削除された内容 追加された内容
リンク切れ解消
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
 
(2人の利用者による、間の2版が非表示)
19行目:
}}
 
'''漢委奴国王印'''(かんのわのなのこくおういん、{{旧字体|'''漢&#xe0101;委奴國王印'''}})は、[[日本]]で出土した[[金|純金]]製の[[王]][[印章|印]]([[金印]])である。読みは印文「漢委奴國王」の解釈に依るため、他の説もある([[#印文と解釈|印文と解釈]]を参照)。[[1931年]]([[昭和]]6年)[[12月14日]]に[[国宝保存法]]に基づく(旧)国宝、[[1954年]](昭和29年)[[3月20日]]に[[文化財保護法]]に基づく[[国宝]]に指定されている<ref>[http://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/850 金印〈印文「漢委奴國王」/〉]、[[文化庁]]国指定文化財等データベース</ref>。
 
== 来歴 ==
37行目:
 
=== 発見の状態について ===
通説では、[[江戸時代]]の[[天明]]年間([[天明]]4年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]([[1784年]][[4月12日]])とする説がある)、[[田|水田]]の耕作中に甚兵衛という地元の[[百姓]]が[[田|水田]]の耕作中に偶然発見したとされる<ref name=":0" />。発見者は秀治・喜平という2名の百姓で、甚兵衛は2人雇用してお者であ[[那珂郡 (福岡県)|那珂]][[郡代#諸藩の郡奉行|郡奉行]]に提出した人物という説もある{{Sfn|金印-文化財情報検索-福岡市}}。一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中に存したという。すなわち金印は単に土に埋もれていたのではなく、巨石の下に隠されていたということになる。発見された金印は、郡奉行を介して[[福岡藩]]へと渡り、[[儒学者]][[亀井南冥]]は『[[後漢書]]』に記述のある金印とはこれのことであると同定し『金印弁』という鑑定書を著している。
 
発見の経緯を記した「百姓甚兵衛口上書」は複製しかなく行方不明であ散逸しており、所蔵する福岡市博物館によれば、いつなくなったのかも不明であるという。
 
== 外形 ==
100行目:
[[1981年]](昭和56年)、中華人民共和国[[江蘇省]][[揚州市]]外の甘泉2号墳で「廣陵王璽(こうりょうおうじ)」の金印が出土した。2.3&nbsp;cmの正方形、高さ2.1&nbsp;cm、123&nbsp;g<ref>廣陵王璽 ブリタニカ国際大百科事典</ref>それは[[永平 (漢)|永平]]元年([[58年]])に光武帝の第9子で廣陵王だった[[劉荊]]に下賜されたものであり、字体が漢委奴国王印と似通っていることなどから、2つの金印は同じ工房で作られた可能性が高いとされる。西嶋定生は廣陵王璽金印は箱彫りで漢委奴国王印は薬研彫りであること、志賀島の金印の綬色は紫綬であるのに対して、廣陵王璽は「印」でなく「[[璽]]」とあることからその綬色は赤綬か綟綬(レイ:緑色)ではないかということを指摘した上で、[[蛍光X線]]分析による[[元素]]測定が待たれるとした{{sfn|西嶋|1994|p=52 - 54}}。これに対し[[高倉洋彰]]は、漢委奴国王印と廣陵王璽は共に薬研彫りとして、鈕を飾る亀の甲羅の縁に魚子文の印刻がある点が共通し、これらは2つの金印を制作した工房の一致を窺わせるとする<ref name=takakura/>。
 
=== その他<ref name=":0" /> ===
1936年、現[[ベトナム]]の[[タインホア省]]Tat Ngôで「晉帰義叟王」との刻印のある金印が発見されている。西晋朝との関係が推測されている<ref>{{Cite journal|和書|author=西村昌也 |url=https://hdl.handle.net/10112/6272 |title=ベトナム形成史における"南"からの視点 考古学・古代学からみた中部ベトナム(チャンパ)と北部南域(タインホア・ゲアン地方)の役割 |journal=周縁の文化交渉学シリーズ6 『周縁と中心の概念で読み解く東アジアの「越・韓・琉」―歴史学・考古学研究からの視座―』 |publisher=関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS) |date=2012-03-01 |pages=105-141 |naid=120005686780}}</ref>。