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{{出典の明記|date=2017年3月9日 (木) 12:07 (UTC)}}
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 武田光和
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| 父母 = 父:[[武田元繁]]{{Sfn|今井尭ほか編|1984|p=324}}
| 兄弟 = '''光和'''、武田下野守([[伴繁清]]?)、[[高杉春時]]?
| 妻 = 正室:昌岩妙秀([[吉川元経]]の娘)
| 妻 =
| 子 = [[武田小太郎|小太郎]]、[[武田小次郎|小次郎]]、[[武田宗慶|小三郎]]
| 特記事項 = ''※次の安芸武田氏の当主は'''[[武田信実]]'''。''
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== 生涯 ==
[[安芸国]]の武将・武田元繁の嫡男として誕生。なお、[[武田氏#若狭武田氏|若狭武田氏]]から[[武田信実]]を次の当主に迎えていることから、の字は信実の実父・[[武田元光]]から[[偏諱]]を受けたものと推測される。
 
[[永正]]14年[[10月28日 (旧暦)|10月28日]]([[1517年]][[11月11日]])の[[有田中井手の戦い]]で父が戦死した為、跡を継ぎ安芸武田氏当主となった。しかし先の戦いでは父の他、重臣であった熊谷元直や香川行景らも戦死しており、更にこの戦いより2年前には直の父・熊谷膳直も亡くなっていた事から、代々使えた重臣を一斉に失った安芸武田氏はこの戦いを境として衰退の一途を辿っていく事になった。父同様に武勇に優れた人物であり、親[[尼子氏|尼子]]の立場を貫き、[[大内氏]]や[[毛利氏]]と争ったが、父の時代の勢いを取り戻すことは出来なかった。
 
[[大永]]4年([[1524年]])、[[大内義興]]・[[大内義隆|義隆]]父子は3万余の大軍を率いて、光和の居城[[佐東銀山城]]に押し寄せて包囲した。この事を知った[[尼子経久]]は銀山城を救援するため、ただちに安芸に急行。安芸の尼子配下の[[国人]]衆にも出動を命令した。尼子軍の救援により銀山城は落ちず、大内軍は退却した([[佐東銀山城の戦い]])。なお、『[[陰徳太平記]]』では、光和は大変な怪力の持ち主であるとされ、この戦いでも光和自身が兵士たちと共に最前線で戦ったとの伝説が書き残されている<ref>[http://www.cf.city.hiroshima.jp/gion-k/webstation/rekishi/takeda-mitukazu/densetu-1.html 陰徳太平記にみる武田光和伝説-その1] - 祇園西公民館Web情報ステーション(広島市未来都市創造財団ひと・まちネットワーク部)</ref>。
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光和は[[厳島神主家]]の後継者争いにも介入し、大内氏と対立した[[友田興藤|友田上野介]]方を支援するなど積極的に行動したが、安芸武田氏の衰退を食い止めることはできなかった。また、所領などを巡り、家臣であった[[熊谷信直]]の離反を促したことは、致命的ともいえる痛手であった。これは、正室である信直の妹と折り合いが悪く、この正室と離婚したことも離反の原因とされている。[[天文 (元号)|天文]]2年([[1533年]])8月、光和は熊谷信直の居城・[[三入高松城]]を攻めたが、守りは堅く撤退した。
 
再度、信直の討伐を進めていた天文9年6月9日([[1540年]]7月12日)に、37歳で嫡子を残すことなく急死<ref>{{Efn|[[厳島神主家]]の[[棚守房顕]]が記した「[[棚守房顕覚書]]」による日付。一方で、天文3年3月3日([[1534年]]4月16日)に亡くなったとの説もある<ref>[[講談社]]の[httphttps://kotobank.jp/word/武田光和%E6%AD%A6%E7%94%B0%E5%85%89%E5%92%8C-1088683 デジタル版 日本人名大辞典+Plus] など。</ref>。}}。実子はいたが、いずれも[[嫡出#準正嫡出子|妾腹]]で、また[[武田宗慶|小三郎]]を除き夭折していた{{Efn|正室である[[吉川元経]]の娘は[[永禄]]2年([[1559年]])に死去{{Sfn|近世防長諸家系図綜覧|1966|p=40}}。法号は昌岩妙秀{{Sfn|近世防長諸家系図綜覧|1966|p=40}}。}}。そこで同族の[[若狭武田氏]]から[[武田信実]]が迎えられたが、安芸武田氏の衰運は決定的となった。
 
安芸武田氏の[[菩提寺]]は[[不動院 (広島市)|不動院]](安芸[[安国寺利生塔|安国寺]])であり、同寺には武田刑部少輔の墓がある。また、庶子の武田小三郎は、毛利氏に仕えて周防武田氏を名乗ったが、[[周防源氏武田家屋敷跡]](現在の[[山口県]][[岩国市]][[玖珂郡|玖珂]])には光和の墓も建てられている。これは、佐東銀山城付近にあった墓と遺骨を遷したものと伝えられる。
 
== 脚注 ==
<!--=== 注釈 ===-->
{{脚注ヘルプ}}
{{Notelist}}
<!--=== 出典 ===-->
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author1=今井尭ほか編|others=[[児玉幸多]]・[[小西四郎]]・[[竹内理三]]監修|date=1984-3|title=日本史総覧|publisher=[[新人物往来社]]|volume=3(中世 2)|id={{全国書誌番号|84023599}}|ncid=BN00172373|isbn=4404012403|asin=B000J78OVQ|oclc=11260668|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|editor=防長新聞社山口支社編|others=[[三坂圭治]]監修|date=1966-3|title=近世防長諸家系図綜覧|publisher=[[防長新聞|防長新聞社]]|volume=|id={{全国書誌番号|73004060}}|ncid=BN07835639|isbn=|asin=|oclc=703821998|ref=harv}}{{クローズドアクセス}}[{{NDLDC|2984815}} 国立国会図書館デジタルコレクション]
 
== 外部リンク ==