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| 最終勝利 = [[1997年ルクセンブルクグランプリ|1997年ルクセンブルクGP]]
| 最終戦 = [[2006年ドイツグランプリ|2006年ドイツGP]]
|略称表記=VIL}}
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'''ジャック・ジョゼフ・シャルル・ヴィルヌーヴ'''({{lang|fr|'''Jacques Joseph Charles Villeneuve'''}}, [[1971年]][[4月9日]] - )は、[[カナダ]]出身のレーシングドライバー。 1995年の[[チャンプカー・ワールド・シリーズ|CART]]インディカー・ワールド・シリーズ]]チャンピオン、同年の[[インディ500]]優勝者、1997年の[[フォーミュラ1|F1]]ワールドチャンピオン。一般的な愛称は'''JV'''。
 
==略歴 ==
=== レースキャリアの始まり ===
1971年4月9日、カナダ[[ケベック州]]に生まれる。7歳の時、伝説的なF1レーサーである父[[ジル・ヴィルヌーヴ|ジル]]と共にヨーロッパに渡り、11歳の時に父を事故で失った後も、家族と共に在住した。しかし、母ジョアンは息子もが父と同じレーサーの道を歩むことを嫌ったためジャックを[[スイス]]の寄宿学校に入学させすることになった。成績は優秀で、特に数学と物理の成績が秀でていた。また運動神経も優れており、[[スキー]]の腕前も秀でていたため、プロスキーヤーを目指していたともされる。なお、この寄宿学校の体育教師が、のちにマネージャーを務める事になる[[クレイグ・ポロック]]である。
 
しかし15歳になると、ドライバーを育成する[[ジム・ラッセル・レーシングスクール]]の3日間コースを経験。翌年にはスペナ・デービッド・レーシングスクール({{Lang-en-short|Spenard-David Racing School}})に入学し、父と同じ道をたどる事を決意する。[[1990年代]]以降、F1のトップドライバーは幼少期から[[カートレーシング|カート]]でレースキャリアを積む例が多い中で、ジャックは遅めのスタートを切ったと言える。このことはヨーロッパのレース界でニュースとなり、ジルが伝説を築いた[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]の地元イタリアにも流れ、イタリアのツーリングカーレースに出場するチャンスを獲得した。
 
「ヴィルヌーヴ」の名を持つジャックがスポンサー探しに苦労する事もなく<ref>「F1グランプリ特集」 vol.83 、p.43、ソニーマガジンズ、1996年。</ref>、彼にとってレースキャリアを始める事は比較的容易なものであった。しかし、それと同時にヴィルヌーヴという名は彼を大いに苦しめらめる事になる。F1界の英雄であったジルの息子、ジャック自身の将来に周囲が大きな期待を寄せるのは明白であり、英雄ジルとの共通点を探そうと必死な[[パパラッチ]]、父のファンの期待に応えなければならないという責任感、そして父であるジル・ヴィルヌーヴの存在は当時17歳の少年自身にとって計り知れないほどのプレッシャーとなった。
 
=== フォーミュラ3 ===
1989年に[[イタリア[[フォーミュラ3選手権|イタリアF3選手権]]で本格的にレースデビューを果たすが、初めの2年間は目立った成績を残せなかった。しかし、3年目の1991年になると結果が出始め、[[日本]]の[[トムス]]からオファーを受けた。父の親友である[[パトリック・タンベイ]]のアドバイスもあり、翌1992年から[[全日本F3選手権]]に参戦する事を決意する。
 
空前のF1ブームに沸く日本では、1991年日本GP開催時に伝説の2代目ことジャック・ヴィルヌーヴの全日本F3デビューを報じるマスコミもあった。
この時期、[[東京都]][[目黒区]]の[[都立大学駅|都立大]]周辺に住んでいた。
 
日本では父親が神格化されたヨーロッパと違ってジャック自身がさほど注目されることがなく、故に街中で注目を集めたり騒がれたりすることもなく、[[ミカ・サロ]]や[[エディ・アーバイン]]など、同じく日本で活躍する外国人レーサーとの交友や、自身の趣味に没頭することなどが出来た。このシーズンは3勝を挙げ、[[アンソニー・レイド]]に次ぐ総合2位と好成績を残した。そして、この年には高校時代の恩師であり親友でもあるクレッグ・ポロックと再会し、彼をマネージャーとした。以後、ジャックは急速に頭角を現すことになる。
 
=== 北米での活躍 ===
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1993年にはポロックの手引きもあり、北米レースの登竜門[[フォーミュラ・アトランティック]]に[[アンドレッティ・オートスポーツ|フォーサイス・グリーン・レーシング]]から参戦し、シーズン15戦中5勝を挙げ総合3位に入る。[[モントリオール]]の[[ジル・ヴィルヌーヴ・サーキット]]で行われたレースで優勝したことにより、自国の英雄である父の名を冠したサーキットで、その息子が表彰台の頂点に登ることとなった。
 
[[1994年のインディカー・シーズン|1994年]]には、チームとともに当時のアメリカン・フォシングミュラの最高峰である[[チャンプカー・ワールド・シリーズ|CART]]インディカー・ワールド・シリーズ]]にステップアップ。第4戦[[インディ500]]では2位に入り、第14戦[[ロード・アメリカ]]では強豪[[ペンスキー・レーシング|ペンスキー]]チームの[[アル・アンサーJr.]]、[[エマーソン・フィッティパルディ]]、[[ポール・トレーシー]]とバトルを繰り広げて追い抜き、初優勝を飾るなど<ref>ジャック・ビルヌーブ、ロード・アメリカで見事初優勝 [[Racing On]] No.176 1994年10月7日号 19頁</ref>好成績を収めた。最終的に総合6位に入り、この年の[[ルーキーオブザイヤー]]を獲得。
 
[[1995年のインディカー・シーズン|1995年]]には体制変更によりチーム・グリーンとして参戦。父ジルの象徴でもあったカーナンバー27を背負い、[[インディ500]]では途中2周(5マイル)のペナルティを受けながらも計505マイルを走りきり優勝した。これを含めシーズン4勝を上げ、参戦2年目にしてCARTインディカー史上最年少のシリーズチャンピオンという偉業を成し遂げた。
 
=== F1デビューから王者へ ===
[[ファイル:Jacques Villeneuve 1996.jpg|right|thumb|230px|1996年 カナダGP]]
[[バーニー・エクレストン]]の後押しもあり、{{f1|1996}}からF1に転向。当時屈指の強豪であった[[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]]・[[ルノーF1|ルノー]]から参戦を開始し、初年度からその才能を遺憾なく発揮する。デビュー戦となった開幕戦[[1996年オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]]では、史上3人目となるデビュー戦での[[ポールポジション]]獲得<ref>「全員がデビュー戦」であったF1世界選手権開幕戦([[1950年イギリスグランプリ|1950年イギリスGP]])で獲得した[[ジュゼッペ・ファリーナ]]を除外した場合。[[マリオ・アンドレッティ]]と[[カルロス・ロイテマン]]に続く3人目、24年ぶり。</ref>という偉業を達成。決勝でも[[ファステストラップ]]を記録しながら残り5周までトップを快走し、史上初<ref>こちらも「全員がデビュー戦」であった1950年イギリスGPで獲得した[[ジュゼッペ・ファリーナ]]を除外した場合。</ref>のデビュー戦[[ポール・トゥ・ウィン]]およびハットトリックを達成するかと思われたが、レース終盤に発生したオイル漏れによりペースダウンを余儀なくされ(後ろにつけていたチームメイトの[[デイモン・ヒル]]は「ジャックのファッションセンスは大雑把に見えるが、レース運びも似たようなものがあるんだ。レース中にコースアウトした際にどこかをぶつけたようで、オイル漏れが発生したように見えた」と分析している<ref>[https://www.as-web.jp/f1/530658/2 1996年のF1王者デイモン・ヒルに聞くウイリアムズFW18。「少しも複雑じゃないところが最大の美徳」] auto sport web 2019年10月10日、同28日閲覧。</ref>。)、惜しくも2位に終わる。[[1996年ヨーロッパグランプリ|第4戦ヨーロッパGP]]では、前年王者の[[ミハエル・シューマッハ]]との接近戦を制してF1初優勝を達成。その後はコースによる得意不得意の差が出る事もあったが、後半戦で3勝を加えるなど、チームメイトであるヒルを猛追。[[1996年日本グランプリ (4輪)|最終戦日本GP]]までチャンピオン争いを繰り広げるが、前半戦での結果の差が響いて最終的にはヒルに次ぐランキング2位に終わった。
 
参戦2年目となる{{f1|1997}}には、ヒルの放出によりチームメイトに[[ハインツ・ハラルド・フレンツェン]]が加入。皮肉にも名実共にエースドライバーとなり、チャンピオン最有力候補に挙げられた。しかしチーフデザイナーだった[[エイドリアン・ニューウェイ]]がヒル放出劇に激怒<ref name="sportiva_suzuka1996_4">[https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/motorsports/motorsports/2018/08/21/_split_1996/index_4.php いぶし銀のデイモン・ヒル、1996年の鈴鹿でビルヌーブを退け初戴冠] Web Sportiva([[集英社]]) 2018年8月21日。</ref>、更にチーム株保有を巡る意見の不一致から、前年11月にウィリアムズを喧嘩別れの形で離脱する。その結果、ニューマシン[[ウィリアムズ・FW19|FW19]]の戦闘力が前年と比べて安定性を欠き、自身やチームの戦術のミスなども目立ち、タイトル争いは急速に戦力を上げた[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]のミハエル・シューマッハとの混戦模様となる。[[1997年日本グランプリ (4輪)|第16戦日本GP]]ではフリー走行中の黄旗無視により、過去の違反累積から「[[執行猶予]]付き1戦出場停止」の立場にあったため、レース後に失格処分を受け、1点差のランキング2位で[[1997年ヨーロッパグランプリ|最終戦ヨーロッパGP]]を迎える。スタートで先行したシューマッハを追い上げ、ヘアピンコーナーでインからオーバーテイクを試みる。これをブロックしたシューマッハと接触し、マシンにダメージを負いながらも3位で完走し、父ジルが果たせなかったF1ワールドチャンピオンの夢を実現した(接触後にリタイアしたシューマッハはシーズン後、[[国際自動車連盟]] (FIA) から選手権からの除外処分を受けた)。なお、シューマッハとはこの年、奇遇なことに一緒に表彰台に立つことはなかった。20172020年現在、非ヨーロッパ人のF1チャンピオンはこの年のヴィルヌーヴが最後である。前年のデイモン・ヒル、2016年の[[ニコ・ロズベルグ]]はそれぞれ親子2代でチャンピオンとなっているが、「2世ドライバーのチャンピオン」はジャックが2人目である。
 
{{f1|1998}}は、前年限りのルノーがワークス活動から撤退したことにより[[ウィリアムズ・FW20|FW20]]は1997年のルノーエンジンであるRS9をベースに改良したメカクロームエンジンを搭載したことや、1996年11月のニューウェイ離脱によるシャシーの戦闘力低下などによりウィリアムズはコンストラクターズ3位と前年の1位から低迷し、することになった。その結果ジャックは未勝利に終わり、表彰台もわずかに[[1998年ドイツグランプリ|第11戦ドイツGP]]、[[1998年ハンガリーグランプリ|第12戦ハンガリーGP]]で獲得した3位2回と、不本意な結果でシーズンを終えた。
 
=== B・A・R時代 ===
[[ファイル:Jacques Villeneuve 2001 Canada 2.jpg|thumb|left|220px|BAR時代のヴィルヌーヴ(2001年カナダGP)]]
{{f1|1999}}、マネージャーであるポロックが[[ブリティッシュ・アメリカン・タバコ]] (BAT) と[[レイナード]]と協力し、名門[[ティレル]]を買収して「[[B・A・R|ブリティッシュ・アメリカン・レーシング]](B・A・R)」を設立した。ジャックはB・A・Rに移籍したが、新参チームにありがちなトラブルが多発。予選では7回トップ10に食い込んだものの、開幕戦から11戦連続リタイアという不名誉な記録を残し、ベルギーGPではチームメイトの[[リカルド・ゾンタ]]共々オールージュで大クラッシュを演じたこともあった。この年の最高位は[[1999年イタリアグランプリ|イタリアGP]]の8位完走に終わり、ゾンタ共々この年は1ポイントも獲得できなかった。
 
{{f1|2000}}、B・A・Rはシャシーコンストラクターとしての参戦を見送った[[ホンダF1|ホンダ]]からエンジン提供を受け、昨年に比べるとマシン性能も飛躍的に向上した。トップチームを脅かすまでには至らなかったが、リタイアは4回と大幅に減少し、7回ポイントを獲得するなどの活躍を見せた。{{f1|2001}}にはチームに初表彰台をもたらすものの、優勝争いに絡むまでには至らなかった。
 
{{f1|2001}}には[[2001年スペイングランプリ|第5戦スペインGP]]で3位入賞してチームに初表彰台をもたらし、[[2001年ドイツグランプリ|第12戦ドイツグランプリ]]でも3位表彰台を獲得したが、優勝争いに絡むまでには至らず、それどころかシーズンを通しての入賞は4回に留まり、成績自体は前年よりも下がってしまった。2001年の11月にはポロックがB・A・Rのチーム代表を辞任し、代わって[[デビッド・リチャーズ]]が就任したことで、チームとの関係が悪化する。
その後B・A・Rのチーム代表がポロックから[[デビッド・リチャーズ]]に変わったことで、チームとの関係が悪化する。2003年にはチームの支持が新たにチームに加入したイギリス人の[[ジェンソン・バトン]]に移り、高給取りであるジャックに対する風当たりが強まった。[[2003年日本グランプリ (4輪)|最終戦日本GP]]直前にチームが翌年のレギュラーシートを[[佐藤琢磨]]に与えると発表すると、ジャックは急遽参戦を取り止め、そのままチームを去った。翌年に向けてルノーやザウバー、古巣ウィリアムズと交渉を持ったもののレギュラーシートは得られず、しばし浪人生活を送ることとなった。
 
[[2002年のF1世界選手権|2002年]]はさらに成績が落ち、入賞はわずか2回で4ポイントのみの獲得と不本意なシーズンに終わり、高給取りであるジャックに対する風当たりが強まっていく。シーズンオフにはCARTでも所属した[[フォーサイス・レーシング]]から3年5000万ドルでのオファーがあったが、ポラックがそれ以上の金額を要求したこともあって交渉は決裂となった。
 
[[2003年のF1世界選手権|2003年]]は若手イギリス人ドライバーの[[ジェンソン・バトン]]が新加入し、バトンが着実に結果を残していくとチームの支持がバトンに移り、[[2003年日本グランプリ (4輪)|最終戦日本GP]]直前にはチームが翌年のレギュラーシートを[[佐藤琢磨]]に与えると発表すると、ジャックは急遽参戦を取り止め、そのままチームを去った。翌年に向けてルノーやザウバー、かつての古巣ウィリアムズと交渉を持ったものの不調に終わり、しばしの浪人生活を送ることとなった。
 
=== F1からの離脱 ===
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{{f1|2005}}は、中堅[[ザウバー]]のレギュラーシートを獲得。しかし、本人曰くチームの資金不足もあって[[エンジンブレーキ]]の改善に苦戦し、若いチームメイトの[[フェリペ・マッサ]]にパフォーマンスで劣ることも少なくなく、最高位は[[2005年サンマリノグランプリ|サンマリノGP]]の4位だった。その後[[BMW]]へのチーム売却が決まると放出の噂が付きまとったが、BMWはヴィルヌーヴがザウバーと交わした2年契約を尊重したため、翌年も残留が叶った。
 
{{f1|2006}}シーズンは、第2戦で新生[[BMWザウバー]]に初のポイントをもたらし、予選でも速さを見せ存在感を示した。しかし、チームメイトの[[ニック・ハイドフェルド]]に対して決勝レースで遅れを取ることも少なくなく、[[2006年フランスグランプリ|第11戦フランスGP]]を終えた時点でハイドフェルトが入賞6回13ポイントを獲得していたのに対し、入賞4回7ポイントに留まっていた。[[2006年ドイツグランプリ|第12戦ドイツGP]]ではハイドフェルドと接触しリタイアとなり、レース後クラッシュの後遺症による次戦の欠場が発表された。その際にレース中のハイドフェルドとの接触を巡りチームと衝突したとの報道もあり、新鋭[[ロバート・クビサ]]にシートを譲る形で、8月にBMWザウバーから離脱した。このドイツグランプリが結果としてヴィルヌーヴのF1での最後のレースとなっている
 
=== 各種レースへの挑戦 ===
[[ファイル:Jacques Villeneuve 2008 NASCAR.jpg|thumb|left|200px|NASCAR・スプリントカップに参戦するヴィルヌーヴ(2008年)]]
 
F1離脱後は[[ドイツツーリングカー選手権]] (DTM) への参戦が噂されたが、2007年は[[プジョー]]と契約し、[[ル・マン24時間レース]]に出場した。インディ500、CARTインディカー・ワールド・シリーズ(CART)、F1に続く史上初の4冠達成が期待されたが、リタイアに終わった。
 
2007年シーズン終盤にはアメリカの[[ストックカー]]レースである[[NASCAR]]の[[スプリントカップ・シリーズ|ネクステルカップ]]シリーズおよび[[ネイションワイド・シリーズ|ブッシュシリーズ]]にビル・デイビス・レーシングから参戦したが、上位入賞は果たせなかった。
 
2008年は、長年のマネージャーであるグレイグ・ポロックと決別し、CARTインディカー時代の所属チームの監督でもあるバリー・グリーンと再スタートを切ることになった。しかしスポンサー関係のトラブルが明らかになり、ネクステルカップ開幕戦の[[デイトナ500]]で予選落ちした直後に、2008年シーズン無期限の欠場が所属チームから発表された。
 
[[ファイル:Jacques Villeneuve 22 2012 Road America Sargento 200.jpg|thumb|left|200px|NASCAR参戦中のヴィルヌーヴ(2012年)]]
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2009年以降、NASCARの[[スプリントカップ・シリーズ]]や[[ネイションワイド・シリーズ]]にスポット参戦し続けているが、フル参戦は実現していない。2011年には地元カナダのジル・ヴィルヌーヴ・サーキットにてポールポジションを獲得したが、クラッシュにより勝利を逃した。
 
その他には、オーストラリアの[[V8スーパーカー]]やアルゼンチンのトップレースV6シリーズにスポット参戦している。2012年より[[{{仮リンク2|i1スーパーカー・シリーズ]]|en|i1 Super Series}}へ参戦することが発表されたが、シリーズ開幕が2013年に延期となった<ref>"[httphttps://www.as-web.jp/newspast/info.php?c_id=5&no=38850i1%e3%82%b9%e3%83%bc%e3%83%91%e3%83%bc%e3%82%ab%e3%83%bc%e3%81%ae%e9%96%8b%e5%b9%95%e3%81%8c2013%e5%b9%b4%e3%81%be%e3%81%a7%e5%bb%b6%e6%9c%9f i1スーパーカーの開幕が2013年まで延期]". オートスポーツ.(2012年2月2日)2013年2月1日閲覧。</ref>。
 
また、2010年より氷上レースの[[{{仮リンク2|アンドロス・トロフィー]]|en|Andros Trophy}}に[[シュコダ]]から参戦。2012-2013シーズンには[[シトロエン]]から参戦し、第6戦で初優勝した。
 
2014年は19年ぶりにインディ500に参戦する。
 
2015年は[[ヴェンチュリー]]と契約し[[フォーミュラE]]に参戦。しかしクラッシュによるリタイアなどが原因でチームとの関係が悪化、第4戦を前に契約を解除した。
 
2023年は52歳ながら[[コデワ]]から[[WEC]]([[世界耐久選手権]])の[[LMハイパーカー]]である[[ヴァンウォール・ヴァンダーヴェル 680]]をドライブするが、[[ル・マン24時間レース]]を目前に突如解雇された。ヴィルヌーヴには直接の通知はなく、娘の出産に立ち会うタイミングで公式リリースを知ったという<ref>[https://www.as-web.jp/sports-car/947693 ル・マン前に事実上“クビ”のジャック・ビルヌーブ、チームに失望「不当かつ恣意的に機会が奪われた」]</ref>。
 
=== F1への復帰をうかがう ===
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2010年には[[ステファンGP]]より参戦が噂されそのシートの獲得が濃厚となった。ただし、ステファンGPは正式な参戦権を承認されておらず、このF1復帰に関しては流動的であった。マシンも完成し、シート合わせも完了していたが、最終的にはFIAにチームの参戦が認められなかった<ref>"[http://f1-gate.com/villeneuve/f1_6678.html F1 Gate.com ジャック・ヴィルヌーヴ、2010年レースシートに空席ができるのを待つ]". F1-Gate.com.(2010年3月5日)2017年4月4日閲覧。</ref>。
 
その後、元[[GP2]]チームのデュランゴと提携し、「ヴィルヌーヴ・レーシング」として2011年の新規参戦チームにエントリーした<ref>"[http://f1-gate.com/villeneuve/f1_8409.html デュランゴ、ヴィルヌーヴ・レーシングとの提携を認める]". F1-Gate.com.(2010年7月18日)2017年4月11日閲覧。</ref>(スピードカーにはデュランゴから参戦していた)。[[US F1 Team|US F1]]の消滅で開いた13番目のチーム枠を[[エプシロン・ユースカディ]]との間で争ったが、最終的にFIAは新チームを採用しないと発表した<ref>"[http://f1-gate.com/fia/f1_9058.html FIA、2011年の新規F1チームを採用しないことに決定 ]". F1-Gate.com.(2010年9月9日)2013年2月1日閲覧。</ref>。その後、参戦権を持つ既存のF1チームを買収する方向に転換したが<ref>"[http://ja.espnf1.com/f1/motorsport/story/28474.html ビルヌーブの標的はHRTとヴァージン]". ESPN F1.(20年9月15日)2013年2月1日閲覧。</ref>、2010年10月末に「F1参戦を断念し、NASCARに集中する」と語った<ref>"[httphttps://www.as-web.jp/newspast/info.php?c_id=1&no=30161%e3%83%93%e3%83%ab%e3%83%8c%e3%83%bc%e3%83%96%e3%80%81f1%e5%8f%82%e6%88%a6%e3%82%92%e6%96%ad%e5%bf%b5%e3%80%82nascar%e3%81%ab%e9%9b%86%e4%b8%ad ビルヌーブ、F1参戦を断念。NASCARに集中]". オートスポーツ.(2010年10月29日)2013年2月1日閲覧。</ref>。
 
2013年より、有料テレビ局である[[スカイ・イタリア]]や[[カナル+]]と契約し、テレビ解説者としてF1に関与している。
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* 歯に衣着せぬ発言で物議を醸すことが多く、チームメイトへの辛辣な批評をすることもあった。同時期に参戦していた友人エディ・アーバインと並んで、優等生的な現代ドライバーの中では異端児的存在である。とりわけミハエル・シューマッハへの舌鋒は鋭く、そのドライビングマナーを度々攻撃している。2006年10月にはイギリスの[[インデペンデント]]紙において、[[アイルトン・セナ]]、[[アラン・プロスト]]、[[ナイジェル・マンセル]]は長く人々の記憶に残る英雄だが、シューマッハはただのレーサーでしかなく、ヘルメットを脱いだらすぐ忘れ去られてしまうだろうと述べた<ref>[http://www.independent.co.uk/sport/motor-racing/hero-or-villain-schumacher-reaches-the-end-of-the-road-421005.html Hero or villain? Schumacher reaches the end of the road]</ref>(ただその後両者は和解しており、{{f1|2010}}にシューマッハがF1に現役復帰した際にはシューマッハを称賛するコメントも度々していた<ref>http://ja.espnf1.com/f1/motorsport/story/36449.html</ref>)。また2017年にヴィルヌーヴがチャンピオンを獲得したウィリアムズでデビューした同郷の後輩ドライバー、[[ランス・ストロール]]に対して「F1史上最悪のルーキー」と酷評しており、ウィリアムズからチームのホスピタリティへの立ち入りが禁止されるほどの批判を繰り返している<ref>https://f1-gate.com/williams/f1_37676.html</ref>。また{{f1|2018}}に[[ザウバー]]からデビュー後に評価を上げた[[シャルル・ルクレール (レーシングドライバー)|シャルル・ルクレール]]が[[キミ・ライコネン]]に代わってフェラーリの正ドライバーに昇格する報道が流れた<ref>[https://f1-gate.com/ferrari/f1_43166.html フェラーリ、2019年にライコネンに代えてルクレール起用を決断?] F1-Gate 2018年6月22日、同7月2日閲覧。</ref>ことに対し、「フェラーリの来季ルクレール起用は時期尚早、ライコネンの力はまだ必要とされる」「僕ならルクレールの昇格を1年待たせる」と言う見解を示している<ref>[http://f1sokuho.mopita.com/pc/free/index.php?uid=NULLGWDOCOMO&pass=&page=news/sp/body&no=121560&tt=-1&at=90 「ルクレールの来季フェラーリF1昇格は双方にとってリスキー」とビルヌーブが主張] F1速報 2018年7月4日、同7月9日閲覧。</ref>。
* 記者会見の席上、所属チーム名に冠スポンサー名をつけて表現する(例:ロスマンズ・ウィリアムズ・ルノー)ことを常としており、またシーズンオフのスキーの際にはスポンサーロゴの入ったウェアを着用するなどサービスを忘れなかった。
* [[1997年カナダグランプリ|1997年カナダGP]]で起きた[[オリビエ・パニス]]の大事故について、骨折して戦線離脱を余儀なくされたパニスに関係者・ドライバーらが同情の声を送る中、「(骨折は)[[スキー]]ではよくあること」と発言している。
* 交友関係としては、上記のデイモン・ヒルやミカ・サロ、エディ・アーバインのほかに、[[デビッド・クルサード]]や[[オリビエ・パニス]]などと仲が良い。一方で[[ファン・パブロ・モントーヤ]]とは2001年のF1初対面の時から仲が悪く、この年の[[{{仮リンク2|2001年カナダグランプリ|en|2001 Canadian Grand Prix|label=カナダGP]]}}ではモントーヤが「お前は[[2001年オーストラリアGPグランプリ|オーストラリア]]でマーシャルを殺したな!(同年の同GPでクラッシュしたヴィルヌーヴのマシンがマーシャルを巻き込む死亡事故を起こした一件から)」と暴言を吐いたため、レース前のミーティング時に掴み合いの喧嘩まで発展している。ただ2019年現在はモントーヤとの関係も改善しており、F1のパドックで普通に談笑する仲である<ref name=as190815>[https://www.as-web.jp/f1/512504?all 【あなたは何しに?】ヨーロッパに足を運んだモントーヤ。犬猿の仲から一転、あのドライバーと談笑] - オートスポーツ・2019年8月15日</ref>。
* 着崩したカジュアルファッションを好み、ウィリアムズの[[パトリック・ヘッド]]はそのセンスを「ハイ・[[グランジ・ファッション|グランジ]]」と呼んだ。レーシングスーツもサイズの大きいダボダボしたものを着用している(耐火安全性の観点からはフィットしたスーツよりも、ダボダボが推奨されている。このチョイスはむしろ高い職業・安全意識に由来するものであり、むしろルックスを安全性より優先させている他のドライバー達への啓蒙・警鐘という説もある)。
* 趣味のひとつに音楽があり、2006年にCDデビューもしている。
* 知的な面があり、小説や詩を好み、パソコンマニア、ゲームマニアの顔も持つ[[おたく|オタク]]である。F1参戦時はゲームでコースを覚えたと言って周囲の失笑を買った。しかしながら、現実に、デビュー戦の[[アルバート・パーク・サーキット|メルボルン]]ほか、難コースの[[スパ・フランコルシャン]]など、「ゲームでしか走ったことのなかった」コースでポール・ポジションやファステスト・ラップを記録してみせた。これも2000年代に入る頃になると、新コースが増え、またレギュレーションの変更でフリー走行時に多く周回を重ねられない事もあってか、ゲームを含むコンピュータ上でのシミュレーションで事前にコースに慣れるドライバーは多くなっている。
* 何かと話題になった頭髪については、F1デビュー前後から薄毛が目立つようになった(全日本F3時代には豊かな長髪を後ろで縛るヘアスタイルだった)。[[1996年日本グランプリ (4輪)|1996年の最終戦日本GP]]後には、友人のミカ・サロ、[[デビッド・クルサード]]と共にスキンヘッドになり周囲を驚かせた。以後も「毛根を痛める」と言われながらも、髪をブロンドや紫色に染める事を繰り返した。父ジルがその晩年、周囲からは全然減っていないと言われていたにもかかわらず、しきりと脱毛を気にしていたエピソードとは好対照をなす。
* [[近視]]のため、ふだんは眼鏡をかけ、レースの時はスポーツ用のソフトコンタクトレンズを着けていた。レーサーは目が良いものという固定観念から、アメリカ、あるいはF1デビュー時にはたびたび眼鏡についてインタビューで指摘され、そのたびに「レーサーにとって重要なのは[[視力]]そのものよりも[[動体視力]]である」と答えている{{要出典|date=2008年3月}}。ジャックの視力の悪さが非難された時、他のF1レーサーが実は自分もコンタクトレンズを着けていると告白したこともあった{{要出典|date=2008年3月}}。父ジル・ヴィルヌーヴが近眼だった<ref>ジェラルド・ドナルドソン「ジル・ヴィルヌーヴ 流れ星の伝説」豊岡真美/坂野なるたか/森岡成憲訳、ソニーマガジンズ社第6刷、235頁参照。ジルは文字を読むとき眼鏡を使用することもあったが、そのことを他人に知られるのを嫌っていた。</ref>が、前述したようにゲームマニアであることも知られているため、全日本F3選手権に参戦中の1992年に[[ゲームボーイ]]のやり過ぎで視力が悪くなったという噂が絶えない。父のジルも自らの視力の低さを動体視力を鍛えて補うという方法論を実行していた{{要出典|date=2008年3月}}。なお、CART時代は、眼鏡を着用してレースに参戦していたこともあったが、ブリックヤードやロードコースの路面の振動で眼鏡がブレて危険を感じたので{{要出典|date=2008年3月}}、実際はF1にやってきた頃は、既にレースではコンタクトレンズを使用していた。
* [[1997年ヨーロッパグランプリ|1997年のヨーロッパGP]]、[[ミハエル・シューマッハ]]との接触後、シューマッハのリタイアで6位以内入賞でチャンピオンが決定するジャックは、クルマの状態を心配して様子を窺いながら走行した。その後、フロントタイヤのブリスターに悩まされたジャックは、[[マクラーレン]]の[[ミカ・ハッキネン]]に1周およそ1秒のペースで追い上げられ、最終ラップで抜かれた。ジャックが3位でチェッカーを受けてパルクフェルメにマシンを止めた後、真っ先に駆け寄って来たのは、家族でもチーム関係者でもなく、マクラーレンのチーム代表である[[ロン・デニス]]であった{{要出典|date=2008年7月}}。
* 何かと話題になった頭髪については、F1デビュー前後から薄毛が目立つようになった(全日本F3時代には豊かな長髪を後ろで縛るヘアスタイルだった)。1996年の最終戦日本GP後には、友人のミカ・サロ、[[デビッド・クルサード]]と共にスキンヘッドになり周囲を驚かせた。以後も「毛根を痛める」と言われながらも、髪をブロンドや紫色に染める事を繰り返した。父ジルがその晩年、周囲からは全然減っていないと言われていたにもかかわらず、しきりと脱毛を気にしていたエピソードとは好対照をなす。
* 1997年のヨーロッパGP、[[ミハエル・シューマッハ]]との接触後、シューマッハのリタイアで6位以内入賞でチャンピオンが決定するジャックは、クルマの状態を心配して様子を窺いながら走行した。その後、フロントタイヤのブリスターに悩まされたジャックは、[[マクラーレン]]の[[ミカ・ハッキネン]]に1周およそ1秒のペースで追い上げられ、最終ラップで抜かれた。ジャックが3位でチェッカーを受けてパルクフェルメにマシンを止めた後、真っ先に駆け寄って来たのは、家族でもチーム関係者でもなく、マクラーレンのチーム代表である[[ロン・デニス]]であった{{要出典|date=2008年7月}}。
* 自身の父親の名を冠したジル・ヴィルヌーヴ・サーキットでの成績は、上述の通り北米フォーミュラで優勝を遂げてはいるものの、一方でF1では参戦初年度の1996年に獲得した2位が最高であり、それ以降はトラブルやリタイヤなどにより良い成績を残せておらず、当該サーキットとの相性はあまり良くない。
* ピットイン中にウィングの角度調整する機能を、F1で最初にチームにリクエストし採り入れさせたのはジャックである。<!--F1雑誌「GPX」の96年アルゼンチンGP前後の号に記載あり-->(採り入れられたのは[[{{仮リンク2|1996年アルゼンチングランプリ|en|1996 Argentine Grand Prix|label=1996年アルゼンチンGP]]}}の前後)。この機能は前年まで参戦していたCARTインディカーでは既に常識となっていたものである。
* 2010年[[バンクーバーオリンピック]]開会式にて、オリンピック旗を掲揚する際の旗手を務めた。
 
137 ⟶ 142行目:
思い切りの良いドライビングをよく見せ、深いブレーキを見せることもたびたびである。ただしこのブレーキングスタイルが電気系統を重視した現代のF1と相性が悪かったとされ、2005年移籍後のザウバー時代には「ブレーキング時、電気が勝手に運転している感じで、マシンの挙動が自分の体で感じられない」 とコメントを残している。
 
{{仮リンク2|1996年の[[ポルトガルグランプリ|en|1996 Portuguese Grand Prix|label=1996年のポルトガルGP]]}}では、高速の最終コーナーでフェラーリのミハエル・シューマッハを外側から被せ、並走して追い抜くという大胆なパフォーマンスを見せた。IRLインディカーで培った技術にも定評があり、ベルギーGPやイタリアGPのような高速サーキットやブラジルGPのような左回りのサーキットも得意としていた。一方で[[モナコグランプリ|モナコGP]]や雨中のレースは苦手としていた。
 
[[フラビオ・ブリアトーレ]]は、ヴィルヌーヴのことを「[[ファン・パブロ・モントーヤ]]と共に最後のF1のスターであった」と2006年シーズン終盤に評価した<ref>[http://www.autosport.com/news/report.php/id/54354-- Briatore: Schumacher lacks star appeal], autosport.com, September 9th 2006.</ref>(奇しくも2人ともシーズン中にF1から離脱)。また、[[バーニー・エクレストン]]は「もし、ビルヌーブ(元BMWザウバー)がいいマシンに乗り続けていたら・・・。もし、ミカ(ハッキネン)が現役を続けていたら・・・。(シューマッハが)支配してきたようになったかどうかは、誰にも分からないだろうね<ref>[http://f1.racing-live.com/f1/jp/headlines/news/detail/061021182942.shtml/ エクレストン、シューマッハに苦言]、F1-Live.com、2006年10月22日。</ref>」とも語った。
148 ⟶ 153行目:
2006年にフランス人のジョアンナ・マルチネスと結婚。直後の[[2006年イギリスグランプリ|イギリスGP]]では[[BMWザウバー]]チームが"Just Married"(新婚)と書かれた特製リアウィングをマシンに装着した<ref>"[http://www.f1technical.net/news/3209 Special rear wing for JV]". F1 Technical. 2013年2月1日閲覧。</ref>。その後2児を授かったが、2009年に離婚<ref>"[http://f1-gate.com/villeneuve/f1_4442.html ジャック・ヴィルヌーヴ離婚 F1復帰へ意欲]". F1-Gate.com.(2009年8月15日)2013年2月1日閲覧。</ref>。2012年に[[ブラジル人]]のカミーラ・ロペスと再婚した。なお、かつては歌手[[ダニー・ミノーグ]]([[カイリー・ミノーグ]]の妹)と交際し、婚約もしていた<ref>"[http://celebrity.glam.jp/2011/08/04/%E3%83%80%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%80%81%E5%AD%90%E4%BE%9B%E3%81%8C%E7%94%9F%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%9F%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E3%81%AB%E7%B5%90%E5%A9%9A%E3%82%82/ ダニー・ミノーグ、子供が生まれた幸福に結婚も考えられるようになった!?]". セレブリティニュース. 2013年2月1日閲覧。</ref>。
 
ヴィルヌーヴ家は父ジル、母ジョアン両親、ジャック、妹メラニーという家族構成で、幼少期には家族と共にキャンピングカーでサーキットを転戦していた。父ジルについて聞かれるたびに「幼い頃に亡くなったのであまり思い出がない」と答えており、同様な境遇である盟友デイモンが父[[グラハム・ヒル|グラハム]]の思慕の情を素直に語っているのとは対照的に多くを語ろうとはしなかった。しかし、近年では父にまつわる行事に参加するなど、心境の変化を感じさせている。2004年のクラシックカーイベント、[[グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピード]]では、父が[[{{F1|1978年]]}}に乗った[[フェラーリ・312T#312T3|フェラーリ312T3]]を、父と同じデザインの赤いヘルメットを被って運転した。2006年には父のセレモニーにもフェラーリ関係者と共に参加。ミュージシャンとしてのデビューアルバム「Private Paradise」には、メラニーとの共作で「Father」という一曲を収めている。没後30周年となる2012年には、フェラーリのテストコース、[[フィオラノ・サーキット]]で[[フェラーリ・312T#312T4|フェラーリ312T4]]をドライブした<ref>"[http://f1-gate.com/villeneuve/f1_15210.html ジャック・ヴィルヌーヴ、父親ジルのフェラーリ 312T4をドライブ]". F1-Gate.com.(2012年5月9日)2013年2月1日閲覧。</ref>。
 
前述の通り母ジョアンは幼い息子をレースから遠ざけようとしたが、ジャック自らがレーサーの道を選んだことについて「ヴィルヌーヴ家の運命」と悟り、後にその活動を応援するようになった。
 
ちなみに、F1ドライバーとしての「ジャック・ヴィルヌーヴ」は、ジルの3歳下の弟ジャック叔父が「初代」である<ref>1981年に[[アロウズ]]から、1983年に[[RAM (F1)|RAM]]からスポット参戦したが、予選落ちなどF1では成功できなかったドライバー</ref>。後に甥のジャック自身がレースデビューしたため、叔父の彼は'''[[ジャック・ヴィルヌーヴSr.]]'''(-シニア)と表記されるようになった。
 
なお、ジャックが誕生した当初、ジルは名前を決めかねていた。しかし、妻ジョアンに弟(ジャック・ヴィルヌーヴSr.)の話題をしている時に赤ん坊が笑い出したため、弟と同じ名前にすることを決めたと言われている。
 
== 経歴年表 ==
* 1989年 [[イタリア]][[フォーミュラ3選手権|イタリアF3選手権]] 参戦
* 1990年 イタリアF3選手権(チーム:Prema Racing)(マシン:レイナード903アルファロメオ)シリーズ 13位
* 1991年 イタリアF3選手権(チーム:Prema Racing)(マシン:レイナード913&ラルトRT35アルファロメオ)シリーズ6位
* 1992年 全日本F3選手権参戦(チーム:トムス)(マシン:トムス032Fトヨタ)3勝 シリーズ2位
* 1993年 フォーミュラアトランテック参戦(マシン:ラルトRT40トヨタ)2勝 シリーズ3位,ルーキーオブザイヤー獲得
* 1994年 CARTインディカー・ワールド・シリーズ参戦(チーム:フォーサイス-グリーン(Forsythe-Green))(マシン:レイナード94Iフォード)1勝 シリーズ6位,[[インディ500]]総合2位
* 1995年 CARTインディカー・ワールド・シリーズ(チーム:フォーサイス-グリーン)(マシン:レイナード95Iフォード)3勝 シリーズチャンピオン,インディ500総合優勝,F1テストドライブ ウィリアムズのテストに参加する
 
== レース戦績 ==
=== イタリア・フォーミュラ3選手権 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%"
! 年
! チーム
! エンジン
! 1
! 2
! 3
! 4
! 5
! 6
! 7
! 8
! 9
! 10
! 11
! 12
! 順位
! ポイント
|-
! [[1989年のイタリア・フォーミュラ3選手権|1989年]]
! rowspan="3" | [[プレマ・レーシング]]
! rowspan="3" | [[アルファロメオ]]
| bgcolor="#FFCFCF" | [[ACI・ヴァレルンガ・サーキット|VLL]]<br><small>DNQ</small>
| bgcolor="#FFCFCF" | [[アウトドローモ・デル・ウンブリア|MAG]]<br /><small>DNQ</small>
| bgcolor="#FFCFCF" | [[アウトドローモ・リカルド・パレッティ|VAR]]<br /><small>DNQ</small>
| bgcolor="#CFCFFF" | [[エンナ・ペルグーサ|PER]]<br /><small>10</small>
| bgcolor="#EFCFFF" | [[モンツァ・サーキット|MNZ]]<br /><small>Ret</small>
| bgcolor="#FFCFCF" | [[ACI・ヴァレルンガ・サーキット|VLL]]<br /><small>DNQ</small>
| bgcolor="#FFCFCF" | [[ミサノ・ワールド・サーキット・マルコ・シモンチェリ|MIS]]<br /><small>DNQ</small>
| bgcolor="#CFCFFF" | [[ミサノ・ワールド・サーキット・マルコ・シモンチェリ|MIS]]<br /><small>19</small>
| bgcolor="#EFCFFF" | [[モンツァ・サーキット|MNZ]]<br /><small>Ret</small>
| bgcolor="#CFCFFF" | [[イモラ・サーキット|IMO]]<br /><small>16</small>
| bgcolor="#EFCFFF" | [[ACI・ヴァレルンガ・サーキット|VLL]]<br><small>Ret</small>
|
! NC
! 0
|-
! [[1990年のイタリア・フォーミュラ3選手権|1990年]]
| bgcolor="#EFCFFF" | [[ACI・ヴァレルンガ・サーキット|VLL]]<br><small>Ret</small>
| bgcolor="#DFFFDF" | [[エンナ・ペルグーサ|PER]]<br /><small>6</small>
| bgcolor="#CFCFFF" | [[アウトドローモ・デル・ウンブリア|MAG]]<br /><small>8</small>
| bgcolor="#EFCFFF" | [[アウトドローモ・リカルド・パレッティ|VAR]]<br /><small>Ret</small>
| bgcolor="#DFFFDF" | [[イモラ・サーキット|''IMO'']]<br /><small>5</small>
| bgcolor="#EFCFFF" | [[モンツァ・サーキット|MNZ]]<br /><small>Ret</small>
| bgcolor="#DFDFDF" | [[アウトドローモ・デル・ビネット|BIN]]<br /><small>2</small>
| bgcolor="#EFCFFF" | [[ミサノ・ワールド・サーキット・マルコ・シモンチェリ|MIS]]<br /><small>Ret</small>
| bgcolor="#EFCFFF" | [[モンツァ・サーキット|MNZ]]<br /><small>Ret</small>
| bgcolor="#CFCFFF" | [[アウトドローモ・リカルド・パレッティ|VAR]]<br /><small>10</small>
| [[ACI・ヴァレルンガ・サーキット|VLL]]
| bgcolor="#CFCFFF" | [[ACI・ヴァレルンガ・サーキット|''VLL'']]<br><small>14</small>
! 14位
! 10
|-
! [[1991年のイタリア・フォーミュラ3選手権|1991年]]
| bgcolor="#EFCFFF" | [[ミサノ・ワールド・サーキット・マルコ・シモンチェリ|MIS]]<br /><small>Ret</small>
| bgcolor="#EFCFFF" | [[アウトドローモ・デル・ビネット|BIN]]<br /><small>Ret</small>
| bgcolor="#CFCFFF" | [[エンナ・ペルグーサ|PER]]<br /><small>8</small>
| bgcolor="#EFCFFF" | [[ACI・ヴァレルンガ・サーキット|VLL]]<br><small>Ret</small>
| bgcolor="#DFFFDF" | [[アウトドローモ・デル・ウンブリア|MAG]]<br /><small>4</small>
| bgcolor="#DFFFDF" | [[イモラ・サーキット|'''IMO''']]<br /><small>4</small>
| [[アウトドローモ・リカルド・パレッティ|VAR]]
| bgcolor="#DFDFDF" | [[モンツァ・サーキット|'''MNZ''']]<br /><small>2</small>
| bgcolor="#CFCFFF"| [[ムジェロ・サーキット|MUG]]<br /><small>24</small>
| bgcolor="#FFDF9F" | [[モンツァ・サーキット|'''MNZ''']]<br /><small>3</small>
| bgcolor="#EFCFFF"| [[ムジェロ・サーキット|MUG]]<br /><small>Ret</small>
| bgcolor="#FFDF9F" | [[ACI・ヴァレルンガ・サーキット|VLL]]<br><small>3</small>
! 6位
! 20
|}
* '''太字'''は[[ポールポジション]]、''斜字''は[[ファステストラップ]]。([[:Template:Motorsport driver results legend|key]])
 
=== 全日本フォーミュラ3選手権 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%"
187 ⟶ 264行目:
! [[トムス|ITOHAM RACING with TOM'S]]
! [[トヨタ]]
| bgcolor="#DFFFDFdfffdf" | [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>6</small>
| bgcolor="#DFFFDFdfffdf" | [[筑波サーキット|TSU]]<br /><small>4</small>
| bgcolor="#FFDF9Fffdf9f" | [[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>3</small>
| bgcolor="#FFDF9Fffdf9f" | [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>3</small>
| bgcolor="#FFFFBFffffbf" | [[仙台ハイランド|SEN]]<br /><small>1</small>
| bgcolor="#FFDF9Fffdf9f" | [[岡山国際サーキット|TAI]]<br /><small>3</small>
| bgcolor="#FFFFBFffffbf" | [[MINEサーキット|MIN]]<br /><small>1</small>
| bgcolor="#DFFFDFdfffdf" | [[スポーツランドSUGO|SUG]]<br /><small>4</small>
| bgcolor="#DFDFDFdfdfdf" | '''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]'''<br /><small>2</small>
| bgcolor="#FFFFBFffffbf" | '''''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]'''''<br /><small>1</small>
| bgcolor="#DFDFDFdfdfdf" | '''2位'''
| bgcolor="#DFDFDFdfdfdf" | '''45'''
|}
([[:Template:Motorsport driver results legend|key]])
268 ⟶ 345行目:
* '''太字'''は[[ポールポジション]]、''斜字''は[[ファステストラップ]]。([[w:en:Template:American Open Wheel driver results legend|key]])
 
==== インディカー・ワールド・シリーズ(CART) ====
==== CART ====
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%"
! 年
411 ⟶ 488行目:
|rowspan="2"| [[フォード・モーター|フォード]]・[[コスワース]]
|align=center| 4
| align="center" bgcolor="#DFDFDFdfdfdf" | 2
| [[アンドレッティ・オートスポーツ|フォーサイス・グリーン・レーシング]]
|-
! [[1995年のインディ500|1995年]]
|align=center| 5
| align="center" bgcolor="#FFFFBFffffbf" | '''1'''
| [[アンドレッティ・オートスポーツ|チーム・グリーン]]
|-
423 ⟶ 500行目:
| [[ホンダ]]
|align=center| 27
| align="center" bgcolor="#CFCFFFcfcfff" | 14
| [[シュミット・ピーターソン・モータースポーツ]]
|}
531 ⟶ 608行目:
! [[1999年のF1世界選手権|1999年]]
!rowspan="5"| [[B・A・R]]
! [[B・A・R 00101|00101]]
 
| bgcolor="#efcfff" | [[1999年オーストラリアグランプリ|AUS]]<br /><small>Ret</small>
761 ⟶ 838行目:
| LMP1
| 381
| bgcolor="#DFDFDFdfdfdf" | '''2位'''
| bgcolor="#DFDFDFdfdfdf" | '''2位'''
|}
 
816 ⟶ 893行目:
{{Commons|Jacques Villeneuve}}
* [http://www.jv-world.com/ ジャック・ヴィルヌーヴ公式ウェブサイト]
* [httphttps://www.myspace.com/jvofficial The official music website for Jacques Villeneuve]
* [https://web.archive.org/web/20140304012839/http://www.f1db.com/f1/page/Jacques_Villeneuve Jacques Villeneuve Profile and Statistics]
* [http://www.driverdb.com/racingdriver383.html Villeneuve career statistics]
829 ⟶ 906行目:
{{先代次代|[[F1ドライバーズチャンピオンの一覧|F1ドライバーズチャンピオン]]|1997年|[[デイモン・ヒル]]|[[ミカ・ハッキネン]]}}
{{F1ドライバーズチャンピオン}}
{{チャンプカー・ワールド・シリーズのチャンピオン}}
{{アンドレッティ・オートスポーツ}}
{{ウィリアムズ}}
{{B・A・R}}
834 ⟶ 913行目:
{{ザウバー}}
{{BMWザウバーF1}}
{{Normdaten}}
 
{{DEFAULTSORT:ういるぬうう しやつく}}
[[Category:カナダのF1ドライバー]]
[[Category:ウィリアムズのF1ドライバー]]
[[Category:B・A・RのF1ドライバー]]
[[Category:ルノーのF1ドライバー]]
[[Category:ザウバーのF1ドライバー]]
[[Category:BMWザウバーのF1ドライバー]]
[[Category:インディカーのドライバー]]
[[Category:NASCARのドライバー]]
846 ⟶ 927行目:
[[Category:フォーミュラEのドライバー]]
[[Category:全日本F3選手権のドライバー]]
[[Category:マカオグランプリのドライバー]]
[[Category:ヨーロピアン・ル・マン・シリーズのドライバー]]
[[Category:FIA 世界耐久選手権のドライバー]]
[[Category:全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権のドライバー]]
[[Category:ストックカー・ブラジルのドライバー]]
[[Category:ル・マン24時間レースのドライバー]]
[[Category:スパ24時間レースのドライバー]]
[[Category:ケベック国家勲章受章者]]
[[Category:フランス系カナダ人]]
[[Category:1971年生]]