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'''イラク武装解除問題'''(イラクぶそうかいじょもんだい)とは、[[湾岸戦争]][[停戦]]に際して、停戦条件として[[国際連合安全保障理事会]]によって[[大量破壊兵器]]の破棄を義務付けられた[[イラク]]と、他の諸国の間に生まれた緊張関係を指す。この記事では湾岸戦争停戦後の[[1991年]]から[[イラク戦争]]が勃発する[[2003年]]までの事件を記す。
== 概要 ==
武装解除の対象とされたのは
== 安保理決議687 ==
[[Image:WeaponsInspector.JPG|thumb|right|武装解除の状況を確認する国連職員]]
[[1991年]]に行われた[[湾岸戦争]]は
[[国際連合安全保障理事会]]は[[国際連合安全保障理事会決議687]]においてイラクとの和平条件を提示した。これにはクウェートからの撤退とともに、核兵器、生物兵器、化学兵器などを含む大量破壊兵器を破棄し、研究・開発プログラムや製造設備なども廃棄することが定められ、その手続きをIAEA([[国際原子力機関]])や新たに創設されるUNSCOM([[国際連合大量破壊兵器廃棄特別委員会]])によって監視するというものであった。
イラクは
武装解除が行われていることを確認するために
== 事態の推移 ==
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=== 制裁攻撃 ===
フセインは
新たに就任した[[ビル・クリントン]]大統領も同年[[6月26日]]、23基のトマホークで情報施設を攻撃した。理由として、4月にブッシュがクウェートを訪問した際に暗殺計画があったことを挙げた。
[[1995年]]、フセイン大統領のいとこに当たる[[フセイン・カー
その後、クルド人過激派による[[テロ]]などの行動が激しさを増し、国境を越えた広がりをもった。そのため[[トルコ]]は、クルド人過激派の掃討のため、1995年にイラク北部へ越境攻撃を行った。イラク自身も[[1996年]]8月にクルド人地域[[アルビール|イルビル]]を攻撃したが、アメリカは[[9月3日]]から[[9月4日|4日]]まで44基のトマホークで軍事施設に攻撃を加え、8箇所の防空ミサイル施設、7箇所の防空指揮管制施設を破壊した。
{{see also|クルド人}}
=== 石油食
{{main|
イラクに対する国際連合の経済制裁は戦後も継続されていた。このため1995年4月14日に[[国際連合安全保障理事会決議986]]が採択され、経済制裁下で国民生活が困窮しないよう
計画事務所所長には[[キプロス]]人の[[ベノン・セヴァン]]が就任し、輸出先企業の選定に当たった。当初は半年当たり20億ドルという制限があったが、1999年に制限は撤廃された。この計画で輸出された石油の総額は約7兆5千億円(2003年5月時点)にのぼり、<ref>[http://plus.yomiuri.co.jp/article/words/石油・食糧交換プログラム 用語解説][[YOMIURI ONLINE]]</ref>、主な輸出先であるロシアやフランス、中国の事実上の石油権益となっているという指摘が行われた。
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イラクは[[1997年]]以降、アメリカ側の意図が査察団に影響していることや、元アメリカ軍の諜報関係者であったUNSCOMの主任検査官[[スコット・リッター]]による抜き打ちの捜査に反発し<ref name="sakai">[http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Topics/pdf/45_09syo.pdf 第9章9・11テロ事件とアメリカの対イラク政策]JETROアジア経済研究所 [[酒井啓子]]論文</ref>、UNSCOMの査察を妨害し始めた。安保理は[[国際連合安全保障理事会決議1115|安保理決議1115]]、[[国際連合安全保障理事会決議1134|1134]]、[[国際連合安全保障理事会決議1137|1137]]でイラクを批判したが、イラクの姿勢は改善されなかった。
[[1998年]][[1月28日]]、アメリカの[[マデレーン・オルブライト|オルブライト]]国務長官はイラクが査察を受け入れない場合、アメリカは単独攻撃を行うと表明した。しかし、支持を表明したのはイギリスと日本(当時
これを受けてアメリカは[[イギリス]]とともに、[[12月16日]]から[[12月19日|19日]]にかけて、トマホーク325基以上と[[B-52_(航空機)|B-52]]からの空中発射巡航ミサイル(AGM-86C CALCM)90基によるミサイル空爆を行なった('''砂漠の狐作戦''')。湾岸戦争後最大の軍事行動であるこの作戦においては、[[ウィリアム・コーエン|コーエン]][[アメリカ合衆国国防長官|米国防長官]]は「作戦は非常に成功した」と述べ、「この攻撃で(イラクの)生物・化学兵器を運搬する能力を削減できた」と語った。
この攻撃は国連安保理の承認を得ておらず、
1999年12月には
=== 2001年 ===
[[2001年]]
6月、アメリカとイギリスは新たな制裁案である「スマート・サンクション」の導入を安保理で提案した。これは軍事物資ないし軍事用に転用可能な品をイラクに対する輸出禁止品目リストとして明文化して掲載するものであり、フランスとロシアは反対した。禁止品目を減少させることでフランスは同意したが、ロシアの強硬な反対で成立しなかった。
[[9月11日]]、アメリカの[[ニューヨーク]]と[[ワシントンD.C.|ワシントン]]において[[アメリカ同時多発テロ事件|同時多発テロ事件]]が発生した。[[イラク国営放送]]
11月、「イラク・石油・食糧・交換計画」の期限が切れ、半年間の延長を定めた[[国際連合安全保障理事会決議1382]]が成立した。この決議では半年後に「スマート・サンクション」が適用されることが明文化されており、テロ事件後アメリカと協調姿勢を見せたロシアも賛成した。しかしロシアはイラク側に最後まで反対したと語っている<ref name="sakai"/>。
=== 2002年 ===
ジョージ・W・ブッシュ大統領は[[2002年]][[1月29日]]、イラク・[[イラン]]・[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]が、大量破壊兵器を保有する
[[4月22日]]、アメリカ合衆国の要求により、[[化学兵器禁止機関]](OPCW)の臨時締約国会議が開かれ、イラクをOPCWに加盟させようとした[[ホセ・ブスターニ]]事務局長の解任を可決した<ref>[http://www.theguardian.com/world/2002/apr/23/richardnortontaylor US ousts director of chemical arms body Tuesday 23 April 2002 02.46 BST] - "[[ガーディアン|Guradian]]" Richard Norton-Taylor and agencies{{en icon}}</ref>。これは後に、イラクがOPCWに加盟して兵器査察を受け入れれば、イラク派兵への支持取り付けが難しくなるとアメリカ合衆国側が計算したからと見られている。規則上、事務局長の辞任は認められておらず、英『
<!--ブスターニは[[国際労働機関]](ILO)に解任無効を提訴した。http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/pub/geppo/pdfs/03_3_1.pdf-->
=== 査察再開 ===
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=== 中間報告 ===
[[2003年]][[1月9日]]には、武器査察を行った[[国連監視検証査察委員会]](UNMOVIC)とIAEAから安全保障理事会への中間評価の報告があった
主な内容は以下のとおりである<ref>[https://web.archive.org/web/20100106223350/http://www.47news.jp/CN/200301/CN2003012701000500.html イラク査察の正式報告要旨][[47NEWS]][[共同通信]]2003年1月27日配信記事</ref>。
;UNMOVIC報告
*イラクの協力は積極的なものではなく、本当の意味で国連決議を受け入れたわけでは
*イラクは施設立ち入りについては協力したものの、[[U2]]偵察機による上空査察が安全性に問題があるとして拒否し、国連ヘリコプターによる飛行禁止区域の査察を拒否した。また、イラク人科学者は当局の指示
*イラクが12月7日に提出した申告書は以前の申告書の蒸し返しであり、疑問は一切解消されていない。
*[[神経ガス]]である[[VXガス]]の開発に成功したとの情報を査察団は得ている。また[[炭疽菌]]を製造した可能性がある。
85行目:
*申告書の多くはIAEAの調査と一致しているが、湾岸戦争前の核物質の遠心分離抽出については明確にされる必要がある。
*アルミニウム管を購入しようとしたイラクの試みは安保理決議違反に当たる。
*イラク側の積極的な協力があれば、IAEAは数カ月後に、イラクには核兵器開発計画が
[[1月16日]]には化学兵器を搭載するためのミサイル12基が発見された。これは申告書に掲載されていなかったものと考えられた。同様の発見が別件であったことが[[2月12日]]にも発表された。
[[2月5日]]には、イラクが大量破壊兵器を隠し持っていることを示す証拠をアメリカ側が国連安保理にて提示した。しかし、この([[パウエル報告]])において重要な情報源として高く評価され、引用されてもいたイギリス政府による報告書が、実は最新の情報ではない、イラクの研究を行うアメリカの大学院生の1991年の論文からのかなり長い
[[2月14日]]、査察団の報告が再び行われた。報告では武装解除の進展を積極的に評価しつつも、査察が完了しておらず、まだ時間が必要であることが示唆された。2月21日、ブリクス委員長は3月1日までにアルサムード2の廃棄に当たるようにイラクに指示した。2月27日、イラクはアルサムード2の廃棄を表明し、廃棄にとりかかった。
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=== 戦争へ ===
しかしアメリカ・イギリス側は査察は不十分であり、イラク側の対応が改まらないとして、戦争をも辞さないとする新決議を提案したが、[[フランス]]等は査察は成果を挙げているのだから継続すべきと主張した。[[国際連合安全保障理事会]]でも議論が積み重ね、途中[[チリ]]などが修正案も提示したが、
安保理で焦点になったのは
最終的に
世界は、アメリカがプロブレムであるということを言い続けることは簡単、そして多くの国が言っています。だけれども、それは、ソリューションであるということに自信を持っている、あるいは当然そうあり続けてくれるだろうと思っているから安心して、例えば今回のようにフランスは甘えているということも言えると思います。」と答弁してフランスを批判した。
3月19日、米英軍は[[バグダード]]など主要都市に対して[[空襲]]を開始し、[[イラク戦争]]へと突入した。日本は小泉首相がいち早く「理解し、支持いたします」と声明を出した。
{{see also|イラク戦争}}
== イラク飛行禁止空域 ==
{{see also|飛行禁止空域 (イラク)}}
[[湾岸戦争]]終結後、イラクが受けた制裁や戦後処理の一つに[[飛行禁止空域 (イラク)|イラク飛行禁止空域]]や[[機雷]]の[[機雷戦|掃海]]がある。なお、その時[[イラク空軍]]に課せられた飛行禁止空域は[[北緯36度線|北緯36度]]以北と[[北緯33度線|北緯33度]]以南の空域であり、[[多国籍軍]]による監視作戦が度々行われた。
=== 自衛隊ペルシャ湾派遣 ===
{{see also|自衛隊ペルシャ湾派遣}}
戦後すぐに行われたのは多国籍軍による機雷の掃海であった。この時、[[日本]]の[[海上自衛隊]]の[[掃海艇]]が多数[[自衛隊海外派遣|派遣]]された。イラクは戦時中、[[ペルシア湾]]に1200発の機雷を設置しており、まずはそれを除去する必要があったのである。'''湾岸の夜明け作戦'''と呼ばれたこの作戦は[[1991年]][[6月5日]]から[[9月11日]]まで行われ、結果的に全機雷の除去に成功した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mod.go.jp/msdf/mf/other/history/img/001.pdf |title=Operation Gulf Dawn |publisher=落合畯 |date=2001-10 |accessdate=2022-01-30}}</ref>。
=== サザン・ウォッチ作戦 ===
{{see also|サザン・ウォッチ作戦}}
戦争終結の翌[[1992年]][[10月26日]]から始まったのが[[サザン・ウォッチ作戦]]であった。この作戦では2つの飛行禁止区域の内、北緯33度以南のものが対象とされ、[[ペルシア湾]]や[[サウジアラビア]]方面から監視が行われた。作戦開始当初は[[武力衝突]]もあまり起こらなかったが、[[イラク戦争]]が近づいた[[2002年]]頃から頻繁に起こるようになった。
=== ノーザン・ウォッチ作戦 ===
{{see also|ノーザン・ウォッチ作戦}}
[[1997年]][[1月1日]]から始まったのが[[ノーザン・ウォッチ作戦]]であった。この作戦では2つの飛行禁止区域の内、北緯36度以北のものが対象とされ、[[クルディスタン地域]]や[[トルコ]]方面から監視が行われ、[[日本]]も[[嘉手納飛行場|基地]]を提供した。サザン・ウォッチ作戦と同様、作戦開始当初は武力衝突もあまり起こらなかったが、イラク戦争が近づいた頃から頻繁に起こるようになった。
== 大量破壊兵器捜索 ==
イラク戦争での戦闘が一段落すると、アメリカ軍と
[[2004年]][[10月6日]]、CIAのアドバイザーで、[[:en:Iraq Survey Group|イラク調査団(ISG)]]の団長である[[:en:Charles A. Duelfer|チャールズ・デュエルファー]]は、1991年に未申告の化学兵器は廃棄されていたこと、開戦時には軍事的意味をもつ大量破壊兵器は存在せず、具体的開発計画もなかったこと、などを結論とする最終報告書([http://www.gpo.gov/fdsys/search/pagedetails.action?granuleId=&packageId=GPO-DUELFERREPORT&fromBrowse=true Duelfer report])を
フセイン元大統領は、拘束後の[[FBI]]の取調べにイラクが査察に非協力的だったのは「大量破壊兵器を保持している事をほのめかす事で[[イラン]]や国内の反政府勢力を牽制しようとした」ためで、化学兵器などの大量破壊兵器は「湾岸戦争後の国連の査察ですべて廃棄させられたため最初から無かった」と証言している<ref>CBS 60ミニッツ「サダム・フセインの告白」</ref>。
アメリカ政府は大量破壊兵器に関するCIAの情報に誤りがあったことが原因であるとし、議会で調査が行われる事態となった。ブッシュ大統領は退任直前のインタビューで「私の政権の期間中、最も遺憾だったのが、イラクの大量破壊兵器に関する情報活動の失敗だった」と述べたが、大量破壊兵器を保有していないことを事前に知っていれば、イラク侵攻に踏み切らなかったのではという質問に対しては、「興味深い質問だ」と述べただけで、明確な返答を避けた<ref>[
== 国連汚職問題 ==
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また、UNSCOMの主任調査官であり、イラクの国会で「査察は攻撃の口実」とアメリカ政府を批判したスコット・リッターが、フセイン政権関連の実業家から40万ドルに及ぶ資金提供を受けていたことも明らかになっている<ref>[http://www.47news.jp/CN/200211/CN2002113001000151.html 米批判の元査察官を買収か イラク系実業家から40万ドル][[47NEWS]]</ref>。
== 批判 ==
湾岸戦争からイラク戦争にかけてのアメリカによるイラクへの圧力には批判も多い。
[[漫画家]]の[[小林よしのり]]は、イラク戦争を'''[[侵略戦争]]'''であるとして断固反対を主張した。そして、やはり大量破壊兵器が発見されなかった事で、これが大義なき侵略戦争であったのであるとしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://sp.ch.nicovideo.jp/yoshirin/blomaga/ar173335 |title=日本人が目を背けるイラク戦争の総括 |publisher=小林よしのり |date=2013-03-26 |accessdate=2022-01-30}}</ref>。
== 関連記事 ==
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* [[:en:Oil-for-Food Programme]](英語版[[イラク・石油・食糧交換計画]])
* [[イラク戦争]]
* [[ジェラルド・ブル]]
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
* 外務省
** [
** [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/iraq/mondai.html イラクの何が問題なのか(平成14年10月)]
** [
** [http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/un_cd/gun_un/unmovic_gai.html イラク問題に関する国連監視検証査察委員会(UNMOVIC)の概要(公表日不記載)]
* [http://www.ribbon-project.jp/SR-shiryou/shiryou-02.htm スコット・リッター(元UNSCOM主任査察官) 兵器とレトリックと迫り来るイラク戦争:イラク戦争はアメリカの戦争]
143 ⟶ 164行目:
* [http://www.guardian.co.uk/Iraq/page/0,12438,793802,00.html Guardian Unlimited "Timeline: Iraq"(公表日不記載)]
* [http://globalcop.us/2006/10/duelfer-report-pdf.html Duelfer Report - Global Cop ]
{{アメリカの戦争}}
{{DEFAULTSORT:いらくふそうかいしよもんたい}}
[[Category:イラク戦争]]
[[Category:
[[Category:核兵器開発]]
[[Category:アメリカ合衆国・イラク関係]]
[[Category:ビル・クリントン]]
[[Category:ジョージ・W・ブッシュ]]
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