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| 演出 =
| ディレクター =
| 司会者 = [[前田武彦]] [[芳村真理]]<br />[[三波伸介 (初代)|三波伸介]] [[朝丘雪路]]<br />[[井上順]] [[古舘伊知郎]]<br />[[柴俊夫]] [[加賀まりこ]]
| 出演者 = [[夜のヒットスタジオ出演歌手一覧|出演歌手一覧]]参照
| テーマ曲作者 =
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| 特記事項 = [[1969年]][[3月31日]]放送分よりカラー化。
}}
『'''夜のヒットスタジオ'''』(よるのヒットスタジオ)は、1968年11月から1990年10月まで22年にり[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列([[フジネットワーク|FNS]])で放送された[[音楽番組]]のシリーズである。通称で『'''夜ヒット'''』『'''ヒットスタジオ'''』とも呼ばれた。
 
本項では、『'''夜のヒットスタジオ'''』(第1作)から『'''夜のヒットスタジオSUPER'''』に至るまでのレギュラーシリーズ全般について述べるほか、以下についても取り扱うこととする。
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== 概要 ==
1968年11月4日から1990年10月3日まで、約22年間[[生放送]]で放送された。
原則生放送だったが、1986年3月26日の900回記念企画以降は総集編企画を行った一部放送回が事前収録となっていた。
 
1970年代前半までは「歌謡バラエティ」番組として、1976年4月からは、アイドル歌手・演歌歌手からテレビ出演に消極的であったニューミュージック・ロック系アーティスト、人気俳優、海外のアーティスト、歌なしの[[フュージョン (音楽)|フュージョン]]バンドなどを出演させた。生演奏・フルコーラスを番組制作の基本とした。
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| colspan="4" style="text-align:left" |
<small>
* <sup>1</sup> 1988年2月17日の1001回放送は、古舘単独司会。
* <sup>2</sup> 実際は、1990年9月19日のレギュラー放送最終回まで。10月3日放送は、最終回SP扱い。
</small>
|}
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*三波はてんぷくトリオとして、朝丘・井上は歌手として、それぞれ司会就任前にゲスト出演の経歴がある(後述)。
*加賀は1989年9月27日の『DELUXE』最終回のエンディングにも引き継ぎで出演している。
*1976年の井上順司会担当以降、ゲスト歌手が別スタジオで歌唱する場合、メインで使用しているスタジオ<ref group="注">旧・河田町本社のグランドスタジオ棟にあった第6スタジオ</ref>と別スタジオ<ref group="注">旧・河田町本社メインビル棟にあった第4スタジオ等</ref>はかなり距離があったため、その前のゲストの歌唱中に背後で司会者等が移動するシーンが多く見られた。『DELUXE』以降ではこれらに加え、芳村は着用する衣装替えためにスタジオを一時退出していた。
 
=== 代役司会 ===
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|[[1975年]][[1月6日]]
|-
| rowspan="1819" |'''芳村真理'''
|前田武彦、'''[[吉村実子]]'''<ref group="注">司会の芳村の実妹</ref>
|不明
|[[1969年]][[4月14日]]
1969年[[4月21日]]
|-
|前田武彦、'''[[団令子]]'''
|不明
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|1981年[[2月16日]]
|-
|芳村真理、'''[[武田鉄矢]]'''<sup>5</sup>³
|不明
|1981年[[7月20日]]
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* '''[[Dee-Dee]]''' - 1985年〜1990年までバックダンサーとしてレギュラー出演。その他にも古舘・芳村時代途中から『DELUXE』終了までオープニングで童謡の歌唱も行っていた。当初は'''「B・G・M」'''というグループ名であったが、翌年にレコードデビューしたのを機に'''「Dee-Dee」'''に改名。オープニングメドレー時はトリの歌手のバックに登場していた。また、歌手・司会者席の後列に座っていることも多かった。
* '''[[スクールメイツ]]''' - 1972年〜1990年までバックダンサーで出演。特に80年代放送時はアイドルのバックには欠かせない存在であった。
* '''[[俵孝太郎]]''' - 『[[FNNニュースレポート23:00]]』キャスター。1985年4月から9月まで番組内のニュースコーナーを担当。
 
== 音楽担当 ==
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|74回
|[[森昌子]]
|1972年[[8月14日]](第198回) -1986年[[8月27日]](第924回)
|}
* [[沢田研二]]については[[ザ・タイガース]]及び[[PYG]]としての出演、[[前川清]]については[[内山田洋とクール・ファイブ]]としての出演回数を通算した回数及び出演期間で表記してある。
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: Dee-Deeと司会者の古舘・柴が、板付きの状態で登場し、童謡の伴奏に合わせて踊ったあとに挨拶とオープニングトーク。
'''1989年10月18日~1990年10月3日'''
: 童謡の演奏と司会者登場のシーンは『SUPER』に変わってからは廃止。冒頭、第6スタジオ副調整室横のキャットウォーク(回によっては副調整室の中)にて古舘と加賀がオープニングトーク。その後、オープニングタイトルと提供クレジットが入り、CM明けに専用ジングルと共にセットの花壇からズームアウトしてオーケストラを一瞬映した後、メドレーを歌うゲスト歌手に移動してメドレーとゲスト歌手紹介が行われる形式に変更された。童謡の演奏と司会者登場のシーンは1990年に入ってから8月8日の総集編(事前収録)と10月3日の最終回で復活し、古舘と加賀が階段を降りて登場した。
: 専用ジングルの演奏時に放送回数のテロップを入れていたが、童謡は演奏しなくなったため番組ロゴとの併記に変わった。また、単体の放送回数はリセットされている。
: 1990年7月4日放送では、当時話題になっていた[[人面魚]]を紹介した際は、第6スタジオからゲスト歌手とともに板付きで登場。
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=== ラッキーテレフォンプレゼント(番組開始〜1987年8月) ===
: エンディングに行われた視聴者参加型コーナー。事前に視聴者からはがきで応募を募り、登録された応募者のデータから当該数字に該当する応募者を検索、その中からさらに無作為に1人の応募者に絞って、その応募者が番組を視聴の上で電話に出ることを条件に現金を贈呈した(番組を視聴していなければ失格)。なお、コーナーの仕組みは下記の通り時期によってやや異なる。
: エンディングに行われた視聴者参加型コーナー。ただし生放送の歌番組の性質上、放送時間が押して放送できず、来週に向けて下4桁の電話番号だけ告知する場合が多々あった。応募者からの電話が繋がらない場合は、先にゲスト歌手の歌を披露して繋いでいた。
:尚、 一時休止期間中には「スターびっくり箱」コーナー(1975年4月より。数回で終了<ref group="注">司会者を含む出演者の過去の秘蔵写真・映像をターゲットとなる出演者のみ事前告知しない状態で放送するもの。</ref>)、「愛のスターテレフォンプレゼント」コーナー(1975年11月〜1976年3月まで<ref group="注">オープニングメドレー時に出演歌手たちにハガキが入ったボックスから1枚ずつを抜き出してもらい、その中から1枚だけを抽出して記念品を贈呈する内容のプレゼントコーナー。</ref>)がエンディング企画として行われた。
: 1987年7月に、主要スタッフが一新されたことに伴い、1987年8月に終了。ただし、1988年11月の番組開始20周年企画以降は、不定期に復活していた。
:'''1975年3月まで'''
:* 乱数表からゲスト歌手から好きな数字を1文字選んで下4桁の電話番号の数字を抽出し、野沢らが予めコンピューターに登録された応募者のデータから当該数字に該当する応募者を検索、その中からさらに無作為に1人の応募者に絞って、その応募者が電話に出ることを条件に現金を贈呈する内容。なお、番組開始当初の賞金金額は5万円だったが、のちに10万円に増額された。1973年9月までは前田が、1974年4月以降は芳村が丸テーブルの上で電話応対を担当
:'''1976年4月から1985年3月まで'''
:* 5桁のスロットマシーンで下4桁の電話番号を抽出し、その番号に該当する1人の視聴者に対して応募を告知、翌週にその番号に該当する応募者から送られたハガキの中から司会者・歌手が無作為に選んだ一人に対して、スロットではじき出された数字に相当する額の現金をプレゼントするというもの。スロットの数字がすべて0となった場合にのみ最高額の10万円が送られる。
:'''1985年4月から1987年8月まで'''
:* 5桁のスロットマシーンで下4桁の電話番号<ref group="注">1985年8月6日放送までは下3桁、1985年8月13日放送からは下4桁</ref>を抽出し、該当する応募者のデータがインプットされた[[デスクトップパソコン|デスクトップ]]型の[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]にその番号を入力し、該当する応募者全員に、スロットではじき出された数字に相当する額の現金をプレゼントするもの。パソコン自体には応募者の電話番号が事前にインプットされており、電話を掛ける芳村が画面を見るか、井上あるいは古舘がペンで電話番号を芳村に伝えていた。
:* なお、スロットマシーン自体もDELUXE開始に合わせて新しいものに変わった。
:尚、一時休止期間中には「スターびっくり箱」コーナー(1975年4月より。数回で終了<ref group="注">司会者を含む出演者の過去の秘蔵写真・映像をターゲットとなる出演者のみ事前告知しない状態で放送するもの。</ref>)、「愛のスターテレフォンプレゼント」コーナー(1975年11月〜1976年3月まで<ref group="注">オープニングメドレー時に出演歌手たちにハガキが入ったボックスから1枚ずつを抜き出してもらい、その中から1枚だけを抽出して記念品を贈呈する内容のプレゼントコーナー。</ref>)がエンディング企画として行われた。
: 1987年7月に、主要スタッフが一新されたことに伴い、1987年8月に終了。ただし、1988年11月の番組開始20周年企画以降は、不定期に復活していた。
 
=== 夜ヒットテレカ(1987年4月から番組終了まで) ===
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従前、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の月曜22時台は[[ドラマ]]枠であったが、1960年代における22時台は当時の放送業界の認識では深夜に近い時間帯であり、視聴率は苦戦を強いられていた。1968年11月、『夜のヒットスタジオ』は3ヶ月〜半年程度の繋ぎ番組としてスタートした。第1回のゲストは[[島倉千代子]]、[[ピンキーとキラーズ]]、[[布施明]]、[[小川知子 (女優)|小川知子]]ほか計8組。ネット局はフジテレビ・[[東海テレビ放送|東海テレビ]]・[[関西テレビ放送|関西テレビ]]・[[テレビ西日本]]の4局で、当時クロスネット局であった[[仙台放送]]はネットしていない。
 
構成は当時多くの人気番組を抱えていた[[塚田茂]]、プロデューサーはフジテレビ朝のワイドショー番組『[[小川宏ショー]]』のスタッフであった[[伊藤昭]]。司会には塚田が構成を務めた『[[お昼のゴールデンショー]]』の司会として人気タレントとなっていた'''[[前田武彦]]'''、その相手役には『小川宏ショー』のホステス役を務めた経験から伊藤とも面識のあった'''[[芳村真理]]'''。このほかムードコーラスグループの[[鶴岡雅義と東京ロマンチカ]](1974年10月まで出演)と、当時フジの看板アナウンサーであった[[小林大輔]]もレギュラー出演者として名を連ねた。前田・芳村の司会者への起用は、当番組開始の前年に[[ニッポン放送]]で放送された前田がメインパーソナリティーを務めるラジオ番組『[[男性対女性(ラジオ番組)|男性対女性]]』で芳村がゲストパートナーとして出演した際の二人のやりとりを偶然聴取した塚田が、伊藤に「新番組の司会はこの二人でいきたい」と強く推薦して決まったものであるという<ref>『マエタケのテレビ半生記』(いそっぷ社刊)。{{要ページ番号|date=2024年4月}}</ref>。
 
それまで視聴者にとって雲の上の存在だったスター歌手の人間性を引き出すことを当初のコンセプトとし、終了時まで続いた「ご対面」や「他人の歌オープニングメドレー」、エンディングで視聴者に電話をしスロットで表示された額(最高10万円)をプレゼントする「ラッキーテレフォンプレゼント」のほか、その回のゲストが歌う曲をモチーフとしたコント形式の「歌謡ドラマ」、ゲスト歌手の性格・嗜好を電子計算機にインプットし相性の合うタレントをはじき出す「コンピュータ恋人選び」といったバラエティ色の強い企画が用意された。当時[[集団就職]]等で夜遅くまで働いている若者たちが丁度落ち着いてテレビを見られる時間帯に歌を聴かせる番組、楽しませる番組が一つぐらいあってもいいのではという点もあり、その時折に沿った[[童謡]]をBGMに司会者が登場するシーンや「ご対面」などはその点を強く意識したものであると言われている(伊藤昭談)<ref group="注">但し、オープニングでの司会者登場時におけるBGMに童謡が恒常的に選曲されるようになったのはカラー放送に移行して以降の事であり、モノクロ放送時代は音楽担当の[[広瀬健次郎]]、及び当時の演奏バンドのバンドマスターであった[[有馬徹]]・[[豊岡豊]]が作・編曲をしたアメリカンポップス調の番組オリジナルBGMが使用されていた。</ref>。
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1976年4月、三波伸介に代わる男性司会者として'''[[井上順]]'''を起用<ref group="注">「ゆくゆくは歌手・歌重視の演出手法に変えたい」という当時の番組スタッフの方針から、幅広い人気を得ている歌手(または歌手業も活発に行っているタレント)を司会に置きたいという意向が働いたことに加え、当時まだ29歳の若さながら、既に1970年代初頭から『ゴールデン歌謡速報』(フジテレビ)、『[[火曜歌謡ビッグマッチ]]』([[TBSテレビ|TBS]])、『[[ベスト30歌謡曲]]』(NET、現・[[テレビ朝日]])などゴールデン・プライム枠の歌謡番組の司会経験が豊富であったこと、更に前述の前年夏に行われた沖縄海洋博会場からの野外中継時にスケジュールの都合でリハーサルを欠席した三波の代わりを井上が急遽務めた際、芳村と丁々発止のやりとりを繰り広げ、急な悪天候により極度の混乱状態に陥ったスタッフや他のゲスト歌手、また中継に協力する博覧会関係者たちを和ませた事を製作サイドが高く評価したことが決め手となって井上の司会起用が決定した。尚、この司会交代により、『ヒットスタジオ』を去る事となった三波への懐柔策として木曜20時枠で彼をメイン司会者(キャップ役)に起用しての新番組『[[スターどっきり(秘)報告]]』が同番組スタッフにより立ち上げられた{{要出典|date=2018年6月}}。</ref>。井上の司会起用後程なくして、バラエティ色の強い人気コーナー<ref group="注">厳密には井上の司会起用後も制作側は急な番組カラーの変化による視聴者離れを避ける目的から、従来からの歌謡バラエティ要素も残しながら、徐々に音楽番組としてのカラーを強めてゆく方向で当面の放送を続けてゆく構想を立てていたため、「歌謡ドラマ」はそのまま継続されたほか、新たに「スター家庭訪問」コーナー(放送当日の出演歌手のうち数組の自宅を井上が訪問し、歌手本人やその家族・関係者にインタビューを試みるというもの)が井上の起用に併せて設けられたが、「歌謡ドラマ」は井上の司会起用からわずか数回のうちに打ち切られ(この「歌謡ドラマ」終了による代替コーナーとして1976年6月までの期間限定の形で心理学者の[[浅野八郎]]監修による新方式での「コンピューター恋人選び」が臨時に編成された)、当初は毎週放送されていた「家庭訪問」も1976年夏頃には不定期のコーナーに格下げされた上、1976年末の段階で自然消滅。1977年以降は「他人の歌オープニングメドレー」「ラッキーテレフォンプレゼント」「ご対面」を除き、ほぼ全編を司会者と歌手とのトークと歌だけで構成する総合音楽番組路線へと転換した{{要出典|date=2018年6月}}。</ref>や公開放送方式も廃止した。1回あたりの出演者数を9 - 10組から7 - 8組程度まで絞り込み、原則としてフルコーラスを披露する構成を採った。
 
この時期には「楽曲・歌手を中心に」という番組の趣旨から、それまでは軽視されていた歌唱・演奏中の演出(特に舞台装飾)についても様々な試みがなされた。例えば、スタジオ一面に敷きつめた畳の上で歌った[[沢田研二]]の「[[サムライ (沢田研二の曲)|サムライ]]」、当時まだ珍しかった生放送での合成映像により海の上で歌っているという演出効果を行った[[ジュディ・オング]]の「[[魅せられて (ジュディ・オングの曲)|魅せられて]]」、[[世良公則とツイスト]]の「[[あんたのバラード]]」や山口百恵の「[[絶体絶命 (山口百恵の曲)|絶体絶命]]」などでの[[歌舞伎]]との融合、[[郷ひろみ]]の「[[ハリウッド・スキャンダル]]」におけるスタジオ全体の電飾装置の配置<!-- 曲の中で風景をガラリと一変させる演出、各季節の草花や電飾装置、雨・紙吹雪、合成映像、ドライアイス等の舞台装置やバックでの客演、カメラワークを凝るなど -->などである。オーケストラの配置についても、[[ステレオ放送]]開始に対応してか、1978年からは[[シンセサイザー]]や補助のギター演奏者を配置するブースが設けられ、[[ストリングス]]の配置人数も1980年3月からは68名から812名に増員される等、音のクオリティの向上も頻繁に図られた。
 
当時[[アシスタントディレクター|AD]]を務めた[[きくち伸]](「DELUXE」時代全期にわたってADを担当)によれば、『ヒットスタジオ』は当時局内でも一番制作現場が厳しい番組として恐れられていたという<ref>[https://web.archive.org/web/20170821173421/https://www.musicman-net.com/relay/63218 Musicman-NET「Musicman's RELAY 第67回 きくち伸 2. 第一志望は小学館?〜想定外のフジテレビ入社」](2018年6月25日閲覧)。</ref>。当時の看板プロデューサー・[[疋田拓]]の総合演出のもと、リハーサルは毎回10時間以上に及び、若手スタッフは怒号の入り混じった制作首脳陣の指示に従い、本番中も数十秒の間にセット・舞台装置のチェンジを完了させるなど、相当の労力が一つ一つの演出・構成に対して注がれていた。その緊迫感は、[[宇崎竜童]]、郷ひろみら当時の出演歌手や関係者の多くから後年「夜ヒットの現場は"戦場"そのものだった」と形容されるほどであった<ref name="sally blog-2006">[http://blog.livedoor.jp/katokeach/archives/50262392.html 『A!Blog of SALLY』「ザ・芸能界、「夜のヒットスタジオ」初出演」] 2006年10月21日(2016年4月29日閲覧)。</ref>。[[和田アキ子]]は後年「バンドの人もカメラマンの人もみんな厳しかった」と当時の現場スタッフたちの様子を回顧している<ref group="注">1990年10月3日放送の『ありがとう&さよなら夜のヒットスタジオ』での発言より。京都でのコンサートを終え、電話リクエスト会場となっていた名古屋の東海テレビのスタジオに駆けつけて中継した際、井上順から「ヒットスタジオでの思い出、何かある?」との問いに答える形で。</ref>。
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しかし、1981年春より同じく月曜に放送していた『[[NTV紅白歌のベストテン|紅白歌のベストテン]]』が完全ランキング方式の『[[ザ・トップテン]]』にリニューアルしたのを機に、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]と関係のある事務所([[研音グループ|研音]]など)の所属歌手や、日本テレビの関連会社が版権を有する曲を歌う歌手の中には同番組出演に制約を受けるケースが生じたり、同番組のスポンサーの同業他社のCMソングを歌っている<ref group="注">特に[[資生堂]]以外の化粧品メーカー([[カネボウ化粧品]]、[[コーセー]]など)のCMソングはCMのオンエア終了後しか披露できなかった。</ref>という理由で『ヒットスタジオ』に出演できないアーティストが現れ始めた(但し「B面またはアルバムの曲を披露する」という形で『夜ヒット』出演を優先させた歌手も多かった)。また、1978年の『[[ザ・ベストテン]]』(TBS)の登場により、歌番組のトレンドが本格志向な音楽番組から情報番組的な色彩を加味したものへと移行してゆく中で、上記の制約等により必ずしも「最新のヒット曲を手広くカバーする番組」と言い切れなくなった事情が災いして1984年頃から長年安定していた視聴率がやや下降線を辿り始めた。そのような歌謡番組全体を取り巻く環境の変化の中で、1985年4月、放送曜日の変更と2時間枠への拡大という刷新が図られることになった。
 
月曜22時台で最後の放送となった1985年033月25日は、スタジオにこれまで番組に何度も出演してきた大勢の歌手たちを招き、前半は過去の名珍場面や番組を飾った演出・美術セットの紹介と1984年10月1日放送分のリハーサルから本番の1曲目開始部分までの舞台裏の様子、後半は『春が来た』をBGMに芳村・井上が再び大階段から登場して2時間枠で取り入れる新企画や出演者の紹介がなされ、終盤は井上が枠移動を知らせる『お世話になりました』の替え歌を歌いスタジオの一同でグラスを手に乾杯した。招かれた歌手の中にはライバル番組である『トップテン』の生放送を終えてフジテレビに駆け付けた同番組司会の[[堺正章]]・[[榊原郁恵]]もおり、前半と後半の間には『トップテン』として二人が進行、一旦捌けた芳村・井上を呼び掛ける場面もあった。
 
== 夜のヒットスタジオDELUXE ==
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1985年4月3日、『ヒットスタジオ』は「ワールドワイドな音楽番組として国際色をより強くし、フルコーラスの原則を徹底してより歌を楽しんでもらう」との方針から、『DELUXE』として水曜21時・22時台の'''2時間枠の大型番組'''にリニューアルされた<ref>{{Cite journal|和書|date=1985-03-01|title=フジテレビが新2時間枠|journal=企業と広告|volume=11|issue=3|pages=6|publisher=チャネル|id={{NDLJP|2853024/6}}}}</ref>。放送曜日移動の理由は、フジテレビが水曜19・20時台に[[野球道 (フジテレビ系列)|プロ野球中継]]をする機会が稀であり<ref group="注">水曜日のフジテレビのプロ野球中継は、基本的に、資本関係上優先的な放送権を持っていた[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]の主催による[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦が組まれる程度であり、他球団主催の巨人戦は[[TBSテレビ]]・[[CBCテレビ]]・[[朝日放送テレビ]]が編成上中継できない場合に[[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋]]・[[中日ドラゴンズ|中日]]([[東海テレビ放送|東海テレビ]]と共同制作)・[[阪神タイガース|阪神]]([[関西テレビ放送|関西テレビ]]と共同制作)主催分を放送する程度だった。さらに[[パシフィック・リーグ]]を含む巨人戦以外のカードが組まれることは極めて少なかった。</ref><ref group="注">当時フジテレビの水曜日には、[[フジテレビ系列水曜夜7時台枠のアニメ|19時台]]に2本立ての人気アニメ(前半は『[[Dr.スランプ アラレちゃん]]』、後半は『[[うる星やつら (アニメ)|うる星やつら]]』)、20時台は[[フジテレビ水曜8時枠の連続ドラマ#大映テレビ制作枠|大映テレビ制作ドラマ]]が編成されていた。</ref>、その後に出演者の拘束時間などの面で何かと縛りのきつい生放送の番組を持って来ても特に支障なしとの判断が働いたためと伝えられる。
 
司会は月曜時代に引き続いて[[芳村真理]]・[[井上順]]のコンビが続投。「'''ビッグウエンズデー開幕'''」と題打ってこれまで「夜の」「ヒット」「スタジオ」と三行だった番組ロゴに「DELUXE」のロゴを加えて「夜の」「ヒットスタジオ」と二行の番組ロゴの下に小さく「DELUXE」の文字を付けたした物に変更をした。尚、番組タイトルロゴは番組セットの美術デザイナーでもある馬場文衛のデザインである。またオープニング映像を、それまでのスタジオ風景を背景とした白色テロップによる簡素なものから、宇宙空間をサーキットで走っていきスタジオ風景にワープする様を描いた[[コンピュータグラフィックス|CGコンピューターグラフィックス映像]]に変更({{要出典範囲|制作費は数千万と言われる|date=2024年4月}})。メインセットについても、階段状のセットに電飾が施され、ひし形の飾りが立体化される変更が行われた。

それまではスタジオ内の吊るされたスタンドマイク(ショットガンマイク)から司会者の声を拾い上げていたが、リニューアルを機に[[無線|ワイヤレス]]式の[[ワイヤレスマイク|ハンドマイク]]を持たせるようになった<ref group="注">ハンドマイクに書か表記されてい「8」マークは[[目玉マーク]]に変わってもそのまま使い続けたちなみに司会者用のハンドマイクについては縦書きに「8フジテレビ」と表記されていたは、1986年4月の[[目ん玉マーク]]およびロゴマーク変更後も番組終了まで使用。</ref>歌唱時に使用されていた有線マイクも、[[ワイヤレスマイク]]にわった。舞台演出の照明装置には、色彩や光線が自由自在にコントロールできる[[バリライト]]が当時のスタジオに本格的に導入された(バリライトアジア協力)。
 
演奏は引き続きニューブリードと日色ストリングスアンサンブルが務めることとなったが、[[ダン池田]]に代わりグループ・サウンズ出身者の[[三原綱木]]をバンドマスターに引き入れ、「ザ・ニューブリードスペシャル」としてメンバーを再編成した(1986年3月まで担当。その後はいわゆる"仕込屋"と言わニューブリードのメンバーに[[東京放送管弦楽団]]のアンサンブルがプラスさオーケストラ編成、「THE HIT SOUND SPECIAL」に交替)。多様な音楽に更に深く対応していくとの方針であったため、オーケストラの人員配置についても大幅な変更がなされ、吹奏楽部門担当は計13名を7名に削減、トランペット担当の演奏者が座っていた場所に木琴・鉄琴・クラシックパーカッションなどの[[打楽器]]担当者の席が配置された(1988年3月23日をもって撤廃)。また[[指揮者]]席も設置され、オーケストラが演奏を行わない際に指揮者はその席に座位するようになった。
 
新生『ヒットスタジオ』を象徴する企画が、一組のゲストに1ヶ月連続で出演してもらい、毎回異なる趣向のステージングでそのアーティストの多面的な魅力を引き出すというコンセプトで設置された'''「マンスリーゲスト」制'''である。最初のマンスリーゲスト(1985年4月)は[[小柳ルミ子]]、最多出場マンスリーゲストは[[郷ひろみ]]と[[田原俊彦]]の各3回である。この企画の中で[[布施明]]、[[五木ひろし]]等が三味線やフルートなどの楽器演奏に挑戦したり、他歌手とのジョイント、[[近藤真彦]]が歌舞伎の扮装で登場したり、[[中森明菜]]が[[不思議 (アルバム)|ボーカルに特殊加工を施し黒装束で妖艶に舞い踊る]](1987年2月4日放送)など、派手なパフォーマンスを展開した。また、[[作曲家]]・[[編曲家]]の[[大村雅朗]]を起用し、番組で生バンド「ザ・ニューブリードスペシャル」が演奏するメドレーやゲスト楽曲のアレンジを広瀬健次郎と共に担当したが後の「SUPER」で降板、尚「DELUXE」時代のオープニング映像のテーマ曲は広瀬健次郎が手掛けた。
 
また、ワールドワイドな番組を目指すというコンセプトを反映し、話題の海外アーティストを生出演させるセクションを設置した。特に大物のアーティストについては主要スタッフが海外へ赴き、直接出演交渉することもあったという。リニューアル直後の1985年4月17日には、アメリカのみならず世界のショービジネス界の大御所で、すでに伝説的な存在であった[[フランク・シナトラ]](スタジオ生出演)と、世界的な人気を誇っていた[[ティナ・ターナー]](衛星生中継)が出演した際には5000万円は下らない制作費が投じられたといい、この2人が生番組で会すること自体海外の番組でもほとんどないことであったために当時の海外の音楽業界でも話題となり、これを契機に出演交渉がスムーズにいくようになったとも言われている。その後、本番組には[[エルトン・ジョン]]、[[ジャネット・ジャクソン]]、[[ポール・マッカートニー]]、[[ボン・ジョヴィ]]、[[ホイットニー・ヒューストン]]、[[シーラ・E]]、[[バリー・マニロウ]]といったアーティストが出演した。
 
このほか、バックダンサー要員として、[[振付師]]の[[西条満 (振付師)|西条満]]の弟子オフィスダンサー集団で番組独自の女性ユニット「B・G・M」を結成(のち「Dee-Dee」に改名)させ、エンディングテーマ曲「You've Got A Name 〜 愛を信じて…」でレコードデビューさせた。また、ゲスト歌手の過去の出演シーンと現在の姿・歌声とを対比させる「タイムトンネル」、月曜日時代から不定期に行っていた司会の芳村のプロデュース企画「ファッションショー」もレギュラー化された。
 
=== 新旧交替〜井上順と芳村真理の降板、若手の積極的起用(1985 - 1988) ===
1985年9月25日、井上順が「自らの可能性をより広める」ためとして司会を降板<ref group="注">ただしこれは表向きの理由であり、実際は当時、井上が所属事務所に無断で製菓メーカーのCMの仕事を入れた事が問題視され、ペナルティーとして一定期間の芸能活動縮小に追い込まれた事による降板であるとされる。また、井上降板直後に刊行された元番組バンドマスター・[[ダン池田]]による暴露本『芸能界今日モ反省の色ナシ』の中で、かなりの頁数を割いてダンが井上(特に当番組に取り組む姿勢)に対する批判を展開している事を事前にキャッチした番組製作サイドが、これによって番組全体のイメージに傷が付く事を怖れて、刊行前のタイミングで井上を番組から外し、番組カラーを転換する必要に迫られたとの説もある。このような事情もあってか、井上司会最終回の1985年9月25日放送のエンディング時に芳村真理は「順さん、また(番組に)帰って来て」と言いながら花束を渡し、その後の「お世話になりました」の大合唱を号泣しながら見守っていた事から井上の降板が実際上は自発的なものではなく、当人の意思に反した降板であることを匂わせる発言をしている。</ref>。代わって[[テレビ朝日]]から独立して間もない'''[[古舘伊知郎]]'''が起用される<ref>{{Cite journal|和書|date=1986-01-01|title=FTV|journal=[[婦人生活]]|volume=40|issue=1|pages=97|publisher=[[婦人生活社]]|id={{NDLJP|2324857/97}}}}</ref>{{refnest|group=注|当初、同年春に『[[ザ・ベストテン]]』を降板した[[久米宏]]を井上の後任に迎える案があったが<ref>『週間TVガイド』1985年4月27日号。{{要ページ番号|date=2024年4月}}</ref>、既に久米は[[テレビ朝日]]系で同年秋スタート予定の報道番組(『[[ニュースステーション]]』)に専念することが内定していたために頓挫。久米の代わりとして、フリー転身直後の活躍ぶりを考慮して古舘の司会起用が決定したとされる。}}。古舘は局アナ時代の[[1982年]]に、スケジュール多忙のためにコーナー別撮りになった[[西田敏行]]の後任として、[[タモリ]]と共に『[[夢のビッグスタジオ]]』の司会になって<ref group="注">しかし西田が生で出演しなくなった事で人気は低下し、6回で降板した[[皇達也]]プロデューサーの後を追ってタモリ・西田と共に降板し、番組は8回で[[打ち切り]]になってしまう。なお残りの2回は、局アナの[[佐々木正洋 (1954年生)|佐々木正洋]]と[[南美希子]]が代行した。</ref>以来の音楽番組担当となった。古舘の司会第1回目の放送(1985年10月2日)で芳村真理は「時間が経てば終わるのよ」とフォローの言葉をかけ、古舘の緊張をほぐしたという<ref group="注">古舘が自身の著書で回顧している。</ref>。当時「ストロボする言葉マシーン」を自称していた古舘は[[プロレス]]・[[フォーミュラ1|F1]]の実況中継の時と同様に<!-- 「顔面ダブルバーガー」([[ばんばひろふみ]]に対して)、「歌う[[みどりの窓口]]」([[THE ALFEE]]に対して)、「歌う日米半導体[[貿易摩擦]]」([[TM NETWORK]]に対して)、「まるで人類の進化を見ているようです!」([[飛鳥涼]]・[[ジャッキー・チェン]]らを一列に並べた様を形容)など -->巧みな話術を展開し、それまで井上と芳村が交互に担当していた「4スタライブ」の進行も一手に引き受けることとなった。後に芳村は、古舘と最初に組んだ『ヒットスタジオ』の放送の時に若手司会者らしからぬ堂々の進行ぶりに圧倒され「自分の中で(司会勇退に向けて)心の整理を始めていた」「この人なら、後を任せられると思った」と著書の中で回顧している。
 
この時期には新進気鋭のアーティストの存在に注目し、[[久保田利伸]]、[[RED WARRIORS|レッド・ウォーリアーズ]]、[[今井美樹]]、[[BOØWY]]、[[THE BLUE HEARTS]]、[[米米CLUB]]、[[尾崎豊]](1988年6月22日放送)らを他に先駆けて出演させた。また、ミュージカルの1シーンの再現や、[[渡辺謙]]・[[松坂慶子]]ら人気俳優の「マンスリーゲスト」への起用のほか、アルバム収録曲が頻繁に披露されるなど、クオリティの高い番組制作が試みられた。松坂慶子が銀粉まみれの男性ダンサーと入り乱れながらの「桃色吐息」(1986年5月28日放送)、[[西城秀樹]]と[[バリー・マニロウ]]のジョイントによる「[[腕の中へ -In Search of Love-]]」(1985年12月4日放送)、THE ALFEEをバックコーラスに従えての[[吉田拓郎]]による「アジアの片隅で」(1987年12月30日放送)、[[アン・ルイス]]と[[吉川晃司]]による「六本木心中」での過激なパフォーマンス(1985年10月2日放送)、[[宇崎竜童]]・[[内田裕也]]・[[うじきつよし]]らロック仲間総出での「ロックンロール・ウィドウ」(1987年3月4日放送) などのシーンが生まれた。
 
古舘起用後も、制作の中心的役割を担ってきた[[塚田茂]]と[[疋田拓]]らが引き続き担当したものの、[[1987年]]のフジテレビ社内の人事異動で7月に疋田が降板したことを契機に<ref name="sunday-mainichi19880131">「できごとワイド1 鈴木健二、野村泰治、森光子、芳村真理 看板司会者が去るそれぞれの「裏事情」」『[[サンデー毎日]]』([[毎日新聞出版]])、1988年1月31日、159-161頁。</ref>、監修に回った塚田を除き制作の一線を外れ、代わって[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]出身で古舘とは学生時代より面識があったという[[木崎徹]]、プロデューサー・ディレクターには疋田の部下であった[[渡邉光男|渡邊光男]]など若手作家・スタッフ陣が起用された。当時の「サンデー毎日」の記事によれば、当時フジサンケイグループ議長だった[[鹿内春雄]]が推し進めた若返り政策の一環で、それまで率いてきた制作首脳陣の世代交代が一気に進められたとされる<ref name="sunday-mainichi19880131" />。夜ヒットは疋田班から渡邉班と[[森正行]]率いる森班の共同制作班となる
演出・プロデューサーとして渡邉光男が担当しプロデューサーとして森正行が名を連ねプロデューサーのクレジット表記が渡邉と森の名前が毎週交互に上下入れ替わりの順番となった。
その影響で、それまで番組出演回数や貢献度などを主たる選定基準としていた「マンスリーゲスト」に出演2回目であった若手・久保田利伸を抜擢(1987年10月)するなど、制作者や出演者の顔ぶれに新旧交替の傾向が強くなった。
 
そして、放送開始当初より司会を続けてきた芳村真理も1987年に入ってから番組降板の意思を示すようになり、同年夏、翌年初冬に控えた第1000回放送を区切りとして「勇退」という形での同番組の司会降板が正式が決定。これについては当初、1988年の新春が明けてから公表する予定となっていたが、1987年12月に一部スポーツ紙がこの話題をスクープ記事として取り上げる事態に発展したため、同月14日に急遽この報道を受けての緊急記者会見という形で正式に明るみに発表されることになった<ref>『朝日新聞』、1987年12月15日付朝刊、25面。</ref>。この席上、芳村は「しばらく家庭の時間を持ちたい」との意向が同番組降板の最大の理由であると説明<ref group="注">但し、後年の芳村の述懐によれば、1987年7月に[[光GENJI]]が番組に初出演した際、彼らの中に、自身の子供よりもずっと年下の中学在学中のメンバーがいた(恐らく[[赤坂晃]]、[[佐藤アツヒロ]]の事を指していると解される)事や、「ちわーす」「(芳村の物真似をしながら)どぅもー」等と軽い調子で挨拶をされたことに強いジェネレーションギャップを感じ、「もうここは私がいるべき場所ではない」と思ったことが番組降板を決断した最大の要因であったとされる(2015年10月2日放送『[[5時に夢中!]]』([[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]])に芳村がゲスト出演した際、司会の[[ふかわりょう]]から番組を降板の原因を尋ねられた際にも同様の返答をしている)。</ref>、降板と同時に以後の芸能活動の大幅縮小(事実上のセミリタイヤ)を示唆する格好となった(この芳村の『ヒットスタジオ』勇退は、第1回放送から出演してきた番組の象徴の番組降板という事情もあってか、スポーツ紙のみならず[[全国紙]]の社会面にもトピックス的な扱いながら取り上げられた)。
 
そして、この記者会見以降、第1000回放送に向けての企画準備が急ピッチで進められ、年が明けた1988年1月の放送分はマンスリーゲストを廃して、芳村の勇退記念企画を編成。そして同2月3日の第999回記念「[[ロンドン]]全編衛星生中継」企画(これは長年芳村とともに番組を支えてきたスタッフや当時の同番組の常連歌手たちの慰労旅行を兼ねた企画であった)を経て、同2月10日の第1000回放送「芳村真理サヨナラ特番」<!-- 司会者勇退につき膨大な費用と企画を用意したテレビ番組史上稀なケース -->では、第1回放送時のゲストであった[[島倉千代子]]・[[布施明]]を筆頭に総勢300名以上の歴代出演歌手と歴代の男性司会者(故人の三波伸介を除く<ref group="注">同放送回は歴代の男性司会者の担当期間を一つの時代と捉え、各歴代男性司会者が交代で芳村と自身の担当した期間に該当するトピックスを紹介する各コーナーの進行を行う構成を採ったが、三波司会時代の回顧コーナーは三波の元相方である[[伊東四朗]]が特別ゲストとして出演、古舘を進行役として、生前の三波の出演シーンを見ながら芳村と伊東が三波の思い出を語り合うという内容となっていた。</ref>)が出演し、芳村の最後の司会を見守った。芳村は放送の最後に一列に並んだ彼らから薔薇の花を一輪ずつ受け取り、「テレビの向こうにたくさんの顔が見えます」と、既に業界の一線を離れている過去の番組関係者や出演歌手らに向けたメッセージを残して番組を去っていった。この放送時の[[視聴率]]は[[1977年]][[9月26日]]以降に放送された日本のレギュラー音楽番組で歴代2位となる36.0%([[ビデオリサーチ社]]調べ)を記録した<ref>「[https://web.archive.org/web/20070806142050/http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/special/85/tbs004.htm TBSの研究 (4)低迷続く視聴率]」 [https://web.archive.org/web/20001202234800/http://www.yomiuri.co.jp/index.htm 読売新聞]、2005年12月9日。</ref>。
 
なお、月曜日時代から続いていた「ラッキーテレフォンプレゼント」は1987年に「夜ヒットテレカ」プレゼント企画スタートのため終了。また、現在同番組を表す略称として使われる事の多い『夜ヒット』の呼称は古舘が司会に起用されてから頻繁に使用されるようになった。
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この時期から歌番組に対するニーズの変化もあり<ref group="注">テレビ朝日系の『[[はなきんデータランド]]』の台頭に象徴される、純粋に音楽を楽しむというよりもヒットチャートを調べるために見るという、「目的から手段への変化」である。</ref>、放送時間の短縮を機に予算が大幅に削減されたことも影響し、大物アーティストの出演頻度が下がった。[[布施明]]・[[井上陽水]]・[[サザンオールスターズ]]・[[北島三郎]]・[[森進一]]らは『SUPER』には一度も出演せず、それまで月に1、2回出演していた番組最多出演者の五木ひろしも[[1990年]][[1月10日]]放送を最後に出演がなくなり、1980年代には毎週のように出演していた[[ジャニーズ事務所]]の所属タレントの出演頻度も激減。若年層に人気のある日本歌謡のジャンルが、[[演歌]]・[[フォークソング]]・[[ニューミュージック]]から[[J-POP]]・[[J-ROCK]]に移行しつつあった時代的背景もあって、若手バンドやロック・アイドル歌手が出演者の大半を占めるようになり、1990年4月18日放送に出演した[[石川さゆり]]を最後に純然たる演歌歌手の出演はついに途絶えてしまった<ref group="注">派生番組の『[[夜のヒットスタジオ#ヒットスタジオ演歌|ヒットスタジオ演歌]]』も一足早く同年3月に終了している。</ref>。
 
また、これまでの同番組では全盛期を担当した[[疋田拓]]に象徴されるように放送業界や音楽業界にも絶大な力を持つプロデューサーが一手にキャスティング・曲目選定の決定権限を持ち、これが番組人気の要因であった「歌手や曲目のジャンルの幅広さ」を実現させる生命線として機能していたが、渡邉光男・森正行体制に移行して以降、変化していった。例えば、[[菅原文太]]が出演した際には、「歌が苦手なのでを1コーラスのみの歌唱にしてほしい」と放送内で要望し、トーク部分を引き伸ばそうとする行動に出たり([[1989年]][[11月15日]]放送)、[[長渕剛]]が3曲披露したり([[1990年]][[2月28日]]放送・[[7月25日]]放送)、別スタジオで曲が披露される機会が増えたりしたことなどが挙げられる。この時期には2-3曲を披露するアーティスト(例として長渕剛・さだまさし・松山千春・甲斐よしひろ・久保田利伸など)が最低1組は登場していた。
 
このような変容に相まって、ビッグバンドによる生演奏・手書きテロップの使用・オープニングでのリレーメドレーなど番組の構成、または定式自体が「時代遅れ」という印象を強く持たれ始めたことも視聴者離れにより拍車をかける格好となった<ref group="注">特にビッグバンドについては、演歌・歌謡曲系歌手の出演機会が激減した影響から、回によってはオープニングのメドレーのみしか演奏を行わないということも少なくなかった。</ref>。『SUPER』に刷新した1989年秋には[[TBSテレビ|TBS]]の『[[ザ・ベストテン]]』、本番組終了半年前には[[日本テレビ]]の『[[トップテンシリーズ]]』(当時は『[[歌のトップテン]]』)と既にこの時期、『[[ミュージックステーション]]』を継続していた[[テレビ朝日]]を除く民放各局でもこの2番組を筆頭に生放送式音楽番組の終了が相次いでおり、番組そのものが時代にそぐわない状況となりつつあった。
 
こうした諸因が積み重なり、新体制移行から8か月後の1990年5月9日の放送で10%の大台を大きく割り込み、'''5.6%'''という史上最低の視聴率を記録<ref name="yoruhit-19900905">「瀬戸際の歌番組「夜のヒットスタジオ」終了へ」『[[読売新聞]]』([[読売新聞社]])、1990年9月5日、夕刊11面。</ref>。このことから、それ以降の5月16日の放送からはベテラン歌手にかつてのヒット曲を披露させたり、トリを若手のバンドなどが務める機会を増やしたりしたものの低迷が続いたため、1990年9月4日にフジテレビは同番組の終了を正式に決定した<ref name="yoruhit-19900905" />。これを受けて、同年9月の放送分3回を「22年ありがとう月間」と題した特別編成で放送したあと、同10月3日、3時間枠での特別番組『[[夜のヒットスタジオ#最終回|ありがとう&amp;さよなら夜のヒットスタジオ]]』を放送。この放送をもって、足掛け'''22年'''、放送回数'''1131回'''に亘って放送された『夜のヒットスタジオ』シリーズはその歴史に幕を閉じた。『夜ヒット』の終了とともにフジテレビのゴールデンタイムからも音楽番組が消滅し、金曜23時台へ場所を移して『[[ヒットパレード90's]]』を開始させた。フジテレビ系の音楽番組は4年後の1994年に『[[HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP]]』を開始するまでゴールデンタイムでの放送が途絶えた。
 
== 年表 ==
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| [[1969年]](昭和44年)
|「恋人選び」コーナーなどで中村晃子(1月27日)、いしだあゆみ、小川知子(2月24日)が突然放送中に号泣。'''泣きの夜ヒット'''として話題に<br />1月6日、[[ザ・ピーナッツ]]初登場「[[ガラスの城 (曲)|ガラスの城]]」。女優の歌ゲスト第1号として[[松原智恵子]]が出演<br />1月27日、[[春日八郎]]・[[菅原洋一]]初登場<br />2月24日、[[都はるみ]]初登場「好きになった人」<br />3月17日、最高[[視聴率]]42.2%([[ビデオリサーチ]]調べ、関東地区)を記録<br />3月31日、モノクロからカラー放送へ移行。スタジオもグランドスタジオ棟(第6スタジオ)に変更され、番組専属のバンドとしてダン池田とニューブリードが起用される(1969年4月 - 1985年3月)。また、当日からは同番組に続く生番組として「[[テレビナイトショー]]」がスタート。同番組の月曜日は「ヒットスタジオ延長戦」として位置づけられ、司会の前田・芳村、構成の塚田ら主要スタッフがそのまま連投(〜1970年9月)<br />3月31日、[[吉永小百合]]が歌手として初登場<br />4月21日、[[坂本九]]初登場<br />5月19日、[[由紀さおり]]初登場「[[夜明けのスキャット]]」<br />6月9日、[[和田アキ子]]初登場「[[どしゃぶりの雨の中で]]」<br />6月23日、[[佐良直美]]初登場「ギターのような女の子」<br />7月7日、[[ハナ肇とクレイジーキャッツ]]・[[森山良子]]初登場<br />7月14日、同番組構成の[[塚田茂]]が前田武彦の代理司会を担当。[[ザ・ドリフターズ]]、[[森山良子]]初登場<br />8月4日、[[勝新太郎]]・[[ちあきなおみ]]初登場<br />8月25日、コント55号特別出演(コンピューター恋人選びの特別ゲストとして出演<br />9月8日、[[江利チエミ]]初登場、当時米国に長期滞在中だった親友・[[雪村いづみ]]と国際電話で久々に会話し号泣<br />9月15日、[[浅丘ルリ子]]が歌手として初登場「[[愛の化石]]」<br />9月29日、[[大原麗子]]、歌手特別出演(コンピューター恋人選びの特別ゲストとして登場出演)<br />10月6日、スポーツ界からの初のゲストとして大相撲の[[北の富士勝昭|北の富士]]が出演<br />10月13日、[[渡哲也]]初登場「ギターと旅びと」<br />10月20日、[[沢田研二]]、[[ザ・タイガース]]のヴォーカルとして初登場。番組方針によりキャスティングが見合わせられていた[[グループ・サウンズ]]・バンドの番組出演がこの回を機に解禁される。<br />10月27日、[[石原裕次郎]]が初登場
11月3日、[[山口崇]]が特別出演(コンピューター恋人選びの特別ゲストとして出演)<br />11月17日、元[[読売ジャイアンツ]]選手・[[金田正一]]が現役引退からほどなく特別出演(コンピューター恋人選びの特別ゲストとして出演)<br />11月24日、[[キックボクシング]]の人気者・[[沢村忠]]が歌手として番組初登場「いかす街だぜ」<br />12月1日、[[森田健作]]・[[池畑慎之介☆|ピーター]]初登場<br />12月8日、[[加藤登紀子]]初登場「ひとり寝の子守唄」<br />12月15日、[[西郷輝彦]]・[[藤圭子]]初登場、[[岡田眞澄]]を特別ゲストとして迎える<br />12月22日、海外(日本国外)から初のゲストとして[[オズモンド・ブラザーズ]]出演<br />12月29日、年末特別版として「御対面」の特別ゲストとして金田正一、「恋人選び」の特別ゲストとして[[津川雅彦]]を迎えて放送。北島三郎、いしだあゆみ、水原弘、水前寺清子、森進一、佐良直美ら10組以上の常連歌手が“飛び入り”の形で出演、1コーラスずつ当時の最新曲を披露。
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| [[1970年]](昭和45年)
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| [[1985年]](昭和60年)<br />(10月 - )
| rowspan="3" align="center" | 古舘伊知郎<br />1985年10月2日 - 1990年10月3日<br />第878回 - 1131回
| 10月2日、元・[[テレビ朝日]]アナウンサーの古舘伊知郎が4代目の男性司会者として登場。応援ゲストに[[アントニオ猪木]]、また、角界から横綱・[[千代の富士貢|千代の富士]]が出演。<br />10月2日、アン・ルイス・吉川晃司が「六本木心中」で過激なライブパフォーマンスを展開、物議を醸す<br />10月2日、[[岸千恵子]]が大勢の地元の後援会の面々が駆けつける中、「千恵っ子よされ」をスタジオ狭しに駆け回りながらの熱唱。随奏の三味線伴奏者や当日のゲスト歌手までもが即興で踊り出し、スタジオ内が異様な熱気に包まれる<br />10月9日、ジョイント - 矢野顕子×坂本龍一(夫婦競演)<br />10月9日、[[HOUND DOG]]初出演。多数のファンがスタジオに駆けつける中で「[[ff (フォルティシモ)]]」を熱唱、曲の途中で当日の出演者の一人、サザンオールスターズの[[桑田佳祐]]が飛び入りでジョイント。<br />10月16日、[[阪神タイガース]]優勝の瞬間を生中継。放送時間のおよそ半分を生中継に費やしたため、当日のみしか空いていないスケジュールの歌手のみを優先させて歌わせ、エンディングでオープニングメドレーを行った。<br />11月13日、[[ホイットニー・ヒューストン]]衛星生中継で初出演「[[すべてをあなたに (曲)|Saving All My Love for You(すべてをあなたに)]]」<br />11月20日、[[矢沢永吉]]、ロサンゼルスから衛星生中継で初出演「[[YOKOHAMA二十才まえ]]」「SHE BELONGS TO HIMー彼女は彼のものー」<br />12月4日、ジョイント - 西城秀樹(マンスリー)×[[バリー・マニロウ]]「[[腕の中へ -In Search of Love-]]」<br />12月11日、[[SHOW-YA]]初登場<br />12月18日、逸見政孝が古舘の代役司会、ジョイント - 沢口靖子×布施明「白の円舞曲」<br />12月25日、当日放送回の前半トリで「夢よ急げ」を披露する予定となっていたTHE ALFEEの演奏中にギターが故障して演奏の続行が不可能になるアクシデントが発生。急遽、後半(22時台)の曲順・構成を入れ替え、再演奏する措置が採られる。
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| [[1986年]](昭和61年)
| 1月29日、大関・[[朝潮太郎 (4代)|朝潮]]夫妻が特別ゲストとして登場<br />2月5日、露木茂、古館の代理司会を担当(芳村・露木は、1986年まで『FNS歌謡祭』司会を務めていた)<br />2月12日、[[本田美奈子.|本田美奈子]]初登場「[[1986年のマリリン]]」<br />3月5日、[[BOØWY]]初登場「[[わがままジュリエット]]」<br />3月26日、放送900回突破を記念して、歴代の出演歌手を集めての2時間の総集編企画を組む。番組中盤にはおニャン子クラブからの卒業を発表した[[中島美春]]・[[河合その子]]の送迎企画を放送。この回は生放送ではなく事前収録だった<br />4月2日、オーケストラがTHE HIT SOUND SPECIALになり、バンドマスターも三原綱木から新井英治に交代(1989年9月まで)<br />4月2日、ハリー・ベラフォンテ出演。ゲスト歌手全員での「[[ウィ・アー・ザ・ワールド|We Are The World]]」大合唱<br />4月9日、[[南野陽子]]初登場「[[悲しみモニュメント]]」<br />4月16日、[[西村知美]]初登場「[[夢色のメッセージ]]」<br />5月7日、[[聖飢魔II]]初登場「[[蝋人形の館 (曲)|蝋人形の館]]」<br />5月21日、[[スティーヴィー・ワンダー]]が衛星生中継で初出演。[[ブレッド&バター]]とともに「remember my love」をジョイント<br />[[フィリピン]]の[[コラソン・アキノ]]大統領の実娘、クリス・アキノが特別出演<br />5月28日、[[甲斐バンド]]、最初にして最後の出演、「漂泊者」などを披露<br />6月11日、[[シンディ・ローパー]]初出演<br />7月23日、[[渡辺美里]]初登場<br />8月6日、[[スターダストレビュー]]初登場「今夜だけきっと」<br />8月20日、ジョイント-西城秀樹×カシオペア×宇崎竜童「[[約束の旅 〜帰港〜]]」ほか<br />8月27日、森昌子「サヨナラ」企画<br />9月10日、[[オメガトライブ]]の新ボーカル・[[カルロス・トシキ]]、久々の肉親との対面に号泣「[[Super Chance]]」<br />9月10日、[[モナコ公国]]公女・[[ステファニー・ド・モナコ]]が歌手として衛星中継で出演<br />9月17日、[[陣内孝則]]が歌手として初登場<br />9月24日、[[ジャネット・ジャクソン]]初登場<br />10月8日、ジョイント-[[桜田淳子]]×[[寺泉憲]]、ミュージカル「アニーよ銃をとれ」のナンバーから3曲を披露<br />10月22日、[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]から[[中日ドラゴンズ]]へと移籍したばかりの[[落合博満]]が特別ゲストとして出演。翌年1月には「サムライ街道」をひっさげて歌手として出演を果たす
 
10月29日、プロ野球日本シリーズを3年ぶりに制した[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]の[[東尾修]]、[[工藤公康]]、[[伊東勤]]、[[石毛宏典]]、[[辻発彦]]、[[清原和博]]が特別ゲストとして出演。[[ばんばひろふみ]]と[[CHAGE and ASKA|チャゲ&飛鳥]]が応援歌「Vのシナリオ」から石毛、東尾、工藤のパートを選手の目の前で披露。<br />11月26日、ジョイント - 岩崎宏美×布施明<br />[[広島東洋カープ]]・[[山本浩二]]選手が特別出演<br />12月31日、特別企画「世界紅白歌合戦」として放送、衛星生中継で[[ロッド・スチュワート]]、[[ボブ・ゲルドフ]]、[[バングルス]]、[[:en:Regina Richards|レジーナ]]が初登場<ref group="注">1985年12月31日にも放送されているが、こちらは『[[火曜ワイドスペシャル]]』の特別企画として放送されている。</ref>
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| rowspan="2" align="center" | 古舘伊知郎/<br />柴 俊夫<br />1988年2月24日 - 1989年9月27日<br />第1002回 - 1084回
| rowspan="2" align="center" | ―
| 2月24日、柴俊夫が司会に参加、男性2人制に<br>3月30日、「盛春特大号」と題し、生歌を挟み、過去の名場面から総集編を行う。<br />3月30日、舘ひろしがメドレーにて中山美穂「[[色・ホワイトブレンド]]」が歌えなくなり、再度歌唱の処置に。<br />4月20日、[[泉谷しげる]]初登場「褐色のセールスマン」<br />5月25日、柴が[[オリエント急行]]への現地からリポートを行い、東京のスタジオからは古舘が単独司会。海外からジャッキー・チェンが出演<br />6月、1985年秋から活動を休止していたサザンオールスターズがマンスリーゲストとして復活。初日にあたる6月1日放送では2年半ぶりの新曲「[[みんなのうた (サザンオールスターズの曲)|みんなのうた]]」を熱唱<br />6月22日、[[尾崎豊]]、テレビ生番組初出演「[[太陽の破片]]」<br />7月20日、[[大江千里 (アーティスト)|大江千里]]初登場「[[GLORY DAYS (大江千里の曲)|GLORY DAYS]]」<br />7月、マンスリー・小泉今日子が10分近い大作「[[夏のタイムマシーン]]」を前後編に分けて披露<br />8月、マンスリーゲスト制を休止し、特別企画として毎週異なるアーティストによる第4スタジオでの公開ライブ企画を実施(翌1989年8月期にも実施)<br />8月24日、活動休止を発表した[[安全地帯 (ロックバンド)|安全地帯]]のボーカル、[[玉置浩二]]が報告をかねて単独で番組に出演。休止前最後のシングル曲「微笑みに乾杯」をソロで披露(但し、クレジット上はグループとしての出演として取り扱われる)<br />9月7日、[[所ジョージ]]、歌手として登場「故郷」<br />9月28日、ジョイント - [[加山雄三]]・[[ザ・ワイルドワンズ]]「旅人よ」<br />10月19日、志村けんが『[[志村けんのだいじょうぶだぁ|だいじょうぶだぁ]]』ファミリーを率いて「[[ウンジャラゲ]]」を披露。志村及び事務所内の先輩格であり、元々TBS系列の番組『[[植木等ショー]]』にて「ウンジャラゲ」を披露していた[[植木等]]が応援ゲストとして出演<br />11月9日、[[津川雅彦]]一家が特別出演。列車にちなんだ歌をメドレー形式で披露。<br />11月、番組放送20周年<br />'''マンスリー・スタジオLIVE'''、'''恋人選び'''コーナー12年ぶりに復活<br />・11月23日、初代司会の前田武彦・芳村真理を迎え20周年特別版放送<br />・11月30日、[[ザルツブルク]]より衛星中継。東京の第6スタジオからは、[[中井美穂]]・[[松山千春]]・[[服部克久]]・[[Dee-Dee]]が出演<br />・12月7日、20周年記念今昔総集編放送(事前収録)<br />・マンスリーに[[松山千春]]登場<br />12月28日、『スーパーデラックス』放送(昭和時代最後の放送)<br />・ジョイント - HOUND DOG×THE ALFEE「SWEAT&amp;TEARS+ff(フォルティシモ)」、渡辺美里×泉谷しげる×大友康平「[[恋したっていいじゃない]]」ほか
|-
| [[1989年]](平成元年)<br />( - 9月まで)
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| align="center" | 古舘伊知郎
| align="center" | 加賀まりこ<br />1989年10月18日 - 1990年10月3日<br />第1085回 - 1131回
| 2時間から1時間へと放送時間短縮(番組4分割)<br />バンドマスターが服部隆之に交替<br />1989年11月8日、2日前(11月6日)に逝去した松田優作を追悼するコーナーを特別に設定、松田が出演した1980年4月28日放送分のVTRを放映<br />1989年11月15日、[[菅原文太]]が歌手として登場<br />1990年3月7日、[[B'z]]初登場<br />1990年4月25日、[[香港]](グランドハイアット香港前ほか)から全編中継<br />1990年5月16日以降、テコ入れ策の一環として、オープニング後の最初の曲に往年のヒット曲を据える構成が採られるようになる(郷ひろみ「[[よろしく哀愁]]」、[[南こうせつ]]「[[神田川 (曲)|神田川]]」、CHAGE and ASKA「[[万里の河]]」、長渕剛「[[巡恋歌]]」など)<br />1990年5月30日、[[コロッケ (タレント)|コロッケ]](CROKET名義)が歌手として登場「Just A Lonely Man」<br />1990年8月29日、番組史上最後の初出演アーティストとして[[B.B.クィーンズ]]が登場<br />1990年9月、22年ありがとう月間として放送<br />・マンスリーに松山千春再登場<br />・22年の最後を締めくくる歌は若手最多出演者・田原俊彦「ジャングル Jungle」<br />1990年10月3日、22年間にわたる歴史に幕
|}
=== 節目・記念の回 ===
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* 第500回 - 1978年6月5日(前週の5月29日に繰り上げて500回記念放送)
* 第600回 - 1980年5月12日(5月5日 - 26日まで記念月間)
* 第700回 - 1982年4月12日(4月5日 - 26日まで記念月間、26日に特別編成前述参照))〉)
* 15周年(突入) - 1982年10月4日(2時間スペシャル、実際には11月1日放送から15年目突入)
* 第800回 - 1984年3月26日
* 第900回 - 1986年3月12日(26日に900回突破記念の特別編成企画を組む)
* 第1000回 - 1988年2月10日(3時間特番・[[芳村真理]]勇退)
* 20周年 - 1988年11月23日-12月7日(1週目は今昔特別編、2週目は全編海外衛星中継、3週目は総集編企画。実際には11月2日放送から21年目突入)
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* 「メドレー」で和田アキ子が『男の子女の子』をワンコーラス丸々歌ってしまい、一言も喋らないまま郷ひろみにマイクを渡してしまった。
* あべ静江の時、あべが当番組に初出演した日&回のテロップが添えられたのに、野沢ナレーターは中条きよし当番組データをナレーションしてしまった。
=== 1976年・第400回記念 ===
[[ファイル:Former Fuji Television Headquarters.JPG|thumb|第400回記念を放送をした第6スタジオ(グランドスタジオ)がある旧河田町本社屋]]
* 放送日時:1976年7月5日
* 放送400回目に当たる1976年7月5日を第400回記念第一弾としてフジテレビスタジオより通常放送。更に7月当月を400回記念月間として7月12日を第二弾、7月19日を第三弾、7月26日を第4弾としていたが実際に企画を組んでの放送は第一弾のみとなった。内容はオープニングメドレー後に出演者の幼少期(子供時代)のスナップ写真の紹介から始まった。また放送第一回、第100回、第200回、第300回をVTRや特大ボードを使って振り返り第一回出演者だった布施明には当時の歌唱曲「愛の香り」と新曲「陽ざしの中で」の二曲を披露、第200回時に出演の井上順も司会者枠を超えて当時歌唱の「君にあげよう」を披露、また初出演となった[[松本ちえこ]]はスポンサー[[資生堂]]のタイアップもあり「[[恋人試験]]」を自身が出演したコマーシャル共演者に見立てた男性陣たちが歌唱時にコマーシャル出演の時と同じスキューバダイビングの衣裳を着用しバックで踊って盛り上げる演出となった。第二弾放送以降は企画はなく出演者に初登場の話を聞く程度にとどまった。
 
==== 司会 ====
* 芳村真理、井上順
==== 出演者・歌唱曲 ====
* [[キャンディーズ]]「[[夏が来た! (キャンディーズの曲)|夏が来た!]]」
* [[松本ちえこ]]「[[恋人試験]]」
* [[太田裕美]]「[[赤いハイヒール]]」
* [[細川たかし]]「[[置き手紙]]」
* [[橋幸夫]]「おとこ酒」
* [[八代亜紀]]「ふたりづれ」
* [[布施明]]「愛の香り」(第一回出演時歌唱曲)「[[陽ざしの中で]]」
* 井上順「君にあげよう」(第200回歌手として出演時の歌唱曲)
 
=== 1975年沖縄海洋博 ===
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* [[森進一]]([[ああ人恋し]])
バンバンはこの回が初登場。
=== 1976年・第400回記念 ===
[[ファイル:Former Fuji Television Headquarters.JPG|thumb|第400回記念を放送をした第6スタジオ(グランドスタジオ)がある旧河田町本社屋]]
* 放送日時:1976年7月5日
* 放送400回目に当たる1976年7月5日を第400回記念第一弾としてフジテレビスタジオより通常放送。更に7月当月を400回記念月間として7月12日を第二弾、7月19日を第三弾、7月26日を第4弾としていたが実際に企画を組んでの放送は第一弾のみとなった。内容はオープニングメドレー後に出演者の幼少期(子供時代)のスナップ写真の紹介から始まった。また放送第一回、第100回、第200回、第300回をVTRや特大ボードを使って振り返り第一回出演者だった布施明には当時の歌唱曲「愛の香り」と新曲「陽ざしの中で」の二曲を披露、第200回時に出演の井上順も司会者枠を超えて当時歌唱の「君にあげよう」を披露、また初出演となった[[松本ちえこ]]はスポンサー[[資生堂]]のタイアップもあり「[[恋人試験]]」を自身が出演したコマーシャル共演者に見立てた男性陣たちが歌唱時にコマーシャル出演の時と同じスキューバダイビングの衣裳を着用しバックで踊って盛り上げる演出となった。第二弾放送以降は企画はなく出演者に初登場の話を聞く程度にとどまった。
 
==== 司会 ====
* 芳村真理、井上順
==== 出演者・歌唱曲 ====
* [[キャンディーズ]]「[[夏が来た! (キャンディーズの曲)|夏が来た!]]」
* [[松本ちえこ]]「[[恋人試験]]」
* [[太田裕美]]「[[赤いハイヒール]]」
* [[細川たかし]]「[[置き手紙]]」
* [[橋幸夫]]「おとこ酒」
* [[八代亜紀]]「ふたりづれ」
* [[布施明]]「愛の香り」(第一回出演時歌唱曲)「[[陽ざしの中で]]」
* 井上順「君にあげよう」(第200回歌手として出演時の歌唱曲)
 
=== 1977年・大磯ロングビーチ ===
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=== 1979年・西武球場 ===
[[ファイル:Seibukyujo-931023-3.jpg|thumb|会場となった西武球場(現:[[西武ドーム]])]]
*放送日時:1979年10月8日
*リニューアルした西武球場内に特設ステージを設置し観客を入れての生放送。台風の接近による大風のため大混乱の生放送となった。
==== 司会 ====
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=== 1988年・『夜のヒットスタジオDELUXE LONDON』 ===
[[ファイル:Brocket Hall.jpg|thumb|『IN LONDON』の会場となった「{{仮リンク|ブロケット・ホール|en|Brocket Hall}}」]]
*放送999回(DELUXEとしては通算147回) 
*放送日時 1988年2月3日
** 番組開始から担当してきた芳村の勇退と999回を記念して、[[イギリス]]の[[ロンドン]]郊外にある古城{{仮リンク|ブロケット・ホール|en|Brocket Hall}}に番組のメインセットを組んで放送。これまで国内各地から全編生中継してきたが、海外から全編衛星生中継するのは初であった。
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==== 司会者等 ====
* 芳村真理、古舘伊知郎、服部まこ(中継リポーター兼通訳) - ロンドン
* [[二谷友里恵|原武友里恵]]<ref group="注">当時郷ひろみの妻。1987年6月結婚、1998年4月離婚。</ref> - ゲスト
==== 出演者 ====
* [[THE ALFEE]]
* [[河合奈保子]]
* [[小泉今日子]]
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=== 1988年・「20周年記念 夜のヒットスタジオDELUXE SALTBURG (ザルツブルク)」 ===
[[ファイル:Residenzplatz, Salzburg 1.jpg|thumb|会場となったザルツブルグ・レジデンツ広場]]
* 放送1042回(DELUXEとしては通算190回) 
* 放送日時 1988年11月30日
** 放送20周年を記念して[[オーストリア]]の[[ザルツブルク]]から全編衛星生中継された。フジテレビ第6スタジオには、万が一衛星中継が切れた時の事故の為に、[[中井美穂]]と[[松山千春]]、ダンサーのDee-Deeがスタンバイしており、緊急時にはVTR紹介などでつなぐ態勢が敷かれていた。
1,038 ⟶ 1,053行目:
* [[エイス・ワンダー]]
* [[ペット・ショップ・ボーイズ]]
* [[松田聖子]] (ニューヨークより電話で出演<ref group="注">交通事故の為急遽出演出来なくなった。欠席に伴う</ref>)
* 松山千春(東京のスタジオから)
==== スタッフ ====
1,051 ⟶ 1,066行目:
=== 1989年・「夜のヒットスタジオDELUXE in PARIS(パリ)」 ===
[[File:Paris Parvis des Droits de l'homme 20100803 Eiffel Tower.jpg|thumb|300px|スタジオセットを組んだ[[エッフェル塔]]の前にある[[シャイヨ宮]]内の広場、2010年8月]]
* 放送1058回(DELUXEとしては通算206回) 
* 放送日時:1989年3月29日、21:02 - 23:15
** エッフェル塔が100周年を迎え、[[パリ]]市長から直々の招待を受け、パリの[[エッフェル塔]]の前にある[[シャイヨ宮]]内の広場にスタジオメインセットを組み、オーケストラには[[ポール・モーリア]]が指揮、演奏は[[ポール・モーリア・グランド・オーケストラ]]が入るという豪華な全編衛星生中継であった。
1,115 ⟶ 1,130行目:
==== 司会 ====
* 古舘伊知郎、加賀まりこ
* 時任三郎 - ゲスト
* [[王祖賢]] - ゲスト
==== 出演者 ====
* THE ALFEE
1,125 ⟶ 1,142行目:
 
=== 最終回 ===
「夜ヒット」の最終回は1990年10月3日に『'''ありがとう&さよなら夜のヒットスタジオ'''』と題した3時間特番(21:00 - 23:48)を放送。この日は、歴代司会者、主な出演歌手らがスタジオに集合した。全体進行は「SUPER」時代の古舘・加賀が担当し、各コーナー毎の進行を特別ゲストの歴代の司会者がリレー形式で行う形で放送された(尚、歴代司会者のうち、朝丘雪路と、既に故人となっていた三波伸介は不参加オープニングでは[[セピア色]]の写真を[[3次元コンピュータグラフィックス|3DCG]]で立体化させ、その顔がウィンクをしたり笑ったりするモーション処理を施した歴代司会者の顔が映されたが、朝丘のみ除外されていた))〉)
 
なお、既に歌謡番組としての機能を終えており、ゲストによる新曲などの披露は行わず、膨大なVTRを見ながらのトークを中心とした。そのためオーケストラボックスにバンドはおらず、代わりに翌年度にフジサンケイグループ各社へ入社が内定している者が招待された。当日は、フジテレビ系列8局<ref group="注">フジテレビ、北海道文化放送、仙台放送、テレビ静岡、東海テレビ、関西テレビ、テレビ新広島、テレビ西日本、沖縄テレビ。これらの系列局ではフジテレビ側の電話番号とは別に各系列局専用の電話番号も設置された。</ref>で電話リクエストを受け付けた。電話の受付を行う各局スタジオにも各地での仕事のためフジテレビに来られない出演歌手が多数出演した。また、関東地区では同年11月3日の12:00-14:55に再放送された。なお、このスペシャルからは2日前にフジテレビ系フルネット局化したばかりの[[テレビ長崎]]がネット復帰した。
1,249 ⟶ 1,266行目:
* プロデューサー:渡邉光男、上原徹
 
=== ヒットスタジオコンプレックス ===
『R&N』と『International』の2部構成番組。
* 放送期間(統合後):1990年4月6日 - 9月28日、金曜日深夜(土曜未明)。
1,380 ⟶ 1,397行目:
* 1991年7月3日(21:20 - 23:30)
* [[雲仙普賢岳]]噴火の被災者救済の[[チャリティー]]のために復活。[[野球道 (フジテレビ系列)|ナイター中継'91]]「[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]×[[読売ジャイアンツ|巨人]]」延長のため20分遅れで放送開始。生放送開始から終了後も電話による募金を受け付けた。
* フジテレビ系列27局と[[青森放送]]でネットされた。なお、当時のクロスネット局のうち、[[テレビ大分]]は当時の通常の水曜プライムタイムがテレビ朝日系の同時ネット枠<ref group="注">現在は日本テレビ系同時ネット枠。</ref>、[[鹿児島テレビ放送|鹿児島テレビ]]は当時の通常の水曜プライムタイムが日本テレビ系の同時ネット枠であったが、九州地区で起きた災害という事情から、この日に限り、特例としてフジテレビ系の本特番を同時ネットで放送した<ref group="注">ただし、2局とも、23時以降は日本テレビ系の『[[NNNきょうの出来事]]』同時ネットのため、22:54にて飛び降り終了であった。</ref>。
 
'''<司会>'''
1,399 ⟶ 1,417行目:
* [[さだまさし]]
 
※[[島原市]]からは[[山中秀樹]](フジテレビアナウンサー、当時)がリポートを担当したほか、[[鐘ヶ江管一]]市長(当時)が出演。フジテレビ系列27局と[[青森放送]]でネットされた
 
'''<スタッフ>'''
1,409 ⟶ 1,427行目:
* プロデューサー:渡邉光男、井上信悟
* 演出:渡邉光男
 
=== 夜のヒットスタジオ RETURNS SPECIAL ===
* 1993年3月31日(21:00 - 23:03)
* レギュラー終了後の特別番組では初めて『夜ヒット』のスタジオセットをフルに再現した(ただしオーケストラは配置せず)。同特番は20%以上の高視聴率を挙げ、以後数年間にわたる『夜ヒット』特別番組放送の契機となった。
* テロップ表示もほぼ当時に近い形で再現されたが、当日歌唱の曲名表示については、これまで使われた手書きから[[ゴシック体|新聞特太ゴシック]]に改められた(下部分の作詞・作曲・歌手名は変更せず。この表示方式は『ヒットスタジオR&N』後期にも採用された)。
* なお、1970年開局時からネットした[[山形テレビ]]が[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]への[[ネットチェンジ#山形県の事例|系列変更ネットチェンジ]]を翌日に控え、フジテレビ系列での最終放送日となり、本特番が同局ゴールデン・プライム枠最後の同時ネット番組となった。
 
'''<司会>'''
1,483 ⟶ 1,501行目:
 
'''<スタッフ>'''
*構成:高須晶子スタッフ東京
*音楽:[[服部隆之]]
*中継ディレクター:[[荒井昭博]]、小林延行、DAI HIROSE
1,550 ⟶ 1,568行目:
* 1995年4月5日(20:00 - 23:14)
 
'''<司会>'''
* [[関口宏]]
* 中井美穂(当時フジテレビアナウンサー)
1,566 ⟶ 1,584行目:
* [[TRF]]
* 内田有紀
* [[H Jungle with t]]{{efn2|[[浜田雅功]]([[ダウンタウン (お笑いコンビ)|ダウンタウン]])は放送当時、本番組の後身にあたる『[[HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP]]』の司会者。}}(※浜田雅功が番組史上初の口パク出演<ref>自著エッセイ『読め!』。{{Full|date=2024年4月}}{{要ページ番号|date=2024年4月}}</ref>(あくまでも自称である
 
'''<スタッフ>'''
1,688 ⟶ 1,706行目:
* KinKi Kids(※中継)
 
== CSでの再放送・映像の保存頻度状況 ==
[[1998年]]より[[フジテレビTWO]](旧フジテレビ721)にて当番組の[[再放送]]が行われている。当初は『DELUXE』版よりスタートし、月曜時代のものについては翌[[1999年]]夏より再放送を開始した。2011年4月より[[フジテレビONE]]に放送チャンネルを移した(チャンネル編成の再編に伴うもの)が、2011年12月末で本番組の再放送が一旦打ち切られ、当面の間休止することになった。
 
1,695 ⟶ 1,713行目:
以前は、ほぼ完全な形で局に現存している第400回(1976年7月5日放送)以降が対象となっており、1974年以前の放送で現存が確認されているのが[[1969年]][[1月27日]]<!-- (これのみ家庭用VTRでありOPメドレーなど一部が欠落している) -->・[[2月24日]]・[[7月28日]]、[[1973年]][[8月6日]]、[[1974年]][[3月25日]]・[[4月1日]]・[[8月5日]](第300回記念)・[[8月19日]]の計8回分のみ(2008年現在)であることや、[[三波伸介 (初代)|三波伸介]]の親族が生前の映像使用の許可を出していないことが要因とされていた。過去の総集編企画等でも大半のパートを第400回以降の映像が占めていた。1000回記念では前田武彦・三波伸介時代の映像も多数放送されたが、それ以降は井上順以降の映像が大半を占めた。
 
また、[[肖像権|当時の出演歌手の版権上の問題や過去映像に対する解釈]]により、完全な形での再放送は実現していない。再放送不可能なのが確認できるのは、主だったところでは[[ジャニーズ事務所]]所属タレント([[田原俊彦]]ら元所属タレントを含む)<!-- 出演回が全編放送できない -->、[[とんねるず]]、[[おニャン子クラブ]]、[[南野陽子]]、来日アーティストら([[テレサ・テン]]、[[チョー・ヨンピル]]など一部放送可能なアーティストもいる)。[[サザンオールスターズ]]、[[ラッツ&スター|ラッツ&スター(シャネルズ)]]についても途中から再放送されなくなった。[[花のあすか組!|あすか組]]の出演回の再放送に際しては、当初は通常通り放送されていたが、途中から彼女たちの顔に[[モザイク処理|モザイクをかける処置]]がとられた。[[沢田研二]]については当初<!-- CSで夜ヒットの再放送がスタートして1巡目、2巡目の際には -->「[[コバルトの季節の中で]]」を歌った1976年10月25日分が再放送され、その後リストから外されていたが、フジテレビTWOにチャンネル名変更になってからの再放送で再び可能となった。<!-- 以前は、CSではまったく放送予定になかった回が誤って放送された際、その中に含まれていてNGにも関わらず放送されてしまったことがある。 -->
 
『SUPER』の再放送は、近年まで5回分程度にとどまっていた。2008年にそれまで再放送のなかった4回分が新たに追加されたが、再放送の充分でない状況に変わりはない。
1,714 ⟶ 1,732行目:
 
; 余談
初代司会の[[前田武彦]]は司会当時、当番組の映像を数多く家庭用[[ビデオ|VTR]]に保存していたが、司会解任時に[[ビデオテープ|テープ]]を全て廃棄してしまったという<ref group="注">前田が自らの著書{{Full|date=2024年4月}}{{要ページ番号|date=2024年4月}}で後年回顧している。</ref>。
 
== ネット局 ==
1,858 ⟶ 1,876行目:
|[[熊本県]]
|[[テレビ熊本]](TKU)
|1983年3月21日からステレオ放送実施<ref>『テレビ熊本30年史』{{Full|date=2024年4月}}p.112</ref>
|-
|[[大分県]]
1,872 ⟶ 1,890行目:
|[[鹿児島テレビ放送|鹿児島テレビ]](KTS)
|日本テレビ系列<br />フジテレビ系列
|1981年4月6日から1985年3月まで<ref group="注">ネット開始前はテレビ朝日系番組を放送していた。ネット開始日の出典は当日の[[南日本新聞]]{{Full|date=2024年4月}}{{要ページ番号|date=2024年4月}}。</ref>水曜21時台・22時台は日本テレビ系ネット枠<ref name=":1" group="注" />の為打ち切り<br>1983年1月からステレオ放送実施
|-
|[[沖縄県]]
1,884 ⟶ 1,902行目:
* ネット局のロールスーパーでは略称の横にあるカッコ枠に放送局の所在地である都道府県名が表記されていた。ただし、仙台放送(OX)は「仙台」、東海テレビ(THK)は「名古屋」、山陰中央テレビ(TSK)は(1972年9月までは「島根」だったが鳥取県と相互乗り入れになった同年10月以降)「山陰」と表記されていた。テレビ西日本(TNC)は[[北九州市]][[八幡東区]]に本社があった頃は「北九州」表記だったが、福岡市へ本社移転する1974年前後には「福岡」表記となっている。また当初ネット局の掲載順についてはネットを開始した順となっていたが、中後期はフジテレビ以外は概ね北から順の表記となっている。
* 1978年10月2日から1990年9月19日の最終回まで、青森放送・山陰中央テレビ・テレビ新広島はステレオ放送非対応だった<ref group="注">北海道文化放送は、札幌地区以外の旭川・函館・室蘭・帯広・北見(網走)・釧路の各地区は、マイクロ回線([[NTT中継回線]])や回線使用料、さらに冬季の中継局の維持等から音声多重放送開始は見送った。</ref>。番組末期の1990年には、山形テレビ・テレビ愛媛・テレビ宮崎がステレオ放送を開始した。
* レギュラー番組の放送期間中、最後まで放送されなかった唯一の地域は、[[岩手県]]のみだった<ref group="注">但し、レギュラー番組終了後の復活スペシャル版で、大感謝祭スペシャル・Ⅱ以降は岩手めんこいテレビで放送。</ref>。
 
== セット ==
1,966 ⟶ 1,985行目:
* 『DELUXE』からは、司会者が階段から降りてくるシーンに演奏している楽曲と放送回数(左が番組開始から、右が『DELUXE』開始から通算の放送回数)を表示するようになった。ただし、1986年12月までと1990年4月以降は前述した誤った記録を訂正しないままテロップが作成され、正確な放送回数とは違う回数が表示されていた。そのため最終回で表示した通算放送回数は一部資料と同じく「1133回」となっていた(正しくは「1131回」)。
 
* 『DELUXE』初期(1985年4月10日 - 6月26日)は、曲名テロップの下にこれまで併記されていた歌手名テロップなぜか省略されていたが、すぐに7月3日放送からは元の(上段から)手書きの曲名・作詞及び作曲者名・歌手名の表記に戻された。
 
== スタッフ ==
2,011 ⟶ 2,030行目:
* '''[[渡邉光男]]'''(4代目プロデューサー兼総合演出担当、'''P・D'''担当)※'''P・D'''=プログラム・ディレクター(副調整室OA担当D)
: 1987年7月1日から番組終了までプロデューサー兼プログラムディレクター担当。疋田直属のディレクターであり、人事異動<ref name="sunday-mainichi19880131" />により疋田から番組を引き継いだ。
: 疋田の元で行われた演出のノウハウ<ref group="注">カメラワーク・ドライアイス(スモーク)・照明・ビル群などセットの舞台演出</ref>を踏襲するも、斬新的な演出は後退ながらも、スタジオ内に出演者やオーケストラが待機するひな壇を覆うような大きいセットを設置したり、レインボーの配色のバリライトといった派手な照明、セットを多用した。
: 在任中は莫大な制作費を投じて、出演歌手の別スタジオライブ、多くの歌手やスタッフを同行させて[[ロンドン]]<ref group="注">1988年2月3日放送</ref>・[[ザルツブルク]]<ref group="注">1988年[[11月30日]]放送</ref>・[[パリ]]<ref group="注">[[1989年]][[3月29日]]放送</ref>・[[香港]]<ref group="注">[[1990年]][[4月25日]]放送</ref>といった海外主要都市からの完全衛星生中継を実現させた。
: 番組終了後のスペシャル版ではプロジェクトプロデューサーのクレジット肩書きであった。
2,021 ⟶ 2,040行目:
: 井上Dと同様にチーフディレクター格でDELUXE時代初期までフロアも担当していた。DELUXE後期からアシスタントプロデューサーを担当した。演歌・民謡歌手[[金沢明子]]の元夫である。
* '''鈴木清親'''(ディレクター)
: DELUXEからのフロア担当、疋田Pが離れたと同時に番組移動、後に疋田の独立に参加することになりフジテレビを退社した。エクシーズに所属後、現在は疋田が創設した「プロデュース&ディレクション」のPである。
* '''[[上原徹]]'''(AD→ディレクター / 海外現地担当ディレクター)
: 元・[[フォー・セインツ]]メンバー。スタジオでの演出スタッフとしても関わり、ミュージシャン時代の人脈から、出演歌手のブッキングも担当していた<ref name="uehara-20080214">「[https://www.musicman.co.jp/interview/19562 「Musicman's RELAY 第70回 上原 徹 氏 株式会社フジパシフィック音楽出版 代表取締役社長」] 」、Musicman-NET、2021年6月28日閲覧。</ref>。
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* '''[[新井義春]]'''(ディレクター)
: 月曜60分番組時のフロア担当、他番組では「[[新春スターかくし芸大会]]」のコーナー演出ディレクターを井上や渡邉と共に担当した年もあった。退社後は制作会社「D3カンパニー」を設立し「[[季節はずれの海岸物語]]」の制作、演出となる。
* '''平野友孝'''(ディレクター)
: 元々は森班所属でドリフ大爆笑などを担当、DELUXEからフロアディレクター、渡邉がプロデューサーに交代してからは演出も担当。
* '''戸上浩'''(ディレクター)
: 月曜60分時、DELUXE時代にもフロア担当であったが疋田Pが番組を離れたと同時に退社。疋田Pの協力の下で制作会社「エクシーズ」を設立し[[志村けん]]冠番組「[[志村けんのだいじょうぶだぁ]]」、[[バカ殿様]]シリーズ等を担当している。尚、エクシーズの所在地は疋田Pの制作会社と同じビルにある。
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* '''相沢雅浩'''(ディレクター)
: 月曜60分時、DELUXE時代のフロアディレクター、後に一時期制作から離れるが番組終了後のスペシャル番組で渡邉Pとともに演出に携わる。2016年にFCC(ニューヨーク支局)担当となる。現在はエクシーズのスタッフである。
* '''平野友孝'''(ディレクター)
: 元々は森班所属でドリフ大爆笑などを担当、DELUXEからフロアディレクター、渡邉がプロデューサーに交代してからは演出も担当。
* '''[[水口昌彦]]'''(ディレクター)
: SUPERから担当。番組終了後は編成局へ移動。
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* '''[[小杉雅博]]'''(FD / D /演出)
: DELUXE後半からSUPERの一部と終了後のスペシャル版を担当、リターンズスペシャルでは渡邉プロデューサーと共に演出も担当した。編成局へ移動後、現在はBSフジメディア企画室長。
* '''桑原潔'''(AD / FD)FD)
: DELUXE後半からSUPERを担当。
* '''野田俊彦'''(AD / FD / AP)
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* '''渡辺秀樹'''(AD / FD)
: DERUXEからSUPER前半を担当。
* '''種田慶郎'''(AD / FD) FD)
: DELUXEからSUPERを担当。
; 補足
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;DVD
* [[山口百恵 in 夜のヒットスタジオ]](フジテレビ、AVBD91791、2010年6月30日)
:[[山口百恵]]が歌唱したシーンなどを6枚組に収録。
* [[中森明菜 IN 夜のヒットスタジオ]](フジテレビ、POBD-22017/22、2010年12月22日)
:[[中森明菜]]が歌唱したシーンなどを6枚組に収録。
* [[ピンク・レディー in 夜のヒットスタジオ]](フジテレビ、PCBC-61679、2011年5月27日)
:[[ピンク・レディー]]が歌唱したシーンなどと他フジテレビ出演映像を4枚組に収録。
* [[沢田研二 in 夜のヒットスタジオ]](フジテレビ、POBD-22036/41、2011年12月21日)
:[[沢田研二]]が歌唱したシーンと歌唱前後の司会陣とのトーク(全ての回ではない)を6枚組に収録。ただし『DELUXE』以降の司会である古舘伊知郎・柴俊夫・加賀まりこに関する映像は一切収録されておらず(歌唱時のバックに写り込んでいる場面はある)、『DELUXE』期・『SUPER』出演時(1990年2月21日放送回)収録のディスク6には歌唱シーン(オープニングメドレー含む)のみ収録されている。
:また以前に発売さまての夜のヒットスタジオDVDでは番組本編以外にも他のフジテレビの番組映像が収録されていたが、沢田の場合はDVD収録の番組映像が1975年〜1990年の15年分(102回)に及ぶため<ref>[https://www.barks.jp/news/?id=1000075403 沢田研二の超貴重映像満載、『沢田研二 in 夜のヒットスタジオ』の収録曲と映像が解禁] 2012年6月21日閲覧。</ref>か他番組映像の収録は一切ない。
* THE ALFEE 40th Anniversary スペシャルボックス(ポニーキャニオン、PCBP-62039、2014年9月3日)
:[[THE ALFEE]]のCD+DVD-BOX。DVD2枚組にTHE ALFEE出演・歌唱時の映像を収録している<ref>[{{Cite web |url= http://hp.ponycanyon.co.jp/pchp/cgi-bin/PCHPM.pl?TRGID=PCHP_SKH_1010&CMD=DSP&DSP_SKHBNG=201400000632&DSP_SKHKETSEQ=001]{{リン|title=THE ALFEE 40th Anniversary スペシャルボッ切れス:DVD |datewebsite=2019年4月}}。<ポニーキャニオン公式サイト |publisher=ポニーキャニオン |language=ja |accessdate=2024-04-27|archiveurl=https:/ref>。/web.archive.org/web/20140910200233/http://hp.ponycanyon.co.jp/pchp/cgi-bin/PCHPM.pl?TRGID=PCHP_SKH_1010&CMD=DSP&DSP_SKHBNG=201400000632&DSP_SKHKETSEQ=001
|archivedate=2014-09-10}}</ref>。
* [[西城秀樹 IN 夜のヒットスタジオ]](ポニーキャニオン、2020年5月)
* [[西城秀樹 IN 夜のヒットスタジオ]](発売元:フジテレビジョン、販売元:ソニーミュージックダイレクト、2020年5月16日発売、DQBX-1231 - 1236)
* [[郷ひろみ IN 夜のヒットスタジオ]](2023年10月18日発売、SRBL-2160 〜 2165)※オープニングメドレーから本歌唱の「[[哀愁のカサブランカ]]」以外全てを収録。
:特典映像(フジテレビでの他出演番組)を含む6枚組。
* [[郷ひろみ IN 夜のヒットスタジオ]](発売元:フジテレビジョン、販売元:ソニーミュージックレーベルズ、2023年10月18日発売、SRBL-2160 - 2165)
:6枚組で、最古映像は『[[誘われてフラメンコ]]』(1975/7/7)。但しシングル曲では「[[哀愁のカサブランカ]]」のみ未収録。特典映像は2023年収録の郷ひろみツアー密着映像とインタビュー。
;CD
* [[尾崎豊]]「[[LIVE CORE LIMITED VERSION YUTAKA OZAKI IN TOKYO DOME 1988/9/12]]」([[ワーナーミュージックジャパン]]、2013年11月27日)
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|2放送枠=金曜26:30 - 27:30枠(1989年10月 - 1990年3月)
|2番組名=ヒットスタジオインターナショナル
|2前番組=26:10-[[眠れない夜]]<br />26:40-[[ものまねくらぶ]]<br />27:10-[[冗談画報|冗談画報II]]
|2次番組=24:40-'''ヒットスタジオコンプレックス'''<br />27:00-[[いまごろテレビみてるやつ]]
|3放送局=フジテレビ
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[[Category:フジテレビの特別番組]]
[[Category:かつて存在したフジテレビの年末年始特番]]
[[Category:フジテレビの改編期特番]]
[[Category:朝丘雪路]]
[[Category:古舘伊知郎]]
[[Category:前田武彦]]