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{{参照方法|date=2015年10月}}
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 大久保 長安
| 画像 =
| 画像サイズ =
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| 戒名 =
| 霊名 =
| 墓所 =[[大田市]]の大安寺跡
| 官位 = [[従五位|従五位下]]、[[石見国|石見]][[国司|守]]
| 幕府 = [[江戸幕府]][[勘定奉行|所務奉行]]、[[老中|年寄]]
| 主君 = [[武田信玄]]→[[武田勝頼|勝頼]]→[[徳川家康]]
| 藩 =
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| 兄弟 = 新之丞、'''長安'''
| 妻 = 正室:'''[[大久保忠為]]娘'''
| 子 = [[大久保藤十郎]]、[[大久保外記]]、[[青山成国]](権之助)、大久保雲十郎、大久保内膳、大久保右京長清、子2名1人<ref>『駿府記』『柳営婦女伝系』</ref>、<br/>[[服部正重]]正室、三井吉正室、花井義雄室
土屋昌次養女<ref>石見(島根県西部)大田市 石見銀山と大久保長安と家康の側室たち</ref>
| 子 = [[大久保藤十郎]]、大久保外記、[[青山成国]](権之助)、大久保雲十郎、大久保内膳、他男子2名、<br/>[[服部正重]]正室、三井吉正室、花井義雄室
| 特記事項 =
}}
 
'''大久保 長安'''(おおくぼ ながやす/ちょうあん)/'''土屋 長安'''(つちや ながやす)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[武将]]。[[武田氏#甲斐武田氏|甲斐武田氏]]、次いで[[徳川氏]]の家臣となった後に[[江戸幕府]][[勘定奉行徳川家康]]のもとで吏僚として活躍し、[[老中鉱山]]となの開発を担った。子孫には、お笑い芸人の大久保 佳代子がいる
 
== 生涯 ==
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=== 徳川家臣時代 ===
[[ファイル:Tokugawa ke Bugyoshu Rensho Temma Okitegaki cropped Shizuoka ken Shiryo Part 4 Frame 148.jpg|thumb|200px|[[遠江国]][[佐野郡]][[掛川宿|懸川宿]]の[[町年寄|年寄]]に対する掟書(『德川家奉行衆連署傳馬掟書』[[慶長]]6年1月、個人蔵)<ref>『靜岡縣史料』4輯、[[静岡県|靜岡縣]]、1938年、178-179頁。</ref>。[[伊奈忠次]]、[[彦坂元正]]と連署しており、「大久保十兵衛」<ref>『靜岡縣史料』4輯、[[静岡県|靜岡縣]]、1938年、179頁。</ref>と記され黒印が押されている]]
甲斐武田家が滅んだ後、長安は徳川家康の家臣として仕えるようになる。家康が甲州征伐の際に逗留用の仮館を長安が建設したが、この時に家康がその館を見て長安の作事の才能を見抜き、仕官を許したといわれている。また、一説では家康の近臣で、旧武田家臣の[[成瀬正一 (戦国武将)|成瀬正一]]を通じて自分が信玄にも認められた優秀な官僚であり、金山に関する才能に恵まれていることを売り込んで、家康に仕えるようになったともいわれている。
 
長安は[[大久保忠隣]]の[[与力]]に任じられ、その庇護を受けることとなる。この際に名字を賜り、姓を大久保に改めた<ref>{{Cite web |url=https://www.nhk.or.jp/radio/magazine/article/dj-nihonshi/djn20230604_02.html |title=本多VS大久保 徳川政権のスキャンダル合戦 |publisher=NHKラジオ |date=2023-06-04 |accessdate=2023-12-12}}</ref>。天正10年6月、[[本能寺の変]]で信長が死去して甲斐が家康の所領となる。しかし当時の甲斐は、武田家滅亡後の混乱から乱れていた。そこで家康は[[本多正信]]と[[伊奈忠次]]を所務方に任じて、甲斐の内政再建を命じた。ただし、実際に所務方として再建を行なったのは長安であるとされている。長安は[[釜無川]]や[[笛吹川]]の堤防復旧や新田開発、金山採掘などに尽力し、わずか数年で甲斐の内政を再建したと言われている。
 
天正18年([[1590年]])の[[小田原征伐]]後、家康は関東に移ることになる。この時、長安は[[青山忠成]](江戸町奉行)、[[伊奈忠次]]、[[長谷川長綱]]、[[彦坂元正]]らと共に奉行([[代官頭]])に任じられ、家康が関東に入った後の土地台帳の作成を行なった。これは家康が後に関東で家臣団に所領を分配する時に、大いに役立ったと言われている。長安が行った[[検地]]は石見検地と呼ばれ、従来の1[[間]]=6[[尺]]5[[寸]]を6尺1分に短縮して打ち出しを強化するとともに、自作農の保護にもあてるというものであった<ref>{{Cite Kotobank|word=石見検地|encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ)|author=村上直|accessdate=2023-8-29}}</ref>
 
また、関東250万石のうち、100万石は家康の直轄領となったが、この時に長安は長谷川長綱、彦坂元正、伊奈忠次と共に[[関東代官頭]]として家康直轄領の事務差配の一切を任されている。
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[[慶長]]8年([[1603年]])2月12日、家康が将軍に任命されると、長安も特別に従五位下石見守に叙任され、家康の六男・[[松平忠輝]]の[[御附家老|附家老]]に任じられた。7月には[[佐渡奉行]]に、12月には所務奉行(後の[[勘定奉行]])に任じられ、同時に年寄(後の[[老中]])に列せられた。
 
[[慶長]]10年([[1605年]])、'''大久保長安'''を普請奉行として[[武蔵御嶽神社]]の本社を普請。
 
[[慶長]]11年([[1606年]])2月には[[伊豆国|伊豆]]奉行にも任じられた。つまり長安は家康から全国の金銀山の統轄や、関東における交通網の整備、[[一里塚]]の建設などの一切を任されていたのである。現在知られる里程標、すなわち1[[里 (尺貫法)|里]]=36[[町 (単位)|町]]、1町=60[[間]]、1間=6[[尺]]という間尺を整えたのも長安である。
 
これら一切の奉行職を兼務していた長安の権勢は強大であったと言われる。また、7人の息子を[[石川康長]]や[[池田輝政]]の娘と結婚させ、忠輝と[[伊達政宗]]の長女・[[五郎八姫]]の結婚交渉を取り持ち、忠輝の岳父が政宗となったことから政宗とも親密な関係を築いていたと言われている。そのため、その権勢や諸大名との人脈から「天下の総代官」と称された。この頃、長安の所領は八王子8,000石(実際は9万石)に加えて、家康直轄領の150万石の実質的な支配を任されていたと言われている。
 
しかし晩年に入ると、全国の鉱山からの金銀採掘量の低下から家康の寵愛を失い、美濃代官を初めとする代官職を次々と罷免されていくようになる。さらに正室が早世するなどの不幸も相次ぐ中で、[[慶長]]17年([[1612年]])7月27日、[[中風]]にかかり、家康から[[烏犀円]]を与えられている(『駿府記』)<ref>{{Citation|和書|author=宮本義己|authorlink=宮本義己|chapter=徳川家康と本草学|editor=笠谷和比古|title=徳川家康―その政治と文化・芸能―|publisher=宮帯出版社|year=2016}}</ref>。慶長18年([[1613年]])4月25日、中風のために死去した<ref>『[[駿府記]]』、なお『[[当代記]]』は好色ゆえの虚ノ病([[腎虚]]([[花柳病]])か)を遠因に挙げている。</ref>。享年69
 
長安の死後に生前の不正蓄財が問われ、また長安の子は蓄財の調査を拒否したため、慶長18年([[1613年]])7月9日、長安の嫡男・大久保藤十郎(37歳)次男・大久保外記(36歳)三男・青山成国(30歳)四男・達大久保雲十郎(29歳)五男・大久保内膳(27歳)六男・大久保右京長清(23歳(越後在住)、・安寿(15歳1人(播磨在住<ref>『[[駿府記]]』『[[柳営婦女伝系]]』</ref>、以上7人は切腹となった。また大久保忠隣や縁戚関係の諸大名も[[改易]]などの憂き目にあった([[大久保長安事件]])。
しかし晩年に入ると、全国の鉱山からの金銀採掘量の低下から家康の寵愛を失い、美濃代官を初めとする代官職を次々と罷免されていくようになる。さらに正室が早世するなどの不幸も相次ぐ中で、慶長18年([[1613年]])4月25日、中風のために死去した<ref>『[[駿府記]]』、なお『[[当代記]]』は好色ゆえの虚ノ病([[腎虚]]([[花柳病]])か)を遠因に挙げている。</ref>。享年69。
 
[[島根県]][[大田市]]の大安寺、[[温泉津町]]の愛宕神社には大久保が生前に建立した[[逆修墓]]が、さらに大安寺には寛政6年([[1794年]])に事績を顕彰して建てられた紀功碑と五輪墓が存在する<ref>{{Cite web |url=https://www.ginzan-wm.jp/purpose_post/%e5%a4%a7%e4%b9%85%e4%bf%9d%e7%9f%b3%e8%a6%8b%e5%ae%88%e9%95%b7%e5%ae%89%e9%80%86%e4%bf%ae%e5%a2%93/?parent=ooda |title=大久保石見守長安逆修墓 |publisher=大田市観光協会 |date= |accessdate=2023-12-12}}</ref>。
長安の死後に生前の不正蓄財が問われ、また長安の子は蓄財の調査を拒否したため、慶長18年([[1613年]])7月9日、長安の嫡男・藤十郎(37歳)、次男・外記(36歳)、三男・青山成国(30歳)、四男・達十郎(29歳)、五男・内膳(27歳)、六男・右京長清(23歳)、七男・安寿(15歳)、以上7人は切腹となった。また縁戚関係の諸大名も[[改易]]などの憂き目にあった([[大久保長安事件]])。
 
== 人物・逸話 ==
* 旧武田家家臣から一代で年寄(加判)まで出世したが、没後にたちまち家は断絶した。その謎めいた生涯は多くのフィクションの対象となっている。
* ほとんど外様に近い立場から<ref>30歳近くまで徳川家と関わりがなかったが、関ヶ原合戦の20年近く前から臣従しているので、いちおう譜代大名にあたる。ただ、他の老中全員は父の代からの徳川家家臣である。同様に新参の譜代大名である井伊直政は、早世してなければ老中職に就いたのは確実だったが、近隣の名門出身で14歳から家康に臣従しており、かなり立場が違う。</ref>老中(加判)に就いた唯一の人物であり、その謎めいた生涯は多くのフィクションの対象となっている。
* 無類の女好きで、[[側室|側女]]を70人から80人も抱えていたと言われている。
* 金山奉行などをしていた経緯から派手好きであり、死後、自分の遺体を黄金の棺に入れて華麗な葬儀を行なうように遺言したという<ref>このような派手な出費ぶりが家康に長安の不正蓄財の疑いを抱かせたとも。</ref>。
* 『[[徳川実紀]]』は疑わしい話として次のような一説を載せている。長安の没後に寝所の下の石室から連判状が見つかり、[[李氏朝鮮|朝鮮]]に財宝を密かに送ったことや、諸大名と私的に通じ、「大不敬」のこともあったとされる<ref name="hirakawa2010">{{Cite journal|和書|title = 政宗謀反の噂と徳川家康|url = https://cir.nii.ac.jp/crid/1520853832388498176|publisher = 東北大学大学院文学研究科東北文化研究室|journal = 東北文化研究室紀要 / 東北大学大学院文学研究科東北文化研究室 編|volume = 52|naid = 40018902321|issn = 13430939|author = 平川新|authorlink = 平川新|year = 2010|pages=10-11}}</ref>。このため、長安が忠輝を通じて諸大名と幕府転覆の陰謀を図っていたとされることもある<ref name="hirakawa2010"/>。
* 一説に長安は、家康より政宗のほうが天下人にふさわしいと考え、政宗の幕府転覆計画に賛同していたと言われている。
* [[島根県]][[大田市]]の[[天然記念物]]に指定されていた[[クロマツ]]([[定めの松]])は、大久保長安が[[一里塚]]の目印として植えたものとして伝えられていた。このマツは[[2023年]]までに枯死している<ref>{{Cite web |url=https://www.asahi.com/articles/ASRDD5F4YRDDPTIB005.html |title=名松「定めの松」が枯死 樹齢400年、市の天然記念物指定解除へ |publisher=朝日新聞 |date=2023-12-12 |accessdate=2023-12-12}}</ref>。
 
=== 家族 ===
長安嫡男の[[大久保藤十郎]]は[[奈良奉行]]を勤め、[[石川康長]]の娘が嫁いでいた。長安次男の大久保外記には、[[池田輝政]]養女([[下間頼龍]]娘)が嫁いでいる<ref>{{Cite journal|和書|author=大森映子 |title=岡山藩池田家における婚姻事例 : 分家との比較を中心として |journal=湘南国際女子短期大学紀要 |issn=09198938 |publisher=湘南国際女子短期大学 |year=1998 |month=feb |issue=5 |pages=144-124 |naid=110006184476 |url=http://id.nii.ac.jp/1361/00000734/}}</ref>。三男の成国は奉行衆青山成重の婿養子になっている。六男の右京長清には[[松平忠輝]]の異父姉で重臣の[[花井吉成]]の娘が嫁いでいる。長安の没後には石川康長は弟二人とともに改易となり、青山成重も改易となった
また長安には女子が2人おり、服部半蔵正成の息子正重と剣豪三井吉正に嫁いだ。この女子2名は処罰の対象とならず、それぞれの夫との間に男子をもうけたので、長安の系譜は外孫の家系に伝わり残ったと言える。
 
== 長安による開発が行われた都市 ==
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== 関連作品 ==
; テレビドラマ
* [[独眼竜政宗徳川家康 (NHK大河ドラマ)|独眼竜政宗徳川家康]](1987(1983年、[[NHK大河ドラマ]]、演:[[金田龍之介津川雅彦]])
* [[独眼竜政宗 徳川三代(NHK大河ドラマ)|独眼竜政宗]](2000(1987年、[[NHK大河ドラマ]]、演:[[森三平太金田龍之介]])
* [[風雲!真田幸村]](1989年、[[テレビ東京]]・[[東映]]、演:[[浜田晃]])
* [[葵 徳川三代]](2000年、NHK大河ドラマ、演:[[森三平太]])
; 小説
* [[堀和久]]『大久保長安〈上・下〉』[[講談社]]
95 ⟶ 99行目:
*山田風太郎『忍法封印いま破る』講談社 KODANSHA NOVELS SPECIAL
* [[岳宏一郎]]『御家の狗』[[毎日新聞社]]
* 松本清張『山師』(旧題「家康と山師」/初出「別冊文藝春秋」1955年6月号)
; その他
* [[斎藤吉見]]『大久保長安 家康を支えた経済参謀』[[PHP文庫|PHP研究所]]
* [[鬼丸智彦]]『猿楽を舞う如く―天下の金山奉行 大久保長安』[[ブイツーソリューション]]
* [[広井王子]]・[[あかほりさとる]]『[[サクラ大戦4 〜恋せよ乙女〜]]』[[セガゲームス|セガ]]<ref>大久保長安の怨霊が帝都壊滅を目論むラスボスとして登場する。</ref>
* [[山田芳裕]]『[[へうげもの]]』講談社
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
 
== 参考文献 ==
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{{normdaten}}
 
{{DEFAULTSORT:おおくほ なかやす}}
[[Category:大久保石見守家|なかやす]]
[[Category:大蔵氏]]
[[Category:土屋氏]]
123 ⟶ 127行目:
[[Category:江戸幕府老中]]
[[Category:江戸幕府勘定奉行]]
 
[[Category:日本の財政家]]
[[Category:江戸幕府の郡代・代官]]
[[Category:佐渡奉行]]