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{{別人|x1=アマチュアボクサーの|坪井智也}}
{{存命人物の出典明記|date=2018-05}}
{{Infobox baseball player
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| 背番号 = 77
| 画像 = 20181024_Tomochika_Tsuboi_coach_of_baystars_baystars_stadium.jpg
| 画像サイズ = 270200
| 画像説明 = [[横浜DeNAベイスターズ]]コーチ時代 (2018年10月24日)
| 国籍 = {{JPN}}
| 出身地 = [[東京都]][[江東区]]
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* [[PL学園中学校・高等学校|PL学園高等学校]]
* [[青山学院大学硬式野球部|青山学院大学]]
* [[東芝硬式野球部|東芝]]
* [[阪神タイガース]] (1998 - 2002)
* [[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ<br />北海道日本ハムファイターズ]] (2003 - 2010)
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}}
'''坪井 智哉'''(つぼい ともちか、[[1974年]][[2月19日]] - )は、[[東京都]][[江東区]]出身<ref>[http://superagent.co.jp/athlete_tsuboi.html 株式会社スーパーエージェント]</ref>の元[[プロ野球選手]]([[外野手]]、左投左打)、[[プロ野球コーチ|コーチ]]、監督、[[野球解説者]]。
 
阪神タイガース入団1年目・日本ハムファイターズ1年目で首位打者争い(阪神.327 日本ハム.330)をするほどの高打率を残したことが特徴である。
 
プロ1年目で結果を残したことから阪神の新人記録を多く保持する。
 
2014年に現役引退後、2015年から2021年まで[[横浜DeNAベイスターズ]]の一軍打撃コーチを務めた。
 
父親は元プロ野球選手の[[坪井新三郎]]。親子ともに[[PL学園中学校・高等学校|PL学園高校]]を卒業。後に社会人野球を経てプロ野球選手となった。
 
== 経歴 ==
=== プロ入り前 ===
幼少期は[[愛知県]][[名古屋市]]、[[大阪府]][[三島郡 (大阪府)|三島郡]][[島本町]]で過ごした。父は元プロ野球選手で内野手の[[坪井新三郎]]([[中日ドラゴンズ|中日]]、[[埼玉西武ライオンズ|太平洋-クラウン]])<ref>[http://hokutonomado.com/archives/2009/05/post_528.html ファイターズ坪井選手の父、新三郎選手の現役時代と当時のライオンズの話] - 北海道観光研究所 北杜の窓(2009(2009055月24日)</ref><ref>[https://ameblo.jp/tomochika-tsuboi/entry-10589956868.html 懐かしー(^-^)] 坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」2010-07-14</ref>{{R|wbb20140829}}。
 
プロ野球選手の息子という環境もあり、幼少時代から遊び道具がボールグラブカラーバットといが遊び道具だった状況でため自然野球を始めていた。父親が右投右打で、親戚にも左利きの人物がいなかったため、当初は「自分も右利きだろう」と考え勘違いしていた。ところが、右で取り組んだ野球のセンスが全くなくは皆無でありあるとき父親から「オマエの一番投げやすい方法で投げてみろ」と父親に言わ指摘さる。その際とっさに投げたのが左だったことからが左利きだったであること初めて知ることとなった<ref name="gendai20141226">{{Cite web |和書ja |url=https://gendai.media/articles/-/41558?page=2 |title=虎四ミーティング~限界への挑戦記~ 坪井智哉(プロ野球コーチ)<後編>「振り子打法、イチローとの秘話」 |publisherwebsite=現在ビジネス |date=2014-12-26 |accessdate=2021-04-06}}</ref>。
 
坪井は小学生時に[[KKコンビ]]に憧れ、自身もPL学園進学する。[[PL学園中学校・高等学校|PL学園]]では1年生の秋から[[外野手]]としてベンチ入りし、する。その後投手として活躍していするも、自身の在学中に甲子園出場はなかった。坪井の2学年上には[[野々垣武志]]、1学年上には[[入来祐作]]、1学年下には[[今岡誠]]、2学年下には[[松井稼頭央]]が在籍していたが、自身は在学中に甲子園に出場することはできなかった
 
高校卒業後は[[青山学院大学]]に進学する(2学年上に[[小久保裕紀]]、同級生に[[川越英隆]]、1学年下に[[井口資仁]]、[[澤崎俊和]]、2学年下に[[高須洋介]]などが所属していた)。1993年に[[小久保裕紀]]らを擁して春季1部リーグを制し、[[全日本大学野球選手権大会]]優勝、大学野球日本一を勝ち取っている果たした。東都大学リーグ通算86試合出場、286打数70安打、打率.245、7本塁打、47打点を記録。大学時代に切り替えた[[振り子打法]]切り替え、手応えを感じ、1995年秋季リーグにてチームメイトの高須洋介に次ぐ打率.409(リーグ2位)を記録し、ベストナインに選出された。この秋は[[第26回明治神宮野球大会|明治神宮大会]]で準優勝
 
しかし、この年のドラフトで指名されず{{Efn2|当初は某球団スカウトら下位指名での話はあったが、担当スカウトの態度に頭にきて指名を断っと後に本人が語っている<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=5PWsrDEUIv4 打撃は最強…でもすぐにブチギレる天才!? 松井秀喜さんも認た完璧打者!?新人最高打率・坪井智哉さんが語る嫉妬するほどスゴかった3人の打者【首位打者2回の内角打ちの天才!?】【②/4】 上原浩治の雑談魂]</ref>}}、大学卒業後は社会人野球の強豪である[[東芝硬式野球部|東芝]]就職(東芝での背番号は24)。おもに1番打者として活躍し、第51回[[JABA東京スポニチ大会|東京スポニチ大会]]にて打率.476を記録し、新人賞を獲得。[[都市対抗野球大会|都市対抗野球]]では2年連続ベスト8。[[第23回社会人野球日本選手権大会]]は、チーム準決勝で敗退する坪井は14打数9安打、打率.634を記録して首位打者賞ならびに大会優秀選手賞(外野手部門)に選出された。この1996(1996年)の暮れに社会人ベストナインも獲得している。翌1997年の[[第24回社会人野球日本選手権大会]]では準決勝で三菱重工神戸に敗れるが、2年連続で大会優秀選手賞(外野手部門)に選出される。同年、第19回[[1997年アジア野球選手権大会に出場する]]で日本代表に選ばれた([[上原浩治]]・[[建山義紀]]・[[福留孝介]]・[[二岡智宏]]らも選出)。
 
[[1997年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1997年度プロ野球ドラフト会議]]にて[[阪神タイガース]]から4位指名を受ける。契約金8000万円、年俸1200万円で契約合意し、入団
 
=== 阪神時代 ===
{{by|1998年}}(1年目)[[吉田義男]][[プロ野球監督|監督]]の[[吉田義男]]の下、1月28日の一・二軍振り分けで新人選手の中で唯一となる一軍に振り分けられる参加となった{{Efn2|当時の阪神の春季キャンプでは、1年目の選手は二軍に割り振られるのが通例だった。}}。キャンプ・オープン戦で結果を残し開幕一軍を勝ち取った。
 
開幕の外野陣はレフト・[[アロンゾ・パウエル|パウエル]]、センター(レフト)・[[新庄剛志]]、ライト(センター)・[[桧山進次郎]](ライト)であり、4月前半は代打、守備固めの起用に留まった。その後、パウエルと[[平塚克洋]]故障したためにより<ref name="hamarepo20150515">{{Cite web |和書ja |url=https://hamarepo.com/story.php?story_id=4119 |title=横浜DeNAベイスターズ打撃コーチの坪井智哉(つぼい・ともちか)コーチを徹底解剖! |publisherwebsite=はまれぽ.com |date=2015-05-15 |accessdate=2021-04-06}}</ref>、4月19日に1番ライトでプロ入り初スタメン入りを果たす。パウエル復帰後の5月前半はスタメンから外れるが、桧山の不振を受け5月20日からスタメン復帰し、定着後はセンターやレフトで出場するようになる。7月4日の広島東洋カープ戦([[広島市民球場 (初代)|広島市民]])にて、1回表に[[紀藤真琴]]から左中間へプロ初本塁打となる初回先頭打者ランニング本塁打を放つ。プロ初本塁打がランニング本塁打は2リーグ制以後、[[武上四郎]]・[[緒方耕一]]に次いで史上3人目だが、初回先頭打者ランニング本塁打は史上5人目の記録でとなり、'''新人では史上初の快挙であった。'''7月19日以降は1番・ライトに完全定着する。8月27日規定打席到達し、打率.318でリーグ3位となり、9月になると更に打率を上げた。横浜の[[鈴木尚典]]、広島の[[前田智徳]]、坪井の3人が[[打率]].330近くを記録する熾烈な[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]争いとなっを繰り広げた(最終的に首位打者は打率.337を記録した鈴木が首位打者となった、坪井は打率.327で[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]3位の打率を記録)<ref>{{Cite web |和書ja |url=https://npb.jp/bis/yearly/centralleague_1998.html |title=年度別成績 1998年 セントラル・リーグ |publisherwebsite=NPB.jp 日本野球機構 |date= |accessdate=2018-07-31}}</ref>。この年に記録した135安打は、1948年[[後藤次男]]記録した129(129安打を更新する球団史上新人最多安打記録となった{{Efn2|後に2016年に[[髙山俊]]が9月30日の巨人戦でシーズン136安打を記録し、更新<ref>[{{Cite web ja |url=https://www.daily.co.jp/tigers/2016/09/30/0009540973.shtml?sj_PageID= |title=高山、球団新人安打記録達成 136安打で坪井抜き/タイガース] |website=デイリースポーツオンライン、 |date=2016年10月25日閲覧。-09-30 |accessdate=2024-04-30}}</ref>した。さらに2019年に[[近本光司]]が9月5日の対DeNA戦(横浜)でシーズン137本目の安打を打ち球団の新人安打記録を更新した<ref>[{{Cite web ja |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/201909050000819.html |title=阪神近本が球団新人最多137安打 16年高山超え] |website=日刊スポーツ |date=2019年9月5日-09-05 |accessdate=2024-04-30}}</ref>した。}}。なお、このは10試合連続安打記録しているが、阪神の新人選手における10試合以上安打を記録したのは球団史上初であった{{Efn2|後に2001年に[[赤星憲広]]が12試合連続安打、2016年に髙山俊が10試合連続安打、2019年に[[近本光司]]が12試合連続安打を記録した<ref>[{{Cite web ja |url=https://www.daily.co.jp/newsflash/tigers/2016/04/14/0008989358.shtml 阪神・|title=ドラ1高山が10試合連続安打 今永とのドラ1対決で遊撃内野安打] |website=デイリースポーツ |date=2016年4月-04-14 |accessdate=2024-04-30}}</ref>。}}。また球団新人最多(当時)となる11度の猛打賞を記録している<ref>[{{Cite web ja |url=https://www.daily.co.jp/newsflash/tigers/2016/04/22/0009014805.shtml?pg=2 |title=高山が三回で早くも猛打賞 今季3度目] |website=デイリースポーツ |date=2016年4月-04-22 |accessdate=2024-04-30}}</ref>{{Efn2|後に2016年に[[髙山俊]]がシーズン13度の猛打賞を記録し、球団記録を更新した。}}。シーズン打率.327は1950年以降に始まったセ・パ両リーグの2リーグ分立後の新人最高打率(セ・リーグ歴代1位)である{{Efn2|1リーグ時代を含めると、新人最高打率は1946年に.341を記録した[[福岡ソフトバンクホークス|グレートリング]]の[[田川豊]]だが、打率はリーグ2位だったため新人で首位打者を獲得した選手は現在もいない。}}。くわえて、両リーグ規定打席到達者71人いたがのうち、坪井だけがのみ併殺打0であった。'''規定打席に到達した新人選手の併殺打0はNPB史上初である。'''この1998年は坪井以外新人選手活躍が著た新人豊作年で、[[川上憲伸]]、[[高橋由伸]]、[[小林幹英]]が活躍し、らによる新人王争いが激化したシーズンだった。[[最優秀新人 (日本プロ野球)|最優秀新人]]は川上憲伸が受賞したが、坪井ら3は新人王に値する活躍をしたと認められ、高橋、小林とともに連盟の特別表彰を受けた。
 
{{by|1999年}}、新たに監督に就任した[[野村克也]]の下、巨人との開幕戦で1番センターのスタメンを勝ち取るが、開幕から数試合連続(1818打席連続ノーヒット)ヒットが出ず、開幕から不振に苦しんだ陥る。5月以降になると6度のは1試合4安打を6度記録するなどヒットを量産し、徐々に調子を取り戻していった。最終的に新人から2年連続3割打者となる打率.304を記録(新人から2年連続打率3割達成は史上4人目の記録。他の達成者ほかは長嶋茂雄、[[横田真之]]、高橋由伸がいる)。得点圏打率.343と1番打者として打線を牽引し、自己最多となる161安打を記録し放った。守備でも活躍が光りセ・リーグトップとなる11補殺を記録しているマーク
 
{{by|2000年}}、前半戦は好調を維持し打率3割を記録し、監督推薦枠での[[2000年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスター]]初出場を果たした。オールスター戦では[[石井貴]]から本塁打を放ち優秀選手に選ばれている。シーズンでは新人から3年連続となる打率3割達成を期待されていたが、厳しい内角攻めで[[死球]]に繋がったり左肘故障したこともありなど、オールスター以降に調子を落とす。結局、シーズン打率は.272となり新人から3年連続打率3割達成至ららずかった。なお打率.272で[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]打者最多となる12死球を記録している。仮にこの3のシーズンに連続打率3割以上を記録していた、1960年の[[長嶋茂雄]]以来の快挙であった(長嶋茂雄は新人である1958年から1961年まで4年連続3割を記録しており、その4年間で3年連続首位打者)。同年オフには痛めた左肘の手術を受けた<ref>[https://ameblo.jp/tomochika-tsuboi/entry-10898864282.html しゃーけど(--;)] 坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」2011-05-21</ref>。
 
{{by|2001年}}、開幕から新人の[[赤星憲広]]の抜擢・大活躍、[[濱中治]]の台頭や[[桧山進次郎]]復調に加。くわ、前年オフに手術した左肘の悪化・本人の極度のスランプ度重なる怪我けがにより、出場機会が激減。以降は怪我けがに悩まされるシーズンが続くようになる。スランプには打撃フォームを改造し、極端な[[打撃 (野球)#スタンスに関する用語|オープンスタンス]]や[[振り子打法]]をやめてノーマルなスタイルに変化封印するなど試行錯誤していを重ねたが結果を残せなかった。また、プロ入り初めてとなる規定打席に届か未到達とった。
 
{{by|2002年}}、外野手のレギュラー候補に名を連ね、新たに監督に就任した[[星野仙一]]から「今年は坪井の復活に期待してほしい」と復活を期待嘱望されていた。しかし、5月に内野ゴロで一塁ベースを踏んだ際に足を捻挫し、そのまま一軍登録抹消されるとなった。回復が遅いこともありから再診断した結果、剥離骨折と判明し、シーズンのほとんどを[[阪神タイガース (ファーム)|二軍]]([[ウエスタン・リーグ]])で過ごす。シーズン終了後、[[野口寿浩]]との交換[[トレード]]により[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]へ移籍した{{Efn2|同時期に発表された阪神[[山田勝彦]]・[[伊達昌司]]と日本ハム[[下柳剛]]・[[中村豊 (野球)|中村豊]]のトレードとは別件と長らく語られていたが、下柳は、2020年に[[片岡篤史]]のYouTubeチャンネルにて、本来このトレードは野口と坪井も含めた3対3で発表される予定だったが、下柳本人が年俸のダウン金額等の不満から球団と揉めたことにより発表のタイムラグが出たと語った<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=C1TRAfdcpoU 阪神タイガースは衝撃の連続!?「今のままでは勝たれへんなぁ〜」下柳剛さんが語るセ・リーグで勝てる投手になる秘訣とは!?] - 片岡篤史チャンネル</ref>。}}。球団は本人にトレード要員であることを本人に伝えていなかったためおらず、報道後に電話で「テレビで見たと思うけど…」とトレード電話で通告ている本人坪井は「(日本ハムへの)トレードの話は家にいるときにたまたまテレビで流れててビックリびっくりした」と日本ハム移籍後に語っている。
当時の人気選手だった坪井のトレードに球団首脳は渋い表情だったが星野監督は「[[金本知憲|金本]]が入って(坪井の)出場機会が減る。坪井の野球人生にとってもいい話」、「(交換相手の)野口は、どうしても欲しかった。矢野がけがをしても困らないためにな。彼が入ったことで、矢野も『負けるわけにはいかない』と刺激になるだろう」と坪井と野口のトレードを成立させた<ref>[https://www.sanspo.com/article/20200429-PQOSCH5E35PBRNRY2SLUGN55PA/ 2002年オフ 星野監督、大量リストラ&大補強断行] サンスポ 2020年9月23日閲覧</ref>。
 
=== 日本ハム時代 ===
{{by|2003年}}開幕は6番ライトで開幕スタメンだっを果す。しかし、4月当初は[[森本稀哲]]、[[エンジェル・エチェバリア]]、[[島田一輝]]、[[西浦克拓]]らの併用もあり、スタメン起用は多くなかった。しかしその後、西浦の一塁手起用や、森本の打撃不振により、[[右翼手]]のレギュラーを勝ち取る。阪神時代の巧みな打撃が復調し、序盤から絶好調で前半戦終了時点でパ・リーグ2位の打率.355(251打数89安打)<ref>[https://npb.jp/allstar/2003/stats_reg_pl.html 2003年度サンヨーオールスターゲーム パシフィックリーグ 出場選手公式戦成績(前半戦終了まで)]</ref>を記録し、ファン投票外野手部門3位で通算2度目のオールスター出場を果たす。オールスター後も打撃が絶好調で8月中旬まで同僚のチームメイトである[[小笠原道大]]と激しい[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]争いを演じる。9月に入ると前年の骨折で痛めた足首痛が再発し、9月の月間打率1割台と調子を落とした最終的には、新人時代記録した打率.327327)を更新し、自己最高となる打率.330330(盗塁数も自己最高記録し、更新)で復活を果たした。阪神入団1年目の1998(1998)が打率.327、日本ハム入団1年目の2003(2003)は打率.330を記録し、'''プロ野球史上初となる両リーグ入団1年目でシーズン打率3割越えを達成(2023年現在も達成者は坪井のみ)。'''
 
{{by|2004年}}、3月27日の対[[大阪近鉄バファローズ]]戦([[大阪ドーム]])にて1番打者としてスタメン出場し、[[岩隈久志]]から中越え[[二塁打]]を放ち、日本ハム北海道移転後のチーム公式戦初安打となる。2番・[[新庄剛志|SHINJO]](新庄剛志)が送りバントで進め、3番・小笠原道大の内野ゴロでホームに還り、北海道移転後のチーム公式戦初得点も記録。6月に入るまでは3割以上の打率を記録キープていたが、[[結膜炎]]などの病気もあり、スタメンを外れると6月{{~}}7月で月間打率2割前後まで落ち込み、規定打席を割ってしまう。後半に復帰し、活躍したがするも2年連続打率3割を記録は達成できなかった。結果的に病気に泣かされたが自己最多の11[[本塁打]]を記録しているマークまた、9月20日の[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]戦([[札幌ドーム]])は、[[プロ野球再編問題 (2004年)|プロ野球再編問題]]から発展した日本初の[[プロ野球ストライキ]]明けの初戦となったこの試合前SHINJO(新庄剛志)発案によ「一昨日、昨日と試合できなくてゴメンJoy」と称したパフォーマンスに参加し、5名。チームメイト同僚外野手5名が『[[秘密戦隊ゴレンジャー]]』のかぶりもの([[仮面]]を被り、シートノックを受けた(アカレンジャー:森本稀哲、アオレンジャー:島田一輝、キレンジャー:新庄剛志、モモレンジャー:[[石本努]]、ミドレンジャー:坪井)<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/special/skyperfect2014/skyperfect2014_09.html 勝敗を分けた延長戦 日本ハム - 劇的サヨナラが一転、球界史上初の珍事] 日刊スポーツ、2016年9月20日閲覧。 ※記事の本文の方では述べられているように、当試合は9回で終了している。</ref>。
 
{{by|2005年}}、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]から[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA宣言]]し、海外移籍を目指していた[[稲葉篤紀]]が海外移籍を断念し日本ハムへ移籍入団。外野手争いが熾烈った。相手チームの先発が左投手の時は際にスタメンを外れることが多くようにったが、対左投手の成績は58打数18安打、打率.310を記録している。交流戦で調子を落としたもののすが、7月{{~}}9月に復調する。特に9月は41打数18安打で打率.439を記録。[[規定打席]]には届か未到達かったチーム唯一の打率3割を記録するした(本塁打は自己最高の11本)また、守備では、パ・リーグ2位となる11補殺を記録するなど攻守での活躍光った。株式会社スーパーエージェントと[[マネジメント]]契約。
 
{{by|2006年}}、[[オープン戦]]で故障。この年加え、[[坐骨神経痛]]を発症。4{{~}}5月は1打席も立てず苦しいシーズンを迎えることになる。シーズンを通してほとんど打席に立てプレーできない日が続き、4{{~}}5月は1打席も立てない状況になっていた。そして8月6日の対[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]戦の守備でにて、左中間に飛んだ打球をダイビングキャッチで捕球しようとしたを試みる、捕れずそのまま地面に叩きつけられてしまう。この時にとき右肩を負傷(のち骨折と判明)し、一軍登録を抹消された。シーズン終了後に球団からトレード要員通告を受けとなるが、高年俸(当時の推定年俸9000万)や故障けががちなどの理由でトレードがまとまらず、球団から最終的に[[戦力外通告]]を受けた。現役続行を希望し、[[12球団合同トライアウト]]を2度受験したが契約に至らなかった。その後、アメリカ行きを決意しチーム調査していをするなか、12月27日、大幅減俸(推定9000万円から2000万円大幅減俸の上、末に日本ハムと異例となる再契約を結んだ<ref name="sponichi20071227">{{Cite web |和書ja |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_december/KFullNormal20071211152.html |title=【12月27日】2006年(平18) 坪井智哉、日本ハム解雇から一転再契約 |workwebsite=スポーツニッポン |date=2007-12-27 |accessdate=2013-909-21}}</ref>(再入団の背景には同年のドラフトで指名した[[長野久義]]外野手の入団拒否も遠因にある)
 
{{by|2007年}}開幕戦を7番レフトで開幕スタメン出場しを果。前半戦は好調で打率3割以上と好調記録維持り、主に[[左翼手]]としてスタメン出場したで活躍。交流戦以降は[[工藤隆人]]の台頭もあり、終盤スタメン出場は減ったが少するも、[[代打]]成績は17打数7安打、打率.421と代打でも結果を残した。最終的に100試合に出場し、選手生命の危機から復活を果たす。規定打席に満た未到達いもののがら打率.283を記録。と、大事な場面での勝負強さを発揮し、このた。同年はプロ入り初のサヨナラ安打を記録している{{R|sponichi20071227}}。
 
{{by|2008年}}、悩まされていた坐骨神経痛の影響により年間通してほとんど打席に立てない状況が続き、く。26試合の出場に終わるが、[[2008年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]第1ステージの2戦目にて稲葉篤紀の代わりにスタメン起用され、1試合4安打の大活躍する放つなど存在感を見せた。
 
{{by|2009年}}、スタメン起用減少したが、開幕から左の代打の切り札として地位を確立し、スタメン起用は減ったがパ・リーグ最多となる55回の代打起用、49打数15安打8打点で代打打率.306を記録する
 
{{by|2010年}}外野陣が稲葉・糸井・森本・[[陽岱鋼]]などらによって外野起用選手がほぼ固定されてしまい、出場機会を求めて[[一塁手]]としての練習していた取り組んだ。なお一塁手挑戦、同ポジション関しついては、「大学時代に1イニング守ったぐらいしか経験がない」と語ってい。試合では稲葉が一塁へ[[コンバート (野球)|コンバート]]されたこともあり、一軍で一塁手としての起用はなかったが、練習では本職である外野と併用並行練習を続けていた。
序盤は代打として活躍し打率3割をキープし、3月22日の[[福岡ソフトバンクホークス]]戦では[[二岡智宏]]の代打として場し、[[久米勇紀]]から右翼線へ2点適時二塁打を放つ。この試合にて、史上434人目となるプロ入り通算1000試合出場を果たした。しかしその後、[[肉離れ]]や[[坐骨神経痛]]の再発などで出場試合数機会が激減。中盤に一軍登録を抹消される。二軍では打率.341と高打率結果を残すもなかなか一軍に呼ばれなかった。二軍では数試合ながら一塁手としてスタメン出場している。終盤に再び一軍へ昇格するも、昇格と同時にそのタイミングで翌年構想かられていであ球団から通告されていた<ref>[http://www5.nikkansports.com/baseball/hamban/02takayama/20101018_99397.html 坪井智哉、2度目の旅立ち] 日刊スポーツ「ハム番日記」2010年10月18日</ref>。翌年日本ハムのユニフォームを着てプレーできない知りながら試合に出場していたことになるが、昇格してから後はヒットを1本もヒットが打てていかった
 
同年10月2日球団は2度目の戦力外通告を行う同時に併せて二軍打撃コーチ就任を要請。しかたが、残り26本に迫った通算1000本安打達成を目指と、[[坐骨神経痛]]や[[肉離れ]]などの今、これまで苦しんできた怪我けがが治ったからにはまだことで現役続行やれるという本人の強い気持ちもありから<ref>[https://ameblo.jp/tomochika-tsuboi/entry-10665021220.html 残念ながら残念ながら(+_+)] 坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」2010-10-02</ref>、球団は本人が坪井の意を尊重し、するかたちで退団が決まった<ref>[http://www.fighters.co.jp/news/detail/1624.html 北海道日本ハムファイターズ公式サイト ニュース 坪井選手退団のお知らせ]</ref>。さらに退団が決定ただた時に球団、「今回2006年の時みたいに今回はときのような再契約しない」と球団から通告されてい。また退団会見では、親交のある[[イチロー]]「(現役続行は)アホな選択だったかな?」とメールしたこと明かし、イチローから怪我けがが治って自分の力を試したいと思うのは当然」という返信がきたのも現役続行への後押しになったも話し語っる<ref>[http://www.daily.co.jp/baseball/2010/10/05/0003508488.shtml 日本ハム退団の坪井にイチローからの激励]</ref>。
 
=== オリックス時代 ===
[[File:OB-Tomochika-Tsuboi20110615.jpg|thumb|オリックス時代<br />(2011年6月25日 神戸総合運動公園サブ球場にて)]]
{{by|2011年}}1月17日かねてから獲得報道あった[[オリックス・バファローズ]]が獲得入団を発表した。1年契約で、背番号は'''00'''に決定<ref>{{Cite newsweb ja |和書url=https://www.asahi.com/sports/baseball/npb/news/OSK201101170130.html |title=日ハム戦力外の坪井、オリックスが獲得 背番号は00 |newspaperwebsite=朝日新聞 |date=2011-01-17 |url=http://www.asahi.com/sports/baseball/npb/news/OSK201101170130.html |accessdate=2012-02-19}}</ref>。坪井獲得に[[岡田彰布]]監督は「(二軍監督時代に)阪神で一緒に戦った選手やし、数字以外の目に見えない力もプラスになる」と、若手選手の模範してもなる期待しているも込めた獲得だったと語っている<ref>[http://www.daily.co.jp/baseball/2011/01/18/0003745254.shtml オリ坪井獲得!岡田監督が“花道”用意]</ref>。
 
[[オリックス・バファローズ|オリックス]]の準本拠地である[[神戸総合運動公園野球場|ほっともっとフィールド神戸]]([[オリックス・バファローズ|オリックス]]の準本拠地)新入団を受におての取材にて「岡田監督の目指す野球にできるだけ貢献できるように自分のプレーをしたい」と話している<ref>[http://www.daily.co.jp/newsflash/2011/01/18/0003746300.shtml オリックス移籍の坪井がイチローと対面]</ref>。2011年開幕当初から調子が上がらず二軍生活が続いていたがくも、6月28日に一軍登録され、当る。同日の[[埼玉西武ライオンズ]]戦で代打として出場し、移籍後初打席にて初安打・初打点となる中越え適時二塁打を記録する。しかし、7月4日にチーム事情の関係から{{R|hamarepo20150515}}一軍登録抹消されて以降、一度も昇格することなくシーズン終了。一軍では3試合の出場にとどまり8打数2安打とまずまずの結果だった。しかし、その後10月9日球団から戦力外通告を受ける<ref>[http://www.buffaloes.co.jp/news/detail/1969.html 戦力外通告のお知らせ] オリックス・バファローズ公式サイト(2011(2011年10月9日)</ref>が、坪井は現役続行を希望しトレーニングをけていた。日本球団から声が掛からなかったため、2012年から米独立リーグに参戦。2014年8月14日日本球界復帰することなく現役引退を発表したため、一軍最終出場は2011年6月30日付となっている。
 
=== 独立リーグ時代 ===
{{by|2012年}}、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[アリゾナ州]]で行われている[[ウィンターリーグ]]特別招待選手として参加<ref>{{Cite newsweb ja |和書url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/02/15/kiji/K20120215002634280.html |title=オリ戦力外の坪井 ウインターリーグに特例参戦 |newspaperwebsite=スポーツニッポン |date=2012-02-15 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/02/15/kiji/K20120215002634280.html |accessdate=2012-02-19}}</ref>。[[ノース・アメリカン・リーグ]]に加盟している[[チコ・アウトローズ]]に所属し、リーグ打撃成績で打率.483(リーグ2位)の好成績を残す。公式戦終了後はアメリカでトレーニングを続け、3月7日に日本帰国。自身の公式ブログにて、アメリカの独立リーグ数球団から獲得の誘いがあったことを明かした<ref>[https://ameblo.jp/tomochika-tsuboi/entry-11184568291.html ご無沙汰で(^.^)] 坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」2012-03-06</ref>。5月中旬、ノース・アメリカン・リーグの{{仮リンク|サンラファエル・パシフィックス|en|San Rafael Pacifics}}でプレーするため渡米<ref>[https://ameblo.jp/tomochika-tsuboi/entry-11245424613.html 五月中旬に(*^o^*)] 坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」2012-05-08</ref>。パシフィックスでは、おもに2番でスタメン出場していたが、7月4日の試合中に打球をダイビングチャッチした際に左肩を捻挫し、7月7日解雇される。その後トライアウトを受け8月7日独立リーグ・[[アメリカン・アソシエーション (独立リーグ)|アメリカン・アソシエーション]]の[[ゲーリー・サウスショア・レイルキャッツ]]への入団決定したことを発表したが<ref>[https://ameblo.jp/tomochika-tsuboi/entry-11322377082.html リリースされてから(^^;;] 坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」2012年8月7日。</ref>。しかし、チーム方針転換のため10日に解雇されてしまう<ref>[https://ameblo.jp/tomochika-tsuboi/entry-11324996619.html ついさっき(^^;;] 坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」2012年8月10日。</ref>。同月中にノース・アメリカン・リーグの[[リオグランデバレー・ホワイトウィングス]]に所属し、8月14日の試合から出場<ref>{{Cite newsweb |和書 |title=WhiteWings Win |newspaper=OurSports Central |date=2012-08-14ja |url=https://www.oursportscentral.com/services/releases/whitewings-win/n-4470224 |title=WhiteWings Win |website=OurSports Central |date=2012-08-14 |accessdate=2019-10-30 |language=英語en}}</ref>。その後、2012年シーズン終了後は所属先未定となっていたが、2013年もアメリカにて現役続行するためにべくリハビリを続けると公式ブログで表明する<ref>[https://ameblo.jp/tomochika-tsuboi/entry-11425711995.html 毎年恒例の(*^◯^*)] 坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」2012-12-12</ref>。
 
{{by|2013年}}6月から[[ユナイテッドリーグ・ベースボール]]の[[エディンバーグ・ロードランナーズ]]でプレーすることが決まる<ref>[https://ameblo.jp/tomochika-tsuboi/entry-11542992030.html やっと( ›◡ु‹ )] 坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」2013-06-01</ref>。だが同月27日、[[ハムストリング]]を痛め解雇された<ref>[https://ameblo.jp/tomochika-tsuboi/entry-11562128865.html なんかさぁ(~_~;)] 坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」2013-06-27</ref>。
 
{{by|2014年}}、[[アトランティックリーグ]]の[[ランカスター・バーンストーマーズ]]でプレーすることで大筋合意した<ref>[{{Cite web ja |url=https://www.daily.co.jp/newsflash/baseball/2014/05/06/0006936790.shtml |title=坪井、独立リーグのチームと契約合意] |website=デイリースポーツ |date=2014-05-06 |accessdate=2024-04-30}}</ref>。この当該リーグは米国・独立リーグの中でもっともメジャーに近く、[[渡辺俊介]](元[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]])や[[渡辺俊梶本勇介]]や前(元[[オリックス・バファローズ|オリックス]]の[[梶本勇介]]も同リーグに所属していた。開幕から1、2番打者としてスタメン出場し結果も残してい。しかし、ある試合で一塁出塁した際偽装スタートを何度か切っ試みところ「打者が集中できないから走る格好などするな」と怒りを買い、出場選手登録を抹消された。またランカスターは球団が選手に対し、地元の人のホームステイする形で住居を供給用意していたが、坪井には当初からホームステイ先が与えられなかった。そのためホームステイ先住居まるまでのあいだ自費でホテル暮らしをしたり、同情したチームメイトのホームステイ先転がり込むもののんでいたことが監督にバレて見つかり家を追い出されるといった苦労を経験した。
 
そして同年8月14日現役引退を発表。引退理由ついては際し「他のチームでプレーすることも考えたが、このリーグが独立リーグの中で一番レベルが高く、ここよりレベルを落としたチームでプレーしても上(メジャー)へ上がれる可能性はない。その可能性がなくなって(試合にも)使われないなら、もう野球をやる意味がない。ここまで甘えさせてもらった家族の生活もある。(辞めることに)後悔はない。」と語っている。翌日に、自身のブログでもにて現役引退についての伴う記事を投稿した<ref>[https://ameblo.jp/tomochika-tsuboi/entry-11800522507.html 今から12年前の] 坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」2014-08-15</ref>。坪井が現役引退を発表した時ついて[[和田豊]]監督は「野武士のような感じで、(元広島)前田みたいなタイプだった。とことん突き詰めていってね。最初はイチローと比較されるのを嫌がっていたけどね」と振り返った坪井の1年遅れ(1999年)プロ入りした[[福原忍]]投手は「ニュースで知りました。僕もお世話になったので寂しいですね。やりきったんだとは思いますけれど」など古巣である阪神の同僚関係者らが新聞コメントを発表<ref>[{{Cite web ja |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20140815-1351391.html |title=和田監督「野武士のよう」坪井引退惜しむ] |website=日刊スポーツ( |date=2014年8月-08-15日) |accessdate=2024-04-30}}</ref>。そのほか、現役時代の元同僚や後輩から労いのメールを貰いが届き、[[栗山英樹]]や[[谷繁元信]]、[[中畑清]]らからお疲れ様』『」「辛かっただろ暖か言葉をかけてもらっている。現役時代まったく接点のなかったこと。巨人の[[原辰徳]]監督からは現役時代は話したこともなかったのに坪井くん!キミは本当に野球が好きなんだね!そういう人材は野球界の宝だ、君の経験を還元していかなければいけないよ言っても声を掛けっても話し語っている<ref>[http{{Cite web ja |url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2014/12/05/post_482/ |title=坪井智哉「帰国後、友人が教えてくれた阪神ファンの優しさ」] Web|website=web Sportiva (|date=2014.-12.-05) |accessdate=2024-04-30}}</ref>。
 
=== 引退後 ===
引退発表後は、公式戦のテレビ中継にゲスト解説として出演するなど、古巣である阪神タイガースや北海道日本ハムファイターズの試合公式戦を中心に[[野球解説者]]として活動していた。2014年9月11日には古巣阪神の本拠地である[[甲子園球場]]のマウンドで始球式を行っ務めた<ref>[{{Cite web ja |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20140911-1365128.html |title=坪井智哉氏タテジマユニで甲子園始球式] |website=日刊スポーツ( |date=2014年9月-09-11日) |accessdate=2024-04-30}}</ref>。
 
2014年10月31日、自身の公式ブログおよびX(旧ツイッター)にて、{{by|2015年}}より[[横浜DeNAベイスターズ]]の一軍打撃コーチ補佐に就任することを発表した<ref>[https://ameblo.jp/tomochika-tsuboi/entry-11922559059.html 私事でございますが、、、] 坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」2014-10-31</ref>。背番号は日本ハム時代に着けていた7にちなんで<ref name="nikkan220218nikkansports20220218">{{Cite newsweb ja |和書url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202202170001003.html |title=坪井智哉氏が独立リーグ石狩レッドフェニックス初代監督就任 新庄ビッグボスと共闘も!? |newspaperwebsite=日刊スポーツ |date=2022-02-18 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202202170001003.html |accessdate=2022-03-03}}</ref>'''77'''が用意された<ref>[http://www.baystars.co.jp/news/2014/10/1031_04.php 2015年度 横浜DeNAベイスターズコーチングスタッフ決定] 横浜DeNAベイスターズ 公式サイト</ref>。監督が[[アレックス・ラミレス]]に変わ監督となった2016年も引きき、して打撃コーチを務め<ref>[http://www.baystars.co.jp/team/player/2016/detail/77.php 横浜DeNAベイスターズコーチ名鑑 坪井智哉] 横浜ベイスターズ公式サイト</ref>。監督のラミレスは坪井のコーチとしての手腕を「特に左打者には準備をしっかりさせてくれている」と評価している<ref>{{Cite web |和書ja |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1646314.html |title=DeNA倉本2年目初サヨナラ打、狙い通り初球 |publisherwebsite=日刊スポーツ |date=2016-05-13 |accessdate=2021-10-31}}</ref>。のちに「補佐」ではなく一軍打撃コーチとして選手を指導。2021年10月29日、自身の公式インスタグラムを更新し、にて同年限りでの退任を発表した<ref>{{Cite web |和書ja |url=https://www.daily.co.jp/baseball/2021/10/29/0014801674.shtml |title=DeNA 坪井コーチが退任表明「ハム入りは誤報ですので」 |publisherwebsite=デイリースポーツ |date=2021-10-29 |accessdate=2021-10-31}}</ref>。
 
DeNA退団後は「ゆっくり外から野球を見るつもりだった」が、{{by|2022年}}より始動する[[独立リーグ]]・[[北海道フロンティアリーグ]]の[[石狩レッドフェニックス]]の老田よし枝球団代表より要請を受け{{R|nikkan220218nikkansports20220218}}、2022年2月17日、同球団の初代監督への就任したことが発表された<ref>{{Cite web |和書ja |url=https://i-red-phoenix.com/news/new-manager-tomochika-tuboi/ |title=坪井 智哉氏 球団初代監督就任のお知らせ |publisherwebsite=石狩レッドフェニックス公式ホームページ |date=2022-02-17 |accessdate=2022-02-17}}</ref>{{Efn2|石狩球団自体は2021年に発足して[[北海道ベースボールリーグ]]に所属したが、当時監督は置かれていなかった。リーグを脱退する形で他の2球団とともに北海道フロンティアリーグに移った。}}。背番号はDeNA時代と変わらず'''77'''{{R|nikkan220218nikkansports20220218}}。初年度はリーグ戦1位ながら、チャンピオンシップ(2位と対戦、アドバンテージ1勝あり)にて2位の[[士別サムライブレイズ]]に敗れリーグ優勝を逃した<ref>{{Cite newsweb |和書ja |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202209260000630.html |title=元近鉄ブライアント監督率いる士別サムライブレイズが初代王者に輝く 北海道フロンティアリーグ |newspaperwebsite=日刊スポーツ |date=2022-09-26 |accessdate=2023-10-22}}</ref>。{{by|2023年}}もリーグ戦1位を勝ち取り<ref>{{Cite tweet |author=北海道フロンティアリーグ |user=HFL_baseball |number=1699382392023368079 |title=【リーグ戦順位確定】 |date=2023-09-06 |accessdate=2023-09-09}}</ref>、リーグチャンピオンシップでは前年の雪辱を果たしてリーグ優勝を達成した<ref>{{Cite tweet |author=北海道フロンティアリーグ |user=HFL_baseball |number=1705864973774377371 |title=#鈴木商会 PRESENTS#北海道フロンティアリーグ2023 チャンピオンシップ9/24第3戦結果 |date=2023-09-24 |access-date=2023-09-24}}</ref>。チームとして初めて出場したとなる[[2023年のグランドチャンピオンシップ (独立リーグ)|グランドチャンピオンシップ]]には「北海道のリーグがレベルが低いと言われる中でも勝てるチームをつくってきた」という自負を持って臨み、んだ。初戦は[[愛媛マンダリンパイレーツ]]に1-4で惜敗したが「奮闘が光った」と評された<ref>{{Cite newsweb |和書ja |url=https://www.hb-nippon.com/2023/10/12/2477732/ |title=【独立】今年は火の国が優勝 グラチャンではドラフト候補が多く登場 |newspaperwebsite=高校野球ドットコム |date=2023-10-12 |accessdate=2023-10-22}}</ref>{{Efn2|前年出場した士別は、2試合に0-23(対[[火の国サラマンダーズ]])、1-16(対[[高知ファイティングドッグス]])という大敗を喫していた。}}。シーズン終了後の10月22日に留任が発表された<ref>[https://i-red-phoenix.com/news/recontracted-manager-tsuboi-20231022/ 坪井 智哉監督2024シーズン続投決定!] - 石狩レッドフェニックス(2023年10月22日)2023年10月23日閲覧。</ref>。
 
監督業の傍ら[[STVラジオ]]の野球解説者としても活動する。
 
== 選手としての特徴 ==
左右に打ち分けるセンスを持ち<ref name="y05">{{Cite book |和書 |author=ja |year=2005 |title=野球小僧 世界野球選手名鑑2005 |publisher=白夜書房 |pages=40 |id=ISBN 4-86191-015-3}}</ref>、バットコントロールが優れている{{R|y05}}<ref>{{Cite book |和書 |author=ja |year=2006 |title=野球小僧 世界野球選手名鑑2006 |publisher=白夜書房 |pages=60 |id=ISBN 4-86191-134-6}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=ja |year=2008 |title=野球小僧 世界野球選手名鑑2008 |publisher=白夜書房 |pages=86 |id=ISBN 978-4-86191-374-7}}</ref>。
 
入団1年目の活躍もありはめざましく、長年阪神の球団新人記録を多く保持、および保持していた。
* 新人最多連続試合安打:10試合({{by|2001年}}に[[赤星憲広|赤星]]が更新)
* 新人最多猛打賞:11回({{by|2016年}}に[[髙山俊|髙山]]が更新)
* 新人最多安打:135安打(2016年に髙山が更新し、髙山の記録を{{by|2019年}}に[[近本光司|近本]]が更新)
* 新人最多マルチヒット:40回(2019年に近本が更新)
* 新人最高打率:.327(現在も坪井が保持)
阪神1年目で.327、日本ハムで.330の打率を残したが通算で規定打席に到達したシーズンは4回(1998年、1999年、2000年、2003年)。
 
=== 振り子打法に変更 ===
青山学院時代にバッティングフォームを阪神入団時のような[[振り子打法]]に切り替えた。当時の監督である[[河原井正雄]]は、「坪井はインコースの球に差し込まれるケースが多かった。本人は否定していたが、それを克服しようと試行錯誤し、たどり着いたのが少し体を開いた状態で打つようになったフォーム(振り子打法)だった」と語っている。
 
坪井が振り子打法に切り替えたのは大学3年時で、当時は[[佐々木誠 (野球)|佐々木誠]]のように足を大きく上げ、タイミングを取るスタイルだったが、変化球に弱く三振が多いことに悩んでいた。打撃で悩んでいた同時期に[[イチロー]]が[[振り子打法]]で大ブレイクするのを見て、「変化球に対応するには、あの打法がええんちゃうの?」と振り子打法を真似したのが始まりだった。しかし「ただ単にイチローの振り子打法を真似しても試合で打てないから、自分なりにアレンジし、少しずつ試合で打てるようになった」と現役引退後に述べている<ref>[{{Cite web ja |url=https://web.archive.org/web/20141011004246/http://thepage.jp/detail/20141008-00000001-wordleafs?page=2 |title=イチローの振り子打法の元祖論争に決着!] |website=THE PAGE( |date=2014.-10.-08) |accessdate=2014-10-11}}</ref>。
 
== 人物 ==
東芝時代、練習では金属バットを使わずではなく木製バットを使っていた。当時の社会人野球は高校野球と同様、公式試合では金属バットを使ていた(現在は木製バットが使われている)。坪井は「プロを目指していたので、僕は木製バットで練習をやっていました。東芝の監督やコーチにも金属バットで練習しろといわれたけど、生意気いわせてもらって木で練習していました。金属バットは軽いし飛ぶし、バットを振り回してしまうんですよね」と語っている{{R|hamarepo20150515}}。
 
私生活では食生活などにも事を徹底管理していた。「大好きなものが体にすごく悪かったり、大嫌いなものが体にめちゃめちゃ良かったり。栄養士の先生に教えてもらいながら嫌々、食べたこともあります。妻と“三人四脚”でやってきて、今の自分があると思っているので、そのことに関しては胸を張りたい」 と話している<ref name="wbb20140829">[http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=054-20140908-01 引退の坪井智哉「野球界に恩返しができるような仕事を」] 週刊ベースボール 2014年8月29日</ref>。
 
幼少時代からドラフト会議でプロに指名されて喜んでいる選手をテレビで観て、「これからが大変なのに、あんなに喜んでいる場合じゃないぞ」と父親に言われて育ってきたこともありため、ドラフト指名されたときは、「あぁ、これから大変だなと思った記憶しかないんです。全然、喜ぶ気にはなれませんでした。特に社会人(東芝)からの入団だけに、即戦力として求められている。ずっと東芝にいれば一生安泰だろうけど、プロは3年やってダメならクビだろうなという気持ちにしかなれなかったですね。」と語っている{{R|gendai20141226}}。
 
坪井の長男(坪井洸之介)は父に憧れ、野球を始めた当初は右打ちだったが左打ちに変更している。そしての後、父親が叶えられなかった甲子園出場を目指し、[[創志学園高等学校]]の硬式野球部に入部したが<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2019/10/27/kiji/20191027s00001002402000c.html 父はDeNAコーチ…創志学園・坪井 悔しい途中交代 指揮官「お父ちゃんが見ていたら…」] スポーツニッポン</ref>、3年間で甲子園出場することでき果たせなかった。プロ志望届も提出せず<ref>[http://www.jhbf.or.jp/pro-aspiring/2021.html 日本高等学校野球連盟 プロ野球志望届提出者一覧]</ref>、創志学園卒業後は中央大学スポーツ推薦で合格しにより入学<ref>[https://www.draft-kaigi.jp/university/univ-draftnews/65589/ 中央大のスポーツ推薦合格者(2022)、広島新庄・秋山恭平投手、前橋育英・皆川岳飛選手など15人]</ref>。
 
阪神時代はメディアの人間を寄せ付けない空気を出していた。本人は「僕は弱い人間なので、活字になったモノを目にしてしまうと、人より落ち込み度が高いと思う。自分を守るために本音は言いませんでした」のこその空気を変えたのが阪神時代のチームメイトで、2004年に日本ハムへ移籍してきた[[新庄剛志]]だった。坪井は[[新庄劇場#かぶりもの|新庄のパフォーマンス]]に参加するようになってから殻を破れたと話す。「自分の殻に閉じこもって、ただ野球をやっているだけじゃダメだって、いつも言われていましたし、球団も“ファンサービス・ファースト”というチームカラーでしたからね」と話している{{R|wbb20140829}}。
 
大の[[コーヒー]]好きであり、党。[[札幌市]]に本社を置く財務コンサルタント事業を行う株式会社グーゲンの[[ラジオ番組]](地域FM局にて、現在は放送終了)を放送していた財務コンサルタント事業を行っている株式会社グーゲンへの番組出演をきっかけに、[[石狩市]]の徳光珈琲とグーゲンの共同計画による「§坪井珈琲§」(2種)をネットやグーゲン本社にて販売している<ref>{{Cite web |和書ja |url=http://hokkaido.nikkansports.com/baseball/professional/fighters/p-hf-tp0-20070412-183421.html |title=日本ハム坪井が監修の「珈琲」が話題に |workwebsite=日刊スポーツ新聞社 |language=日本語 |date=2007-04-12 |accessdate=2009-10-04}}</ref>。
 
{{by|2007年}}1月5日に[[TBSテレビ]]で放映された[[ドキュメンタリー]]番組『[[プロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達]]』([[TBSテレビ]])にて、日本ハム解雇されてから後、再雇用されるまでのいきさつが紹介された。同番組のラスト日本ハムとの再契約の際のにおける記者会見で意気込みを語る姿でにて「もう這い上がるしかないですから」と意気込みを語っている。
 
札幌ドームの偉い上層部のから『坪井選手の野球に取り組んでる姿が好きです。いつでも施設を使ってください』とメッセージをもらい、「野球バカでも、一生懸命やってたらこうやって助けてくれる人がいるんだなぁ〜、と当時しみじみ想い、感動したことを思い出させてくれる。」と自身のブログで語っている<ref>[https://ameblo.jp/tomochika-tsuboi/entry-12136635865.html 2006年。] 坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」2015-03-07</ref>。
 
現役引退後週刊ベースボールのインタビューにて「今まで対戦したなかでNo.1の投手は?」と聞かれた際いう質問に、「[[松坂大輔]]や[[金子千尋]]など素晴らしい投手はたくさんいたが、特に[[斉藤和巳]]は負けない投手で、彼の背中から炎が見えるようだった」「マウンド上に立っている斉藤は背後に何かが見える感じ」「彼がどのような気持ちで投げていたか分からないですけど、すごく伝わるものがありました。あんなにマウンド上で大きく、近く感じた投手はいません。」「味方が点を取らなくても、自分が点を取られない。0対0の試合展開でも、最終的に1対0で勝つ。特に沢村賞を獲得したシーズンは凄かったですね。」と語っ答えている<ref>週刊ベースボール、2014年11月17日号、P41-46</ref>。また、自身のブログでも「No.1投手は斉藤和巳」と述べている。
 
前述のとおり、2016年に髙山俊が自身の記録した新人シーズン最多安打を塗り替えたが、坪井は自身の135安打が当時の球団新人記録だとは知らず、認識していなかった。髙山がヒットを重ね、坪井の球団記録に近づいたという報道が相次いで流れたことで知ったという。また坪井は髙山について、「高山を初めて見た時『1年目から3割打てる選手』と思った。それくらいの力がある。阪神はヨソと違って重圧がすごい。その中での好成績だから胸を張っていい」とも語っている<ref>[{{Cite web ja |url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/162407 |title=高山 虎新人最多135安打…並ばれた坪井コーチも感謝] |website=スポーツWEB |date=2016年9月-09-28 |accessdate=2024-04-30}}</ref>。
 
野球では左投左打であったが、箸は右手で持つ<ref>{{Cite web |和書ja |url=https://gendai.media/articles/-/41408?page=2 |title=虎四ミーティング~限界への挑戦記~ 坪井智哉(プロ野球コーチ)<前編>「過酷な米独立リーグ生活」 |publisherwebsite=現在ビジネス |date=2014-12-12 |accessdate=2021-04-06}}</ref>。
 
=== 交友 ===
交友関係では、[[新庄剛志]]、[[入来祐作]]、[[稲葉篤紀]]、イチローとは特に仲が良懇意にして阪神時代からの仲である新庄がメジャーリーグからNPBへ復帰する新庄が、[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]に入団する決め手の1ひととして「(日本ハムには)全く知らない選手ばかりいる中で、阪神時代からの仲である坪井がいたことが大きかった」と語っている心境を明かした。坪井「新庄さんとまた野球ができることは本当に嬉しいですよ」と話し語っている。2006年の日本シリーズでは、チームが日本一った瞬間選手たちがベンチから飛び出した選手たちがマウンドの[[マイケル中村]]の周りに行きを囲み歓していた。そん、坪井だけはマウンドを通り過ぎ外野へと向かった。外野で[[森本稀哲]]と抱き合った後に一人であと、ひとり泣きながらベンチゆっくりってくる新庄のもとへ真っ先に駆け寄り新庄と抱き合った。また、新庄剛志2020年にプロ野球選手として現役復帰を目指すことを宣言た2020年には、合同トライアウトに向け試合形式で練習している際にも新庄の練習向かい参加し、新庄バッティングのアドバイスをしている<ref>{{Cite web |和書ja |url=https://thedigestweb.com/baseball/detail/id=30064 |title=「これは期待できる!」“プロ野球復帰”を目指す新庄剛志を、DeNA坪井コーチが太鼓判! |publisherwebsite=THE DIGEST |date=2020-12-05 |accessdate=2021-10-31}}</ref>。
 
阪神時代にはPL[[今岡誠]]とも親交が深かった(PL学園時代の後輩だが、プロでは先輩となる[[今岡誠]]とも仲良かった先輩)
 
[[入来祐作]]PL学園時代における同室であ者だった(当時のPL学園野球部は先輩と相部屋で過ごす決まりがあった)。坪井はプロ入り後、「(練習が厳しくて)もし、入来さんが同室じゃなかったらどうなっていたか分からない」と話し語っている。また、坪井が2006年オフに[[戦力外通告]]を受け2目の[[トライアウト]]に向けトレーニングを行う中するなかバッティング練習に打撃投手として一役買ったように坪井とのサポートするなど親交は深い。入来は高校時代からには「坪井は実の弟よりかわいい奴だよ」と知り合い話し語っていたようにPL学園らしく当から坪井の面倒かわいがっていた。
 
[[稲葉篤紀]]とは大学時代から共通の友人がいを通じて面識があを持った。稲葉当時アマチュアだった坪井プロ入り後の稲葉へ「実は(稲葉さんの)バットが欲しいんですけど……・・・」と坪井が稲葉に電話連絡したことがあった。際、電話をとった稲葉の第一声が「おう、ツボ、どうした?」だった。当時アマチュア時代応対に感銘を受けた坪井「そういう反応で電話を取ってくれるプロ野球選手がいるんだなと思ったのは今でも覚えています。人との壁がない。いい人というイメージしかないですねと稲葉エピソード人柄を現役引退後に話し語っている<ref>[http{{Cite web ja |url=https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201410020008-spnavi |title=稲葉篤紀が坪井智哉に語った引き際の哲学 こだわり続けた“全力疾走” |page=1] |website=スポーツナビ( |date=2014-10月4-04 |accessdate=2024-04-30}}</ref>。2005年、稲葉の)本ハム移籍時には「ようこそ!」と入団を歓迎した。オリックスを戦力外となった坪井は、米独立リーグへ挑戦することを稲葉へ報告し、2014年限りで現役引退を決めたときには稲葉から連絡がきたという。稲葉の現役引退発表時には、彼の膝が悪いことを知っていた坪井が、「体をいたわってゆっくり休んでください」「長い間、お疲れさまでした」とメールしている。稲葉の引退については「『たとえ膝が悪くて守備ができなくても、代打一本、もしくはDHだったらまだまだできるんじゃないか』という思いが半分、もう半分は『そういえば、全力疾走ができなくなったら辞める時だと言っていたなぁ』という思いでした。半分半分です。でもまぁ、体の痛みを我慢しながらやっていたと思うので、僕からは『お疲れさま』としか言えないですね」と語っている<ref>{{Cite web ja |url=https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201410020008-spnavi?p=2 |title=稲葉篤紀が坪井智哉に語った引き際の哲学 こだわり続けた“全力疾走” |page=2 |website=スポーツナビ |date=2014-10-04 |accessdate=2024-04-30}}</ref>。
 
また、稲葉が2005年に日本ハムへ移籍した時は「ようこそ!」と稲葉の加入を歓迎した。坪井がオリックスを戦力外になり米国独立リーグ挑戦時には稲葉に連絡し、2014年限りで現役引退すると決めたときは稲葉から連絡をもらった。逆に稲葉が現役引退を発表した時、稲葉の膝の調子がよくないことを知っていた坪井は、「体をいたわってゆっくり休んでください」「長い間、お疲れさまでした」とメールを送っている。坪井は稲葉の引退に「たとえ膝が悪くて守備ができなくても、代打一本、もしくはDHだったらまだまだできるんじゃないか」という思いが半分、もう半分は「そういえば、全力疾走ができなくなったら辞める時だと言っていたなぁ」という思いでした。半分半分です。でもまぁ、体の痛みを我慢しながらやっていたと思うので、僕からは「お疲れさま」としか言えないですね。と稲葉の現役引退を惜しんでいた<ref>[http://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201410020008-spnavi?p=2 稲葉篤紀が坪井智哉に語った引き際の哲学こだわり続けた“全力疾走” 2] スポーツナビ(2014年10月4日)</ref>。
 
=== イチローとの関係 ===
坪井がイチローの存在を知ったのは高校の時で、[[愛知工業大学名電中学校・高等学校|愛工大名電高校]]に入学した知人を通し、から「鈴木っていうすごいやつがいる」という話を聞いていたきイチローの存在を知る一方のイチローも坪井の知人を通し、から「PL学園に坪井ってやつがいるよ」という話を聞いていており、直接の接点はなかったが高校時代からそれぞれの存在は互いに認識していた。そして坪井がプロ1998年、りした1998団1に当時阪神打撃コーチを務めていた[[福本豊]]が、坪井はオープン戦に向けウォーミングアップしていた。それを見た[[福本豊]](当の阪神打撃コーチ)が、偶然近くまたまイチローが近くいて、「同じ左バッターの新人だからいろいろ教えてやってくれ」と坪井を紹介した。その後食事に行った時こうという話なり連絡先を交換したことで交流が始まる<ref>[http{{Cite web ja |url=https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201607190009-spnavi |title=友人・坪井智哉が知るイチローの素顔 「続けるべき」と断言してくれた現役生活] |website=スポーツナビ |date=2016年9月16日閲覧。-07-21 |accessdate=2024-04-30}}</ref>。この時がイチローとの初対面になる。イチローは坪井の第一印象は?と聞かれたイチローは「僕と同じように足上げて打ってて、『俺(坪井)の方が先だ』っていう話が出回って、『コイツふざけんな』って」と話し語っおり、あまり良るように、会う前の印象は決しイメージを持っていいものではなかった。しかし、坪井と食事をとも行き、直接していて感じたのはすることで「好奇心が大きな人」と坪井に対するいう印象変わったことを話している<ref>[https://news.livedoor.com/article/detail/9152654/ ヤンキースのイチロー、坪井智哉の引退に本音「さびしくなる」]</ref>った{{R|daily20140817}}
しての後も交が睦をまり、2001年のオフシーズンから毎年1月頃にはイチローの古巣・[[オリックス・バファローズ|オリックス]]のごろ[[神戸総合運動公園野球場|スカイマークスタジアム]](現ほっともっとフィールド神戸)にて合同自主トレを行うほどのするった。この合同自主トレ坪井が阪神から日本ハムオリックスへの移籍した後にも続けられていた。イチローは、坪井が2006[[戦力外通告]](2006・2010年[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]から、2011年オリックスから[[戦力外通告]]を受けながらも、現役にこだわってトレーニングを続けていた坪井をメールで励ましてい。2011年[[オリックス・バファローズ|オリックス]]への入団が決まり、に伴う取材対応(ほっともっとフィールド神戸で新入団を受けの取材対応を予定した坪井に合わせ、イチローも自主トレをしているった。この時にときイチローは「背番号51をつけてほしかったね」と、坪井のオリックス入団を祝福。「アイツ(坪井)は野球が大好き。そういう選手が現役でプレーできる立場をつかんだわけだから、その事実がよかった」と話し語っている<ref>[{{Cite web ja |url=https://web.archive.org/web/20110119034038/http://sankei.jp.msn.com/sports/news/110118/bbl11011820210031-n1.htm |title=【プロ野球】オリックスの坪井 イチローと入団祝いの合同トレ] |website=MSN産経ニュース |date=2011-01-18 |accessdate=2011-01-19}}</ref>。
 
坪井はイチローのことを「野球生活の中で一番影響を受けた人物」と話し、引退を決断した時に家族以外で最初に報告したのはイチローで、「3.4時間ずっとしゃべってました。相談ではなく引退の報告というか、意志を伝えにいきました。野球人生の中で、一番影響を受けた人物ですし、尊敬している。イチローは独立リーグの環境の悪さとか、びっくりしていました」と引退会見で明かした{{R|wbb20140829}}<ref name="zakzak20140819">[https://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20140819/bbl1408191532007-n1.htm 引退した元阪神・坪井が吐露した米独立リーグの過酷さ 月給20万円以下、宿泊先がない日も…] zakzak(2014.08.19)</ref>。
 
坪井が現役引退することを本人から直接聞いたイチローは、「技術を突き詰めていく、自分の能力の行けるところまで、っていうのは(坪井から)常に感じていた。それはいくつになってもそう、今年もそうだった。野球が好き、と言っても、子供の、リトルリーグのそういう感覚じゃない。ストレスがないものではない」<ref>[https://www.daily.co.jp/newsflash/mlb/2014/08/17/0007242164.shtml イチロー、坪井の引退に「寂しくなる」] デイリースポーツ2014年8月17日</ref>と坪井の野球に対する姿勢に共感していたと同時に、「(坪井は)好きで野球をやっている。それ(引退)を決めるのが大変なタイプ」<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/08/16/kiji/K20140816008755730.html イチロー 同学年の坪井の引退「寂しくなる」] スポーツニッポン2014年8月16日</ref>、「けがで(十分に)やれなかったのは残念」<ref>[http://www.jiji.com/jc/zc?k=201408/2014081600145 イチロー、坪井引退に「残念」=米大リーグ] 時事通信 </ref>と坪井の現役引退を残念がっていた。
 
坪井自身も引退会見で「できるなら10年、20年、30年野球を続けたい。今でも野球は大好き」と現役引退に未練ものぞかせていた{{R|zakzak20140819}}。
 
坪井はイチローのことを「野球生活の中で一番影響を受けた人物」とた。引退を決断したときに家族以外でを除き最初に報告したのはイチローだったという。引退会見「3.4時間ずっとしゃべってました。相談ではなく引退の報告というか、意志を伝えにいきました。野球人生の中で、一番影響を受けた人物ですし、尊敬している。イチローは独立リーグの環境の悪さとか、びっくりしていました」と引退会見で明かし語った{{R|wbb20140829}}<ref name="zakzak20140819">[{{Cite web ja |url=https://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20140819/bbl1408191532007-n1.htm |title=引退した元阪神・坪井が吐露した米独立リーグの過酷さ 月給20万円以下、宿泊先がない日も…] zakzak(|website=ZAKZAK |date=2014.-08.-19) |accessdate=2024-04-30}}</ref>。
イチローが2018年5月3日、マリナーズと“スペシャルアシスタントアドバイザー<ref>{{Cite web |date=2018-05-04 |url=http://m.mlb.com/news/article/275148362/bob-melvin-reflects-on-time-managing-ichiro |title=Melvin reflects on his time managing Ichiro |publisher=Seattle Mariners |language=英語 |accessdate=2018-05-04}}</ref>”〈会長付特別補佐<ref>{{Cite press release |title=Mariners outfielder Ichiro Suzuki transitioning to new role; beginning today will work as special assistant |publisher=Seattle Mariners |date=2018-05-03 |url=https://www.mlb.com/news/mariners-outfielder-ichiro-suzuki-transitioning-to-new-role/c-275072724 |format=HTML |language=英語 |accessdate=2017-05-04}}</ref><ref>{{Cite news |和書 |title=イチロー、今季は出場せずマリナーズのフロント入り-MLB・コム |newspaper=Bloomberg |date=2018-05-04 |url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2018-05-03/P865A36TTDS201 |accessdate=2018-05-04}}</ref>〉の契約を結び、選手としては同年の残り試合は出場しないことが発表された。これにより半永久的にマリナーズに留まることとなった<ref>{{Cite web |和書 |title=マリナーズ生涯契約、日本復帰消滅/イチロー写真館 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/201805030000941.html |date=2018-05-03 |accessdate=2018-05-03 |language=ja-JP |work=日刊スポーツ}}</ref><ref>{{Cite web |和書 |title=イチローと球団の思惑合致、来季以降選手で出場可能 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/201805040000003.html |date=2018-05-04 |accessdate=2018-05-03 |language=ja-JP |work=日刊スポーツ}}</ref><ref>{{Cite news |和書 |title=イチロー マ軍と異例の生涯契約 特別アドバイザーに 今季選手出場せず来季日本開幕戦で「復帰」も |newspaper=スポーツニッポン |date=2018-05-04 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/05/03/kiji/20180504s00001007039000c.html |accessdate=2018-05-04}}</ref><ref>{{Cite news |和書 |title=イチロー事実上引退…マ軍特別アドバイザー就任、来季以降は試合出場可能 |newspaper=スポーツ報知 |date=2018-05-04 |url=https://hochi.news/articles/20180504-OHT1T50059.html?page=1 |accessdate=2018-05-04}}</ref><ref>{{Cite news |和書 |title=イチロー、電撃フロント転向!マリナーズと生涯契約へ 今季残り試合プレーせず |newspaper=産経スポーツ |date=2018-05-04 |author=産業経済新聞社 |url=http://www.sanspo.com/baseball/news/20180504/mlb18050405050002-n1.html |accessdate=2018-05-04}}</ref>。この報道に対して坪井は「僕はプレーヤーとしての彼を見ていたいので、応援するというスタンスに変わりはない」、「映像を見ていてもまだできると思う。単純にプレーしている姿を見たいし応援したい」とコメントし、2018年にイチローがマリナーズに復帰することが決定した際には祝福メールを送り、今もオフには熱い談議を交わす仲である<ref>{{Cite news |和書 |title=イチローの親友・DeNAの坪井コーチは「これからも応援」 |newspaper=サンスポ.COM |date=2018-05-04 |author=サンスポ.COM |url=https://www.sanspo.com/article/20180504-B54YHEWAZFPH5FRLJE4NUYMUNU/ |accessdate=2018-05-04}}</ref>。
 
坪井自身から現役引退することの旨本人から直接聞いたイチローは、「技術を突き詰めていく、自分の能力の行けるところまで、っていうのは(坪井から)常に感じていた。それはいくつになってもそう、今年もそうだった。野球が好き、と言っても、子供の、リトルリーグのそういう感覚じゃない。ストレスがないものではない」<ref name="daily20140817">[{{Cite web ja |url=https://www.daily.co.jp/newsflash/mlb/2014/08/17/0007242164.shtml |title=イチロー、坪井の引退に「寂しくなる」] |website=デイリースポーツ |date=2014年8月-08-17 |accessdate=2024-04-30}}</ref>と坪井の野球に対するへの姿勢に共感していたすると同時に、「(坪井は)好きで野球をやっている。それ(引退)を決めるのが大変なタイプ」<ref>[{{Cite web ja |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/08/16/kiji/K20140816008755730.html |title=イチロー  同学年の坪井の引退「寂しくなる」] |website=スポーツニッポン |date=2014年8月-08-16 |accessdate=2024-04-30}}</ref>、「けがで(十分に)やれなかったのは残念」<ref>[http://www.jiji.com/jc/zc?k=201408/2014081600145 イチロー、坪井引退に「残念」=米大リーグ] 時事通信 </ref>と語った。坪井の現役自身も「できるなら10年、20年、30年野球を続けたい。今でも野球は大好き」と引退を残念がっ会見に未練をのぞかせ{{R|zakzak20140819}}
2019年3月21日をもってイチローが現役引退すると発表した際、「僕の野球人生に凄く影響を与えてくれた人」「ただただ驚いている。50歳までできると思っていた。毎年一緒に練習をしていて、今も勉強のために自主トレを見させてもらっている。動きは変わらないし、まだできると思っている。春先が悪いのはいつものことだから心配していなかった」とオープン戦の不調は気にしていなかったが、突然の引退発表に驚いていた。
また、打撃コーチ就任後のコーチングへのアドバイスをもらっていたことも明かし、「45歳であれだけ動けるのは驚異でしかない。打席に立てばまた打ち出すんじゃないかって期待もある。でも彼が決めたことだから」とイチローの現役引退を惜しんだ<ref>{{Cite news |和書 |title=【イチロー引退】ベイ選手・コーチ「打ち続けると思っていた」 |newspaper=カナロコ 神奈川新聞 |date=2019-03-22 |author=カナロコ 神奈川新聞 |url=https://www.kanaloco.jp/sports/baseball/baystars/entry-156101.html |accessdate=2019-03-23}}</ref>。阪神タイガースに所属していた若手時代から近くでイチローの姿を見てきた坪井は、「友達であり、野球選手として付き合ってきた。いろいろなことを考えていて私生活も全て野球に捧げてきた人」とイチローの現役時代を振り返った。3月20日のマリナーズ開幕戦では東京ドームに駆けつけ「国民的ヒーローなんだとあらためて感じた。昨夜の会見も全て見たけどさすがですね」と敬意を表した<ref>{{Cite news |和書 |title=DeNA・坪井コーチ、同学年の盟友イチロー引退惜しむ「まだできると思っている」 |newspaper=スポニチアネックス |date=2019-03-22 |author=スポニチアネックス |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2019/03/22/kiji/20190322s00001173315000c.html |accessdate=2019-03-23}}</ref>。
 
2018年、イチローのマリナーズ復帰決定したときには祝福メールを送り、今もオフには熱い談議を交わす仲である<ref>{{Cite web ja |url=https://www.sanspo.com/article/20180504-B54YHEWAZFPH5FRLJE4NUYMUNU/ |title=イチローの親友・DeNAの坪井コーチは「これからも応援」 |website=サンスポ.COM |date=2018-05-04 |accessdate=2018-05-04}}</ref>。同年5月3日、イチローがマリナーズとスペシャルアシスタントアドバイザー(会長付特別補佐)」<ref>{{Cite web |date=2018-05-04ja |url=http://m.mlb.com/news/article/275148362/bob-melvin-reflects-on-time-managing-ichiro |title=Melvin reflects on his time managing Ichiro |publisherwebsite=Seattle Mariners |languagedate=英語2018-05-04 |accessdate=2018-05-04 |language=en}}</ref>”〈会長付特別補佐<ref>{{Cite press release |title=Mariners outfielder Ichiro Suzuki transitioning to new role; beginning today will work as special assistant |publisher=Seattle Mariners |date=2018-05-03 |url=https://www.mlb.com/news/mariners-outfielder-ichiro-suzuki-transitioning-to-new-role/c-275072724 |format=HTML |language=英語en |accessdate=2017-05-04}}</ref><ref>{{Cite newsweb ja |和書url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2018-05-03/P865A36TTDS201 |title=イチロー、今季は出場せずマリナーズのフロント入り-MLB・コム |newspaperwebsite=Bloomberg |date=2018-05-04 |url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2018-05-03/P865A36TTDS201 |accessdate=2018-05-04}}</ref>〉の契約を結ぶ。あわせて選手としては同2018年の残り試合は選手として出場しないこと発表された。これによりし、半永久的にマリナーズに留まることとなった<ref>{{Cite web ja |和書url=https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/201805030000941.html |title=マリナーズ生涯契約、日本復帰消滅/イチロー写真館 |urlwebsite=https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/201805030000941.html日刊スポーツ |date=2018-05-03 |accessdate=2018-05-03 |language=ja-JP |work=日刊スポーツ}}</ref><ref>{{Cite web ja |和書url=https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/201805040000003.html |title=イチローと球団の思惑合致、来季以降選手で出場可能 |urlwebsite=https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/201805040000003.html日刊スポーツ |date=2018-05-04 |accessdate=2018-05-03 |language=ja-JP |work=日刊スポーツ}}</ref><ref>{{Cite newsweb ja |和書url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/05/03/kiji/20180504s00001007039000c.html |title=イチロー マ軍と異例の生涯契約 特別アドバイザーに 今季選手出場せず来季日本開幕戦で「復帰」も |newspaperwebsite=スポーツニッポン |date=2018-05-04 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/05/03/kiji/20180504s00001007039000c.html |accessdate=2018-05-04}}</ref><ref>{{Cite newsweb ja |和書url=https://hochi.news/articles/20180504-OHT1T50059.html?page=1 |title=イチロー事実上引退…マ軍特別アドバイザー就任、来季以降は試合出場可能 |newspaperwebsite=スポーツ報知 |date=2018-05-04 |url=https://hochi.news/articles/20180504-OHT1T50059.html?page=1 |accessdate=2018-05-04}}</ref><ref>{{Cite newsweb ja |和書url=http://www.sanspo.com/baseball/news/20180504/mlb18050405050002-n1.html |title=イチロー、電撃フロント転向!マリナーズと生涯契約へ 今季残り試合プレーせず |newspaperwebsite=産経スポーツ |date=2018-05-04 |author=産業経済新聞社 |url=http://www.sanspo.com/baseball/news/20180504/mlb18050405050002-n1.html |accessdate=2018-05-04}}</ref>。この報道対しついて坪井は「僕はプレーヤーとしての彼を見ていたいので、応援するというスタンスに変わりはない」、「映像を見ていてもまだできると思う。単純にプレーしている姿を見たいし応援したい」とコメントし、2018年にイチローがマリナーズに復帰することが決定し語っ際には祝福メールを送り、今もオフには熱い談議を交わす仲である<ref>{{Cite news |和書 |title=イチローの親友・DeNAの坪井コーチは「これからも応援」 |newspaper=サンスポ.COM |date=2018-05-04 |author=サンスポ.COM |url=https://www.sanspo.com/article/20180504-B54YHEWAZFPH5FRLJE4NUYMUNU/ |accessdate=2018-05-04}}</ref>
=== 振り子打法に変更 ===
青山学院時代にバッティングフォームを阪神入団時のような[[振り子打法]]に切り替えた。当時の監督である[[河原井正雄]]は、「坪井はインコースの球に差し込まれるケースが多かった。本人は否定していたが、それを克服しようと試行錯誤し、たどり着いたのが少し体を開いた状態で打つようになったフォーム(振り子打法)だった」と語っている。
 
イチローが、2019年3月21日をもってイチローが現役引退すると発表。それを受け坪井は、「僕の野球人生に凄く影響を与えてくれた人」「ただただ驚いている。50歳までできると思っていた。毎年一緒に練習をしていて、今も勉強のために自主トレを見させてもらっている。動きは変わらないし、まだできると思っている。春先が悪いのはいつものことだから心配していなかった」とオープコメ戦の不調は気にていなかったが、突然の引退発表に驚いていた。
坪井が振り子打法に切り替えたのは大学3年時で、当時は[[佐々木誠 (野球)|佐々木誠]]のように足を大きく上げ、タイミングを取るスタイルだったが、変化球に弱く三振が多いことに悩んでいた。打撃で悩んでいた同時期に[[イチロー]]が[[振り子打法]]で大ブレイクするのを見て、「変化球に対応するには、あの打法がええんちゃうの?」と振り子打法を真似したのが始まりだった。しかし「ただ単にイチローの振り子打法を真似しても試合で打てないから、自分なりにアレンジし、少しずつ試合で打てるようになった」と現役引退後に述べている<ref>[http://thepage.jp/detail/20141008-00000001-wordleafs?page=2 イチローの振り子打法の元祖論争に決着!] THE PAGE(2014.10.08)</ref>。
また打撃コーチ就任後には、コーチングへのアドバイスをもらがあていたことも明かし、「45歳であれだけ動けるのは驚異でしかない。打席に立てばまた打ち出すんじゃないかって期待もある。でも彼が決めたことだから」とイチローの現役引退を惜しんだ<ref>{{Cite newsweb ja |和書url=https://www.kanaloco.jp/sports/baseball/baystars/entry-156101.html |title=【イチロー引退】ベイ選手・コーチ「打ち続けると思っていた」 |newspaperwebsite=カナロコ 神奈川新聞 |date=2019-03-22 |author=カナロコ 神奈川新聞 |url=https://www.kanaloco.jp/sports/baseball/baystars/entry-156101.html |accessdate=2019-03-23}}</ref>。阪神タイガースに所属していた若手時代から近くでイチローの姿を見てきた坪井は、「友達であり、野球選手として付き合ってきた。いろいろなことを考えていて私生活も全て野球に捧げてきた人」とイチローの現役時代を振り返った。同年3月20日マリナーズ開幕戦では東京ドームに駆けつけ「国民的ヒーローなんだとあらためて感じた。昨夜の会見も全て見たけどさすがですね」と敬意を表した<ref>{{Cite newsweb ja |和書url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2019/03/22/kiji/20190322s00001173315000c.html |title=DeNA・坪井コーチ、同学年の盟友イチロー引退惜しむ「まだできると思っている」 |newspaperwebsite=スポニチアネックス |date=2019-03-22 |author=スポニチアネックス |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2019/03/22/kiji/20190322s00001173315000c.html |accessdate=2019-03-23}}</ref>。
 
== 詳細情報 ==
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=== 年度別打撃成績所属リーグ内順位 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small;"
|-style="line-height:1.25em;"
!年<br /><br />度!![[年齢|年<br /><br />齢]]!!リ<br />|<br />グ!!打<br /><br />率!!安<br /><br />打!!二<br />塁<br />打!!三<br />塁<br />打!!本<br />塁<br />打!!打<br /><br />点!!盗<br /><br />塁!!出<br />塁<br />率
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* [[JA全農Go・Go賞]]:1回(最多二・三塁打賞:1998年8月)
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]優秀選手賞:1回(2000年第2戦)
* [[サンケイスポーツ|サンスポ]]MVP大賞:1回(1998年<ref>{{Cite newsweb |和書ja |url=https://www.sanspo.com/gallery/20161122-JEYGFEERFFNUPIAFIRRQJ3A66A/ |title=【ファン交歓会一問一答】原口、関西弁の女性「いいと思います」(画像6)歴代サンスポMVP大賞、新人賞の受賞者 |newspaperwebsite=SANSPO.COM |publisher=産業経済新聞社 |date=2016-11-23 |accessdate=2017-09-08}}</ref>)
 
=== 記録 ===
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* プロ初本塁打がランニング本塁打:達成日等は上記「初本塁打」の項を参照 ※2リーグ制以後3人目(過去の達成者は[[武上四郎]]・[[緒方耕一]]、後に[[水田圭介]]・[[内村賢介]]などがいる)
* 初回先頭打者ランニング本塁打:達成日等は上記「初本塁打」の項を参照 ※史上5人目(新人では史上初)
* 規定打席以上で併殺打0:1998年達成 ※史上9人目(1997年の[[武藤孝司]]以来の記録。阪神の選手としては1953年の[[金田正泰]]、1969年の[[藤田平]]に次ぎ3人目。新人で規定打席到達しなの新人併殺打0というのは史上初)
* セ・パ両リーグ1年目で規定打席に到達し打率3割以上:セで1998年に打率.327、パで2003年に打率.330を記録し達成 ※史上初
* 新人から2年連続で打率3割以上:1999年達成 ※史上4人目(過去の達成者は[[長嶋茂雄]]・[[横田真之]]・[[高橋由伸]])
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* セ・リーグ歴代新人最高打率.327:1998年達成
* 外野手最多補殺:1回(1999年:11)
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:2回(2000({{NPBオールスター|2000|2003年}}
 
=== 背番号 ===
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{{NPB|81983886}}
{{MLBstats |mlb= |espn= |br= |fangraphs= |cube=Tomochika-Tsuboi |brm=tsuboi001tom}}
* [https://sp.baseball.findfriends.jp/player/19740011/ 選手情報] - 週刊ベースボールONLINE
* {{Ameba ブログ|tomochika-tsuboi|坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」}}
* {{Facebook|TomochikaTsuboi}}
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[[Category:PL学園高等学校出身の野球選手]]
[[Category:青山学院大学硬式野球部の選手]]
[[Category:東芝硬式野球部の選手]]
[[Category:阪神タイガース及びその前身球団の選手]]
[[Category:北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の選手]]
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[[Category:石狩レッドフェニックス]]
[[Category:東京都区部出身の人物]]
[[Category:東京都出身のスポーツ選手]]
[[Category:1974年生]]
[[Category:存命人物]]