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}}
七代目 '''立川 談志'''(たてかわ だんし、[[1936年]][[昭和]]11年[[1月2日]]{{efn|これは戸籍上の生年月日であり、実際は[[1935年]](昭和10年)[[12月2日]]生まれである<ref>[https://syncrokun.hatenadiary.org/category/%E7%AB%8B%E5%B7%9D%E8%AB%87%E5%BF%97%EF%BC%88%EF%BC%92%EF%BC%89 立川談志(2)]</ref>。}} - [[2011年]][[平成]]23年[[11月21日]])は、[[日本]]の[[落語家]]、[[政治家]]。[[落語立川流]][[家元]]。本名:松岡 克由(まつおか かつよし)。[[出囃子 (落語)|出囃子]]は「[[トクサ|木賊]]刈(とくさがり)<!-- [[WP:NORUBY]]に準じて、本文中では{{ruby}}は使用しない -->」「あの町この町」。
 
[[古典落語]]に広く通じ、現代と古典との乖離を絶えず意識しつつ、長年にわたって理論と感覚の両面から落語に挑み続けた。古典落語を現代的価値観・感性で表現し直そうとする野心的努力が高く評価されたが、その荒唐無稽・破天荒ぶりから好き嫌いが大きく分かれる落語家の一人でもあった。落語のみならず、[[講談]]、[[漫談]]をも得意とするなど、芸域の広さで知られた。[[三遊亭圓楽 (5代目)|五代目三遊亭圓楽]]、[[古今亭志ん朝|三代目古今亭志ん朝]]、[[春風亭柳朝 (5代目)|五代目春風亭柳朝]](柳朝没後は[[橘家圓蔵 (8代目)|八代目橘家圓蔵]])と共に「江戸落語若手四天王」と呼ばれた。自ら[[落語立川流]]を主宰し、「家元」を名乗る。
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== 来歴 ==
=== 入門から真打昇進まで ===
[[File:Danshi Tatekawa koen 1959 Scan10012.jpg|thumb|200px|柳家小ゑん時代([[1959年]][[6月6日]])]]
1936年1月2日、東京府東京市[[小石川区]]に生まれる。父親は[[三菱重工業|三菱重工]]の社用運転手をしていた<ref name=":2">{{Cite book|和書|title=日本一の落語家|date=2012-4-15|publisher=徳間書店|page=16|isbn=9784197102679}}</ref>。小石川原町白山御殿町[[蒲田]][[浦賀]][[下丸子]]と転居を重ね、6歳から[[1960年]]の[[結婚]]まで東京府東京市[[大森区]][[鵜の木]]に居住していた<ref name=":2" />。
 
小学校5年生の時、[[おじ|伯父]]に連れられて[[浅草松竹演芸場]]に行き、寄席に夢中になる<ref name=":2" />。
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1952年、東京中学校卒業。先輩に[[安藤鶴夫]]、[[牧伸二]]がいる。同年4月、[[東京高等学校|東都高等学校]]を中退後、16歳で[[柳家小さん (5代目)|5代目柳家小さん]]に入門。本名の「克由」の一字を取って、'''柳家小よし'''と名乗る。初高座は[[新宿末廣亭]]における『[[浮世根問]]』。1954年3月、[[二つ目]]に昇進して'''[[柳家小ゑん]]'''と改名。[[寄席]]のほかに[[日劇ミュージックホール]]や[[新宿松竹文化演芸場]]にも定期的に出演し、コントや漫談も披露する。スタンダップコメディを演じる際には赤シャツにジーパン姿がトレードマークだった。
 
1962年3月に、入門が5年遅い[[古今亭朝太]](のちの[[古今亭志ん朝|3代目古今亭志ん朝]])が「36人抜き」で小ゑんよりも先に[[真打]]に昇進、さらに10月には入門が約3年遅い[[三遊亭圓楽 (5代目)|5代目三遊亭圓楽]]にも真打昇進で先を越され、生涯最大の屈辱を味わう。1963年4月、'''立川談志'''を[[襲名]]し、真打に昇進。同時に小さん門下から[[柳家つばめ (5代目)|5代目柳家つばめ]]も真打に昇進した。
 
実際には7代目とされるにもかかわらず、[[立川談志 (名跡)|立川談志]]の「5代目」を自称した経緯については、後年の著書で「明治時代の寄席で人気を博していた[[立川談志 (4代目)|4代目(談志)]]が『初代(談志)』を称しており、小ゑん(松岡)の先代にあたる[[立川談志 (6代目)|6代目(談志)]]がそれに倣って『4代目(談志)』と称していたようなので、小ゑんは『5代目』というのは語呂が良く、さらに師匠[[柳家小さん (5代目)|5代目柳家小さん]]と代数が合うので丁度いいということで、『5代目談志』を名乗ることになった」と明かしている<ref>『現代落語論』(立川談志著、三一新書刊、1965年)P163。</ref>。
 
=== 『笑点』立ち上げ ===
1966年5月15日、『[[笑点]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])が放送開始。1969年11月2日まで初代司会者を務める。のち『笑点』放送100回記念放送では[[桂歌丸]]と異色漫才を披露した。後年、「『笑点』ってのはよう、アタシが作った傑作なんだよ」と語った通り、『笑点』は談志が自ら企画して実現したものである。
 
初代メンバーの1人である5代目三遊亭圓楽が『[[いつみても波瀾万丈]]』で語ったところによると、談志が5代目圓楽に「寄席でやっている[[大喜利]]をテレビでやろうじゃないか」と持ちかけたのが番組開始の端緒だという<ref name="danshi1">ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』105頁</ref>。落語ではなくあえて大喜利をメインとしたのは「落語は(噺の)前後にしかコマーシャルを入れられないし、座ってるだけで(テレビに)不向きだから。大喜利なら途中でコマーシャルが入れられるから」だったという<ref name="danshi2">『圓楽 芸談 しゃれ噺』(五代目三遊亭圓楽著、百夜書房刊、2006年)193頁。なお、談志は「落語がテレビ向きでない」という主張を『現代落語論』255-260頁でも行っており、その最後で「誰かテレビにおける落語の演出を考えてください。お願いします」と訴えている。</ref>。談志はまた「大喜利を前面に出すのは感心しないが、やらないのも駄目だ」と考えていた<ref name="danshi2" />。談志は1960年代半ばにテレビ・ラジオの電波メディアの普及で寄席に閑古鳥が鳴いている状況に危機感を抱き、「これからは、落語家はテレビにもどんどん出て行かなきゃ駄目だ<ref name="danshi2" />」との考えから、テレビ局へ企画の売り込みを図った。その結果生まれた番組が前身番組の『[[金曜夜席]]』で、隔週金曜深夜に放送された。当初は談志が演芸コーナーの司会で、5代目圓楽が大喜利コーナーの司会というローテーションだったが、のちにどちらとも談志に統一された{{efn|大喜利では圓楽は回答者に回る。のちに降板するが、しばらくして同番組の司会者として復帰する。}}。前身番組の時点で『笑点』の基礎が固まり、そのまま日曜夕方の番組としてスタートしたのである。『笑点』の司会では、持ち前の[[ブラックユーモア]]を生かした、機知に富んだ掛け合いを演じた<ref name="danshi1" />。しかし視聴率が伸び悩み、初代レギュラー陣との関係も悪化したため、暫時的な新レギュラー期間を挟んで、最終的には談志自身が降板を余儀なくされた<ref name="danshi1" /><ref>[[桂歌丸]]『座布団一枚!桂歌丸のわが落語人生』[[小学館]]、2010年9月8日。</ref>。なお、歴代『笑点』の司会者で、就任時点で[[落語協会]]に所属していた人物は現在に至るまで談志のみである。
 
降板後も特別番組には何度か出演したが、2000年代以降は完全に距離を置いた。番組で不定期に放送された「真打昇進披露口上」では[[立川志の輔]]の真打昇進時(1990年6月3日放送)が唯一の出演例となった{{efn|同番組は2024年4月7日放送分で[[立川晴の輔]]がレギュラー入りするまでは立川流に所属する落語家がレギュラー出演したことは無く<ref>{{Cite web |title=新メンバーは立川晴の輔さん 「笑点」木久扇さん後任 |url=https://nordot.app/1149635139970269677 |website=共同通信 |date=2024-04-07 |access-date=2024-04-08}}</ref>、立川流の出演は演芸や若手大喜利など少数に限られてい(ただし、志の輔の弟子の[[立川晴の輔や談志の直弟子である[[立川志らく]]が[[三遊亭円楽 (6代目)|6代目三遊亭円楽]]の休演時に代理メンバーとして大喜利に出演したことがある)<ref>{{Cite web |title=「笑点」半世紀ぶりに立川流出演 円楽の代演で晴の輔「暗黒集団から参りました」 |url=https://www.daily.co.jp/gossip/2019/09/15/0012703624.shtml |website=デイリースポーツ |date=2019-09-15 |access-date=2024-04-08}}</ref><ref>{{Cite web |title=立川志らく、「笑点」に初登場! 初代司会者・立川談志さんの直弟子が大喜利に出るのは初めて |url=https://hochi.news/articles/20220505-OHT1T51240.html?page=1 |website=スポーツ報知 |date=2022-05-05 |access-date=2024-04-08}}</ref>。また、昇進披露口上にも立川流の新真打出演経験もあるが、他流派では通常出演する各協会・所属団体のトップが進行役として出演したことはない。}}。また、談志は初代メンバーの一人である歌丸に対し、「『笑点』を辞めてくれ」と直言したこともあるという<ref>『歌丸 極上人生』(桂歌丸著、祥伝社黄金文庫刊、2015年)270頁。歌丸は「(『笑点』を)早くやめた方がいいよという方もいらっしゃったが、一番初めに言ったのは談志さんだった」とも述べている。</ref>。
 
一方で、『笑点』の企画自体の思い入れがあったためか、2001年から2003年にかけて『特冊新鮮組』([[竹書房]]の隔週刊娯楽雑誌)で「大笑点」という投稿コーナーを企画(2006年 - 2008年の元日に日本テレビで放送された[[大笑点|同名番組]]とはまったく関係がない。2002年には書籍化)し、2005年10月開始の『[[談志の遺言]]』([[TBSラジオ]])には「おれとお前の笑点」という投稿コーナーを設けていた(2006年3月の一時終了まで存在した。同年10月の再開時には消滅)。
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1969年、[[第32回衆議院議員総選挙]]に[[東京都第8区 (中選挙区)|旧東京8区]]から[[無所属]]で出馬。「東京は東京を愛するものにまかせろ」「相談にのるぜ、力になるぜ」「そしてあなたもつづけ」のキャッチフレーズを掲げて挑んだ<ref>新聞広告『朝日新聞』昭和44年(1969年)12月20日朝刊、12版、15面</ref> ものの落選。定数3のところ、19,548票で立候補者9人中6位であった。
 
同年、[[ニッポン放送]]にて、[[月の家圓鏡]](のちの[[橘家圓蔵 (8代目)|8代目橘家圓蔵]])と[[木魚]]を叩きながらナンセンスなやりとりをする[[ラジオ番組]]『談志・円鏡 歌謡合戦』がスタート。人気番組となり、[[1973年]]まで放送された<ref>{{Cite web |和書|url=http://www.sanspo.com/geino/news/111211/gnj1112110505015-n1.htm |title=談志さん、未公開音源蔵出しで“復活” |date=2011-12-11 |publisher=産経ニュース |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120117045529/http://www.sanspo.com:80/geino/news/111211/gnj1112110505015-n1.htm |archivedate=2012-01-17 |accessdate=2021-04-07}}</ref>。この番組は談志のお気に入りであり、のちに独演会などで番組の再現を行っている。『談志の遺言』でも圓蔵をゲストに迎えて特別企画としてリバイバル企画を行ったほか、2007年10月開始の『[[立川談志・太田光 今夜はふたりで]]』(TBSラジオ)では[[太田光]]([[爆笑問題]])を相方に、木魚を叩きながら即興のやりとりを行う『歌謡合戦』を意識した番組作りがなされた。
publisher=産経ニュース |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120117045529/http://www.sanspo.com:80/geino/news/111211/gnj1112110505015-n1.htm |archivedate=2012-01-17 |accessdate=2021-04-07}}</ref>。この番組は談志のお気に入りであり、後に独演会などで番組の再現を行っている。
 
1971年、[[第9回参議院議員通常選挙]]に[[全国区制|全国区]]から無所属で出馬、初当選<ref>{{NHK放送史|D0009030567_00000|参議院選挙 立川談志氏ら初当選}}</ref>。当時の全国区で50人中50位の最下位当選だったが<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=-6CcDRkwjpA&t=193s 「タレント候補の泣き笑い -参院選-」No.911_2] 中日映画社</ref>、その際のインタビューで「[[寄席]]でも選挙でも、真打は最後に上がるもんだ」という言葉を残す。直後に[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]に入党した。本人によれば、談志の自民党入りを要請するために訪れた[[佐藤栄作]]が座布団から降りて小さんに頭を下げたため、小さんが談志に自民党入りを促したという。国会質疑では[[NHK受信料|NHK受信料問題]]などを取り上げた。
 
1975年12月26日、[[三木内閣]]の[[沖縄振興局|沖縄開発]][[政務次官]]に就任するが、就任時の[[プレスリリース|会見]]で議員の選挙資金について「子供の面倒を親分が見るのは当然」と発言したことが問題化。さらに、政務次官初仕事である[[沖縄国際海洋博覧会|沖縄海洋博]]視察では二日酔いのまま記者会見に臨み、地元沖縄のメディアの記者から「あなたは公務と酒とどちらが大切なんですか」と咎められる。これに対して「酒に決まってるだろ」と返答したことがさらに問題となる。さらに詰問する記者に対して退席を命じ、会見を打ち切ろうとしたため批判を浴びた。弁明を行うはずの参議院[[決算委員会]]を寄席を理由に欠席するに至って、自民党内部からも反発が起こり辞任。在任期間は僅か36日であった。談志自身は、議員になったのは兼職をしてもいいと言われたからでありだと主張し、自分は大衆との接点を持ち続けるのが信条だとして自民党も離党した。この時、親交がある[[石原慎太郎]]{{efn|最晩年に気道切開手術を受けた後も談志は[[東京都知事]]となった石原のことを気にかけており、亡くなる2か月前に石原本人から電話があった時に談志は声が出せない状態ながら意思を伝えるために電話口の前でうなずいたり首を振ったり、しゃべろうとして咳き込んだりしていたという{{sfn|松岡|2011|p=288}}。}}から「謝罪したらどうだ」と説得されたが拒絶している。
 
参議院議員2期目を目指し、全国区から東京地方区への鞍替え出馬を予定していたが、直前で出馬を取りやめ、議員活動は参議院議員1期6年だけで終わった。本人曰く「政治家としての経歴がマイナスになるのは俺ぐらいだろう」と振り返っていた。
 
政治思想は[[保守]]寄りであった。在任中は[[日本共産党]]議員への野次に力を入れていたことにより、共産党支持者の8代目林家正蔵(のちの[[林家彦六]])<ref group="注釈">ただし、彦六は共産党のイデオロギーに共感していたわけではなく、本人は[[判官贔屓]]としている。</ref>と、野次があるたびに喧嘩をしていた模様である。ただし、彦六は談志の選挙を手伝っていた。談志も、国会の決算委員会で[[日本国有鉄道|国鉄]]問題の際に「通勤定期を通勤のみに使い、外出など私用な目的には定期を使わずに運賃を払っている人物」の例として彦六を取り上げており、議事録にも残っている<ref>昭和51年10月28日、参議院運輸委員会会議録7号29頁</ref>。政界を退いた後も自民党を中心とする保守系政治家との親交を深め、保守系議員の選挙応援などにもしばしば動いた。
 
その反面、元社会党衆議院・参議院議員[[上田哲]]の選挙応援に動いたこともある。談志によると「議会には反対派も必要だ」とのことだが、政治レベル以外での個人的な交友関係による支援と思われる<ref group="注釈">上田は落語立川流Bコースに名を連ね、立川流の高座に上がったこともある。</ref>。後年には[[医師]]・作家の[[なだいなだ]]の提唱した[[老人党]]に賛同し、上田・[[西丸震哉]]とともに「老人党東京」(3人の共同代表)を旗揚げした。
 
=== 落語立川流創設 ===
[[ファイル:丸に左三階松.png|代替文=thumb|サムネイル220px|left|立川流の[[定紋]]、"丸 に 左三蓋松"は、立川流の<ref group="注釈">[[定http://hakko-daiodo.com/kamon-c/cate6/matsu/matsu3.html 家・丸に左三蓋松の画像素材]]である。</ref>]]
1978年、[[三遊亭圓生 (6代目)|6代目三遊亭圓生]]ら[[三遊派]]が落語協会を脱退。[[落語協会分裂騒動]]が発生する。この脱退については諸説あり、落語史としても今なお不透明な部分が多い。談志と5代目圓楽を黒幕とする説が多数説(5代目圓楽は著書で、新協会設立の話を圓生に持ちかけたのは談志であると述べている。志ん朝の香盤を下げるために仕組んだとする見方もある)だが、反響の大きさに慌てる談志の姿が目撃されてもいる。また、参加しないと思われていた志ん朝が参加してしまったため、慌てて参加を取りやめたとの説もある。[[川柳川柳]]の著書によると、談志は脱退した三遊派で構成される「三遊協会」の次期会長は自分だと思い込んでおり、圓生に確認したところ、「次は志ん朝だ」と答えられたため、思惑が外れて計画から手を退いたという。[[金原亭伯楽]]の著書にも同趣旨が記述されている。
 
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2009年8月26日、長期休養を発表。予定されていた出演をすべてキャンセルとする。理由は体力の低下と持病の[[糖尿病]]治療であると発表していたが、実際は癌により発声が困難になったためと推測される。当初、本人は事務所に引退を切り出したというが、事務所の説得で休養という形に落ち着いた。同年12月1日、[[NHKラジオ第1放送]]公開収録番組『[[話の泉#.E6.96.B0.E3.83.BB.E8.A9.B1.E3.81.AE.E6.B3.89|新・話の泉]]』に別録りのインタビューという形で出演。実際の公開収録舞台には談志の写真ボードが置かれた。その後も体調は好転せず、2010年冒頭に入院することが決定したことなどを受け、12月28日、休養期間を約3か月延長すると発表する。
 
2010年3月2日、[[三遊亭円楽 (6代目)|6代目三遊亭円楽]]襲名披露パーティーに姿を見せ、挨拶する。パーティーで同席した[[桂歌丸]]は「生きている談志さんにお会いできたことが嬉しかった」とコメントし、談志との再会を喜んだ<ref>[https://web.archive.org/web/20130703113234/http://www.news24.jp/entertainment/news/1610710.html 仮退院桂歌丸、一番の喜びは「談志が生きていたこと」] 日テレNEWS24 2010年3月2日閲覧</ref>。
 
3月31日、[[新宿末廣亭|新宿末広亭]]余一会「三派連合サミット」に飛び入りで出演後<ref>{{Cite web |和書|url=https://ameblo.jp/dengekigyuzo2006/entry-10496552266.html |title=な、なんと・・末広亭に談志登場! |accessdate=2022-3-20 |publisher=ameba blog |author=ギュウゾウ |authorlink=ギュウゾウ |date=2010-3-31 |website=ギュウゾウ新聞}}</ref>、同年[[4月13日]]には8か月ぶりに高座に復帰し『[[首提灯]]』を披露する。
 
10月30日・11月6日放送のTOKYO MXテレビ『[[西部邁ゼミナール]]』「この人を見よ―立川談志」にゲスト出演。
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8月2日、死去の誤報をどこからか聞きつけた日本テレビの取材陣が自宅を訪れ、長男が怒鳴りつける事態が発生<ref name=":3" />。
 
8月19日、行きつけの銀座のバーに直弟子と一部関係者が集合、家族に連れられて談志が来店。体調は芳しくなかったが、どうしても行きたいということで解熱剤を処方されたのちにやって来た。すでに話すことはできなかったが、紙に書いた言葉で一同を笑わせた。これが多くの直弟子にとっては生前最後の対面となる。談志が退出後、弟子一同で今後のマスコミ対策を協議した<ref name=":3">{{Cite book|和書|title=談志歳時記|date=2012-11-21|publisher=新潮社|pages=283-285|author=吉川潮|first=吉川潮|isbn=9784104118076}}</ref>。
 
自宅療養中に衰弱が進んだため、9月12日に再入院{{sfn|松岡|2011|p=298}}。10月27日、昏睡状態に陥る。この日を最後に意識が回復することはなく、11月21日午後2時24分、家族に看取られて[[喉頭癌]]のため死去<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20121201012253/http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20111124-OHT1T00010.htm?from=yol|title=立川談志さん、喉頭がんで死去…75歳、声失い最後は筆談|newspaper=[[スポーツ報知]]|date=2011-11-24|accessdate=2011-11-24}}{{リンク切れ|date=2018-08-03}}</ref>。75歳だった。
 
=== 死去直後の対応と反響 ===
談志死去の報は、最期まで談志の世話をしていた[[立川談吉]]<ref>高田文夫/笑芸人編 『落語ファン倶楽部 Vol. 16 談志 だいすき』 白夜書房、2012年4月、ISBN 978-4-86191-902-2。pp.81-87。</ref>を除き、一門の弟子たちを含む落語界・芸能界・知人の誰にも伝えられなかった。家族および談吉のみで通夜・告別式(密葬)を執り、11月23日に[[落合斎場]]にて荼毘に付される。
 
家族は2日の間、談志の死を一門を含む誰からも隠し通した。談志が生前に「人に知らせるな。骨は海に沈めろ」と語っており、近親者が本人の意思を守ろうとしたためであるが<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2004009/full/|title=立川談志さん、余命宣告されていた 長男長女が緊急会見|accessdate=2021年12月22日|publisher=ORICON NEWS}}</ref>、情報が正式に公表されるまでの間、関係者やマスコミなどを巻き込んだ騒動のもとにもなった。
 
23日に所属事務所である談志役場(息子・[[松岡慎太郎]]が代表を務める会社)が死の事実を[[プレスリリース]]したが、その際も弟子たちに知らせなかった。立川キウイ<ref>立川キウイのブログの [http://tatekawakiwi.jugem.jp/?day=20111122 2011年11月22日の記事]{{リンク切れ|date=2018-08-03}}および [http://tatekawakiwi.jugem.jp/?day=20111123 23日の記事]{{リンク切れ|date=2018-08-03}}参照。</ref>や[[立川談慶]]<ref>[httphttps://twitterx.com/dankeitatekawa/status/139234362418933761 立川談慶の2011年11月23日のツイート 其の壱]{{リンク切れ|date=2018-08-03}}。後にこの発言は撤回している([httphttps://twitterx.com/dankeitatekawa/status/139247485334986753 立川談慶の2011年11月23日のツイート 其の弐]{{リンク切れ|date=2018-08-03}})。</ref><ref>{{Cite web|url=https://mobile.twitter.com/yuimasakazu/status/1455674938732388356|title=もう10年ですから言っちゃいましょう|accessdate=2021-11-3|publisher=twitter|author=油井雅和(@yuimasakazu)|date=2021-11-3|quote=冒頭で談慶師匠が話してましたが10年前の11月23日、電話を入れたら驚いた様子で「ガセネタです。間違ってると思いますよ」と言われたのは実は私です}}</ref>ら弟子たちは、死の2日後にテレビニュースなどで談志の死を知ることとなる。このため、マスコミやファンの問い合わせを受けて「(自分は聞いていないので)ガセだろう」と回答してしまい、あとで訂正するはめになった弟子たちが続出した。また、この日に身内だけで結婚披露宴を開いていた孫弟子の[[立川志の春]]は、披露宴中に「ご愁傷様」「気落ちしていると思いますが」というメッセージを多数受け取り、首をひねっていたところにテレビで談志死去のニュースを知った<ref>{{Cite book|和書 |title=シン・談志が死んだ 立川流はどこへ行く 立川志の春「婚礼の日の『ご愁傷様』」 |date=2023-11-26 |publisher=小学館 |pages=152-155 |author=立川談志+落語立川流 |isbn=9784093891417}}</ref>
 
一方、死の直後から[[Twitter]]や[[Wikipedia]]などに情報のリークがあり、落合斎場にも到着時には報道陣が集まっていた。しかし、談吉は自身のブログやTwitterで談志と無関係の話題をあえて記述し、情報が漏れないようにつとめた。火葬が始まった時点で携帯電話が鳴り出し、情報を隠し切れないと判断した遺族は関係者に連絡、談志の死去を報告している<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://wpb.shueisha.co.jp/news/entertainment/2021/10/18/114607/|title=立川談志とのお別れ|accessdate=2021-10-20|publisher=集英社|author=松岡ゆみこ|date=2021-10-18|website=週プレweb|work=【しあわせの基準 ー私のパパは立川談志ー 第二十八回】}}</ref><ref>{{Cite news|title=没後10年 野末陳平さんが語る談志「秘話」|newspaper=毎日新聞夕刊|date=2021-11-19|author=鈴木琢磨|authorlink=鈴木琢磨|location=東京|page=3|quote=23日、おかみさん(談志夫人)から電話が入った。(略)火葬場からだった。}}</ref>。
 
23日夜に長男・松岡慎太郎と長女・[[松岡弓子]]が[[ホテルニューオータニ]]で記者会見を行い、死去に至るまでの経緯を説明した<ref name=":0" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://news.livedoor.com/article/detail/6055856/|title=「声のかぎり、落語を愛してました」 落語家・立川談志さん遺族会見 全文|accessdate=2021-10-14|publisher=Livedoor news|author=亀松太郎|editor=写真・石津大助|coauthors=丹羽一臣|work=ニコニコニュース|date=2011-11-24}}</ref><ref>{{Cite news|title=立川談志さんの死去について、記者会見する談志さんの長男松岡慎太郎さん(手前)と長女松岡弓子さん|newspaper=朝日新聞デジタル|date=2011-11-23|author=撮影:金川雄策|url=http://www.asahi.com/showbiz/gallery/20111124danshi/danshi37.html|location=東京}}</ref>。
 
死去公表直後、弟子でマスコミの囲み取材を受けたのは[[立川志の輔]]<ref name=":0" />、[[立川談笑]]<ref name=":1">{{Cite book|和書|title=波「立川談志というをのこ」|date=2012-12|publisher=新潮社|author=吉川潮×立川談笑|url=https://ebook.shinchosha.co.jp/nami/201212_08/}}</ref><ref group="注釈">談笑は[[静岡市|静岡]]の独演会の[[トップセンタービル|会場]]で取材を受けている。訃報は休憩時間に[[柳家喬太郎]]からの電話で知り、談志から禁じられていた『[[芝浜|シャブ浜]]』を演じた後、客前で号泣した。また、同じ時間帯に[[立川談春]]は至近距離の[[静岡市民文化会館|会場]]の別の会に出演していた。談春は師匠が亡くなったことは知っていたが、舞台ではおくびにも出さず取材も受けていない。終演後、二人は一緒の新幹線で東京に戻った。</ref>。談笑は24日に『[[情報プレゼンター とくダネ!|情報プレゼンター とくダネ!]]』<ref group="注釈">当時、番組レポーターでもあった。</ref>に、[[立川談四楼]]は25日に『[[ミヤネ屋|情報ライブ ミヤネ屋]]』に出演している<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20211104004418/https://kakaku.com/tv/channel=4/programID=12194/page=1663/|title=「情報ライブ ミヤネ屋」で紹介されたすべての情報 ( 1663 / 9528 ページ )|accessdate=2021-10-18|publisher=価格.com|date=2011-11-25}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=談志が死んだ|date=2012-12-15|publisher=新潮社|page=19-35|author=立川談四楼|author-link=立川談四楼|isbn=9784104247042}}</ref>。談志死去の報道を受け、行きどころのない弟子は談志行きつけの銀座のバーに集まり、故人を偲びつつ盛り上がった<ref name=":1" />。
 
談志の死去を受けて、23日、[[橘家圓蔵 (8代目)|8代目橘家圓蔵]]と[[林家木久扇]]が日本テレビのニュース番組『[[news every.]]』に生出演し、談志との想い出を語った。また、日本テレビ『[[金曜夜席]]』当時からの知己である[[桂歌丸]]、上方落語界長老の[[桂米朝 (3代目)|3代目桂米朝]]も逝去を悼むコメントを発表した<ref>[http://www.sanspo.com/geino/news/111123/gnj1111231603025-n2.htm 落語家の立川談志さんが死去] サンケイスポーツ 2011年11月23日閲覧{{リンク切れ|date=2018-08-03}}</ref>。弟弟子で当時[[落語協会]]会長の[[柳家小三治]]は「とんでもない人物だった。今でも兄弟弟子という思いは強い」と語り、兄弟子の死を悼んだ<ref>[http://www.asahi.com/showbiz/stage/rakugo/TKY201111290351.html とんでもない人だった 柳家小三治、立川談志を悼む]{{リンク切れ|date=2018-08-03}} 朝日新聞 2011年11月30日閲覧</ref>。また、談志に憧れて落語家の道を志した当時[[上方落語協会]]会長の桂三枝(現:[[桂文枝 (6代目)|6代桂文枝]])も、談志の訃報が公表された日の緊急会見で「嘘であって欲しいと思いました」と泣き崩れながら談志を偲んだ。
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晩年の談志の高座を地方公演まで追いかけて聴いていた[[堀井憲一郎]]は、活字媒体のみならず、死去公表直後の[[TBSラジオ]]『[[ニュース探究ラジオ Dig]]』や[[NHKテレビ]]『[[視点・論点]]』(2011年12月29日「談志死して"落語"を残す」)などで追悼と解説をしている。
 
報道各紙による訃報の見出しは「談志が死んだ」であった。生前、談志は「上から読んでも下から読んでも、『談志が死んだ!』と書いてくれ」と言っていた<ref group="注釈">生前にも、本人や一門の書いた文章を集めた『談志が死んだ: 立川流はだれが継ぐ』(2003年、ISBN 4062121859)という本を出版していた。</ref>。また、同年に死去した[[ウサーマ・ビン・ラーディン]]、[[ムアンマル・アル=カッザーフィー]]、[[金正日]]と合わせ、「2011年は独裁者が死ぬ年」とも評された<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.nicovideo.jp/watch/nw10138662|title=立川談志と独裁者【しあわせの基準 ー私のパパは立川談志ー 第三十二回】|accessdate=2022-12-06|publisher=週プレNEWS|date=2021-11-15}}</ref>。
 
マスメディアでの報道とは対照的に、死去に対する落語家界隈、特に[[落語協会]]内での反応は冷淡なものであったと[[三遊亭圓丈]]は評している。これは、すでに談志が落語協会を脱会していたことや、事実上の引退状態にあったため「談志は過去の人」という認識が強かったことが理由だという<ref>{{Cite journal |和書|author =三遊亭圓丈 |authorlink = |title =落語家の通信簿|date = |publisher = 祥伝社新書|volume = |issue = |naid = |pages = 148 |ref = }}p.148</ref>。
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葬儀の際、談志が生前かわいがっていたライオンのぬいぐるみ「ライ坊」が談志とともに荼毘に付されたという情報が流れた。このため、ライ坊が原因で破門騒動{{efn|ライ坊に腹巻きがしてあったのを見つけた談志に対し、志らくが「風邪を引かないようにと思って」と答えたが、談春が自伝『赤めだか』で「本当は志らくがライ坊をいじめて壊してしまったため」と書いたのが原因。しかし、これは談志が「ライ坊をいじめないでくれ」と弟子たちに言ったのを談春および志らくがネタにしたものであり、談春が談志に事情を説明して騒動は収まった<ref>[http://special.gotoshoin.com/shiraku/post-78.html 「立川志らくの怒らないでください。」、梧桐書院WEB連載 第二十席 立川談春 下] 2013年11月3日閲覧。</ref>。}}に巻き込まれた[[立川志らく]]は、24日放送の『[[高田文夫のラジオビバリー昼ズ]]』にて大いに嘆き、[[高田文夫]]が大笑いする一幕があった。しかし、その後談吉が明かしたところによると、荼毘に付されたのは別のクマのぬいぐるみであり、ライ坊は無事だった。
 
死去から一か月後の12月21日、[[ホテルニューオータニ]]で「お別れの会」が開かれ、関係者約1000人、ファン3000人が参列した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2011/12/22/kiji/K20111222002289320.html|title=立川談志さんお別れの会 親友石原都知事が弔辞「あばよ」|accessdate=2021-10-16|publisher=スポーツニッポン新聞社|date=2011-12-22|website=スポニチアネックス}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2004964/full/|title=談志さん『お別れの会』に約1000人参列 爆問・太田「師匠、優しかった」|accessdate=2021-10-14|publisher=ORICON|date=2021-12-21}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2004963/full/|title=談志さん『お別れの会』で石原都知事が弔辞 上岡龍太郎さん「500年生き続ける天才」|accessdate=2021-10-14|publisher=ORICON|date=2011-12-21|website=ORICON NEWS}}</ref>。弔辞を述べたのは[[石原慎太郎]]と[[山藤章二]]。
 
2012年2月20日、浅草の[[平成中村座]]にて、生前親交のあった[[中村勘三郎 (18代目)|18代目中村勘三郎]]により追悼公演「落語立川流 In 平成中村座」が開催された。出演は勘三郎と談春、志らく、生志、談笑、高田文夫(座談会のみ)<ref>{{Cite web |和書|url=https://www.kabuki-bito.jp/news/953 |title=勘三郎も登場!「落語立川流 In 平成中村座」が開催されました |access-date=2022-9-7 |publisher=松竹 |website=歌舞伎美人 |date=2012-2-22}}</ref>。
 
墓所は文京区向丘の[[浄心寺 (文京区向丘)|浄心寺]]本郷さくら霊園で、墓石の正面には談志の筆による「立川談志」の名が、側面には生前自ら考えた戒名「'''立川雲黒斎家元勝手居士'''(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)」が刻まれている<ref>{{Cite journal |和書|author = |authorlink = |title = あの有名人が眠るお墓を訪ねる「心の旅」|date = 2015-08-28|publisher = 講談社|journal = フライデー2015年8/21・28合併号|volume = |issue = |naid = |pages = 68|ref = }}</ref>。生前から公開していた戒名が原因で受け入れてくれるお寺が見つからなかったといい、納骨が行われたのは2012年12月2日だった<ref>{{Cite journal |和書|author = |authorlink = |title = 立川談志 極秘納骨陰に墓騒動「雲黒斎の戒名はお断りの声」|date = 2012-12-18|publisher = 光文社|journal = 女性自身|volume = |issue = 2567|naid = |pages = |ref = }}</ref>{{efn|奇しくも、この日は談志の本来の77回目の誕生日でもあった。}}。生前からの希望により遺骨の一部が海に散骨されたが、直後に魚が集まってきて撒かれた遺骨を食べてしまったという<ref>『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』 ニッポン放送 2012年12月13日および14日放送分</ref>。長女の[[松岡ゆみこ]]は、談志が生前埋葬を希望していなかったことを受け、遺骨の一部を手元で保管している<ref>『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』 ニッポン放送 2013年1月21日放送分</ref>。
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[[2013年の日本|2013年]]には[[NHK BSプレミアム]]で、過去のドキュメンタリー映像・弟子のインタビューと[[木皿泉]]脚本によるドラマを組み合わせた『[[BSプレミアムドラマ]] 人生、成り行き』が放送された。談志役を[[小出恵介]](青年期)、[[中山秀征]](壮年期)、[[田中泯]](晩年)の3人が演じた。
 
[[2014年の日本|2014年]]、長女・ゆみこが、談志の長年の住まいであった練馬区の自宅のリフォームを『[[大改造!!劇的ビフォーアフター]]』([[朝日放送テレビ|朝日放送]])に依頼し、リフォーム後は志らく夫妻が住むことになった<ref>[httphttps://navicon.jp/news/26819/ 天才落語家・立川談志の練馬の家を劇的リフォーム!テレビ朝日30日「大改造!!劇的ビフォーアフター」予告動画] navicon 2014年12月1日閲覧</ref>。庭の桜の木の根元には、談志の遺灰の一部が散骨されている。
 
[[2015年の日本|2015年]]12月には、[[立川談春]]のエッセイを題材にしたドラマ『[[赤めだか]]』がTBSで放送され、[[ビートたけし]]が談志を演じた。
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[[2018年]]には、生前の言動などを[[人工知能|AI]]に導入して談志を再現した[[人造人間|アンドロイド]](声:太田光)と志らくがトークを行う特別番組『天国からのお客さま』が放送された。
 
没後10年となる[[2021年]]には、コロナ禍で感染予防のため追悼公演は行われなかったものの、追悼・回顧企画がテレビ・ラジオで多数放送された。11月3日の[[NHKラジオ第一|NHK ラジオ第一]]『[[らじるラボ]]』では、番組出演者の[[立川談慶]]と[[吾妻謙 (アナウンサー)|吾妻謙]]により8時05分から11時50分まで『祝日も!らじるラボ〜よってたかって立川談志〜』と題して、過去のNHKテレビ・ラジオの談志の音源多数を談慶の解説付きで放送。さらに11月6日と13日の『[[真打ち競演]]』では「思い出の名師匠」枠で[[立川志の輔]]をゲストに談志の貴重な過去の音源を放送した。命日である11月21日には、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]『[[ザ・ノンフィクション]]』で長男が撮影した晩年の映像をまとめた「切なくていじらしくてメチャクチャなパパ〜家族が映した最期の立川談志〜」を放送<ref name=":7">{{Cite web|和書|url=https://www.fujitv.co.jp/thenonfx/_basic/backnumber/index-118.html|title=切なくていじらしくてメチャクチャなパパ~家族が映した最期の立川談志~|accessdate=2021-11-22|publisher=フジテレビ|website=ザ・ノンフィクション}}</ref>、[[TBSラジオ]]『[[爆笑問題の日曜サンデー]]』には長女の[[松岡ゆみこ]]がゲストとして登場<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tbsradio.jp/articles/47327/|title=松岡ゆみこ「よくぞこの時間に呼んでくれた!」|accessdate=2021-11-22|publisher=TBSラジオ|date=2021-11-21}}</ref>、『[[ラジオ寄席]]』では特集として『狸賽』『[[五貫裁き]]』が放送された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tbsradio.jp/articles/47072/|title=「ラジオ寄席」、11月21日(日)は、今年没後10年となる立川談志さんの特集です。|accessdate=2021-11-22|publisher=TBSラジオ|date=2021-11-16|website=ラジオ寄席}}</ref>。[[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]では『[[談志・陳平の言いたい放だい|〜立川談志没後10年〜 復活!言いたい放だい2021]]』が放送され、『[[笑点]]』では[[大喜利 (笑点)|大喜利]]1問目のお題に談志に関連した内容が出題された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ntv.co.jp/sho-ten/onair/2786.html|title=放送内容 第2786回|accessdate=2021-11-24|publisher=日本テレビ}}</ref>。[[時代劇専門チャンネル]]では、2021年11月から2022年2月にかけ、談志の高座と談志ゆかりの人物([[伊集院光]]、[[毒蝮三太夫]]、[[立川談笑]])へのインタビューをまとめた『令和の談志 〜没後十年 立川談志傑作選』の初回が放送された<ref>{{Cite web |和書|url=https://www.jidaigeki.com/osusume/tatekawadanshi/ |title=3月26日(土)よる11時<アンコール>「令和の談志 ~没後10年 立川談志傑作選~」(2022年) |accessdate=2022-3-20 |publisher=時代劇専門チャンネル}}</ref>。
 
[[2022年]]1月2日の[[文化放送]]『[[志の輔ラジオ 落語DEデート]] 新春スペシャル』では、[[立川志の輔]]の解説で『[[芝浜]]』と『[[文七元結]]』を放送。同日、[[BS日テレ]]では談志の妻・則子(ノンくん)の立場から見た談志を描いた『[[BS笑点ドラマスペシャル]] 笑点をつくった男 立川談志』が放送された。談志役を[[駿河太郎]]、則子役を[[篠田麻里子]]が演じた。2月19日、文化放送にて、前年刊行された1953年の談志の日記を朗読して[[モノローグ]]形式のドラマにした『サタデープレミアム 談志の日記 17歳の青春』が放送された。日記の朗読・ナレーションは談志の孫弟子にあたる[[立川吉笑]]がつとめ、談志の長男・松岡慎太郎がコメント出演した。11月21日、3年ぶりに談志まつりがよみうりホールにて昼夜開催された。
 
[[2023年の日本|2023年]]11月13日、上野[[東天紅 (企業)|東天紅]]で直弟子と生前親しかった関係者により十三回忌が営まれる。11月21日、よみうりホールで談志まつり2023を昼夜開催。同日19時より[[文化放送]]で特別番組 立川談志13回忌 そして伝説へが放送された。出演は[[太田光]][[林家木久扇]]が出演し案内は[[吉田涙子]]が案内役を務めた<ref>{{Cite web |和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000280.000007381.html |title=~落語とはイリュージョンである~ 特別番組『立川談志13回忌 そして伝説へ』 |access-date=2023-11-22 |publisher=PR TIMES |author=文化放送 |date=2023-10-17}}</ref>。
 
== 芸歴 ==
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; 『国会』
: 2004年3月24日に「談志<sup>2</sup>REVOLUTION」名義でシングルCDとして発売。『アメリカ』同様にラップミュージックとなっている。
『アメリカ』『国会』は、2023年11月に立川談志十三回忌記念プロジェクトとして限定再販売。同時に、未発表音源による『'''金ぇ〜(まね~)'''』も発売され<ref>{{Cite web |和書|url=https://danshi2revolution.com/ |title=談志2 REVOLUTION |access-date=2023-10-15 |publisher=株式会社GoGoMarke}}</ref>。
 
=== 性格 ===
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* 自他共に認める無鉄砲なまでの冗談・いたずら好きであり、洒落か本気か分からない行動による武勇伝は極めて多い。エピソードの一つとして、リポーターやナレーション業で知られる[[神太郎]]が付き人だった時の話がある。地方興行の折、夜中に突如「トランプを買ってこい!」と無理難題を押しつけられたが(当時はコンビニはおろか深夜営業する店も少なかった時代)、機転を利かせた神はバーへ行き、バーテンダーからトランプを調達して、談志を唸らせたという。一方で「芸人という消費文化の担い手である以上、真っ当に働くな」との趣旨で「泥棒しろ。ただし俺の家は駄目だぞ」と弟子に発言したこともあるという。
* [[新作落語]]を演じたことは少なく、著書の中でも「古典しかやらない」という趣旨の文章を書いている<ref>立川談志『談志最後の根多帳』2010年4月20日。</ref>。ただし新作落語自体を否定しているわけではなく、前述の文枝をはじめ、多くのいわゆる新作派の噺家とも交流があった他弟子の一部も新作落語を演じている。
* 肉が好物であるため、弟子はしくじった際に機嫌をとるために高級肉を談志宅へ持ち込むことがある。談志の自宅には多数の冷蔵庫があり、賞味期限が切れた食材は弟子に食べさせる。戦中・戦後の貧しい時代が青春時代であったために食に対するこだわりも多く、特に食べ物を粗末することを嫌い、前日残った食材を朝の味噌汁に入れたり、カレーに入れたりする<ref>{{Cite book|和書|title=赤めだか|date=2015-11-21|publisher=扶桑社|pages=29-31|author=立川談春|author-link=立川談春}}</ref><ref>{{Cite web |和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=6Zm4I4foFzU |title=ついに再現!!談笑師匠と談志カレーを作ってみた |access-date=2022-8-11 |publisher=Youtube |author=松岡ゆみこ |authorlink=松岡ゆみこ |date=2022-6-19 |website=ゆみチャンネル}}</ref>。楽屋にも余程のことがない限りは手作り弁当を持参し、楽屋弁当は用意させなかった。基本的に「アゴ・アシ付き(食事代と交通費がついた上で仕事料を貰う)」な落語家としては珍しいことである。ただし、地方公演などで用意させる場合は食事の内容や飲み物の銘柄<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/dgoutokuji/status/415317367330045952|title=談志がサントリービールを嫌う理由を、弟子が詮索した。|accessdate=2021-11-1|publisher=twitter|author=立川談四楼(@Dgoutokuji)|date=2013-12-14}}</ref>などに細かい注文がついた。
* 大変な外国映画好きであり、『[[談志・陳平の言いたい放だい]]』(TOKYO MX)でも洋画解説コーナーが設けられていた。取り上げられるのは主に黎明期から黄金期にかけてのハリウッド映画やフランス映画で、中でも[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー|MGM]]ミュージカルを好んだ。『[[今夜は最高!]]』(日本テレビ)にゲスト出演した際には、好きなミュージカル映画である『[[雨に唄えば]]』のパロディを展開した(談志は[[ジーン・ケリー]]に扮した)。敬愛する映画監督は[[ビリー・ワイルダー]]。好きなスターは[[フレッド・アステア]]で、アステアが亡くなった日の晩には泣き通したという。
* 毎年ゴールデンウィークの時期になると、自宅のある根津のマンション1Fのせんべい屋の前で「談志のガレージセール」と題して2010年まで毎年私物を売るイベントを開催していた<ref>{{Cite news|title=せんべい店前で立川談志がガレージセール|newspaper=日刊スポーツ|date=2010-5-2|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20100502-624843.html}}</ref><ref name=":7" />。購入したファンには、その場で書いたサイン色紙をつけていた。没後、2017年と2019年には「物を大切にしていた談志師匠の遺志を継ぐ」という談志役場の意向を受けた業者経由で、遺品を複数回[[ヤフオク!|ヤフオク]]で販売、完売した。出品された品物にはすべて談志役場からの証明書がついている<ref name=":6">{{Cite web |和書|url=https://facetofacecoltd.com/%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E7%AB%8B%E5%B7%9D%E8%AB%87%E5%BF%97%E9%81%BA%E5%93%81%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%82%92%E3%83%A4%E3%83%95%E3%82%AA%E3%82%AF%EF%BC%81%E3%81%A7/ |title=最後の立川談志遺品オークションをヤフオク!で開催致します。 |accessdate=2021-9-16 |publisher=FTF株式会社 |date=2019-6-25}}</ref><ref name=":5">{{Cite web |和書|url=https://www.excite.co.jp/news/article/E1484290030644/ |title=立川談志の遺品がヤフオクに登場! レコードからぬいぐるみ、ステテコまで… |accessdate=2017-1-13 |publisher=エキサイト |author=和泉涼 |date=2017-1-13 |website=Exciteニュース |work=Excite bit}}</ref>。
* 5代目圓楽によると「案外気の小さいところがある」という。実際、「志ん朝が真打に昇進する時には本人に『強次(志ん朝の本名)、昇進を辞退しろ』と直談判に行ったが、自分(5代目圓楽)の時には人にボロクソ言ったわりに直接言いには来なかった」「自民党の大物政治家たちと同じテーブルに座っているのをみて『圓楽の馬鹿はああいうところに座ってる』と言っておきながら自分はそこに座ろうとはしなかった」などといったエピソードを著書で紹介されている。
* 弟子たちに理不尽な要求をしたり、何度も土壇場で仕事をキャンセルするなど、自由奔放なイメージが強いが、その印象とは裏腹に弟子入り志願者を門前払いにしたことはなかったとされる。また、金銭面での理由を除けば、破門者もほとんど出していない。暴言や罵倒が多い一方で暴力を嫌っており、弟子には手を挙げたことがないと[[立川志らく]]が証言している<ref>{{Twitter status|shiraku666|936082588057313280|accessdate=2018-08-03}}</ref>。他の師匠のように自らの私用に弟子を使ったり、家事を弟子に任せるなどの使いっ走りをすることは少なかったという。談志曰く「お前らは俺に弟子入りしたんであって家族に弟子入りしたわけじゃない」との理由であった<ref name="soudouki" />。なお、志らくによれば、「落語家たるもの、貧乏と寒さ、飢えを知らないと落語を語れない。俺はわざわざそれを経験させてやっているんだ」との談志なりの理論に基づいて弟子に雑用をさせていたという<ref>{{Cite news|title=立川志らく、談志師匠を刺そうと思ったこと「5回くらいある」|newspaper=Smart FLASH|date=2019-09-09|author=FLASH編集部|accessdate=2021-12-22|url=https://smart-flash.jp/entame/80168/1/}}</ref>。一方で志らくはマクラで談志のことを「パワハラの塊」とも表現している。
* 『笑点』降板時には初代林家木久蔵(現:[[林家木久扇]])を大喜利メンバーにするよう番組スタッフに推薦し、木久蔵には「木久蔵は[[与太郎]]だよな。その線で行ってみな」とキャラクター造形を提案した。このことから、木久扇は「談志さんは人の柄の見つけ方がうまかったですね。大喜利で座布団をあげたり取ったりするルールを考えたのも談志さん。天才でした」と評している<ref>{{Cite news|title=林家木久扇、立川談志さんの助言で「与太郎」に徹したバカ人生 骨折も高座のネタに「バカで乗り切る」|newspaper=Smart FLASH|date=2022-04-29|author=[[デイリースポーツ]]|accessdate=2022-12-06|url=https://www.daily.co.jp/gossip/subculture/2022/04/29/0015259365.shtml}}</ref>。木久扇は高座でも談志について「意地悪に見えるんですけど本当は優しい人」と明かしている。
 
=== 自殺の危惧 ===
同業の先輩である[[林家彦六|8代目林家正蔵(のちの林家彦六)]]からは「談志は自殺するのでは」と危惧された。正蔵がそう発言したのは、談志が国会議員になったばかりの絶好調の頃であったのだが、正蔵に言わせると「談志はやることなすことが全て当たり、成功したので、現実の世の中が馬鹿馬鹿しく思えるのではないか」とのことだった。正蔵は談志本人に直接そのことを指摘しなかったが、他の多くの人物には語っていた。その1人である[[川戸貞吉]]がこの事実を本に書き、公の知るところになった。
 
晩年の談志は、テレビで「死ぬつもりでいたからね。(でも)自殺ができないってことになって……。本当の話だもん」と、自殺願望が抑え切れなくなっていることを告白し<ref>{{YouTube|AIYQGCoDfxQ|TOKYO MX 談志・陳平の言いたい放だい 2007年8月25日放送}}</ref>、「談志は自殺する」という正蔵の予言について「(今から見れば)当たっている」と評した<ref>[[川戸貞吉]]との対談にて([[紀伊国屋書店]]第85回新宿セミナー、2007年9月16日)</ref>。公式ホームページ『地球も最後ナムアミダブツ』の日記欄「今日の家元」にも自殺をしたくてもできない葛藤が書き込まれたが、この危惧は現実とはならなかった。
285 ⟶ 284行目:
* [[バスケットボール]]リーグ[[NBA]]のファンとしても知られ、落語のネタにできるほどの知識を持っていた。特に[[サクラメント・キングス]]と[[ジェイソン・ウィリアムス (1975年生のバスケットボール選手)|ジェイソン・ウィリアムス]]を熱心に応援していたという。
* 立川流創設後は、自らが弟子に落語の稽古をつけることは日に日に少なくなった<ref>VHSビデオ「立川談志RAKUGOのすすめ」(1991年、ナイタイ)では、当時前座の[[立川雲水|立川志雲]]・[[立川笑志]]に太鼓の叩き方などの稽古をつける様子が記録されている。</ref>。[[立川談之助]]曰く「弟子の噺は [[立川談春]]以外は皆師匠とは似ていない。売れっ子になった弟子は、勝手に育って行った」とのことである<ref name="soudouki">[[立川談之助]]『立川流騒動記』[[ぶんがく社]]、2012年6月29日。</ref>。
* 浪曲、講談、色物等の演芸全般から映画や音楽にも造詣が深いことで知られていたが、噺家にも贔屓が多い歌舞伎には関心が薄かった。ただ歌舞伎俳優との親交はあり、[[中村勘三郎 (17代目)|17代目中村勘三郎]]には立川流創設時に顧問になってもらっている。その縁で17代目の息子・[[中村勘三郎 (18代目)|18代目勘三郎]]とも交遊を持ち、当時「市川染五郎」を名乗っていた[[松本幸四郎 (10代目)|松本幸四郎]]を評価していた。18代目勘三郎は、談志没後の2012年2月20日に追悼も含めた落語会「[[落語立川流]] in [[平成中村座]]」を開催している<ref>{{Cite web |和書|url=https://www.kabuki-bito.jp/news/953 |title=勘三郎も登場!「落語立川流 In 平成中村座」が開催されました |access-date=2022-6-11 |publisher=松竹 |date=2012-2-22 |website=歌舞伎美人}}</ref>。
* 強烈な匂いを持つことで知られる果物・[[ドリアン]]が大好物であった。娘の[[松岡ゆみこ]]によれば、談志が大量にドリアンを食べた後に飛行機に乗った際、機内でゲップをしてしまい、その強烈な匂いで飛行機を止めてしまったこともあったという<ref>{{Cite news|url=https://www.daily.co.jp/gossip/2018/06/18/0011366357.shtml|title=立川談志さん ゲップで飛行機止めた 異臭騒動を長女が明かす|newspaper=[[デイリースポーツ]]|date=2018-06-18|accessdate=2020-04-21}}</ref>。また弟子である[[立川談四楼]]も、「本来ならば持ち込み禁止であるはずのホテルに談志がドリアンを持ち込んでしまい、結局そのことがホテル側にバレて弟子である自分が代わりに謝罪した」というエピソードを明かしている<ref>[https://twitter.com/Dgoutokuji/status/372189777203716096 立川談四楼の2013年8月27日のツイート]</ref>。
* ある日談志が弟子とタクシーに乗った時のこと、運転手が談志に「いいよね、アンタたちは。テレビ出て旨いもん食ってたくさん金もらえるんだろ」「俺たちはこんな苦労していくらしか貰えない」と僻みっぽく絡んできた。横についていた弟子は師匠がキレるのではないかとびくびくビクビクていたが、談志は逆にニッコリ笑って、『その通りだよ。なんでアンタやらないんだい?』?」言っ返した。これには絡んだ当の本人運転手も何も言い返せず、黙ってしまったという<ref>{{Cite web|和書|url=https://npn.co.jp/article/detail/63593787 |title=「あんたの仕事は楽でいいよね」失礼なタクシー運転手を黙らせた立川談志の返答が“カッコイイ!”と称賛 |access-date=2024-04-29|publisher= |date=2019-08-20 |website=[[内外タイムス|リアルライブ]]}}</ref>
* 劇作家・評論家の[[大西信行]]とは「[[浪曲]]好き」という共通点はあったが、本人どうしは犬猿の仲であった<ref>[[玉川奈々福]]編『語り芸パースペクティブ』(晶文社)P.397[[稲田和浩]]の語り部分。</ref>。
* 家族と住む家以外に仕事場兼住居をもう一軒所有していたが、談志没後は空き家状態で、酷い湿気があるなど問題となっていた。そこに前座時代から通っていた弟子の志らくが住みたいと申し出たため、談志の長女・[[松岡ゆみこ]]が『[[大改造!!劇的ビフォーアフター]]』に[[リフォーム]]を依頼。2014年11月30日と2015年1月11日にリフォームの工程が放送され、実際に志らくが居住している。
 
* 所属事務所・談志役場がX(旧[[Twitter]])で明かしたところによると、談志は怪しい投資話で大金を騙し取られたことが二度あったという<ref>{{Cite tweet|author=有限会社 談志役場|user=danshi898|number=1758646315079303557 |title=期待するから はづれるのだ 立川談志|date=2024-02-17|access-date=2024-04-29}}</ref>。
*生前、家族と住む家以外にもう一軒仕事場兼住居を所有していたが、仕事場兼住居は談志没後は空き家状態で酷い湿気もあった為、弟子の志らくが住みたいとは申し出て現在も志らくの自宅である。
 
== 家族 ==
息子(長男<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20211119-JXRDB2AYPVB2DGMGHMMDXLDISI/|title=没後10年…立川談志さんの最後の12年が未公開映像で初めて明かされる|publisher=産経ニュース|date=2021-11-19|accessdate=2021-11-20}}</ref>)は所属事務所・有限会社「談志役場」社長の松岡慎太郎。談志のマネージャーも務めていた。
 
弟は松岡由雄。談志が社長を務めた「談志プロダクション」の後続会社「まむしプロダクション」でマネージャーを務めた後、立川企画で社長を務めた。2016年10月8日死去<ref>{{Cite news|title=落語プロデューサーの松岡由雄さん死去 談志さんの弟|date=2016-10-9|newspaper=朝日新聞|url=https://www.asahi.com/articles/ASJB94QDVJB9UCVL004.html?fbclid=IwAR3iaBNyLhu0pY6HmoNCipLTZSYT41moWVneePFWtLRPGopiPSRv1wOBFUY}}</ref>。
302 ⟶ 301行目:
* 1965年頃 - 1967年頃
** 「現代センター」
* 1967年頃 - 1971年国会([[参議院]]議員就任まで
** 「談志プロダクション」(談志自身が社長)
* 1971年国会(参議院議員就任 - 1983年([[落語協会]]脱会まで
** 「まむしプロダクション」([[毒蝮三太夫]]社長、松岡由雄マネージャー=談志の実弟)
*** 上記の談志プロダクションと同じ会社。本人が国会議員になったため、談志プロダクションが社名と社長を変更したもの。師匠[[柳家小さん (5代目)|5代目柳家小さん]]が一タレントとして所属していた
* 1983年[[落語協会]]脱会 - [[2000年]][[3月31日|3月末]]まで
** 「立川企画」(松岡由雄社長=談志の実弟)
***特に芸能プロダクションなどに所属していなかった大多数の談志の弟子の仕事の窓口にもなっていた。
*** 2011年現在、[[立川志らく]]のマネージメントを担当。
***志らくが[[ワタナベエンターテインメント]]所属後は、落語会の企画・運営が中心主要業務となっている。
* [[2000年]][[12月13日]] - 2011年11月21日
** [[有限会社]]「談志役場」(松岡慎太郎社長=談志の息子)
336 ⟶ 335行目:
* [[権兵衛狸]]
* 西鶴一代記
* [[鮫講釈]]
* [[三軒長屋]]
* [[三方一両損 (落語)|三方一両損]]
* [[持参金 (落語)|持参金]]
* [[死神 (落語)|死神]]
350 ⟶ 349行目:
* [[代書]]
* [[妲己のお百]]
* [[たのきゅう|田能久]]
* [[短命]]
* [[付き馬]]
431 ⟶ 430行目:
*立川右近
*[[立川談生|三代目立川談生]]
*[[嵐丸|二代目立川談々]] - 本名∶'''城台 大三'''。[[1964年]][[2月17日]] - )
*立川談秋
*[[立川談之進]] - 本名:佐藤 哲也、茨城県出身。1964年 - 、1987年入門、1990年2月二ツ目昇進<ref>{{Cite book|和書|title=落語 第30号 最新東西全落語家名鑑|date=1990-11-1|year=|publisher=弘文出版|editor=井上正弘|NCID=AN10301576|page=29}}</ref>
*立川風吉
*立川風吉 - 本名∶'''山本 風吉'''、[[1984年]][[12月24日]] - )
{{Div col end}}
 
=== 旧Bコース(談志が認めた有名人) ===
☆は真打昇進している(昇進披露を行った)者。
*[[毒蝮三太夫|立川毒まむ志]]
453 ⟶ 452行目:
*マルカス
*[[野末陳平|立川流野末陳平]]
* [[三遊亭円楽 (6代目)|立川談次郎]]
 
==== 死去 ====
464 ⟶ 462行目:
*[[ジミー時田|ダンディ・立川]]
*[[高井研一郎|立川雄之助]]
* [[三遊亭円楽 (6代目)|立川談次郎]]
 
==== 除名 ====
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== 他の芸人、タレントへの批評 ==
=== 「才能」論 ===
「お笑いに才能は絶対、必要だ」というのが談志の持論だった。もともと大阪勢の芸風と肌が合わず、上述の通り[[吉本興業]]に対しては辛辣な面があったが、吉本興業主催の『[[M-1グランプリ]]』([[朝日放送テレビ|朝日放送]]系列)第2回大会では審査員務めている。談志の採点方法は明確であり、ファーストラウンドでは80点70点50点の三段階でしか採点しなかった。
 
=== 江戸落語家 ===
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: [[爆笑問題]]がデビューしたての頃、[[太田光]]の持つ才能をすぐに見抜いて高評価した談志は、太田に対し「天下、獲っちゃえよ」と応援すると同時に「(相方の)[[田中裕二 (お笑い芸人)|田中]]だけは切るなよ。こう出来た奴も、なかなかいないもんだ」と述べ、田中が太田にとって欠かせない存在であることを説いた。しばしば「太田は俺がよそで作った子供だ」とも発言した(太田の実父はもともと談志を嫌っており、これを聞いて少し不安になったという逸話を太田が語っている)。
; 博多華丸・大吉
: 2005年、上京して間もない[[博多華丸・大吉]]が『[[談志・陳平の言いたい放だい]]』([[東京メトロポリタンテレビジョン|東京MXテレビ]])のコーナー「芸人解放区」に出演し、ガチガチに緊張しながらネタを披露した際には、「まあ、内容として、こういう優しいネタを選んでて。俺はとっても文化的には好きだなあ。あとで、いいアドバイスしてやるよ」と声をかけた。収録後の打ち上げではコンビを別室に呼び、「いいか。よく聞け。これは過去、[[爆笑問題]]にしか言っていない。──絶対に、解散するなよ」とアドバイス直言したという<ref>{{Cite news|date=2015-03-31|url=https://web.archive.org/web/20160304131454/https://cakes.mu/posts/8933|title=24年ぶりの漫才師と落語家——博多大吉×立川談慶 自然にみんな上を向いちゃうような人間関係がある|newspaper=ケイクス|publisher=note|accessdate=2020-05-12}}</ref><ref>{{Cite news|date=2016-10-27|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/10/27/kiji/K20161027013613480.html|title=華丸・大吉 談志さんに言われた「過去、爆笑問題にしか言っていない」言葉とは…|newspaper=Sponichi Annex|publisher=スポーツニッポン新聞社|accessdate=2017-07-27}}</ref>。
; 古坂大魔王
: 『[[爆笑オンエアバトル]]』出演時、談志は[[古坂大魔王]]のネタを「イリュージョン」と表現し、音楽ネタをやり続けるようアドバイスした。その後、自身の独演会の前座に古坂を呼んだこともあった<ref>{{Cite web |和書|url=https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/1613498/ |title=ピコ太郎支えた談志さんの言葉「何を言われてもやり続けろ」 |accessdate=2022-2-1 |publisher=光文社 |date=2017-2-4 |website=女性自身}}</ref>。
 
== 主な出演 ==
567 ⟶ 566行目:
* [[談志・陳平の言いたい放だい]]([[2004年]] - [[2008年]]、[[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]])
* [[西部邁ゼミナール|続・言いたい放題]](TOKYO MX)
* [[ハイビジョン特集]]「立川談志 71歳の反逆児」(2007年2月20日、NHK)<ref>{{Cite web |和書|url=https://www.nhk.jp/p/pcafe/ts/LR4X1K4WV7/episode/te/9Q56162L36/ |title=立川談志 71歳の反逆児 |date=2021-10-13 |publisher=NHK |archiveurl=https://archive.ph/LKqUS |archivedate=2021-10-11 |accessdate=2021-10-31}}</ref>
* [[100年インタビュー]](2009年4月30日、[[NHK BSハイビジョン|NHKBSハイビジョン]]) ※聞き手:[[渡邊あゆみ]]
* [[西部邁ゼミナール]](TOKYO MX)
603 ⟶ 602行目:
* 快楽昇天風呂([[1979年]]) - 大臣 役
* 愛染恭子の未亡人下宿([[1984年]]) - 風呂屋 役
* [[絶倫海女 しまり貝]]([[1985年]])
* [[落陽 (映画)|落陽]]([[1992年]]) - 青空床屋 役
* 団鬼六 人妻蟻地獄([[1995年]])
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=== 劇場アニメ ===
* [[千夜一夜物語 (1969年の映画)|千夜一夜物語]](1969年) - 競馬シーンの観客 役
* [[ジャングル大帝]]([[1997年]]) - ハム・エッグ 役<ref>{{Cite web |和書| url = https://tezukaosamu.net/jp/anime/21.html| title = ジャングル大帝 劇場版(1997)| publisher = 手塚治虫公式サイト | accessdate = 2016-06-08}}</ref>
* [[ぼのぼの#映画「ぼのぼの クモモの木のこと」|ぼのぼの クモモの木のこと]]([[2002年]]) - アライグマくんのお父さん 役
 
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** 「モナカカレー」
* [[日本アイ・ビー・エム|日本IBM]] 「Aptiva」(1996年) ※[[香取慎吾]]と別撮りで共演している。
*[[TOWER RECORDS]]「NO MUSIC,NO LIFE」(2002年11月)- [[THE HIGH-LOWS]]と共演<ref>{{Cite web|和書|url=https://tower.jp/article/series/2002/12/05/100043130|title=ザ・ハイロウズ & 立川談志|accessdate=2021-05-05|publisher=TOWER RECORDS}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://tower.jp/article/series/2002/12/05/100043130|title=第37回 ─ THE HIGH-LOWS & TATEKAWA DANSHI|accessdate=2021-05-05|publisher=TOWER RECORDS|author=北川達也|authorlink=北川達也|date=2002-12-05|website=タワーレコード Premium}}</ref>
* [[KDDI]]/[[沖縄セルラー電話]](各[[au (携帯電話)|au]]ブランド) 「あたらしい自由」篇(2012年)<ref>[http://www.au.kddi.com/jiyu/?cid=12501-23214&gclid=CP2e9Kyv5K0CFSlLpgodb2NZ-A CMでは、高座にて「しゃべる自由」と発言している(合成音声)]{{リンク切れ|date=2018-08-03}}</ref><ref>{{Oricon CM|254004}}</ref>。
 
643 ⟶ 642行目:
落語口演の活字化のほか、落語に関する[[随筆|エッセイ]]的な考察を多数著している。談志襲名後間もない時期に著した『現代落語論』が代表作と言われるが、「落語」を分析した有名な言葉「落語は人間の業の肯定」はその後の『あなたも落語家になれる』の冒頭の一節である。修業時代から生に接した有名無名の寄席芸人・[[俳優]]・[[歌手]]・[[ストリップ (性風俗)|ストリッパー]]などの系譜に非常に詳しく、『談志楽屋噺』など芸能史を語る貴重な回想録もある。[[2012年]][[7月24日]]、著書の集大成となる最後の書き下ろし自伝『立川談志自伝 狂気ありて』が発刊された。その後も、さまざまな形で書籍が出版されている。
 
晩年の著作では「原稿の[[校正]]をしない」というポリシーを表明しており、エッセイでは大幅な脱線が付き物となっている。また[[吉川潮]]などごく一部の談志が信頼していた作家を除き、基本的に評伝などの取材は「趣旨を歪曲される」として受けなかったとされている。
 
また、理解らねぇ(わからねぇ)』『」「出演った(やった)など、独特の表記をする。文章内で同じ語を繰り返す際には、古典文学や民謡の歌詞を表記するのと同じく、[[踊り字]](くの字点)を使うことを習慣としている。芸事から教養を得た人物らしい古風なこだわりと言える。晩年の連載での一人称は「家元」であった。
 
* 『現代落語論』([[三一書房]]、1965年) ISBN 978-4380650079
* {{Cite book ja|title=立川談志のなまいき論|url={{国立国会図書館デジタルコレクション|12562309}}|url-access=registration|publisher=アド・サークル出版部|date=1972-10-15}}
* 『あなたも落語家になれる 現代落語論其2』(三一書房、1985年) ISBN 978-4380852299
* {{Cite book ja|title=家元談志のオトコ対決十一番|url={{国立国会図書館デジタルコレクション|12438434}}|url-access=registration|publisher=ABC出版|date=1986-05-25}}
* 『立川談志独り会』(全5巻、[[三一書房]])
* {{Cite book ja|title=談志楽屋噺|url={{国立国会図書館デジタルコレクション|12438438}}|url-access=registration|publisher=白夜書房|date=1987-02-15}}
** 『談志楽屋噺』([[文春文庫]]、1990年) ISBN 978-4167522018
* 『世の中与太郎で、えじゃないか 常識にあきあきしてる人へ』([[青春出版社]]、1992年) ISBN 978-4413015783
* 『酔人・[[田辺茂一]]伝』([[講談社]]、1994年) ISBN 978-4062068512 のち[[中公文庫]]、2021年10月、解説:[[高田文夫]]、ISBN 9784122071278 電子版有
* 『新釈 落語咄』([[中央公論社]]、1995年) ※のち[[中公文庫]]、1999年 ISBN 4122034191
* 『新釈 落語咄 PART II』(中央公論社、1999年) ※のち中公文庫(『新釈 落語咄その2』と改題)、2002年 ISBN 9784122040236
661 ⟶ 663行目:
** (2)絶好調
** (3)大名人のつもり
* 『談志百選』([[講談社]]、2000年) ISBN 978-4062092753、(中公文庫、2023年9月)ISBN) ISBN 9784122074194 電子版有
* 『食い物を粗末にするな』(講談社、2000年) ISBN 978-4062720069
* 『立川談志遺言大全集』(講談社、全14巻、1999年~2002年)
678 ⟶ 680行目:
** (13)芸人論(一)鬼籍の名人
** (14)芸人論(二)早めの遺言
* 『談志絶倒 昭和落語家伝』写真:田島謹之助([[大和書房]]、2007年) ISBN 978-4479391623 、(2023年10月、[[中公文庫]])ISBN) ISBN 9784122074323 電子版有
* 『談志映画噺』([[朝日新聞出版]]、2008年) ISBN 978-4022732453
* 『人生、成り行き 談志一代記』(聞き手:[[吉川潮]]、[[新潮社]]、2007年) ISBN 978-4103069416
694 ⟶ 696行目:
* 『談志 最後の根多帳』(梧桐書院、2010年)
* 『立川談志自伝 狂気ありて』([[亜紀書房]]、2012年) ISBN 978-4-7505-1213-6 *のち[[ちくま文庫]]、2019年2月、解説:松岡慎太郎
* 『遺稿』([[講談社]]、2012年)ISBN) ISBN 978-4-06-217694-1 後述の週刊現代の連載を抜粋したもの。
* 『立川談志まくらコレクション 談志が語ったニッポンの業』(構成:和田尚久、竹書房文庫、2015年1月)ISBN) ISBN 9784801900653
* 『立川談志まくらコレクション 夜明けを待つべし』(構成:和田尚久、竹書房文庫、2015年11月)ISBN) ISBN 9784801905337
* 『観なきゃよかった 立川談志映画時評』(編:和田尚久、[[アスペクト (企業)|アスペクト]]、2015年7月)ISBN) ISBN 9784757223455
* 『落語とは、俺である。 立川談志・唯一無二の講義録』(竹書房、2017年10月)ISBN) ISBN 978-4801912472
* 『立川談志まくらコレクション 風雲児、落語と現代を斬る!』(竹書房文庫、2020年11月)ISBN) ISBN 9784801924581 電子版有
* 『談志の日記 1953 17歳の青春』(dZERO、2021年11月)ISBN) ISBN 9784907623463 *電子版有
* 『立川談志まくらコレクション これが最期の“まくら”と“ごたく”』(竹書房文庫、2021年11月)ISBN) ISBN 9784801928725 *電子版有
* 『作家と家元』(中公文庫、2021年11月) ISBN 978-4-12-207141-4 作家([[吉行淳之介]]・[[阿佐田哲也]]・[[結城昌治]]・[[景山民夫]]・[[伊集院静]]・[[石原慎太郎]])との対談集。電子版有
* 『談志受け咄 - 家元を笑わせた男たち』(中公文庫、2022年4月)ISBN) ISBN 9784122071995
* 『立川談志芸談集』(竹書房、2023年11月)ISBN) ISBN 9784801937789
 
== 連載 ==
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== 演じた俳優 ==
* [[小出恵介]](青年期)、[[中山秀征]](壮年期)、[[田中泯]](晩年)(プレミアムドラマ]]「人生、成き」、2013年、[[NHK BSプレミアム|NHKBSプレミアム]])
**[[小出恵介]](青年期)、[[田中泯]](晩年) - 「〜天才落語家・立川談志 青春疾風録〜(前編)」(2013年8月11日)
*[[ビートたけし]](ドラマスペシャル「[[赤めだか]]」、2015年、[[TBSテレビ|TBS]])
**[[中山秀征]](壮年期)、田中泯(晩年) - 「〜天才落語家・立川談志 ここにあり〜(後編)」(2013年8月18日)
*[[駿河太郎]](「[[BS笑点ドラマスペシャル]]」シリーズ、2017年 - 、[[BS日テレ]])
*[[ビートたけし]] - ドラマスペシャル「[[赤めだか]]」、2015年、[[TBSテレビ|TBS]]
*[[駿河太郎]] - 「[[BS笑点ドラマスペシャル]]」シリーズ、2017年 - 、[[BS日テレ]]
**BS笑点ドラマスペシャル 桂歌丸(2017年10月9日)
**BS笑点ドラマスペシャル 五代目三遊亭圓楽(2019年1月12日)
**BS笑点ドラマスペシャル 初代 林家木久蔵(2020年1月11日)
**BS笑点ドラマスペシャル 笑点をつくった男 立川談志(2022年1月2日)
 
== 関連項目 ==
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* [[吉川潮]]
* [[和田尚久 (ライター)|和田尚久]]
* [[桂米市]]
* [[神田伯山 (6代目)|神田伯山]]
* [[桑田佳祐]] - 面識はないものの『[[第61回NHK紅白歌合戦]]』で談志が発した「ふとした病」というフレーズを借用しつつ自身が食道がんで休養したことを語ったり<ref>[https://www.barks.jp/news/?id=1000066779 桑田佳祐、『NHK 紅白歌合戦』で復活。ニューアルバム『MUSICMAN』情報も解禁] バークス</ref>、雑誌で『[[落語のピン]]』のDVDや<ref>「BRUTUS」2011年3月1日号 p.55</ref>『笑点』を見ていることを公言しており<ref>「BRUTUS」2011年3月1日号 p.43</ref>、談志からの影響や落語などを好んでいることを述べている。
* [[重藤暁]]
* [[川戸貞吉]] - 談志とは学生時代から付き合いがあった
* [[太田光]]
 
748 ⟶ 756行目:
 
=== 親族 ===
* [[松岡弓子]]『ザッツ・ア・プレンティ』([[亜紀書房]]、2011年12月)
* 立川志らく・松岡弓子『DNA対談 談志の基準』(亜紀書房、2012年8月)
 
=== 弟子・一門 ===
* 立川談志+落語立川流一門「シン・談志が死んだ 立川流はどこに行く」だれが継ぐ─』([[小学館講談社]]、2023200311月
 
* 立川談志+落語立川流一門『増補版 談志が死んだ──立川流はだれが継ぐ──」([[講談社dZERO]]、2003201312月
* 立川談志+落語立川流一門「増補版 『シン・談志が死んだ 立川流はだれが継ぐ」どこに行く』([[dZERO小学館]]、201320231211月)
* 立川談志+落語立川流一門「シン・談志が死んだ 立川流はどこに行く」([[小学館]]、2023年11月)
 
以下、名前の後に△がついているのは孫弟子。無印の者は直弟子。
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=== 雑誌・ムック本 ===
* 『東京かわら版 平成24年2月号 追悼 立川談志』(東京かわら版、2012年1月)
* 『[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]] 詩と批評 2012-2 特集 立川談志』([[青土社]]、2012年2月)
* 『[[笑芸人|落語ファン倶楽部]] vol.16 談志だいすき』([[白夜書房]]、2012年4月)
* 『落語ファン倶楽部 vol.20 談志[[志ん朝]] 夢のふたり会』(白夜書房、2013年9月)
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* 『新釈立川談志 没後10年永久保存版』(河出書房新社、2021年11月) ※2018年版文藝別冊の改訂版
 
=== 関係者連書・評論 ===
* {{Cite book |和書 |author=三遊亭圓楽(5代目) |date=2006-07 |title=圓楽 芸談 しゃれ噺 |publisher=白夜書房 |ref={{SfnRef|三遊亭|2006}} }}
* [[吉川潮]]『戦後落語史』(2009年12月、新潮新書)
* 吉川潮『談志歳時記 名月のような落語家がいた』(2012年11月、新潮社)
* 吉川潮『いまも談志の夢をみる ~落語立川流、家元と顧問の五十年』(2022年12月、[[光文社]])
*[[平岡正明]]『立川談志と落語の想像力』(2010年3月、[[七つ森書館|七ッ森書館]])
* [[辺見伝吉]]、[[久田ひさ]]『立川談志が遺した名言・格言・罵詈雑言 - 人生は、矛盾と誤解に理不尽だらけ』([[牧野出版]]、2012年9月)
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{{commonscat|Danshi Tatekawa}}
{{ウィキポータルリンク|お笑い|[[画像:SCongratulate.svg|34px|Portal:お笑い]]}}
* [http://www.danshi.co.jp/ 立川談志ホ-ムページ 地球も最後ナムアミダブツ] - 公式サイト<!-- {{Twitter|danshi898|有限会社 談志役場}}--><!-- (www.danshi.co.jpからリダイレクトのため上記と実質重複)-->
* {{Twitter|danshi898|有限会社 談志役場}}
* {{Instagram|danshi898|有限会社 談志役場}}
* {{YouTube|channel=UC1cLtz5dRI34lqDYNc_Ditg|【公式】立川談志 落語&ドキュメント by 竹書房}}
* [https://columbia.jp/artist-info/danshi/ 立川談志] - [[日本コロムビア]]
* {{NHK人物録|D0009071299_00000}}
* {{IMDb name|0846186|Danshi Tatekawa}}
*  [https://www.jiji.com/jc/d4?p=tds123&d=d4_psn 落語家 立川談志 写真特集] - [[jiji.com]]
*  [http://www.asahi.com/showbiz/gallery/20111124danshi/ 談志、逝く] - [[Asahi.com]]
* [http://hakko-daiodo.com/kamon-c/cate6/matsu/matsu3.html 家紋・丸に左三蓋松の画像素材] 掲載家紋画像の提供元
 
 
{{旧全国区選出参議院議員}}
{{笑点司会者}}
{{笑点}}
{{M-1グランプリ審査員}}
 
{{Normdaten}}
 
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[[Category:日本のラジオパーソナリティ]]
[[Category:20世紀日本の随筆家]]
[[Category:日本の出身の政治家]]
[[Category:全国区選出の参議院議員]]
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