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|strength1 = 12万人<ref name="inoue">井上清『日本の歴史20 明治維新』中央公論社、昭和41、p.131-132.</ref>
|strength2 = 不明
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|casualties2 = 戦死4707人、負傷1518人<ref name="inoue"/>
}}
[[File:Monument of Meijiishin Fushimi no senseki.jpg|thumb|290px|明治維新・伏見の戦跡碑([[佐藤栄作]]書)]]
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'''戊辰戦争'''(ぼしんせんそう、[[慶応]]4年 / [[明治]]元年〈[[1868年]] <ref>{{Cite news |url=https://news.yahoo.co.jp/
新政府軍が勝利し、国内に他の[[交戦団体]]が消滅したことにより、欧米[[列強]]
以下の日付は、断りのない限り[[旧暦]]で記す。
== 概要 ==
戊辰戦争は研究者によって次のように規定されている。
* 日本の統一をめぐる個別領有権の連合方式と、その否定および[[天皇]]への統合を必然化する方式との戦争([[原口清]]){{Sfn|原口|1963|p=267}}
* 将来の絶対主義政権を
石井はさらにこれを次の三段階に分けた。
# 「将来の絶対主義的全国政権」を争う天皇政府と徳川政府との戦争([[鳥羽・伏見の戦い]]から[[江戸開城]])
# 中央集権としての面目を備えた天皇政府と地方政権・奥羽越列藩同盟(遅れた封建領主の緩やかな連合体)との戦争(東北戦争)
# 封禄から離れた旧幕臣の救済を目的とする、[[士族反乱]]の先駆的形態([[箱館戦争]])
この内戦において、欧米などの諸外国は[[中立|局外中立]]の立場であったが、[[フランス第二帝政|フランス]]の[[レオン・ロッシュ]]公使などが個人的に旧幕府側を支援、一方、
▲この内戦において、欧米などの諸外国は[[中立|局外中立]]の立場であったが、[[フランス第二帝政|フランス]]の[[レオン・ロッシュ]]公使などが個人的に旧幕府側を支援、一方、イギリス士官[[アーネスト・サトウ]]が関税引下げ圧力目的で王政復古を支援する論文『[[英国策論]]』を新聞発表するなど、一部で中立に反する動きが見られた。また、[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]の[[トーマス・グラバー]]や[[プロイセン王国|プロイセン]]の[[スネル兄弟]]など欧米の武器商人も戦争に乗じ、新政府・旧幕府の双方に武器を売却した。
戊辰戦争開始までの経緯および個々の事象については、[[幕末]]、[[明治維新]]、および個々の語句を参照。
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=== 開戦に至る経緯 ===
[[四侯会議]]の崩壊以後、薩摩藩は長州藩と共に武力倒幕を志向するようになり、[[朝廷 (日本)|朝廷]]への工作を活発化させた。慶応3年([[1867年]])[[10月13日 (旧暦)|10月13日]]、[[10月14日 (旧暦)|14日]]に[[討幕の密勅]]が薩摩と長州に下される。
{{quotation|(訳文)詔を下す。源慶喜([[徳川慶喜]])は、歴代長年の[[江戸幕府|幕府]]の権威を笠に着て、一族の兵力が強大なことをたよりにして、みだりに
朕([[明治天皇]])今、人民の父母となって
これを受け、[[西国]]と[[東国]]で同時挙兵する構想が練られた。
しかし、10月14日に江戸幕府第15代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川慶喜]]は日本の統治権返上を[[明治天皇]]に奏上、翌[[10月15日 (旧暦)|15日]]に勅許された([[大政奉還]])。『討幕の実行延期の沙汰書』が[[10月21日 (旧暦)|10月21日]]、薩長両藩に対し下され、討幕の密勅は延期となった。既に大政奉還がなされて幕府は政権を朝廷に返上したために討幕の名分が立たず、薩摩側も東国に於ける挙兵の中止命令を[[江戸]]の薩摩藩邸に伝えざるを得なかった。慶喜は[[10月24日 (旧暦)|10月24日]]には征夷大将軍職の辞任も朝廷に申し出る。朝廷は上表の勅許にあわせて、国是決定のための諸侯会議召集までとの条件付ながら緊急政務の処理を引き続き慶喜に委任し、将軍職も暫時従来通りとした。つまり実質的に「大政奉還」は
[[板垣退助|土佐藩士・乾退助]](板垣退助)は、神武肇国の基に戻す[[王政復古]](皇権回復論)を唱え、[[大政奉還]]が空文化し[[江戸幕府|幕府]]体勢が維持される
{{quotation|[[大政奉還|大政返上]]の事、その名は美なるも是れ空名のみ。徳川氏、馬上に天下を取れり。然(しか)らば
しかし、土佐藩の最高指導者である[[山内容堂]]は「退助また暴論を吐くか」と笑って取り合わず、徳川恩顧の[[上士]]の中で大政奉還論が主流を占めると、過激な武力討幕論は遠ざけられ、反対意見を貫いたことで乾は全役職を剥奪され失脚した<ref name = "senryaku">『板垣退助君戊辰戦略』上田仙吉編、明治15年刊([[板垣退助先生顕彰会|一般社団法人板垣退助先生顕彰会]]再編復刻)</ref>。
さらに、予定された正式な諸侯会議の開催が難航。[[雄藩]]5藩(薩摩藩、[[福井藩]]、[[尾張藩]]、土佐藩、[[広島藩]])は、業を煮やして[[12月9日 (旧暦)|12月9日]]に朝廷に働きかけ、[[公家]]・[[岩倉具視]]の[[上奏|奏上]]により明治天皇が'''[[王政復古 (日本)|王政復古の大号令]]'''を煥発した。その内容は、幕府廃止と新体制樹立を宣言
慶喜は辞官納地を拒否したものの、表向きは「恭順し配下の暴発を抑えるため」と称し、[[二条城]]から[[大坂城]]に移った。しかし、実際には経済的・軍事的に重要拠点である[[大阪|大坂]]を押さえ、その後の政局において幕府側が優位に立とうと策略したと見られる。さらに[[12月16日 (旧暦)|12月16日]]、慶喜は各国公使に対し[[王政復古 (日本)|王政復古]]を非難、条約の履行や各国との交際は、天皇ではなく自
;薩摩御用盗の出現
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[[Image:Satsuma-samurai-during-boshin-war-period.jpg|thumb|戊辰戦争中の薩摩藩士。(着色写真、[[フェリーチェ・ベアト]]撮影)]]
[[旗本]]・[[御家人]]を中心とする[[幕臣]]や[[佐幕派]]諸藩を挑発するため、薩摩藩士・[[西郷隆盛]]らは江戸において、はじめ乾が土佐藩邸に匿い、のち[[薩土討幕の密約]]に基づき[[三田]]の薩摩藩邸に移管していた[[中村勇吉]]、[[相楽総三]]ら[[勤王]]派浪士達を用い、[[出流山事件|出流山]]をはじめとする[[関東地方|関東]]各地での挙兵や江戸の撹乱作戦を開始した。毎夜のように、鉄砲までもった無頼の徒が徒党を組んで江戸の商家に押し入った。[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]の[[公儀]]御用達播磨屋、[[蔵前]]の札差伊勢屋、[[本郷]]の高崎屋といった大店が次々と襲われ、家人や近隣の住民が惨殺されたりした。そして、必ず
江戸の市民はこの浪士集団を「薩摩御用盗」と呼んで恐れ、夜の江戸市中からは人が消えたという。
幕府は[[庄内藩]]に[[江戸市中取締]]を命じたが、時の政治状況をわきまえ、浪士を刺激しないようにした。そのため、活動は益々激化し、江戸だけでなく、[[野州]]、[[相模]]、[[甲州]]といった周辺地域まで拡大していった<ref>原田伊織『明治維新という過ち・完結編』講談社2018年</ref>。
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[[12月23日 (旧暦)|12月23日]]には[[江戸城]][[明治宮殿|西ノ丸]]が焼失。これは薩摩と通じた[[奥女中]]の犯行と噂された。同日夜、江戸市中の警備にあたっていた[[庄内藩]]の巡邏兵屯所への発砲事件が発生、これも同藩が関与したものとされ、ついに[[老中]]・[[稲葉正邦]]は庄内藩、[[岩槻藩]]、[[鯖江藩]]などから成る幕府軍を編成し、江戸の薩摩藩邸を襲撃させる。
[[12月25日 (旧暦)|12月25日]]、幕府軍は三田の薩摩藩邸を包囲、薩摩藩が下手人の引き渡しを拒否したのを受けて、薩摩藩邸を砲撃した([[江戸薩摩藩邸の焼討事件]])。この事件の一報は、江戸において幕府側と薩摩藩が交戦状態に入ったという解釈とともに、大坂城の幕府首脳のもとにもたらされた。
一連の事件は大坂の旧幕府勢力を激高させ、勢いづく[[会津藩]]、[[桑名藩]]らの諸藩兵を慶喜は制止することができなかった。
慶喜は朝廷に薩摩藩の罪状を訴える上表([[討薩表]])を提出、奸臣たる薩摩藩の掃討を掲げて、配下の[[幕府陸軍|幕府歩兵隊]]・会津藩・桑名藩を主力とした軍勢(総督・[[大多喜藩]]主[[大河内正質|松平正質]])を京都へ向け行軍させた。
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{{quotation|臣慶喜、謹んで去月九日以来の御事体を恐察し奉り候得ば、一々朝廷の御真意にこれ無く、全く松平修理大夫(薩摩藩主[[島津茂久]])奸臣共の陰謀より出で候は、天下の共に知る所、殊に江戸・長崎・野州・相州処々乱妨、却盗に及び候儀も、全く同家家来の唱導により、東西饗応し、皇国を乱り候所業別紙の通りにて、天人共に憎む所に御座候間、前文の奸臣共御引渡し御座候様御沙汰を下され、万一御採用相成らず候はゞ、止むを得ず誅戮を加へ申すべく候。|討薩表(部分)}}
=== 戦闘の勃発 ===
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[[画像:Battle of Toba–Fushimi.jpg|400px|thumb|『戊辰戦記絵巻(前篇)』における鳥羽・伏見の戦いの様相<ref>[https://www.ryozen-museum.or.jp/news/20200520_boshinsenso_midokoro1/ 「新選組と戊辰戦争」見どころ紹介① 新展示 新選組資料を中心に鳥羽伏見の戦いや戊辰戦争の実像に迫る! 戊辰戦記絵巻(前篇)] [[霊山歴史館]]、2023年5月13日閲覧</ref>。]]
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慶応4年
両軍の兵力は、新政府軍が約5,000人、旧幕府軍が約15,000人と言われている。新政府軍は武器では旧幕府軍と大差なく、逆に旧幕府軍の方が最新型[[小銃]]などを装備していたが、初日は緒戦の混乱および指揮戦略の不備などにより旧幕府軍が苦戦した。また、新政府が危惧していた旧幕府軍による[[近江国|近江]]方面からの京都侵攻もなかった。
翌[[1月4日 (旧暦)|1月4日]]も旧幕府軍の[[淀]]方向への後退が続き、同日、[[小松宮彰仁親王|仁和寺宮嘉彰親王]]を[[征討大将軍
=== 鳥羽・伏見の戦いの影響 ===
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1月5日、山陰道鎮撫総督・[[西園寺公望]]
[[1月11日 (旧暦)|11日]]には改めて諸大名に対して上京命令が出された。これはそれまでの諸侯による「公平衆議」の開催を名目にした上京命令とは異なり朝敵とされた「慶喜追討」を目的としていた。これによって新政府はこれまで非協力的な藩に対して、恭順すれば所領の安堵などの寛大な処分を示す一方で、抵抗すれば朝敵(慶喜
▲1月5日、山陰道鎮撫総督・[[西園寺公望]]及び東海道鎮撫総督・[[橋本実梁]]が発遣された(西国及び桑名平定)。[[1月7日 (旧暦)|7日]]、慶喜追討令が出され、次いで旧幕府は朝敵となった。[[1月10日 (旧暦)|10日]]には藩主が慶喜の共犯者とみなされた会津藩・桑名藩・[[高松藩]]・[[備中松山藩]]・[[伊予松山藩]]・大多喜藩の[[官位]]剥奪と[[京屋敷]]没収、[[3月7日 (旧暦)|3月7日]]に[[姫路藩]]が追加された{{sfn|水谷憲二|2011|p=178}}。また、藩兵が旧幕府軍に参加した疑いが高い[[小浜藩]]・[[大垣藩]]・[[宮津藩]]・[[延岡藩]]・[[鳥羽藩]]には藩主の入京禁止の処分が下され、これらの藩も「朝敵」とみなされた。ただし、大垣藩は1月10日の時点で藩主が謝罪と恭順の誓約を出していたことから、[[1月13日 (旧暦)|13日]]に新政府軍(中山道総督)の先鋒を務める事を条件に朝敵から外す確約を与えられて[[4月15日 (旧暦)|4月15日]]に正式に解除、更には戊辰戦争の功によって[[賞典禄]]まで与えられている。なお、同藩の場合、新政府参与に同藩重臣([[小原忠寛]])がおり、彼のとりなしを新政府・大垣藩双方が受け入れた事が大きい{{sfn|水谷憲二|2011|p=220-224}}。
▲[[1月11日 (旧暦)|11日]]には改めて諸大名に対して上京命令が出された。これはそれまでの諸侯による「公平衆議」の開催を名目にした上京命令とは異なり朝敵とされた「慶喜追討」を目的としていた。これによって新政府はこれまで非協力的な藩に対して、恭順すれば所領の安堵などの寛大な処分を示す一方で、抵抗すれば朝敵(慶喜及び旧幕府)の一味として討伐する方針を突きつける事になった。特に[[西日本]]では慶喜討伐令と上京命令と鎮撫軍の派遣の報を立て続けに受ける事になり、所領安堵と追討回避のために[[親藩]]・[[譜代大名|譜代]]藩も含めて立て続けに恭順を表明し、鳥羽・伏見の戦いに関わったとして「朝敵」の認定を受けた藩ですら早々に抵抗を諦めて赦免を求める事となった。[[1月 (旧暦)|1月]]末には藩主が慶喜とともに江戸に逃亡した桑名藩ですら、重臣や藩士達が城を新政府軍に明け渡し、[[3月 (旧暦)|3月]]には[[近畿地方|近畿]]以西の諸藩は完全に新政府の支配下に入った{{sfn|水谷憲二|2011|p=8-12, 22-24, 55}}。
1月、長州軍が大坂城を接収、[[大阪|大坂]]は新政府の管理下に入った。同日、東山道鎮撫総督に[[岩倉具定]]が任命された。11日、[[神戸事件]]が起こり条約諸国と新政府が対峙する。[[1月20日 (旧暦)|20日]]、北陸道鎮撫総督・[[高倉永祜]]が発遣され、[[1月21日 (旧暦)|21日]]、新政府軍は軍事基地兼役所として奈良に[[鎮台|'''大和鎮台''']]を設置した。そして諸国との交渉が成立し、条約諸国は[[1月25日 (旧暦)|25日]]に局外中立宣言を行い、日本は内戦状態と認定された。旧幕府が国際的に承認された政府としての地位を失った一方、朝廷もまた公式政権と見做されずにあった。2月には神戸事件に誘発される形で、[[土佐藩]]士による[[堺事件]]や、勤皇派による[[パークス英公使襲撃事件]]も発生した。
近畿では幕府
== 西国および東海北陸の状況 ==
西日本では、新政府軍と佐幕派諸藩との間では[[備後福山藩|福山藩]](藩主急逝により態度表明が遅れた)を除きほとんど戦闘が起きず、諸藩は次々と新政府に降伏、協力を申し出た。[[東海地方]]および[[北陸地方]]では尾張藩が勤皇誘引使を諸藩代官へおくり勤皇証書を出させ日和見的立場から中立化に成功した。これらの西国の藩に対し、銃兵と砲兵以外の騎士や弓槍兵、従者を禁止し、新政府の中央司令による軍事編成介入により一挙の近代軍化を強制して諸藩は従わざるを得なかった{{Sfn|保谷|2007|p=115-127}}。
=== 東海 ===
鳥羽・伏見の戦直前の1月2日、新政府は近江方面から旧幕府軍に京都を挟み撃ちにされることを警戒して橋本実梁に大津防衛を命じて、先発として[[大村藩]]兵が3日に大津に入る。旧幕府軍は大津侵攻を回避したために京都を挟み撃ちにされる危険性が減少した5日、新政府は改めて橋本を東海道鎮撫総督に任じた。ところが、東海道沿いの佐幕藩として新政府に警戒されていた[[彦根藩]]がこの段階で[[尊王]]に藩論を転換させて大津防衛の援軍を派遣しており同藩への出兵の必要性がなくなったことから、9日には大津にて桑名藩の征討に移った。[[膳所藩]]・[[水口藩]]の協力もあって大津など南近江一帯が新政府の掌握下に置かれると、本格的な東進が開始され、[[1月22日 (旧暦)|22日]]に[[四日市]]に東海道軍が到着すると桑名藩は戦わずに開城した。藩主の座から追われた[[松平定敬]]は国許には帰らず箱館まで戦争を続けた。尾張藩では20日、藩主の父・[[徳川慶勝]]の「朝命により死を賜る」との命により[[家老|御年寄列]]・[[渡辺在綱|渡辺新左衛門在綱]]を含む3重臣
=== 東山道(中山道) ===
1月9日、岩倉具定が東山道鎮撫総督に任じられ、21日に京都を出発した。なお、大垣藩は鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍に属していたが、直後に新政府に対して異心が無いことを表明して東山道軍の先鋒となっている。東山道(中山道)筋の諸藩は[[定府大名]]が多く、江戸の居住そのものが旧幕府への加担としての疑惑を持たれたことから、沿道諸藩は対応に苦慮した。だが、多くの藩では国元では抵抗を行わず、藩主が鎮撫総督に恭順の意思を示したことで一旦下された謹慎や所領没収などの処分は解除されている。むしろ、[[北関東]]に入ると、諸藩への対応よりも同地において発生した[[世直し一揆]]などの動きへの対応に迫られることになった。
=== 北陸道 ===
[[北陸道]]鎮撫総督の高倉は小浜藩の酒井忠禄を先鋒として[[越前]] [[加賀]] [[能登]] [[越中]] [[越後]]と日本海側を北上した。
=== 丹波・山陰道 ===
すでに鳥羽・伏見の戦中の1月5日、新政府は西園寺公望を[[山陰道]]鎮撫総督に任じて薩摩・長州藩兵を添えて[[丹波国]]に進軍させていた。これは佐幕派の[[丹波亀山藩]]の帰順
=== 四国の状況 ===
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=== 中国路の状況 ===
長州藩兵は上京の途中の1月9日に[[備後福山藩]]領に侵入し[[福山城 (備後国)|福山城]]に砲撃を加え、籠城する福山藩兵と銃撃戦を開始するが、家老・[[三浦義建]]
=== 九州の情勢 ===
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=== 甲州勝沼および野州梁田の戦い ===
{{main|甲州勝沼の戦い|梁田の戦い}}
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江戸へ到着した徳川慶喜は、1月15日、幕府主戦派の中心人物・[[小栗忠順]]を罷免。さらに[[2月12日 (旧暦)|2月12日]]、慶喜は江戸城を出て[[上野]]の[[寛永寺]]に謹慎し、明治天皇に反抗する意志がないことを示した。
一方、朝敵の宣告を受けた会津藩主・[[松平容保]]は、本拠地の会津へ戻った。容保は新政府に哀訴嘆願書を提出し天皇への恭順の姿勢は示したが、新政府の権威は認めず、武装は解かず、求められていた出頭も謝罪もしなかった。その一方で、先の江戸での薩摩藩の騒乱行為を取り締まったことで新政府から標的にされていた庄内藩藩主・[[酒井忠篤 (庄内藩主)|酒井忠篤]]は、会津藩と会庄同盟を結成し、[[薩長同盟]]に対抗する準備を進めた。旧幕府に属した人々は、あるいは国許で謹慎し、またあるいは慶喜に従い、またあるいは反新政府の立場から会津藩等を頼り東北地方へ逃れた。
新政府は[[有栖川宮熾仁親王]]を大総督とした東征軍を
旧幕府軍は[[近藤勇]]らが率いる[[甲陽鎮撫隊]](旧[[新撰組]])を
一方、東山道を進んだ東山道軍の本隊は、3月8日に武州熊谷宿に到着、3月9日に近くの梁田宿(現
=== 江戸城無血開城 ===
{{main|江戸開城}}
駿府に進軍した新政府は[[3月6日 (旧暦)|3月6日]](同[[3月29日]])の軍議で[[江戸城]]総攻撃を3月15日とした。しかし条約諸国は戦乱が貿易に悪影響となることを恐れ、イギリス公使[[ハリー・パークス]]は新政府に江戸攻撃・中止を求めた。新政府の維持には諸外国との良好な関係が必要だった。また武力を用いた関東の平定には躊躇する意見があった。江戸総攻撃は中止とする命令が周知された。
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=== 上野戦争 ===
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{{main|上野戦争}}
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徳川慶喜が謹慎していた上野・寛永寺には、江戸無血開城によって江戸の治安を統括する組織として認定されていた旧幕府勢力・[[彰義隊]]があった。この存在は幕府主戦派から“裏切り者”呼ばわりをされていた勝海舟にとって、一定の成果ではあった。しかし実際の彼らは新政府への対抗姿勢を示し、新政府軍兵士への集団暴行殺害を繰り返した。勝との江戸城会談で当事者となった西郷隆盛は、彰義隊をどうにか懐柔しようとしていた幕府恭順派である勝との関係の手前、対応が手ぬるいとの批判を受けた。大総督府は西郷を司令官から解任し、長州藩士・[[大村益次郎]]を新司令官に任命。大村は[[海江田信義]]ら慎重派を制して、武力による殲滅を主張した。新政府側は、1868年5月1日に彰義隊の江戸市中取締の任を解くことを通告、新政府自身が彰義隊の武装解除に当たる旨を布告した。これにより彰義隊との衝突事件が上野近辺で頻発した。
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=== 箱根戦争 ===
{{main|箱根戦争}}
東海道の小田原以西の諸藩は新政府に対して恭順したため、東征軍の通過当初は戦闘が起きなかった。しかし、[[林忠崇]]率いる[[請西藩]]兵
== 東北戦争 ==
[[
{{main|奥羽越列藩同盟}}
189 ⟶ 183行目:
また江戸薩摩藩邸の焼討事件での討伐を担当した[[庄内藩]]藩主・[[酒井忠篤 (庄内藩主)|酒井忠篤]]は、新政府によって会津藩への報復と同様の報復がなされることを予期し、以後両藩は連携し新政府に対抗することとなった(会庄同盟)。
=== 奥羽越列藩同盟の成立 ===
慶応4年(1868年)1月17日、鳥羽・伏見の戦いで勝利した新政府は、[[東北地方]]の大国である[[仙台藩]]の藩主・[[伊達慶邦]]に[[会津藩]]の追討を命令した。しかし仙台藩は行動しなかった。
2月25日、[[庄内藩]]は使者を新政府に派遣した。新政府は徳川慶喜あるいは会津藩に対する追討軍への参加を要求し旗幟を鮮明にすることを迫ったが、使者は軍への参加を拒絶した。会津藩も嘆願書で天皇への恭順を表明したが、新政府の権威は認めず謝罪もせず武装も解かなかった。これらの行動を会津の天皇への“武装・恭順”なのだと主張する説もある。▼
▲2月25日、庄内藩は使者を新政府に派遣した。新政府は徳川慶喜あるいは会津藩に対する追討軍への参加を要求し旗幟を鮮明にすることを迫ったが、使者は軍への参加を拒絶した。会津藩も嘆願書で天皇への恭順を表明したが、新政府の権威は認めず謝罪もせず武装も解かなかった。これらの行動を会津の天皇への“武装・恭順”なのだと主張する説もある。
3月22日、新政府への敵対姿勢を続けていた会津藩および庄内藩を討伐する目的で、[[奥羽鎮撫総督府]]および新政府軍が仙台に到着した。主要な人物としては総督・[[九条道孝]]、副総督・[[澤為量]]、参謀・[[醍醐忠敬]]、[[下参謀]]の[[世良修蔵]](長州藩)と[[大山綱良]](薩摩藩)がいる。3月29日、奥羽鎮撫総督府は、仙台藩・[[米沢藩]]をはじめとする東北地方の諸藩に会津藩および庄内藩への追討を命じた。
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4月19日(閏ではなく閏4月1日以前の事件)、関東地方で大鳥圭介らの率いる旧幕府軍が宇都宮城を一時占領した。この報が東北地方に伝わると、仙台藩では会津藩・庄内藩と協調し新政府と敵対すべきという意見が多数となった。閏4月4日、仙台藩主席家老・[[但木成行]]の主導で奥羽14藩は会議を開き、この状態での会津藩・庄内藩への赦免の嘆願書を提出した。要求が入れられない場合は新政府軍と敵対し排除するという声明が付けられていた。会津藩・庄内藩は恭順の姿勢を見せていなかったため、閏4月17日、新政府は嘆願書を却下した。奥羽14藩はこれを不服として征討軍の解散を決定した。
{{main|白石会議}}
閏4月20日[[未明]]、仙台藩と福島藩は新政府軍が庄内藩を攻撃するため出陣していった留守をつき、奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵と[[報国隊]]の[[勝見善太郎]]を[[福島宿 (奥州街道)|福島]]の[[金澤屋]]で捕縛して斬首し、遺体を[[阿武隈川]]へ投げ捨てた。首は[[白石城]]へ送られ、[[但木土佐]]は当初[[白石川|児捨川]]へ首を投げ捨てるように命じたが寺へ葬られた。同日[[昼]]、仙台藩と福島藩は、両藩の裏切りを知らずに金澤屋へ帰宿した長州藩士の松野儀助を捕縛・斬首して金品を奪い、同日[[夜]]に世良の[[厩務員|馬丁]]の繁蔵も[[長楽寺 (福島市)|長楽寺]]で背後から斬殺した。閏4月21日、[[柳町 (福島市)|福島町の江戸口]]付近を醍醐参謀らと共に北行中だった醍醐参謀[[与力|附士]]の長州藩士[[野村十郎]]を仙台藩士が背後から斬殺し、遺体を阿武隈川へ投げ捨てた。同参謀附士の長州藩士[[中村小次郎]]も[[白河口の戦い]]で重傷を負って[[駕籠|籃輿]]で福島へ向かう途中に[[松川町浅川|伏拝坂付近]]で左右から刺殺された。さらに仙台藩は、九条総督と醍醐参謀を[[仙台城]]下に[[軟禁]]した<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1148505/215 『復古記 第十二冊』390頁]~[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1148505/228 417頁]
▲閏4月20日[[未明]]、仙台藩と福島藩は新政府軍が庄内藩を攻撃するため出陣していった留守をつき、奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵と[[報国隊]]の[[勝見善太郎]]を[[福島宿 (奥州街道)|福島]]の[[金澤屋]]で捕縛して斬首し、遺体を[[阿武隈川]]へ投げ捨てた。首は[[白石城]]へ送られ、[[但木土佐]]は当初[[白石川|児捨川]]へ首を投げ捨てるように命じたが寺へ葬られた。同日[[昼]]、仙台藩と福島藩は、両藩の裏切りを知らずに金澤屋へ帰宿した長州藩士の松野儀助を捕縛・斬首して金品を奪い、同日[[夜]]に世良の[[厩務員|馬丁]]の繁蔵も[[長楽寺 (福島市)|長楽寺]]で背後から斬殺した。閏4月21日、[[柳町 (福島市)|福島町の江戸口]]付近を醍醐参謀らと共に北行中だった醍醐参謀[[与力|附士]]の長州藩士[[野村十郎]]を仙台藩士が背後から斬殺し、遺体を阿武隈川へ投げ捨てた。同参謀附士の長州藩士[[中村小次郎]]も[[白河口の戦い]]で重傷を負って[[駕籠|籃輿]]で福島へ向かう途中に[[松川町浅川|伏拝坂付近]]で左右から刺殺された。さらに仙台藩は、九条総督と醍醐参謀を[[仙台城]]下に[[軟禁]]した<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1148505/215 『復古記 第十二冊』390頁]~[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1148505/228 417頁] 復古外記 奥羽戦記 第六 (編著者:[[太政官]]、[[豊原資清]] 出版者:内外書籍 発行:[[昭和]]5年([[1930年]])[[5月8日]]) (2018年10月15日閲覧。)</ref><ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176680/120 『二本松藩史』148頁]~[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176680/121 151頁] 「齋藤淺之助翁談話」 (編著者・出版者:二本松藩史刊行會 再版発行:昭和2年([[1927年]])[[1月10日]]) (2018年10月11日閲覧。)</ref>。
閏4月21日、薩摩藩士[[鮫島金兵衛]]が軍監として[[出羽国
閏4月22日、薩摩藩士[[内山伊右衛門]]綱次、その従者の太郎、薩摩藩士西田十太郎の3人が、[[弾薬]]など7駄を羽州へ運ぶ途中に[[鳴子峡|大深沢]]で、但木土佐の命令を受けた仙台藩士の[[荒井宣行|荒井平之進]]、橋本豊之進、狭川公平と、小人組の松田三四郎、小田五郎の5人に待ち伏せされて斬殺された。首は荒井が仙台まで持ち帰り、[[八乙女駅|七北田]][[刑場]]へ捨てた<ref name="satsuma">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1148505/228 国立国会図書館デジタルコレクション『復古記 第十二冊』417頁]~[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1148505/229 418頁]
これと並行して仙台藩・米沢藩を中心に、会津藩・庄内藩赦免の嘆願書のための会議を新政府と敵対する軍事同盟へ改変させる工作が行われた。赦免の嘆願書は新政府に
ここに旧幕府とも新政府とも異なる軍事同盟(地方政
=== 輪王寺宮と幻の仙台朝廷 ===
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=== 白河戦線 ===
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{{main|白河口の戦い}}
[[白河市]]は関東地方と東北地方の結節点であり、この地の[[白河小峰城|白河城]]は両地方間の交通を管理可能な拠点だった。江戸無血開城以降の時点で、この地は新政府の管理下となっていた。仙台藩が列藩同盟設立の姿勢を顕にし総督府の下参謀・世良修蔵(長州藩)を殺害、九条道孝総督・醍醐忠敬参謀らを仙台城下に軟禁したのと同じ閏4月20日、会津軍と仙台軍は呼応して新政府から白河城を奪い取った。
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=== 北越戦争 ===
{{main|北越戦争}}
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越後には慶応4年(1868年)3月9日に開港された[[新潟港]]があった。戊辰戦争勃発に伴い新政府は開港延期を要請したが、イタリアとプロイセンは新政府の要請を無視し、両国商人は新潟港で列藩同盟へ武器の売却を始めた。このため新潟港は列藩同盟にとって武器の供給源となった。5月2日、新政府軍の[[岩村精一郎]]は恭順工作を仲介した尾張藩の紹介で、長岡藩の[[河井継之助]]と会談した。河井は新政府が他藩に負わせていた各種支援の受け入れを拒否し、獨立特行の姿勢と会津説得の猶予を嘆願したが、岩村はこれを新政府の権威否定
長岡藩は河井により兵制改革が進められ武装も更新されていた。同盟軍は河井の指揮下で善戦したが、5月19日に長岡城が落城。7月25日に同盟軍は長岡城を奪還し新政府軍を敗走させたが([[八丁沖の戦い]])、この際指揮を
=== 平潟戦線 ===
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6月24日、東山道先鋒総督府参謀・[[板垣退助]](土佐藩)が率いる[[官軍|新政府軍]]の[[迅衝隊]]が白河から平潟との中間にあった[[棚倉城]]を接収した。さらに7月14日、迅衝隊は海岸に近い[[磐城平城]]を占領(平城の戦い)。16日には断金隊々長・[[美正貫一郎]]の尽力によって、[[三春藩]]が迅衝隊に進んで降伏し無血開城し、[[三春城]]は新政府軍の病院としての一翼をになった。22日に仙台追討総督・[[四条隆謌]]が増援を率いて平潟に到着、29日に[[二本松城]]を三春城から北上した新政府軍が占領した([[二本松の戦い]]・[[二本松少年隊]])。8月7日、[[相馬中村藩]]が新政府軍に降伏。四条隆謌と参謀・[[河田景与]]および[[木梨精一郎]]らは相馬藩兵を加えて単独で仙台方面へ侵攻、11日に藩境の[[宇多郡]][[駒ケ嶺 (新地町)|駒ヶ嶺村]]を占拠、ここで仙台藩と戦闘を繰り広げた。
白河周辺に大軍を駐屯させ南下を伺っていた列藩同盟軍は、より北の浜通り
新政府軍の総司令官・[[大村益次郎]]([[長州藩]])は、仙台藩の攻撃を優先するべきだと主張し、現地の司令官・[[伊地知正治]]([[薩摩藩]])と[[板垣退助]]([[土佐藩]])は会津藩を攻めるべきだと主張した。結果、伊地知・板垣の会津進攻策が通り、会津戦争が行われることになった。
=== 東北戦争の終結 ===
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{{main|会津戦争}}
8月15日、[[板垣退助]]は[[米沢藩]]に[[降伏|降伏勧告]]する[[使者]]として、土佐藩士[[沢本盛弥|澤本盛弥]]を派遣した。
8月21日、二本松周辺まで北上していた新政府軍は、同盟軍の防備の薄かった[[母成峠]]から会津盆地へ侵攻し、[[母成峠の戦い]]が行われた。当地には大鳥圭介ら旧幕府軍が防衛していたが兵力が小さく、敏速に突破され若松への進撃を許した。当時会津軍の主力は関東に近い領内南部の日光口(会津西街道)や領外の遠方にあり、若松に接近している新政府軍への備えが劣っていた。またこれらの軍は侵攻してきた新政府軍を側面から牽制することもなく若松への帰還を優先した。こうして会津藩兵と旧幕府方残党勢力は若松城に篭城した。この篭城戦のさなか、[[白虎隊]]の悲劇などが発生した。
9月4日、米沢藩が新政府に降伏し、米沢藩主・[[上杉斉憲]]は仙台藩に降伏勧告を行った。その結果もあり10日に仙台藩は新政府に降伏{{Efn|ただし、仙台藩主伊達慶邦は既に、[[8月26日 (旧暦)|8月26日]]に新政府への[[謝罪]][[降伏]]の手配を指示し、[[8月29日 (旧暦)|8月29日]]には[[熊本藩]]陣中へ仙台藩士2人を派遣して仙台藩の降伏交渉を始めさせている<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1148555/248 国立国会図書館デジタルコレクション『復古記 第13冊』459頁]~[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1148555/250 463頁]
奥羽越列藩同盟諸藩の降伏後、行き場を失った水戸藩・[[諸生党]]を中心とする旧幕府方残党は[[水戸城]]に侵攻するが、10月1-2日の[[弘道館戦争]]で敗退した。旧幕府方残党は南に敗走し、10月6日、[[下総国]][[匝瑳郡]]松山村付近の[[松山戦争]]で壊滅した。
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== 箱館戦争 ==
{{main|箱館戦争}}
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榎本武揚ら旧幕府海軍を主体とする勢力は、奥羽越列藩同盟からの度重なる参戦要求を無視し、もはや列藩同盟の敗色が濃くなった8月19日になってから、ようやく江戸湾から脱出した。出航が遅れたのは、徳川慶喜への新政府の処置を見届ける必要を感じていたからと説明されている。8月26日、[[仙台藩]]内の[[浦戸諸島]]・寒風沢島ほか([[松島湾]]内)に寄港し、奥羽越列藩同盟軍の残党勢力よび大鳥圭介・[[土方歳三]]等の旧幕府軍の残党勢力、約2,500人を収容、10月12日に[[蝦夷地]]([[北海道]])へと向かった。このとき、仙台藩の精鋭である洋式部隊・[[額兵隊]]も、榎本艦隊に収容された。[[松前藩]](北海道)は奥羽越列藩同盟側に属していたが、7月28日に尊王を掲げた正議隊による政変が発生し、以後は新政府側に帰順していた。10月26日榎本は[[箱館]][[五稜郭]]などの拠点を占領し、12月5日に北海道地域に事実上の権力を成立させた(通称、榎本政権または[[蝦夷共和国]])。
榎本らは北方の防衛開拓を名目として、朝廷の下での自らの蝦夷地支配の追認を求める嘆願書を朝廷に提出したが、新政府はこれを認めず派兵した。旧幕府軍は松前、江差などを占領する際に軍事力の要となる[[開陽丸]]を悪天候で座礁沈没させており、海軍兵力の低下は否めず、[[宮古湾海戦]]を挑んだものの敗れた。その後、新政府軍は
== 戦後処理 ==
これに先立つ慶応4年[[5月24日 (旧暦)|5月24日]]、新政府は徳川慶喜 ;戦功賞典(永世禄)
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箱館戦争が終結すると首謀者の榎本武揚・大鳥圭介・松平太郎らは東京辰の口に投獄されたが、[[黒田清隆]]らによる助命運動により、明治5年([[1872年]])1月に赦免された。その後、彼らの多くは乞われて新政府に出仕し、新政府の要職に就いた。
{{出典の明記|section=1|date=2016
== 遺恨 ==
2000年(平成12年)になっても、秋田県で開かれた「戊辰戦争百三十年in角館」で[[宮城県]][[白石市]]長の[[川井貞一]]が久保田藩の寝返りを批判しており、遺恨の根の深さがここでも見て取れる。
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==== 薩軍 ====
(総兵力 約8,000名)
* 本府隊
** 第一番~第十八番隊
** 第一番~第四番遊撃隊
** 兵具一番隊~三番隊
* [[外城制|外城]]隊
** 外城一番隊([[高岡町 (宮崎県)|高岡]])
** 外城二番隊([[加世田市|加世田]]・[[吹上町 (鹿児島県)|伊作]])
** 外城三番隊([[市来町|市来]])
** 外城四番隊([[出水市|出水]])
** 外城五番隊([[国分市|国分]])
** 外城六番隊([[川辺町 (鹿児島県)|川辺]])
* 私領隊
** 私領一番隊([[都城市|都城]])
** 私領二番隊([[枕崎市|鹿籠]]・[[知覧町|知覧]])
** 私領三番隊([[加治木町|加治木]])
** 私領四番隊([[宮之城町|宮之城]])
** 私領五番隊([[大隅町|岩川]])
** 重都隊([[姶良市|重富]]・都城)
** 吉部隊([[財部町|財部]]・[[末吉町|末吉]])
** 清日隊([[清水町 (鹿児島市)|清水]]・[[日当山町|日当山]])
* 臼砲隊
* 加治木砲隊
* 大小荷駄隊
* [[春日丸|春日艦]]
* [[乾行 (砲艦)|乾行艦]]
* 出水隊
* [[平佐 (薩摩川内市)|平佐]]・[[垂水市|垂水]]砲隊
* 垂水隊
* 帖佐隊
* [[根占町|鹿屋小根占]]隊
* [[天草市|天草]]鎮撫隊
=== 旧幕府軍 ===
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* [[花燃ゆ]](2015年、NHK大河ドラマ)
* [[西郷どん (NHK大河ドラマ)|西郷どん]](2018年、NHK大河ドラマ)
=== 映画 ===
* [[るろうに剣心 (実写映画)|るろうに剣心]](2012年 - 、[[ワーナー ブラザース ジャパン|ワーナー・ブラザース映画]])
435 ⟶ 430行目:
== 参考文献 ==
=== 資料・史料 ===
* {{Citation|和書|
* 川崎三郎『戊辰戦史』[[博文館]]、1894年[{{NDLDC|773511/1}}]。
*[[藤原相之助]]『[{{NDLDC|773429}} 仙台戊辰史]』明治
* 『長岡藩戊辰戦争関係史料集』〈長岡市史双書 No.31〉、[[長岡市]]、[[1995年]]。
* 稲川明雄(他)編『北越戊辰戦争史料集』新人物往来社、2001年11月、ISBN 4404029233。
* 中須賀哲朗(訳)『英国公使館員の維新戦争見聞記』[[校倉書房]]、1974年。
* {{Cite book|和書|author=日本歴史学会編|year=1981|title=明治維新人物辞典|publisher=吉川弘文館|isbn
=== 研究 ===
* {{Cite book|和書|author=原口清|authorlink=原口清|title=戊辰戦争|publisher=塙書房|year=1963|
* {{Cite book|和書|author=石井孝|authorlink=石井孝|title=維新の內乱|publisher=[[至誠堂]]|year=1968|
* {{Cite book|和書|author=大山柏|authorlink=大山柏|title=戊辰
* 菊地明(他)編『戊辰戦争全史』〈上・下〉
* {{Cite book|和書|author
* {{Cite book|和書|author
* {{Cite book|和書|author
* 『会津戦争-痛憤 白虎隊と河井継之助』[[学研プラス]]〈[[歴史群像]]シリーズ 39〉、1994年9月。ISBN 9784056005868。
* {{Cite book|和書|author=野口信一|title=会津えりすぐりの歴史―資料から読み解く真実の歴史|publisher=歴史春秋社|year=2010|isbn=978-4897577531|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=水谷憲二|title=戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-|publisher=[[八木書店]]|year=2011|isbn=978-4840620444|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=相田泰三|year=1972|title=保科正之公傅|publisher=保科正之公三百年祭奉賛会|isbn
*{{Cite book|和書|author=小桧山六郎編|year=2002|title=会津白虎隊のすべて|publisher=新人物往来社|isbn=4-404-02946-2
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Boshin war}}
* [[大政奉還]] - [[王政復古の大号令]] - [[明治維新]]
* [[鳥羽・伏見の戦い]]/[[宇都宮城の戦い]]/[[会津戦争]]/[[函館戦争]]/[[江戸開城]]
* [[奥羽越列藩同盟]]
* [[青松葉事件]]
* [[ロバート・B・ファン・ファルケンブルグ]] - アメリカ公使。戦争勃発の翌年、明治政府に[[東艦|軍艦ストーンウォール]](東艦)を売却
{{戦前日本の経済史}}
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