削除された内容 追加された内容
m 脚注節を編集しました (Check Wikipedia)
 
(30人の利用者による、間の38版が非表示)
1行目:
{{脚注の不足|date=2021-12}}[[Image:Zekkusosho by Ohkubo Shibutsu.jpg|thumb|120px|七行絶句三行草書「残雪不消猶待伴」]]
'''大窪詩仏'''('''おおくぼしぶつ'''、[[明和]]4年([[1767年]]) -[[天保]]8年[[2月11日 (旧暦)|2月11日]]([[1837年]]))は、[[江戸時代]]後期の[[漢詩|漢詩人]]である。[[書画]]も能くした。

[[常陸国]]久慈郡袋田村(現 [[茨城県]][[久慈郡]][[大子町]])に生まれる。
'''大窪詩仏'''(おおくぼしぶつ、[[明和]]4年([[1767年]]) - [[天保]]8年[[2月11日 (旧暦)|2月11日]]([[1837年]][[3月17日]]))は、[[江戸時代]]後期の[[漢詩|漢詩人]]である。[[書画]]も能くした。[[常陸国]]久慈郡袋田村(現 [[茨城県]][[久慈郡]][[大子町]])に生まれる。
 
[[名前|名]]は行(こう)、[[字]]は天民(てんみん)、[[通称]]を柳太郎、のちに行光、[[号 (称号)|号]]は詩仏のほかに柳侘(りゅうたく),)、痩梅(そうばい)、江山翁(こうざんおう)、玉地樵者、艇棲主、含雪、縁雨亭主、柳庵、婁庵、'''詩聖堂'''(しせいどう)、江山書屋(こうざんしょや)、既醉亭(きすいてい)、痩梅庵(そうばいあん)とも号した。号の詩仏は[[唐]]詩人 [[杜甫]]が「詩名仏」と称されたことによるものか、あるいは[[清]]の[[袁枚]]の号に因むと言われる。
[[Image:Zekkusosho by Ohkubo Shibutsu.jpg|thumb|120px|七行絶句三行草書「残雪不消猶待伴」]]
== 経歴 ==
 
===少年期= 経歴 ==
=== 少年期 ===
詩仏が10歳の頃、隣家が火事となり大騒動になっていても、それに気付かず読書しつづけたという逸話が残っている。
父の大窪宗春光近は桜岡家の婿養子となったが離縁になり、詩仏を引き取って実家のある常陸国[[多賀郡]]大久保村に戻った。このため詩仏も大窪姓に復する。代々大窪家は医を生業としており、宗春は田舎で身を沈めることを潔しとしなかったため、数年後単身で[[江戸]]にて[[小児科|小児科医]]を開業する。江戸では名医として評判となり大いに繁盛した。
 
父の大窪宗春光近は桜岡家の婿養子となったが離縁になり、詩仏を引き取って実家のある常陸国[[多賀郡]]大久保村に戻った。このため詩仏も大窪姓に復する。
===修業時代===
 
詩仏は15歳頃、江戸[[日本橋]][[新銀町]]で開業する父の元に身を置き、[[医術]]を学び、[[剃髪]]し宗盧と号した。21歳頃より[[山本北山]]の門人 [[山中天水]]の塾 '''晴霞亭'''に通い[[儒学]]を学び、[[市河寛斎]]の[[江湖詩社]]にも参加して'''清新性霊派'''の新風の中、詩作を始める。24歳のとき父が亡くなるが、医業を継がず詩人として身を立てる決意をする。同年、師の天水が33歳の若さで早世し、[[中野素堂]]の紹介で山本北山の'''奚疑塾'''に入門する。
大窪氏は[[佐竹氏|常陸佐竹氏]]の重臣で、江戸時代に入るまで約200年にわたり大窪郷一帯を所領としていた<ref>この出自が後の秋田藩(久保田藩)佐竹家への出仕などにもつながっていると考えられる。</ref>。
 
佐竹氏の[[久保田藩|秋田(久保田藩)]]への[[国替]]の後も地元に残った詩仏の家は代々医を生業としており、宗春は田舎で身を沈めることを潔しとしなかったため、数年後単身で[[江戸]]にて[[小児科学|小児科医]]を開業する。江戸では名医として評判となり大いに繁盛した。
 
=== 修業時代 ===
詩仏は15歳頃、江戸[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]][[新銀町]]で開業する父の元に身を置き、[[医術]]を学び、[[剃髪]]し宗盧と号した。21歳頃より[[山本北山]]の門人 [[山中天水]]の塾 '''晴霞亭'''に通い[[儒学]]を学び、[[市河寛斎]]の[[江湖詩社]]にも参加して'''清新性霊派'''の新風の中、詩作を始める。24歳のとき父が亡くなるが、医業を継がず詩人として身を立てる決意をする。同年、師の天水が33歳で死去し、[[中野素堂]]の紹介で山本北山の'''奚疑塾'''に入門する。
 
=== 活動期 ===
25歳の時、市河寛斎が[[富山藩]]に仕官した後、江湖詩社に活気がなくなってくると、先輩の[[柏木如亭]]と[[向島 (東京都墨田区)|向島]]に'''二痩社'''を開いた。詩仏の別号 痩梅、如亭が痩竹と号したことに因んだ命名である。この二痩社には百人を超える門人が集った。その後、自らの[[詩集]]や[[啓蒙書]]などを活発に刊行する。また各地を遊歴し、文雅を好む地方の豪商などに寄食しながら詩を教え、書画の揮毫などで潤筆料を稼いだ。その足跡は[[東海道]]、[[京都]]、[[伊勢国|伊勢]]、[[信濃国|信州]]、[[上野国|上州]]に及ぶ。
 
=== 絶頂期 ===
[[文化 (元号)|文化]]3年3(1806年)3月、39歳の時丙寅の火災と呼ばれる[[江戸の火事|江戸の大火]]に罹災。家を焼失した詩仏は復興費用の捻出のため画家の[[釧雲泉]]と[[信越]]地方]]に遊歴し、秋に帰ると[[神田 (千代田区)|神田]][[於玉ヶ池|お玉ヶ池]]に家を新築、'''詩聖堂'''(現 [[東京都]][[千代田区]][[岩本町]]2丁目付近)と称した。しだいに訪問客が増え、それにともなってこの詩聖堂に度重なる増築を加え、豪奢な構えとなっていく。文化7年正月、『詩聖堂詩集初編』を出版し、江戸詩壇の中で確固たる地位を築く。この頃、[[頼山陽]]などと交流する。
 
=== 珍事 ===
文化13年([[1816年]])、'''書画番付騒動'''が起こり、これに巻き込まれる。これは当時の江戸の学者や[[文人]]達を[[相撲]]の[[番付]]に見立てて格付けした「都下名流品題」という一枚刷を巡り、あちこちで格付けの不当が言い立てられ始めたことによる。東の[[関脇]]に詩仏が格付けされており、親友の[[菊池五山]]とともにこの戯れ事の黒幕と目されてしまった。[[大田錦城]]らと大きく悶着したが、後援者である[[伊勢国]][[長島藩]]前藩主の[[増山正賢|増山雪斎]]の調停でなんとか治まった。真相ははっきりしないが詩仏の関与は濃厚と見られる。この後、詩仏は信越へ遊歴し、ほとぼりを冷ましている。
 
=== 仕官 ===
地方に遊歴してもしだいに振るわなくなったことに焦りを感じたためか、詩仏は文政8年([[1825年]])、59歳にして[[秋田藩]]に出仕する。ほとんど拘束を受けない条件で江戸の[[藩校]] [[日知館]]の教授として俸禄を給されたので生活そのものは変らなかった
 
佐竹氏重臣の一族出身だったことで上層部まで含め秋田の佐竹家中に遠縁の者がおり、それらのつながりから実現したものと思われる<ref>江戸期の大名家は藩主とその妻子だけでなく相当数の家臣や商人なども江戸に来ていたため、
===不運===
文政12年([[1829年]])は63歳になる詩仏にとって運の悪い年だった。3月の江戸の大火(己丑の大火)で詩聖堂を全焼し、秋田藩邸に仮住まいを余儀なくされた。[[下谷]][[練塀小路]]に小宅を構えることは出来たが、二度と詩聖堂を復興することは出来なかった。ついでこの冬、二人の幼女を残して妻が先立つ。
 
彼らを介するなどして故郷から遠く離れた縁者同士が近況確認やつながりを保つことが立場や環境によっては必ずしも難しくはなかった。
===晩年===
晩年の詩仏は江戸詩壇の泰斗として敬われ、交友も活発であったがかつての華やかさは次第に失われていった。また肉体的にも衰えが目立ち、65歳 秋田に旅した帰路には[[脚気]]が悪化し養子の謙介に迎えに来てもらわねばならなかった。
[[天保]]8年2月([[1837年]])、自宅で没する。[[享年]]71。[[浅草]][[松葉町]]の[[光感寺]]に葬られる。後に[[藤沢市]]本町に改葬された。
 
詩仏のような人物であればなおさらである。</ref>。
 
ほとんど拘束を受けない条件で江戸の[[藩校]] [[日知館]]の教授として俸禄を給されたので生活そのものは変らなかった。
== 人物 ==
 
=== 不運 ===
詩仏は穏やかで物事に頓着しない性格で少しも驕ることがなかった。また人付き合いがよく、酒を好んだこともあり、多くの文人墨客と交流し、当時の詩壇の[[アイドル]]的な人気を獲得した。
文政12年([[1829年]])は63歳になる詩仏にとって運の悪い年だった。3月の江戸の大火(己丑の大火)で詩聖堂を全焼し、秋田藩邸に仮住まいを余儀なくされた。[[下谷]][[練塀小路]]に小宅を構えることは出来たが、二度と詩聖堂を復興することは出来なかった。ついでこの冬、二人の幼女を残して妻が先立つ。
 
=== 晩年 ===
晩年の詩仏は江戸詩壇の泰斗として敬われ、交友も活発であったがかつての華やかさは次第に失われていった。肉体的にも衰えが目立ち、65歳で秋田に旅した帰路には[[脚気]]が悪化し養子の謙介に迎えに来てもらわねばならなかった。
 
[[天保]]8年2月([[1837年]])、自宅で没する。[[享年]]71。[[浅草]][[松が谷 (台東区)|松葉町]]の[[光感寺]]に葬られる。後に[[藤沢市]]本町に改葬された。
その後、[[池上本門寺]]に再改葬されている。
 
== 人物像 ==
詩仏は穏やかで物事に頓着しない性格で少しも驕ることがなかった。また人付き合いがよく、酒を好んだこともあり、多くの文人墨客と交流し、当時の詩壇の[[アイドル]]的な人気を獲得した。
 
== 業績・評価 ==
 
市河寛斎、柏木如亭、菊池五山と並んで'''江戸の四詩家'''と称せられ、また、画家の[[清水天民]]、儒者の[[並河天民]]、詩人の大窪天民(別号)で'''三天民'''と評される。
[[南畝|蜀山人]]は「詩は詩仏、書は[[市河米庵|米庵]]に[[狂歌]]俺、[[芸者]][[小万]]に料理[[八百]]」、「詩は詩仏、三味は芸者よ、歌は俺」などといって激賞した。
 
師の山本北山は、「詩仏は清新性霊の新詩風の中で育ち、[[服部南郭|古文辞格調派]]の毒に染まっていない」として大いに期待しエールを送っている。詩仏の詩は[[范成大]]、[[楊万里]]、[[陸游]]など[[南宋]]三大家の影響が強いといわれる。詩はいたずらに難解であるべきでなく平淡であることを貴しとし、清新であり機知に富んでいながら尚、わかりやすい詩をめざした。このように写実的な詩風を好んだため、特に'''詠物詩'''を得意とした。
 
 
== 書画 ==
[[Image:Ichigyo gyosho by Ohkubo Shibutsu.jpg|thumb|80px|七行絶句三行草書「残雪不消猶待伴」]]
[[孫過庭]]に影響され[[草書]]を能くした。また画については[[蘇軾]]に私淑し、[[墨竹図]]をもっとも得意とした。墨竹の四葉が対生する様は「詩仏の蜻蛉葉」と称され尊ばれた。多くの詩仏ファンから書画の揮毫を求められ潤筆料を稼いだ。
 
 
== 師 ==
 
*[[山本北山]]
*[[市河寛斎]]
 
 
== 門弟 ==
 
*[[江川英龍]]
 
== 交友 ==
 
*[[谷文晁]]
*[[亀田鵬斎]]
*[[大田南畝]]
*[[菊池五山]]
*[[柏木如亭]]
*[[雲室上人]]
*[[頼山陽]]
*[[中野素堂]]
*[[山本緑陰]]
*[[佐羽淡斎]]
*[[木百年]]
*[[糸井榕斎]]([[奥山君鳳]])
*[[谷文一]]
*[[喜多武清]]
*[[今川緗桃]]
*[[長町竹石]]
 
 
== 蔵書印 ==
 
*詩聖堂図書記
 
 
== その他 ==
 
*[[歴史学者]]・[[考古学者]]である[[大窪範光]]は詩仏の子孫に当たる。
 
 
== 刊行物一覧 ==
 
===詩集===
*『卜居集』(寛政5年)
110 ⟶ 81行目:
*『宋三大家絶句』(享和3年)山本緑陰と共編
*『石湖先生詩鈔』(文化元年)山本緑陰とともに校定
*『唐宋箋注[[聯珠詩格]]』(文化元年)
*『佩文韻府両韻便覧』(文化2年)山本緑陰とともに校定
*『方秋厓詩鈔』(文化2年)佐羽淡斎とともに校定
*『楊誠斎詩鈔』(文化4年)[[山田伯方]]らとともに校定、[[楊万里]]の詩集
*『詩学自在』(文化6年)
*『広三大家絶句』(文化9年)
*『清新詩題』(文政2年)
*『随園女弟子詩選』(天保元年)
 
===戯作===
*『茶寮図賛』(享和3年)
 
== 師 ==
*[[山本北山]]
*[[市河寛斎]]
 
== 参考文献門弟 ==
*[[江川英龍]]
 
== 交友 ==
*[[谷文晁]]
*[[亀田鵬斎]]
*[[大田南畝]]
*[[菊池五山]]
*[[柏木如亭]]
*[[雲室上人]]
*[[頼山陽]]
*[[中野素堂]]
*[[山本緑陰]]
*[[佐羽淡斎]]
*[[木百年]]
*[[糸井榕斎]]([[奥山君鳳]])
*[[谷文一]]
*[[喜多武清]]
*[[今川緗桃]]
*[[長町竹石]]
*[[伊能忠敬]]
 
== 子孫 ==
*[[揖斐高]]著 『市河寛斎・大窪詩仏 江戸詩人選集5』([[平成]]2年)
*子孫の一人に、[[歴史学者]]・[[考古学者]]で[[茨城中学校・高等学校]]校長(いわゆる十六番目の弁士)の[[大窪範光]]がいる。
*[[鈴木碧堂]]著『大窪詩仏』([[昭和]]12年)
*[[三村竹清]]著「大窪詩仏の思ひ出」(『書苑』([[昭和]]13年))
*[[今関天彭]]著 「大窪詩仏」上・下 (『雅友』[[昭和]]35年)
*揖斐高著 「詩仏年譜考——化政期文人の交遊考証」1-6(『国文白百合』『成蹊国文』)
*[[清水礫洲]]著『ありやなしや』
 
== 参考文献 ==
{{脚注の不足|section=1|date=2021-12}}
*[[揖斐高]]注解 『市河寛斎・大窪詩仏 江戸詩人選集5』([[岩波書店]]、1990年、再版2001年)
*[[鈴木碧堂]] 『大窪詩仏』(1937年)
*[[三村竹清]] 「大窪詩仏の思ひ出」(『書苑』(1938年))
*[[今関天彭]] 「大窪詩仏」上・下(詩誌『雅友』1960年)-『江戸詩人評伝集1』に収録(揖斐高編、[[東洋文庫 (平凡社)|平凡社東洋文庫]]、2015年) 
*揖斐高 「詩仏年譜考——化政期文人の交遊考証 1-6」、(『国文白百合』、『成蹊国文』)
*[[清水礫洲]] 『ありやなしや』 彩雲閣、明治40年(1907年)
 
== 関連項目脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
 
== 関連項目 ==
*[[化政文化]]
*[[漢詩]]
*[[文人]]
*[[文人画]]
 
{{Normdaten}}
[[Category:江戸時代の人物|おおくほしふつ]]
[[Category{{DEFAULTSORT:日本の漢詩人|おおくほ しふつ]]}}
[[Category:日本江戸時代の文人|おおくほしふつ]]
[[Category:1767年生|おおくほしふつ日本の漢詩人]]
[[Category:1837年没|おおくほしふつ18世紀日本の詩人]]
[[Category:19世紀日本の詩人]]
[[category:常陸国の人物]]
[[Category:1767年生]]
[[Category:1837年没]]