「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」の版間の差分

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'''アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所'''(アウシュヴィッツ ビルケナウ きょうせいしゅうようじょ、{{lang-de|Das Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau}}、{{lang-pl|Obóz Koncentracyjny Auschwitz-Birkenau}})は、[[ナチス・ドイツ]]が[[第二次世界大戦]]中に国家を挙げて推進した[[人種差別]]による絶滅政策([[ホロコースト]])および[[強制労働]]により、最大級の犠牲者を出した[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]である。収容者の90%が[[ユダヤ人]]([[アシュケナジム]])であった。
 
アウシュヴィッツ第一強制収容所は、ドイツ占領地の[[ポーランド]]南部[[オシフィエンチム]]市(ドイツ語名アウシュヴィッツ{{efn2|「アウシュビッツ」と表記している日本の歴史[[教科書]]もある。たとえば、『中学社会 歴史』([[教育出版]]株式会社。[[文部省]]検定済教科書。中学校社会科用。平成8年2月29日文部省検定済。平成10年1月10日印刷。平成10年1月20日発行。教科書番号17教出・歴史762)p 255では「また, 各国のユダヤ人は, ユダヤ人であるという理由だけでアウシュビッツなどの強制収容所に入れられて虐殺された。」と記載されている。}})に、アウシュヴィッツ第二強制収容所は隣接する[[ブジェジンカ]]村(ドイツ語名ビルケナウ)に作られた。周辺には同様の施設副収容所多数建設されている50箇所程度存在した。[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産委員会]]は、二度と同じような過ちが起こらないようにとの願いを込めて、1979年に[[世界遺産]]リストに登録した。公式な分類ではないが、日本ではいわゆる「[[負の世界遺産]]」に分類されることがしばしばである<ref>[[世界遺産アカデミー]]監修 (2012) 『すべてがわかる世界遺産大事典・上』[[マイナビ]]、p.23</ref>。一部現存する施設は「ポーランドアウシュヴィッツ・ビルケナウ国立博物館([[:en:Auschwitz-Birkenau State Museum]])」(以降、「アウュヴエンチムッツ博物館」と表記)が管理・公開している。
 
この項では、ビルケナウに限定せず、これらのアウシュヴィッツ収容所群全体について述べる。
 
== 概要 ==
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ファイル:Bundesarchiv_Bild_183-N0827-318%2C_KZ_Auschwitz%2C_Ankunft_ungarischer_Juden.jpg|ハンガリーから到着したユダヤ人。(1944年)
ファイル:Plan_situation_3Auschwitz.jpg|オシフィエンチムの市街地をとりまくように造られた施設群。とりわけ第二強制収容所の規模が大きい。
ファイル:Cremator inside the crematorium Auschwitz I.jpg|復元された焼却炉。(アウュヴエンチムッツ博物館展示)
</gallery>
 
== 経過 ==
[[ファイル:Gallows on which Rudolf Hoess was executed - Auschwitz I.jpg|right|240px|thumb|ヘスの絞首刑台(アウュヴエンチムッツ博物館展示)]]
*[[1940年]]1月25日 - ポーランド・オシフィエンチム市郊外の強制収容所建設を決定。
*[[1940年]]5月20日 - 「アウシュヴィッツ第一強制収容所(基幹収容所)」{{efn2|アウシュヴィッツ全体を管理する組織が置かれていたため、基幹収容所と呼ばれる。}}が[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]](SS)全国指導者[[ハインリヒ・ヒムラー]]の指示により、ドイツ国防軍が接収したポーランド軍兵営の建物を利用して開所。強制収容所における画一的な管理システム、いわゆる「[[ダッハウ強制収容所|ダッハウモデル]]」を踏襲している。初代所長は、SS中佐[[ルドルフ・フェルディナント・ヘス]]{{efn2|1943年12月まで所長として強制収容所を指揮。後任は[[アルトゥール・リーベヘンシェル]]。さらにその後任で最後の所長は[[リヒャルト・ベーア]](戦後、[[フランクフルト・アウシュビッツ裁判|フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判]]で被告となるが収監中に死亡)。}}。[[ザクセンハウゼン]]強制収容所から移送された犯罪常習者30人が、最初の被収容者となった。
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=== 登録 ===
[[ファイル:Koncentračný tábor Auschwitz-Birkenau 9.JPG|right|240px|thumb|収容の際に撮影された被収容者たち。縦じまの囚人服には、分類のためのマークがつけられている(アウュヴエンチムッツ博物館展示)]]
即刻の処分を免れた被収容者は、男女問わず頭髪をすべて刈り、消毒、写真撮影{{efn2|「正面」「正面を向き視線を(撮影者から見て)左上に上げたもの」「横向き」の写真を撮影された。}}、管理番号を刺青するなど入所にあたっての準備や手続きを行う。管理番号は一人ひとりに与えられ、その総数は約40万件とされる。私物は「選別」の段階までに、戦争遂行に欠かせない資源としてすべて没収されており、与えられる縦じま(色は[[青]]と[[白]])の[[囚人服]]が唯一の所持品となる。最後に、人種別・性別などに分けられた収容棟に送られた。
 
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住環境は非常に劣悪であった。この地域は、夏は最高37度、冬は最低マイナス20度を下回る。第一収容所はもともとポーランド軍の[[兵営]]であったため暖房設備は完備されていたが、収容所として利用された時には薪などの燃料は供給されなかったと言われている。掛け布団は汚れて穴だらけの毛布(薄手の麻布に過ぎない)のみであった。カポなどSSに協力する者には個室やまともな食事が与えられている。
 
第二収容所はバラックと言うべき非常に粗末な作りで、もともとポーランド軍の馬小屋であったものや、のちに一部は基礎工事なしで建てられたため床がなく、上下水道が完備されていないため地面は土泥化していた(汚水は収容者が敷地内に溝を掘って流した)。暖房は簡素なものがあったが、燃料の供給はされなかったと言われ、なぜこのような暖房設備が作られたのか、理由は不明であり、隙間風がいやおうなく吹き込み役目を果たしていなかったと言われる。排水がままならない不衛生なトイレ(長大な縦長の大きな桶の上にコンクリート板を置き、表面の左右に丸い穴をあけただけのもの)を真ん中にはさむ形で三段ベッドが並べられ、マットレス代わりにわらを敷いて使用した。トイレ使用は、午前・午後2回に制限され、目隠しになるものもなく、一斉に使用を強制された。非衛生的環境であったため、病原性の下痢も蔓延し、きわめて非人間的扱いがなされた。映画『[[シンドラーのリスト]]』では、汚物まみれのトイレの溝に隠れ、処刑をまぬがれた少年がいた描写がされている
 
=== 食事 ===
収容した側された側双方の証言によると、食料の奪い合いが個人やグループ間で日常的にあったとされる{{efn2|争いを避けるため被収容者間でパン屑の量まで計って配分したという証言もある<ref>『アウシュビッツの沈黙』 花元潔 [[東海大学出版部|東海大学出版会]] 2008年</ref>}}。公式には重労働者に2150キロカロリー、一般労働者に1700キロカロリーの食事を与えるという規定があったが、現場監督によって量は左右され、監視兵に厨房の食料を奪われるなど、実情はかけ離れていた<ref>『アウシュビッツ博物館案内』 [[中谷剛]] 凱風社 2005年</ref>。
 
配給量についてはさまざまな証言があり、ポーランド国立オアウュヴエンチムッツ博物館に展示されている「朝食:約50CCのコーヒーと呼ばれる濁った飲み物(コーヒー豆から抽出されたものではない)。昼食:ほとんど具のないスープ。夕食:300gほどの黒パン、3グラムのマーガリンなど<ref>[http://www1.linkclub.or.jp/~ttakeshi/porhtml/pora11.html アウシュヴィッツ徹底ガイド 6号棟その2「日々の生活」]{{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20071217072855/http://www1.linkclub.or.jp/~ttakeshi/porhtml/pora11.html |date=2007年12月17日 }}</ref>」は一例で、実際は被収容者間のヒエラルキーや個々の労働能力、さらには収容時期によって待遇にかなりの差があったと見るのが自然だろう{{独自研究?|date=2023年7月}}。実際、1943・1944年以降は「業績に連結した食料配給体制」{{efn2|各労働者の労働力を3つのランク(ランク1. 一般的ドイツ人の業績の100%以上、ランク2. 100% - 90%、ランク3. 90%以下)いずれかに評価し、ランクによる配給制度。産業界は生産性の向上を目的に労働者の再生産環境向上を1943年頃より求めている。背景には、食料自給状況の悪化のほかに、東部戦線の停滞さらには、ソ連軍の反攻による労働力確保の行き詰まりが挙げられる。}}が多くの労働者に対し実施されている。この制度は生産の全量的向上を目的としており、戦況悪化に伴い厳しくなった食料自給環境において、生産性の高い労働者に優先配給を行うというもの。
 
一般的ドイツ人の業績を基準に、業績の良い労働者に多く配給し、逆に悪い労働者は以前よりもさらに減らすというものだが、もともとほとんどの被収容者は一般成人が一日に必要とするカロリーに遠く及ばない量の食料{{efn2|たとえば、スラブ人に対しては、最低レベルに属するドイツ人労働者のさらに半分などと規定されていた。}}しか与えられていないなかで、比較すること自体無理があり、不幸にも減らされれば死は確実になるばかりである。生き抜くためにほんのわずかな増加分を得ようとする「人間の精神力」に期待しての制度であり、結果として被収容者同士が食料を奪い合うことが日常的にあったというのは、いかにその状況が過酷であったかを表している。
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戦後、被収容者としての経験を持つ[[精神科医]]たちは、自らの抑圧体験を研究し[[精神分析学]]の発展に貢献した。たとえば、精神科医[[ヴィクトール・フランクル]]は、実体験を記した著書「[[夜と霧 (文学)|夜と霧]]」で、激しい苦痛の中で精神がどのようにして順応し、内面的な勝利を勝ち得ていくかについて語るとともに、患者に対し[[実存主義]]的アプローチを採る「[[ロゴセラピー]]」を新たに提唱した。
 
== 大量殺害のための施設(殺人ガス室) ==
<!--[[ファイル:Auschwitz_uunit.jpg|thumb|240px|戦後復元された焼却炉(第一強制収容所)]]-->
[[ファイル:Crématorium_II_auschwitz.svg|right|thumb|400px|ガス室を備えた複合施設「クレマトリウム2」。最大の規模があったとされる。(1)入り口(2)脱衣室(3)ガス室(4)ガスを投入するための穴(5)遺体運搬のためのエレベータ(6)5つの搬入口から成る焼却炉]]
[[ルドルフ・フェルディナンド・ヘス|ルドルフ・ヘス]]の回想録{{Sfn|ヘス|2019}}によると、1941年夏、ヘスはベルリンに出頭し、[[ヒムラー]]から直接「総統は、ユダヤ人問題の最終的解決を命じた。われわれSSはこの命令を実行しなければならない」として、アウシュヴィッツでのユダヤ人絶滅に向けての準備を[[アイヒマン]]とともに進めるように命じられた。ヘスとアイヒマンの相談でガスを用いることは決定したものの、二人の間ではどのガスを使うかは決定出来なかった。しかし、ヘスの公務旅行中に、カール・フリッチュ司令官代理が、基幹収容所内のブロック11の地下室を用いて、ロシア人捕虜を部屋に鮨詰めにし、シラミ駆除のために保管していた[[ツィクロンB]]を用い、殺害実験を行なった(1941年9月3日とも5日とも言われる)。この実験が成功裡に終わり、アウシュヴィッツで用いる殺害用のガスは、[[ツィクロンB]]([[シアン化水素]]ガス)に決定した。
ドイツ政府が推し進めた人種的な抑圧にも通じる「東部ヨーロッパ地域の植民計画」は初期段階において占領したポーランド地域の[[ドイツ化]]を目的とした。当時のポーランドは農業後進国であり、入植したドイツ人による農業生産の機械化で数百万人の余剰労働者が生まれると試算したドイツ政府は、そこに住むポーランド人やユダヤ人などの資産(農地、工場、住宅など)を接収(時には非常に安い価格で買い上げ)するとともに、強制移住させることを決定する。1942年1月には、同計画について関係機関間における認識の共有化を図り、より強力に推し進めるための「[[ヴァンゼー会議]]」が開かれた。
 
しかし、ブロック11の地下室での実験は、換気に時間がかかるため、最初の実験の一度きりしか使用されず、代わりに基幹収容所の火葬場にあった死体安置所をガス室として使用することとなった。このガス室では、犠牲者がガス室に詰め込まれると、気密扉が閉められた後、天井に開けられた数箇所の穴から[[ツィクロンB]]が室内に投下された。
しかし、戦況悪化により移送や移送先確保が難しいなど計画が行き詰まると、「[[:de:Aktion 14f13|特別措置14f13]]」{{efn2|占領地にSSが赴き、ユダヤ人や政治犯を殺害するというもの。強制収容所の管理も同じSSが行っている点に注目すると、占領地での殺戮行為が強制収容所内に持ち込まれてもおかしくはない状況と言える。}}に准じた「大量殺害」に関する研究の意義が増し、各強制収容所でもなされるようになったと考えられる。[[ダッハウ強制収容所]]の排気ガスを使った[[一酸化炭素]]による中毒死の研究「ガス車」は、事実であれば、一例と言える。
 
[[ファイル:Zyklon B Container.jpg|thumb|240px|チクロンBの缶(アウュヴエンチムッツ博物館展示)]]
この基幹収容所の第一ガス室は、基本的にはユダヤ人絶滅にはほとんど使用されなかったようである。ヘスによると、ユダヤ人絶滅が始まったのは、ビルケナウ敷地外の農家を改造して作られた「ブンカー」と呼ばれるガス室で、1941年1月のことだったと述べられている。続いて、続々とユダヤ人が移送されてくるようになると、少し離れたところにある別の農家を改造して二つ目の「ブンカー」でのユダヤ人絶滅が実施されるようになった。
アウシュヴィッツでは、日々送られてくる被収容者の効率的殺害の手段として「ガス室」を研究し、実際に用いたとされる。最初のガス施設(クレマトリウム1)は1941年頃に第一強制収容所に作られ、実験をかねてまず約800人のソ連兵捕虜・ポーランド人が送られた。後に第二強制収容所に4つのガス施設(クレマトリウム2 - 5){{efn2|ヘースの証言によると、クレマトリウム4と5には資材不足から換気設備が備え付けられていなかった。すべてのガス施設での作業にはガスマスクが必要であったとする証言もある。}}が1943年3月 - 6月にかけて、さらに農家を改造した2つのガス施設(赤い家、白い家){{efn2|または「ブンカー」とも呼ばれる。}}の計7施設が作られたとされる(第一強制収容所のガス室は、後に強制収容所管理のための施設に改造したとされる)。使用したガスは「[[ツィクロンB|チクロンB]](防疫施設で伝染病を媒介するノミやシラミの退治にも使用)」で、効率良く処刑を行うための研究班を配し「32分で800名処刑可能であった」とされる。死体は施設に備えられた焼却炉や焼却壕などで処分され、この作業にはゾンダーコマンドがあたった。死者の骨は砕かれてビスチュラ河に捨てられ、現在では慰霊碑が立てられている。
 
しかし、このガス室で殺害された遺体は、当初は壕を掘って埋葬していただけだったが、後に再度掘り起こして野外火葬するようになると(後述)、その火葬作業による悪臭が周囲数キロにわたって広がることとなり、周辺住民がユダヤ人の焼却のことを話題にし始めてしまう有様となってしまう。そこで、ビルケナウですでに建設中だった、大型火葬場でのユダヤ人絶滅と焼却が進められることとなったのである。結果として、ビルケナウに建設されることとなった4箇所の火葬場に、基幹収容所の火葬場同様、ガス室も併設されることとなった。さらにはそれら火葬場には脱衣室も併設され、ガス室での殺害後、囚人によって遺体から金歯が抜かれた後、火葬処理に回された。火葬後の遺骨等の残骸は細かく砕かれて、近くの川に捨てられた。
これらの施設は、1944年10月に起きたゾンダーコマンドの反抗による破壊(クレマトリウム4)、ソ連軍接近を察知したSSによる破壊で、現在当時のままの形をとどめているものはない。オシフィエンチム博物館で閲覧できるクレマトリウム1は復元されたものである。
 
ビルケナウのガス室の収容能力は、ヘスによると、火葬場ⅡおよびⅢのガス室では、最大で3000人と述べられているが、「その数に達したことは一度もない」とも述べている。ⅣおよびⅤの収容能力は述べられていない。ガス([[ツィクロンB]])のガス室への投入方法は、火葬場ⅡおよびⅢでは、基幹収容所の火葬場同様に、天井に開けられた4箇所の穴から投入されたが、広いガス室内に効率的にガスを拡散させるためと、[[ツィクロンB]]は殺害後も数時間ガスを発生し続けるので、半地下構造であるために換気システム以外に新鮮な空気を導入しにくいことから、殺害後に[[ツィクロンB]]をガス室内から撤去してしまう目的で、金網導入装置と呼ばれる特殊な構造体が設置されていた。[[ツィクロンB]]がガス室内に残らないので、火葬処理に回すための遺体搬送作業を迅速に開始可能になっていた。火葬場ⅣおよびⅤのガス室には換気装置はなかったが、これらのガス室は地上型だったため、新鮮な空気を導入しやすいので、毒ガスの濃度を致死濃度以下に容易に下げることができたと考えられる。また、これらの遺体搬送作業を行なったユダヤ人囚人によるゾンダーコマンドは、ガスマスクを使用することも可能だった。なお、火葬場ⅣとⅤでは[[ツィクロンB]]は壁面の上部にある数箇所のシャッターからガス室内に投入された。ブンカーも同様である。
 
ビルケナウの4箇所の火葬場は、ソ連軍の接近を前にして1944年12月から設備等の解体撤去作業が始まり、翌年1月に親衛隊によってダイナマイトで破壊された。ブンカーについては、最初に作られたブンカー1は1943年の最初の頃に使用終了するとともに撤去され、ブンカー2は1944年の中頃まで使用された後、これも撤去された(いずれも詳細な時期は不明)。
 
基幹収容所の火葬場1については、1942年12月頃にガス室の使用は中止され、1943年7月には火葬場としても使用されなくなり、1944年の中頃に防空壕に改修された。戦後、アウシュヴィッツ収容所は博物館化されることになり、それに伴って、火葬場1はガス室が存在した頃に近い状態にまで復元工事が行われた。但し、防空壕用に設置された以上の数の隔壁を撤去していたり、火葬場とガス室の間にあった出入り口とは別のところに開口部を作ったり、ガス室の気密ドアを再現しなかったり、防空壕改修時に作られた新しい出入り口をそのままにするなど、復元工事としては杜撰さの残るものとなっている。この戦後の復元工事の文書記録はアウシュヴィッツ博物館にも一切残っていないようであるが、残された戦時中の図面の変化を見ると、明らかに戦後に復元工事を行なったものであることがわかる。
 
== 人体実験 ==
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{{main|ナチス・ドイツの人体実験}}
== 死体焼却施設(火葬場、クレマトリウム) ==
=== 火葬場1(アウシュヴィッツ第一収容所(基幹収容所)) ===
強制収容所では大量虐殺が行われたため大量の死体処理が問題になったが、この死体を無差別に大量火葬する施設が[[クルト・プリューファー]]のもと[[トップフ・ウント・ゼーネ]]社により建設された<ref>{{cite journal|title= 「最終的解決」の技術者たち|url= http://id.nii.ac.jp/1197/00000204/|author2= 柴嵜 雅子 |author1= フォルクハルト クニッゲ|year=2008|journal= 国際研究論叢 : 大阪国際大学紀要|volume=21|issue=3}}</ref>。
アウシュヴィッツ収容所で設営された最初の火葬場は、アウシュヴィッツ第一収容所に現在も観光用に公開されている火葬場1である。この火葬場は1940年6月ごろ、元々ポーランド軍が弾薬庫として使っていた建造物を改修して作られた。火葬炉の設計・製作担当会社は[[トップフ・ウント・ゼーネ]]社(技術担当責任者は[[クルト・プリューファー]])であり<ref>{{cite journal|title= 「最終的解決」の技術者たち|url= http://id.nii.ac.jp/1197/00000204/|author2= 柴嵜 雅子 |author1= フォルクハルト クニッゲ|year=2008|journal= 国際研究論叢 : 大阪国際大学紀要|volume=21|issue=3}}</ref>、最初は炉(マッフル)が二つある火葬炉を2基設置していた。また火葬炉のある部屋のすぐ隣にある部屋は死体安置所が設定された。
 
翌年9月頃の図面では、もう一基の火葬炉を追加して、合計3基(マッフルの数は6箇所)が描かれており、正確な時期は不明であるが、この設計通りに追加設置された{{Sfn|PRESSAC|1989|p=151}}。
 
火葬場Ⅰの火葬炉は1943年7月頃まで使用された後、ビルケナウでのユダヤ人絶滅が本格化すると使用が中止され、翌年中頃にはガス室として使用していた死体安置所があった箇所を中心に大幅に改良して防空壕とするとともに、火葬炉を一旦解体し、煙突なども撤去していた。従って、現在の状態は戦後にポーランド当局がガス室のあった時の状態に復元工事を行なったものである。煙突もその時に再建されている{{Sfn|PRESSAC|1989|pp=132-133}}。
 
=== 火葬場Ⅱ〜Ⅴ(アウシュビッツ第二収容所(ビルケナウ収容所)) ===
[[ファイル:Leisung der Krematorien in 24 Stunden lt. Zenrralbauleitung der Waffen-SS.jpg|right|240px|thumb|アウシュヴィッツ中央建設部による1943年6月28日付の文書。5箇所の火葬場の焼却能力として、1日あたり計4,756体と記載されている。]]第2収容所であるビルケナウ収容所の建設が進み、1942年中頃になると、ビルケナウでも火葬場建物の建設が始まった。当初の計画では、ビルケナウ収容所には多くのソ連兵捕虜を収容する予定だった{{Sfn|PRESSAC|1989|p=183}}ので、ソ連兵捕虜用の大型火葬場建物(火葬場Ⅱ)を一棟のみ建てる予定だったが、ビルケナウでのユダヤ人絶滅が本格化するのに合わせて、合計4棟の火葬場が1943年6月頃にかけて建設されることとなった{{Sfn|PRESSAC|1989|p=184}}。これら火葬場の火葬炉の仕様は以下の通りである。
 
* 火葬場Ⅱ・Ⅲ・・・火葬炉の数は各5基、1基についての炉(マッフル)の数は3箇所。トータルではⅡ、Ⅲ合わせて30箇所のマッフルがあることになる。
* 火葬場Ⅳ・Ⅴ・・・火葬炉の数は各2基、1基についての炉(マッフル)の数は4箇所。トータルではⅣ、Ⅴ合わせて16箇所のマッフルがあることになる。
 
従って、ビルケナウだけで46箇所のマッフルがあることになる。これらの火葬場の火葬能力については、アウシュヴィッツ親衛隊中央建設部による文書が残されており、第1火葬場と合わせて、日あたり合計4,756体の遺体を火葬可能とするものであった。
 
ビルケナウの4つの火葬場は、ソ連軍の進行に伴って1944年12月頃から解体作業が始まり、翌年1月のソ連による収容所解放を前にして、親衛隊が撤収する前に全てダイナマイトによって破壊された{{Sfn|PRESSAC|1989|p=260}}。
 
=== 野外での死体焼却 ===
アウシュヴィッツでのユダヤ人絶滅が開始された時期については、はっきりしたことは不明であるものの、1942年の春頃から、ビルケナウの敷地外での二軒の農家(稼働開始日は異なる)を改造して作られたガス室である「ブンカー」から始まったとされる{{Sfn|ヘス|2019|p=297}}。この場所を使用してユダヤ人の大量殺戮を行っていた当初は、これらの死体を焼却処分するつもりはなく、単に壕を掘って埋めていただけであった{{Sfn|ヘス|2019|p=388}}。しかし、夏頃になると遺体の腐敗が進んで、土壌や地下水を汚染することになってしまった。そこで、ヒムラーからの命令により、これらの死体を全て再度掘り起こして、焼却処分することになったのである{{Sfn|ヘス|2019|p=389}}。この焼却処分はアウシュヴィッツだけの問題ではなかったようで、ソ連地域で前年から実施されていた現地でのユダヤ人虐殺による大量埋葬墓や、ヘウムノ収容所から始まったアウシュヴィッツ以外の絶滅収容所でも同様であった。そこで、親衛隊は、アインザッツグルッペBの指揮官の一人であった、パウロ・ブローベル大佐指揮の元、野外での効率的な死体焼却の考案と実施を進めたのである。アウシュヴィッツの司令官ヘスらは、当初、ブローベル大佐によって進められていたヘウムノでの死体焼却現場を視察、その後ビルケナウのブンカーでの大量埋葬墓について、死体焼却が進められたのであった{{Sfn|ヘス|2019|p=389}}。
 
ヘスの自伝によると、この時に焼却された遺体の数は合計10万7000体だったとのことである{{Sfn|ヘス|2019|p=388}}。
 
この野外火葬は、ビルケナウの大型火葬場が本格稼働すると中止されたが、1944年5月に始まった、ハンガリーユダヤ人の絶滅作戦では、あまりにも遺体が多すぎたため、再度、野外火葬を行って、それらの死体の大半を野外で焼却することとなった{{Sfn|ヘス|2019|p=396}}。
 
== 赤十字国際委員会(ICRC)とドイツ赤十字(DRK) ==
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2016年には[[フランシスコ (ローマ教皇)|フランシスコ]]が訪問し「惨劇の場では言葉は無用」と「死の壁」の前や「聖コルベの監獄」の中で黙祷した。年間を通じ[[イスラエル人]]学生の[[修学旅行]]のルートになっている。
 
[[日本]]からの訪問も増えており、多くても200人程度だった年間訪問者が近年は5,000人を超えた。なお、日本国内にはポーランド国立オアウュヴエンチムッツ博物館から展示物を譲り受けた「[[アウシュヴィッツ平和博物館]]」が福島県白河市にある。
 
== アウシュヴィッツの死亡者数について==
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-R69919, KZ Auschwitz, Brillen.jpg|thumb|240px|おびただしい数の眼鏡フレーム。収容の際に没収されたもの(アウュヴエンチムッツ博物館展示)]]
[[ファイル:Img2179-1.jpg|thumb|240px|靴の山。女性もののサンダルも含まれている。(アウュヴエンチムッツ博物館展示)]]
[[ファイル:Gedenkplaat.jpg|thumb|240px|慰霊の碑文(オランダ語)。「この地を永遠に絶望の叫びとし、人類への警告とせよ。ナチスはここで、ヨーロッパ各国のユダヤ人を中心に、およそ150万人の男女と子供を殺害した」(アウシュヴィッツ博物館)]]
 
ニュルンベルク裁判では、ソ連から起訴状において「アウシュヴィッツで'''400万人'''が死亡した絶滅され」と報告記述されてい<ref>https://avalon.law.yale.edu/imt/count3.asp About 1,500,000 persons were exterminated in Maidanek and about 4,000,000 persons were exterminated in Auschwitz, among whom were citizens of Poland, the U.S.S.R., the United States of America, Great Britain, Czechoslovakia, France, and other countries.</ref>が、判決文では「400万人」は触れられず、アウシュヴィッツ収容所司令官だった[[ルドルフ・フェルディナント・ヘス|ルドルフ・ヘス]]「アウシュヴィッツ収容所だけで'''250万人'''(+が絶滅され、さらに50万人が死・気と飢者50万人)を亡したと見積もっている」と証言していたとして記載されただけだった。アウシュヴィッツ国立博物館の記念石碑には「400万人」と記載されていたが、1990年に撤去され、1995年に「'''150万人'''」に改められた。これは、アウシュヴィッツ博物館の歴史部門の責任者だったフランシスチェク・ピーパー博士による犠牲者数の研究結果を受け入れたものであり、「150万人」はその犠牲者数推計値の誤差を含めた最大値である<ref>https://avalon.law.yale.edu/imt/judwarcr.asp With regard to Auschwitz, the Tribunal heard the evidence of Hoess, the Commandant of the camp from 1st May, 1940, to 1st December, 1943. He estimated that in the camp of Auschwitz alone in that time 2,500,000 persons were exterminated, and that a further 500,000 died from disease and starvation. </ref>
 
アウシュヴィッツ国立博物館の記念石碑には「400万人」と記載されていたが、1990年に撤去され、1995年に「'''150万人'''」に改められた。これは、アウシュヴィッツ博物館の歴史部門の責任者だったフランシスチェク・ピーパー博士による犠牲者数の研究結果を受け入れたものであり、「150万人」はその犠牲者数推計値の誤差を含めた最大値である。ただし、ピーパーの研究成果として一般的に認められているアウシュヴィッツ収容所の犠牲者数は'''110万人'''である<ref>[https://www.nli.org.il/en/articles/RAMBI990000434160705171/NLI Estimating the number of deportees to and victims of the Auschwitz-Birkenau camp, Franciszek Piper]</ref>。
ただし、ピーパーの研究成果として一般的に認められているアウシュヴィッツ収容所の犠牲者数は'''110万人'''である。
 
アウシュヴィッツ国立博物館の公式ページでは、1999年の研究により1944年までに強制収容されたユダヤ人は110万人であり、うち20万人は労働に供されたと書かれている<ref>http://auschwitz.org/en/history/the-number-of-victims/ As a result of the inclusion of Auschwitz in the process of the mass extermination of the Jews, the number of deportees began to soar. About 197 thousand Jews were deported there in 1942, about 270 thousand the following year, and over 600 thousand in 1944, for a total of almost 1.1 million. Among them, about 200 thousand people were selected as capable of labor and registered as prisoners in the camp</ref>。
アウシュヴィッツ博物館の公式ページには、「少なくとも130万人が収容所に強制送還され、そのうち少なくとも110万人が死亡した。死亡者数は150万人とも言われている」と記載されている<ref>https://www.auschwitz.org/en/history/kl-auschwitz-birkenau/the-topography-of-the-camp/ At least 1,300,000 people were deported to the camp, of whom at least 1,100,000 perished. Some estimates of the number killed are as high as 1,500,000.</ref>。
 
終戦直後の1945年当時にソ連が主張した'''400万人'''という数は、[[ニュルンベルク裁判]]にソ連から提出された、ソ連の戦争犯罪調査委員会が作成したとされるアウシュヴィッツ収容所に関する報告書<ref>[https://www.jrbooksonline.com/cwporter/ussr8.htm Translation of USSR-8 Soviet War Crimes Report on Auschwitz Nuremberg Trial - 6 May 1945]</ref>に記載されているものであるが、この400万人という犠牲者数は、複数の元囚人が証言している数字でもあり<ref>[https://www.zapisyterroru.pl/dlibra/publication/3783/edition/3764/content?navq=aHR0cDovL3d3dy56YXBpc3l0ZXJyb3J1LnBsL2RsaWJyYS9yZXN1bHRzP2FjdGlvbj1BZHZhbmNlZFNlYXJjaEFjdGlvbiZ0eXBlPS0zJnNlYXJjaF9hdHRpZDE9NjEmc2VhcmNoX3ZhbHVlMT1UYXViZXIrSGVucnlrJTVDJTNCKzA4LjA3LjE5MTclMkMrQ2hyemFuJUMzJUIzdyslNUMlMjhtYSVDNSU4Mm9wb2xza2llK3ZvaXZvZGVzaGlwJTVDJTI5JnBhZ2VGcm9tPWluZGV4c2VhcmNoJnA9MA&navref=MngzOzJ3aw ヘンリク・タウバーの証言]"I estimate that the total number of people who were gassed in Auschwitz amounts to about four million."(私は、アウシュビッツでガス処刑された人々の総数は約400万人に達すると推定している)</ref> <ref>[https://www.zapisyterroru.pl/dlibra/publication/3782/edition/3763/content?navq=aHR0cDovL3d3dy56YXBpc3l0ZXJyb3J1LnBsL2RsaWJyYS9yZXN1bHRzP3E9RHJhZ29uJmFjdGlvbj1TaW1wbGVTZWFyY2hBY3Rpb24mbWRpcmlkcz0mdHlwZT0tNiZzdGFydHN0cj1fYWxsJnA9MA&navref=MngyOzJ3aiAycDY7Mm9u シュロモ・ドラゴンの証言] "I believe that the number of people gassed in both bunkers and the four crematoria was over four million."(私は、ブンカーと4つの火葬場の両方でガス処刑された人の数は400万人を超えると考えている)</ref>、ソ連の報告書では火葬能力からの推計値となっているものの、その火葬能力自体の算定根拠の記載がないことや、アウシュヴィッツに強制移送されたそれら追放者の数もまったく示していないことなどから、それら元囚人の証言にある「400万人」を採用したのではないかと推測される。
 
なお、ニュルンベルク裁判の法廷では、司令官[[ルドルフ・フェルディナント・ヘス|ルドルフ・ヘス]]は「250万人」(と餓死・病死による死者数50万人)と証言していたが、ニュルンベルク裁判での勾留中に、囚人の心理観察を行なっていたグスタフ・ギルバートに対してヘスは自分自身の推計として「'''最大でも150万人'''」と語っており<ref>[https://www.hdot.org/vanpelt_toc/ The Van Pelt Report by Robert Jan van Pelt]</ref>またヘスはポーランドでの勾留中に書かれた自身の回想録を書いており、そこでは合計「'''113万人'''」の犠牲者数を述べている。また、ヘスはニュルンベルク裁判や回想録で、「250万人」は[[アイヒマン]](あるいはアイヒマンの代理であるギュンター)が語ったものだと明確に述べており、1945年4月頃ベルリン包囲直前に、親衛隊の強制収容所総監であった[[リヒャルト・グリュックス]]親衛隊中将にアイヒマンがそう語っているのを見たからだ、と述べている{{Sfn|ヘス|2019|p=399}}
 
これら以外のアウシュヴィッツの死亡者数の推定について記載する。
 
'''125万人説'''
 
[[ラウル・ヒルバーグ]]([[:en:Raul Hilberg|Raul Hilberg]])による。
 
「100万人」のユダヤ人と「25万人」の非ユダヤ人の合計「125万人」が殺された<ref name="ルドルフ アウシュヴィッツ"/>
<ref name="フォーリソン アウシュヴィッツ">[https://codoh.com/library/document/how-many-deaths-at-auschwitz/ How many deaths at Auschwitz?]</ref>。
 
'''120万人説'''
 
{{要出典範囲|ユネスコの世界遺産に登録された人数。(2007年)|date=2024年6月}}
 
 
'''80万から90万人説'''
 
ジェラルド・ライトリンガー([[:en:Gerald Reitlinger|Gerald Reitlinger]])による
<ref name="ルドルフ アウシュヴィッツ"/><ref name="フォーリソン アウシュヴィッツ"/>。
 
'''63万人から71万人説'''
 
ジャン・クロード・プレサック([[:en:Jean-Claude Pressac|Jean-Claude Pressac]])による。
 
(そのうちガス室の犠牲者は47万人から55万人であった)
<ref name="ルドルフ アウシュヴィッツ"/><ref name="フォーリソン アウシュヴィッツ"/>
 
'''50万人説'''
 
フリツォフ・メイヤー([[:de:Fritjof Meyer|Fritjof Meyer]])による。
 
(そのうちガス室の犠牲者は35万人であった)
<ref name="ルドルフ アウシュヴィッツ"/><ref name="フォーリソン アウシュヴィッツ"/>
 
'''15万人以下説(その内の10万人がユダヤ人)'''
 
アーサー・R・バッツ([[:en:Arthur R. Butz|Arthur R. Butz]])など[[歴史修正主義|歴史修正主義者]]による。
 
アーサー・R・バッツ([[:en:Arthur R. Butz|Arthur R. Butz]])など[[歴史修正主義|歴史修正主義者]]による。
「死亡者は15万人に達し、そのうち10万がユダヤ人であった。彼らは殺されたのではない。病気により死亡したのである。」<ref name="フォーリソン アウシュヴィッツ"/>
 
カルロ・マットーニョ([[:en:Carlo Mattogno|Carlo Mattogno]])13万5500人説(2023年)<ref name="ルドルフ アウシュヴィッツ">[https://holocausthandbooks.com/book/lectures-on-the-holocaust/ Lectures on the Holocaust Germar Rudolf P127]</ref>、など[[歴史修正主義|歴史修正主義者]]による。
終戦直後の1945年当時にソ連が主張した'''400万人'''という数は、ニュルンベルク裁判にソ連の調査委員会が作成したとされるアウシュヴィッツ収容所に関する報告書に記載されているものであるが、この400万人という犠牲者数は、複数の元囚人が証言している数字(ただし元囚人はその数字を推測、あるいは伝聞だと語っている)でもあり、ソ連の報告書では火葬能力からの推計値となっているものの、その火葬能力自体の算定根拠の記載がないことや、アウシュヴィッツに強制移送されたそれら追放者の数もまったく示していないことなどから、それら元囚人の証言にある「400万人」を採用したのではないかと推測される。
 
{{要出典範囲|終戦直後の1945年当時にソ連が主張した400万人という数は、当時の[[非ナチ化]]の影響を強く受けていると認識されている。同様に近年においても、新たに主張される死亡者数の多い少ないにかかわらず政治または宗教的背景に影響されていることが多い。たとえば、イスラム教徒の反ユダヤ主義者との接触が疑われる「[[歴史見直し研究所]]」は15万人という数値を掲げている。このような問題の根本には「絶対的数値が今後も得られる可能性が低く、主張することによって自己または属する集団の利益に有利に働く」という事情が挙げられる。|date=2024年6月}}
なお、ニュルンベルク裁判の法廷では、司令官ルドルフ・ヘスは「250万人」(と餓死・病死による死者数50万人)と証言していたが、ニュルンベルク裁判での勾留中に、囚人の心理観察を行なっていたグスタフ・ギルバートに対してヘスは「'''最大でも150万人'''」と語っており、またヘスはポーランドでの勾留中に自身の回想録を書いており、そこでは合計「'''113万人'''」の犠牲者数を述べている。また、ヘスはニュルンベルク裁判や回想録で、「250万人」はアイヒマンが語ったものだとしており、1945年4月頃に、親衛隊の強制収容所総監であったリヒャルト・グリュックス親衛隊中将にアイヒマンがそう語っているのを見たからだ、と述べている。
 
== 否認主義(または修正主義) ==
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== 参考文献 ==
* [[ルドルフ・フェルディナント・ヘス]](著)、片岡治(訳)、『アウシュヴィッツ収容所;私は[[個人の尊厳|人間の尊厳]]を傷つけた・・・所長ルドルフ・ヘスの告白遺録』、[[サイマル出版会]]、1972年
* {{Citation|和書|author=[[ルドルフ・フェルディナンド・ヘス|ルドルフ・ヘス]]|translator=片岡啓治|date=2019-6-14|title=アウシュヴィッツ収容所|publisher=[[講談社]] |isbn = 4-06-159390-0|series=[[講談社学術文庫]]|ref={{SfnRef|ヘス|2019}} }}
* Wolf H. Wagner(著)、アウシュヴィッツの子供たち、''Wo die Schmetteringe starben; Kinder in Auschwitz'', Dietz Verlag, 1995, ISBN 3-320-01867-1
* Sybille Steinbacher, ''Auschwitz. Geschichte und Nachgeschichte'', München: C.H.Beck, 3. Aufl. 2015 (EA 2004).
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* 事実の不直視-[[飯田龍一]]:[[社会保険山梨病院]]
* アウシュビッツからの手紙-[[早乙女勝元]]:[[草土文化]]
* {{Citation|洋書|author=PRESSAC JEAN CLAUDE|title=Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers|date=1989|publisher=THE BEATE KLARSFELD FOUNDATION|ref={{SfnRef|PRESSAC|1989}} }}[https://phdn.org/archives/holocaust-history.org/auschwitz/pressac/technique-and-operation/ オンライン版]
 
== 関連項目 ==
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* [[オーストリア海外奉仕]]
* [[マルコポーロ事件]]
* [[グラーグ]]
* [[コルィマ鉱山]] - 同時代の[[ソ連]]の金鉱山。「シベリアのアウシュヴィッツ」と呼ばれる。
** [[ラーゲリ]]
** [[大粛清]]
** [[シベリア抑留]]
** [[コルィマ鉱山]] - 同時代の[[ソ連]]の金鉱山。「シベリアのアウシュヴィッツ」と呼ばれる。
* [[兄弟福祉院事件]] - 「韓国版アウシュヴィッツ」と呼ばれる事件。
* [[黒瀬町]] - 戦後にオシフィエンチム市と姉妹都市となり、強制収容所の資料を記念館用に貸与されていた(実現せず)。
 
== 外部リンク ==
* [http://auschwitz.org/en/ アウシュヴィッツ=ヴィルケナウ強制収容所公式サイト] , ポーランド語、ドイツ語、[[英語]]に対応。
* [http://am-j.or.jp/ アウシュヴィッツ平和博物館Webサイト]
* [https://www.npokokoro.com/ NPO法人ホロコースト教育資料センター]
* [http://revisionist.jp/ 歴史的修正主義研究会(歴史見直し研究所)]
* [https://www.npokokoro.com/st201912 アウシュヴィッツスタディツアー│NPO法人ホロコースト教育資料センター]
* {{Wayback|url=https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20200825/index.html |title=アウシュビッツ 死者たちの告白 |date=20200908012132}} - [[NHK]]
* {{Kotobank|アウシュウィッツ収容所}}
* [https://www.youtube.com/watch?v=449ZOWbUkf0 Auschwitz: Drone video of Nazi concentration camp] BBC News