「フセヴォロド・メイエルホリド」の版間の差分

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== 生涯・事跡 ==
ユリウス暦1874年1月28日(グレゴリオ暦2月9日)[[ペンザ]]に生まれる。メイエルホリド家は、ロシアに在住する[[ボルガ・ドイツ人]]の家系で([[ユダヤ系]]ともされる)、父エーミールは[[ワイン]]製造業を営んでいた。[[モスクワ大学]][[法学部]]を中退している。[[1895年]]、21歳の誕生日を機に[[ルテル派]][[福音主義教会]]から[[正教会]]に改宗し、[[洗礼名]]「フセヴォロド」を名乗る。その後、モスクワ・フィルハーモニー協会演劇学校で[[ヴラジーミル・ネミロヴィチ=ダンチェンコ|ウラジーミル・ネミロヴィッチ=ダンチェンコ]]([[:en:Vladimir Nemirovich-Danchenko|Vladimir Nemirovich-Danchenko]])に師事し、ここにメイエルホリドの舞台人としての活動の幕が切って落とされた。[[1898年]]には恩師であるネミロヴィッチ=ダンチェンコに従い[[モスクワ芸術座]]の旗揚げに参加している。
 
モスクワ芸術座では、[[アントン・チェーホフ]]の『[[かもめ (チェーホフ)|かもめ]]』の[[モスクワ芸術座版『かもめ』|上演]]でトレープレフ役を演じ{{Efn|同時代の画家[[ユーリイ・アンネンコフ]]が子供の頃にこの上演を観て、メイエルホリドの演技だけでなく顔つきまではっきり憶えている、とその回想録に書いている<ref>{{Cite book|和書|author=J・アンネンコフ|year=1971|title=同時代人の肖像 中|publisher=現代思潮社|page=192}}</ref>。}}、チェーホフに影響されて演劇における様式美を追求したが、モスクワ芸術座における自然主義的・[[心理主義]]的演劇論と齟齬をきたし、[[1902年]]にモスクワ芸術座を退団した。退団後、メイエルホリドは自らの理想を追い求めてスネギリョフやコシェヴェーロフら有志と語らい、いくつかの劇団を結成し、[[コーカサス|カフカス]]に巡業に出た。メイエルホリドは役者として舞台に立つ他に、演出畑に進出する。メイエルホリドは、実験的劇場とそれにふさわしい新しい演技の構築を模索していく。
1905年に、当時、モスクワ芸術座における自然主義演劇に行き詰っていたスタニスラフスキーから、新しい演劇の創造への協力を求められる。そこで、メイエルホリドはモスクワ芸術座付属の「演劇スタジオ」を作り、そこで『タンタジールの死』の演出など、様々な条件演劇的な実験を試みる。
その経験を生かし、その後[[象徴主義]]的演技の熱心な主導者となっていく。特に[[1906年]]から[[1907年]]にかけて、[[サンクトペテルブルク]]の[[ヴェラ・コミサルジェフスカヤ]]劇場で上演した『修道女ベアトリス』を制作し、同作は、[[アンドレイ・ベールイ]]([[:en:Andrei Bely|Andrei Bely]])、[[ヴァレリー・ブリュソフ]]([[:en:Valery Bryusov|Valery Bryusov]])、[[ゲオルギー・チュルコフ]]([[:en:Georgy Chulkov|Georgy Chulkov]])らから象徴主義的不動劇として評価を受けた。また、1906年に演出した[[アレクサンドル・ブローク]]の『見世物小屋』は象徴主義の脱構築から、広く論争を巻き起こした。その他、コミッサルジェフスカヤ劇場では、[[スタニスワフ・プシビシェフスキ|プシビシェフスキ]]の『永遠の物語』、[[ヘンリック・イプセン|イプセン]]作『ヘッダ・カプラー』、[[モーリス・メーテルリンク|メーテルリンク]]作『修道女ベアトリーチェ』などを演出し象徴主義の流行、隆盛期を出現せしめた<ref>{{Cite book|和書|author=J・アンネンコフ|authorlink=ユーリイ・アンネンコフ|year=1971|title=同時代人の肖像 中|publisher=現代思潮社|page=211}}</ref>。
 
1905年に、当時モスクワ芸術座における自然主義演劇に行き詰まっていたスタニスラフスキーから、新しい演劇の創造への協力を求められる。そこで、メイエルホリドはモスクワ芸術座付属の「演劇スタジオ」を作り、そこで『タンタジールの死』の演出など、様々な条件演劇的な実験を試みる。その経験を生かし、その後[[象徴主義]]的演技の熱心な主導者となっていく。特に[[1906年]]から[[1907年]]にかけて、[[サンクトペテルブルク]]の[[ヴェラ・コミサルジェフスカヤ]]劇場で上演した『修道女ベアトリス』を制作し、同作は、[[アンドレイ・ベールイ]]([[:en:Andrei Bely、{{仮リンク|Andrei Bely]])、[[ヴァレリー・ブリュソフ]]([[:|en:Valery Bryusov|Valery Bryusov]])}}[[{{仮リンク|ゲオルギー・チュルコフ]]([[:|en:Georgy Chulkov|Georgy Chulkov]])}}らから象徴主義的不動劇として評価を受けた。また、1906年に演出した[[アレクサンドル・ブローク]]の『見世物小屋』は象徴主義の脱構築から、広く論争を巻き起こした。その他、コミッサルジェフスカヤ劇場では、[[スタニスワフ・プシビシェフスキ|プシビシェフスキ]]の『永遠の物語』、[[ヘンリック・イプセン|イプセン]]作『[[ヘッダ・カプラブレル]]』、[[モーリス・メーテルリンク|メーテルリンク]]作『修道女ベアトリーチェ』などを演出し象徴主義の流行、隆盛期を出現せしめた<ref>{{Cite book|和書|author=J・アンネンコフ|authorlink=ユーリイ・アンネンコフ|year=1971|title=同時代人の肖像 中|publisher=現代思潮社|page=211}}</ref>。
[[Image:Alexander_Y_Golovin_Portrait_of_Meyerhold.jpg|thumb|200px|メイエリホリドの肖像(アレクサンドル・ゴローヴィン画)]]
しかし、コミサルジェフスカヤとの蜜月は長く続かず、喧嘩別れの後、[[1908年]][[サンクトペテルブルク帝室アレクサンドリンスキー劇場]]および[[マリインスキー劇場]]の演出家となる。両劇場時代、メイエルホリドは世界各国の演劇研究に取り組み、その中でも伝統的な民衆演劇を応用した。メイエルホリドは、[[ミハイル・レールモントフ|レールモントフ]]作『仮面舞踏会』、[[モリエール]]作『[[ドン・ジュアン]]』、[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]作『[[トリスタンとイゾルデ (楽劇)|トリスタンとイゾルデ]]』その他を演出し、[[ロシア革命]]直前、直後の混迷するロシア演劇界にあって、演劇の革新という観点で独自の足跡を残した。メイエルホリドは、自分たち演技者と観客との有機的接触を求め演劇・演出の手法を探求していった。そのような実験的手法の中から、客席と舞台との連続性の強調、舞台における非日常性の強調、[[映画]]の[[モンタージュ]]形式に共通する時空間など演出手法を確立するに至った<ref>{{Cite book|和書|author=P・パスカル|authorlink=ピエール・パスカル|year=1980|title=ロシア・ルネサンス|publisher=みすゞ書房|page=44}}</ref>。
 
[[1917年]]、ロシア革命によってメイエルホリドは実験的演出および演劇の革新実現の絶好の機会が到来したと考え、積極的に革命に参画した。メイエルホリドはロシアの演劇人中、一番早く革命を歓迎した一人であり、[[1918年]]8月にはすでに[[ソ連共産党|ロシア共産党]](ボリシェビキ)に入党している。同年から[[1921年]]までソ連教育人民委員部([[文部省]])の演劇部門を統括する。1918年秋、革命1周年を祝して[[ウラジーミル・マヤコフスキー|マヤコフスキー]]作『ミステリヤ・ブッフ』を演出・上演するが、これはソ連時代、職業的演劇人の担い手になる最初の社会主義的演劇との評価を受けていた。『ミステリヤ・ブッフ』の上演以来、演劇革命ともいえる「演劇の十月」を唱え、新時代にふさわしい新しい演劇の創造運動に邁進する。それはたとえば、舞台と観客の融合をはかった『曙』、大胆な構成主義の舞台を展開した『堂々たるコキュ』、ソビエトの現実をするどく風刺した『南京虫』『風呂』、古典を見事に現代化した『森林』『検察官』『知恵の悲しき』等の舞台演出に結実することになる。また、国立高等演劇工房では、後の映画監督[[セルゲイ・エイゼンシュテイン]]らを養成している。革命後は、アジ・プロ演劇手法の確立、[[コメディア・デラルテ]]、[[サーカス]]などの動きと、科学的な生産の時間・動作研究であるテイラー・システムなどを参考にしつつ、機械的イメージとを組み合わせた身体訓練法「'''[[ビオメハニカ]]'''([[w:Biomechanics|Biomechanics]])」の提唱などを次々と行い[[1920年代]]におけるソビエト・ロシア演劇はもとより20世紀前半の国際演劇に大きな影響を与えた。すなわち演劇における身体性・集団性の復権である。そしてまた、当時若手の作曲家[[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ]]とも親交があり、自らの劇場の音楽部長に任命し、戯曲南京虫の舞台音楽を依頼している。
 
[[1923年]][[ロシア共和国人民芸術家]]の称号を授与された。また、同年メイエルホリド劇場を創立するとともに、[[1924年]]までメイエルホリド劇場と[[モスクワ革命劇場]]の芸術指導者を兼務する{{Efn|日本からアメリカをへて亡命していた[[佐野碩]]がメイエルホリドの第一演出助手になったのは[[1932年]]である<ref>{{Cite book|和書|author=岡村春彦|year=1978|title=思想の科学No.93より|publisher=思想の科学社|page=44}}</ref>。}}。しかし、演劇創作の絶対的自由と不断の革新を目指すメイエルホリドの姿勢は、スターリンに代表される共産党官僚の[[全体主義]]的統制と相対するようになった。
 
[[1938年]]1月、形式主義文化の害毒を流布していると批判されてメイエルホリド劇場は閉鎖され{{Efn|「この時代に青年俳優に有害な、破壊的な影響を与えたのは、形象の心理的内容を軽視した、演劇における形式主義の代表者たちである。形式主義者は俳優の創造を去勢し、これを現実から引離し、外面的・皮相的な、空虚なものとした。彼らは生きた形象を条件的・図式的なマスクに変え、作品の思想的意図を無視し、戯曲を独立した演劇的実験の単なる口実とみなし、俳優を演出者の構想の奴隷のように従順な遂行者とした。」といった断定が、当時の公式見解となった<ref>{{Cite book|和書|author=P・マールコフ、N・チューシキン|year=1958|title=モスクワ藝術座六十年史|publisher=筑摩書房|page=69}}</ref>。}}{{Efn|メイエルホリドは劇場をとりあげられたがオペラの演出は許されているらしい、とデンマークに滞在していた劇作家ブレヒトは1939年1月の日誌に書いている<ref>{{Cite book|和書|author=B・ブレヒト|year=1976|title=ブレヒト作業日誌1|publisher=河出書房新社|page=26}}</ref>。}}、メイエルホリドは[[1939年]]6月14日の第一回全ソ演出家会議で自己批判を要求されたがそれを拒否し、「ソ連共産党は形式主義を狩り出すつもりで、芸術を殺してしまった」と非難したために、その翌日に投獄される<ref>{{Cite book|和書|author=J・アンネンコフ|year=1971|title=同時代人の肖像 中|publisher=現代思潮社|page=295}}</ref>。以後も弾圧は続き逮捕・投獄され、残忍な[[拷問]]を受けた末にフランス、[[日本]]と[[イギリス]]の諜報部に協力したと供述させられた。入獄時のきびしい取調べは、現存するメイエルホリド本人の[[アンドレイ・ヴィシンスキー|ヴィシンスキー]]判事宛の嘆願書に描かれているが、スターリン粛清時のむごたらしさをも伺うことができる貴重な文献である(この他に、[[ヴャチェスラフ・モロトフ|モロトフ]]あての手紙も現存している)。
 
[[1938年]]1月、形式主義文化の害毒を流布していると批判されてメイエルホリド劇場は閉鎖され{{Efn|「この時代に青年俳優に有害な、破壊的な影響を与えたのは、形象の心理的内容を軽視した、演劇における形式主義の代表者たちである。形式主義者は俳優の創造を去勢し、これを現実から引離し、外面的・皮相的な、空虚なものとした。彼らは生きた形象を条件的・図式的なマスクに変え、作品の思想的意図を無視し、戯曲を独立した演劇的実験の単なる口実とみなし、俳優を演出者の構想の奴隷のように従順な遂行者とした。」といった断定が、当時の公式見解となった<ref>{{Cite book|和書|author=P・マールコフ、N・チューシキン|year=1958|title=モスクワ藝術座六十年史|publisher=筑摩書房|page=69}}</ref>。}}{{Efn|メイエルホリドは劇場をとりあげられたがオペラの演出は許されているらしい、とデンマークに滞在していた劇作家[[ベルトルト・ブレヒト|ブレヒト]]は1939年1月の日誌に書いている<ref>{{Cite book|和書|author=B・ブレヒト|year=1976|title=ブレヒト作業日誌1|publisher=河出書房新社|page=26}}</ref>。}}、メイエルホリドは[[1939年]]6月14日の第1回全ソ演出家会議で自己批判を要求されたがそれを拒否し、「ソ連共産党は形式主義を狩り出すつもりで、芸術を殺してしまった」と非難したため、その翌日に投獄される<ref>{{Cite book|和書|author=J・アンネンコフ|year=1971|title=同時代人の肖像 中|publisher=現代思潮社|page=295}}</ref>。以後も弾圧は続き逮捕・投獄され、残忍な[[拷問]]を受けた末にフランス、[[日本]]と[[イギリス]]の諜報部に協力したと供述させられた。入獄時のきびしい取調べは、現存するメイエルホリド本人の[[アンドレイ・ヴィシンスキー|ヴィシンスキー]]判事宛の嘆願書に描かれているが、スターリン粛清時のむごたらしさをも伺うことができる貴重な文献である(この他に、[[ヴャチェスラフ・モロトフ|モロトフ]]あての手紙も現存している)
{{Quotation|彼等は私の頭を下向けにしたまま床に尽き転がした。足の裏と背中を固いゴムの警棒で殴った。殴打は連日続いた。ようやく座ることが許される。それでも、同じ所を殴り続けるので内出血が酷く熱湯を浴びせられるような痛みに襲われる。あまりの苦しさに大声で泣き叫ぶ。しかし、取調官は、'''じゃあ供述書に署名せよ。でないと殴り続けることになる。頭と右手以外は血まみれだぞ。'''そう脅された私は、[[1939年]][[11月16日]]、供述書に署名したのである。}}
 
そしてメイエルホリドは、[[1940年]][[2月1日]]に死刑判決を受け、(おそらく)翌日に銃殺された。
 
自身の妻で女優のジナイーダ・ライヒは夫の逮捕後の[[1939年]][[7月15日]]に、モスクワ市ブリューソフ小路の自宅で何者かによって殺害されている。[[ゲーペーウー|GPU]]による[[粛清]]説が有力である。[[ショスタコーヴィチの証言]]によれば、ライヒのうめき声が何時間も続いたが、隣人たちは関わり合いを恐れて誰一人様子を見に行かなかったという。
 
スターリンの死後、非スターリン化に伴い、[[1955年]][[11月28日]]、ソ連最高軍事部会はメイエルホリドの名誉回復を発表した。
 
== 家族 ==
* 妻:ジナイーダ・ライヒ…女優
* 義妹:エカテリーナ・ムント…女優、[[モスクワ芸術座]]団員
 
== 関連文献 ==
妻:ジナイーダ・ライヒ…女優
 
義妹:エカテリーナ・ムント…女優、[[モスクワ芸術座]]団員
==関連文献==
*『メイエルホリド・ベストセレクション』諌早勇ほか訳、[[作品社]]、2001年
*エドワード・ブローン 『メイエルホリド演劇の革命』[[浦雅春]]・伊藤愉訳 水声社、2008年
*エドワード・ブローン 『メイエルホリドの全体像』浦雅春訳、晶文社、1982年 品切
*[[伊藤俊也]]『メイエルホリドな、余りにメイエルホリドな』 れんが書房新社、2009年
*『メイエルホリド 粛清と名誉回復』佐藤恭子訳、[[岩波書店]]、1990年
*佐藤恭子『メイエルホリド』[[早川書房]] 1976年 絶版
 
以下の文献には杉本良吉、[[岡田嘉子]]と、メイエルホリド[[大粛清|粛清]]の関連についての章がある。ただし、名越の「杉本の虚偽の供述がメイエルホリド粛清の口実にされた」という見解について、武田は「粛清は規定の方針で、杉本はその最後の仕上げに利用されたにすぎない」としている。
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* 名越健郎『クレムリン秘密文書は語る』[[中公新書]]、1994年
 
== 注釈 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Notelist}}
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== 関連項目 ==
{{commonscat|Vsevolod Meyerhold}}
* [[{{仮リンク|イーゴリ・イリインスキー]]([[:|en:Igor Ilyinsky|Igor Ilyinsky]])}}
* [[{{仮リンク|ニコライ・オフロープコフ]]([[:|en:Nikolay Okhlopkov|Nikolay Okhlopkov]])}}
* [[マイケル・チェーホフ]]
* [[エフゲニー・ワフタンゴフ]]([[:en:Yevgeny Vakhtangov|Yevgeny Vakhtangov]])
* {{仮リンク|セルゲイ・トレチャコフ (劇作家)|en|Sergei Tretyakov (writer)}}
* [[舞台演出家の一覧]]([[:en:List of theatre directors|List of theatre directors]])
* [[佐野碩]] - ソ連滞在時にメイエルホリドに師事。
* [[杉本良吉]]、[[岡田嘉子]] - ソ連当局からスパイと疑われ、メイエルホリド粛清の口実の一つにされた。
* [[大粛清]]
 
== 外部リンク ==
* [http://www.britannica.com/eb/print?eu=53712 Meyerhold in the Encyclopædia Britannica]
* [http://www.meyerhold.org Meyerhold Memorial Museum]
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[[Category:ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国人民芸術家]]
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