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=== 過激化 ===
[[ファイル:Mao Zedong sitting.jpg|200px|thumb|right|[[毛主席語録]]に掲載された毛沢東の[[人物写真|ポートレイト]]、1955年]]
建国当初、新民主主義社会の建設を目標に、「穏健で秩序ある」改革を進めていた毛沢東は、1952年[[9月24日]]、突如として社会主義への移行を表明した。1950年の全国政治協商会議第2回会議で社会主義への移行は「かなり遠い将来のこと」と発言していた毛が、急進的に社会主義を導入しようと方針転換したことは、周恩来や[[劉少奇]]など多くの指導者を困惑させた。しかし、毛は[[1953年]]1月より[[ソ連型社会主義]]の[[計画経済]]をモデルとした第一次[[五カ年計画]]を開始させ、農業の集団化などの社会主義化政策を推進していった。第一次五カ年計画は重化学工業への投資で高い経済成長を達成し<ref group="注釈">国家統計局国民経済綜合統計司編 (2009) p.12 表1-9 国内生産総値指数によると、1952年の実質GDPを100とすると1957年の実質GDPは155.6となり、平均すると年率<math>9.2\%( =(\sqrt[5]{\frac{155.6}{100}}-1)*100 )</math>成長している。</ref>、当時の中国の[[国内総生産|GDP]]は同様に戦後復興を進めていた日本より上回っていた。
 
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反右派闘争によって共産党に批判的な知識人層の排除に成功した毛沢東は、急進的社会主義建設路線の完成をめざした。毛は「[[イギリス]]を15年以内に追い越す」ことを目標として、[[1958年]]に[[大躍進政策]]を発動。大量の鉄増産のため、農村での[[人海戦術]]に頼る「土法高炉」と呼ばれる原始的な製造法による小規模分散生産を採用し、量のみを重視し質は全く度外視したため、使い物にならない鉄くずが大量に生産された。農村では「[[人民公社]]」が組織されたが、かえって農民の生産意欲を奪い、無謀な生産目標に対して実際よりも水増しされた報告書が中央に回るだけの結果になった。こういったことから大躍進政策は失敗し、続いて「3ケ年自然災害」が発生。大躍進政策発動から数年間で推定2000万人から5500万人の餓死者を出した<ref>https://thediplomat.com/2023/01/xi-jinpings-great-leap/</ref><ref>https://www.theguardian.com/world/2015/oct/23/chairman-mao-must-be-smiling-in-heaven</ref>([[中華人民共和国大飢饉]])。
 
このことで「世界三大[[ジェノサイド|大量殺戮]]者」として、[[ドイツ]]の[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]や[[ビエト邦|ソ連]][[ヨシフ・スターリン|スターリン]]と共に揶揄されることとなった。この失敗以降、毛沢東の政策は次第に現実離れしていき、批判を受け付けない独裁的な傾向が強くなっていき、後の文化大革命につながる
 
=== 中ソ対立 ===
[[File:Mao Tsé-toung, portrait en buste, assis, faisant face à Nikita Khrouchtchev, pendant la visite du chef russe 1958 à Pékin.jpg|thumb|フルシチョフと毛沢東(1958年・北京にて)]]
スターリン批判や対アメリカ政策をめぐって毛沢東はソ連の指導者フルシチョフと不仲となり、[[19501956]]後半から[[中ソ対立]]が深刻化していった。[[1960年]]には中華人民共和国に派遣されていたソ連の技術者全員が引き上げたほか、[[1962年]]の[[キューバ危機]]では、中華人民共和国政府はソビエト政府の対応を公式に非難した。さらに[[1963年]]からは中国共産党とソ連共産党の公開論争が開始されてイデオロギー面の対立も深まるなど、かつて蜜月であった中ソ関係は一気に冷え込むこととなり、毛沢東はかつて自ら掲げた「向ソ一辺倒」と決別して[[自力更生]]を掲げるようになった。理論面でも[[3つの世界論]]を唱えてソ連や米国と一線を画す[[第三世界]]に中華人民共和国を分類した。また、[[ロシア帝国]]最後の皇帝[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]とその一家を虐殺したソ連に対する中華人民共和国の優越性を示すとして清朝最後の皇帝で日本の傀儡国家[[満州国]]の皇帝でもあった[[愛新覚羅溥儀]]を[[洗脳|思想改造]]して今度は共産党の傀儡にすることで政治的に利用した<ref>{{cite book |author= Edward Behr|date=1987 |title=The Last Emperor |publisher=Futura |pages=283-285 |isbn=9780773680258}}</ref>。
 
[[1964年]]から[[1965年]]にかけてはアメリカで[[弾道ミサイル]]を開発していた[[銭学森]]をはじめとする海外から帰国した科学者の協力で[[両弾一星]]を推し進めて[[596 (核実験)|中国初の核実験]]を実施し、中華人民共和国をアメリカ合衆国・ソビエト連邦・イギリス・フランスに続くアジア初の[[核保有国の一覧|公式核保有国]]にさせ、[[原子爆弾]]の開発からわずか2年と8ヶ月で[[水素爆弾]]を開発した。これは[[五大国]]の中でも最速だった<ref>"China's Nuclear Weapon Development, Modernization and Testing". Nuclear Threat Initiative. September 26, 2003. </ref>。さらに核弾頭搭載可能な[[DF-2 (ミサイル)|東風2号]]ミサイル発射試験に成功して核爆弾搭載可能な[[戦略爆撃機]]など[[戦略兵器]]を次々に開発して軍事的にもソ連から自立するようになった。1969年3月には[[中ソ国境紛争]]が発生、両国は交戦するに至り、[[核戦争]]の可能性も起きた。また、自らを称賛する[[東方紅]]を宇宙から流す[[人工衛星]]の[[東方紅1号]]を打ち上げ、[[曙光1号]]による有人宇宙飛行も計画するなどソ連に対抗して[[中国の宇宙開発]]も推し進めた。
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毛沢東の体調悪化と時を同じくして、文化大革命による混乱の収拾と国家行政の再建に尽力していた国務院総理の周恩来も膀胱癌が悪化して病床を離れられなくなった。毛は周恩来の補佐として、[[1973年]]に鄧小平を復活させ、[[1974年]]には鄧を[[国務院副総理|国務院常務副総理]](第一副首相)に任命した。さらに、[[鄧小平]]は病床の周恩来に代わり、1975年1月より党と国家の日常業務を主宰するようになった。鄧小平は文革路線からの脱却を図ろうとしたが、文革を推進してきた江青ら[[四人組]]は反発し、周恩来・鄧小平批判を繰り返した。毛沢東の連絡員となった毛遠新は四人組のシンパであり、病床にあった毛沢東に対して鄧小平批判を伝えていた。毛沢東も文革を否定する鄧小平を批判するようになった。[[1976年]][[1月8日]]の周恩来死去をきっかけに、同年[[4月5日]]、[[四五天安門事件|第一次天安門事件]]が発生すると、毛は[[鄧小平]]を再度失脚させた。
 
周恩来・朱徳(1976年[[7月6日]]没)と、「革命の元勲」が立て続けにこの世を去るなか、1976年9月9日0時10分、北京の[[中南海]]にある自宅において、毛沢東は82歳で死去した<ref>[https://www.ina.fr/ina-eclaire-actu/video/cab04001361/le-journal-a2-20h-emission-du-9-septembre-1976 Le Journal A2 20H : émission du 9 septembre 1976] - [[フランス国立視聴覚研究所|INA]]{{fr icon}}</ref><ref>{{YouTube|oN8XwSwE36Q|20h Antenne 2 du 09 septembre 1976 - Mao Zedong est mort}} - [[フランス国立視聴覚研究所|INA Actu]]{{fr icon}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|title=毛沢東主席死去|journal=アジア時報|url={{国立国会図書館デジタルコレクション|NDLJP|7976280/3}}|url-access=registration|volume=7|issue=10|publisher=アジア調査会|date=1976-10-01|pages=2 - 6|id={{NDLJP|7976280/3}}}}</ref>。[[中国中央電視台|北京電視台]]で午後7時からの放送開始時に葬送曲と[[インターナショナル (歌)|インターナショナル]]を流した後に、中国共産党中央委員会からの訃告を読み上げた<ref>{{Cite journal|和書|title=放送デスクメモ(76・九~十) / N|journal=マスコミ市民 : ジャーナリストと市民を結ぶ情報誌|url={{国立国会図書館デジタルコレクション|3463773/28}}|url-access=registration|issue=111|publisher=日本マスコミ市民会議|date=1977-02-01|pages=52 - 57|id={{NDLJP|3463773/28}}}}</ref>。日本ではNHKが午後5時10分に「毛主席死去」と速報を表示した<ref>{{NHKアーカイブス|A197609099999991300100|ニュース速報・字幕スーパー}}</ref>。1976年9月18日には[[天安門広場]]で国葬が実施された<ref>[https://www.ina.fr/ina-eclaire-actu/video/cab04001941/le-journal-a2-20h-emission-du-18-septembre-1976 Le Journal A2 20H : émission du 18 septembre 1976] - [[フランス国立視聴覚研究所|INA]]{{fr icon}}</ref><ref>{{YouTube|yGm19bP9NG4|JA2 20H : EMISSION DU 18 SEPTEMBRE 1976}} - [[フランス国立視聴覚研究所|INA Actu]]{{fr icon}}</ref>。なお毛沢東の死の直後に腹心の江青・[[張春橋]]・姚文元・[[王洪文]]の4人組は逮捕・投獄され、文化大革命は事実上終結した。遺体は現在[[北京市]]内の[[天安門広場]]にある[[毛主席紀念堂]]内に安置され、永久保存・一般公開されている。
 
 
== 死後の評価 ==
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[[ファイル:HXD3D 1893 and T1@BJI (20141228153112).JPG|right|200px|thumb|中国国鉄“毛沢東号”機関車(6代目,[[中国国鉄HXD3D型電気機関車|HXD3D]]-1893)]]
[[タイム (雑誌)|タイム誌]]の[[タイム100: 今世紀最も重要な人物|20世紀の重要人物]]の1人に選出された<ref>[http://www.time.com/time/time100/leaders/profile/mao.html Time 100: Mao Zedong] By Jonathan D. Spence, 13 April 1998.</ref>。毛沢東の政策については、現在でも議論の対象となっている。研究者は毛沢東の引き起こした[[大躍進政策]]と[[文化大革命]]のような、[[中華文化|文化]]・社会・[[中華人民共和国の経済|経済]]・[[中華人民共和国の国際関係|外交]]に重大な損害をもたらした問題について非難すると共に、彼の政策による犠牲者を数千万と推定する<ref name="deathtoll">{{cite book |last=Short |first=Philip |title=Mao: A Life |url=https://books.google.co.jp/books?id=4y6mACbLWGsC&pg=PA631&dq=mao+a+life+all+the+dead+of+the+second+world+war&ei=V8N5SaWvCIuYMrK0-KwL&redir_esc=y&hl=ja |year=2001 |publisher=Owl Books |isbn=0805066381 |page=631}}; [[Jung Chang|Chang, Jung]] and [[Jon Halliday|Halliday, Jon]]. ''[[Mao: The Unknown Story]].'' [[Jonathan Cape]], London, 2005. ISBN 0-224-07126-2 p. 3; [[R. J. Rummel|Rummel, R. J.]] ''[http://www.hawaii.edu/powerkills/NOTE2.HTM China’s Bloody Century: Genocide and Mass Murder Since 1900]'' [[Transaction Publishers]], 1991. ISBN 0-88738-417-X p. 205: In light of recent evidence, Rummel has increased Mao's [[democide]] toll to [http://hawaiireporter.com/story.aspx?1c1d76bb-290c-447b-82dd-e295ff0d3d59 77 million]. See also: {{cite web |url=http://users.erols.com/mwhite28/warstat1.htm#Mao |title=Source List and Detailed Death Tolls for the Twentieth Century Hemoclysm |accessdate=2008-08-23 |publisher=Historical Atlas of the Twentieth Century}}</ref>。そして、[[マルクス・レーニン主義]]を中国社会に導入しようと自らが確立した[[毛沢東思想]]に基づく毛の政策は、産業の面において結局失敗に終わったと論じる<ref name="deathtoll"/>。
なおだが、統一国家である中華人民共和国を建国し、当時識字率の低かった中国における識字率を急速に上昇させ、統一国家である中華人民共和国を建国しは評価される点である。こうした事から毛沢東は良くも悪くもと言っ中国に多大なる影響を与えた人物であるとして扱われる。
 
=== 文化大革命の清算 ===