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{{Infobox baseball player
| 選手名 = 田中 久寿男
|選手写真ファイル名 画像 = Kusuo Tanaka 1955 Scan10011.jpg
|英語表記 =
|写真 画像サイズ = 250
|所属球団 =
|写真のコメント 画像説明 = 1955年撮影
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|選手写真ファイル名 = Kusuo Tanaka 1955 Scan10011.jpg
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|写真のコメント = 1955年撮影
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| 身長 = 178
|出身地 = [[佐賀県]][[佐賀市]]
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|生年月日 = [[1935年]][[4月24日]]
| 利き腕 = 右
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| 初出場 = [[1956年]]
|守備位置 = [[投手]]、[[内野手]]、[[外野手]]
|プロ入り年度 最終出場 = [[19551969年]]
| 経歴 =
|ドラフト順位 =
|初出場 = [[1956年]]
|最終出場 = [[1969年]]
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|経歴 =
* [[佐賀県立佐賀工業高等学校]]
* [[三井化学|東洋高圧大牟田]]
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* [[読売ジャイアンツ]] (1966 - 1968)
* 西鉄ライオンズ (1969)
| 経歴補足題 = 監督・コーチ歴
| 経歴補足 =
* 西鉄ライオンズ<br/ >太平洋クラブライオンズ (1970 - 1974)
* [[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]] (1976)
|選出国 =
|選出年 =
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|選出方法 =
}}
'''田中 久寿男''' (たなか くすお、[[1935年]][[4月24日]] - [[2001年]][[2月24日]]<ref name=jinmei>プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、339ページ</ref>)は、[[佐賀県]][[佐賀市]]出身の[[プロ野球選手]]([[投手]]、[[内野手]]、[[外野手]])・[[プロ野球コーチ|コーチ]]。
 
== 経歴 ==
[[佐賀県立佐賀工業高等学校|佐賀工業高校]]から[[三井化学|東洋高圧大牟田]]を経て、投手として[[1955年]]に[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]へ入団<ref name=jinmei />
 
2年目の{{by|1956年}}に4月15日の[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]戦[[ダブルヘッダー]]第2試合([[大阪球場|大阪]])にて初登板で先発投手を任されるが、打者2人に1安打1四球で1死も取れずに降板。シーズン中盤には野手に転向した<ref name=jinmei />。3年目の[[1957年]]には[[河野昭修]]と[[一塁手]]のレギュラーを争い、[[三塁手]]や[[外野手]]としても起用され、同年は50試合に先発出場。[[1958年]]の[[読売ジャイアンツ|巨人]]との[[1958年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では全7戦中5戦に先発出場するが、19打数3安打と活躍できなかった。[[1960年]]には7試合に四番打者として起用されるなど打線の中軸に定着し、自己最多の15本塁打を放つ。[[1961年]]には主に三番打者、[[右翼手]]として打率.306(ベストテン6位)・12本塁打を記録し、自身唯一の[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場も果たす<ref name=jinmei />。[[中西太]]が故障し、[[豊田泰光]]がチームを離れた後の中心打者と目され、[[1963年]]の巨人との[[1963年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では第4戦([[後楽園球場|後楽園]])で[[中村稔 (投手)|中村稔]]から本塁打を放つ。[[1964年]]には2度目の[[規定打席]](18位、打率.265)に到達、強肩でも知られ同年は14[[補殺]]を記録した。[[1965年]]には故障もあって調子を崩し、球団の経費節減策や外国人中心の打線編成もあって、同年オフにに[[船田和英]]とのトレードで読売ジャイアンツへ移籍<ref name=jinmei />
 
巨人では[[ON砲]]に続く五番打者への定着が期待されたが、{{by|1966年}}は故障がちで出場機会も少なく、打率.227、1本塁打に終わる。[[1967年]]は同年に西鉄から移籍してきた[[高倉照幸]]がシーズン中盤に故障したこともあり、[[8月]]から[[左翼手]]や右翼手に起用されて41試合に先発出場。8月6日の[[東京ヤクルトスワローズ|サンケイ]]戦([[明治神宮野球場|神宮]])で通算1000試合出場を達成し、[[石岡康三]]から本塁打を放つなど2打数2安打1打点と活躍。8月19日の[[中日ドラゴンズ|中日]]戦(後楽園)では1-1の同点で迎えた9回裏の1死2、3塁の場面、[[国松彰]]の代打に当日は登板のなかった[[金田正一]]を送るが、中日は金田を敬遠<ref>金田は打者としても強打者で、これまで7度の敬遠もあった</ref>。満塁となった場面で打席に立った田中は[[板東英二]]からサヨナラ満塁本塁打を放つ<ref>[[講談社]]刊 [[宇佐美徹也]]著「日本プロ野球大鑑」615ページ</ref>。シーズンでも打率.291と好調を維持してチームのリーグ3連覇に貢献し、9月には巨人の第33代四番打者として2試合に出場。同年の[[オリックス・バファローズ|阪急]]との[[1967年の日本シリーズ|日本シリーズ]]は第1戦のみの出場に終わった。{{by|1968年}}になると、[[高田繁]]の入団や[[末次民夫]]の台頭により出場機会が激減し、同年オフに[[柳田真宏|柳田俊郎]]との交換トレードで西鉄へ復帰<ref name=jinmei />。しかし、西鉄でも出場機会に恵まれず、{{by|1969年}}限りで現役を引退<ref name=jinmei />
 
引退後は西鉄太平洋で一軍コーチ([[1970年]] - [[1971年]])、)→二軍コーチ([[1972年]] - [[1973年]])、)→一軍打撃コーチ([[1974年]])、)→スカウト([[1975年]])、[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]で二軍コーチ([[1976年]])、)→スカウト([[1977年]] - [[1994年]])、)→チーフスカウト([[1995年]] - [[2000年]])を歴任<ref name=jinmei />し、ロッテ時代は[[西村徳文]]、[[前田幸長]]、[[大塚明]][[サブロー]]の獲得に貢献し、

退団後の[[2001年]][[2月24日]]に[[肝硬変|急性肝臓ガン]]のため死去。{{没年齢|1935|4|4|2001|2|24}}。
 
== 人物 ==
家族は、妻.高子、長男.[[田中浩二 (俳優)|浩紹(俳優の田中浩二)]]、次男.誠剛
 
== 詳細情報 ==
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== 脚注 ==
{{Reflist}}
<references />
 
== 関連項目 ==
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* [[読売ジャイアンツの選手一覧]]
* [[読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧]]
 
== 外部リンク ==
{{NPB|71073802}}
 
{{Baseball-biography-stub}}
 
{{デフォルトソート:たなか くすお}}