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| image =[[File:King of Na gold seal.jpg|260px]]
| image_caption =漢委奴国王印
| material = 金95.1%、銀4.5%、銅0.5%、その他(1989年蛍光X線照射による分析)
| size = 一辺の平均2.347cm347 [[センチメートル|cm]]、鈕(ちゅう、「つまみ」)を除く印台の高さ平均0.887cm8877 cm、総高2.236cm2367 cm、重さ108.729g7297 [[グラム|g]]、体積6.0625cm³06257 [[立方センチメートル|cm{{sup|3}}]]
| writing = 漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)
| created = 不明
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|width2=149|height2=145| image2 = King of Na gold seal imprint 1935.jpg
}}
 
'''漢委奴国王印'''(かんのわのなのこくおういん、{{旧字体|'''漢&#xe0101;委奴國王印'''}})は、[[日本]]で出土した[[金|純金]]製の[[王]][[印章|印]]([[金印]])である。読みは印文「漢委奴國王」の解釈に依るため、他の説もある([[#印文と解釈|印文と解釈]]を参照)。[[1931年]]([[昭和]]6年)[[12月14日]]に[[国宝保存法]]に基づく(旧)国宝、[[1954年]](昭和29年)[[3月20日]]に[[文化財保護法]]に基づく[[国宝]]に指定されている<ref>[http://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/850 金印〈印文「漢委奴國王」/〉]、[[文化庁]]国指定文化財等データベース</ref>。
 
== 来歴 ==
1931年(昭和6年)に、同金印は当時の国宝保存法に基づく国宝(文化財保護法の「[[重要文化財]]」に相当)に指定され、世に知られるようになった。金印の出土地および発見の状態は詳細不明。[[福岡藩]]主[[黒田氏|黒田家]]に伝えられたものとして[[明治維新]]後に黒田家が[[東京]]へ移った際に[[東京国立博物館]]に寄託された。
 
[[1973年]](昭和48年)に黒田家・東京国立博物館・文化庁の許可を得て、福岡市立歴史資料館が複製品を作成。材質純金24カラット。福岡市立歴史資料館・九州歴史資料館・文化庁・東京国立博物館も一顆を作成<ref>『赤煉瓦の記――福岡市立歴史資料館の歩み――』福岡市教育委員会発行 P22</ref>。翌年の[[1974年]](昭和49年)より福岡市立歴史資料館にて展示<ref>『赤煉瓦の記――福岡市立歴史資料館の歩み――』福岡市教育委員会発行 P25</ref>。
 
その後[[福岡市美術館]]の開設に際して[[1978年]](昭和53年)に[[黒田茂子]]([[黒田長礼]]元[[侯爵]]夫人)から福岡市に寄贈され(黒田資料の一つ){{Sfn|金印-文化財情報検索-福岡市}}、[[1979年]](昭和54年)から福岡市美術館、[[1990年]]([[平成]]2年)から[[福岡市博物館]]で常設展示されている<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=金印は本物? 真偽めぐる論争過熱|NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/special/sci_cul/2018/01/story/special_180131/ |website=NHK NEWS WEB |access-date=2023-09-04 |language=ja |last=日本放送協会}}</ref>。貸し出し中は複製品が展示されており、福岡市文化芸術振興財団ではこの複製品から型を取ったレプリカを博物館監修の元で販売している<ref>{{Cite web|和書|title=金印レプリカ |url=https://ffac.shop-pro.jp/?pid=142776515 |website=(公財)福岡市文化芸術振興財団オンラインショップ |access-date=2023-09-04 |language=ja}}</ref>。
 
=== 出土地 ===
[[File:Kin-in Park (Shikanoshima).JPG|thumb|[[志賀島]]の金印公園<br/>漢委奴国王印出土推定地。]]
文献上は[[筑前国]][[那珂郡 (福岡県)|那珂郡]]志賀島村叶崎(かなのさき)または叶ノ浜とされている。[[志賀島]](現・[[福岡県]][[福岡市]][[東区 (福岡市)|東区]])の島内であるが、正確な場所は明らかとなっていない。
 
[[1914年]]([[大正]]3年)、[[九州大学|九州帝国大学]]の[[中山平次郎]]が現地踏査と福岡藩主黒田家の古記録及び各種の資料から、その出土地点を志賀島東南部と推定した。その推定地点には[[1923年]](大正12年)[[3月]]、武谷水城撰による「漢委奴國王金印発光之処」記念碑が建立された。その後、[[1958年]](昭和33年)と[[1959年]](昭和34年)の2回にわたり、[[森貞次郎]]、[[乙益重隆]]、[[渡辺正気]]らによって志賀島全土の学術調査が行われ、金印出土地点は、中山の推定地点よりも北方の、叶ノ浜が適しているとの見解が提出された<ref>岡崎敬「「漢委奴国王」金印の測定」『魏志倭人伝の考古学 九州編』所収</ref><ref>「北方」とあるが、叶ノ浜は志賀島の南西の海岸。</ref>。ただし、志賀島には金印以外の当時代を比定できる出土品が一切なく、[[志賀海神社]]に祀られる[[綿津見三神]]は漢ではなく[[新羅]]との交通要衝の神であり直接の繋路はまだ見出されていない。
 
[[1973年]](昭和48年)及び[[1974年]](昭和49年)にも[[福岡市教育委員会]]と九州大学による金印出土推定地の[[発掘調査]]が行われ、現在は出土地付近は「金印公園」として整備されている<ref>{{Cite web|和書|title=金印公園 {{!}} 文化財情報検索 |url=https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/cultural_properties/detail/478 |website=福岡市の文化財 |access-date=2023-09-04 |language=ja}}</ref>。
 
=== 発見の状態について ===
通説では、[[江戸時代]]の[[天明]]年間(天明4年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]([[1784年]][[4月12日]])とする説がある)、甚兵衛という地元の[[百姓]]が[[田|水田]]の耕作中に偶然発見したとされる<ref name=":0" />。発見者は秀治・喜平という2名の百姓で、甚兵衛は2人の雇用者であり、[[那珂郡 (福岡県)|那珂]][[郡代#諸藩の郡奉行|郡奉行]]に提出した人物という説もある{{Sfn|金印-文化財情報検索-福岡市}}。一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中に存したという。すなわち金印は単に土に埋もれていたのではなく、巨石の下に隠されていたということになる。発見された金印は、郡奉行を介して[[福岡藩]]へと渡り、[[儒学者]][[亀井南冥]]は『[[後漢書]]』に記述のある金印とはこれのことであると同定し『金印弁』という鑑定書を著している。
 
発見の経緯を記した「百姓甚兵衛口上書」は複製しかなく原本は散逸しており、所蔵する福岡市博物館によれば、いつなくなったのかも不明であるという。
 
== 外形 ==
 
[[File:King_of_Na_gold_seal_knob_top.png|thumb|[[ヘビ]]の鈕(ちゅう、「つまみ」)]]
 
1931年(昭和6年)に、金印が当時の国宝保存法に基づく国宝(文化財保護法の「[[重要文化財]]」に相当)に指定されたため、[[東京国立博物館|帝室博物館]]員入田整三が金印を測定し、「総高七[[分 (数)|分]]四[[厘]]、鈕高四分二厘、印台方七分六厘、重量二八.九八六六[[匁]]」の結果を得ている<ref>入田整三「国宝漢委奴國王金印の寸法と量目」『考古学雑誌』、1933年、岡崎敬『魏志倭人伝の考古学 九州編』所収</ref>。
 
[[1953年]](昭和28年)[[5月20日]]、戦後初めて金印の測定が岡部長章(最後の岸和田藩主[[岡部長職]]の八男)によって試みられた。「質量108.77&nbsp;[[グラム|g]]、体積67&nbsp;[[立方センチメートル|cc]]{{efn|2007&nbsp;ccメートルグラスに金印を入れ、増水量を三度測った平均値。}}、[[比重]]約18.1」、[[貴金属]][[合金]]の割合を[[銀]]三分、[[銅]]七分を常とする伝統的事実からして22.4[[カラット#金の純度の単位|K]]{{efn|金と銀だけなら22.5K。}}と算定した<ref>岡部長章「奴国王金印問題評論」『鈴木俊教授還暦記念東洋史論叢』、1964年、岡崎敬『魏志倭人伝の考古学 九州編』所収</ref>。
 
[[1966年]](昭和41年)に[[経済産業省|通商産業省]]工業技術院計量研究所(現[[独立行政法人]][[産業技術総合研究所]])で精密測定された。印面一辺の平均2.3477&nbsp;[[センチメートル|cm]]、鈕(ちゅう、「つまみ」)を除く印台の高さ平均0.8877&nbsp;cm、総高2.2367&nbsp;cm、重さ108.7297&nbsp;g、体積6.0625&nbsp;[[立方センチメートル|cm{{sup|3}}]]。鈕は身体を捩りながら前進する[[ヘビ|蛇]]が頭を持ち上げて振り返る形に作られた蛇鈕である。蛇の身は、蛇特有の鱗ではなく、円筒状の工具を捺して刻んだ魚子(ななこ)文で飾られている。蛇鈕は漢の印制とは合致しないが、現在確認されている印を眺めると、[[前漢]]初めから[[晋 (王朝)|晋]]代までで26例知られ、前漢初期に集中しているものの、後漢以後でも13例知られている。駱駝鈕が、北方諸民族に与えられるのに対し、蛇鈕は南方諸民族に与えられた可能性が高い。日本は中国の東に位置し矛盾するように見えるが、この頃の中国は倭を南方の民族と誤解していたためだと考えられる<ref name=takakura>[[#高倉|高倉 (2007)]]。</ref>。辺の長さは[[後漢]]代の1[[寸]](約2.304&nbsp;cm)に相当する。[[1994年]]([[平成]]6年)の[[蛍光X線]]分析によると、金95.1%、銀4.5%、銅0.5%、その他不純物として[[水銀]]などが含まれ、出土している[[後漢]]代の他の金製品とも概ね一致している。
 
現在使用されている[[印鑑]]とは違って中央が少し窪んだ形状になっており、これは[[封泥]]用の印であると考えられる。後漢との正式な文書外交の展開で、恒常的に外交交渉を円滑に行うため、外臣と言えども漢の役人として印の使用を求められた可能性がある<ref name=takakura/>。1世紀の倭国内に木簡にしろ書簡にしろ封泥で閉じて通信する為の権力指令伝達機構や封をして読まれることをさけなければならないほどの識字率と広範な文字文化が既にあったと唱える研究者はおらず、今のところ国内での使用は考えられない。金印と同時代に中国から下賜されたとされる[[鏡]]やのちの律令国家で正当な権力であることを保証し見せる[[駅鈴]]のように、「これを持っていること(見せること)がすなわち権力の正当性の証」であった可能性もある。
 
== 印文と解釈 ==
[[File:Kin-in Park02.jpg|thumb|170px|金印公園の漢委奴国王印]]
[[File:King of Na gold seal imprint 1935.jpg|thumb|漢委奴國王印文]]
印文は陰刻印章(文字が白く出る逆さ彫り)で、3行に分けて[[篆書体|篆書]]で「'''漢〈改行〉 委奴〈改行〉 國王'''」と刻されている。印文の解釈は、文字と改行に着目して諸説ある。
 
* [[文化庁]]編『新増補改訂版 国宝事典』([[便利堂]]、1976年)「考古 金印」の項では「その訓みについてはなお定説をみない」としている。
* 『[[日本大百科全書]]』([[小学館]]、1984年)「金印」の項では「1892年(明治25)三宅米吉により「漢(かん)の委(わ)(倭)の奴(な)の国王」と読まれ、奴を古代の儺県(なのあがた)、いまの那珂郡に比定されて以来この説が有力である」としている。
* 京大日本史辞典編纂会編『新編日本史辞典』([[東京創元社]]、1990年)では「現状では金印について問題点が多く存在する。発見者については秀治なるもの、出土地については金印公園の地がよりふさわしいとされる。また委奴国の読み方にも諸説ある。(1) 伊都国説、(2) ワのナ国説が代表的なものであろう」としている。
 
この金印は出土状態([[土層 (考古学)|土層]]、関連遺物の有無など)が不明であるため、それが実際に1世紀に制作されて1世紀に志賀の島に持ってこられて1600年間志賀の島の地中から動かなかったかどうかの検証ができないものであり、あくまでも『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 [[東夷伝|東夷傳]]」の「'''倭奴國'''」「'''倭國'''」「[[光武帝|光武]]賜以'''印綬'''」の記述にある印綬であると認識することが文化財としての価値を決定しているものである。よって、いずれの説も、この『後漢書』の記述を肯定的にしろ否定的にしろ念頭においてその文字やその国のさす範囲を検討するものである。
 
* 「委奴国」は「[[倭国]]」と同じで「やまとのくに」と訓じる説 - [[亀井南冥]]<ref>{{Cite book |和書 |author=亀井南冥 |year=1784 |title=金印辨}}</ref>、[[竹田定良]]<ref>{{Cite book |和書 |author=竹田定良 |year=1784 |title=金印議}}</ref>。これは現在ではほとんど言及されない。
* 金印における「委奴」を『漢書』の「倭奴」の略字とし(委は倭の減筆)、「漢の[[倭]](委)の奴(な)の国王」と訓じる説 - [[落合直澄]]、[[三宅米吉]]<ref>三宅米吉「漢委奴国王印考」『[[史学雑誌]]』、[[1892年]]([[明治]]25年)。</ref>など。三宅は「奴」は儺津(なのつ)・[[那珂川 (九州)|那珂川]]の「ナ」で、倭の「[[奴国]]」を現在の那珂川を中心とする[[福岡地方]]に比定した。教科書などでも一般的にはこの説が通説となっている。
* 「委奴」を「いと」と読み、「漢の委奴(いと)の国王」とする説 - [[藤貞幹]]<ref>{{Cite book |和書 |author=藤貞幹 |year=1784 |title=藤貞幹考}}</ref>、[[上田秋成]]<ref>{{Cite book |和書 |author=上田秋成 |year=1785 |title=漢委奴国王金印之考}}</ref>、青柳種信<ref>{{Cite book |和書 |author=青柳種信 |year=1812 |title=後漢金印略考}}</ref>、福岡藩<ref>{{Cite book |和書 |author=福岡藩 |year=1844 |title=黒田新続家譜}}</ref>、[[久米雅雄]]<ref>久米雅雄「金印奴国説への反論」『藤澤一夫先生古稀記念古文化論叢』、藤澤一夫先生古稀記念論集刊行会、1983年、大谷光男編著『金印研究論文集成』、[[新人物往来社]]、1994年</ref>、柳田康雄など。「委奴の国」を『三国志』「魏書東夷伝倭人の条」の[[伊都国]]に比定する{{efn|三雲⇒井原鑓溝⇒平原遺跡など大量の鏡を伴う[[紀元前1世紀]]頃 - 後[[3世紀]]頃にかけての王墓が[[伊都国]]([[糸島市]]付近)に集中していること『魏志倭人伝』の記述では、「伊都国」には「世有王 皆統属女王国 郡使往来常所駐」と歴代複数の王の存在が明記されているのに対し、「奴国」には王の存在を示す記事、あるいは「かつて奴国に王あり」といった記載がなく、中国は「伊都国王」を承認の王としているとする<ref>久米雅雄「晋率善羌中郎将銀印及周辺歴史之研究」『国際印学研討会論文集』中国・西泠印社、2003年</ref>}}。
 
「漢+民族(倭)+国名(奴)+官号」と「漢+国名(委奴)+官名」という概念はずっと議論されているものである。いわゆる大日本帝国時代に広められた万世一系単一民族観とも関連し、民族と国とどちらのほうがより大きなカテゴリなのかというイデオロギー論争を含むものである{{efn|[[二松學舍大学]]名誉教授・[[大谷光男]]は、『後漢書』から皇帝が周辺の蛮夷に授けた金印紫綬の史料7例を再検討し「金印紫綬は、一国(国家)に授け、国内の一部族(国)に授けられることはなかった。したがって、金印『漢委奴国王』の読み方で、『カンのワのナのコクオウ』と訓む三宅説は退けられることになる」<ref>「金印蛇鈕『漢委奴国王』に関する管見」『東洋研究』第179号、[[大東文化大学]]東洋研究所、2011年</ref>としているが、そもそも一国と一部族(民族)の定義や概念そのものを問うている論争なので、「倭」と「奴」と「委奴」がそれぞれ一体どのような範囲の何を示すものなのかが定まらない以上、それぞれの説を退ける退けないの結論はいまだ出ていない}}。江戸時代までは国といえば日本列島全体(天の下)というより各藩の範囲を意味したことを考えると、近代以前には国より民族のほうが大きなカテゴリとしてあったとみるほうが自然であるし、その逆に、天の下(日本列島全体)には民族という概念がなかったともいえる。ただし、中国史では、王朝と民族は密接に結び付いた概念である。とは言えイデオロギー論争はそうであっても、中国の古代の印章のなかに「民族名+国名」の構造をもつ印章実例を一つも見いだしえないことは、通説「委」の「奴国」説の克服すべき難点であるとされている。
 
なお、三宅は「委奴=伊都」国説を否定するにあたって、「委は[[わ行|ワ行]]の[[ゐ]]、伊は[[あ行|ア行]]の[[い]]」であり、「両音の区別を明らかにしないならば言語はほとんど通じない」と述べている。これは、現代日本語では「委奴」と「伊都」はどちらも「いと」と発音するが、明治以前の日本語の発音では「委奴」と「伊都」は発音は同じではないので置き換えが可能であったはずがないというものである。
 
== 発音 ==
倭と奴の発音は、[[藤堂明保]]編『学研漢和大字典』([[学研ホールディングス|学習研究社]])によると
* 倭 - [[上古音]] uar [[中古音]] ua [[近古音]] uo [[普通話|現代音]] uə
* 奴 - 上古音 nag 中古音 no(ndo) 近古音 nu 現代音 nu
とされる。
 
ただしこれは、現代の[[中国語]]の[[方言]]と同様、中国の国土全体が古来単一音であったということを意味しない<ref>[[王育徳]]「中国の方言」方言史『中国文化叢書1 言語』 [[大修館書店]]、1967年</ref><ref>坂井健一『魏晋南北朝字音研究―経典釈文所引音義攷』 [[汲古書院]]、1975年</ref>ので、金印の印文の読音についても「漢語の方言論」の視点から再考すべきことが提唱されている。三宅の当時「ノ音はあってもド音はなかった」とする漢語単一論に対し、漢語方言論に基づく、地域を違えてのド音とノ音(ナ音)の同時並存説がある。久米雅雄は前漢の[[揚雄]]が著した『[[方言 (辞典)|方言]]』や『[[漢書]]』西域伝に登場する「難兜国」へ頒給された印章「新難兜騎君」印に注目し、漢代には上古北方[[漢音]]系の「ど」と上古南方[[呉音]]系の「な」「の」が並存したとする説を提唱している<ref>久米雅雄『日本印章史の研究』 [[雄山閣]]、2004年</ref><ref>久米雅雄「国宝金印『漢委奴国王』の読み方と志賀島発見の謎」『立命館大学考古学論集 IV』 [[立命館大学]]、2005年、55-68頁</ref><ref>久米雅雄「国宝金印の読み方」『月刊書道界』2009年8月号、藤樹社</ref>。
 
== 中国史との比定 ==
=== 『後漢書』の記述との対応 ===
『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 [[東夷伝|東夷傳]]」に
{{quotation|建武中元二年 '''倭奴國'''奉貢朝賀 使人自稱大夫 '''倭國'''之極南界也 光武賜以'''印綬'''<br />
:「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら[[大夫]]と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」|強調引用者}}
 
という記述があり、[[後漢]]の[[光武帝]]が[[建武中元]]2年([[57年]])に[[奴国]]からの朝賀使へ([[冊封]]のしるしとして)賜った印がこれに相当するとされる。
 
[[中国]]漢代の制度では、冊封された周辺諸国のうちで王号を持つ者(外臣)に対しては、内臣である[[諸侯王]]が授けられるよりも一段低い金の印が授けられた(詳しくは[[印綬]]の項を参照)。
 
=== 滇王之印との対応 ===
[[1955年]](昭和30年)より発掘調査が始まった[[中華人民共和国]][[雲南省]][[晋寧県]]の石寨(せきさい)山遺跡(石寨山古墓群遺跡)からは50基の[[土坑墓]]や、[[青銅器]]を主とする[[副葬品]]4000点あまりが出土した。このうち[[1956年]](昭和31年)の第2次発掘で6号墓より「[[滇王之印]]」と書かれた金印などが発掘されており、古代の国家[[滇]]王の印とされている。またこの金印出土により、この[[古墳]]群が古代滇国の国王および王族の[[墓地]](石寨山滇国王族墓)であることが判明した。滇王之印の外形は印面一辺2.4&nbsp;cmの方形、高さ2&nbsp;cm、重さ90&nbsp;g。上面の[[鈕]]は蛇鈕である。印文は陰刻「滇王之印」の四字二行。
 
その寸法の形式から明らかに漢印であり、『[[史記]]』西南夷列伝の、[[武帝 (漢)|武帝]]が[[元封 (漢)|元封]]2年([[紀元前109年]])に滇王へ王印を下賜したという記事に対応する{{sfn|西嶋|1994|p=87}}。
 
[[西嶋定生]]はこの{{lang|zh|滇}}王之印と日本の福岡で出土した漢委奴国王印が形式的に同一であることを指摘しており{{sfn|西嶋|1994|p=88}}、両印ともに蛇鈕であり、その年代は[[紀元前109年]]と[[57年]]というおよそ166年の隔たりがあるが、ともに外民族の王が漢王朝に[[冊封]]を受けたしるしであったとしている。
 
=== 廣陵王璽との対応 ===
[[1981年]](昭和56年)、中華人民共和国[[江蘇省]][[揚州市]]外の甘泉2号墳で「廣陵王璽(こうりょうおうじ)」の金印が出土した。2.3&nbsp;cmの正方形、高さ2.1&nbsp;cm、123&nbsp;g<ref>廣陵王璽 ブリタニカ国際大百科事典</ref>それは[[永平 (漢)|永平]]元年([[58年]])に光武帝の第9子で廣陵王だった[[劉荊]]に下賜されたものであり、字体が漢委奴国王印と似通っていることなどから、2つの金印は同じ工房で作られた可能性が高いとされる。西嶋定生は廣陵王璽金印は箱彫りで漢委奴国王印は薬研彫りであること、志賀島の金印の綬色は紫綬であるのに対して、廣陵王璽は「印」でなく「[[璽]]」とあることからその綬色は赤綬か綟綬(レイ:緑色)ではないかということを指摘した上で、[[蛍光X線]]分析による[[元素]]測定が待たれるとした{{sfn|西嶋|1994|p=52 - 54}}。これに対し[[高倉洋彰]]は、漢委奴国王印と廣陵王璽は共に薬研彫りとして、鈕を飾る亀の甲羅の縁に魚子文の印刻がある点が共通し、これらは2つの金印を制作した工房の一致を窺わせるとする<ref name=takakura/>。
 
=== その他 ===
1936年、現[[ベトナム]]の[[タインホア省]]Tat Ngôで「晉帰義叟王」との刻印のある金印が発見されている。西晋朝との関係が推測されている<ref>{{Cite journal|和書|author=西村昌也 |url=https://hdl.handle.net/10112/6272 |title=ベトナム形成史における"南"からの視点 考古学・古代学からみた中部ベトナム(チャンパ)と北部南域(タインホア・ゲアン地方)の役割 |journal=周縁の文化交渉学シリーズ6 『周縁と中心の概念で読み解く東アジアの「越・韓・琉」―歴史学・考古学研究からの視座―』 |publisher=関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS) |date=2012-03-01 |pages=105-141 |naid=120005686780}}</ref>。
 
== 偽造説 ==
形式・発見の経緯に不自然な点があるとして、[[中世]]・[[近世]]に偽造された[[贋作]]であるとの説が、これまで幾度も唱えられてきた。1836年に、国学者の松浦道輔(1801年-1866年)が偽造説を唱えたのが初めといわれる。
 
考古学的にいえば、出土がこれほどまでに不明確なものは本来ならば史料として扱うのは困難である。それが史料として扱われてきたのは、ひとえに『後漢書』の「印綬」がこれであるという認識のみからに他ならない。
 
また、印綬の形式が漢の礼制に合わないという意見もあった。これに対しては、漢代といっても時代が異なるが、蛇鈕を持つ滇王之印の発見をもって漢の礼制に合うとする意見もある。
 
ほか、[[三浦佑之]]は著書『金印偽造事件―「漢委奴國王」のまぼろし』において、
* 発見地点の付近では、奴国に関する遺構が一切見つかっていない
* 発見時の記録にあいまいな点が多いこと
* 江戸時代の技術なら十分贋作が作れること
* {{lang|zh|滇}}王之印に比べると稚拙
などの点を根拠に亀井南冥らによる偽造説を唱えた<ref>三浦佑之『金印偽造事件―「漢委奴國王」のまぼろし』 [[幻冬舎新書]]、2006年 ISBN 4-344-98014-X</ref>。なお、三浦は、南冥は才能ある学者であるが、策士で野心家でもあった。金印の発見は南冥が福岡藩に2つある藩校の1つの館主に就いた直後であった。南冥は競争相手の藩校を出し抜くために役人、商人と結託して金印を偽造したのではないかという。
 
それに対し、[[高倉洋彰]]は
* 漢代の一寸の実長が判明するまでには長い研究の積み重ねが有り、これが実証されたのは20世紀も後半である。江戸時代以前に知ることは困難で、官印の拓影や封泥などを測れば分かりそうに思えるが、出回っていた印譜集などを測ってもまちまちな数字になってしまう。
*もし、贋作者が漢代の官印が方一寸であるのを知るとしたら『漢旧儀』から得たとしか考えられないが、その『漢旧儀』に蛇鈕は載っていない。もし偽物を造るなら、『漢旧儀』に載った亀鈕か、駱駝鈕にするはずである。また、蛇鈕には前漢から晋代までの時代により明確に4段階に分けられるが、漢委奴國王印はその変遷と矛盾しない。江戸時代に、蛇鈕の時代的変遷を知ることは不可能である。
*「漢委奴國王」の文字も、偽作するなら『後漢書』の記述に従って「委」を「倭」にする方が自然である。更に「王朝名+民族名+部族名+官職名」とする印文の構成は、匈奴印や叟印と一致しており、これが偶然の一致とは考えられない。
などを論拠に、江戸時代及びそれ以前においては、日本国内はもとより中国であっても知識と情報量が圧倒的に不足しており、偽作は不可能としている<ref name=takakura/><ref>[http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200703030225.html 志賀島「金印」に偽造説再燃 地元の反応は複雑]、asahi.com、2007年3月3日</ref>。
 
また、[[安本美典]]は偽物に「倭」ではなく「委」を使用するのは不自然とする。また同一工房で同時期に「廣陵王璽」と「漢倭奴国王」の金印が製作されたとして
* 辺長が、後漢時代の一寸に合っている。
* 鈕にある魚子鏨(ななこたがね)の文様は、同一の[[鏨]](たがね)によって打ち出されている。
* 文字は、Ц型とV型の箱彫りに近い形で彫られ、字体もよく似ている。
という点を指摘する<ref>[http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku267.htm 第267回活動記録]、邪馬台国の会、2008年3月30日</ref>。更に安本は、上述の高倉論文を踏まえて
* 印文の「漢」の字に近い[[フォント|字体]]は、江戸時代に入手可能な『顧氏集古印藪』『甘氏印正(集古印正)』『宣和集古印譜』といった印譜集には殆ど見られない。
* 僅かに『宣和集古印譜』に2点類例があるものの、同書では「[[親魏倭王]]」{{efn|同書には「親魏倭王」の印譜が収められてるが、20世紀の出土品などと比べると「王」字が時代変遷に合致せず、真印ではなく偽作の模刻陰影だと考えられる<ref>久米雅雄 「大阪府立近つ飛鳥博物館所蔵駝鈕銀印『晋善羌中郎将』印とその史的周辺」『[[大阪府立近つ飛鳥博物館]] 館報7』2002年8月30日</ref>。}}など「委」に人編が付いている。同書を元に偽造するなら、「倭」とするのが自然である。「倭」の字は人編を取らねばならないほど複雑な字ではない。また後漢時代、「委」と「倭」は共に「わ」に近い音だったが、江戸時代には「委」は「ゐ」、「倭」は「わ」に近い音である。
* 『宣和集古印譜』には蛇鈕は一つも載っておらず、他の二著でも同様である。もし偽作するなら、同書の「[[親魏倭王]]」と同様に、銅印亀鈕にするはずである。
* 「{{lang|zh|滇}}王之印」と印台の高さ、総高、重さを比較すると、金印のほうがやや大きいものの160-70年の制作年の開きを考慮すれば、ほぼ同じ規格で作られていると見てよい。また両者の金の含有量は近く、印全体の印台の占める割合も一致しており、これを偶然とは見なし難い。
これらの論拠から、金印は摩耗が少なく使用された形跡が殆ど無いなど偽作説にやや有利な材料もあるものの、真印と考えた場合の不都合さと、偽印と考えた場合の不都合さを比較すれば、現状真印である可能性のほうが高いとしている<ref>安本美典 「奇怪な印譜『宜和集古印史』 「親魏倭王」「漢委奴国王」をめぐる真贋論争」『[[邪馬台国 (雑誌)|季刊 邪馬台国]]』120号、2014年1月、pp.27-57。</ref>。
 
[[宮崎市定]]は著書『謎の七支刀―五世紀の東アジアと日本』で、同僚の中村直勝<ref>中村直勝([[1890年]] - [[1976年]])は中世荘園史、南北朝史、古文書学の研究で知られる日本史学者。</ref>から、金印の真物が2個存在することを聞かされたと記している<ref>宮崎市定『謎の七支刀―五世紀の東アジアと日本』 [[中公文庫]]、[[1992年]]、18頁 ISBN 4-12-201869-2</ref>。
 
工芸文化研究所理事長の鈴木勉は、著書『「漢委奴國王」金印・誕生時空論』で、
* 廣陵王璽は下書き通りの文字線を忠実に彫ることに適さない「線彫り」で作られている。
*「漢委奴國王」金印の文字線は布置(印面のデザイン)を忠実に再現する技法である「浚い彫り」を採用している。
* 魚々子文様の各部寸法の測定結果では外形が異なることから、両印の魚々子文様に同じたがねは使用されていない。
ことを指摘し、同一時期の同一工房ではないとした。これにより「漢委奴国王」金印と「廣陵王璽」は兄弟印ではないとし、光武帝下賜説の論拠が失われたとしている<ref>鈴木勉『「漢委奴國王」金印・誕生時空論』 [[雄山閣]]、2010年、ISBN 978-4-639-02117-9</ref>。
 
2005年、廣陵王璽の蛍光X線分析がおこなわれたが、南京博物館が拒否しているという理由で分析結果は公表されていない。
 
== 漢委奴国王印をモチーフにした作品 ==
[[File:Postage stamp of kin-in, 1989.png|thumb|150px|right| [[特殊切手]][[国宝シリーズ#国宝シリーズ(第三次)|第3次国宝シリーズ]]第8集 (1989): 「漢委奴国王金印」(1784年出土)]]
; [[コンピュータゲーム]]
: 『アドベンチャーイン博多』ユニオンプランニング、1983年、[[PC-8800シリーズ|PC-8801]]用ソフト。盗まれた金印を探すゲーム。
; TV番組
: 『[[ドゲンジャーズ]]』金印がキーアイテムであり、金印が発見された日付と同じ4月12日に放送を開始した<ref>[https://twitter.com/dogengers/status/1259381491504570370 【衝撃の事実、発覚】](2020年5月10日)2021年1月9日閲覧</ref>。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* 大谷光男著『研究史金印 漢委奴国王印』 [[吉川弘文館]]、1974年、ISBN 4-642-07036-2
* 岡崎敬著・春成秀爾編『魏志倭人伝の考古学 九州編』 [[第一書房]]、2003年、ISBN 4-8042-0751-1
* 久米雅雄著『日本印章史の研究』 [[雄山閣]]、2004年、ISBN 4-639-01845-2
* 久米雅雄著『はんこ』法政大学出版局、2016年、ISBN 978-4-588-21781-4
* {{Cite journal ja-jp|author=高倉洋彰|year=2007|title=「漢の印制からみた「漢委奴國王」蛇鈕金印」|journal=国華|volume=112|issue=12|serial=通巻1341|publisher=国華社|issn=0023-2785|ref=高倉}}
* {{Cite book |和書 |year=1994 |title=邪馬台国と倭国 古代日本と東アジア |author=西嶋定生 |publisher=吉川弘文館 |ref={{SfnRef|西嶋|1994}}}}
* Joshua A. Fogel, ''Japanese Historiography and the Gold Seal of 57 C. E.: Relic, Text, Object, Fake'' (Leiden: Brill, 2013) ISBN 978-90-04-24388-0
* {{Cite web |url=https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/sp/cultural_properties/detail/313 |title=金印 | 文化財情報検索 |access-date=2024-02-14 |publisher=福岡市経済観光文化局 文化財活用部 文化財活用課 |website=福岡市の文化財 |ref={{SfnRef|金印-文化財情報検索-福岡市}}}}
 
== 関連項目 ==
* [[倭]]
* [[倭国]]、[[大和国]]
* [[伊都国]]
* [[奴国]]
* [[九州王朝説#金印|九州王朝説]]
* [[神武天皇]]
 
== 外部リンク ==
* [http://museum.city.fukuoka.jp/ 福岡市博物館]
** [http://museum.city.fukuoka.jp/jb/jb_fr2.html 同サイト内・金印]
* [http://withinc.kobe-yamate.ac.jp/univ/course/kawakami/episode_10.shtml 「中国に見る日本文化の源流」第10話 金印]、[[神戸山手大学]]
* {{Cite book |和書|title=金印辨 |publisher=書写者不明 |author=亀井魯著 |url=https://hdl.handle.net/2324/4738429 |version=九大コレクション}}
 
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