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{{大統領
| 人名 = {{big|{{ruby|毛|もう}} {{ruby|沢東|たくとう}}}}
| native_name={{ruby|{{zh|毛泽东}}|マオ・ツォートン}}|native_name_lang=zh}}
| native_name_lang=zh
| 画像サイズ = 202px
| 画像 = Mao Zedong in 1959 (cropped).jpg
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| 宗教 = 無神論
| 政党 = [[File:Naval_Jack_of_the_Republic_of_China.svg|border|25x20px]] [[中国国民党]]<br/>(1923年6月 - 1927年4月)<br>[[ファイル:Flag of the Chinese Communist Party (Pre-1996).svg|25px|border]] [[中国共産党]]<br/>(1921年7月 - 1976年9月)
 
| 国名2 = [[ファイル:Flag of the Chinese Communist Party (Pre-1996).svg|25px|border]] [[中国共産党]]
| 職名2 = 初代[[中国共産党中央委員会主席|中央委員会主席]]
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| 元首職7 = 最高指導者
| 元首7 = 毛沢東
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{{中華圏の人物
| 名前=毛沢東
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{{毛沢東思想のサイドバー}}
 
'''毛 沢東'''<ref group="注釈">字は詠芝、潤芝、潤之で、筆名は子任である。</ref>(もう たくとう、マオ・ツォートン<ref name="yomi">{{Cite Kotobank|word=毛沢東|encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ)|accessdate=2022-11-23}}</ref>、{{簡体字|毛泽东}}、{{lang-en|Mao Zedong/Mao Tse-Tung}}、[[1893年]][[12月26日]]〈光緒19年[[11月19日 (旧暦)|11月19日]]〉 - [[1976年]][[9月9日]])は、[[中華人民共和国]]の[[政治家]]、[[思想家]]<ref>{{Cite Kotobank|word=毛沢東|encyclopedia=ブリタニカ国際大百科事典|accessdate=2021-12-14}} "中国の政治家,思想家。"</ref>。[[1921年]]7月に創立された[[中国共産党]]の創立党員の1人で、[[長征]]と[[日中戦争]]を経て党内の指導権を獲得した、[[1945年]]より[[中国共産党中央委員会主席]]を務めた。日中戦争後の[[国共内戦]]では[[蔣介石]]率いる[[中華民国]]政府を[[台湾]]に追放し、[[1949年]][[10月1日]]に'''[[中華人民共和国]]の建国'''を宣言した。1949年10月から[[1976年]]9月まで同国の[[中華人民共和国の最高指導者一覧|最高指導者]]であった。
 
== 生涯 ==
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1893年12月26日([[光緒]]19年[[11月19日 (旧暦)|11月19日]])、[[清]]の[[湖南省]][[湘潭県]][[韶山市|韶山沖]]([[毛沢東故居]]参照)にて、父の[[毛貽昌]]と母の文素勤の間に5人兄弟の三男として誕生する。ただし長男と次男は夭逝したため、事実上の長男扱いであった。毛沢東はその才覚で[[地主]]まで成り上がった厳格な父によって、子供のうちから労働に従事させられつつ勉学にも励んだ。[[1907年]]には4歳年上の[[羅一秀]]と最初の[[結婚]]をする。しかし親に押し付けられた結婚であったため激しく反発し、結局一度も羅一秀とは同居することなく[[1910年]]2月に妻は[[赤痢]]のためにわずか20歳で死去した。
 
従兄から贈られた中国の近代化を説く本に刺激を受けた毛沢東は、1910年秋に故郷の韶山を離れて湘郷県立東山高等小学校に入学した。この学校では[[康有為]]や[[梁啓超]]らの思想を学び、影響を受けた。[[1911年]]春に毛は[[長沙]]に赴き、[[湘郷駐省]]中学への入学を希望した。同年10月に[[辛亥革命]]が勃発すると、清中央政府に反旗を翻した[[湖南]]駐屯の第25混成協第50標第1営左隊に入隊する<ref>{{cite web|url= http://dangshi.people.com.cn/GB/17725643.html |title= 毛泽东:从新军列兵到共和国最高军事统帅 |newspaper= 人民网|date=2012-04-23|accessdate=2019-02-26}}</ref>。半年後、[[清|清朝]]が事実上崩壊したことにより、毛は軍を除隊して学校へ戻った<ref>{{cite book |last=Feigon |first=Lee |title=Mao: A Reinterpretation |year=2002 |publisher=Ivan R. Dee |location=Chicago |isbn=1566635225 |pages=17 }}</ref>。1912年、長沙の湖南全省公立高等中学校(現在の長沙市第一中学)に入学し、中学への入学の際に[[明治維新]]に関心を持っていた毛は、父に[[幕末]]の僧である[[月性]]の詩の「将東遊題壁」を贈り、意気込みを示した{{efn|{{quotation|<poem>
 
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{{Lang|zh-tw|男兒立志出郷關}}
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|毛沢東年譜<ref>{{Cite web |title=伟人之初:孩儿立志出乡关--党史频道-中国共产党新闻网 |url=http://dangshi.people.com.cn/n1/2021/0125/c85037-32011120.html |website=dangshi.people.com.cn |access-date=2022-06-19}}</ref>}}
 
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|title=碇豊長の詩詞 詩詞世界
|accessdate=2010-08-01
}}</ref>」日本漢詩選}}}}。
 
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[[1913年]]春に湖南省立第四師範学校に入学し、さらに翌年秋には湖南省立第一師範学校に編入した。いくつかの学校を転々とする間、毛沢東は[[アダム・スミス]]や[[シャルル・ド・モンテスキュー|モンテスキュー]]などの[[社会科学]]系の書物に触れた。
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=== 第一次国共内戦 ===
毛は国共合作において重要な役割を果たしていたが、[[1927年]][[4月12日]]の[[上海クーデター]]で国共合作は崩壊した。その直後の[[4月27日]]から[[5月10日]]にかけて開催された第5回党大会で毛は中央委員会候補委員に選出された。[[8月7日]]に[[漢口]]において開催された党中央緊急会議(「[[八七会議]]」)において、毛は「[[:zh:枪杆子里面出政权|武力で政権を打ち立てる]]」方針を提案し、国民党との武装闘争が党の方針として決議された。さらに毛は臨時中央政治局候補委員に選出された。「八七会議」の決議を受けた毛は、[[9月9日]]に湖南省で武装蜂起するも失敗し([[秋収起義]])、配下の農民兵と共に孤立して家族とも離れて湖南省と江西省の境にある[[井崗山]]に立てこもることになった。なお、この根拠地に潜伏中、[[江西省]]出身の女性の[[賀子珍]]と暮らすようになり<ref>{{Cite book |author=Hollingworth, Clare |year=1985 |url=https://lccn.loc.gov/85175644 |title=Mao and the men against him |publisher=Jonathan Cape, London |ISBN=0224017608 |crid=1130000797105864576 |page=45}}</ref>、[[1929年]]には長女が誕生している。[[1927年]]11月、上海の党臨時中央政治局は拡大会議を開き、毛は会議に欠席のまま政治局候補委員から解任された。[[1928年]]7月、第6回党大会において中央委員に選出。
 
井崗山を最初の革命根拠地として選んだ毛沢東は、[[1929年]]から[[1931年]]にかけて湖南省・江西省・[[福建省]]・[[浙江省]]の各地に農村根拠地を拡大し、地主・富農の土地・財産を没収して貧しい農民に分配するという「土地革命」を実施していった。毛沢東は江西省[[瑞金]]に建設された中央革命根拠地である「江西ソビエト」に移り、1931年11月に瑞金を首都とする「[[中華ソビエト共和国|中華ソビエト共和国臨時中央政府]]」の樹立を宣言してその主席となった。しかし、江西ソビエトを始めとする中国共産党の根拠地は国民党軍の執拗な攻撃にさらされた。国民党軍による包囲に対して、毛や[[朱徳]]など前線司令部は「敵の先鋒を避け、戦機を窺い、その後に兵力を集中して敵軍を各個撃破する」という[[ゲリラ]]作戦をたてたが、上海にある党臨時中央政治局は、積極的に出撃して敵の主力を攻撃し、国民党軍による包囲を粉砕することを前線に求めてきた<ref>高文謙『周恩来秘録 党機密文書は語る』上(上村幸治訳、文藝春秋、2007年)、48ページ。</ref>。毛の作戦はソ連留学組中心だった党指導部によって批判され、[[1932年]]10月、毛は軍の指揮権を失った。また、毛が推進していた「土地革命」も批判の対象となり、中止に追い込まれた。さらに[[1933年]]1月、中国共産党の本部が上海から瑞金に移転し、党指導部が毛に代わって中央革命根拠地における主導権を掌握した。毛は[[1934年]]1月の第6期党中央委員会第5回全体会議(第6期5中全会)で中央政治局委員に選出されたものの、実権を持つことはなかった。
 
国民党軍の度重なる攻撃によって根拠地を維持できなくなった[[紅軍]]は、1934年10月18日についに江西ソビエトを放棄して敗走し、いわゆる「[[長征]]」を開始する。この最中の[[1935年]][[1月15日]]に、[[貴州省]]遵義で開かれた[[中国共産党中央政治局]]拡大会議([[遵義会議]])で、[[博古]]らソ連留学組中心の党指導部は軍事指導の失敗を批判されて失脚し、新たに[[周恩来]]を最高軍事指導者、[[:zh:张闻天|張聞天]]を党中央の総責任者とする新指導部が発足した。毛沢東は中央書記処書記(現在の[[中国共産党中央政治局常務委員会|中央政治局常務委員]])に選出されて新指導部の一員となり、周恩来の補佐役となった。しかし、毛沢東は周恩来から実権を奪っていき、[[8月19日]]、中央書記処の決定により、毛沢東は周恩来に代わって軍事上の最高指導者の地位に就いた。[[1936年]]秋には[[陝西省]][[延安]]に根拠地を定め、以後[[自給自足]]のゲリラ戦を指示し、消耗を防ぎながら抵抗活動を続ける。同年[[12月7日]]に朱徳に代わって中華ソビエト共和国中央革命軍事委員会(紅軍の指導機関)主席に就任して正式に軍権を掌握。5日後の[[12月12日]]に西安で起きた[[張学良]]・[[楊虎城]]らによる蔣介石監禁事件([[西安事件]])で、コミンテルンの仲介により宿敵である蔣介石と手を結び、[[国共合作|第二次国共合作]]を構築。翌年、中華ソビエト共和国は「中華民国陝甘寧辺区政府」に、紅軍は「国民革命軍第八路軍([[八路軍]])」に改組された。中華ソビエト共和国中央革命軍事委員会も中国共産党中央革命軍事委員会(現在の[[中国共産党中央軍事委員会]])に改組され、毛沢東は改めてその主席に就任した。
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朝鮮戦争勃発直前の1950年6月20日、毛沢東は「中華人民共和国土地改革法」を公布した。これは、かつて中国共産党が支配地域で実施していた「土地革命」を、全国の未実施地域で行おうとするものであった。ただし、この法律は従来の「土地革命」とは異なり、「富農経済の保護」を打ち出し、「穏健で秩序ある」改革をめざすものであった<ref group="注釈">改革は3つの段階をふまえて実施された。第1段階は匪賊の粛清と小作料・不当税・権利金などを地主から取りもどすこと、第2段階は農村の階級区分・土地の分配、第3段階は農村の整頓(地主たちの処遇・土地証書の発行など)と生産活動の準備である。</ref>。この改革によって、各種の農業生産高は一気に増大した<ref>天児(2004年)、109-112ページ。</ref>。なお、同時期の工業は、農業以上に生産の伸長が著しかった。毛はまた、[[1951年]]末から汚職・浪費・官僚主義に反対する「[[三反五反運動|三反運動]]」を、[[1952年]]初から贈賄・脱税・国家資材の横領と手抜き・材料のごまかし・経済情報の窃盗に反対する「[[三反五反運動|五反運動]]」を展開した。「三反運動」は行政組織のスリム化と透明化をめざすものであったが、「五反運動」は事実上民族資本家や金融関係者が対象となり、商工業者に深刻な打撃を与えた<ref>天児(2004年)、99-100ページ。</ref>。その後インドシナ戦争でベトナムを支援した。
 
=== 暴君過激化 ===
[[ファイル:Mao Zedong sitting.jpg|200px|thumb|right|[[毛主席語録]]に掲載された毛沢東の[[人物写真|ポートレイト]]、1955年]]
建国当初、新民主主義社会の建設を目標に、「穏健で秩序ある」改革を進めていた毛沢東は、1952年[[9月24日]]、突如として社会主義への移行を表明した。1950年の全国政治協商会議第2回会議で社会主義への移行は「かなり遠い将来のこと」と発言していた毛が、急進的に社会主義を導入しようと方針転換したことは、周恩来や[[劉少奇]]など多くの指導者を困惑させた。しかし、毛は[[1953年]]1月より[[ソ連型社会主義]]の[[計画経済]]をモデルとした第一次[[五カ年計画]]を開始させ、農業の集団化などの社会主義化政策を推進していった。第一次五カ年計画は重化学工業への投資で高い経済成長を達成し<ref group="注釈">国家統計局国民経済綜合統計司編 (2009) p.12 表1-9 国内生産総値指数によると、1952年の実質GDPを100とすると1957年の実質GDPは155.6となり、平均すると年率<math>9.2\%( =(\sqrt[5]{\frac{155.6}{100}}-1)*100 )</math>成長している。</ref>、当時の中国の[[国内総生産|GDP]]は同様に戦後復興を進めていた日本より上回っていた。
 
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反右派闘争によって共産党に批判的な知識人層の排除に成功した毛沢東は、急進的社会主義建設路線の完成をめざした。毛は「[[イギリス]]を15年以内に追い越す」ことを目標として、[[1958年]]に[[大躍進政策]]を発動。大量の鉄増産のため、農村での[[人海戦術]]に頼る「土法高炉」と呼ばれる原始的な製造法による小規模分散生産を採用し、量のみを重視し質は全く度外視したため、使い物にならない鉄くずが大量に生産された。農村では「[[人民公社]]」が組織されたが、かえって農民の生産意欲を奪い、無謀な生産目標に対して実際よりも水増しされた報告書が中央に回るだけの結果になった。こういったことから大躍進政策は失敗し、続いて「3ケ年自然災害」が発生。大躍進政策発動から数年間で推定2000万人から5500万人の餓死者を出した<ref>https://thediplomat.com/2023/01/xi-jinpings-great-leap/</ref><ref>https://www.theguardian.com/world/2015/oct/23/chairman-mao-must-be-smiling-in-heaven</ref>([[中華人民共和国大飢饉]])。
 
このことで「世界三大[[ジェノサイド|大量殺戮]]者」として、[[ドイツ]]の[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]や[[ビエト邦|ソ連]][[ヨシフ・スターリン|スターリン]]と共に揶揄されることとなった。この失敗以降、毛沢東の政策は次第に現実離れしていき、批判を受け付けない独裁的な傾向が強くなっていき、後の文化大革命につながる
 
=== 中ソ対立 ===
[[File:Mao Tsé-toung, portrait en buste, assis, faisant face à Nikita Khrouchtchev, pendant la visite du chef russe 1958 à Pékin.jpg|thumb|フルシチョフと毛沢東(1958年・北京にて)]]
スターリン批判や対アメリカ政策をめぐって毛沢東はソ連の指導者フルシチョフと不仲となり、[[19501956]]後半から[[中ソ対立]]が深刻化していった。[[1960年]]には中華人民共和国に派遣されていたソ連の技術者全員が引き上げたほか、[[1962年]]の[[キューバ危機]]では、中華人民共和国政府はソビエト政府の対応を公式に非難した。さらに[[1963年]]からは中国共産党とソ連共産党の公開論争が開始されてイデオロギー面の対立も深まるなど、かつて蜜月であった中ソ関係は一気に冷え込むこととなり、毛沢東はかつて自ら掲げた「向ソ一辺倒」と決別して[[自力更生]]を掲げるようになった。理論面でも[[3つの世界論]]を唱えてソ連や米国と一線を画す[[第三世界]]に中華人民共和国を分類した。また、[[ロシア帝国]]最後の皇帝[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]とその一家を虐殺したソ連に対する中華人民共和国の優越性を示すとして清朝最後の皇帝で日本の傀儡国家[[満州国]]の皇帝でもあった[[愛新覚羅溥儀]]を[[洗脳|思想改造]]して今度は共産党の傀儡にすることで政治的に利用した<ref>{{cite book |author= Edward Behr|date=1987 |title=The Last Emperor |publisher=Futura |pages=283-285 |isbn=9780773680258}}</ref>。
 
[[1964年]]から[[1965年]]にかけてはアメリカで[[弾道ミサイル]]を開発していた[[銭学森]]をはじめとする海外から帰国した科学者の協力で[[両弾一星]]を推し進めて[[596 (核実験)|中国初の核実験]]を実施し、中華人民共和国をアメリカ合衆国・ソビエト連邦・イギリス・フランスに続くアジア初の[[核保有国の一覧|公式核保有国]]にさせ、[[原子爆弾]]の開発からわずか2年と8ヶ月で[[水素爆弾]]を開発した。これは[[五大国]]の中でも最速だった<ref>"China's Nuclear Weapon Development, Modernization and Testing". Nuclear Threat Initiative. September 26, 2003. </ref>。さらに核弾頭搭載可能な[[DF-2 (ミサイル)|東風2号]]ミサイル発射試験に成功して核爆弾搭載可能な[[戦略爆撃機]]など[[戦略兵器]]を次々に開発して軍事的にもソ連から自立するようになった。1969年3月には[[中ソ国境紛争]]が発生、両国は交戦するに至り、[[核戦争]]の可能性も起きた。また、自らを称賛する[[東方紅]]を宇宙から流す[[人工衛星]]の[[東方紅1号]]を打ち上げ、[[曙光1号]]による有人宇宙飛行も計画するなどソ連に対抗して[[中国の宇宙開発]]も推し進めた。
 
=== 文化大革命 ===
[[ファイル:MaoZedong19660818.jpg|200px|thumb|right|紅衛兵の歓呼に答礼する毛沢東、1966年8月]]
[[ファイル:Mao Zedong with a family.jpg|サムネイル|故郷の[[韶山市|韶山]]で農民たちと談笑する毛沢東]]
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毛沢東の体調悪化と時を同じくして、文化大革命による混乱の収拾と国家行政の再建に尽力していた国務院総理の周恩来も膀胱癌が悪化して病床を離れられなくなった。毛は周恩来の補佐として、[[1973年]]に鄧小平を復活させ、[[1974年]]には鄧を[[国務院副総理|国務院常務副総理]](第一副首相)に任命した。さらに、[[鄧小平]]は病床の周恩来に代わり、1975年1月より党と国家の日常業務を主宰するようになった。鄧小平は文革路線からの脱却を図ろうとしたが、文革を推進してきた江青ら[[四人組]]は反発し、周恩来・鄧小平批判を繰り返した。毛沢東の連絡員となった毛遠新は四人組のシンパであり、病床にあった毛沢東に対して鄧小平批判を伝えていた。毛沢東も文革を否定する鄧小平を批判するようになった。[[1976年]][[1月8日]]の周恩来死去をきっかけに、同年[[4月5日]]、[[四五天安門事件|第一次天安門事件]]が発生すると、毛は[[鄧小平]]を再度失脚させた。
 
周恩来・朱徳(1976年[[7月6日]]没)と、「革命の元勲」が立て続けにこの世を去るなか、1976年9月9日0時10分、北京の[[中南海]]にある自宅において、毛沢東は82歳で死去した<ref>[https://www.ina.fr/ina-eclaire-actu/video/cab04001361/le-journal-a2-20h-emission-du-9-septembre-1976 Le Journal A2 20H : émission du 9 septembre 1976] - [[フランス国立視聴覚研究所|INA]]{{fr icon}}</ref><ref>{{YouTube|oN8XwSwE36Q|20h Antenne 2 du 09 septembre 1976 - Mao Zedong est mort}} - [[フランス国立視聴覚研究所|INA Actu]]{{fr icon}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|title=毛沢東主席死去|journal=アジア時報|url={{国立国会図書館デジタルコレクション|NDLJP|7976280/3}}|url-access=registration|volume=7|issue=10|publisher=アジア調査会|date=1976-10-01|pages=2 - 6|id={{NDLJP|7976280/3}}}}</ref>。[[中国中央電視台|北京電視台]]で午後7時からの放送開始時に葬送曲と[[インターナショナル (歌)|インターナショナル]]を流した後に、中国共産党中央委員会からの訃告を読み上げた<ref>{{Cite journal|和書|title=放送デスクメモ(76・九~十) / N|journal=マスコミ市民 : ジャーナリストと市民を結ぶ情報誌|url={{国立国会図書館デジタルコレクション|3463773/28}}|url-access=registration|issue=111|publisher=日本マスコミ市民会議|date=1977-02-01|pages=52 - 57|id={{NDLJP|3463773/28}}}}</ref>。日本ではNHKが午後5時10分に「毛主席死去」と速報を表示した<ref>{{NHKアーカイブス|A197609099999991300100|ニュース速報・字幕スーパー}}</ref>。1976年9月18日には[[天安門広場]]で国葬が実施された<ref>[https://www.ina.fr/ina-eclaire-actu/video/cab04001941/le-journal-a2-20h-emission-du-18-septembre-1976 Le Journal A2 20H : émission du 18 septembre 1976] - [[フランス国立視聴覚研究所|INA]]{{fr icon}}</ref><ref>{{YouTube|yGm19bP9NG4|JA2 20H : EMISSION DU 18 SEPTEMBRE 1976}} - [[フランス国立視聴覚研究所|INA Actu]]{{fr icon}}</ref>。なお毛沢東の死の直後に腹心の江青・[[張春橋]]・姚文元・[[王洪文]]の4人組は逮捕・投獄され、文化大革命は事実上終結した。遺体は現在[[北京市]]内の[[天安門広場]]にある[[毛主席紀念堂]]内に安置され、永久保存・一般公開されている。
 
== 死後の評価 ==
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[[ファイル:HXD3D 1893 and T1@BJI (20141228153112).JPG|right|200px|thumb|中国国鉄“毛沢東号”機関車(6代目,[[中国国鉄HXD3D型電気機関車|HXD3D]]-1893)]]
[[タイム (雑誌)|タイム誌]]の[[タイム100: 今世紀最も重要な人物|20世紀の重要人物]]の1人に選出された<ref>[http://www.time.com/time/time100/leaders/profile/mao.html Time 100: Mao Zedong] By Jonathan D. Spence, 13 April 1998.</ref>。毛沢東の政策については、現在でも議論の対象となっている。研究者は毛沢東の引き起こした[[大躍進政策]]と[[文化大革命]]のような、[[中華文化|文化]]・社会・[[中華人民共和国の経済|経済]]・[[中華人民共和国の国際関係|外交]]に重大な損害をもたらした問題について非難すると共に、彼の政策による犠牲者を数千万と推定する<ref name="deathtoll">{{cite book |last=Short |first=Philip |title=Mao: A Life |url=https://books.google.co.jp/books?id=4y6mACbLWGsC&pg=PA631&dq=mao+a+life+all+the+dead+of+the+second+world+war&ei=V8N5SaWvCIuYMrK0-KwL&redir_esc=y&hl=ja |year=2001 |publisher=Owl Books |isbn=0805066381 |page=631}}; [[Jung Chang|Chang, Jung]] and [[Jon Halliday|Halliday, Jon]]. ''[[Mao: The Unknown Story]].'' [[Jonathan Cape]], London, 2005. ISBN 0-224-07126-2 p. 3; [[R. J. Rummel|Rummel, R. J.]] ''[http://www.hawaii.edu/powerkills/NOTE2.HTM China’s Bloody Century: Genocide and Mass Murder Since 1900]'' [[Transaction Publishers]], 1991. ISBN 0-88738-417-X p. 205: In light of recent evidence, Rummel has increased Mao's [[democide]] toll to [http://hawaiireporter.com/story.aspx?1c1d76bb-290c-447b-82dd-e295ff0d3d59 77 million]. See also: {{cite web |url=http://users.erols.com/mwhite28/warstat1.htm#Mao |title=Source List and Detailed Death Tolls for the Twentieth Century Hemoclysm |accessdate=2008-08-23 |publisher=Historical Atlas of the Twentieth Century}}</ref>。そして、[[マルクス・レーニン主義]]を中国社会に導入しようと自らが確立した[[毛沢東思想]]に基づく毛の政策は、産業の面において結局失敗に終わったと論じる<ref name="deathtoll"/>。
だが、統一国家である中華人民共和国を建国し、当時は低かった中国における識字率を急速に上昇させた事は評価される点である。こうした事から、毛沢東は良くも悪くも中国に多大なる影響を与えた人物であるとして扱われる。
 
=== 文化大革命の清算 ===
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一般に文革を経験した世代は毛沢東を手放しで賞賛することは少ないが、直接文革を経験していない若い世代はそれほど警戒的ではないとされる。第二次天安門事件の後、生誕100周年に当たる[[1993年]]前後に毛沢東ブームが起こったのをはじめ、関連商品などが何度か流行したこともある。
 
毛沢東の死後の中国は[[改革開放]]によって経済が発展する一方、所得格差の拡大・党幹部と官僚の腐敗といった社会矛盾が顕著になっていった。そのような状況の下で困窮に苦しむ人々が貧しい農業国でも平等だった毛沢東時代の中国を懐かしみ、毛の肖像・『毛沢東語録』を掲げて抗議活動を行う事例もある。毛の117回目の誕生日に当たる[[2010年]][[12月26日]]には、北京で陳情者らが「毛沢東万歳」と叫びながらデモを行った<ref>{{cite news |title= 格差社会の中国に「毛沢東ブーム」 生誕の日、陳情者ら1000人 |author= 矢板明夫 |url= https://web.archive.org/web/20110519203409/http://sankei.jp.msn.com/world/china/101229/chn1012290019001-n1.htm |newspaper= MSN産経ニュース |publisher= [[産経新聞]] |date= 2010-12-29 |accessdate= 2011-01-12}}{{リンク切れ|date=2021年4月}}</ref>。
 
== 毛沢東の言葉・思想 ==
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* 毛沢東は[[呂蒙]]に感銘を受けた人物の一人であり、部下への訓告に際しては度々呂蒙の生きざまを引き合いに出している。彼自身、幾度も『呂蒙伝』を読み込んでおり、特に[[孫権]]が呂蒙の事を論じた『学門開益、籌略奇至(学問に懸命に取り組み、ずば抜けた策略を得るに至った)』という言葉を大いに気に入っていた。また、[[陳寿]]が評した『呂蒙勇而有謀』の六字を部屋中にびっしりと書き加えていたという逸話もある。1958年に安徽省へ視察へ出向いた際には、同行していた[[羅瑞卿]]や[[張治中]]へ「呂蒙は一兵卒として従軍し、驍勇にして胆略を有していたが、教養を持っていなかった。将軍となってからもそれは変わらず、軍事上の報告をする際には口述して書き写させていた。甚だ不便といえる。孫権が彼に書を読むよう勧めると、彼は軍務が多忙で時間が無いと言ったが、孫権は自らを引き合いに出し、ただやると決心する事が重要であり、時間など大した問題ではないと説いた。呂蒙は孫権の忠告を聞き入れ、刻苦しながらも自ら勉学に励み、数年の後には別人のようになった。そして後に東呉の将帥となり、数多の戦を勝利に導き、関羽を麦城へ敗走させたのだ。我が軍の高級官僚も十中八九が行伍(一兵卒)の出身であり、今になって教養を学んでいる。彼らは『呂蒙伝』を読まないわけにはいかぬ」と語った。また、その後もある時には「呂蒙は用兵を巧みにしてよく敵の心を攻めたが、もし節を曲げて書を読む事が無ければ、どうして東呉の将帥足りたただろうか。我ら解放軍には行伍が多い。『呂蒙伝』を読まねばならない」とも周囲に語っていたという。1972年には『呂蒙伝』の注釈書の作成を監修し、幾度も自ら指摘を行って修正させている。そしてこの際にも、呂蒙が出世してから本を読むようになった事を引き合いに出し、高級官僚に対して学問を学ぶ事の重要性を説いている。
 
== 家族・親戚 ==
;家族
* 父 [[毛貽昌]]
* 母 [[文素勤]]
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* 妻 [[江青]]
** 四女 [[李訥]] -(1936年-)
;親族
*[[毛遠新]]
*[[:zh:王海容]] - [[唐聞生]]と共に、毛の通訳を務めた。
*[[:zh:毛远耀]]
*[[:zh:王季范]]
 
== 毛沢東の肖像 ==
 
=== 毛沢東の肖像と中華人民共和国の紙幣において ===
[[1988年]]に発行された中華人民共和国の紙幣である[[人民元|中国人民銀行券]]の第4版では、100元札に周恩来・劉少奇・朱徳と共に毛沢東の横顔が描かれていたが、[[1999年]]から発行が始まった現行の第5版では、すべての券種に毛沢東の肖像が描かれ、ほかの人物は描かれていない。
 
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*[[資治通鑑]] - 毛沢東の生涯を通じての愛読書として知られる<ref>[https://www.kadokawa.co.jp/product/301407000529/ 「本当に残酷な中国史 大著「資治通鑑」を読み解く」麻生川静男 [角川新書] - KADOKAWA]</ref><ref>[https://president.jp/articles/-/16710?page=1 マイケル・ピルズベリー「中国は2049年の覇権国家を目指す」は本当か? | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)]</ref>。
*[[覚醒年代]]
*[[康生]] - 数十年にわたって毛沢東のために「汚れ仕事」を務めたとされる<ref>[https://www.iwanami.co.jp/book/b256484.html 龍のかぎ爪 康生 (上) - 岩波書店]</ref>、文化大革命の重要人物の一人。
 
== 外部リンク ==
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[[Category:1893年生]]
[[Category:1976年没]]
[[Category:国葬された人物]]
[[Category:中国の反資本主義者]]
[[Category:20世紀中国の政治家]]