「四日市ぜんそく」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Chemietsu (会話 | 投稿記録)
(14人の利用者による、間の38版が非表示)
1行目:
{{参照方法|date=2014年1月}}
[[File:四日市コンビナート - panoramio.jpg|thumb|300px|四日市コンビナートと白いスモッグ]]
[[File:Sulfur-dioxide-3D-vdW.png|thumb|300px|原因となった二酸化硫黄は、[[マスタード・ガス]]を含む[[硫黄酸化物]](SOx)の一つ。金毒中毒症状の喘息や酸性雨の原因となる。]]
 
'''四日市ぜんそく'''(よっかいちぜんそく)は、1950年代末から1970年代にかけて問題化した戦後日本の公害問題。[[大気汚染]]による集団[[気管支喘息|喘息]]障害で、[[水俣病]][[イタイイタイ病]][[第二水俣病|新潟水俣病]]とあわせて、[[高度経済成長#日本の例|高度経済成長]]期の負の側面である[[公害病#四大公害病|四大公害病]]の一つである。
 
[[三重県]][[四日市市]]の[[四日市コンビナート]]から発生した二酸化硫黄が原因で、同市[[塩浜地区]]を中心とする四日市市南部地域・海蔵地区などの四日市市中部地域から南側に隣接の[[三重郡]][[楠町 (三重県)|楠町]](現:四日市市)にかけて発生し<ref group="注釈">患者は「死ぬより辛い」というほどの発作に苦しんだ。四日市市北部地域の富田地区・富洲原地区と四日市市西部地域は四日市公害の被害とは無関係である</ref><ref group="注釈">四日市市のみの公害と誤解されるが隣接する三重郡楠町にも公害患者が多数いた</ref>、[[1959年]](昭和34年)から[[1972年]](昭和47年)にかけて政治問題化した。
 
漢字では、'''四日市喘息'''と表記する。[[水質汚染]]を含めた[[環境問題]]としては、'''四日市[[公害]]'''と呼ばれている<ref group="注釈">簡易表記や教育内容の教科書や正式名の四日市ぜんそくの呼称以外に難解漢字表記や医学用語では四日市喘息や水質汚染や喘息以外の病気など公害全体を指す四日市公害の呼称や四日市喘息の呼称がある</ref>。四日市公害が発生した当時は別名では'''塩浜ぜんそく'''(四日市市内で使用された名称)<ref name="#1">『ガリ切りの記』生活記録運動と四日市公害(出版社)影書房(著者)[[沢井余志郎]]63頁</ref>の名称や、大気汚染が原因で発生した健康影響事件として<ref>http://www.eic.or.jp/ecoterm/?act=view&serial=2634</ref>'''四日市のぜんそく事件'''([[国会]]内で使用された名称<ref group="注釈">四日市ぜんそくは他の三つの公害の水俣病・イタイイタイ病・新潟水俣病を[[日本政府]]が昭和43年に[[公害病]]と認定したが、四日市ぜんそくは日本政府の公害病認定がなくて公害病扱いされず、四日市のぜんそく事件と呼ばれていて、公害病ではなくて[[事件]]扱いされていた。</ref>の名称で呼ばれていた。
 
==概要==
[[1959年]]に入り、[[四日市コンビナート]](第1コンビナートの工場群)に隣接する四日市市南部の塩浜地区で急激に[[喘息]][[患者]]が増加した。[[鈴鹿川]]沿いの[[漁村]]で漁民の多い磯津地区は特に重症患者が多く「塩浜ぜんそく」や「四日市ぜんそく」と呼ばれた。昭和30年代に[[タバコ]]の[[喫煙]]と同じで当たり前になっていた大気汚染による公害は発生当初は特に問題視されなかったが、昭和40年代に国会でも「四日市公害」や「四日市のぜんそく事件」と呼ばれ[[社会問題]]となった。三重県内でコンビナート企業を優遇する九鬼市長を支援していた自民党側と、[[革新政党]]の支持者など公害患者側の市民と激しい政治紛争となった。昭和45年の[[第64回国会|公害国会]]で[[環境問題]]が集中審議された。
 
四日市公害の大気汚染の経過は第1コンビナートの操業開始当時、排出される硫黄酸化物の総量は年間10万トン近くまで増加した。石油は石炭のような黒い煤煙を出さないので、空が黒く覆われる事はなかったため、石炭よりもクリーンに見えたが、実は気管や肺に障害を引き起こす硫黄酸化物を多く含んでいた。これが喘息の主要因として指摘される。当時、石炭の黒い[[スモッグ]]に対して、四日市の煙は白いスモッグと称された。
 
特に四日市のコンビナートでは、中東産の硫黄分の多い原油を使っていたことが、被害を更に悪化させた。1963年の第2コンビナート操業開始により大気汚染は更に悪化、1964年に喘息による初めての死者が発生した。高齢の患者が病気の苦しさや家族にかける負担などに悩んだ末、自殺する事件も起きている。
 
四日市市は公害病と認定した市民に対し、市費で治療費を補償する制度を1965年に開始。当時は国側にも公害患者を公費で救済する制度はなく、市の試みは全国初だった。認定患者の数は同年5月に行われた第1回の審査の時は18人だったが、1967年6月末には381人、1970年9月末には544人と急増。患者の増加に市だけでは治療費を負担できなくなり、国や企業も分担金を出すようになった。
 
四日市の大気汚染を改善したのは、実は高煙突ではなく、脱硫装置の普及やより硫黄分の少ない原油への切り替えだった。この2つは硫黄酸化物削減法としては、当時最も効果的であった。国と企業は硫黄分の少ない原油の輸入を増やすと同時に脱硫装置の開発を研究する。[[厚生省]](現・厚生労働省)は、疫学的な手法で大気汚染による呼吸器への影響調査・検証をし、その結果高い有症率と大気汚染の関係を立証した。
 
[[1967年]]の塩浜中学校3年生の女子学生の[[公害病]](四日市ぜんそくでの入院中の死亡を契機に四日市市民の怒りが爆発し、悲惨な状況を打破するため[[前川辰男]]([[日本社会党]]所属の四日市市議会議員)は[[コンビナート]]の[[企業]]の内、明らかに加害行為が立証された6社(塩浜地区付近の化学系企業の[[石原産業]]、[[三菱化学|三菱油化、三菱化成工業(現]] [[三菱ケミカルグループ|三菱ケミカルHD]])、[[三菱化学エムケーブイ|三菱モンサント化成(現]] [[三菱ケミカルグループ|三菱ケミカルHD]])と[[四日市港]]付近の石油系企業の[[中部電力]]、[[昭和四日市石油]]のみに絞り込み、[[#四日市公害訴訟|四日市公害訴訟]]を開始した。
 
つの企業のみの加害行為(水俣病は[[チッソ]]が加害企業、イタイイタイ病は[[三井金属鉱業]]が加害企業、新潟水俣病は[[昭和電工]]が加害企業)が明らかだった他の[[四大公害病]]の[[水俣病]]・[[イタイイタイ病]]・[[新潟水俣病]]と比較して、複数の工場群([[四日市コンビナート]]には多数の企業が存在する)による四日市公害を裁くのは困難を極めたが、弁護団や[[科学者]]など多くの支援によって[[1972年]]に四日市公害裁判に勝訴した<ref>『ファミリー版世界と日本の歴史12巻』『現代4巻21世紀への扉』72頁</ref>。
 
== 原因 ==
日本初の本格的な[[石油化学コンビナート]]である四日市コンビナートが建設されたことによって、1960年代に四日市市は急速に工業化された。工場の生産活動で大量の亜硫酸ガス([[硫酸ミスト]])が大気中に排出された。地元三重県の[[三重大学]][[医学部]]公衆衛生学教室に所属していた[[吉田克巳]]教授などの[[医学者]]や[[環境学]]者は、原因不明の喘息などの疾患の原因について学術調査をした。
 
公害患者が発生した塩浜地区が、[[四日市コンビナート]]の[[亜硫酸ガス]]排出源の風下の位置であり、地理的に亜硫酸ガスの着地点でもあることから、亜硫酸ガスの濃度が高い塩浜地区で喘息発作が多発したのでことから、四日市ぜんそくは亜硫酸ガス(二酸化硫黄)や[[二酸化窒素]]や[[二酸化炭素]]の増加が原因であるとした。昭和30年代に三重県四日市市で(塩浜地区に)第1コンビナートが操業を始めたことを発端とする公害対策として排出量の規制が行われた。四日市公害(四日市ぜんそくによって悪名の意味で四日市市の[[知名度]]が向上した。
 
四日市ぜんそくを引き起こした有害物質の中で、一番影響が強かったとみられる物質は、四日市コンビナートから10万トン排出された[[硫黄酸化物]] (SOX) であった。石油は石炭と違い黒いばい煙の黒いスモッグに覆われを出さず、[[石炭]]よりもクリーンな[[エネルギー]]と呼ばれていたが<ref>[http://contest.thinkquest.jp/tqj2001/40419/no/rekishi/yon.html 四日市ぜんそく] 地球doctor</ref><ref>四日市ぜんそくの原因の質問と回答より</ref>、気管や肺の障害や疾患を引き起こす四日市ぜんそくなどの原因となる硫黄酸化物を多く含んでいた。四日市コンビナートでは中東産の硫黄分の多く含んだ原油を使用していた。
 
中部電力があった第2コンビナートに進出していた石油系企業と化学系企業が中心であった第1コンビナートから硫黄酸化物が排出されて「白いスモッグ」と呼ばれた<ref>菅井益郎 『公害の研究―産業の発展によってうしなわれたものとは』16、ポプラ社〈調べ学習日本の歴史〉、2001年4月、28頁14行目から25行目</ref>。四日市市は救済に乗り出したが犠牲者は1000人を超えた。四日市コンビナート企業の有罪が確定してから、官民あげての公害被害者対策が講じられた<ref>時代の流れが図解でわかる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]212頁</ref>。
 
== 症状 ==
[[気管支炎]]や気管支ぜんそくや咽喉頭炎など呼吸器疾患になる。大気汚染による[[慢性閉塞性肺疾患]]であり、息苦しく、喉が痛み、激しい[[喘息]]の発作が起こる。症状がひどいと呼吸困難から死に至る。[[心臓発作]]や[[肺気腫]]([[肺がん]])を併発する場合もある。
 
[[黒川調査団]]の報告では
45行目:
==コンビナートの誘致 ==
<ref name="#2">(参考文献)は四日市市史(第14巻)史料編現代I。</ref><ref name="#3">(参考文献)は四日市市史(第15巻)史料編現代II。</ref><ref name="#4">(参考文献)は、四日市市史(第19巻)通史編現代。</ref><ref>(引用ホームページ)は、「四日市公害。学習案内。ガイドブック NO.1」四日市公害ぜんそく。</ref><ref>(引用ホームページ)は、[http://www.city.yokkaichi.mie.jp/kankyo/index.shtml かんきょう四日市]。</ref>
* 四日市市長の[[平田佐矩]]と三重県知事の[[田中覚]]がコンビナート誘致活動の中心人物となった政治家である。三重県と四日市市などの地方自治体によってり、日本初の[[コンビナート]]施設である四日市コンビナートが誘致された。[[漁網]]・[[紡績]]など[[繊維]]産業中心の[[軽工業]]から、重工業の[[石油化学]]産業の育成のために、四日市コンビナート建設さ図らた。昭和30年代に四日市の[[重工業]]化が行われた。
* 塩浜地区に第1コンビナート)が建設されて、午起地区に第2コンビナート)が建設されて、霞ヶ浦地区に第3コンビナートが建設された。[[1955年]]([[昭和]]30年)に 四日市コンビナート建設のために、四日市市塩浜地区の旧[[大日本帝国海軍]]燃料廠跡地が石油関連企業に払下げられる。[[1956年]](昭和31年)に第1コンビナートの建設を開始する。[[1957年]](昭和32年)に第2コンビナートの埋立てを開始する。[[1959年]]に、第1コンビナートが本格稼働する。
 
===政治的背景===
[[1955年]](昭和30年)の三重県知事選挙では、以下の構図となった。戦後初の公選知事であった現職の[[青木理 (三重県知事)|青木理]]三重県知事には、[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]・[[日本民主党]]の推薦と三重県内の[[川崎秀二]][[衆議院議員]]など、四日市市選出以外の保守系[[国会議員]]・保守的な[[三重県議会議員]]の支持があった。
 
新人候補の田中覚には、以下の[[労働組合]]の支持があり、[[自治労]]三重県連合・三重県の職労団体・三重県の官公労組織・三重県の地方労協組織・総同盟三重県連合・[[ゼンセン同盟]]三重県支部・[[近畿日本鉄道|近鉄]]労組・紀州工業労組などの[[労働者]]の支持と、以下の[[農業協同組合|農協組織]]の桑名農協・員弁農協・三泗農協・中勢農協・宇治山田農協・北勢農協・牟婁農協など三重県内の農協の支持と[[日本社会党]]([[社会党右派|右派社会党]]本部・右派社会党三重県連合・[[社会党左派|左派社会党]]本部・左派社会党三重県連合)の支援があった<ref> 『菜の花の海辺から上巻評伝田中覚』42頁</ref>。
 
そこで三重県の保守層が、[[革新自治体|革新知事]]の誕生に危機感を強めて、いわゆる田中赤攻撃とされる以下の中傷攻撃をした。「田中はアカだ」「[[伊勢神宮]]がある[[聖地]]三重県が[[左翼]]に汚される」「三重県が[[共産主義]]になる」と[[マルクス主義]]者だという誹謗中傷のビラをまいて警戒した{{Harv|平野孝|1997}}。田中を応援した親しい官僚は「田中が赤いのは間違いである。田中は若いのだ」と反論した。
 
日本社会党の労組組織と、田中候補の地元の塩浜地区を中心とする四日市市民の応援と四日市市の保守層([[山手満男]])の支持を得た[[農林省 (日本)|農林省]]の元官僚の田中三重県知事に当選して、三重県に日本初(全国[[都道府県]]で初期ともされる)[[革新自治体]]が誕生する。田中の出身地の塩浜地区は工業化による四日市コンビナート企業の社宅設立で人口が増加して塩浜地区([[塩浜駅]]周辺の南部)と三浜地区([[海山道駅]]周辺の北部)の2地区(小学校区)に分裂して、塩浜地区は工業化によって地区が発展すると、塩浜地区民は期待していた。
 
三重県は、自由民主党と日本社会党が共に、田中を支える[[オール与党]]体制となる。[[1959年]]の四日市市長選挙で[[日本社会党]]と四日市北部(富田地区・富洲原地区を地盤とする)保守層の支持を得た[[平田佐矩]]が四日市市長に当選する<ref> 四日市市立富洲原小学校創立100周年記念誌(昭和51年に発行)187ページから188ページ下段8行目 </ref><ref> 四日市市史(第19巻・通史編・現代)巻末付表の37ページから38ページ歴代市長・助役・収入役3役</ref>。
 
===軽工業にわる新産業としての重工業化政策===
戦前までの四日市市は[[紡績]]([[繊維]]産業)の町として有名であった。四日市市は、[[東洋紡|東洋紡績]](市内に[[東洋紡績富田工場]]・三重工場・四日市工場・塩浜工場・楠工場)、[[トーア紡コーポレーション|東亜紡織]](市内に泊工場・楠工場)、[[平田紡績]](市内に富洲原工場)の発祥地であった<ref>[http://jibasanmie.or.jp/j_menshi.html 綿糸紡績の歴史]じばさん三重 2020年2月11日閲覧</ref>。繊維産業を中心とする[[軽工業]]にる、新しい産業を振興する[[重工業]]化政策の必要性から、日本で最初の本格的な石油化学コンビナートの誘致が田中覚知事を中心とする三重県と、平田佐矩市長を中心とする四日市市によって行われた。
 
===反対運動===
*第1コンビナートが塩浜に建設されたことが、四日市ぜんそくの発端となった。当初は第1(石油化学)四日市コンビナートによる「塩浜ぜんそく」と呼ばれるもので塩浜地区のみの被害だったが、高煙突化によって(三重郡楠町・浜田地区・日永地区)に公害が拡大した。内部地区・河原田地区に三菱油化河原田工場<ref>『ガリ切りの記』生活記録運動と四日市公害(出版社)影書房(著者)[[沢井余志郎]]144頁から146頁</ref>が建設される予定だったが(第1石油化学コンビナートを増設した工場施設の建設計画)公害の健康不安から工場建設に反発した四日市市民による激しい反対運動があった。第1コンビナートを拡大して石油化学企業を誘致する計画が、四日市市民と地区住民の反対で中止となった。
* 四日市公害(四日市ぜんそく)による健康被害が報道されたことで静岡県で大規模なコンビナートの誘致と工場建設工事の反対運動があった。「ノーモア四日市」<ref group="注釈">戦時中の原子爆弾投下を繰り返さないノーモア広島ノーモア長崎の原爆ノーモアのヒロシマ・ナガサキがあるが、戦後の革新政党や環境運動家が叫んだノーモアとして公害問題では水俣病のノーモア水俣と四日市ぜんそくと四日市公害に反対するノーモア四日市と新潟水俣病再びのワンモア水俣がある。イタイイタイ病は富山病ではなくて呼称が地名ではなくてノーモアと言われなかった。</ref>の[[スローガン]]が叫ばれて、また「四日市の二の舞になるから反対」<ref group="注釈">静岡ではノーモア四日市と第二の四日市公害が叫ばれた</ref>の声が高まり[[革新政党]]や環境運動家が反公害運動を日本中に積極的に繰り広げて、日本各地の以下の都市コンビナート誘致する計画があったが住民の反対で建設が中止となる<ref>菅井益郎 『公害の研究―産業の発展によってうしなわれたものとは』16、ポプラ社〈調べ学習日本の歴史〉、2001年4月、34頁右側の段落1行目から15行目</ref>。
*# [[静岡県]][[沼津市]]
*# 静岡県[[三島市]]
71行目:
 
* 環境運動家や革新政党は戦前の[[大日本帝国]]による戦争は「平和ではない時代の殺人」、四日市ぜんそくによる公害問題は「平和な時代の殺人」として反公害運動を拡大して、四日市市は公害([[毒ガス]]に類似する大気汚染)による悲劇の[[実験]][[都市]]であるとして、四日市市を公害問題のモデルにして環境問題に取り組んだ。
* 第2コンビナートは四日市市中部など臨海部に被害を拡大させた。第3コンビナート(四日市市北部の霞ヶ浦地区)が建設されたが、風向きが富田地区と反対の南側に吹いていたこと。プラント設備の改善されたこと。人工島で住宅地から離れていたことから四日市市北部の富田地区では深刻な公害による被害が発生しなかった。
* 煙突から煙を吐き、昼夜を問わず光とともに稼動する大工場の風景は当初、街の誇りであった。このことはコンビナートのすぐ近くにあった[[四日市市立塩浜小学校|塩浜小学校]]の[[校歌]]にも「[[科学]]の誇る工場」と歌われていたことからわかる。公害を理由に、この校歌の歌詞は保護者の抗議を受けて変更された。
 
===行政の責任===
四日市市民から四日市の経済発展が期待されていたが、工場が稼働を開始からほどなくして街の空は曇り始め、四日市市への悪臭や異臭の苦情が出始め、その後市内のぜんそく患者が急増した。他の公害病である四大公害病([[水俣病]]・[[イタイイタイ病]]・[[新潟水俣病]])と比較して、経済の発展を優先した行政機関である三重県と四日市市が公害裁判で行政の責任も問われたことが特徴である。
国は[[1962年]]に[[ばい煙の排出の規制等に関する法律|ばい煙規制法]]を制定し、対象地域の指定を政令事項として大気汚染の規制をはじめたものの、三重県四日市市は第一次指定地区から外されていた。<ref>{{Cite journal|author=高橋光男|year=1972|title=大気汚染防止法の背景と要点|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jriet1972/1/2/1_2_161/_pdf/-char/ja|journal=環境技術|volume=1|issue=2|pages=161-166|publisher=環境技術学会|doi=10.5956/jriet.1.161|access-date=2024-01-10}}</ref>。第一次指定地区から外された理由は、行政当局による実態調査の資料の不足にあったと言われており、これが事実なら第一次指定の除外は行政の責任だった。調査を怠っていた県市は、住民から早く対策をと言われるたび、「現在のところばい煙については法律的に野放しの状態。早く法律指定を受けるように努力するから、それまで我慢してほしい。」と繰り返していた<ref>宮本忠 編 ほか『公害と行政責任 : 四日市の場合』p89,河出書房新社,1976.</ref>。
 
===高度経済成長による経済発展の代償===
*当時([[戦後]]期)の三重県知事(田中覚)と四日市市長(吉田千九郎→吉田勝太郎→平田佐矩→九鬼喜久男)など政治家の関与があり[[文系]]出身の政治家であったので<ref>四日市市立富洲原小学校創立100周年記念誌(昭和51年に発行)187頁から188頁下段8行目 </ref>、[[理系]]である[[石油]]や[[化学物質]]の詳しい知識がなかったのが公害被害を防止できなかった要因の1つである。プラスの面として田中覚三重県知事と平田佐矩四日市市長は功績者であり三重県と四日市市を経済的に発展させた実績がある。三重県の1人当たりの[[国内総生産|GDP]]に当たる[[県民経済計算]]があるが、[[2008年]]時点の[[総務省]]が実施した[[2007年]]度の統計では、各[[都道府県]]別の順位は以下のようになっている。
*三重県は田中が知事だった[[高度経済成長]]期には、四日市市に四日市コンビナートが誘致されて、驚異の経済成長した。四日市の石油化学産業が発展したことで生産所得は倍増したが四日市市民の所得は全国平均以下の工場労働者の町となった。田中覚知事によってホンダ([[本田技研工業]])が誘致されて[[鈴鹿市]]の[[自動車産業]]が発展したことで、[[高度経済成長期]]の[[1960年代]]の[[経済成長率]]が平均13%を続けることとなった<ref>[[2008年]]総務省 都道府県統計 県民1人当たりのGDP(県民所得)</ref>。
*: 1位 [[東京都]]([[首都圏 (日本)|首都圏]]で[[大企業]]が多数立地)
*: 2位 [[愛知県]](自動車産業などが盛んな工業地域)
*: 3位 [[静岡県]](自動車産業などが盛んな工業地域)
*: 4位 [[神奈川県]](首都圏で大企業が多数立地)
*: 5位 [[三重県]](四日市コンビナートやシャープ亀山工場が立地して自動車産業が盛んな工業地域)となっている<ref>http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7450.html</ref>。
*三重県は田中覚が知事だった[[高度経済成長]]期には、四日市市に四日市コンビナートが誘致されて、驚異の経済成長をした。四日市の石油化学産業が発展した事で生産所得は倍増したが四日市市民の所得は全国平均以下の工場労働者の町となった。田中覚知事によってホンダ([[本田技研工業]])が誘致されて[[鈴鹿市]]の[[自動車産業]]が発展した事で、[[高度経済成長期]]の[[1960年代]]の[[経済成長率]]が平均13%を続ける事となった<ref>[[2008年]]総務省 都道府県統計 県民1人当たりのGDP(県民所得)</ref>。
 
===四日市公害病事件が三重県の経済に及ぼした影響===
*昭和戦後期に[[津港]]や[[松阪港]]付近も工業開発が予定されていたが、工業開発が中止になった理由が四日市ぜんそくの発生だった。
*昭和戦後期に[[津港]]や[[松阪港]]付近も工業開発が予定されていたが、工業開発が中止になった理由が四日市ぜんそくの発生だった。三重県(三重県北部の四日市市周辺地域)は、[[平成]]期にも急激な経済成長をしている。[[北川正恭]]知事が推進した三重[[クリスタルバレー構想]]や三重[[シリコンバレー]]構想で[[製造業]]を成長させる経済政策が実施された。2000年代に三重県は[[シャープ亀山工場]]の誘致が行われた事と、インフラ整備として三重県と[[滋賀県]]を結ぶ道路網と交通網の[[新名神高速道路]]が開通した事で経済成長率が向上した。[[2000年代]]には三重県で[[中華人民共和国]]型の経済政策が実施された。具体的に[[製造業]]の育成による工業化と道路網の[[東海環状自動車道]]・[[伊勢湾岸自動車道]]などの交通インフラを整備する[[公共事業]]の推進で工業及び交通インフラ部門を中心に経済成長した。[[2000年]](平成12年)から[[2009年]](平成21年)の期間内で全国の[[都道府県]]の中で第1位となる10年間で平均7%近くの経済成長率を続けている<ref group="注釈">2000年代の日本の都道府県で1人当たりの県民経済計算の所得がプラスとなったのは三重県・愛知県・静岡県・神奈川県・東京都・鹿児島県の6都県のみ。それ以外の府道県はマイナス成長か0%成長であった。三重県はシャープの立地、鹿児島県はキャノンの立地によるものである。</ref>。[[リーマンショック]]後の[[2009年]]には、製造業の不振で各都道府県別の統計で、1人当たりのGDPである[[県民経済計算]]の順位が15位まで後退したが、[[2010年代]]には三重県の製造業が経済回復の傾向であり、三重県は急成長と下降をするジェットコースター経済である。特に四日市市周辺の[[北勢]]地域のみではGDPを東京都と愛知県に次ぐまでの経済発展をさせた功績がある。[[理系]]の石油化学関係の知識がなく、[[大日本帝国]]期([[戦前]]からの繊維企業)の伝統的な日本企業の東洋紡績や東亜紡織([[トーア紡コーポレーション]])と同じように地域貢献をして、環境保全をすると考えていた[[平田紡績]]出身の[[平田佐矩]]市長は、まさか石油化学企業が汚染物質を大量に排出するとは思っていなかった<ref>四日市市史(第19巻・通史編・現代)巻末付表の37頁から38頁 歴代市長・助役・収入役3役</ref>。
*石油化学関係の知識がなく、[[戦前]]からの東洋紡績や東亜紡織([[トーア紡コーポレーション]])と同じように地域貢献をして、環境保全をすると考えていた[[平田紡績]]出身の[[平田佐矩]]市長は、まさか石油化学企業が汚染物質を大量に排出するとは思っていなかったという<ref>四日市市史(第19巻・通史編・現代)巻末付表の37頁から38頁 歴代市長・助役・収入役3役</ref>。
 
===保守政党(自由民主党)対革新政党による政治問題化===
四日市ぜんそくは三重県北部で政治問題化し、自由民主党や財界を中心とする[[保守政党]](四日市コンビナート企業側)と、[[革新政党]](公害患者を支援する被害者側)の政治対立につながった。自由民主党は政治的信用を失い、([[日本社会党]]・[[民社党]]・[[公明党]]・[[日本共産党]])が公害問題に取り組む革新政党としての支持を広げて、三重県での[[革新政党|革新勢力]]([[野党]])の拡大を許した。また四日市ぜんそくは[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]政権による[[環境庁]]設立の要因となる。
 
== 公害の歴史 ==
109 ⟶ 106行目:
 
===建設地===
*[[1960年代]]に[[四日市港]]沿いの半島地形であった塩浜地区周辺や納屋地区や[[伊勢湾]]沿いの[[海水浴場]]であった[[須賀浦海水浴場]](四日市市北部の天ヶ須賀地区)・[[松ヶ浦海水浴場]](四日市市北部の[[富田一色]]地区)・[[富田浜海水浴場]](四日市市北部の富田地区で第3四日市コンビナートが建設された)・[[霞ヶ浦海水浴場]](四日市市北部の羽津地区で第3四日市コンビナートが建設された)・[[午起海水浴場]](東橋北地区で第2四日市コンビナートが建設された)の砂浜を埋め立てて四日市の[[石油]][[化学]][[コンビナート]]や[[港湾]][[施設]]が建設された。四日市公害(四日市ぜんそく)は化学企業が立地していた第1コンビナート付近の塩浜地区と、石油企業が立地していた第2コンビナートのスモッグが直撃した海蔵地区の塩浜・海蔵の2地区で公害被害が甚大であった。第1コンビナートの建設地は塩浜地区で四日市港沿いの住宅地の周辺であり、戦争中に建設されて[[四日市空襲]]で壊滅した海軍燃料廠の跡地があった。そこに、第1コンビナートを建設した。それが、四日市喘息の初期である塩浜喘息の要因となる。公害対策として第1コンビナートの高煙突化が行われたが、それによって被害が甚大であった塩浜地区(塩浜地区・三浜地区・磯津地区)以外の以下の地区([[三重郡]][[楠町 (三重県)|楠町]]と四日市南部の日永地区・浜田地区)に四日市公害が拡大した。
*第2コンビナートの建設地は午起海水浴場で埋め立てによって建設された[[中部電力]]を中心とする第2コンビナートによって四日市喘息が塩浜地区以外の以下の地区に公害が拡大した。
*東橋北地区と西橋北地区は納屋地区は近隣に工場がある四日市公害汚染地区である。
*羽津地区・海蔵地区・中部地区は四日市公害の汚染物質が拡散した地区である。公害の被害が拡大した結果、大気が汚染された地区である。
*第3コンビナートの(建設地霞ヶ浦海水浴場)で[[伊勢湾]]埋め立て工事をして、建設した人工的に埋め立てられた島で住宅地と離れていたことと、プラント設備など公害対策がとられたので富田地区には深刻な公害が発生しなかった。
*塩浜地区を中心に子供が死亡するケースや公害患者の自殺事件が発生した。四日市公害問題は高度経済成長がもらした公害の典型であった<ref name="#5">ファミリー版世界と日本の歴史12巻現代4巻21世紀への扉71頁</ref>。
 
119 ⟶ 116行目:
四日市市の石油化学コンビナートの建設は旧海軍燃料廠跡地に[[通産省]]の指導で[[イギリス]]の[[シェル]]=三菱系の石油関連資本に払い下げられた1955年にはじまり、昭和34年頃から第1コンビナートの本格的な操業が開始された。続いて昭和38年に[[大協石油]]・[[KHネオケム|大協和石油化学]]・中部電力の第2コンビナートが操業を開始した<ref name="#6">ファミリー版世界と日本の歴史12巻現代4巻21世紀への扉72頁</ref>。四日市コンビナートの誘致と建設で有名な言葉となり、四日市市民に定着している用語の『コンビナート』(企業集団)とは戦後に広まった新しい[[外来語]]で、当時([[昭和時代]])の[[社会主義国]]であった[[ソビエト連邦]]で誕生した[[ロシア語]]であった。四日市市民にこのロシア語が日常用語として使用された<ref>http://www.cty-net.ne.jp/~mido-kan/site1/ayamachi.html</ref>。
 
昭和40年代になり、塩浜地区の磯津港で水揚げされる魚は臭い汚染された魚と見られて、[[風評被害]]で水産物の購入が敬遠された<ref>四日市市史(第14巻)史料編現代I、700頁から702頁</ref>。塩浜地区民に異常な変な咳の症状の被害が発生した。ぜいぜいと息をする喘息症状の発作が起きるなどの病気が集団発生して塩浜地区民に健康被害が急増した。磯津地区の開業医であった中山医師は、「正確には喘息と確定ではないが喘息の様な特異な疾患」に「塩浜ぜんそく」と命名して、喘息発作止めの注射を打つなどの注射投与による治療方法を考案した。中山医師は注射による措置が有効として公害患者には特別な治療行為をした。 三重県の革新知事であった田中覚は四日市コンビナートの建設によって『輝ける伊勢湾時代』を展望して『大四日市』を構想していた。四日市の工業生産は急成長をしていたが、人口の伸びが鈍り[[1964年]]頃には四日市市転入人口より転出人口の方が多くなり人口の構造が逆転して、四日市市の人口30万人都市計画は挫折した。「これは公害の問題ではない。現実の四日市市民が困っている事態で市長として見捨てられない。四日市市が見舞金として支出しても良いではないか。四日市が踏み切れば、国家と三重県が放っておくまい。必ず四日市市に同調をする」以上が平田市長の考えであった。[[厚生省]]の反対を押し切り四日市市単独で患者の医療費の補償制度を開始した<ref>菅井益郎 『公害の研究―産業の発展によってうしなわれたものとは』16、ポプラ社〈調べ学習日本の歴史〉、2001年4月、30頁右側1行目から3行目と左側1行目から9行目</ref>。街には悪臭が広がり、伊勢湾では汚染された魚が獲れるようになり、四日市市内で漁業が盛んだった塩浜地区・富田地区・富洲原地区の漁村では漁業が衰退した<ref>四日市市史(第14巻)史料編現代I、700から702頁</ref>。[[1963年]]に工場に最寄りの塩浜地区では、ばい煙・騒音などの環境問題を四日市市に訴えた。この年にに異臭魚の被害が拡大したことで「磯津漁民一揆」がおきる
 
[[1963年]]に異臭魚の被害が拡大した事で「磯津漁民一揆」がおきる。国の[[黒川真武]][[博士]]を中心に以下の数10人の一流の学者で調査団が構成された。2000万円の予算を計上した「黒川調査団」が大気汚染の現地である四日市市の塩浜地区の調査をする<ref>四日市市史(第14巻)史料編現代I、723頁</ref>。工場に最寄りの塩浜地区では、ばい煙・騒音などの環境問題を四日市市に訴えた。
 
以下の公害運動をする[[環境団体]]が結成された。
134 ⟶ 129行目:
#[[新左翼]]系の「四日市公害と戦う市民兵の会」<ref>『ガリ切りの記』生活記録運動と四日市公害(出版社)影書房(著者)[[沢井余志郎]]110頁から111頁</ref>が結成された。
#[[革新政党|革新系]]の四日市市議会議員を長とする「公害患者を励ます会」が結成されたが各組織が1つの組織にまとまらなかった。
地区労の大部分をし占める「三重県化学産業労働組織協議会」は四日市公害訴訟には中立的立場で不支持を表明をした。
 
====黒川調査団====
[[1962年]]に[[ばい煙の排出の規制等に関する法律|ばい煙規制法]]と改正[[工業用水法]]が成立した<ref>四日市市史(第19巻・通史編・現代)713頁</ref>。しかし、ばい煙規制法の第一次指定地域には[[京浜地区|京浜]]、[[阪神地域|阪神]]、[[北九州市|北九州]]が指定されていたが、[[四日市コンビナート]]のある三重県四日市市は指定されていなかった<ref>{{Cite journal|author=高橋光男|year=1972|title=大気汚染防止法の背景と要点|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jriet1972/1/2/1_2_161/_pdf/-char/ja|journal=環境技術|volume=1|issue=2|pages=161-166|publisher=環境技術学会|doi=10.5956/jriet.1.161|access-date=2024-01-10}}</ref>。第一次指定から外された理由は、行政当局による実態調査の資料の不足にあったと言われている<ref>宮本忠 編 ほか『公害と行政責任 : 四日市の場合』p89,河出書房新社,1976.</ref>。四日市市ではばい煙による局地的な公害が深刻化しており、三重県と四日市市は、四日市市のばい煙規制法の適用地域に指定されることを強く要望していた<ref name=":1">{{Cite web |url=https://www.city.yokkaichi.mie.jp/yokkaichikougai-kankyoumiraikan/wp/wp-content/uploads/2024/03/abstract.pdf |title=四日市公害のあらまし |access-date=2024-05-31 |publisher=[[四日市市]]}}</ref>。[[1963年]]に[[三重県]][[四日市市]]を適用されるための基礎資料を得ることを目的に、[[厚生省]]および[[経済産業省|通商産業省]](通産省)からの委嘱により、[[産業技術総合研究所|工業技術院]]院長の[[黒川真武]][[博士]]を中心に、八委員と四専門員の計十三人の一流の学者でら成る「'''四日市地区大気汚染特別調査会'''」(通称:[[黒川調査団]])が発足した<ref>川名英之 著『ドキュメント日本の公害』第1巻 (公害の激化),P249,緑風出版,1987.1</ref>。
 
2000万円の予算を計上した「黒川調査団」が大気汚染の現地である四日市市の塩浜地区の調査をする<ref>四日市市史(第14巻)史料編現代I、723頁</ref>。[[1964年]]の3月国会で報告された調査団の報告書には、四日市市の[[大気汚染]]を防止するための対策として、排出基準の強化と処理施設の設置、[[都市計画]]の再検討、[[住宅地|住宅地帯]]の分離、[[グリーンベルト|緑地帯]]の設置、住居の集団移転、被害者治療施設の設置、公害防止施設整備資金についての助成措置などの諸点について勧告するとともに、今後の他地域での工業立地に際しては、立地計画段階での公害の未然防止のための強力な行政指導、公害対策を折り込んだ合理的な都市計画の策定、防除技術の開発研究の促進などの必要性などの10項目の勧告がなされ企業、行政などが実施すべき公害防止対策が示された<ref>宮本忠 編 ほか『公害と行政責任 : 四日市の場合』p90,河出書房新社,1976.</ref><ref>{https://www.env.go.jp/policy/hakusyo/s44/11261.html 環境白書}</ref>。
 
地区労の大部分をし占める「三重県化学産業労働組織協議会」は四日市公害訴訟には中立的立場で不支持を表明をした。1964年に[[公害健康被害補償法]]と[[公害紛争処理法]]が成立した。[[1962年]]に[[ばい煙規制法]]と改正[[工業用水法]]が成立した<ref>四日市市史(第19巻・通史編・現代)713頁</ref>。代わって昭和40年代に[[大気汚染防止法]]と[[騒音規制法]]が制定される。
 
===公害後期===
[[1967年]]に九鬼喜久男市長が四日市市の更なる工業化のため、四日市市議会の自民党系議員に第3四日市コンビナートを建設する議案の採決を働きかけ、強行した。霞ヶ浦地区を埋め立てて昭和40年代に第3四日市コンビナートを建設する議案が<ref name="#1"/>強行採決された。第3コンビナート建設予定地の周辺の地区(四日市市北部地域の羽津地区・富田地区・富洲原地区で公害が拡大することが想定された)で「ノーモア塩浜」のスローガンで公害になると反対していた富田地区連合自治会長・富田地区の住民が見守り、公害が発生していた塩浜地区・中部地区・橋北地区・海蔵地区・日永地区などの四日市市南部地域と中部地域に在住する公害患者が喘息で咳こみ苦しんだり、強行採決に怒りながら傍聴していた。前川辰男議員などの革新クラブ(日本社会党系議員・日本共産党系議員)・公明党・新風クラブ(民社党系議員)の必死の抗議と反対を押しのけて富田地区・富洲原地区の自民党系議員と四日市市西部の農村の自民党系議員によって、四日市第3コンビナートを建設する議案が与野党の激しい乱闘の末に四日市市議会の議場で、賛成が(自民党系)の26票、反対が(野党の日本社会党・日本共産党の革新系と公明党・民社党の中道系)の15票の賛成多数で強行採決された<ref>四日市市史(第14巻)史料編現代I、541頁1行目から7行目</ref>。
 
四日市公害によって地区別では塩浜地区で600人以上の犠牲者、次に被害があった海蔵地区で約200人の死者、中部地区・橋北地区・日永地区でもそれぞれの地区で100人近くの犠牲者が出たと云われる。またそれ以上に自殺者が多数いて、乳児死亡者が多数いて、因果関係不明の死亡者が多数出た。実際の犠牲者は[[公害病]]の認定患者とされるのは約1000人だが、塩浜地区民(人口15000人)の内、約40%の住民が身体の異常を訴え、6000人近くの軽度の喘息患者がいたという。よって、公害患者以外の因果関係不明の死亡者を含むと四日市公害の犠牲者は1000人を超え2000人以上の四日市市民が死亡した可能性がある。一方で四日市市北部の富田地区・富洲原地区と四日市市西部の地区では犠牲者は0人であった。
 
治療は[[三重県立総合医療センター|塩浜病院]]で行われた。[[1965年]]に「四日市市公害病認定制度」が発足して、「公害対策委員会」も発足したが、四日市コンビナートは規模を拡大する一方であった。[[1969年]]3月に 四日市公害裁判中だった78歳の原告男性が死亡した。 [[1969年]]12月 石原産業の工場排水で伊勢湾が汚染されて四日市海上保安部が摘発した。[[1971年]]7月 [[第3次佐藤内閣 (改造)|佐藤内閣]]によって「[[環境庁]]」が発足した。また四日市公害裁判の38歳で原告だった女性がぜんそく発作で死亡した。[[1972年]]4月に 「[[三重県公害防止条例]]」が改正、硫黄酸化物の総量規制がされる。1972年7月24日に「四日市公害病裁判」で患者側が勝訴した。1972年9月2日に小学4年の女児がぜんそく発作で死亡した。[[1973年]]10月に 「公害健康被害補償法」が成立した。[[1974年]]「三重県公害防止条例」が改正されて、[[窒素酸化物]]及び[[化学的酸素要求量|COD]]の[[総量規制]]がされる。[[1987年]]9月に 「[[公害健康被害補償法]]」が改正されて新規の公害病患者の認定を廃止する。[[1994年]]に公害病患者の減少で[[三重県立総合医療センター|塩浜病院]]は閉鎖され、[[三重県立総合医療センター]]となった。
 
===三重県警察と衝突した磯津漁民一揆===
151 ⟶ 152行目:
1963年6月21日に、昭和史(特に戦後史)では珍しい貴重な[[一揆]]であり、通称名で磯津漁民一揆と呼ばれた漁民一揆が発生をした。三重県・四日市市・会社側(中部電力)と磯津漁民との間で度重なる交渉があったが、返答に業を煮やした磯津漁民は「中部電力の排水口を閉じてしまえ」と10隻の漁船に100人が乗り込み、陸から150人がスコップを手に排水口に押しかけた。
 
400人程度の磯津漁港の漁民が、廃船と土のうを使用する方法で法的に[[暴動]]と誤解される磯津漁民一揆と呼ばれた[[刑事事件]]を犯した。しかし磯津漁民の実力行使に対して中部電力と三重県の要請で、[[三重県警察]]の警官隊が大量出動をした。工場側は警察権力で水門を警備することとした。
 
磯津の漁民は、[[三重県警]]の警官隊の制止を無視した。警察の言う事を聞かず、力ずくで磯津漁港の漁民が実力行動に移った。三重県警察は機動隊80人と私服警官30人と警備艇2隻を動員した。磯津漁民による磯津漁民一揆の罪状は「水利妨害の[[刑法]][[出水及び水利に関する罪|123条]]違反」であった。塩浜地区連合自治会長であった男性が、この事態が一大事として「留め男」となって塩浜地区の磯津漁民と中部電力の仲介を三重県に頼んだ。同じ塩浜地区出身の田中覚知事に解決をせまることにした<ref name="#7">日本の公害④高度経済成長と公害4頁。写真と絵画と集成は樋口健二。監修は宮本憲一</ref>。
159 ⟶ 160行目:
#水質汚濁(濃硫酸・濃硫酸垂れ流し・異臭魚)
#悪臭・騒音・振動・地盤沈下・爆発・火災
*無臭の亜硫酸ガスは気管支ゼンソク・慢性気管支炎・肺気腫を引き起こした<ref name="#7"/>
 
===調査結果===
177 ⟶ 178行目:
*# 四日市市の調査対象地区で、有病者の比率の最低比率であった'''三重地区'''・'''四郷地区'''でも27%であった。
*工業地域で大気汚染がある'''塩浜地区'''では学童の16.1%に[[アレルギー性疾患]]・心臓病・慢性気管支炎の症状があったのに対して、農村地帯の'''三重地区'''では7.9%に留まっていた<ref>四日市市史708頁4行目から15行目</ref>。
*四日市市当局が[[三重大学]]・[[名古屋大学]]に調査してもらったところ、四日市市内の[[硫黄酸化物]]は[[名古屋市]]の4倍近いことが分かった。[[四日市市立三浜小学校]](公害汚染地域の塩浜地区)の4年生の身体症状を調査したら、8割以上の児童が変な異臭を訴えて、[[頭痛]]、喉の痛み、眼の痛み、吐き気などを経験していた。石油化学コンビナートが大気汚染原であると報告された。しかし、四日市コンビナートの企業、[[日本政府]]、四日市市は調査の結果を秘密にした。昭和38年には第2コンビナートに隣接する高浜地区で連日のように[[悪臭]]、[[硫酸ミスト]](霧)、[[騒音]]などの公害事件がおこり、[[新聞]]・[[テレビ]]で報道された。それでも四日市市は第3コンビナートの建設をすすめようとした<ref name="#6"/>。
 
===最初に認定された公害患者の死亡例===
1964年に塩浜地区に在住する62歳の男性が、[[石原産業]]を退職後に気管支喘息を発病して、[[三重県立総合医療センター|塩浜病院]]に入院していた。1964年3月31日から三日間の期間内に、猛烈な[[スモッグ]]が塩浜の町を襲っている最中に1964年4月2日に[[肺気腫]]で死亡した。男性は主治医に「死後、自身の身体を解剖して、病気の原因を調査してほしい」との遺言を残して息を引き取った。「産業医学研究所」のスタッフと[[吉田克己 (公衆衛生学者)|吉田克己]]教授が解剖した結果、[[山口県]][[宇部市]]で開催された(大気汚染協議会)で「四日市公害」による最初の死亡例として報告された。平田市長は四日市コンビナートの誘致による[[重工業]]化政策によって四日市市(四日市地域)が驚異の経済発展をしたことに自信があり、[[日本横断運河]]の建設などの大型[[公共事業]]を推進していたが、男性の葬儀に四日市市長として参列をした際に、塩浜地区民から責任を追及されたことで、塩浜地区民への罪悪感を持つようになった<ref>四日市市史(第14巻)史料編現代I、731頁4行目から12行目</ref>。
===教育著名人の公害病死===
三重県の旧制中学出身の教育者で四日市公害の犠牲者がいる。三重県教育界で文学的な教育活動で有名だった三重県立桑名高等学校校長の鷲野義俊校長が昭和42年10月5日に64歳で塩浜病院で四日市公害の被害により気管支疾患で死亡した<ref>http://www.mie-kita.gr.jp/kuwako_rekisi/31.html</ref>。平成30年度の[[厚生労働省]]や[[総務省]]の[[国勢調査]]の統計で100歳以上の老人が四日市125人での[[津市]]が171人となっている。人口が3万人少ない三重県内の都市の津市より四日市市の100歳以上の老人が少ない要因は、四日市公害の影響で明治大正生まれの老人の病死が急増したことであると公害関係者から主張されている<ref>https://www.pref.mie.lg.jp/common/content/000799580.pdf#search=%27%E5%9B%9B%E6%97%A5%E5%B8%82%E6%B4%A5%E5%B8%82100%E6%AD%B3%E4%BB%A5%E4%B8%8A%E4%BA%BA%E5%8F%A3%27</ref>。
 
===子供の被害===
188 ⟶ 189行目:
: 塩浜小学校6年生の男子は塩浜病院小児科病練に入院していた。近くの塩浜小学校と病院との生活が日課であった<ref>日本の公害④高度経済成長と公害35頁。写真と絵画と集成は樋口健二。監修は宮本憲一</ref>。
; 塩浜中学校3年の女子生徒の公害病死
: [[1967年]]10月26日午前1時、七ツ屋町〔三菱油化に隣接〕に住む公害病認定患者の塩浜中学校3年生の女子生徒が、喘息による心臓発作で呼吸困難となり、紙片に「家に帰りたい」と最後の言葉を残し15歳で病死した。[[東京都]]への修学旅行に行くことで「塩浜よりきれいな空気が吸える」と楽しみにしていた修学旅行の直前であった。同年10月31日の[[吉田茂]]元総理大臣の[[国葬]]の同日に1500人の四日市市民により大規模な追悼集会が開かれ「彼女が死んだなんて言うな殺されたのだ」のプラカードが掲げられた<ref>四日市市史(第14巻)史料編現代I、639頁11行目から12行目</ref>。
; 海蔵小学校1年生の男子児童の公害病死
: [[1970年]]11月5日、四日市市立海蔵小学校1年生(7歳)の男子が死亡した<ref name="Chunichi19741020">{{Cite news|newspaper=中日新聞|date=1974-10-20}}</ref>。気管支ぜんそくによる「急性呼吸不全」だった。入院と通院を繰り返しながら酸素テントに入りきりの状態であった。また公害死者の最年少記録を更新し、塩浜地区以外の地区の死亡児童となった。御霊前海蔵小学校の供え物と釈精信の戒名が付けられた写真がある<ref>日本の公害④高度経済成長と公害81頁。写真と絵画と集成は[[樋口健二]]。監修は[[宮本憲一]]</ref>。
209 ⟶ 210行目:
: 1966年7月14日「四日市公害対策協議会」によって自殺した男性の追悼集会が開催されて、追悼集会で「自殺した男性の死を無駄にするな」と書かれたプラカードを持って行進したり、<ref>『四大公害病』194頁3行目から7行目</ref>[[1967年]]2月に、 第3コンビナートを誘致して建設工事と埋立て工事を許可する議案が強行採決された 四日市市議会に傍聴して公害反対を訴えていた高齢男性がいた。[[1965年]]に発足した「四日市公害患者を守る会」の副会長を務めていた公害病認定患者だった。公害と戦う四日市市民の中心となっていた60歳代になる四日市公害患者を守る会の副会長であった四日市ぜんそく([[公害病]])の認定患者の男性は甘納豆を作っている岡女堂の主人であった。[[亜硫酸ガス]]への逃避行を繰り返して、[[鈴鹿山脈]]側の[[菰野町]]と四日市市中部地区を行き来して、疲れ果てていた。1967年6月13日に「ああ、今日も、空気が悪い」の一言を残して自殺を図り、加害者の企業への怒りや公害対策や取締りをしない四日市市へは「平田佐矩市長が四日市が経済発展をするために四日市コンビナートが必要と嘘をついた」と不満を記した日記と「九鬼(四日市市長)[[喘息]]やってみろ」と市長を恨む遺書を残して喘息を苦にして自殺するなど、ついに公害での死者も出た<ref>四日市市史(第14巻)史料編現代I、739頁6行目から12行目</ref>。明らかになったのは、この2件であるが、その他の自殺者については表にはならず不明である。公害患者を守る会副会長だった自殺した菓子製造業を営み男性は首つり自殺する10日前の日記に「今日も空気が悪い」の遺言と「午後5時よりスモッグがひどい。亜硫酸ガスのために咳がやまず。弁当をつくって早々に我が家を飛び出し、空気の綺麗な所へ逃げる。ああ残念。家にいたくてもさびしい所に行かねばならない。くやしい。九鬼市長ゼンソクやってみろ。わかるだろう。公害の影響で死にたくない」と公害病を恨む遺書が記されていた<ref name="#5"/>。
; その他の自殺や精神的な公害問題
: 昭和戦後期の四日市市は自殺率が高くて公害病の苦しみから[[精神疾患]]になり[[自殺]]する四日市市民が多い問題があった。四日市公害関連の精神疾患の症状があった。この他に、公害裁判後の[[1985年]]1月5日には、[[三重郡]][[楠町 (三重県)|楠町]]で四日市公害認定患者の女性(52歳)が病気を苦に、自宅の庭で灯油をかぶって焼身自殺をしている。公害被害者と[[僧侶]]によって公害企業を呪い殺す「[[公害企業主呪殺祈祷僧団]]」が組織されて[[祈祷]]が行われた。 [[伊勢新聞]]の[[1972年]]9月3日の地域記事では、四日市市の患者が死亡するのは、例年決まって夏の終わりから晩秋にかけての時期に多い。医療関係者と公害問題の関係者は「夏バテで身体が弱体化している状態で、秋口の涼風に刺激されて発作が起きやすくなっているのでは」とコメントをして、公害の原点であると言われる最汚染地区の磯津地区でも、北西の風が吹く、秋口から初冬にかけての季節が汚染のピークであった<ref>{{Cite news|newspaper=[[伊勢新聞]]|date=1972-09-03|at=三重県地域面}}</ref>。
 
===公害統計===
硫黄酸化物や窒素酸化物などの汚染された大気を吸って窒息障害になり多くの四日市市民が死亡した。[[昭和時代]][[高度経済成長]]期の四日市市は、塩浜地区を中心とする四日市市市南部地域と中部地区を中心とする四日市市中部地域と富洲原地区を中心とする四日市市北部中心の人口構造から、四日市市西部地域の郊外の人口が急増していて、公害が発生した[[戦後]]の高度経済成長期は四日市市民が約20万人いたが、その内、塩浜地区を中心に市民の100分の3の割合(3%)に当たる約5000人が公害患者と全員が認定されなかったが、軽度から重度の喘息症状に発症していた。その内2216人が四日市ぜんそくの公害患者と認定された。公害認定患者は9歳以下の子供たちが4割(40%)近くであり、患者は男性の方が多くて、男性では4割4分(44%)以上が9歳以下の子供で、19歳未満では半数を超えた。女性患者も子供たちが最多で、30歳から40歳までの中年女性が、全体の2割5分(25%)の4分の1を占めた。入院を必要とする重病患者の約3分の1に当たる、3割3分(33%)が塩浜地区内の磯津漁港がある磯津町民で、認定患者の4割(40%)が塩浜地区民であった<ref>四日市市史(第14巻)史料編現代I、739頁13行目から740頁7行目</ref>。
 
公害死亡者数については、子供や若い年代の患者の場合は公害で死亡した可能性が高く、公害死亡者として断定できるが、四日市ぜんそくは高齢者の患者が多数であったため、死亡原因が老化によって喘息以外の病気で死亡した可能性があるため因果関係が難しい事情がある。約600人が公害によって死亡したとする説もあるが、因果関係の判断が難しい乳児死亡や高齢者の死亡者もあるため、公害死者の実数はさらに多数とみられる。自殺者と公害裁判後の病死者を含める統計では、[[2008年]]までに946人が死亡し、因果関係がの判断が難しい患者を含めると、四日市市内で[[四日市空襲]]の死者808人を超える犠牲者が出た。四日市公害によって約1000人近くが死亡した。四日市市に合併前の三重郡楠町では67名の犠牲者が出た。三重郡楠町は[[日本史]]や[[保健体育]]の教科書の戦後の4大公害の項目に'''四日市ぜんそく'''と云う名称で四日市市のみに公害が発生して楠町の被害の記述がないことから楠町の公害被害の記述の加筆を要望していた。
 
[[2011年]]の時点で、四日市公害の認定患者が441名いる。大気汚染をめぐり企業の賠償責任を初めて認めた四日市公害訴訟の判決があった[[1972年]]7月24日から5年後の[[1977年]]に四日市市営の墓地である大谷斎場の敷地内に四日市公害犠牲者の慰霊碑が建立された。1977年10月23日に四日市ぜんそくの病死者と自殺の公害被害者の慰霊祭が実施された。1977年の慰霊碑の建立当時に調査した統計では、すでに病死や自殺で死亡した公害認定患者は184名だった。慰霊祭は現在まで毎年継続し、公害死亡者は年々増加し[[2008年]]9月21日の第26回慰霊祭では、946人が四日市喘息の慰霊碑に公害病の死者とされている。患者は10代の子供と、50代から60代の中高年が多かった。明治生まれの高齢者に死亡者が多く、大部分は[[平成時代]]までに四日市ぜんそくの影響で死亡しており、塩浜地区を中心に四日市市の平均寿命が全国平均より短かった。[[平成]]期に生存している世代では、当時小学生くらいの子供であった[[新人類]]世代に公害患者だったものが多く、[[2010年代]]に50代の[[中年]]となっている。
220 ⟶ 221行目:
大気汚染による代表的な公害病の一つである。喘息の以外の症状として感冒の症状・[[扁桃炎]](へんとうえん)の増加・[[結膜炎]]の増加・むかつきの症状・[[嘔吐]]の症状・[[頭痛]]の症状・[[気管支炎]]の症状・[[肺がん]]の発症が増加するなど、これらの症状で塩浜地区の平均寿命が、全国平均や四日市市の汚染されていない他の地区と比較して低下する健康問題がおきた。四日市公害で喘息症状になったのは、未成年が多くて、子供の健康被害が大きかったが、児童や生徒の公式な四日市喘息の死者は10人前後と少ない。しかし、原因不明の死亡が多かった四日市公害は四日市市の健康調査の統計でも明らかだが市内の平均寿命や乳児死亡は悪化しており、公害が健康や原因不明の死亡に強い影響を及ぼした。
 
昭和30年代から昭和50年代まで市の平均寿命と乳児死亡率は、四日市ぜんそくによる塩浜地区を中心とする四日市市南部地域と中部地域の老人の病死が増加したことや公害苦による自殺の増加によって高齢者の死亡率が高かったことから全国平均より明らかに平均寿命が短くて、[[乳児死亡率]]は全国平均より明らかに高くなっていた。同じ四日市市内で公害による健康被害があった塩浜地区・中部地区・橋北地区・海蔵地区の子供と、公害汚染がない空気が綺麗な水沢地区・小山田地区・富洲原地区・保々地区の子供の健康状態を比較する健康調査が実施された。これらの死亡記事が四日市市民の怒りになり訴訟のきっかけとなる。
 
===乳児死亡率統計===
234 ⟶ 235行目:
 
=== 小学校の問題 ===
煙突から煙を吐き、昼夜を問わず光とともに稼動する四日市コンビナートの大工場は稼動開始当初は四日市の街の誇りであった。この工業化の誇りはコンビナートのすぐ近くにあった塩浜小学校の[[校歌]]にも「科学の誇る工場」と歌われていたことからわかる。この校歌は塩浜小学校の保護者の抗議を受けて変更された。四日市市史によると、[[1965年]]3月に公害汚染地区である4つの小学校(塩浜地区の塩浜小学校・三浜小学校・中部地区の納屋小学校・橋北地区の東橋北小学校の各小学校)の教職員と児童全員に「公害予防マスク」が配られた。そして1965年4月には[[厚生省]]によって汚染被害地区の塩浜小学校・三浜小学校と非汚染地区の四日市市西部の四日市市立桜小学校・四日市市立神前小学校・四日市市北部の[[四日市市立富洲原小学校|富洲原小学校]]の2年生と6年生の児童の公害検診が実施された。1965年10月には[[中村梅吉]][[文部大臣]]が三浜小学校を視察した折に[[PTA]]からの陳情がされた。四日市市内の教職員が公害問題に積極的に取り組んだ。1965年1月の三泗教職員組合により公害対策専門職員の配置と定期無料検診などの実施が要望されて、1965年2月には四日市学校保健研究会で、「四日市ぜんそく」の実態の調査報告がされた。1965年11月には[[日本教職員組合]]が公害調査のために公害汚染地区の学校や工場を調査している。[[1967年]]12月には三重県教職員組合が「第1回公害と教育研究集会」を四日市市内で開催している。そして[[1971年]]8月には三重県教職員組合が三泗支部編「四日市の公害と教育?教育実践と地域実践?第1集」が発刊されて、続いて[[1972年]]8月には小中学生の作文集「みんなが被害者、四日市公害を訴える子供たち第1集」が発刊された<ref>四日市市史(第14巻)史料編現代I、635頁5行目</ref>。
 
[[1966年]]に三浜小学校の児童会会長であった6年生(12歳)の男子が[[佐藤栄作]]総理大臣に手紙を書き、「公害に悩む私たちの学校にもようやく空気清浄機が入りました。しかし夏には暑くて勉強ができません。どうかクーラーを入れて下さい。夏に公害対策として窓の閉鎖が行われて暑さから授業ができずクーラーを設置してほしい」と救援 (sosSOS) の手紙を書いた<ref>菅井益郎 『公害の研究―産業の発展によってうしなわれたものとは』16、ポプラ社〈調べ学習日本の歴史〉、2001年4月、29頁5行目から10行目</ref>。手紙を読んだ佐藤栄作首相は、四日市の子供がこんな悲惨な目にあっているのかと涙を流した。九鬼市長を呼びつけて問いただしたが、「子供の話は大した事はなく、四日市には公害がない」と発言して無責任市長の悪評が広がった。
 
公害汚染がひどかった塩浜地区内の塩浜小学校・三浜小学校と、中部地区内の納屋小学校、橋北地区内の東橋北小学校の4つの四日市市立の公立小学校は、公害による被害で地域住民が引っ越したことで児童数が急激に減少して、同じ塩浜地区内の塩浜小学校と三浜小学校は統合計画が成立して、同じ中部地区内の[[四日市市立納屋小学校]]は中部東小学校と統合されて[[四日市市立中央小学校]]となり、同じ橋北地区内の東橋北小学校は西橋北小学校と統合計画が進んでいる。
 
参考文献の『おはなし歴史風土記第24巻 三重県』の『校歌がさびる卒業式』の内容では以下のような公害物語のエピソードが記載されている。『港のほとりに並び立つ科学の誇る工場は平和を守る日本の希望の希望の光です。塩浜小・塩浜小、僕たちは明日の日本を築きます』昭和41年度の四日市市立塩浜小学校の卒業式で塩浜小学校の校歌が流れた。児童たちにはさまざまな子供がいたと紹介されている。
247 ⟶ 248行目:
# 卒業式が終わると公害対策から東京都に近い[[千葉県]]に引っ越す女子児童など全員が校歌を歌った。
 
卒業式の[[スピーチ]]で「皆さんは近代科学の町の中心の塩浜で学びました。公害に負けない体力作りをはげみました。これからも、元気で明るく、明日の日本を築く人になれるように努力して、中学校へ進学しても頑張ってください」塩浜小学校の校長が励ましの言葉を述べた。「汚れた空気を吸わないことと、できない不可能なことを何度も塩浜の児童たちは先生たちから言われていた<ref>『おはなし歴史風土記』第24巻 三重県、歴史教育者協議会、岩崎書店、76頁8行目から77頁18行目</ref>。
 
この『おはなし歴史風土記』第24巻 三重県の記述では「四日市は、工業を盛んにするために青い海を売った。青い空を売った。綺麗な空気と汚れた空気を取り換えた。今では子供や老人の命まで売っている」四日市ぜんそく物語で以下の内容が記述されている。四日市市教育委員会が作成した文集に「みんな被害者」と云う出版物もある。
259 ⟶ 260行目:
 
===四日市市の対応===
四日市市は公害患者は子供と高齢者に多いが、「喘息で死ぬのは高齢者で子供はほとんど死なない」とう見解であった。子供が死亡した時の四日市市民の怒りが高く、子供の追悼集会が開かれて、中高年の死亡した時より子供が死亡した時のニュースが大きく報道された。中高年の死亡は原告や公害運動をしていた患者が死亡した場合は大きく報道されたが、高齢者の死亡は大きく報道されなかった。九鬼喜久男市長を中心とする四日市市は本当に四日市コンビナートが喘息の原因で公害によって四日市ぜんそくになったのか、違う原因ではないかと責任を認めていなかった。四日市コンビナートの被告企業も社会的責任を取りたくないので、自己の会社の無罪を主張していた。
 
== 四日市の地域事情 ==
301 ⟶ 302行目:
 
=== 川尻町 ===
参考文献の『おはなし歴史風土記』に以下の記述あり。[[1958年]]に、三重県四日市市に四日市コンビナートが建設されて、日本で最初の石油化学コンビナートとして石油を原料として、化学製品を製造する工場が稼働して、その時は多くの市民は「これで四日市が繁栄する」と喜んだ。「四日市コンビナートからの[[法人税]]で、学校建設や道路建設や商店街の再開発ができる。四日市市の流入する人口が急増して仕事が増加して経済が成長する。四日市は、生き生きした[[金持ち]]の自治体となる。四日市市民は四日市の繁栄と経済成長をする」と思考した。田畑を四日市コンビナートの石油化学企業の用地に売り渡した四日市市川尻町では、これが四日市のための貢献として役に立つことを喜んで、川尻町中心部に大きな「日本合成ゴム誘致[[記念碑]]」を建立した。川尻町民は、[[日本合成ゴム]]四日市工場を「自分たちの工場」と呼び、川尻町の誇りとした。新工業の栄える石油化学重工業の町となった四日市を日本中の全国から見学に来て、人々は「四日市こそ新しい化学工業都市の代表だ」とうらやんだ<ref>『おはなし歴史風土記』第24巻 三重県、歴史教育者協議会、岩崎書店、70頁1行目から72頁上段14行目</ref>。
 
ところが昭和40年代になり、四日市コンビナートの工場が書き出す[[二酸化窒素]]・二酸化イオウ・煙・玉ねぎの腐ったようなひどい匂いが、四日市市民に襲いかかった。川尻町には毎晩のように自治会会合が開催された。夏には蛙が鳴き、蛍の飛んでいた川尻町が、わずかの期間に人間が居住することが困難な公害の町に変化したからである。川尻町の住民と四日市の市民団体は、川尻町の全世帯を対象に、川尻町の全住民が公害がない他地域への集団移転による避難対策を、四日市市議会に請願するほどであった。「誘致記念碑は川尻町の恥や、取り壊せ」という一人の農民の意見と、「記念碑を残すべき」とする意見と「壊すべき」との意見が対立して、記念碑の破壊が会合の結果によって決定していたところに、一人の老人が、みんなの住民を諭して、「記念碑は川尻町の魂じゃ。魂を壊してはいかん。川尻町のような悲劇が二度とないように、二度と公害がおきないように、わしらには世間の人に話す責任がある。川尻町の百姓の魂として記念碑を残さなければ、自分たちの先祖に申し訳ない」と呼びかけた。{{Harv|歴史教育者協議会|1984}}
 
=== 平田佐矩市長と磯津漁民一揆(塩浜・富洲原魚事件)===
309 ⟶ 310行目:
塩浜地区の漁民は伊勢湾で捕れる魚が四日市コンビナートからの排水で油まみれとなり、伊勢湾の魚が汚染されるようになった。塩浜地区の磯津港で捕獲される魚は風評被害もあり漁業ができなくなった<ref>http://yokkaichi-kougai.exp.jp/contents1/guide/3_kiroku/contents/sonnara.htm</ref><ref>磯津漁民一揆平田市長魚を買うの記述</ref>。
 
大気汚染より海の汚染が先であり、重油により臭い魚が多数ある。苦情で値引きがされる。[[東京都]]が通達するの記事が報道された<ref>昭和35年3月3日7朝日新聞夕刊。</ref>。そこで塩浜地区の漁民は昭和38年[[6月21日]]に「平田佐矩あの四日市市長が全部悪い漁業責任を取ってもらおう」と塩浜から富洲原まで大量の魚を持ちながら歩いた。[[富田地区 (四日市市)|富田地区]]・[[富洲原町|富洲原地区]]の四日市市北部は四日市公害が発生せず四日市コンビナートを誘致したのが北部出身の平田市長だったことから北部(加害者)南部(被害者)の構造があり平田佐矩に反省させるため「油まみれになった魚を富田地区と富洲原地区の人が買って食べてくれるのか」と市長に迫り、平田佐矩市長に責任を追及するため[[富田一色]]本町の自宅に追し寄せた<ref>『くさい魚とぜんそくの証文―公害四日市の記録文集』(はる書房、1984年)83頁8行目から85頁2行目</ref>。しかし、平田佐矩市長は「私が全部買います」と言って、魚を全部私費で買いとったことで、塩浜の漁師は無責任な悪徳政治家ではないと感心して、この対応で平田佐矩市長が責任感が強い人格者だったと理解し、塩浜地区の人は市長を恨むのをやめた。平田市長によって買い上げられた汚染された魚は富洲原港沖の伊勢湾で適切に処分されたエピソードがある<ref>四日市市史(第14巻)史料編現代I 四日市市史(第15巻)史料編現代II。「塩浜・富洲原魚事件」。[[1963年]]の出来事として記述</ref>
 
また、平田市長は在任中に市内の喘息患者の医療費を、自身の財産と公費で無料化するなどして責任をとった。[[平田紡績]]は公害による汚染で伊勢湾周辺の漁村の[[富洲原港|富洲原漁港]](四日市市富洲原地区の富田一色漁港と天ヶ須賀漁港)、富田漁港(四日市市富田地区の東富田町など富田浜周辺)、磯津漁港(四日市市塩浜地区の磯津地区の漁港)、川越漁港(三重郡川越町の北部の漁港)、楠漁港(三重郡楠町の漁港)、赤須賀漁港(桑名市赤須賀地区周辺の漁港)で行われていた漁業が衰退して、漁網の需要が減少した。水質汚染で漁業が衰退したことで平田紡績の経営が悪化し、四日市公害が平田紡績消滅の要因となった。
 
=== 四日市市長(九鬼喜久男)===
319 ⟶ 320行目:
また、四日市の更なる工業化を目指して、第2コンビナート(午起地区)や第3コンビナート(霞ヶ浦地区)を建設して四日市コンビナートに進出した石油化学系企業を税制面で優遇した。大気汚染を出していた石油化学企業や財界の味方となり、公害対策も真面目にしなかったため「公害市長」としての悪評が広がった。
 
[[1972年]]に田中覚が三重県知事を辞職して衆議院議員に転身した。九鬼は、田中が知事として1972年にあった公害裁判の判決の頃に決断した[[総量規制]]などの公害対策を中止させ、四日市コンビナートの企業や三重県の財界を優遇するために三重県知事選挙に出馬することとした。九鬼喜久男は「四日市に公害は無いと」して公害患者の存在を認めていなかった。九鬼は三重県教職員組合による公害に対する環境教育は偏向的な左翼思想教育だと認識しており三重県教育委員時代から三重県教職員組合と全面対決をしていた。三重県教職員組合は「反九鬼・反公害キャンペーン」を行い、全国一の組織率を誇る三重県教職員組合は組織の存亡をかけて田川亮三候補を全面支援した。九鬼は三重県[[南勢]]地域に建設予定の[[芦浜原子力発電所]]建設の推進、塩浜地区磯津公害患者への補償中止を公約にしていた。結局、選挙当初は[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]や財界の支持を得た九鬼が有利と見られていたが、四日市ぜんそく問題(四日市公害対策などの[[環境問題]])が争点となり[[民社党]]・[[日本社会党]]など野党の支持を得た[[田川亮三]]が当選、九鬼は落選した。
 
=== 三重県知事(田中覚)===
{{See also|田中覚}}
田中覚は故郷である塩浜地区の大気汚染の実態を、自身の身体で受ける健康被害で実験するために津市の三重県知事公舎ではなく、四日市市塩浜地区付近の三重郡楠町に住み楠町の[[楠駅]]から三重県庁まで[[近鉄名古屋線]]で通勤していた。塩浜地区出身の田中覚三重県知事は公害対策を真面目にしたことで四日市市民の支持を得て衆議院議員に当選をする。[[伊勢新聞]]の記事では[[1972年]]の[[第33回衆議院議員総選挙]]に出馬した田中覚候補を応援するために四日市市の中心市街地に来た[[田中角栄]][[内閣総理大臣]]が達者な田中節で演説していたが、それを聞いていた地元四日市の高齢女性が田中角栄に対して「四日市の公害をどうにかして」と叫んだ。田中角栄総理大臣は四日市市内で記者会見をして「[[日本改造計画]]は四日市ぜんそくの発生とは無関係である。四日市公害は日本列島改造計画など公共事業政策が原因ではない。四日市コンビナート建設の計画ができる方が日本列島改造計画ができる時期より以前の話である」と述べた。「三重田中覚」の意味で塩浜地区に新しく埋め立てられた四日市コンビナートの土地が「三田町」と命名されて、塩浜地区には田中覚の支持者が多かった。
 
また田中覚は晩年に自身の人生を振り返り、四日市喘息の慰霊碑で慰霊をした。田中覚は自身の故郷である塩浜地区民の公害被害に心を痛めていた。実際には四日市喘息ではない心臓ぜんそくであったが、四日市喘息に発病したと主張して喘息症状で死亡した。田中覚の[[伝記]]として平野孝 が執筆した『菜の花の海辺から 評伝田中覚』があり、紹介のタイトル文では「公害の責任を問われた[[総理大臣]]はいないが、公害の責任を問われた田中覚のような[[首長]](昭和30年から昭和47年の公害発生時の三重県知事。四日市市長は吉田勝太郎→平田佐矩→九鬼喜久男と交代している)はいるか」と読者に問いかけている。[[従兄弟]]の[[加藤寛嗣]](昭和51年から平成8年の四日市市長)と[[菜の花]][[畑]]だった塩浜のコンビナートが建設された土地で菜の花がたくさん咲く自然で子供時代に一緒に良く遊んだ思い出と「田中は[[地獄]]に落ちる」と故郷である塩浜地区民から非難される文章がある<ref>平野孝 『菜の花の海辺から 上巻』27頁 法律文化社、1997年</ref>。
332 ⟶ 333行目:
 
=== 九鬼喜久男市長による政治問題化 ===
公害の発生だけで即裁判となるのではなく、戦後の[[高度経済成長]]期は日本全国でコンビナートによる大気汚染があり、公害問題は存在していた。四日市市以外の地域では神奈川県川崎市の[[川崎公害]]があった。昭和30年代から、国家政策に基づいて[[京浜工業地帯]]の一部である[[川崎市]]臨海部に石油化学コンビナートが建設されて、[[東京電力]]により[[火力発電所]]が設置されて、[[日本鋼管]]製鉄所も稼働していた。川崎市臨海部のコンビナート工場群からの大気汚染物質の排出に加えて、昭和40年代以降のモータリゼーションによる自動車交通量の急増が加わり、[[川崎区]]・[[幸区]]を中心として激甚な大気汚染が出現した。川崎市で川崎ぜんそくと呼ばれる健康被害が発生した。その他の[[大気汚染]]による[[昭和時代]][[戦後]]期の[[公害]]として、[[岡山県]]の[[水島臨海工業地帯]]にも[[水島コンビナート]]の汚染物質によって大気汚染が拡大した公害があった。他には[[阪神工業地帯]]の阪神地域で発生した[[西淀川公害訴訟]]などの大阪公害や首都圏にも大気汚染が発生する[[環境問題]]があった。なぜ四日市ぜんそくだけが他の地域と比べて特に問題となったのかとう疑問があるが、[[中京工業地帯]]の一部である四日市市特有の政治的な地域事情がある。
 
四日市コンビナートを誘致した平田は、公害患者への医療費無料化などの政策で公害対策を真面目に行っていた。四日市市と塩浜地区を中心とする公害患者の関係は良好であった。
351 ⟶ 352行目:
 
===四日市市の経済問題===
[[東洋紡|東洋紡績]](四日市工場・三重工場・[[東洋紡績富田工場]]・[[東洋紡績楠工場]]・塩浜工場)、[[東亜紡織]](泊工場・[[東亜紡織楠工場]])、[[平田紡績]](四日市紡績工場・富洲原漁網工場)、[[三幸毛糸紡績]](富田工場)、[[網勘製網]](富田工場)などが立地していた四日市市は「紡績の町四日市」と呼ばれていた、繊維産業の町であった。繊維産業を中心とする軽工業の都市の四日市市から、新たに石油産業と化学産業を育成するために四日市コンビナートが誘致されて、四日市市が重工業化された。四日市市の産業構造が[[軽工業]]中心の繊維の町から[[重工業]]中心の石油化学の町に転換したことを意味する経済問題である。
 
===四日市市の都市問題===
385 ⟶ 386行目:
 
===四日市市の対策===
四日市市は住民に対する公害対策として、塩浜地区の[[四日市市立塩浜小学校|塩浜小学校]]と[[四日市市立三浜小学校|三浜小学校]]では健康作りのため学校内にうがい室が設置されてうがいと乾布摩擦を取り入れて、教室では空気洗浄機を設置した。社会科の教科書でも掲載されている活性炭入りのマスクで塩浜地区の小学生が通学した。塩浜小学校と三浜小学校の児童は体力測定で四日市市内の中で下位であった。塩浜小学校ではスモッグに包まれて校庭・教室に悪臭が充満して目からポロポロ涙が出て児童は校庭に避難するなど戦争中の空襲警報を再現する生き地獄だった。公害による環境悪化から逃れるために、塩浜中学校と[[四日市商業高等学校]]の定時制課程(富田地区移転後は四日市北高等学校に改称、現在の[[三重県立北星高等学校]])が移転した。また、乳児死亡率が全国平均と比較して、四日市市(特に塩浜地区などの四日市市南部・中部)の[[乳児死亡率]]が高かったことから、乳児も健康対策から空気が綺麗な四日市市郊外に避難した。
 
=== 公害の発生地区 ===
421 ⟶ 422行目:
このような脱硫対策が実現した背景には、硫黄が鉱山で採掘するよりも安価で手に入るという事情があった。これが実現するとともに硫黄鉱石の需要がなくなり、日本の硫黄鉱山は[[1960年代]]以降に閉山へと追い込まれたのであった。
 
また、精製過程で発生していた大量の水素ガスの利用法として水素を燃料とする自動車の開発が期待されていたが、実際に[[水素自動車]]が開発された頃には、精製方法の見直しによって、水素が発生しないようものに変わっていた。
 
== 四日市公害訴訟(1967年 - 1972年) ==
[[公害病]]の[[四日市公害裁判]]が[[1967年]]から[[1972年]]に行われた。[[1967年]]には患者らにより四日市ぜんそくの[[民事訴訟]]が提訴され、[[1972年]]に[[津地方裁判所]]四日市支部は被告6社([[石原産業]]・[[中部電力]]、[[昭和四日市石油]]・[[三菱化学|三菱油化]]・[[三菱化成工業]]・[[三菱化学エムケーブイ|三菱モンサント化成]])の[[共同不法行為]]を認め賠償を命じた(1972年7月24日)。
 
四日市公害裁判の結果は原告の全面勝訴であった。津地裁四日市支部は企業6社に対して、原告(公害患者7人と死亡した原告2人の遺族5人の合計12人)に対して合計8821万1823円の損害賠償の支払いを行うことを命じた。
 
[[津地方裁判所]]四日市支部の判決は、第1コンビナート(塩浜地区)と第2コンビナート(午起地区)に進出した主な四日市コンビナートの企業([[石原産業]]、[[中部電力]]、[[昭和四日市石油]]、[[三菱化学|三菱油化]](現 [[三菱ケミカルグループ|三菱ケミカルHD]])、[[三菱化学|三菱化成工業]](現 [[三菱ケミカルグループ|三菱ケミカルHD]])、[[三菱化学エムケーブイ|三菱モンサント化成]](現 [[三菱ケミカルグループ|三菱ケミカルHD]])など)ら被告企業らが石油の精製過程で排出した亜硫酸ガスによる[[大気汚染]]を生じさせたことを明らかにし、公害患者の症状との因果関係を認めた。
 
===唯一の大気汚染===
『四大公害』と言われた公害病の内では、四日市ぜんそく([[喘息]])だけが[[水質汚染]]ではなく唯一の[[大気汚染]]である。公害被害によって居住することが困難となり、四日市の地域環境が悪化し、[[高度経済成長]]の経済発展の代償として公害が発生した。そのため、対策が施されることなく汚染物質がそのまま排出されていた。
 
水俣病・イタイイタイ病・新潟水俣病との違いは、100%特定企業による特定物質による公害と立証できなかったことである。これに関しては四日市コンビナートは複数の企業が関係し、自分の会社は無罪であり、他企業が原因であると主張できる余地があったためである。
 
四日市公害の教訓によって、戦後期に制定されていた法律の『ばい煙規制法』に代わる新しい法律の[[大気汚染防止法]]が制定された。四日市公害訴訟は、四大公害訴訟の1つに数えられる裁判として、[[津地方裁判所]]四日市支部に提訴されて、6年間の裁判の結果勝訴となった四日市公害判決の反響から、大気汚染の総量規制の実施・[[二酸化硫黄|SO2]]の環境基準の改正の実施・[[公害健康被害補償法]]の制定・[[公害対策基本法]]の制定などの参考になったが、四日市公害裁判については、複数の問題点がある。
 
すなわち、大気汚染の発生源に対する共同責任で、どの企業が汚染物質を排出して、四日市コンビナートに進出していた複数の企業の共同不法行為を認定するか(共同不法行為の認定)の問題があった。加えて、大気汚染と喘息症状がある特異的でない、非特異的な閉塞性症状の肺疾患である四日市ぜんそくとの因果関係論の問題があったことである。公害患者の喘息症状を証明しても、大気汚染が四日市ぜんそくの原因と証明できるかの因果関係の問題も存在した。
 
===都市部に発生した公害===
499 ⟶ 500行目:
*公害患者の1人(野田)の「ありがとうの一言は四日市市内に青空が回復した後に言います」の野田メッセージがあった<ref>http://yokkaichi-kougai.www2.jp/index.php/component/content/?view=featured&start=80</ref>。
*三重県知事の田中覚と四日市市長の[[九鬼喜久男]]も行政責任を認めて塩浜地区を中心とする四日市市南部地域・中部地域の住民に謝罪した。
*前川辰男四日市市議は[[1964年]]に『四日市で公害訴訟を起こせるのか』と[[野呂汎]][[弁護士]]に相談した。1964年4月に公害犠牲者第1号が出たことを伝える報道があり、法廷で企業の責任を追及することが[[日本社会党]]や[[日本共産党]]の議員の間で議論された。野呂汎は[[名古屋市]]に事務所を置く弁護士で労働問題を手掛けていた東海労働弁護団の一員であった<ref>『四大公害病』194頁10行目から195頁4行目</ref>。
* 判決文では、無計画に工場建設を容認した三重県・四日市市にも反省を促している。またこの中で、工場が1年間に排出できる煙の量を決定しており、これが[[大気汚染防止法]]の「排出規制」に繋がる。
*裁判長、米本清(よねもときよし、1989年没、享年81歳)は四日市公害裁判の翌日に定年で退官した。判決から50年が過ぎた2022年7月、米本の長女、乾(いぬい)てい子弁護士は、「判例の積み重ねもなく、それまでになかった理論で判断しないといけない。とても大変な事件だった」と思いを巡らせ(た)(吉光慶太)<ref>「退官前日公害救済に扉」[[中日新聞]] 2022年7月29日付け、1面(岐阜11版)</ref>。
511 ⟶ 512行目:
<ref name="#4"/>
 
*三重県と四日市市が強力な石油化学企業の支援をして四日市コンビナートの誘致を実施したこと
*三重県と四日市市が第3コンビナートなど工場用地の規模を拡大する建設計画を続けて大気汚染による健康被害があっても効果がある公害対策をしなかったこと。
*三重県と四日市市が公害病の原因である石油化学企業の取り締まりをしなかったことなどで公害裁判で行政責任が問われた点。
*四日市市を中心に三重県は四日市コンビナートの建設で、戦後期に[[高度経済成長]]を達成をした点。
*しかし経済発展の代償として住民の健康と生活環境が悪化する悲劇が起きて、四大公害病(四日市ぜんそく公害・水俣病・新潟水俣病・イタイイタイ病)の内では、唯一の大気汚染を原因とする公害病であった点。
*汚染物質が100%特定できず、複数の企業が四日市コンビナートで汚染物質を排出しており、どの企業が犯人か因果関係が不明であった点。
*また当時(高度経済成長期)は、[[川崎市]]のコンビナート(川崎公害)地域・[[岡山県]][[倉敷市]]の[[水島コンビナート]]地域などの日本全国の工業地域でも大気汚染があり、他地域との違いを証明する必要性があったこと
*四日市市特有の公害事情があったことや四日市コンビナートが喘息疾患の原因とする100%の証明がなくて、四日市公害裁判で勝訴をするのが難しかった事情がある。
 
== その後 ==
526 ⟶ 527行目:
** 近年では無計画に工場建設を容認したことの反省から、官民共同で設立された[[国際環境技術移転研究センター]]を中心に、発展途上国に対して公害・環境問題の指導・研修を実施している。
* 2007年7月、報道{{要出典|date=2013年1月}}によると、四日市ぜんそくの認定患者の総認定数を、同市のウェブサイトに、誤って約500人少なく掲載し、同月23日に訂正していたことが発覚した。同市のこの姿勢について、「公害問題の風化」を懸念する意見が出ている。
* 四日市市は公害対策を優先させすぎた結果、その他の政策がなおざりになっているという指摘{{誰2|date=2013年1月}}もある。具体的には、四日市市内に中央緑地公園・羽津山緑地・南部丘陵公園等の緑地帯を設けて公害の拡散を防ぐ等の環境政策には熱心だが、[[文化財]]の保護や観光産業にはあまり注力してこなかったことが挙げられる。ただし、2011年時点の四日市市の話として、ここ数年の工場見学ブームで四日市港内[[遊覧船]]の夜間運用にて、四日市港の夜景観光が行われるようになっており、四日市コンビナートは観光資源となっている。
* 当ページの冒頭の説明文に「1960年(昭和35年)から1972年にかけて四日市コンビナートから発生した大気汚染による集団喘息障害である」となっているが、1972年になって公害被害が終結したのでなく、1972年に裁判所によって四日市コンビナート企業の有罪が確定したことを意味する。[[地方公共団体|地方自治体]]の三重県と四日市市は公害対策をするように司法から命じられた。公害問題で四日市コンビナート企業の有罪が確定して、[[日本国]]・[[三重県]]・[[四日市市]]なども四日市ぜんそくを招いたことで行政機関の公害責任も確定した。判決により公害対策をする必要性が求められ、四日市コンビナート企業の環境技術は進歩したものの、依然として公害による犠牲者が出ていた。1988年まで四日市市は大気汚染によって市内の環境は異常事態であるとして、公害が発生していることを認めていた。
* 2011年に[[東海テレビ放送|東海テレビ]]制作のドキュメンタリー映画の『[[青空どろぼう]]』が上映された。[[福島第一原子力発電所事故]]と同じ公害として比較される形で、再び四日市ぜんそくが注目された<!--それほどでもない-->。[[レコードレーベル]]「[[殺害塩化ビニール|殺害塩化ビニール」]]によって「四日市ぜんそく」と云う[[パンク・ロック|パンクロック]][[バンド (音楽)|バンド]]が結成されて、四日市市民から通報を受けた四日市市は、公害患者を侮辱しており四日市公害のことを正確に理解していないとして、[[文部科学省]]に対して日本史(昭和史)と保健の授業において四日市ぜんそくの存在のみ教えるのではなく、正しい四日市公害の記述の記載と四日市喘息ぜんそくに対する正しい教育を要望した。
* 四日市ぜんそくは[[水俣病]]や[[放射能汚染]]などと比較して公害患者に対する差別はほとんどなかったが、公害患者の自殺(報道規制があり表向きに報道されたのはわずかで)の多さや公害犠牲者の死亡との因果関係が難しい公害である。{{要出典範囲|date=2013年1月|四日市ぜんそくは三重県以外の他の都道府県民が実際に四日市市の工業地帯に行き社会見学をすると、地理的構造が良く理解できる公害である}}。
* 21世紀以降経済成長を続ける[[モンゴル国]]の[[ウランバートル]]などで大気汚染や水質汚染があり、「四日市公害がなぜ起きたのか。どうやって克服したのか」四日市公害を学ぶためモンゴルから[[留学生]]や調査員が視察に来る<ref>2012年(平成24年)1月6日読売新聞社会面25頁</ref>。
* 水俣病、[[イタイイタイ病]][[新潟水俣病]]、四日市ぜんそく公害4大公害病の中で、四日市ぜんそく公害のみが行政による公害博物館が設置されておらず、規模が小さい本町プラザ内の「公害資料館」のみだったが、四日市市議会議員が四日市市議会の質問の中で四日市ぜんそく公害の「公害博物館」の設置を要望し、ようやく四日市市によって公害博物館の建設計画ができた。
* 四日市の[[スーパーマーケット]]「岡田屋」(現・[[イオン (企業)|イオン]])を経営していた[[岡田卓也 (経営者)|岡田卓也]]は地元の公害問題を間近で経験したのを機に[[環境問題]]に関心を持つようになり、イオン環境財団(1990年設立)の発足や2023年現在でも継続している[[イオングループ]]全体での[[イオン (企業)#環境活動|植樹活動]]開始の契機となった<ref>{{Cite web |和書|title=中日で共に環境問題に取り組み理解し合う |url=https://peoplemonthly.jp/n5931.html |website=人民日報海外版日本月刊 |access-date=2023-08-05 |date=2017-10-23 |author=蒋豊}}</ref>。
* 1995年(平成7年)度に四日市市環境学習センターが設立され、2005年(平成17年)度に四日市公害資料室が開設された。2015年(平成27年)[[3月21日]]に『[[四日市公害と環境未来館]]』が完成して、本格的な公害資料館が整備された。塩浜地区民の四日市公害に対する心の傷が大きく、公害を忘れたい思いや塩浜地区に対する公害イメージを嫌う思いもあり、塩浜地区の人口が全盛期の約17000人から約6000人に人口が半減した。四日市市が四日市公害の資料館の整備を進めたが、三重北勢健康増進センター「ヘルスプラザ」(四日市市塩浜町)内に開設する四日市市の展示方針に地元塩浜地区の連合自治会が反対決議をして、田中俊行市長などに提出した。資料館の開設場所は、四日市市の方針で四日市公害が発生した状況と大気が改善した現状が見られる場所として、四日市石油化学第1コンビナート近くで検討。既存の公共施設の有効活用も考え、複数の候補地から運営難で規模縮小の方針だったヘルスプラザを選んだ。塩浜地区連合自治会長は、資料館建設の反対ではないとしながらも、「公害と名の付く資料館ができると、塩浜が公害の町と思われる」と述べ、若者の地区離れの傾向が進むことを懸念。県道近くでトラックが行き交う交通事情から来館者の受け入れ態勢にも疑問を投げかけ、ヘルスプラザは福祉施設としての活用を求めた。塩浜地区に住む四日市公害訴訟の原告患者の[[野田之一]](当時80歳)は「決議の真意は分からない。資料館は市内には欲しいが、塩浜にこだわる理由はない」と述べ、資料館の中身も含め、「四日市市民全員で考え、結論を出すべきだと思う」と述べていたが、四日市市が議論を重ねた結果、[[近鉄四日市駅]]西側の中部地区に[[四日市市立博物館]]と併設した施設の『四日市公害と環境未来館』を[[2015年]]に建設した。
* 2011年9月15日に元原告の男性が(四日市市小古曽在住)79歳で[[多臓器不全]]が原因で死亡し、生存する元原告は1名となった。9名だった元原告は四日市公害の判決以前に2人が死亡。その後に[[21世紀]]までに原告が次々と病死し、2011年(平成23年)には、遂に元原告の生存者は1名となり、[[2019年]](平成31年)[[1月25日]]に最後の原告で四日市公害裁判の語り部だった野田之一が呼吸器の病気で死亡した<ref>[[読売新聞]]三重版、2011年10月3日</ref>。
* 2012年(平成24年)7月に四日市公害裁判勝訴40周年記念に四日市市や市民団体主催で記念行事が実施された。
 
561 ⟶ 562行目:
*:公害記録家で四日市公害の記録集を出版した。四日市公害裁判の原告の生き残りである野田(磯津地区の公害患者で高齢男性)と共に、[[2011年]]に[[東海テレビ放送|東海テレビ]]が制作した「青空どろぼう」の主人公として出演した。
*[[前川辰男]]
*:塩浜地区出身の四日市市議会議員。[[日本社会党]]に所属して四日市ぜんそくの問題に取り組み、[[環境問題]]関係の自然環境本を執筆して、前川が訴訟を計画して四日市公害裁判の原動力となった。
*[[福田香史]]
*:塩浜地区選出の四日市市議会議員で磯津地区に在住していた。日本社会党の議員として四日市公害問題に積極的に取り組んだが、[[交通戦争]]の犠牲者になる。飲酒関係の[[交通事故]]事件に巻き込まれて47歳の若さで急死した。
*[[田中覚]]
*:塩浜地区出身の[[三重県知事]]。平野孝が執筆した「菜の花の海辺から」上巻・下巻の「評伝田中覚」で、公害問題で責任を問われた数少ない政治家として描かれている。
591 ⟶ 592行目:
*『ガリ切りの記』生活記録運動と四日市公害。出版社は影書房、著者は澤井余志郎。
*『四大公害病』政野淳子執筆
* 宮本忠 編ほか『公害と行政責任 : 四日市の場合』,河出書房新社,1976
* {{Cite book|和書|title=ドキュメント日本の公害|volume=第1巻|author=川名英之|authorlink=川名英之|publisher=[[緑風出版]]|date=1986-12|isbn=978-4846187279 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|title=公害の研究―産業の発展によってうしなわれたものとは|author=菅井益郎 |publisher=ポプラ社 |series=調べ学習日本の歴史|volume=16 |date=2001-04 |isbn= 978-4591067437|ref=harv}}
629 ⟶ 631行目:
**723頁⇒黒川調査団の記述。
**630頁⇒[[三重県立四日市商業高等学校]]と四日市市立塩浜中学校の移転の記述。
**635頁⇒三重県教職員組合による子供の作文の三泗支部編「四日市の公害と教育?教育実践と地域実践?第1集」と小中学生の作文集「みんなが被害者、四日市公害を訴える子供たち第1集」の発刊の記述。
**812頁⇒公害健康被害補償法・公害紛争処理法成立の記述。
**726頁⇒乳児死亡率の高さの記述。
645 ⟶ 647行目:
* 平成23年10月3日[[月曜日]]の[[読売新聞]][[北勢]](三重)版。
* [[中日新聞]]に掲載された[[1974年]]10月20日の記事。子供の被害の項目。中日新聞に「喘息は注射じゃ治らない」と投書をした公害患者の海蔵小学校4年生の男児が死亡した記事。
* {{Cite web|和書|url=http://www.yokkaichi-kougai.sakura.ne.jp/contents1/guide/1_zensoku/contents/preguidecss.htm |title=四日市公害。学習案内。ガイドブック NO.1|accessdate=2012-02-07}}
:(1)公害患者の相次ぐ自殺、(2)中部西小学校の公害患者として死亡した[[1972年]]8月に書かれた少女の日記。
* [http://www.aozoradorobo.jp/history/ 東海テレビ制作「青空どろぼう」公式ホームページ]
672 ⟶ 674行目:
{{DEFAULTSORT:よつかいちせんそく}}
[[Category:日本の公害病]]
[[Category:石原産業]]
[[Category:日本の大気汚染]]
[[Category:呼吸器疾患]]
[[Category:免疫病]]
[[Category:四日市市の歴史石原産業]]
[[Category:三重県の歴史]]
[[Category:中部電力の歴史]]
[[Category:四日市港]]
[[Category:三重県の歴史]]
[[Category:四日市市の歴史]]
[[Category:昭和時代戦後の事件]]
[[Category:石原産犯罪]]
[[Category:日本の判例]]