「ジャック・ヴィルヌーヴ」の版間の差分

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=== F1デビューから王者へ ===
[[ファイル:Jacques Villeneuve 1996.jpg|right|thumb|230px|1996年 カナダGP]]
[[バーニー・エクレストン]]の後押しもあり、{{f1|1996}}からF1に転向。当時屈指の強豪であった[[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]]・[[ルノーF1|ルノー]]から参戦を開始し、初年度からその才能を遺憾なく発揮する。デビュー戦となった開幕戦[[1996年オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]]では、史上3人目となるデビュー戦での[[ポールポジション]]獲得<ref>「全員がデビュー戦」であったF1世界選手権開幕戦([[1950年イギリスグランプリ|1950年イギリスGP]])で獲得した[[ジュゼッペ・ファリーナ]]を除外した場合。[[マリオ・アンドレッティ]]と[[カルロス・ロイテマン]]に続く3人目、24年ぶり。</ref>という偉業を達成。決勝でも[[ファステストラップ]]を記録しながら残り5周までトップを快走し、史上初<ref>こちらも「全員がデビュー戦」であった1950年イギリスGPで獲得した[[ジュゼッペ・ファリーナ]]を除外した場合。</ref>のデビュー戦[[ポール・トゥ・ウィン]]およびハットトリックを達成するかと思われたが、レース終盤に発生したオイル漏れによりペースダウンを余儀なくされ(後ろにつけていたチームメイトの[[デイモン・ヒル]]は「ジャックのファッションセンスは大雑把に見えるが、レース運びも似たようなものがあるんだ。レース中にコースアウトした際にどこかをぶつけたようで、オイル漏れが発生したように見えた」と分析している<ref>[https://www.as-web.jp/f1/530658/2 1996年のF1王者デイモン・ヒルに聞くウイリアムズFW18。「少しも複雑じゃないところが最大の美徳」] auto sport web 2019年10月10日、同28日閲覧。</ref>。)、惜しくも2位に終わる。[[1996年ヨーロッパグランプリ|第4戦ヨーロッパGP]]では、前年王者の[[ミハエル・シューマッハ]]との接近戦を制してF1初優勝を達成。その後はコースによる得意不得意の差が出る事もあったが、後半戦で3勝を加えるなど、チームメイトであるヒルを猛追。[[1996年日本グランプリ (4輪)|最終戦日本GP]]までチャンピオン争いを繰り広げるが、前半戦での結果の差が響いて最終的にはヒルに次ぐランキング2位に終わった。
 
参戦2年目となる{{f1|1997}}には、ヒルの放出によりチームメイトに[[ハインツ・ハラルド・フレンツェン]]が加入。皮肉にも名実共にエースドライバーとなり、チャンピオン最有力候補に挙げられた。しかしチーフデザイナーだった[[エイドリアン・ニューウェイ]]がヒル放出劇に激怒<ref name="sportiva_suzuka1996_4">[https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/motorsports/motorsports/2018/08/21/_split_1996/index_4.php いぶし銀のデイモン・ヒル、1996年の鈴鹿でビルヌーブを退け初戴冠] Web Sportiva([[集英社]]) 2018年8月21日。</ref>、更にチーム株保有を巡る意見の不一致から、前年11月にウィリアムズを喧嘩別れの形で離脱する。その結果、ニューマシン[[ウィリアムズ・FW19|FW19]]の戦闘力が前年と比べて安定性を欠き、自身やチームの戦術のミスなども目立ち、タイトル争いは急速に戦力を上げた[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]のミハエル・シューマッハとの混戦模様となる。[[1997年日本グランプリ (4輪)|第16戦日本GP]]ではフリー走行中の黄旗無視により、過去の違反累積から「[[執行猶予]]付き1戦出場停止」の立場にあったため、レース後に失格処分を受け、1点差のランキング2位で[[1997年ヨーロッパグランプリ|最終戦ヨーロッパGP]]を迎える。スタートで先行したシューマッハを追い上げ、ヘアピンコーナーでインからオーバーテイクを試みる。これをブロックしたシューマッハと接触し、マシンにダメージを負いながらも3位で完走し、父ジルが果たせなかったF1ワールドチャンピオンの夢を実現した(接触後にリタイアしたシューマッハはシーズン後、[[国際自動車連盟]] (FIA) から選手権からの除外処分を受けた)。なお、シューマッハとはこの年、奇遇なことに一緒に表彰台に立つことはなかった。2020年現在、非ヨーロッパ人のF1チャンピオンはこの年のヴィルヌーヴが最後である。前年のデイモン・ヒル、2016年の[[ニコ・ロズベルグ]]はそれぞれ親子2代でチャンピオンとなっているが、「2世ドライバーのチャンピオン」はジャックが2人目である。
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{{f1|2001}}には[[2001年スペイングランプリ|第5戦スペインGP]]で3位入賞してチームに初表彰台をもたらし、[[2001年ドイツグランプリ|第12戦ドイツグランプリ]]でも3位表彰台を獲得したが、優勝争いに絡むまでには至らず、それどころかシーズンを通しての入賞は4回に留まり、成績自体は前年よりも下がってしまった。2001年の11月にはポロックがB・A・Rのチーム代表を辞任し、代わって[[デビッド・リチャーズ]]が就任したことで、チームとの関係が悪化する。
 
[[2002年のF1世界選手権|2002年]]はさらに成績が落ち、入賞はわずか2回で4ポイントのみの獲得と不本意なシーズンに終わり、高給取りであるジャックに対する風当たりが強まっていく。シーズンオフにはCARTでも所属した[[フォーサイス・レーシング]]から3年5000万ドルでのオファーがあったが、ポラックがそれ以上の金額を要求したこともあって交渉は決裂となった
 
[[2003年のF1世界選手権|2003年]]は若手イギリス人ドライバーの[[ジェンソン・バトン]]が新加入し、バトンが着実に結果を残していくとチームの支持がバトンに移り、[[2003年日本グランプリ (4輪)|最終戦日本GP]]直前にはチームが翌年のレギュラーシートを[[佐藤琢磨]]に与えると発表すると、ジャックは急遽参戦を取り止め、そのままチームを去った。翌年に向けてルノーやザウバー、かつての古巣ウィリアムズと交渉を持ったものの不調に終わり、しばしの浪人生活を送ることとなった。
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2009年以降、NASCARの[[スプリントカップ・シリーズ]]や[[ネイションワイド・シリーズ]]にスポット参戦し続けているが、フル参戦は実現していない。2011年には地元カナダのジル・ヴィルヌーヴ・サーキットにてポールポジションを獲得したが、クラッシュにより勝利を逃した。
 
その他には、オーストラリアの[[V8スーパーカー]]やアルゼンチンのトップレースV6シリーズにスポット参戦している。2012年より[[{{仮リンク2|i1スーパーカー・シリーズ]]|en|i1 Super Series}}へ参戦することが発表されたが、シリーズ開幕が2013年に延期となった<ref>"[https://www.as-web.jp/past/i1%e3%82%b9%e3%83%bc%e3%83%91%e3%83%bc%e3%82%ab%e3%83%bc%e3%81%ae%e9%96%8b%e5%b9%95%e3%81%8c2013%e5%b9%b4%e3%81%be%e3%81%a7%e5%bb%b6%e6%9c%9f i1スーパーカーの開幕が2013年まで延期]". オートスポーツ.(2012年2月2日)2013年2月1日閲覧。</ref>。
 
また、2010年より氷上レースの[[{{仮リンク2|アンドロス・トロフィー]]|en|Andros Trophy}}に[[シュコダ]]から参戦。2012-2013シーズンには[[シトロエン]]から参戦し、第6戦で初優勝した。
 
2014年は19年ぶりにインディ500に参戦する。
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* 歯に衣着せぬ発言で物議を醸すことが多く、チームメイトへの辛辣な批評をすることもあった。同時期に参戦していた友人エディ・アーバインと並んで、優等生的な現代ドライバーの中では異端児的存在である。とりわけミハエル・シューマッハへの舌鋒は鋭く、そのドライビングマナーを度々攻撃している。2006年10月にはイギリスの[[インデペンデント]]紙において、[[アイルトン・セナ]]、[[アラン・プロスト]]、[[ナイジェル・マンセル]]は長く人々の記憶に残る英雄だが、シューマッハはただのレーサーでしかなく、ヘルメットを脱いだらすぐ忘れ去られてしまうだろうと述べた<ref>[http://www.independent.co.uk/sport/motor-racing/hero-or-villain-schumacher-reaches-the-end-of-the-road-421005.html Hero or villain? Schumacher reaches the end of the road]</ref>(ただその後両者は和解しており、{{f1|2010}}にシューマッハがF1に現役復帰した際にはシューマッハを称賛するコメントも度々していた<ref>http://ja.espnf1.com/f1/motorsport/story/36449.html</ref>)。また2017年にヴィルヌーヴがチャンピオンを獲得したウィリアムズでデビューした同郷の後輩ドライバー、[[ランス・ストロール]]に対して「F1史上最悪のルーキー」と酷評しており、ウィリアムズからチームのホスピタリティへの立ち入りが禁止されるほどの批判を繰り返している<ref>https://f1-gate.com/williams/f1_37676.html</ref>。また{{f1|2018}}に[[ザウバー]]からデビュー後に評価を上げた[[シャルル・ルクレール (レーシングドライバー)|シャルル・ルクレール]]が[[キミ・ライコネン]]に代わってフェラーリの正ドライバーに昇格する報道が流れた<ref>[https://f1-gate.com/ferrari/f1_43166.html フェラーリ、2019年にライコネンに代えてルクレール起用を決断?] F1-Gate 2018年6月22日、同7月2日閲覧。</ref>ことに対し、「フェラーリの来季ルクレール起用は時期尚早、ライコネンの力はまだ必要とされる」「僕ならルクレールの昇格を1年待たせる」と言う見解を示している<ref>[http://f1sokuho.mopita.com/pc/free/index.php?uid=NULLGWDOCOMO&pass=&page=news/sp/body&no=121560&tt=-1&at=90 「ルクレールの来季フェラーリF1昇格は双方にとってリスキー」とビルヌーブが主張] F1速報 2018年7月4日、同7月9日閲覧。</ref>。
* 記者会見の席上、所属チーム名に冠スポンサー名をつけて表現する(例:ロスマンズ・ウィリアムズ・ルノー)ことを常としており、またシーズンオフのスキーの際にはスポンサーロゴの入ったウェアを着用するなどサービスを忘れなかった。
* [[1997年カナダグランプリ|1997年カナダGP]]で起きた[[オリビエ・パニス]]の大事故について、骨折して戦線離脱を余儀なくされたパニスに関係者・ドライバーらが同情の声を送る中、「(骨折は)[[スキー]]ではよくあること」と発言している。
* 交友関係としては、上記のデイモン・ヒルやミカ・サロ、エディ・アーバインのほかに、[[デビッド・クルサード]]や[[オリビエ・パニス]]などと仲が良い。一方で[[ファン・パブロ・モントーヤ]]とは2001年のF1初対面の時から仲が悪く、この年の[[{{仮リンク2|2001年カナダグランプリ|en|2001 Canadian Grand Prix|label=カナダGP]]}}ではモントーヤが「お前は[[2001年オーストラリアGPグランプリ|オーストラリア]]でマーシャルを殺したな!(同年の同GPでクラッシュしたヴィルヌーヴのマシンがマーシャルを巻き込む死亡事故を起こした一件から)」と暴言を吐いたため、レース前のミーティング時に掴み合いの喧嘩まで発展している。ただ2019年現在はモントーヤとの関係も改善しており、F1のパドックで普通に談笑する仲である<ref name=as190815>[https://www.as-web.jp/f1/512504?all 【あなたは何しに?】ヨーロッパに足を運んだモントーヤ。犬猿の仲から一転、あのドライバーと談笑] - オートスポーツ・2019年8月15日</ref>。
* 着崩したカジュアルファッションを好み、ウィリアムズの[[パトリック・ヘッド]]はそのセンスを「ハイ・[[グランジ・ファッション|グランジ]]」と呼んだ。レーシングスーツもサイズの大きいダボダボしたものを着用している(耐火安全性の観点からはフィットしたスーツよりも、ダボダボが推奨されている。このチョイスはむしろ高い職業・安全意識に由来するものであり、むしろルックスを安全性より優先させている他のドライバー達への啓蒙・警鐘という説もある)。
* 趣味のひとつに音楽があり、2006年にCDデビューもしている。
* 知的な面があり、小説や詩を好み、パソコンマニア、ゲームマニアの顔も持つ[[おたく|オタク]]である。F1参戦時はゲームでコースを覚えたと言って周囲の失笑を買った。しかしながら、現実に、デビュー戦の[[アルバート・パーク・サーキット|メルボルン]]ほか、難コースの[[スパ・フランコルシャン]]など、「ゲームでしか走ったことのなかった」コースでポール・ポジションやファステスト・ラップを記録してみせた。これも2000年代に入る頃になると、新コースが増え、またレギュレーションの変更でフリー走行時に多く周回を重ねられない事もあってか、ゲームを含むコンピュータ上でのシミュレーションで事前にコースに慣れるドライバーは多くなっている。
* 何かと話題になった頭髪については、F1デビュー前後から薄毛が目立つようになった(全日本F3時代には豊かな長髪を後ろで縛るヘアスタイルだった)。[[1996年日本グランプリ (4輪)|1996年の最終戦日本GP]]後には、友人のミカ・サロ、[[デビッド・クルサード]]と共にスキンヘッドになり周囲を驚かせた。以後も「毛根を痛める」と言われながらも、髪をブロンドや紫色に染める事を繰り返した。父ジルがその晩年、周囲からは全然減っていないと言われていたにもかかわらず、しきりと脱毛を気にしていたエピソードとは好対照をなす。
* [[1997年ヨーロッパグランプリ|1997年のヨーロッパGP]]、[[ミハエル・シューマッハ]]との接触後、シューマッハのリタイアで6位以内入賞でチャンピオンが決定するジャックは、クルマの状態を心配して様子を窺いながら走行した。その後、フロントタイヤのブリスターに悩まされたジャックは、[[マクラーレン]]の[[ミカ・ハッキネン]]に1周およそ1秒のペースで追い上げられ、最終ラップで抜かれた。ジャックが3位でチェッカーを受けてパルクフェルメにマシンを止めた後、真っ先に駆け寄って来たのは、家族でもチーム関係者でもなく、マクラーレンのチーム代表である[[ロン・デニス]]であった{{要出典|date=2008年7月}}。
* 自身の父親の名を冠したジル・ヴィルヌーヴ・サーキットでの成績は、上述の通り北米フォーミュラで優勝を遂げてはいるものの、一方でF1では参戦初年度の1996年に獲得した2位が最高であり、それ以降はトラブルやリタイヤなどにより良い成績を残せておらず、当該サーキットとの相性はあまり良くない。
* ピットイン中にウィングの角度調整する機能を、F1で最初にチームにリクエストし採り入れさせたのはジャックである。<!--F1雑誌「GPX」の96年アルゼンチンGP前後の号に記載あり-->(採り入れられたのは[[{{仮リンク2|1996年アルゼンチングランプリ|en|1996 Argentine Grand Prix|label=1996年アルゼンチンGP]]}}の前後)。この機能は前年まで参戦していたCARTインディカーでは既に常識となっていたものである。
* 2010年[[バンクーバーオリンピック]]開会式にて、オリンピック旗を掲揚する際の旗手を務めた。
 
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思い切りの良いドライビングをよく見せ、深いブレーキを見せることもたびたびである。ただしこのブレーキングスタイルが電気系統を重視した現代のF1と相性が悪かったとされ、2005年移籍後のザウバー時代には「ブレーキング時、電気が勝手に運転している感じで、マシンの挙動が自分の体で感じられない」 とコメントを残している。
 
{{仮リンク2|1996年の[[ポルトガルグランプリ|en|1996 Portuguese Grand Prix|label=1996年のポルトガルGP]]}}では、高速の最終コーナーでフェラーリのミハエル・シューマッハを外側から被せ、並走して追い抜くという大胆なパフォーマンスを見せた。IRLインディカーで培った技術にも定評があり、ベルギーGPやイタリアGPのような高速サーキットやブラジルGPのような左回りのサーキットも得意としていた。一方で[[モナコグランプリ|モナコGP]]や雨中のレースは苦手としていた。
 
[[フラビオ・ブリアトーレ]]は、ヴィルヌーヴのことを「[[ファン・パブロ・モントーヤ]]と共に最後のF1のスターであった」と2006年シーズン終盤に評価した<ref>[http://www.autosport.com/news/report.php/id/54354-- Briatore: Schumacher lacks star appeal], autosport.com, September 9th 2006.</ref>(奇しくも2人ともシーズン中にF1から離脱)。また、[[バーニー・エクレストン]]は「もし、ビルヌーブ(元BMWザウバー)がいいマシンに乗り続けていたら・・・。もし、ミカ(ハッキネン)が現役を続けていたら・・・。(シューマッハが)支配してきたようになったかどうかは、誰にも分からないだろうね<ref>[http://f1.racing-live.com/f1/jp/headlines/news/detail/061021182942.shtml/ エクレストン、シューマッハに苦言]、F1-Live.com、2006年10月22日。</ref>」とも語った。
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2006年にフランス人のジョアンナ・マルチネスと結婚。直後の[[2006年イギリスグランプリ|イギリスGP]]では[[BMWザウバー]]チームが"Just Married"(新婚)と書かれた特製リアウィングをマシンに装着した<ref>"[http://www.f1technical.net/news/3209 Special rear wing for JV]". F1 Technical. 2013年2月1日閲覧。</ref>。その後2児を授かったが、2009年に離婚<ref>"[http://f1-gate.com/villeneuve/f1_4442.html ジャック・ヴィルヌーヴ離婚 F1復帰へ意欲]". F1-Gate.com.(2009年8月15日)2013年2月1日閲覧。</ref>。2012年に[[ブラジル人]]のカミーラ・ロペスと再婚した。なお、かつては歌手[[ダニー・ミノーグ]]([[カイリー・ミノーグ]]の妹)と交際し、婚約もしていた<ref>"[http://celebrity.glam.jp/2011/08/04/%E3%83%80%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%80%81%E5%AD%90%E4%BE%9B%E3%81%8C%E7%94%9F%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%9F%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E3%81%AB%E7%B5%90%E5%A9%9A%E3%82%82/ ダニー・ミノーグ、子供が生まれた幸福に結婚も考えられるようになった!?]". セレブリティニュース. 2013年2月1日閲覧。</ref>。
 
ヴィルヌーヴ家は両親、ジャック、妹メラニーという家族構成で、幼少期には家族と共にキャンピングカーでサーキットを転戦していた。父について聞かれるたびに「幼い頃に亡くなったのであまり思い出がない」と答えており、同様な境遇である盟友デイモンが父[[グラハム・ヒル|グラハム]]の思慕の情を素直に語っているのとは対照的に多くを語ろうとはしなかった。しかし、近年では父にまつわる行事に参加するなど、心境の変化を感じさせている。2004年のクラシックカーイベント、[[グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピード]]では、父が{{F1|1978}}に乗った[[フェラーリ・312T#312T3|フェラーリ312T3]]を、父と同じデザインの赤いヘルメットを被って運転した。2006年には父のセレモニーにもフェラーリ関係者と共に参加。ミュージシャンとしてのデビューアルバム「Private Paradise」には、メラニーとの共作で「Father」という一曲を収めている。没後30周年となる2012年には、フェラーリのテストコース、[[フィオラノ・サーキット]]で[[フェラーリ・312T#312T4|フェラーリ312T4]]をドライブした<ref>"[http://f1-gate.com/villeneuve/f1_15210.html ジャック・ヴィルヌーヴ、父親ジルのフェラーリ 312T4をドライブ]". F1-Gate.com.(2012年5月9日)2013年2月1日閲覧。</ref>。
 
前述の通り母ジョアンは幼い息子をレースから遠ざけようとしたが、ジャック自らがレーサーの道を選んだことについて「ヴィルヌーヴ家の運命」と悟り、後にその活動を応援するようになった。
 
ちなみに、F1ドライバーとしての「ジャック・ヴィルヌーヴ」は、叔父が「初代」である<ref>1981年に[[アロウズ]]から、1983年に[[RAM (F1)|RAM]]からスポット参戦したが、予選落ちなどF1では成功できなかったドライバー</ref>。後に自身がレースデビューしたため、叔父は'''[[ジャック・ヴィルヌーヴSr.]]'''(-シニア)と表記されるようになった。
 
なお、ジャックが誕生した当初、ジルは名前を決めかねていた。しかし、妻ジョアンに弟(ジャック・ヴィルヌーヴSr.)の話題をしている時に赤ん坊が笑い出したため、弟と同じ名前にすることを決めたと言われている。
 
== 経歴年表 ==
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== レース戦績 ==
=== イタリア・フォーミュラ3選手権 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%"
! 年
! チーム
! エンジン
! 1
! 2
! 3
! 4
! 5
! 6
! 7
! 8
! 9
! 10
! 11
! 12
! 順位
! ポイント
|-
! [[1989年のイタリア・フォーミュラ3選手権|1989年]]
! rowspan="3" | [[プレマ・レーシング]]
! rowspan="3" | [[アルファロメオ]]
| bgcolor="#FFCFCF" | [[ACI・ヴァレルンガ・サーキット|VLL]]<br><small>DNQ</small>
| bgcolor="#FFCFCF" | [[アウトドローモ・デル・ウンブリア|MAG]]<br /><small>DNQ</small>
| bgcolor="#FFCFCF" | [[アウトドローモ・リカルド・パレッティ|VAR]]<br /><small>DNQ</small>
| bgcolor="#CFCFFF" | [[エンナ・ペルグーサ|PER]]<br /><small>10</small>
| bgcolor="#EFCFFF" | [[モンツァ・サーキット|MNZ]]<br /><small>Ret</small>
| bgcolor="#FFCFCF" | [[ACI・ヴァレルンガ・サーキット|VLL]]<br /><small>DNQ</small>
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| bgcolor="#EFCFFF" | [[モンツァ・サーキット|MNZ]]<br /><small>Ret</small>
| bgcolor="#CFCFFF" | [[イモラ・サーキット|IMO]]<br /><small>16</small>
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|
! NC
! 0
|-
! [[1990年のイタリア・フォーミュラ3選手権|1990年]]
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| bgcolor="#DFFFDF" | [[エンナ・ペルグーサ|PER]]<br /><small>6</small>
| bgcolor="#CFCFFF" | [[アウトドローモ・デル・ウンブリア|MAG]]<br /><small>8</small>
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| bgcolor="#DFFFDF" | [[イモラ・サーキット|''IMO'']]<br /><small>5</small>
| bgcolor="#EFCFFF" | [[モンツァ・サーキット|MNZ]]<br /><small>Ret</small>
| bgcolor="#DFDFDF" | [[アウトドローモ・デル・ビネット|BIN]]<br /><small>2</small>
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| bgcolor="#EFCFFF" | [[モンツァ・サーキット|MNZ]]<br /><small>Ret</small>
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| [[ACI・ヴァレルンガ・サーキット|VLL]]
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! 14位
! 10
|-
! [[1991年のイタリア・フォーミュラ3選手権|1991年]]
| bgcolor="#EFCFFF" | [[ミサノ・ワールド・サーキット・マルコ・シモンチェリ|MIS]]<br /><small>Ret</small>
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| [[アウトドローモ・リカルド・パレッティ|VAR]]
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| bgcolor="#FFDF9F" | [[ACI・ヴァレルンガ・サーキット|VLL]]<br><small>3</small>
! 6位
! 20
|}
* '''太字'''は[[ポールポジション]]、''斜字''は[[ファステストラップ]]。([[:Template:Motorsport driver results legend|key]])
 
=== 全日本フォーミュラ3選手権 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%"
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[[Category:FIA 世界耐久選手権のドライバー]]
[[Category:全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権のドライバー]]
[[Category:ストックカー・ブラジルのドライバー]]
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[[Category:スパ24時間レースのドライバー]]
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[[Category:1971年生]]