「夜のヒットスタジオ」の版間の差分

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1976年4月、三波伸介に代わる男性司会者として'''[[井上順]]'''を起用<ref group="注">「ゆくゆくは歌手・歌重視の演出手法に変えたい」という当時の番組スタッフの方針から、幅広い人気を得ている歌手(または歌手業も活発に行っているタレント)を司会に置きたいという意向が働いたことに加え、当時まだ29歳の若さながら、既に1970年代初頭から『ゴールデン歌謡速報』(フジテレビ)、『[[火曜歌謡ビッグマッチ]]』([[TBSテレビ|TBS]])、『[[ベスト30歌謡曲]]』(NET、現・[[テレビ朝日]])などゴールデン・プライム枠の歌謡番組の司会経験が豊富であったこと、更に前述の前年夏に行われた沖縄海洋博会場からの野外中継時にスケジュールの都合でリハーサルを欠席した三波の代わりを井上が急遽務めた際、芳村と丁々発止のやりとりを繰り広げ、急な悪天候により極度の混乱状態に陥ったスタッフや他のゲスト歌手、また中継に協力する博覧会関係者たちを和ませた事を製作サイドが高く評価したことが決め手となって井上の司会起用が決定した。尚、この司会交代により、『ヒットスタジオ』を去る事となった三波への懐柔策として木曜20時枠で彼をメイン司会者(キャップ役)に起用しての新番組『[[スターどっきり(秘)報告]]』が同番組スタッフにより立ち上げられた{{要出典|date=2018年6月}}。</ref>。井上の司会起用後程なくして、バラエティ色の強い人気コーナー<ref group="注">厳密には井上の司会起用後も制作側は急な番組カラーの変化による視聴者離れを避ける目的から、従来からの歌謡バラエティ要素も残しながら、徐々に音楽番組としてのカラーを強めてゆく方向で当面の放送を続けてゆく構想を立てていたため、「歌謡ドラマ」はそのまま継続されたほか、新たに「スター家庭訪問」コーナー(放送当日の出演歌手のうち数組の自宅を井上が訪問し、歌手本人やその家族・関係者にインタビューを試みるというもの)が井上の起用に併せて設けられたが、「歌謡ドラマ」は井上の司会起用からわずか数回のうちに打ち切られ(この「歌謡ドラマ」終了による代替コーナーとして1976年6月までの期間限定の形で心理学者の[[浅野八郎]]監修による新方式での「コンピューター恋人選び」が臨時に編成された)、当初は毎週放送されていた「家庭訪問」も1976年夏頃には不定期のコーナーに格下げされた上、1976年末の段階で自然消滅。1977年以降は「他人の歌オープニングメドレー」「ラッキーテレフォンプレゼント」「ご対面」を除き、ほぼ全編を司会者と歌手とのトークと歌だけで構成する総合音楽番組路線へと転換した{{要出典|date=2018年6月}}。</ref>や公開放送方式も廃止した。1回あたりの出演者数を9 - 10組から7 - 8組程度まで絞り込み、原則としてフルコーラスを披露する構成を採った。
 
この時期には「楽曲・歌手を中心に」という番組の趣旨から、それまでは軽視されていた歌唱・演奏中の演出(特に舞台装飾)についても様々な試みがなされた。例えば、スタジオ一面に敷きつめた畳の上で歌った[[沢田研二]]の「[[サムライ (沢田研二の曲)|サムライ]]」、当時まだ珍しかった生放送での合成映像により海の上で歌っているという演出効果を行った[[ジュディ・オング]]の「[[魅せられて (ジュディ・オングの曲)|魅せられて]]」、[[世良公則とツイスト]]の「[[あんたのバラード]]」や山口百恵の「[[絶体絶命 (山口百恵の曲)|絶体絶命]]」などでの[[歌舞伎]]との融合、[[郷ひろみ]]の「[[ハリウッド・スキャンダル]]」におけるスタジオ全体の電飾装置の配置<!-- 曲の中で風景をガラリと一変させる演出、各季節の草花や電飾装置、雨・紙吹雪、合成映像、ドライアイス等の舞台装置やバックでの客演、カメラワークを凝るなど -->などである。オーケストラの配置についても、[[ステレオ放送]]開始に対応してか、1978年からは[[シンセサイザー]]や補助のギター演奏者を配置するブースが設けられ、[[ストリングス]]の配置人数も1980年3月からは68名から812名に増員される等、音のクオリティの向上も頻繁に図られた。
 
当時[[アシスタントディレクター|AD]]を務めた[[きくち伸]](「DELUXE」時代全期にわたってADを担当)によれば、『ヒットスタジオ』は当時局内でも一番制作現場が厳しい番組として恐れられていたという<ref>[https://web.archive.org/web/20170821173421/https://www.musicman-net.com/relay/63218 Musicman-NET「Musicman's RELAY 第67回 きくち伸 2. 第一志望は小学館?〜想定外のフジテレビ入社」](2018年6月25日閲覧)。</ref>。当時の看板プロデューサー・[[疋田拓]]の総合演出のもと、リハーサルは毎回10時間以上に及び、若手スタッフは怒号の入り混じった制作首脳陣の指示に従い、本番中も数十秒の間にセット・舞台装置のチェンジを完了させるなど、相当の労力が一つ一つの演出・構成に対して注がれていた。その緊迫感は、[[宇崎竜童]]、郷ひろみら当時の出演歌手や関係者の多くから後年「夜ヒットの現場は"戦場"そのものだった」と形容されるほどであった<ref name="sally blog-2006">[http://blog.livedoor.jp/katokeach/archives/50262392.html 『A!Blog of SALLY』「ザ・芸能界、「夜のヒットスタジオ」初出演」] 2006年10月21日(2016年4月29日閲覧)。</ref>。[[和田アキ子]]は後年「バンドの人もカメラマンの人もみんな厳しかった」と当時の現場スタッフたちの様子を回顧している<ref group="注">1990年10月3日放送の『ありがとう&さよなら夜のヒットスタジオ』での発言より。京都でのコンサートを終え、電話リクエスト会場となっていた名古屋の東海テレビのスタジオに駆けつけて中継した際、井上順から「ヒットスタジオでの思い出、何かある?」との問いに答える形で。</ref>。