響で近世の初めに4度も場所を変えたことが知られているからである。知られるかぎり最古の場所は現在の[[新潟県]][[新潟市]][[東区 (新潟市)|東区]]の王瀬で、ここが有力候補ではある<ref>『新潟県史』通史編1(原始・古代)389頁。『高志の城柵』4頁。</ref>。だが中世にも同じ理由で移転した可能性があり、古代の沼垂の正確な位置は不明である。王瀬ではボーリング調査によって古代の水田跡が見つかっているが、それ以上の調査は及んでいない<ref>『高志の城柵』4頁。</ref>。
 
翌大化4年([[648年]])になお、磐舟柵の位置は、渟足から[[磐舟柵北東]]が造られた。渟足の約40[[キロメートル北方|km]]、現在の同県[[村上市]]岩船の辺りと推測される<ref>{{efn|[[荒川 (羽越)|荒川]]と[[三面川]]の両河口のほぼ中間地点。</ref>。 [[蝦夷]]の勢力圏に接する当時の日本海側最前線拠点は磐舟柵周辺にあり、渟足柵はそれより南方にあった}}
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
 
=== 参考文献 ===
* 新潟県・編集発行『新潟県史』、1986年。
* 小林昌二『高志の城柵』(新大人文選書)、高志書院、2005年。
 
== 関連項目 ==
{{Col|
*[[日本の城一覧]]
* [[日本の古代東北経営]]
* [[日本の城一覧]]
* [[沼垂]]
* [[沼垂郡]]
|
* [[米山]]
* [[大河津分水]]
* [[弥彦山]]
* [[磐舟柵]]
* [[鼠ヶ関]]
* [[出羽柵]]
}}
 
== 外部リンク ==
* [https://www.city.niigata.lg.jp/higashi/torikumi/seisaku/nutarinoki/ 渟足柵探索プロジェクト](新潟市東区)
 
{{DEFAULTSORTデフォルトソート:ぬたりのき}}
[[Category:飛鳥時代]]
[[Category:越後国]]
[[Category:蝦夷]]
[[Category:中央区 (新潟市)]]
[[Category:新潟県の城]]
[[Category:越後国の柵遺跡|*]]
[[Category:現存しない新潟市の建築物]]
[[Category:新潟市東区の建築物|廃ぬたりのき]]
[[Category:中央区 (新潟市)東区の歴史]]
[[Category:飛鳥時代城柵遺跡]]