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入門時に父の藤島親方から「今日限りお前たちとは親方と弟子になる。パパとママの呼び方は許さない。親方とおかみさんだ。わかったな」と突き放され、若貴兄弟が両親に存在を認められるためには稽古を重ねて早期に関取になるしかなかった<ref name="100retsu">北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)168ページから169ページ</ref>。
 
[[1988年]]3月場所で四股名'''若花田'''として[[初土俵]]。「[[花の六三組]]」の一人で、弟の他、[[曙太郎|曙]]<ref>{{Cite web|url=https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202404110000574.html|title=記憶を失った曙さんが涙をボロボロと…元若乃花の花田虎上氏、忘れられぬ思い出と真の友情|publisher=日刊スポーツ|date=2024-04-11|accessdate=2024-04-12}}</ref>・[[魁皇博之|魁皇]]らと同期入門だった。初土俵以降順調に出世するも、1989年11月場所で史上最年少関取となった貴花田には一歩出遅れたが、若花田も弟の後を追いかけるように[[1990年]]3月場所で新[[十両]]となる。同年9月場所に新入幕した<ref name="100retsu"/>。
 
=== 入幕 ===
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: 「強くなったか? うん、うれしかった」と、後輩の成長を肌に染み込ませ、心の区切りをつけた<ref name="intainisaisite">2000年3月17日付日刊スポーツ紙面</ref>。取組後の支度部屋では「ここまできたら怖いものはない。やれるところまでやります」と話していたが、宿舎に向かう車中で冷静に限界を悟った。記者会見では引退の理由を「体力を補う気力が限界になりました」と述べる<ref name="intainisaisite"/>。現役時代一番の思い出として兄弟で横綱になったことを挙げ、1993年3月場所で曙関を破った一番を思い出の取り組みに挙げている<ref name="intainisaisite"/>。記者からは「夏場所復帰でも良かったのでは」と質問されたが、引退会見では「心の問題です。今場所前に、やるぞっという気持ちになったので」と話した<ref name="intainisaisite"/>。当時の若乃花は29歳2か月で、横綱在位は11場所だが皆勤は5場所であった。若乃花の引退により、4横綱時代も5場所のみに終わった。
: 横綱時代は休場の方が多くかつ横綱の地位で一度も幕内優勝出来ず、十分にその役目を果たせなかった<ref name="100retsu"/>。大関時代は大型力士が台頭する中で、小兵の若乃花は下手をすると大負けしかねない状況だったが、休場明け等の場所を除いた場所は概ね二桁以上の成績を上げている。引退時に「横綱昇進しなければ『名大関』として名を残せた」「大関の地位に留まれば、こんなに早く引退する事は無かった」と惜しむ声もあった<ref>『嫌いなことでも好きになれる。』魁皇博之・著作より。尚魁皇も若乃花と同じく1988年3月場所初土俵「花の六三組」の[[ライバル]]だった。</ref>。
: 2014年6月2日放送分のフジテレビの番組『[[ジャネーノ!?]] 』で、概して「相撲という競技は好きだが小さな体で大きな相手と戦わなければならないので大相撲力士にはなりたくなかった」と明かしており「横綱になったらやめるという条件を付けてもらった」と話した<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20140911121035/http://datazoo.jp/tv/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%83%8E%EF%BC%81%EF%BC%9F/757026|title=2014年6月2日放送『ジャネーノ!?』|publisher=TVでた蔵|date=2014-06-02|accessdate=2015-01-09}}</ref>。一方で2024年の『デイリー新潮』の記事では「最高でした。アメリカから来た最高にパワーのあるアスリートと一対一で戦える。戦争に負けているので土俵では負けられないなと。小錦さんや曙は土俵の半分が体ですから。でも僕みたいなのが勝つと日本の人たちは喜んでくれる」と現役時代を振り返っている<ref name="nagare">[https://www.dailyshincho.jp/article/2024/03031055/?all=1&page=2 「相撲の流れが見えた」 若乃花が語った「天賦の才」と知られざる気性の荒さ(小林信也)(2/2ページ)] デイリー新潮 2024年03月03日 (文・小林信也、2024年3月4日閲覧)</ref>。
: 力士生命にとって致命的になった足の怪我の容態は引退後も回復しておらず、のちに「将来、車椅子の生活になる事は避けられない」と医師から告げられた事を告白している<ref>潮([[潮出版社]])2004年12月号 222〜229ページ『連載対談 内館牧子の「今日もがぶり寄り!」(36) 報道されていることの八割は「ウソ」でした。』</ref>。2016年夏頃に武蔵丸(現15代[[武蔵川]]親方)は若乃花に会った時、怪我の後遺症で毎日痛み止めを飲んでいることを知り驚いた<ref>『大相撲ジャーナル』2016年9月号12ページ</ref>。2021年9月場所直前の記事で、背骨は引退後も変形し続け一生治らないと報じられる<ref name="video"/>。
: 横綱昇進後は貴乃花との不仲や離婚問題など、騒動が多かったが、本人は「(ワイドショーで)騒がれた場所ほどかえって相撲に集中出来た」と語り、騒がれた場所では優勝を逃したが好成績を残している。
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=== 引退後 ===
==== 相撲協会退職 ====
: [[年寄]][[藤島 (相撲)|藤島]]を襲名し、当初は後進の育成に専念するような発言をしていたが、引退相撲を終えて間もない2000年[[12月18日]]に突如[[日本相撲協会]]を退職した。後年の報道によると、兄弟の不仲で部屋継承の話が拗れ、人間関係に嫌気が差したのが退職の理由とみられる<ref>[https://www.news-postseven.com/archives/20240413_1956486.html/2 《誰も相撲界に残らず》曙太郎さん死去 「若貴」との“同期3横綱”が全員、角界を去らなければならなかった本当の理由(2/4ページ)] NEWSポストセブン 2024.04.13 11:00 (2024年4月14日閲覧)</ref>
 
==== 相撲協会退職後の主な活動 ====
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* 現役時代はアメリカ文化に憧れており武蔵丸にアメリカ文化を教えてほしいと思ったが、私情を避けるため現役時代は私的に交流しなかった<ref name="number2019022836">Sports Graphic Number (文藝春秋)2019年2月28日号 p36</ref>。
* 貴闘力は「貴乃花はとにかく稽古をする男だったが、貴乃花と若乃花どちらが素質があるかと言えば若乃花かもしれない」「膝から下の力が強かったので、200キロの相手でも対等に戦えたし、投げられても踏ん張ってうっちゃったりができた」と称賛している<ref>{{Cite web|和書|title=「親方が特別扱いしなければ貴乃花はもっと…」“貴の乱”で親方勢に“ガチンコ勝負”で負けてしまったワケ《貴闘力がみた若貴兄弟の性格の違い》 |url=https://bunshun.jp/articles/-/58890 |website=文春オンライン |access-date=2023-11-10 |last=「文春オンライン」特集班}}</ref>。
* 2000年3月場所、現役最後の対戦相手は奇しくも明大中野高校の後輩でもある[[栃東大裕]]だった。本人は高校の後輩として面倒を見ていた栃東ならば、最後の対戦相手として不足はない、と考えた。現役最後の白星となった4日目[[玉春日良二|玉春日]]戦の取組後、翌日の対戦相手が栃東と決定した時に、母の憲子から電話で「明日栃東でしょう。良かったわね」と話すと、若乃花も「そう。よかったよ、ダイスケで」と喜んだ。この電話で二人は「栃東戦が最後の一番」と、通じ合った。
*現役時代のある時、[[霧島一博|霧島]]との取組の後に右足親指の骨が見えてその指が切断しそうになっていた。霧島もこれには心配になって東西が反対の支度部屋の風呂まで駆け付けた。当時、東西の支度部屋の往来は認められていた<ref>[https://times.abema.tv/articles/-/7046977 花田虎上氏、足の親指がちぎれそうになった過去を明かす「骨付きウインナーみたいに……」] AbemaTIMES 2020.03.21 18:41(2020年3月29日閲覧)</ref>。
*曙との対戦成績は17勝18敗と僅か1つの差で負け越した。中でも小結時代の1993年3月場所の12日目、当時新横綱の曙を取り直しの末に投げ飛ばして初優勝、後の大関昇進への足がかりとした。
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** 1998年5月場所千秋楽で白星を挙げて横綱昇進を決めた時も嬉しくないと思い、むしろ「横綱になっても横綱相撲は取れない」「辞めるしかない」と不安で一杯だった<ref name="number2019022836" />。場所終了後に横綱になることになったので、口上の決まり文句「謹んでお受けします」ではなく<ref name="20141120466+45464" />、「謹んでお断りしてよろしいでしょうか」と言って入門時の約束どおりに引退するつもりだったが、両親に反対され<ref name="20141120466+45464" />、仕方なしに横綱になった<ref name="20141120466+45464" />。以来、相撲を辞めたいと言う度に、引退3日前まで11代二子山は殴って諌めた<ref>[https://www.sanspo.com/article/20180317-OM55R5MVAVLILG72CKAWFELNCE/ 花田虎上氏、弟・貴乃花との優勝決定戦の質問に「八百長してないです。僕は死んでもしません」] SANSPO.COM 2018.3.17 06:47(産経新聞社、2018年3月17日閲覧)</ref>。
** 1999年場所直前に父親の11代二子山が「貴乃花は懇意にしている整体師から洗脳されている」と発言したとする「貴乃花洗脳騒動」が発生以来、実弟とは絶縁状態である。直接の話し合いもなくメディアを使い一方的に実弟に非難をされており、2005年5月の父親死去の折も同様の形で非難をされている<ref>{{Cite web|和書|title=貴乃花親方引退騒動、あの「洗脳騒動」を取材した記者が見た「そっくりな部分」|url=https://www.j-cast.com/2018/09/28339884.html|website=J-CASTニュース|date=2018-09-28|accessdate=2019-05-30}}</ref>。実弟は「年寄株や登記書などの父の遺産が行方不明になっており、兄に『年寄株を買い取れ』などと要求された」<ref>結局一旦紛失した年寄株「藤島」は再発行された。</ref>「相撲を辞めた人間が相撲の事を語るな」などと様々なテレビ番組に出演し話していたが<ref group="注釈">この時の会見で弟の貴乃花が他人行儀に「花田勝氏」「勝氏」と呼んだことが話題となり、[[松村邦洋]]が貴乃花親方のモノマネをする際にもこのコメント部分を用いている。</ref>、この件に関して花田はマスコミの取材を一切受けず反論もしなかった。「相撲を辞めた人間が相撲を語るな」との発言を耳にしてレギュラー番組だった[[スポーツうるぐす]]も降板。その際「今後は出演する事は無い」との花田のファックスが番組内で紹介された<ref>[[週刊ポスト]]([[小学館]])2005年7月15日号 218-221ページ『二子山親方「病室の遺言ビデオ」衝撃映像--兄弟戦争に新局面 ベッドの父に花田勝氏がぶり寄り』</ref>。
** 2005年7月4日に、[[東京家庭裁判所|東京家裁]]で父親の11代二子山の相続放棄の手続きをしたと代理人弁護士が発表した<ref>『[[日刊スポーツ]]』 2005年7月4日</ref>。弁護士によると、現役引退のときに父親と話し合って決めていたことで、それ以外の(プライベートな)ことはこの相続放棄と一切関係なく、同月3日の35日の法要を終えるまで公表しない約束だった<ref name=":1" /><ref>{{Cite web|和書|title=MSN-Mainichi INTERACTIVE 今日の話題(2005年7月4日)|url=https://web.archive.org/web/20050708011450/http://www.mainichi-msn.co.jp:80/today/news/20050705k0000m040061000c.html|website=web.archive.org|date=2005-07-08|accessdate=2019-06-02|publisher=}}</ref>。2014年3月4日放送の[[TBSテレビ|TBS]]系テレビ番組「[[100秒博士アカデミー]]」でも、花田本人が「遺産放棄は父と自身との話し合いによって決めたことであり、弟はそれを知らなかった」と証言している<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20140308063114/http://datazoo.jp/tv/100%E7%A7%92%E5%8D%9A%E5%A3%AB%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%87%E3%83%9F%E3%83%BC/704633|title=2014年3月4日放送『100秒博士アカデミー』|accessdate=2015-01-09|date=2014-03-04|publisher=TVでた蔵}}</ref>。
** 2019年3月20日の公式ブログで、その半年前までテレビ出演時に弟の写真はおろか名前を使うことも出来なかったことを明かしている<ref>{{Cite web|和書|title=『いつか』|url=https://ameblo.jp/masaru-hanada/entry-12448424736.html|website=第66代横綱若乃花 花田虎上オフィシャルブログ Powered by Ameba(2019年3月20日)|accessdate=2019-03-25|language=ja|publisher=}}</ref>。同年5月の一般社団法人の設立には「どういう風にやっていくのか楽しみにしている。『頑張ってください』としか言えない」とコメントした<ref>{{Cite web|和書|title=元横綱若乃花の虎上氏、貴景勝は「休んだ方がいい」 - 大相撲 : 日刊スポーツ|url=https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201905190001138.html|website=nikkansports.com(2019年5月20日)|accessdate=2021-02-26|language=ja}}</ref>。
**2021年7月、11代二子山時代の部屋後援会の元幹部が当時について週刊ポストの取材に答えている。それによると、11代二子山は二子山部屋を長男に継がせたいと考えており、弟の貴乃花は一代年寄として部屋を興せばいい考えた。貴乃花洗脳騒動以来、兄弟の仲に亀裂が入り、2000年に花田が強引に協会を退職した。「貴乃花にすれば、部屋を出て独立するつもりが、自分が継ぐしかなくなってしまった」状況になった<ref>{{Cite web|和書|title=相次ぐ弟子たちの不祥事 名門「貴乃花部屋」はどこで道を間違えたのか?|url=https://www.news-postseven.com/archives/20210728_1678825.html?DETAIL|website=NEWSポストセブン(2021年7月28日)|accessdate=2021-07-31|language=ja}}</ref>。
 
==== 日馬富士による暴行事件関連 ====
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== 外部リンク ==
* {{Cite web|和書|url=http://www.chanko-waka.jp/ |title=ちゃんこダイニング若 |publisher=ちゃんこダイニング若 |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131004080754/http://www.chanko-waka.jp/ |archivedate=2013-10-04 |accessdate=2014-05-22 |deadlinkdateurl-status=dead|url-status-date= 2014年5月 -05}}
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