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{{Infobox 絵画作品
| image_file = The NightwatchNight byWatch Rembrandt- HD.jpg
| painting_alignment = right
| image_size = 380px
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| year = [[1642年]]
| type = キャンバスに油彩
| height = 363きじぇjdyr
| width = 437
| height_inch =
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== 絵の中の要素 ==
[[File:The Nightwatch Shield.jpg|thumb|{{ill2|レンブラントの夜警に登場するモデルの一覧|de|Biografien der Schützen auf Rembrandt van Rijns Gemälde „Die Nachtwache“|label=登場人物の名前}}が書かれた標識を画像加工したもの。]]
[[File:The Nightwatch Jan Visscher Cornelissen, possibly Rembrandt, Claes van Cruijsbergen.jpg|thumb|旗手と右横の人物の背後にいるベレー帽を被った人物はレンブラントの自画像とされる<ref>Ernst van de Wetering: Rembrandts verborgen zelfportretten. Rembrandt’s Hidden Self-portraits. In: Kroniek van het Rembrandthuis 2002, Nr. 1–2, S. 1–44, ZDB-ID 801386-X</ref>。]]
この絵画は次の三つの要素のために有名である。まずその巨大さ(縦3メートル63センチ、横4メートル37センチ)、次に光と影の効果的な使用、そして当時は不動の姿勢で描かれた軍隊や[[自警団]]の集団[[肖像画]]に動きの要素を取り入れたことである。
 
『夜警』は[[オランダ黄金時代の絵画|オランダ黄金時代]]の絶頂期であった[[1642年]]に完成した。この絵は題名となった市民隊([[火縄銃]]手組合による市民自警団<ref group="注釈">自警団員は、16世紀以降に普及した[[火縄銃]]([[アーキバス]]、[[:en:arquebus|arquebus]])にちなんで火縄銃手(Arquebusiers、アルケブス銃兵)と呼ばれていた。</ref>)が出動する瞬間を描いている。黒い服に隊長の印である赤い飾り帯を斜めにかけたフランス・バニング・コック隊長と、その右横の黄色の服を着たウィレム・ファン・ラウテンブルフ副隊長は隊を率いて動き出そうとし、その周辺では銃に火薬を詰める隊員や銃を構える隊員が銃の技量を示し、鼓手がドラムを構え、後ろでは旗手のヤン・フィッシェル・コーネリッセン(Jan Visscher Cornelissen)が隊旗を掲げている。一斉に人々が動き始めたため、その下では犬が吠えたて、左には少年が走り回っている。各隊員はそれぞれ異なった方向に体を向け、多様な表情を見せており、隊員の動きが交錯して画面躍動感を生み出している。いずれも体の一部分しか画面に映されておらず、全身が描かれているのは3人のみである。
 
レンブラントは[[キアロスクーロ]](明暗法)を用いて群像にドラマチックな表情を与えた。強い日光が斜め上から差し込み影を作ることで、レンブラントは群像の中から3人の主要人物、すなわち中央の隊長と副隊長、そして中央左奥の少女を浮かび上がらせている。
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[[1715年]]、それまで掲げられていた火縄銃手組合集会所(クローフェニールスドゥーレン、Kloveniersdoelen)のホールから、[[ダム広場]]のアムステルダム市役所に移された際、『夜警』の上下左右が切り詰められてしまった。これは市役所の部屋の二本の柱の間に絵がきちんと納まるようにはみ出す部分を切り落としたという説が有力である。このため、左側に描かれていた二人の人物、同じく左下にあった階段のふちと手すり、人物の上にあるアーチの頂上部分が失われた。特に手すりと階段は、群像に手前方向の動きを作り出すためにレンブラントが用いた視覚的なカギであった。
 
17世紀に描かれた[[ヘリット・ルンデンス]](Gerrit Lundens)による模写が[[ロンドン]]の[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]にあるが<ref>http://www.nationalgallery.org.uk/cgi-bin/WebObjects.dll/CollectionPublisher.woa/wa/work?workNumber=ng289</ref>、これから元の状態を推測することができる。
 
[[2019年]]から[[アムステルダム国立美術館]]によって欠損部分の復元が行われ、[[2021年]]には[[人工知能]]を用いて失われた部分が再現された上で公開された<ref>{{Cite web|和書|title=レンブラントの《夜警》、300年ぶりに本来の姿に。AIで欠損部分を復元|url=https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/24226|website=[[美術手帖]]|accessdate=2021-06-26|language=ja}}</ref>。
 
== 発注 ==
レンブラントは、市民隊の隊長バニング・コックと隊員17名の計18名によりから制作を受注し依頼された。バニング・コックは薬剤師の一人息子だったがフランスで法学を学び、アムステルダムに戻って市民隊(自警団)隊長になっていた。彼は富裕な商人・船主・貴族のフォルケルト・オーヴァランター(Volckert Overlander)の娘と結婚し、彼の死後はその遺産や領主の地位を継いでおり、この絵が描かれた後の1650年にはアムステルダム市長にまでなった人物だった。レンブラントに発注した18人の名は中央右後方の盾に描かれている。その他、鼓手、少女、少年などが絵の中には描かれたほか、左側には絵が切り詰められる前はあと2人ほどの傍観者が描かれていた。この時の支払いや受注の記録は全く残っていないが、発注者たちの記録によれば各人が100ギルダー、計1,600ギルダーがレンブラントに払われた。これは当時の肖像画の報酬としては大きな額である。
 
この絵はレンブラントを含む画家たちに市民隊が発注した7枚の集団肖像画のうちの1点であり、新しく建てられた火縄銃手組合集会所の宴会場に掲げるために発注された。研究者の中には、レンブラントや他の画家たちに対する絵の発注は、フランスの王妃[[マリー・ド・メディシス]]の[[1638年]]のオランダ訪問に合わせてのものだったと考えている。彼女は当時フランスを追われた身だったが、彼女はアムステルダムで派手な歓迎を受けている。
 
この絵を発注した隊員たちが、支払った額と同じ様な平等さで各人を描かなかったレンブラントに不満を持ち、これが『夜警』以後の受注減やレンブラントの人生の転落の始まりになったという言い伝えもあるが正確ではない<ref group="注釈">ウィレム・ファン・ライデンブルフ副隊長は背が低いため追加料金を払って背を高く描くように依頼した。しかし、構図の都合で逆に更に低く描かれてしまい、顔も半分しか描かれていないため不満を漏らしたという</ref>、これが『夜警』以後の受注減やレンブラントの人生の転落の始まりになったという言い伝えもあるが正確ではない。レンブラントは妻[[サスキア・ファン・オイレンブルフ|サスキア]]が『夜警』完成と同じ年の1642年に死去したことや、『夜警』などの大作の受注で財をなしたことで翌[[1643年]]から仕事のペースを落とし、[[美術商]]としての仕事や絵画のコレクションに力を入れた。しかし絵画売買のトラブル、絵画購入やぜいたくのための借金、サスキアの死後に召使と恋愛してサスキアの実家のオイレンブルフ家と険悪な関係になったこと、などでレンブラントは疲弊し、画家の仕事も画商の仕事もうまくかなくなってゆく。
 
== 展示・保管場所の移動 ==
[[Fileファイル:RijksmuseumAmsterdam (23599993902).jpg|thumbサムネイル|300px|right300x300ピクセル|国立美術館の『夜警』の展示室]]
当初は火縄銃手組合大ホールにあった『夜警』は、[[1715年]]にアムステルダム市役所に移された。[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]によるオランダ占領により市役所はホラント王[[ルイ・ボナパルト]]の王宮となった。行政官たちはこの絵を貴族トリップ家の邸宅トリッペンハイス(''Trippenhuis'')に移したがナポレオンの命により王宮に戻された。しかしナポレオン戦争終結後、絵は[[アムステルダム国立美術館|国立美術館]]となったトリッペンハイスにまた戻された。
 
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== 観客による損傷 ==
『夜警』はこれまでに三度観客に傷つけられた。一度目は[[1911年]][[1月13日]]、船から解雇されたコックが、自分が無名なのにこの絵が有名であることに腹を立てナイフで傷つけた。当時、絵は分厚いニスで覆われており、刃先はキャンバスを切り裂くことができなかった。[[1975年]][[9月14日]]、精神的に不安定だった元教師がナイフで絵に襲いかかり、ジグザグ状の切り裂き傷を作ってしまった。絵は大規模な補修により元通りに直されたが、今でも前に立ってよく見ると当時の傷が残っているのがわかる。[[1990年]]4月には精神を病んだ観客にスプレー状の酸を吹きかけられる事件が起きたが、警備員が素早く水で洗い流したことで酸は絵画表面のニスを溶かしたにとどまり、絵は元通りに修復された<ref>{{Cite book|和書 |author= 宮下規久朗|authorlink=宮下規久朗 |year = 2013 |title = 欲望の美術史 |publisher = [[光文社]] |page = 172 |isbn = 978-4-334-03745-1}}</ref>
 
== 脚注 ==
{{reflist脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
 
== 関連事項 ==
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==外部リンク==
{{commonscat|The Night Watch}}
* [http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/rembrandt/1640/night-watch/ ''The Night Watch'' at the WebMuseum]
* [http://www.rijksmuseum.nl/aria/aria_assets/SK-C-5?lang=en Night Watch At the Rijksmuseum, Amsterdam]
* [http://www.historyofholland.com/rembrandt-and-the-nightwatch.html Rembrandt and the Night Watch]
* [http://www.rembrandtpainting.net/rembrandt's_night_watch.htm The Night Watch by Rembrandt van Rijn]
* [http://www.canpal.org/canjohist.htm Night Watch Replica at Canajoharie Library and Art Gallery]
 
{{レンブラント}}
{{Normdaten}}
 
{{DEFAULTSORT:やけい}}
[[Category:レンブラント・ファン・レインの作品]]
[[Category:17世紀1640年代の絵画]]
[[Category:美術におけるイヌ]]
[[Category:アムステルダム国立美術館の所蔵品]]
[[Category:オランダの絵画]]
[[Category:肖像画]]