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1952年、東京中学校卒業。先輩に[[安藤鶴夫]]、[[牧伸二]]がいる。同年4月、[[東京高等学校|東都高等学校]]を中退後、16歳で[[柳家小さん (5代目)|5代目柳家小さん]]に入門。本名の「克由」の一字を取って、'''柳家小よし'''と名乗る。初高座は[[新宿末廣亭]]における『[[浮世根問]]』。1954年3月、[[二つ目]]に昇進して'''[[柳家小ゑん]]'''と改名。[[寄席]]のほかに[[日劇ミュージックホール]]や[[新宿松竹文化演芸場]]にも定期的に出演し、コントや漫談も披露する。スタンダップコメディを演じる際には赤シャツにジーパン姿がトレードマークだった。
 
1962年3月に、入門が5年遅い[[古今亭朝太]](のちの[[古今亭志ん朝|3代目古今亭志ん朝]])が「36人抜き」で小ゑんよりも先に[[真打]]に昇進、さらに10月には入門が約3年遅い[[三遊亭圓楽 (5代目)|5代目三遊亭圓楽]]にも真打昇進で先を越され、生涯最大の屈辱を味わう。1963年4月、'''立川談志'''を[[襲名]]し、真打に昇進。同時に小さん門下から[[柳家つばめ (5代目)|5代目柳家つばめ]]も真打に昇進した。
 
実際には7代目とされるにもかかわらず、[[立川談志 (名跡)|立川談志]]の「5代目」を自称した経緯については、後年の著書で「明治時代の寄席で人気を博していた[[立川談志 (4代目)|4代目(談志)]]が『初代(談志)』を称しており、小ゑん(松岡)の先代にあたる[[立川談志 (6代目)|6代目(談志)]]がそれに倣って『4代目(談志)』と称していたようなので、小ゑんは『5代目』というのは語呂が良く、さらに師匠[[柳家小さん (5代目)|5代目柳家小さん]]と代数が合うので丁度いいということで、『5代目談志』を名乗ることになった」と明かしている<ref>『現代落語論』(立川談志著、三一新書刊、1965年)P163。</ref>。
 
=== 『笑点』立ち上げ ===
1966年5月15日、『[[笑点]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])が放送開始。1969年11月2日まで初代司会者を務める。のち『笑点』放送100回記念放送では[[桂歌丸]]と異色漫才を披露した。後年、「『笑点』ってのはよう、アタシが作った傑作なんだよ」と語った通り、『笑点』は談志が自ら企画して実現したものである。
 
初代メンバーの1人である5代目三遊亭圓楽が『[[いつみても波瀾万丈]]』で語ったところによると、談志が5代目圓楽に「寄席でやっている[[大喜利]]をテレビでやろうじゃないか」と持ちかけたのが番組開始の端緒だという<ref name="danshi1">ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』105頁</ref>。落語ではなくあえて大喜利をメインとしたのは「落語は(噺の)前後にしかコマーシャルを入れられないし、座ってるだけで(テレビに)不向きだから。大喜利なら途中でコマーシャルが入れられるから」だったという<ref name="danshi2">『圓楽 芸談 しゃれ噺』(五代目三遊亭圓楽著、百夜書房刊、2006年)193頁。なお、談志は「落語がテレビ向きでない」という主張を『現代落語論』255-260頁でも行っており、その最後で「誰かテレビにおける落語の演出を考えてください。お願いします」と訴えている。</ref>。談志はまた「大喜利を前面に出すのは感心しないが、やらないのも駄目だ」と考えていた<ref name="danshi2" />。談志は1960年代半ばにテレビ・ラジオの電波メディアの普及で寄席に閑古鳥が鳴いている状況に危機感を抱き、「これからは、落語家はテレビにもどんどん出て行かなきゃ駄目だ<ref name="danshi2" />」との考えから、テレビ局へ企画の売り込みを図った。その結果生まれた番組が前身番組の『[[金曜夜席]]』で、隔週金曜深夜に放送された。当初は談志が演芸コーナーの司会で、5代目圓楽が大喜利コーナーの司会というローテーションだったが、のちにどちらとも談志に統一された{{efn|大喜利では圓楽は回答者に回る。のちに降板するが、しばらくして同番組の司会者として復帰する。}}。前身番組の時点で『笑点』の基礎が固まり、そのまま日曜夕方の番組としてスタートしたのである。『笑点』の司会では、持ち前の[[ブラックユーモア]]を生かした、機知に富んだ掛け合いを演じた<ref name="danshi1" />。しかし視聴率が伸び悩み、初代レギュラー陣との関係も悪化したため、暫時的な新レギュラー期間を挟んで、最終的には談志自身が降板を余儀なくされた<ref name="danshi1" /><ref>[[桂歌丸]]『座布団一枚!桂歌丸のわが落語人生』[[小学館]]、2010年9月8日。</ref>。なお、歴代『笑点』の司会者で、就任時点で[[落語協会]]に所属していた人物は現在に至るまで談志のみである。
 
降板後も特別番組には何度か出演したが、2000年代以降は完全に距離を置いた。番組で不定期に放送された「真打昇進披露口上」では[[立川志の輔]]の真打昇進時(1990年6月3日放送)が唯一の出演例となった{{efn|同番組は2024年4月7日放送分で[[立川晴の輔]]がレギュラー入りするまでは立川流に所属する落語家がレギュラー出演したことは無く<ref>{{Cite web |title=新メンバーは立川晴の輔さん 「笑点」木久扇さん後任 |url=https://nordot.app/1149635139970269677 |website=共同通信 |date=2024-04-07 |access-date=2024-04-08}}</ref>、立川流の出演は演芸や若手大喜利など少数に限られていた(ただし、志の輔の弟子の立川晴の輔や談志の直弟子である[[立川志らく]]が[[三遊亭円楽 (6代目)|6代目三遊亭円楽]]の休演時に代理メンバーとして大喜利に出演したことがある)<ref>{{Cite web |title=「笑点」半世紀ぶりに立川流出演 円楽の代演で晴の輔「暗黒集団から参りました」 |url=https://www.daily.co.jp/gossip/2019/09/15/0012703624.shtml |website=デイリースポーツ |date=2019-09-15 |access-date=2024-04-08}}</ref><ref>{{Cite web |title=立川志らく、「笑点」に初登場! 初代司会者・立川談志さんの直弟子が大喜利に出るのは初めて |url=https://hochi.news/articles/20220505-OHT1T51240.html?page=1 |website=スポーツ報知 |date=2022-05-05 |access-date=2024-04-08}}</ref>。また、昇進披露口上にも立川流の新真打出演経験もあるが、他流派では通常出演する各協会・所属団体のトップが進行役として出演したことはない。}}。また、談志は初代メンバーの一人である歌丸に対し、「『笑点』を辞めてくれ」と直言したこともあるという<ref>『歌丸 極上人生』(桂歌丸著、祥伝社黄金文庫刊、2015年)270頁。歌丸は「『(『笑点』を)早くやめた方がいいよ』という方もいらっしゃったが、一番初めに言ったのは談志さんだった」とも述べている。</ref>。
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1969年、[[第32回衆議院議員総選挙]]に[[東京都第8区 (中選挙区)|旧東京8区]]から[[無所属]]で出馬。「東京は東京を愛するものにまかせろ」「相談にのるぜ、力になるぜ」「そしてあなたもつづけ」のキャッチフレーズを掲げて挑んだ<ref>新聞広告『朝日新聞』昭和44年(1969年)12月20日朝刊、12版、15面</ref> ものの落選。定数3のところ、19,548票で立候補者9人中6位であった。
 
同年、[[ニッポン放送]]にて、[[月の家圓鏡]](のちの[[橘家圓蔵 (8代目)|8代目橘家圓蔵]])と[[木魚]]を叩きながらナンセンスなやりとりをする[[ラジオ番組]]『談志・円鏡 歌謡合戦』がスタート。人気番組となり、[[1973年]]まで放送された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sanspo.com/geino/news/111211/gnj1112110505015-n1.htm |title=談志さん、未公開音源蔵出しで“復活” |date=2011-12-11 |publisher=産経ニュース |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120117045529/http://www.sanspo.com:80/geino/news/111211/gnj1112110505015-n1.htm |archivedate=2012-01-17 |accessdate=2021-04-07}}</ref>。この番組は談志のお気に入りであり、のちに独演会などで番組の再現を行っている。『談志の遺言』でも圓蔵をゲストに迎えて特別企画としてリバイバル企画を行ったほか、2007年10月開始の『[[立川談志・太田光 今夜はふたりで]]』(TBSラジオ)では[[太田光]]([[爆笑問題]])を相方に、木魚を叩きながら即興のやりとりを行う『歌謡合戦』を意識した番組作りがなされた。
publisher=産経ニュース |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120117045529/http://www.sanspo.com:80/geino/news/111211/gnj1112110505015-n1.htm |archivedate=2012-01-17 |accessdate=2021-04-07}}</ref>。この番組は談志のお気に入りであり、後に独演会などで番組の再現を行っている。
 
1971年、[[第9回参議院議員通常選挙]]に[[全国区制|全国区]]から無所属で出馬、初当選<ref>{{NHK放送史|D0009030567_00000|参議院選挙 立川談志氏ら初当選}}</ref>。当時の全国区で50人中50位の最下位当選だったが<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=-6CcDRkwjpA&t=193s 「タレント候補の泣き笑い -参院選-」No.911_2] 中日映画社</ref>、その際のインタビューで「[[寄席]]でも選挙でも、真打は最後に上がるもんだ」という言葉を残す。直後に[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]に入党した。本人によれば、談志の自民党入りを要請するために訪れた[[佐藤栄作]]が座布団から降りて小さんに頭を下げたため、小さんが談志に自民党入りを促したという。国会質疑では[[NHK受信料|NHK受信料問題]]などを取り上げた。
 
1975年12月26日、[[三木内閣]]の[[沖縄振興局|沖縄開発]][[政務次官]]に就任するが、就任時の[[プレスリリース|会見]]で議員の選挙資金について「子供の面倒を親分が見るのは当然」と発言したことが問題化。さらに、政務次官初仕事である[[沖縄国際海洋博覧会|沖縄海洋博]]視察では二日酔いのまま記者会見に臨み、地元沖縄のメディアの記者から「あなたは公務と酒とどちらが大切なんですか」と咎められる。これに対して「酒に決まってるだろ」と返答したことがさらに問題となる。さらに詰問する記者に対して退席を命じ、会見を打ち切ろうとしたため批判を浴びた。弁明を行うはずの参議院[[決算委員会]]を寄席を理由に欠席するに至って、自民党内部からも反発が起こり辞任。在任期間は僅か36日であった。談志自身は、議員になったのは兼職をしてもいいと言われたからでありだと主張し、自分は大衆との接点を持ち続けるのが信条だとして自民党も離党した。この時、親交がある[[石原慎太郎]]{{efn|最晩年に気道切開手術を受けた後も談志は[[東京都知事]]となった石原のことを気にかけており、亡くなる2か月前に石原本人から電話があった時に談志は声が出せない状態ながら意思を伝えるために電話口の前でうなずいたり首を振ったり、しゃべろうとして咳き込んだりしていたという{{sfn|松岡|2011|p=288}}。}}から「謝罪したらどうだ」と説得されたが拒絶している。
 
参議院議員2期目を目指し、全国区から東京地方区への鞍替え出馬を予定していたが、直前で出馬を取りやめ、議員活動は参議院議員1期6年だけで終わった。本人曰く「政治家としての経歴がマイナスになるのは俺ぐらいだろう」と振り返っていた。
 
政治思想は[[保守]]寄りであった。在任中は[[日本共産党]]議員への野次に力を入れていたことにより、共産党支持者の8代目林家正蔵(のちの[[林家彦六]])<ref group="注釈">ただし、彦六は共産党のイデオロギーに共感していたわけではなく、本人は[[判官贔屓]]としている。</ref>と、野次があるたびに喧嘩をしていた模様である。ただし、彦六は談志の選挙を手伝っていた。談志も、国会の決算委員会で[[日本国有鉄道|国鉄]]問題の際に「通勤定期を通勤のみに使い、外出など私用な目的には定期を使わずに運賃を払っている人物」の例として彦六を取り上げており、議事録にも残っている<ref>昭和51年10月28日、参議院運輸委員会会議録7号29頁</ref>。政界を退いた後も自民党を中心とする保守系政治家との親交を深め、保守系議員の選挙応援などにもしばしば動いた。
 
その反面、元社会党衆議院・参議院議員[[上田哲]]の選挙応援に動いたこともある。談志によると「議会には反対派も必要だ」とのことだが、政治レベル以外での個人的な交友関係による支援と思われる<ref group="注釈">上田は落語立川流Bコースに名を連ね、立川流の高座に上がったこともある。</ref>。後年には[[医師]]・作家の[[なだいなだ]]の提唱した[[老人党]]に賛同し、上田・[[西丸震哉]]とともに「老人党東京」(3人の共同代表)を旗揚げした。
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2009年8月26日、長期休養を発表。予定されていた出演をすべてキャンセルとする。理由は体力の低下と持病の[[糖尿病]]治療であると発表していたが、実際は癌により発声が困難になったためと推測される。当初、本人は事務所に引退を切り出したというが、事務所の説得で休養という形に落ち着いた。同年12月1日、[[NHKラジオ第1放送]]公開収録番組『[[話の泉#.E6.96.B0.E3.83.BB.E8.A9.B1.E3.81.AE.E6.B3.89|新・話の泉]]』に別録りのインタビューという形で出演。実際の公開収録舞台には談志の写真ボードが置かれた。その後も体調は好転せず、2010年冒頭に入院することが決定したことなどを受け、12月28日、休養期間を約3か月延長すると発表する。
 
2010年3月2日、[[三遊亭円楽 (6代目)|6代目三遊亭円楽]]襲名披露パーティーに姿を見せ、挨拶する。パーティーで同席した[[桂歌丸]]は「生きている談志さんにお会いできたことが嬉しかった」とコメントし、談志との再会を喜んだ<ref>[https://web.archive.org/web/20130703113234/http://www.news24.jp/entertainment/news/1610710.html 仮退院桂歌丸、一番の喜びは「談志が生きていたこと」] 日テレNEWS24 2010年3月2日閲覧</ref>。
 
3月31日、[[新宿末廣亭|新宿末広亭]]余一会「三派連合サミット」に飛び入りで出演後<ref>{{Cite web|和書|url=https://ameblo.jp/dengekigyuzo2006/entry-10496552266.html |title=な、なんと・・末広亭に談志登場! |accessdate=2022-3-20 |publisher=ameba blog |author=ギュウゾウ |authorlink=ギュウゾウ |date=2010-3-31 |website=ギュウゾウ新聞}}</ref>、同年[[4月13日]]には8か月ぶりに高座に復帰し『[[首提灯]]』を披露する。
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8月2日、死去の誤報をどこからか聞きつけた日本テレビの取材陣が自宅を訪れ、長男が怒鳴りつける事態が発生<ref name=":3" />。
 
8月19日、行きつけの銀座のバーに直弟子と一部関係者が集合、家族に連れられて談志が来店。体調は芳しくなかったが、どうしても行きたいということで解熱剤を処方されたのちにやって来た。すでに話すことはできなかったが、紙に書いた言葉で一同を笑わせた。これが多くの直弟子にとっては生前最後の対面となる。談志が退出後、弟子一同で今後のマスコミ対策を協議した<ref name=":3">{{Cite book|和書|title=談志歳時記|date=2012-11-21|publisher=新潮社|pages=283-285|author=吉川潮|first=吉川潮|isbn=9784104118076}}</ref>。
 
自宅療養中に衰弱が進んだため、9月12日に再入院{{sfn|松岡|2011|p=298}}。10月27日、昏睡状態に陥る。この日を最後に意識が回復することはなく、11月21日午後2時24分、家族に看取られて[[喉頭癌]]のため死去<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20121201012253/http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20111124-OHT1T00010.htm?from=yol|title=立川談志さん、喉頭がんで死去…75歳、声失い最後は筆談|newspaper=[[スポーツ報知]]|date=2011-11-24|accessdate=2011-11-24}}{{リンク切れ|date=2018-08-03}}</ref>。75歳だった。
 
=== 死去直後の対応と反響 ===
談志死去の報は、最期まで談志の世話をしていた[[立川談吉]]<ref>高田文夫/笑芸人編 『落語ファン倶楽部 Vol. 16 談志 だいすき』 白夜書房、2012年4月、ISBN 978-4-86191-902-2。pp.81-87。</ref>を除き、一門の弟子たちを含む落語界・芸能界・知人の誰にも伝えられなかった。家族および談吉のみで通夜・告別式(密葬)を執り、11月23日に[[落合斎場]]にて荼毘に付される。
 
家族は2日の間、談志の死を一門を含む誰からも隠し通した。談志が生前に「人に知らせるな。骨は海に沈めろ」と語っており、近親者が本人の意思を守ろうとしたためであるが<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2004009/full/|title=立川談志さん、余命宣告されていた 長男長女が緊急会見|accessdate=2021年12月22日|publisher=ORICON NEWS}}</ref>、情報が正式に公表されるまでの間、関係者やマスコミなどを巻き込んだ騒動のもとにもなった。
 
23日に所属事務所である談志役場(息子・[[松岡慎太郎]]が代表を務める会社)が死の事実を[[プレスリリース]]したが、その際も弟子たちに知らせなかった。立川キウイ<ref>立川キウイのブログの [http://tatekawakiwi.jugem.jp/?day=20111122 2011年11月22日の記事]{{リンク切れ|date=2018-08-03}}および [http://tatekawakiwi.jugem.jp/?day=20111123 23日の記事]{{リンク切れ|date=2018-08-03}}参照。</ref>や[[立川談慶]]<ref>[httphttps://twitterx.com/dankeitatekawa/status/139234362418933761 立川談慶の2011年11月23日のツイート 其の壱]{{リンク切れ|date=2018-08-03}}。後にこの発言は撤回している([httphttps://twitterx.com/dankeitatekawa/status/139247485334986753 立川談慶の2011年11月23日のツイート 其の弐]{{リンク切れ|date=2018-08-03}})。</ref><ref>{{Cite web|url=https://mobile.twitter.com/yuimasakazu/status/1455674938732388356|title=もう10年ですから言っちゃいましょう|accessdate=2021-11-3|publisher=twitter|author=油井雅和(@yuimasakazu)|date=2021-11-3|quote=冒頭で談慶師匠が話してましたが10年前の11月23日、電話を入れたら驚いた様子で「ガセネタです。間違ってると思いますよ」と言われたのは実は私です}}</ref>ら弟子たちは、死の2日後にテレビニュースなどで談志の死を知ることとなる。このため、マスコミやファンの問い合わせを受けて「(自分は聞いていないので)ガセだろう」と回答してしまい、あとで訂正するはめになった弟子たちが続出した。また、この日に身内だけで結婚披露宴を開いていた孫弟子の[[立川志の春]]は、披露宴中に「ご愁傷様」「気落ちしていると思いますが」というメッセージを多数受け取り、首をひねっていたところにテレビで談志死去のニュースを知った<ref>{{Cite book|和書 |title=シン・談志が死んだ 立川流はどこへ行く 立川志の春「婚礼の日の『ご愁傷様』」 |date=2023-11-26 |publisher=小学館 |pages=152-155 |author=立川談志+落語立川流 |isbn=9784093891417}}</ref>。
 
一方、死の直後から[[Twitter]]や[[Wikipedia]]などに情報のリークがあり、落合斎場にも到着時には報道陣が集まっていた。しかし、談吉は自身のブログやTwitterで談志と無関係の話題をあえて記述し、情報が漏れないようにつとめた。火葬が始まった時点で携帯電話が鳴り出し、情報を隠し切れないと判断した遺族は関係者に連絡、談志の死去を報告している<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://wpb.shueisha.co.jp/news/entertainment/2021/10/18/114607/|title=立川談志とのお別れ|accessdate=2021-10-20|publisher=集英社|author=松岡ゆみこ|date=2021-10-18|website=週プレweb|work=【しあわせの基準 ー私のパパは立川談志ー 第二十八回】}}</ref><ref>{{Cite news|title=没後10年 野末陳平さんが語る談志「秘話」|newspaper=毎日新聞夕刊|date=2021-11-19|author=鈴木琢磨|authorlink=鈴木琢磨|location=東京|page=3|quote=23日、おかみさん(談志夫人)から電話が入った。(略)火葬場からだった。}}</ref>。
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23日夜に長男・松岡慎太郎と長女・[[松岡弓子]]が[[ホテルニューオータニ]]で記者会見を行い、死去に至るまでの経緯を説明した<ref name=":0" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://news.livedoor.com/article/detail/6055856/|title=「声のかぎり、落語を愛してました」 落語家・立川談志さん遺族会見 全文|accessdate=2021-10-14|publisher=Livedoor news|author=亀松太郎|editor=写真・石津大助|coauthors=丹羽一臣|work=ニコニコニュース|date=2011-11-24}}</ref><ref>{{Cite news|title=立川談志さんの死去について、記者会見する談志さんの長男松岡慎太郎さん(手前)と長女松岡弓子さん|newspaper=朝日新聞デジタル|date=2011-11-23|author=撮影:金川雄策|url=http://www.asahi.com/showbiz/gallery/20111124danshi/danshi37.html|location=東京}}</ref>。
 
死去公表直後、弟子でマスコミの囲み取材を受けたのは[[立川志の輔]]<ref name=":0" />、[[立川談笑]]<ref name=":1">{{Cite book|和書|title=波「立川談志というをのこ」|date=2012-12|publisher=新潮社|author=吉川潮×立川談笑|url=https://ebook.shinchosha.co.jp/nami/201212_08/}}</ref><ref group="注釈">談笑は[[静岡市|静岡]]の独演会の[[トップセンタービル|会場]]で取材を受けている。訃報は休憩時間に[[柳家喬太郎]]からの電話で知り、談志から禁じられていた『[[芝浜|シャブ浜]]』を演じた後、客前で号泣した。また、同じ時間帯に[[立川談春]]は至近距離の[[静岡市民文化会館|会場]]の別の会に出演していた。談春は師匠が亡くなったことは知っていたが、舞台ではおくびにも出さず取材も受けていない。終演後、二人は一緒の新幹線で東京に戻った。</ref>。談笑は24日に『[[情報プレゼンター とくダネ!|情報プレゼンター とくダネ!]]』<ref group="注釈">当時、番組レポーターでもあった。</ref>に、[[立川談四楼]]は25日に『[[ミヤネ屋|情報ライブ ミヤネ屋]]』に出演している<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20211104004418/https://kakaku.com/tv/channel=4/programID=12194/page=1663/|title=「情報ライブ ミヤネ屋」で紹介されたすべての情報 ( 1663 / 9528 ページ )|accessdate=2021-10-18|publisher=価格.com|date=2011-11-25}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=談志が死んだ|date=2012-12-15|publisher=新潮社|page=19-35|author=立川談四楼|author-link=立川談四楼|isbn=9784104247042}}</ref>。談志死去の報道を受け、行きどころのない弟子は談志行きつけの銀座のバーに集まり、故人を偲びつつ盛り上がった<ref name=":1" />。
 
談志の死去を受けて、23日、[[橘家圓蔵 (8代目)|8代目橘家圓蔵]]と[[林家木久扇]]が日本テレビのニュース番組『[[news every.]]』に生出演し、談志との想い出を語った。また、日本テレビ『[[金曜夜席]]』当時からの知己である[[桂歌丸]]、上方落語界長老の[[桂米朝 (3代目)|3代目桂米朝]]も逝去を悼むコメントを発表した<ref>[http://www.sanspo.com/geino/news/111123/gnj1111231603025-n2.htm 落語家の立川談志さんが死去] サンケイスポーツ 2011年11月23日閲覧{{リンク切れ|date=2018-08-03}}</ref>。弟弟子で当時[[落語協会]]会長の[[柳家小三治]]は「とんでもない人物だった。今でも兄弟弟子という思いは強い」と語り、兄弟子の死を悼んだ<ref>[http://www.asahi.com/showbiz/stage/rakugo/TKY201111290351.html とんでもない人だった 柳家小三治、立川談志を悼む]{{リンク切れ|date=2018-08-03}} 朝日新聞 2011年11月30日閲覧</ref>。また、談志に憧れて落語家の道を志した当時[[上方落語協会]]会長の桂三枝(現:[[桂文枝 (6代目)|6代桂文枝]])も、談志の訃報が公表された日の緊急会見で「嘘であって欲しいと思いました」と泣き崩れながら談志を偲んだ。
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=== 自殺の危惧 ===
同業の先輩である[[林家彦六|8代目林家正蔵(のちの林家彦六)]]からは「談志は自殺するのでは」と危惧された。正蔵がそう発言したのは、談志が国会議員になったばかりの絶好調の頃であったのだが、正蔵に言わせると「談志はやることなすことが全て当たり、成功したので、現実の世の中が馬鹿馬鹿しく思えるのではないか」とのことだった。正蔵は談志本人に直接そのことを指摘しなかったが、他の多くの人物には語っていた。その1人である[[川戸貞吉]]がこの事実を本に書き、公の知るところになった。
 
晩年の談志は、テレビで「死ぬつもりでいたからね。(でも)自殺ができないってことになって……。本当の話だもん」と、自殺願望が抑え切れなくなっていることを告白し<ref>{{YouTube|AIYQGCoDfxQ|TOKYO MX 談志・陳平の言いたい放だい 2007年8月25日放送}}</ref>、「談志は自殺する」という正蔵の予言について「(今から見れば)当たっている」と評した<ref>[[川戸貞吉]]との対談にて([[紀伊国屋書店]]第85回新宿セミナー、2007年9月16日)</ref>。公式ホームページ『地球も最後ナムアミダブツ』の日記欄「今日の家元」にも自殺をしたくてもできない葛藤が書き込まれたが、この危惧は現実とはならなかった。
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* 浪曲、講談、色物等の演芸全般から映画や音楽にも造詣が深いことで知られていたが、噺家にも贔屓が多い歌舞伎には関心が薄かった。ただ歌舞伎俳優との親交はあり、[[中村勘三郎 (17代目)|17代目中村勘三郎]]には立川流創設時に顧問になってもらっている。その縁で17代目の息子・[[中村勘三郎 (18代目)|18代目勘三郎]]とも交遊を持ち、当時「市川染五郎」を名乗っていた[[松本幸四郎 (10代目)|松本幸四郎]]を評価していた。18代目勘三郎は、談志没後の2012年2月20日に追悼も含めた落語会「[[落語立川流]] in [[平成中村座]]」を開催している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kabuki-bito.jp/news/953 |title=勘三郎も登場!「落語立川流 In 平成中村座」が開催されました |access-date=2022-6-11 |publisher=松竹 |date=2012-2-22 |website=歌舞伎美人}}</ref>。
* 強烈な匂いを持つことで知られる果物・[[ドリアン]]が大好物であった。娘の[[松岡ゆみこ]]によれば、談志が大量にドリアンを食べた後に飛行機に乗った際、機内でゲップをしてしまい、その強烈な匂いで飛行機を止めてしまったこともあったという<ref>{{Cite news|url=https://www.daily.co.jp/gossip/2018/06/18/0011366357.shtml|title=立川談志さん ゲップで飛行機止めた 異臭騒動を長女が明かす|newspaper=[[デイリースポーツ]]|date=2018-06-18|accessdate=2020-04-21}}</ref>。また弟子である[[立川談四楼]]も、「本来ならば持ち込み禁止であるはずのホテルに談志がドリアンを持ち込んでしまい、結局そのことがホテル側にバレて弟子である自分が代わりに謝罪した」というエピソードを明かしている<ref>[https://twitter.com/Dgoutokuji/status/372189777203716096 立川談四楼の2013年8月27日のツイート]</ref>。
* ある日談志が弟子とタクシーに乗った時のこと、運転手が談志に「いいよね、アンタたちは。テレビ出て旨いもん食ってたくさん金もらえるんだろ」「俺たちはこんな苦労していくらしか貰えない」と僻みっぽく絡んできた。横についていた弟子は師匠がキレるのではないかとビクビクしたが、談志は逆にニッコリ笑って「その通りだよ。なんでアンタやらないんだい?」と返した。これには絡んだ当の本人運転手も何も言い返せず、黙ってしまったという<ref>{{Cite web|和書|url=https://npn.co.jp/article/detail/63593787 |title=「あんたの仕事は楽でいいよね」失礼なタクシー運転手を黙らせた立川談志の返答が“カッコイイ!”と称賛 |access-date=2024-04-29|publisher= |date=2019-08-20 |website=[[内外タイムス|リアルライブ]]}}</ref>
* 劇作家・評論家の[[大西信行]]とは「[[浪曲]]好き」という共通点はあったが、本人どうしは犬猿の仲であった<ref>[[玉川奈々福]]編『語り芸パースペクティブ』(晶文社)P.397[[稲田和浩]]の語り部分。</ref>。
* 家族と住む家以外に仕事場兼住居をもう一軒所有していたが、談志没後は空き家状態で、酷い湿気があるなど問題となっていた。そこに前座時代から通っていた弟子の志らくが住みたいと申し出たため、談志の長女・[[松岡ゆみこ]]が『[[大改造!!劇的ビフォーアフター]]』に[[リフォーム]]を依頼。2014年11月30日と2015年1月11日にリフォームの工程が放送され、実際に志らくが居住している。
*2024年、 所属事務所・談志役場がX(旧[[Twitter]])で明かしたところによると、談志が「生前、2度大きなお金を怪しい投資話など大金を騙し取られたことを明かしてが二度あったと<ref>{{Cite webtweet|author=有限会社 談志役場|urluser=https://twitter.com/danshi898/status/|number=1758646315079303557 |title=期待するから はづれるのだ 立川談志 |access-date=2024-202-17 |author=有限会社 談志役場(@danshi898) |access-date=2024-204-17 |quote=生前、2度大きなお金を怪しい投資話などで騙し取られたことがあった家元、、、29}}</ref>。
 
== 家族 ==
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* 1965年頃 - 1967年頃
** 「現代センター」
* 1967年頃 - 1971年国会([[参議院]]議員就任まで
** 「談志プロダクション」(談志自身が社長)
* 1971年国会(参議院議員就任 - 1983年([[落語協会]]脱会まで
** 「まむしプロダクション」([[毒蝮三太夫]]社長、松岡由雄マネージャー=談志の実弟)
*** 上記の談志プロダクションと同じ会社。本人が国会議員になったため、談志プロダクションが社名と社長を変更したもの。師匠[[柳家小さん (5代目)|5代目柳家小さん]]が一タレントとして所属していた
* 1983年[[落語協会]]脱会 - [[2000年]][[3月31日|3月末]]まで
** 「立川企画」(松岡由雄社長=談志の実弟)
***特に芸能プロダクションなどに所属していなかった大多数の談志の弟子の仕事の窓口にもなっていた。
*** 2011年現在、[[立川志らく]]のマネージメントを担当。
***志らくが[[ワタナベエンターテインメント]]所属後は、落語会の企画・運営が中心主要業務となっている。
* [[2000年]][[12月13日]] - 2011年11月21日
** [[有限会社]]「談志役場」(松岡慎太郎社長=談志の息子)
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* [[権兵衛狸]]
* 西鶴一代記
* [[鮫講釈]]
* [[三軒長屋]]
* [[三方一両損 (落語)|三方一両損]]
* [[持参金 (落語)|持参金]]
* [[死神 (落語)|死神]]
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* [[代書]]
* [[妲己のお百]]
* [[たのきゅう|田能久]]
* [[短命]]
* [[付き馬]]
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*立川右近
*[[立川談生|三代目立川談生]]
*[[嵐丸|二代目立川談々]] - 本名∶'''城台 大三'''。[[1964年]][[2月17日]] - )
*立川談秋
*[[立川談之進]] - 本名:佐藤 哲也、茨城県出身。1964年 - 、1987年入門、1990年2月二ツ目昇進<ref>{{Cite book|和書|title=落語 第30号 最新東西全落語家名鑑|date=1990-11-1|year=|publisher=弘文出版|editor=井上正弘|NCID=AN10301576|page=29}}</ref>
*立川風吉
*立川風吉 - 本名∶'''山本 風吉'''、[[1984年]][[12月24日]] - )
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== 他の芸人、タレントへの批評 ==
=== 「才能」論 ===
「お笑いに才能は絶対、必要だ」というのが談志の持論だった。もともと大阪勢の芸風と肌が合わず、上述の通り[[吉本興業]]に対しては辛辣な面があったが、吉本興業主催の『[[M-1グランプリ]]』([[朝日放送テレビ|朝日放送]]系列)第2回大会では審査員務めている。談志の採点方法は明確であり、ファーストラウンドでは80点70点50点の三段階でしか採点しなかった。
 
=== 江戸落語家 ===
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: [[爆笑問題]]がデビューしたての頃、[[太田光]]の持つ才能をすぐに見抜いて高評価した談志は、太田に対し「天下、獲っちゃえよ」と応援すると同時に「(相方の)[[田中裕二 (お笑い芸人)|田中]]だけは切るなよ。こう出来た奴も、なかなかいないもんだ」と述べ、田中が太田にとって欠かせない存在であることを説いた。しばしば「太田は俺がよそで作った子供だ」とも発言した(太田の実父はもともと談志を嫌っており、これを聞いて少し不安になったという逸話を太田が語っている)。
; 博多華丸・大吉
: 2005年、上京して間もない[[博多華丸・大吉]]が『[[談志・陳平の言いたい放だい]]』([[東京メトロポリタンテレビジョン|東京MXテレビ]])のコーナー「芸人解放区」に出演し、ガチガチに緊張しながらネタを披露した際には、「まあ、内容として、こういう優しいネタを選んでて。俺はとっても文化的には好きだなあ。あとで、いいアドバイスしてやるよ」と声をかけた。収録後の打ち上げではコンビを別室に呼び、「いいか。よく聞け。これは過去、[[爆笑問題]]にしか言っていない。──絶対に、解散するなよ」とアドバイス直言したという<ref>{{Cite news|date=2015-03-31|url=https://web.archive.org/web/20160304131454/https://cakes.mu/posts/8933|title=24年ぶりの漫才師と落語家——博多大吉×立川談慶 自然にみんな上を向いちゃうような人間関係がある|newspaper=ケイクス|publisher=note|accessdate=2020-05-12}}</ref><ref>{{Cite news|date=2016-10-27|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/10/27/kiji/K20161027013613480.html|title=華丸・大吉 談志さんに言われた「過去、爆笑問題にしか言っていない」言葉とは…|newspaper=Sponichi Annex|publisher=スポーツニッポン新聞社|accessdate=2017-07-27}}</ref>。
; 古坂大魔王
: 『[[爆笑オンエアバトル]]』出演時、談志は[[古坂大魔王]]のネタを「イリュージョン」と表現し、音楽ネタをやり続けるようアドバイスした。その後、自身の独演会の前座に古坂を呼んだこともあった<ref>{{Cite web|和書|url=https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/1613498/ |title=ピコ太郎支えた談志さんの言葉「何を言われてもやり続けろ」 |accessdate=2022-2-1 |publisher=光文社 |date=2017-2-4 |website=女性自身}}</ref>。
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落語口演の活字化のほか、落語に関する[[随筆|エッセイ]]的な考察を多数著している。談志襲名後間もない時期に著した『現代落語論』が代表作と言われるが、「落語」を分析した有名な言葉「落語は人間の業の肯定」はその後の『あなたも落語家になれる』の冒頭の一節である。修業時代から生に接した有名無名の寄席芸人・[[俳優]]・[[歌手]]・[[ストリップ (性風俗)|ストリッパー]]などの系譜に非常に詳しく、『談志楽屋噺』など芸能史を語る貴重な回想録もある。[[2012年]][[7月24日]]、著書の集大成となる最後の書き下ろし自伝『立川談志自伝 狂気ありて』が発刊された。その後も、さまざまな形で書籍が出版されている。
 
晩年の著作では「原稿の[[校正]]をしない」というポリシーを表明しており、エッセイでは大幅な脱線が付き物となっている。また[[吉川潮]]などごく一部の談志が信頼していた作家を除き、基本的に評伝などの取材は「趣旨を歪曲される」として受けなかったとされている。
 
また、「理解らねぇ(わからねぇ)」「出演った(やった)」など、独特の表記をする。文章内で同じ語を繰り返す際には、古典文学や民謡の歌詞を表記するのと同じく、[[踊り字]](くの字点)を使うことを習慣としている。芸事から教養を得た人物らしい古風なこだわりと言える。晩年の連載での一人称は「家元」であった。
 
* 『現代落語論』([[三一書房]]、1965年) ISBN 978-4380650079
* {{Cite book ja|title=立川談志のなまいき論|url={{国立国会図書館デジタルコレクション|12562309}}|url-access=registration|publisher=アド・サークル出版部|date=1972-10-15}}
* 『あなたも落語家になれる 現代落語論其2』(三一書房、1985年) ISBN 978-4380852299
* {{Cite book ja|title=家元談志のオトコ対決十一番|url={{国立国会図書館デジタルコレクション|12438434}}|url-access=registration|publisher=ABC出版|date=1986-05-25}}
* 『立川談志独り会』(全5巻、[[三一書房]])
* {{Cite book ja|title=談志楽屋噺|url={{国立国会図書館デジタルコレクション|12438438}}|url-access=registration|publisher=白夜書房|date=1987-02-15}}
** 『談志楽屋噺』([[文春文庫]]、1990年) ISBN 978-4167522018
* 『世の中与太郎で、えじゃないか 常識にあきあきしてる人へ』([[青春出版社]]、1992年) ISBN 978-4413015783
* 『酔人・[[田辺茂一]]伝』([[講談社]]、1994年) ISBN 978-4062068512 のち[[中公文庫]]、2021年10月、解説:[[高田文夫]]、ISBN 9784122071278 電子版有
* 『新釈 落語咄』([[中央公論社]]、1995年) ※のち[[中公文庫]]、1999年 ISBN 4122034191
* 『新釈 落語咄 PART II』(中央公論社、1999年) ※のち中公文庫(『新釈 落語咄その2』と改題)、2002年 ISBN 9784122040236
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** (2)絶好調
** (3)大名人のつもり
* 『談志百選』([[講談社]]、2000年) ISBN 978-4062092753、(中公文庫、2023年9月)ISBN) ISBN 9784122074194 電子版有
* 『食い物を粗末にするな』(講談社、2000年) ISBN 978-4062720069
* 『立川談志遺言大全集』(講談社、全14巻、1999年~2002年)
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** (13)芸人論(一)鬼籍の名人
** (14)芸人論(二)早めの遺言
* 『談志絶倒 昭和落語家伝』写真:田島謹之助([[大和書房]]、2007年) ISBN 978-4479391623 、(2023年10月、[[中公文庫]])ISBN) ISBN 9784122074323 電子版有
* 『談志映画噺』([[朝日新聞出版]]、2008年) ISBN 978-4022732453
* 『人生、成り行き 談志一代記』(聞き手:[[吉川潮]]、[[新潮社]]、2007年) ISBN 978-4103069416
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* 『談志 最後の根多帳』(梧桐書院、2010年)
* 『立川談志自伝 狂気ありて』([[亜紀書房]]、2012年) ISBN 978-4-7505-1213-6 *のち[[ちくま文庫]]、2019年2月、解説:松岡慎太郎
* 『遺稿』([[講談社]]、2012年)ISBN) ISBN 978-4-06-217694-1 後述の週刊現代の連載を抜粋したもの。
* 『立川談志まくらコレクション 談志が語ったニッポンの業』(構成:和田尚久、竹書房文庫、2015年1月)ISBN) ISBN 9784801900653
* 『立川談志まくらコレクション 夜明けを待つべし』(構成:和田尚久、竹書房文庫、2015年11月)ISBN) ISBN 9784801905337
* 『観なきゃよかった 立川談志映画時評』(編:和田尚久、[[アスペクト (企業)|アスペクト]]、2015年7月)ISBN) ISBN 9784757223455
* 『落語とは、俺である。 立川談志・唯一無二の講義録』(竹書房、2017年10月)ISBN) ISBN 978-4801912472
* 『立川談志まくらコレクション 風雲児、落語と現代を斬る!』(竹書房文庫、2020年11月)ISBN) ISBN 9784801924581 電子版有
* 『談志の日記 1953 17歳の青春』(dZERO、2021年11月)ISBN) ISBN 9784907623463 *電子版有
* 『立川談志まくらコレクション これが最期の“まくら”と“ごたく”』(竹書房文庫、2021年11月)ISBN) ISBN 9784801928725 *電子版有
* 『作家と家元』(中公文庫、2021年11月) ISBN 978-4-12-207141-4 作家([[吉行淳之介]]・[[阿佐田哲也]]・[[結城昌治]]・[[景山民夫]]・[[伊集院静]]・[[石原慎太郎]])との対談集。電子版有
* 『談志受け咄 - 家元を笑わせた男たち』(中公文庫、2022年4月)ISBN) ISBN 9784122071995
* 『立川談志芸談集』(竹書房、2023年11月)ISBN) ISBN 9784801937789
 
== 連載 ==
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== 演じた俳優 ==
* [[プレミアムドラマ]]「人生なりゆき」2013年、[[NHK BSプレミアム]]
**[[小出恵介]](青年期)、[[田中泯]](晩年) - 「〜天才落語家・立川談志 青春疾風録〜(前編)」(2013年8118月11日)
**[[中山秀征]](壮年期)、田中泯(晩年) - 「〜天才落語家・立川談志 ここにあり〜(後編)」(2013年8月18日)
*[[ビートたけし]] - ドラマスペシャル「[[赤めだか]]」、2015年、[[TBSテレビ|TBS]]
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* [[吉川潮]]
* [[和田尚久 (ライター)|和田尚久]]
* [[桂米市]]
* [[神田伯山 (6代目)|神田伯山]]
* [[桑田佳祐]] - 面識はないものの『[[第61回NHK紅白歌合戦]]』で談志が発した「ふとした病」というフレーズを借用しつつ自身が食道がんで休養したことを語ったり<ref>[https://www.barks.jp/news/?id=1000066779 桑田佳祐、『NHK 紅白歌合戦』で復活。ニューアルバム『MUSICMAN』情報も解禁] バークス</ref>、雑誌で『[[落語のピン]]』のDVDや<ref>「BRUTUS」2011年3月1日号 p.55</ref>『笑点』を見ていることを公言しており<ref>「BRUTUS」2011年3月1日号 p.43</ref>、談志からの影響や落語などを好んでいることを述べている。
* [[重藤暁]]
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=== 親族 ===
* [[松岡弓子]]『ザッツ・ア・プレンティ』([[亜紀書房]]、2011年12月)
* 立川志らく・松岡弓子『DNA対談 談志の基準』(亜紀書房、2012年8月)
 
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=== 雑誌・ムック本 ===
* 『東京かわら版 平成24年2月号 追悼 立川談志』(東京かわら版、2012年1月)
* 『[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]] 詩と批評 2012-2 特集 立川談志』([[青土社]]、2012年2月)
* 『[[笑芸人|落語ファン倶楽部]] vol.16 談志だいすき』([[白夜書房]]、2012年4月)
* 『落語ファン倶楽部 vol.20 談志[[志ん朝]] 夢のふたり会』(白夜書房、2013年9月)
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* 『新釈立川談志 没後10年永久保存版』(河出書房新社、2021年11月) ※2018年版文藝別冊の改訂版
 
=== 関係者連書・評論 ===
* {{Cite book |和書 |author=三遊亭圓楽(5代目) |date=2006-07 |title=圓楽 芸談 しゃれ噺 |publisher=白夜書房 |ref={{SfnRef|三遊亭|2006}} }}
* [[吉川潮]]『戦後落語史』(2009年12月、新潮新書)
* 吉川潮『談志歳時記 名月のような落語家がいた』(2012年11月、新潮社)
* 吉川潮『いまも談志の夢をみる ~落語立川流、家元と顧問の五十年』(2022年12月、[[光文社]])
*[[平岡正明]]『立川談志と落語の想像力』(2010年3月、[[七つ森書館|七ッ森書館]])
* [[辺見伝吉]]、[[久田ひさ]]『立川談志が遺した名言・格言・罵詈雑言 - 人生は、矛盾と誤解に理不尽だらけ』([[牧野出版]]、2012年9月)