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[[画像:Mohenjo-daro-2010.jpg|サムネイル|350px|[[モヘンジョダロ]]]]
[[画像:Ceremonial Vessel LACMA AC1997.93.1.jpg|サムネイル|儀式で使用された陶器<br>紀元前2600–2450年]]
'''インダス文明'''(インダスぶんめい、'''{{Lang-en-short|Indus Valley civilization'''Civilisation}})は、[[インド]]・[[パキスタン]]・[[アフガニスタン]]の[[インダス川]]および並行して流れていたとされる[[ガッガル・ハークラー川]]周辺に栄えた文明である。
 
これら各国の先史文明でもある([[インドの歴史]]、[[パキスタンの歴史]]、[[アフガニスタンの歴史]]も参照)。
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崩壊の原因となったという説のあった川の名前にちなんでインダス文明、最初に発見された遺跡にちなんでハラッパー文明とも呼ばれる{{Sfn|ダブルー|1978|pp=122-123}}。
 
狭義のインダス文明は、[[紀元前2600年]]から[[紀元前1800年]]の間を指す。インダス文明の遺跡は、東西1500 [[キロメートル|km]]、南北1800km1800 kmに分布し、遺跡の数は約2600におよぶ。
 
そのうち[[発掘調査]]が行われた遺跡は、2010年時点でインド96、パキスタン47、アフガニスタン4の合計147となっている{{Sfn|長田編|2013|pp=4}}。
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[[メヘルガル#メヘルガルI期|メヘルガルI期]]([[紀元前7000年]] - [[紀元前5500年]])は、[[土器]]をともなわない[[新石器時代]]である。
 
この地域での初期の[[農業]]は半遊牧民が行ったもので、[[コムギ]]や[[オオムギ]]を栽培する傍らで[[ヒツジ]]や[[ヤギ]]や[[ウシ]]を飼っていた。泥製の住居群は4つの区画に分けられている。多数の埋葬跡も見つかっており、副葬品として籠、石器、骨器、ビーズ、腕輪、ペンダントなどがあり、時折動物の生贄も見つかっている。一般に男性の方が副葬品が多い。装飾品としては、[[貝殻]](海のもの)、[[石灰岩]]、[[トルコ石]]、[[ラピスラズリ]]、[[砂岩]]、磨いた[[銅]]などが使われており、女性や動物の原始的な像も見つかっている。海の貝殻や付近では産出しないラピスラズリ([[アフガニスタン]]北東部で産する)が見つかっていることから、それらの地域と交流があったことがわかる。副葬品として[[石器|石斧]]が1つ見つかっており、もっと地表に近いところからも石斧がいくつか見つかっている。これらの石斧は[[南アジア]]では最古のものである。
{{節スタブ}}
 
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{{main|メヘルガル}}
 
[[メヘルガル#メヘルガルII期とIII期|メヘルガルII期]]([[紀元前5500年]] - [[紀元前4800年]])は、[[土器]]をともなう[[新石器時代]]である。[[メヘルガル#メヘルガルII期とIII期|メヘルガルIII期]]([[紀元前4800年]] - [[紀元前3500年]])は、[[銅器時代]]後期である。[[メヘルガル#メヘルガルVIIVI期|メヘルガルⅣ期]]([[紀元前3500年]] - [[紀元前2600年]])で集落が放棄された。
 
{{main|カーリバンガン|ハラッパー|コト・ディジ}}
 
ハラッパーI期([[紀元前3300年]] - [[紀元前2800年]]、[[ラーヴィー期]]{{Refnest|group="†"|[[ラーヴィー期]]の名称は{{仮リンク|ラーヴィー川|en|Ravi River}}に由来する。}}には、[[パンジャーブ]]地方の{{仮リンク|ラーヴィー川|en|Ravi River}}河岸で[[ハラッパー|ハラッパー文化]]が、[[ラージャスターン]]地方の[[ガッガル・ハークラー川]]河岸で[[カーリバンガン|カーリバンガン文化]]が、それぞれ始まった。それに続くハラッパーII期([[紀元前2800年]] - [[紀元前2600年]])は[[シンド]]地方で[[コト・ディジ|コト・ディジ文化]]が始まった。
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これらの点から、夏モンスーンの激化がインダス川流域に洪水を起こし、インダス川流域に位置するモヘンジョダロなどの大都市から周辺への移住が起きたとする{{Sfn|長田編|2013|p=終章}}。
 
:また、インダス文明期には、海面が現在よりも2m2 [[メートル|m]]ほど高かったという調査がある。これにより遺跡の分布を調べると、インダス川流域以外のグジャラートやマクラーン海岸の遺跡の多くが海岸線に近くなる{{Sfn|宮内, 奥野|2013|p=第3章}}。
 
そこで、海岸線に近いインダス文明の人々は大河によって生活するのではなく、海上交易などを行っていた海洋民であったが、海面低下により生活が変化したとする説も提唱されている。後述のように、インダス文明はメソポタミアやペルシア湾地域と交易を行っていたことが確認されている。
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文明の存在が認識されるようになったのは比較的遅く、[[イギリス帝国|イギリス支配下]]の19世紀になってからのことである。
 
[[1826年]]に探検家の{{仮リンク|チャールズ・マッソン|en|Charles Masson}}がハラッパーにある周囲約5km5 kmに及ぶ巨大な廃墟について報告し、「[[紀元前326年]]に[[アレクサンドロス3世]](大王)を[[ヒュダスペス河畔の戦い|撃退]]した[[ポロス (古代インドの王)|ポルス王]]の都シャンガラの跡ではないか」と推測している。
 
1831年にも[[アレクサンダー・バーンズ]]が調査中同地を訪れ地元の人から廃墟にまつわる「神の怒りによって滅んだ」との伝承を紹介し、本国イギリスで考古学的好奇心を大いに刺激するようになる。
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[[画像:Dholavira_Layout.jpg|サムネイル|200px]]
{{main|{{仮リンク|インダス文明遺跡のリスト|en|List_of_Indus_Valley_Civilization_sites}}}}
都市の規模は[[メソポタミア]]のものよりも小さく、モヘンジョダロとハラッパーが1km1 km四方を超える規模をもち、メソポタミアの小都市に匹敵する規模であった。都市には2種類あり、城塞と市街地が一体のタイプ(ロータル、ドーラビーラ)と、城塞と市街地が分離しているタイプ(モヘンジョダロ、ハラッパー、カーリバンガン)とがある。主な遺跡は以下の4地域に集中している。
 
# インダス川流域([[ハラッパー]] 分離型、76[[ヘクタール]]:周囲を含む全体推定値150ヘクタール、[[モヘンジョダロ]] 分離型、83ヘクタール:周囲を含む全体推定値125~200125 - 200ヘクタール)
# ガッガル・パークラー川流域({{仮リンク|ラーキーガリー|en|Rakhigarhi}} 105ヘクタール:分離型、{{仮リンク|バナーワリー|en|Banawali}} 16ヘクタール:一体型、[[カーリバンガン]] 12.1ヘクタール:分離型)
# マクラーン地方({{仮リンク|ソトカー・コー|en|Sokhta Koh}} 1.5ヘクタール:分離型、{{仮リンク|ソトカーゲン・ドール|en|Sutkagan Dor}} 1.95ヘクタール:分離型)
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;文字
:[[インダス文字]]は現在でも読である明されていない。統計的分析ができる長文や、[[ロゼッタ・ストーン]]のように多言語併記の物が出土しないことが研究の大きな障壁になっている。一方で、インダス式紋章は文字ではないという説もあり、論争が続いている{{Sfn|児玉|2013|p=第9章}}。
 
;ドラヴィダ運動
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=== インダス式印章 ===
[[画像:IndusValleySeals.JPG|サムネイル|250px|インダス式印章]]
都市遺跡からは、多くのインダス式印章が出土する。[[凍石]]製で、印面は3~4cm3 - 4 [[cm]]の方形で、インダス文字とともに動物などが刻まれている。動物は、サイ、象、虎などの動物のほかに後のインドの文化にとって重要な動物である[[ウシ|牛]]が刻まれているのが目立つ。一方で、一角獣など架空の動物が刻まれたり、「[[シヴァ]]神」の祖形と思われる神などが刻まれていることもある。商取引に使用されたと考えられ、メソポタミアの遺跡からもこのような印章の出土例がある{{Sfn|遠藤|2013|p=第6章}}。
 
== 出典・脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
 
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| editor1 = [[長田俊樹]]
| year = 2013
| isbn = 9784876983001
| NCID = BB13946221
| url = https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000000026415-00
}}
* {{Cite journal|和書|author=[[宇野隆夫]]「[https |url=http://nichibun.repoid.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=2520&item_no1368/00002514/ |title=1&attribute_id=19&file_no=1 インダス文明の都市と王権]」[[ |journal=王権と都市 |publisher=国際日本文化研究センター]]、 |volume=33 |pages=1-21 |year=2008 |ISSN=09152822 |doi=10.15055/00002514 }}
* {{Citation| 和書
| first = 仁
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| editor1 = 長田俊樹
| year = 2013
| isbn = 9784876983001
}}
* {{Citation| 和書
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| editor1 = 長田俊樹
| year = 2013
| isbn = 9784876983001
}}
* {{Citation|last=神谷|first=信明|year=2003|title=On verna system in India|format=PDF|pages=65-72|url=https://cidoi.niiorg/10.ac.jp/naid24516/11000447087700000384|periodicaljournal=岐阜市立女子短期大学研究紀要|volume=53|publisher=岐阜市立女子短期大学|quote=|naid=110004470877|ncid=AN10208264}}
* {{Citation| 和書
| author1 = [[木村李花子]]
253 ⟶ 257行目:
| editor1 = 長田俊樹
| year = 2013
| isbn = 9784876983001
}}
* {{Citation| 和書
266 ⟶ 270行目:
| editor2 = [[中村平治]]
| year = 2006
| isbnNCID = BA77733314
| isbn = 9784641122918
}}
* {{Citation| 和書
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|year=1943
|title=印度の原住民
|format=PDF
|pages=421-449
|url=https://cikoara.niilib.keio.ac.jp/naidxoonips/110007472334modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00100104-19430600-0141
|periodical=史学
|volume=21
|publisher=[[慶應義塾大三田史]]
|naid=110007472334
|ISSN=0386-9334
}}
** 人種の分類については当時であっても「今日ではリスリーの分類と所論とをそのまま採用することは出来なくなつたが」ともしている。
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{{デフォルトソート:いんたすふんめい}}
[[Category:インダス文明|*]]
[[Category:考古学]]
[[Category:インドの考古学]]
[[Category:先史アジア]]