「スターリングラード攻防戦」の版間の差分

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|strength1 = [[B軍集団]]<br />戦闘開始時 270,000戦車500大砲3,000航空機600~1600<br />赤軍反撃時 1,040,000(ドイツ軍400,000+イタリア軍220,000+ハンガリー軍200,000+ルーマニア軍143,296+ロシア解放軍40,000)
|strength2 = [[スターリングラード戦線 (ソ連軍)|スターリングラード戦線]]<br />戦闘開始時 187,000<br />赤軍反撃時 1,700,000
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|casualties2 = 戦死・行方不明 478,741<br />負傷 650,878<br />民間人死者 40,000<br />計 1,129,619<br />航空機 2,769<br /><ref>Россия и СССР в войнах ХХ века - Потери вооружённых сил, Russia and USSR in wars of the XX century - Losses of armed forces, Moskow, Olma-Press, 2001.</ref>
|}}
'''スターリングラード攻防戦'''(スターリングラードこうぼうせん、{{Lang-en|Battle of Stalingrad}}, [[1942年]][[6月28日]] - [[1943年]][[2月2日]])は、[[第二次世界大戦]]の[[独ソ戦]]において、[[ソビエト連邦]]領内の[[ヴォルガ川]]西岸に広がる工業都市[[ヴォルゴグラード|スターリングラード(現[[ヴォルゴグラード]]を巡り繰り広げられた、[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]、[[ルーマニア王国|ルーマニア]]、[[イタリア王国|イタリア]]、[[ハンガリー王国 (1920年-1946年)|ハンガリー]]、および[[クロアチア独立国|クロアチア]]からなる[[枢軸軍]]と[[赤軍|ソビエト赤軍]]の戦いである。
 
スターリングラードは元来[[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]の[[ブラウ作戦]]における副次的目標の一つに過ぎなかったが、戦略上の要衝の地であったことに加え、時のソビエト連邦最高指導者[[ヨシフ・スターリン]]の名を冠した都市でもあったことから熾烈な攻防戦となり、史上最大規模の[[市街戦]]に発展、やがては[[日露戦争]]の[[奉天会戦]]や[[第一次世界大戦]]の[[ヴェルダンの戦い]]を上回る動員兵力、犠牲者、ならびに経済損失をもたらす[[野戦]]に拡大した。
 
緒戦は枢軸軍側の優位に進み、市街地の90%以上を占領したものの、最終的にはソ連軍側の反攻により、[[第6軍 (ドイツ軍)|ドイツ第6軍]]を主軸とする枢軸軍が包囲され、降伏した。独ソ戦の趨勢を決し、第二次世界大戦の全局面における決定的な転換点のひとつとなった。米国の軍史家イヴァン・ミュージカントはこの戦を「[[ミッドウェイ海戦]]、[[エル・アラメインの戦い]]、[[第三次ソロモン海戦]]」と同じく第二次世界大戦の転換点であると位置づけている<ref>[[#ワシントン]]p.180</ref>。
 
死傷者数は[[ソンムの戦い]]などの第一次世界大戦の激戦を遥かに超える規模で、枢軸側が約85万人、ソビエト側が約120万人、計200万人前後と見積もられた。街は瓦礫の山と化し、開戦前に60万を数えた住民が終結時点でおよそ9800名にまで少し。第二次世界大戦最大の激戦、ま13世紀の「[[バグダードの戦い|バグダッド包囲殲滅戦]]」([[モンゴル帝国]])などと並ぶ人類全史上でも屈指の凄惨な軍事戦であったと目されている
 
== 戦いの背景 ==
[[バルバロッサ作戦]]に着手したドイツ軍は、1941年12月に首都[[モスクワ]]の攻略[[モスクワの戦い|タイフーン作戦]]を試みたが、補給の限界や冬季ロシアという気象条件に遭遇して失敗した。一方、モスクワ前面でのドイツ軍の敗退を過大評価したスターリンは、追い討ちをかけるべく反転攻勢を命じ、ソ連軍は1月にレニングラードからクリミアまでの全戦線で攻勢をかけた。しかし、それは戦力や補給能力を超えたものであり、攻勢は失敗して戦線に若干の凸凹をつけた程度で終わり、雪解け期を迎えた。一方、ドイツ軍は大きな損害を出したものの、[[ノゴロド]]、[[スモレンスク]]、[[ハルキウ|ハリコフ]]といった重要地帯拠点を維持した。なお、ハリコフの南方にはソ連軍の大きな突出部が形成された。
 
雪解け期の間、独ソ両軍はさらなる戦略を検討したが、ソ連軍は突出部を利用して南北からハリコフを挟撃し、奪還するという春季攻勢を立案した。一方、ドイツ軍は夏季攻勢プランとして、[[ブラウ作戦]]を立案したが、その前の準備的作戦として、ソ連軍突出部を裁断する[[フレデリクス計画]]を策定していた。
 
両軍が次の展開に向けた動きを策定する中、先に作戦準備を完了したのはソ連軍で、南西方面軍([[セミョーン・チモシェンコ|セミョーン・チモシェンコ元帥]])は1942年5月、ハリコフ奪還を狙った春季攻勢を開始した。しかし、ドイツ軍の[[第6軍 (ドイツ軍)|第6軍]]と[[第1装甲軍]]による突出部後方での南北からの挟撃により、突出部から前進したソ連軍の攻勢部隊は後方を遮断されて壊滅した([[第二次ハリコフ攻防戦]])。こうしてロシア南部戦域での独ソの軍事バランスはドイツ軍有利に傾き、ソ連軍は[[ドン河]]を目指して撤退を開始することとなった。
 
=== ブラウ作戦発動 ===
{{main|ブラウ作戦}}
ブラウ作戦の第一段階ではドン川西岸でソ連軍を撃破し、第二段階では、攻勢軸を2つに分け、一つはスターリングラード近郊でボルガ河に到達し、一つは、ロストフを通過して、[[コーカサス]]地方を南下して、[[マイコープ]][[グロズヌイ|グローズヌイ]]付近の油田を占領し、最終的には[[バクー油田]]を占領するものであった。背景には、前年の対米宣戦を踏まえ、できるだけ早くソ連を降伏に追い込みたいというドイツの戦争指導部中枢の思惑があった。さらにコーカサスの占拠により、当時世界最大級だったバクー油田からの石油供給を断ち切ることでソ連の戦争継続能力に打撃を与え、降伏に追い込むことを図った。
 
そうした中、作戦準備の最終段階となっていた6月18日に、第23装甲師団(第40装甲軍団隷下)の首席作戦参謀ヨアヒム・ライヘル少佐、ブラウ作戦の命令書を所持したまま軽飛行機で敵状偵察を行ったが、敵陣内で乗機が撃墜された。ドイツ軍はうえ、機密文書回収に失敗するという事件が起なかった。これは、師団長はもちろんのこと、第40装甲軍団長および参謀長までもが軍法会議にかかるほどの重大事件で、その不首尾にヒトラーは激怒したが、変更する時間的余裕がないため作戦はそのまま進められた。
 
=== ヴォロネジでの停滞 ===
南方軍集団は6月28日に[[クルスク]]方面からドンに向かって南東に攻撃を開始した。まず、[[第2軍 (ドイツ軍)|ドイツ第2軍]]と[[第4装甲軍]]、およびハンガリー第2軍が左翼となってドンをめざし、30日には[[第6軍 (ドイツ軍)|第6軍]]がドネツを渡って右翼を担った。第4装甲軍に属する第48装甲軍団は7月3日にドン川に達し、7月6日から[[イリューシン設計局]]の航空機工場がある[[ヴォロネジ]]を2個師団の兵力により攻撃した。
 
一方、ソ連軍はドイツ軍が危惧した通りライヘル少佐が携えていた命令書を確保していた。しかし[[スターリン]]は、ドイツ軍はヴォロネジから[[オリョール]]、さらに[[モスクワ]]に向けて北上するだろうと考え、命令書を罠と判断する。これに基づき、[[フィリップ・ゴリコフ|フィリップ・ゴリコフ中将]]の[[ブリャンスク戦線|ブリャンスク方面軍]]は、ヴォロネジ市街地に拠点を構えて頑強に抵抗した。その結果、ドイツ第48装甲軍団は市街戦と補給に苦しみ、歩兵部隊の到着を得て7月13日にようやくヴォロネジを占領することができた。この影響で南方軍集団は足止めされ、ドン川下流の制圧に7月下旬までかかるが、その間にチモシェンコ元帥は残存兵力をドン川湾曲部、さらにその東方スターリングラードまで撤退させた。そもそも作戦の第一段階での目標は、ドン川西岸でソ連軍を捕捉し殲滅することだった。ドイツ軍はドン川東岸に侵攻することはできたものの、その間に得られた捕虜や鹵獲装備は思いのほか少なく、敵が秩序だった撤退を行っていることが推察された。ヴォロネジでの独ソ別々の思惑による停滞は、その後の展開に思わぬ影響を及ぼすこととなる。
 
こうしたおり、ヒトラーはドン川→[[カフカース|コーカサス地方]]という二段構えの攻勢を想定していたブラウ作戦を、急きょ二方面同時攻勢に変更させた。7月7日、この指令に応じるかたちで南方軍集団は、ドネツ川沿いに進んでドン川を渡りカフカースの油田地帯を攻略する「[[A軍集団]]」([[ヴィルヘルム・リスト|ヴィルヘルム・リスト元帥]]指揮。[[第17軍 (ドイツ軍)|第17軍]]、[[第1装甲軍]]など{{要出典|date=2018-04-25|兵力100万}})と、チモシェンコ元帥のソ連軍を追撃・撃破しつつドン河沿いに進み、さらにスターリングラードでヴォルガ河を封鎖するという「[[B軍集団]]」(フェードア・フォン・ボック元帥指揮。第2軍、第6軍、第4装甲軍、[[イタリア・ロシア戦域軍|イタリア第8軍]]、ハンガリー第2軍、ルーマニア第3軍、{{要出典範囲|date=2018-09|ルーマニア第4軍など兵力30万}})に分割される。撤退中のソ連軍を多方面で追撃しつつ占領域を広げるという方策だが、こうした兵力分割は、結果的に機動力の確保と補給を困難にさせた<ref>山崎雅弘「戦略分析・ブラウ作戦」(『歴史群像』122、2013年11月)</ref>。
[[画像:Eastern Front 1942-05 to 1942-11.png|300px|thumb|ドイツ軍の進撃。1942年5月から1942年11月にかけての前線の推移]]
 
=== B軍集団 ===
7月13日のヴォロネジ占領と同時に、B軍集団司令官のボック元帥は、ヴォロネジでの時間の空費を追及されて更迭となった。その後任としてヒトラーが任用したのは、第2軍司令官の[[マクシミリアン・フォン・ヴァイクス|マクシミリアン・フォン・ヴァイクス上級大将]]だった。また、ヒトラーは第4装甲軍([[ヘルマン・ホト|ヘルマン・ホト上級大将]])に対し、ドン河方面での左翼から主力部隊を一旦離脱させ、A軍集団のドン河渡河を支援するため、[[ノヴォチェルカースク]]付近のドン河に向わせた。
 
しかし、スターリンが「一歩も下がるな!」とのスローガンをのちに発したことで有名な、[[ソ連国防人民委員令第227号]]を発出する契機となったほど、ロストフでのソ連軍の抵抗は微弱で、A軍集団は第4装甲軍の助力を必要とはしなかった。むしろ、この用兵は限られた数しかない進撃路での渋滞をもたらし、結果的には燃料と時間の浪費を生んだだけに終わった。
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当時人口60万だったスターリングラード市は、ソ連邦最高指導者[[ヨシフ・スターリン]]が革命時の[[ロシア内戦]]において[[デニーキン]]将軍の[[白衛軍]]に勝利した記念地を都市名の由来としていたが、地理的に見た場合、ロシア南部でヴォルガ川がドン川に向かって最も西側に屈曲した地点にあり、ここを抑えることはコーカサスや黒海・カスピ海からロシア中心部に至る、水陸双方にわたる複数の輸送路を遮断することにつながった。さらに経済および国防の観点によるならば、スターリングラードは[[五カ年計画]]において重点的にモデル都市として整備された結果、国内屈指の製鉄工場である赤い10月製鉄工場、大砲を製造していた[[ティターン・バリカディ|バリカドイ(バリケード)兵器工場]]、さらにスターリングラード・トラクター工場(別名[[フェリックス・ジェルジンスキー|ジェルジンスキー]]工場)など、ソ連にとって国家的に重要な大工場が存在する有数の工業都市へと発展していた。
 
特にスターリングラード・トラクター工場は、中戦車[[T-34]]の主要生産拠点であった。ドイツ軍装甲部隊に対抗可能な2種の新型戦車のうち、中戦車T-34は[[V・O・マールィシェウ記念工場|ハリコフ機関車工場]]、重戦車[[KV-1]]は[[レニングラード]]のキーロフスキー工場が開発工場であり、主工場でもあったが、これらの工場はドイツ軍の進撃により疎開を強いられていた。その後、新たな戦車生産拠点となるクラスノエ・ソルモヴォ工場([[ニジニ・ノヴゴロド|ゴーリキー]]市)やハリコフ機関車工場の疎開先でもある[[ウラル戦車工場]]([[ニジニ・タギル]]市)の操業が本格化する以前においては、スターリングラード・トラクター工場こそが、最も有力な主力戦車組立工場であった。
 
市内では、これら工場群の男女労働者や、未成年の[[コムソモール]](共産主義青年同盟)団員で編成された、ソ連共産党に忠実な市民勢力による義勇兵のほか、ティモシェンコ元帥とともにドン川方面から組織的に撤退して再編された将兵、さらには前年以来ウクライナから逃れてきた難民も市内に収容されており、スターリングラードはロシア南部最後の拠点という性格を有していた。また、もしソ連赤軍が反撃に転じた場合は、[[ロストフ・ナ・ドヌ|ロストフ]]奪回の策源地にもなりえた<ref group="注釈">[[朝鮮戦争]]中に30代で韓国軍の参謀総長を務めた[[白善燁]]大将の『若き将軍の朝鮮戦争 ― 白善燁回顧録』(草思社、2000年)によると、1941年に[[満州国軍官学校]]で独ソ戦について講演した関東軍情報参謀の[[甲谷悦雄]]中佐は、「間もなくヴォルガ川畔のスターリングラードという街で一大決戦が行われるだろう。そして、この決戦の勝者が世界を制する」と予言した。当時生徒だった白将軍は戦後に甲谷と再会する機会もあったが、スターリングラードに関する予言の根拠について、惜しいことに聞く機会を逸したという。</ref>。
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[[画像:Bundesarchiv Bild 183-B22081, Russland, Kampf um Stalingrad, Luftangriff.jpg|thumb|ドイツ軍機の爆撃に曝される市街地]]
まず、ヴィータースハイム大将指揮の第14装甲軍団は、早朝にドン川から出撃した[[ハンス=ヴァレンティーン・フーベ|ハンス=ヴァレンティーン・フーベ中将]]の第16装甲師団を先鋒に急進し、85mm[[高射砲]]を使ったトラクター工場の女性労働者たち([[コムソモール]]の少女たちともいわれる)による抵抗を排除して、午後4時過ぎに市の北郊ルイノクで待望のヴォルガ河畔に達した。しかし、市街地への南下は阻止される。このほか、第6軍と第4装甲軍は連携して徐々に外郭防衛線を突き崩してスターリングラードを包囲していったが、本格的攻撃の再開は、A軍集団の側面支援に向かった第4装甲軍の主力部隊がスターリングラード方面での展開を終えるまで、3週間もずれ込んでしまった。この間、ドイツ空軍は連日のように猛烈な爆撃を加えて市街のほとんどを廃墟にするとともに、ヴォルガ川を航行する船舶にも昼夜にわたり砲撃と航空攻撃を加えている。ヒトラーもパウルスも、スターリングラードは数日の攻撃で陥落できると楽観的に考えていた。8月28日になってスターリンは非戦闘員の退去を許可したが、その間の爆撃で数万人の一般市民が犠牲となった。しかし、爆撃がもたらした廃墟と瓦礫は遮蔽物をもたら形成し、ソ連赤軍将兵にとっての要塞となっていく。
 
スターリングラード防衛のため、7月12日にスターリングラード方面軍が編成され、チモシェンコ元帥が司令官に任命された。ただし、彼は5月のバルベンコボ攻勢の失敗を引きずっていたため、スターリンの判断によってすぐに安定した[[北西戦線 (ソ連軍)|北西方面軍]]へ異動となり、[[ワシーリー・ゴルドフ|ワシーリー・ゴルドフ中将]]が交代した。しかし、ゴルドフはドン川湾曲部の防衛戦で成果が上げられなかったために更迭され、8月1日に[[アンドレイ・エリョーメンコ]]大将が方面軍司令官となった。エリョーメンコは、2月に行われた[[デミャンスク包囲戦]]の際、第4打撃軍を指揮して[[トロペツ]]を攻略中に重傷を負って入院中だったが、スターリンに懇願して前線に復帰した。エリョーメンコは着任するや、ドイツB軍集団の集中が遅れているのを活用し、ドン川西岸方面から撤収してきた各部隊を短期間に再編した。さらに市内の工場労働者や市民を部隊編成させ、対岸からも補給を受けて防衛線の構築に努めた。
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あるドイツ軍将校の手記にはこう記されている。
{{Cquote|スターリングラードはもはや街ではない。日中は、火と煙がもうもうと立ち込め、一寸先も見えない。炎に照らし出された巨大な炉のようだ。それは焼けつくように熱く、殺伐として耐えられないので、犬でさえヴォルガ河に飛び込み、必死に泳いで対岸にたどり着こうとした。動物はこの地獄から逃げ出す。どんなに硬い意志でも、いつまでも我慢していられない。人間だけが耐えるのだ。
神よ、なぜわれらを見捨て給うたのか。<ref>映像の世紀より</ref><ref>Joachim Stempel(Will Fowler: Schlacht um Stalingrad. Die Eroberung der Stadt – Oktober 1942. Wien 2006, S. 83.)</ref>}}
悪臭や煙が充満する中で、風にまみれ、建物の影や穴、地下壕を這っての戦いは、ドイツ兵によって「ラッテン・クリーク」(ネズミ戦争)と揶揄された。一方、チュイコフたちは、ネズミを罠にかけるチーズの役割に徹することとなる。
 
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シュベドラー大将が枢軸軍側のアキレス腱と指摘したルーマニア第3軍の指揮官である[[ペトレ・ドゥミトレスク|ペトレ・ドゥミトレスク大将]]も、自分たちが直面している危険性を早い時期から認識しており、特にソ連軍によるドン川橋頭堡強化を何度も警告していた。しかしヒトラーがフェルディナント・ハイム中将の第48装甲軍団から予備兵力としてドイツ第22装甲師団をペラゾフスキーに回す決定を下したのは、ソ連軍の本格的反攻が始まる9日前の11月10日のことであった。
 
こうしたヒトラーの無能な指示に基づくドイツ軍内の混乱が続く中、ソ連赤軍はスターリングラード防衛に集中し、ドイツ軍を釘付けにし、予備兵力の訓練と展開の時間を稼いだ。共産党中央からは、のちに首相となる[[ゲオルギー・マレンコフ|ゲオルギー・マレンコフ中央委員会書記]]や[[ニキータ・フルシチョフ|ニキータ・フルシチョフ軍事会議委員]]らが派遣され、政治委員として[[督戦隊|督戦]]にあたった。また、[[ラヴレンチー・ベリヤ]]が統括する[[内務人民委員部]] (NKVD) は厭戦的な将兵の摘発や逃亡阻止に努めた。ソ連当局にスターリングラードで処刑された将兵は、1個師団を上回る1万3千人に達している。
 
=== ソ連第62軍の抵抗 ===
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* [[10月14日]] - ドイツ軍第14装甲師団と3個歩兵師団が支援爆撃とともにトラクター工場に対する総攻撃を開始した。市街への攻撃開始以来最大の激戦となり、ジョルデフ少将の第37親衛狙撃師団を壊滅させてヴォルガ川に達したが、ドイツ軍も1日で3,000人近い戦死者を出した。ソ連軍を全滅させたドイツ軍部隊が河岸に到達するや、対岸のソ連軍は重砲や[[カチューシャ (兵器)|カチューシャロケット砲]]で集中砲火を浴びせたので、ドイツ兵の消耗も著しかった。
* [[10月23日]] - バリカドイ兵器工場のほとんどがドイツ軍の手に落ちる。前日には初雪が降ったが、市街の9割はドイツ軍の支配下となった。
* [[10月27日]] - 赤い10月製鉄工場にドイツ第79歩兵師団が突入。ソ連兵は火を落とした溶鉱炉などで食い止める。いまや第62軍は、工場の一郭に潜伏するか、ヴォルガ川に幅数百メートルで張り付いた帯状の陣地に立てこもる状態なった。しかし、ほとんど増援を得られない中で将兵は頑強に抵抗した。ドイツ軍も補給に苦しみ、また空軍の支援も漸減し、冬を迎えつつある市街のわずか数パーセントをめぐり際限のない市街戦が続いた。
* [[11月1日]] - 第79歩兵師団による「赤い10月」工場奪還の失敗後、第6軍は最後の大規模な攻勢として、突撃工兵による[[突撃大隊|特攻戦術]] (Stoßtrupptaktik) を中核とした「[[フーベルトゥス作戦]]」を発動。目標は「バリケード」兵器工廠及び「ラズール」化学工場など工場群、さら特徴的な周回線路る鉄道網、通称「テニスラケット」等の工と呼ばれた操車群の占拠であった。作戦は18日頃まで実施されたが最終的に第6軍は大きな損害を被った上り、作戦は最終的には失敗に終わり第6軍の戦力は壊滅に瀕した。
* [[11月8日]] - [[ロシア革命]]25周年を記念して、この日にソ連軍が何らかの攻勢を仕掛けるだろうという懸念があったが何事もなく、ソ連の兵力も限界に近づいているとの楽観論がドイツ軍側に漂う。翌日、ヒトラーはスターリンの名を冠したスターリングラードを時間のいかんに関わらず必ず制圧し、[[ヴェルダンの戦い|ヴェルダン]]の二の舞にはしないとラジオで演説した。
* [[11月11日]] - 午前6時30分、ドイツ軍は7個師団で工場地区に残る第62軍の掃討を開始した。激烈な白兵戦が展開された末、特徴的な周回線路から「テニスラケット」と呼ばれた操車場は第62軍が何とか確保したが、ドイツ軍は赤い10月製鉄工場を突破して数百メートル幅でヴォルガ川に到達し、第62軍は三つに分断される。さらに浮氷がヴォルガ川に流れ出し、ただでさえ困難だった対岸からの補給を阻害した。しかし、市内のほとんどを確保したとはいえドイツ軍の消耗も激しく、日ごとに寒気が強くなる中で、戦線は再び膠着状態となってしまう。結局、これが第6軍にとって最後の総攻撃となった。一方、第62軍は今回も激しい爆撃を受けたが、彼らの頭上には爆弾に交じって鉄片や瓦礫、犂まで落とされた。これを見てチュイコフは、自らのみならず敵も限界に近づきつつあることを悟った。
 
== ソ連軍の大反攻 ==
[[画像:Map Battle of Stalingrad-en.svg|300px|thumb|'''ソ連軍の反撃'''{{small|(灰矢印)}}'''と前線の推移''' 11月19日、ウラヌス作戦開始時点の前線(赤)、12月12日、冬の嵐作戦開始時点の前線(オレンジ)、この時点でスターリングラードのドイツ軍は孤立している。12月24日、第6軍救出断念の時点の前線(緑)]]
9月12日~13日にスターリンとソ連軍最高指揮官代理[[ゲオルギー・ジューコフ|ゲオルギー・ジューコフ上級大将]]と参謀総長[[アレクサンドル・ヴァシレフスキー|アレクサンドル・ヴァシレフスキー大将]]はスターリングラードを防衛するための方策について協議した。この結果、スターリングラードから離れた地域を起点として反攻を開始し、スターリングラード第6軍を大規模に逆包囲するという方針が決定される。これは3人だけの極秘事項とされた<ref>スターリングラード「運命の攻囲戦 1942-1943」p.269</ref>。以上の方針に基づき[[ウラヌス作戦]](天王星作戦)の準備が開始され。作戦は2ヶ月かけて準備した後、100万人の将兵と戦車部隊の6割に当たる980両でスターリングラードの北西および南の側面に配置されていたルーマニア軍に向けて開始された。<!-- ソ連軍最高指揮官代理[[ゲオルギー・ジューコフ|ゲオルギー・ジューコフ上級大将]]と参謀総長[[アレクサンドル・ヴァシレフスキー|アレクサンドル・ヴァシレフスキー大将]]の下で、9月12日にスターリンの許可を得て極秘裏に2ヵ月にわたり準備された、100万人の将兵と戦車部隊の6割に当たる980両で両側面のルーマニア軍を粉砕し、スターリングラードの第6軍を逆包囲するという[[ウラヌス作戦]](天王星作戦)が発動される。-->各部隊は無線の発信を厳禁され、作戦目的も数日前まで極秘とされた。こうした情報封鎖の下で、数週間前から第62軍への弾薬補給も理由なしに削減されており、限界に近い戦闘に直面しているチュイコフが苛立つほどだった。加えて、悪天候が続いたために航空偵察が妨げられたのでソ連軍の大反攻はドイツ軍の裏をかいた。ドイツ軍は、ソ連軍予備兵力の量を甘く見ていたうえ、[[第二次ルジェフ会戦]]を予知し、9月以来中央軍集団に威力偵察を加えてきた予備兵力も、モスクワに近いルジェフに充てられると判断していた。予想通りルジェフでもソ連赤軍は11月25日よりジューコフの直率による攻勢を開始し、待ち構えた中央軍集団によって損害を受けたが、それは中央軍集団の兵力を移動させないための対策に過ぎなかった。
 
=== ウラヌス作戦 ===
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; [[11月21日]]
第6軍司令部はスターリングラードから60キロほど離れたドン川流域のゴルピンスキーに置かれていたが、冬営に備えて暖房や通信設備が整備されたニジネ・チルスカヤへの移転準備がちょうど進められていた。そうした折に、敵の戦車隊がゴルピンスキーにまで迫っているとの情報が入り、この日にパウルスは急遽ニジネ・チルスカヤまで移動した。しかし、ヒトラーに前線からの後退を逃亡だと責められ、やむなくスターリングラード郊外のグムラク飛行場付近へと再移動する。こうした司令部の頻繁な移動により、パウルス司令官の所在がたびたび不明になったことが第6軍の混乱に拍車をかける。さらに悪いことに、11月段階の第6軍は深刻な燃料不足に陥っており、後方に機動力のある予備部隊をほとんど配置していなかった。また、馬匹の多くも糧秣の関係で戦線から遠い後方地区に送られていた。このため、突破された作戦域でソ連の戦車隊や騎兵隊の快進撃を阻める部隊はなく、移動手段を失っていた多くの車両や重火器が有効な反撃に使用されることなく無傷のまま遺棄された。一方、ドイツ側では、第6軍を援護する兵力を確保するために、[[ヴィチェプスク|ヴィテプスク]]にあった[[エーリッヒ・フォン・マンシュタイン|エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥]]の[[第11軍 (ドイツ軍)|第11軍]]司令部を再編してドン軍集団が設置された。マンシュタインは即日、幕僚と共に特別列車で出発したする
 
; [[11月23日]] (包囲の完了)
午前6時、ロディン少将のソ連第26戦車軍団要衝であるドン川のカラチ大鉄橋を奇襲して奪回し、これにより両岸で戦車を動かすことが可能となった。さらに夕刻16時にはソヴィエツキーで南西方面軍に属する[[アンドレイ・クラフチェンコ|アンドレイ・クラフチェンコ少将]]の第4戦車軍団とスターリングラード方面軍に属する[[ワシーリー・ヴォリスキー|ワシーリー・ヴォリスキー少将]]の第4機械化軍団の戦車部隊が合流し、チル川方面との交通を遮断してドイツ第6軍に対する包囲環が完成する。包囲された枢軸軍の将兵は30万4000人に上った{{efn|23万余りという説もあるが、参謀本部のエーバハルト・フィンク大佐は30万4000人という数値をマンシュタインに示している<ref>アレクサンダー・シュタールベルク『回想の第三帝国』下巻 59頁</ref>。}}。[[ミハイ・ラスカル|ミハイ・ラスカル中将]]のもとで戦線に踏みとどまったルーマニア第5軍団もついに降伏し、5個師団が壊滅した。ようやく事態の深刻さに気づいた第6軍パウルス司令官は、燃料が6日分しかないとして、スターリングラードから全軍をニジネ・チルスカヤ方面に撤退させるようヒトラーに許可を求め、徹夜して返電を待った。
 
; [[11月24日]] (ヒトラーの対応)
ドイツ・バイエルン州の[[ベルヒテスガーデン]]から東プロイセンのラステンブルクに専用列車で到着したヒトラーは、自署した命令書でパウルスの撤退要請を即座に却下し、戦線死守を厳命した。「第6軍を空から養う」とする[[ヘルマン・ゲーリング|ヘルマン・ゲーリング国家元帥]]や、それに追従する[[ハンス・イェションネク|ハンス・イェションネク空軍参謀総長]]の主張もあり、空中補給による戦線維持は可能と彼は判断していた。さらに、7月26日深夜の[[ハンブルク空襲]]以来、英米軍によるドイツ本土爆撃は激しさを増す一方、11月4日に[[ロンメル|ロンメル元帥]]の軍がエルアラメインから撤退を開始し、11月8日には連合国軍がモロッコアルジェリアに上陸した結果([[トーチ作戦]])、アフリカの戦線は崩壊しつつあった。こうした折、スターリングラードから撤退することはヒトラーにとって政治的にも重大な損失と思われた。一方、この日、ちょうど55歳の誕生日を迎えたマンシュタインは、ようやくB軍集団司令部のあるハリコフ東方のスタロビリエスクに到着したする。出迎えたヴァイクス司令官もたらした第6軍の状況は破滅的だった。ただし、マンシュタインも参謀の[[テオドーア・ブッセ|テオドーア・ブッセ大佐]]も、ソ連軍の消耗に期待し、まだ何とかなるだろうと楽観的に考えていた。
 
; [[11月26日]]
マンシュタインとドン軍集団の幕僚は、帝制ロシア時代に[[ドン・コサック]]の拠点が置かれた[[ノヴォチェルカッスク]]の旧離宮にある第4装甲軍司令部に到着した。空路は悪天候で使えず、道路は貧弱で、鉄道は[[赤軍パルチザン|パルチザン]]の破壊工作による脅威に直面しており、レニングラード全面から5日がかりの鉄道移動となった。しかし、その間に包囲環はますます強化されていた。一方、マンシュタインの手元には、クレツカヤ地区での包囲を免れたルーマニア兵などわずかな戦力しかなく、ルーマニア第3軍の[[ヴァルター・ヴェンク|ヴァルター・ヴェンク参謀長]]が後方要員や軍属までかき集めてチル川をようやく維持し、主力となる[[第6装甲師団 (ドイツ国防軍)|第6装甲師団]]はフランスからの到着を待たなければならないという状況だった。それでも第6軍の将兵は、「守り通せ! 総統が我々を救出する!」というスローガンを信じ、クリスマスまでには救出されるだろうと思っていた。ヒトラーはパウルスの忠誠心を確保するため、彼を[[上級大将]]に昇格させた。
[[画像:Soviet marines-in the battle of stalingrad volga banks.jpg|thumb|ヴォルガ川から上陸するソ連水兵]]
 
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* [[1月10日]] - ソ連赤軍はドイツ第6軍をスターリングラード市内に圧縮するコリツォー(「鉄環」)作戦を開始。7個軍で西方より進撃して包囲環の縮小を図る。作戦の主導権は、攻防戦開始以来の方面軍司令官だったエリョーメンコではなく、ジューコフに抜擢されたロコソフスキーが握った。彼は[[赤軍大粛清]]の際に[[内務人民委員部|NKVD]]に逮捕された経験を持つが、新しい世代の有用性をスターリンもようやく認めるようになった。
* [[1月16日]] - <!-- マリノフカの突出部に攻め込んだ-->ソ連赤軍がピトムニク飛行場を占領。ドイツ軍の保持している地域は1400平方キロから650平方キロに縮小した。ただし、ソ連赤軍の損失も甚大で、数日間進撃が停止される。この日、ドイツ政府は第6軍が包囲されていることを国民に初めて公表した。
* [[1月20日]] - ヒトラーが必要な人材と認めた第14装甲軍団司令官フーベ中将など装甲軍の幹部や、重傷を負った第4歩兵軍団長の[[エルヴィン・イェーネッケ|エルヴィン・イェーネッケ工兵大将]]、一部の技術者や職人からなる有技兵が、最後の救出機でグムラクから脱出した。最終的に空路で脱出した兵士の数は2万5千人だった<ref name = "stahl59">[[#シュタールベルク|シュタールベルク(1995年)]]、59頁。</ref>。一方、軍医は全員残され、2万人の傷病兵が積み残された。彼らはスターリングラード市街に徒歩で戻ったが、動けない者は病院ごとソ連兵に焼き払われるか、極寒の雪原に放置された。
* [[1月21日]] - ソ連赤軍がグムラク飛行場を占領。第6軍への補給はもちろん、ジャーナリストなど民間人や傷病者の脱出も全く不可能となる。
* [[1月22日]] - ソ連赤軍が最終攻勢を開始。第6軍は市内の防衛線に追い込まれる。零下35度という厳寒の廃墟や雪原で、ドイツ軍将兵は戦死、さもなければ凍死か餓死、あるいは自決に迫られた。ヒトラーはパウルス以下が「[[フィンブルの冬|英雄叙事詩]]」のごとく全員戦死することを切望し、正規軍としての降伏を許さなかった。
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== 死傷者数 ==
ドイツ軍および枢軸軍の死傷者は約85万人、ソ連赤軍は約120万人とされている。全体で7万近くのソ連軍捕虜が対独協力者([[ヒヴィ]])として第6軍に動員されたが、生存者はほとんどいなかったとされる。攻防戦が終結した時点で戦前は60万を数えたスターリングラードの住民は、攻防戦が終結した時点でわずか9796名に激減していた。ヴォルガ対岸に疎開したり、ドイツ軍によって後方に運ばれた人々も少なくなかったが、少なくとも20万人程度の民間人が死亡したと見られている。
 
イギリスの戦争[[特派員]]アレクサンダー・ウェルスは、1943年2月3から5日にかけてスターリングラードを訪問した際のことを自著において以下のように記している。
 
We [...] went into the yard of the large burnt out building of the Red Army House; and here one realised particularly clearly what the last days of Stalingrad had been to so many of the Germans. In the porch lay the skeleton of a horse, with only a few scraps of meat still clinging to its ribs. Then we came into the yard. Here lay more more {{sic}} horses' skeletons, and to the right, there was an enormous horrible cesspool – fortunately, frozen solid. And then, suddenly, at the far end of the yard I caught sight of a human figure. He had been crouching over another cesspool, and now, noticing us, he was hastily pulling up his pants, and then he slunk away into the door of the basement. But as he passed, I caught a glimpse of the wretch's face – with its mixture of suffering and idiot-like incomprehension. For a moment, I wished that the whole of Germany were there to see it. The man was probably already dying. In that basement [...] there were still two hundred Germans—dying of hunger and frostbite. "We haven't had time to deal with them yet," one of the Russians said. "They'll be taken away tomorrow, I suppose." And, at the far end of the yard, besides the other cesspool, behind a low stone wall, the yellow corpses of skinny Germans were piled up – men who had died in that basement—about a dozen wax-like dummies. We did not go into the basement itself – what was the use? There was nothing we could do for them.<ref> {{Cite book |author=Alexander Werth |title=Russia at War 1941–1945 |year=1964 |publisher=E. P. Dutton & Co, Inc. |isbn= |page=562}}</ref>
 
我々は(中略)赤軍の焼けた大きな建物に入った。ここでスターリングラードの最後の日が多くのドイツ将兵にとって何であったかをはっきりと実感した。ポーチには馬の死体が置かれていて、肋骨にはわずかな肉がこびりついていた。それから私たちは庭に入った。ここには多くの馬の死体があり、右側には巨大な汚水だめがあったが、幸いにも固く凍っていた。突然、庭の奥に人の姿が見えた。その男は別の汚水だめの上にしゃがんでいたが、私たちに気付いたのか、急いでズボンを引き上げると、地下室のドアの中へとそっと入っていった。彼が通り過ぎるとき、その惨めな顔が垣間見えた―苦痛と放心が入り混じった。一瞬、全てのドイツ人がその顔を見たいだろうと思った。その男はおそらくすでに死にかけているのだった。(中略)地下室には、飢えと凍傷で死んだ200人のドイツ兵の死体があった。「彼らを処理しておく時間がなかった」とロシア人の一人は言った。「彼らは明日運びだされるだろう」と。そして、庭の端には、さらなる汚水だめがあり、低い石の壁の後ろに、やせ細って黄色くなったドイツ兵の死体が積み上げられていた。地下室で死んだ男たちーまるで1ダースの蝋人形のようなー。我々は地下室には入らなかった。何か役に立つことができただろうか?彼らのためにできることは何もなかった。
[[画像:Bundesarchiv Bild 183-E0406-0022-011, Russland, deutscher Kriegsgefangener.jpg|thumb|left|赤軍兵に連行されるドイツ兵]]
 
== 捕虜 ==
包囲されたドイツ第6軍と枢軸国軍の将兵30万余りのうち、2万5,000人の傷病兵などが空軍によって救出されたが、パウルス元帥と24人の将軍を含む、生き残りの9万6000人が降伏した<ref name = "stahl59"/>。[[捕虜]]の運命は過酷で、ベケトフカの仮収容所まで雪道を徒歩で移動する際に落伍した将兵は、そのまま見捨てられ凍死するかソ連兵に殺害された。ソ連軍は自軍に支給される食料の半分を捕虜に回したものの全員には行き届かず、さらに仮収容所で[[発疹チフス]]が大流行し、数週間のうちに約5万人が死亡した。
 
生存者はその後、中央アジアや[[シベリア]]の[[強制収容所|収容所]]に送られるが、ここでも過酷な労働で多くの者が命を落とし、戦後に生きて祖国へ帰国できたのは僅か6,000人であった<ref group="注釈">ヒトラーの甥(姉の子)である[[レオ・ラウバル|レオ・ルドルフ・ラウバル]](ヒトラーの愛人と噂された[[ゲリ・ラウバル]]の弟)は負傷していたもののヒトラーに仲間と戦うよう命じられ、捕虜となったが戦後に解放されて帰国した。他にもう一人の甥(異母兄の子)ハインツ・ヒトラーも捕虜となるが捕虜収容所で死亡した。従兄弟の子ハンス・ヒトラーも従軍していたが、からくも包囲網を逃れる事ができた。また、[[アルベルト・シュペーア|アルベルト・シュペーア軍需相]]の弟エルンスト一等兵もこの戦いで行方不明となっている。</ref>。しかし、パウルス元帥や捕虜となった軍たちは優遇された。校の中にはザイトリッツのように、「[[ドイツ将校同盟]]」の議長として反ヒトラー宣伝に積極的に協力する人物もいた。
[[画像:Disfatta.jpg|thumb|捕虜となり強制収容所まで歩かされるドイツ兵たち。一列10人としても10万人に近い捕虜の列がいかに長いかを物語るであろう。落伍した兵は射殺された。]]
 
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緒戦の段階では、ドイツ空軍は第4航空艦隊が[[メッサーシュミット Bf109]]戦闘機によってソ連空軍戦闘機を一掃し、スターリングラードの制空権を掌握した上で、陸空協調という戦略の下銃爆撃をソ連軍陣地やヴォルガ川を渡る船舶に加え打撃を与えていたが、陸軍同様に次第に消耗していった。
[[画像:Bundesarchiv Bild 183-J20510, Russland, Kampf um Stalingrad, Luftangriff crop.jpg|thumb|市街上空を飛ぶドイツ軍の[[急降下爆撃機]]「[[Ju 87 (航空機)|スツーカ]]」]]
包囲されたドイツ軍の脱出をヒトラーが認めなかった背景の一つには、前述のように空軍総司令官の[[ヘルマン・ゲーリング|ヘルマン・ゲーリング国家元帥]]が空輸による食料、弾薬、燃料、および兵員の補給が十分に可能であると主張したことが挙げられる。これは、同年春における[[デミャンスク包囲戦]]の際、包囲された10万のドイツ軍が、輸送機による補給で72日間耐え抜いた末、軽微な損害で脱出に成功したという先例が、楽観論の根拠となっていた。しかし、戦地の状況はデミャンスク包囲戦より深刻だった。厳冬期という気象的条件、そして要求される物量もデミャンスクより過酷な条件であるにも関わらず、スターリングラードへの航空補給をゲーリング国家元帥が軽々に請け負ったことは、大きな代償を負うこととなる。包囲されてしまった味方部隊の総数すら把握できない状況とはいえ、デミャンスクと比較して大規模であることは確実だった。しかし、全体的に輸送機が不足していた上に悪天候と気温の低下が続き、航空機の離着陸を大きく妨げていた。さらに、デミャンスク包囲戦の場合と違って強力な予備兵力が後方に存在しない上、敵軍の兵力は大規模だった。開戦当初こそ数多くの撃墜数をドイツ空軍に献上したソ連空軍だったが、戦闘機パイロット操縦士は次第に空中戦の技量を上げてきており、スターリングラード周辺でも、Bf 109にも劣らない性能を持つ[[Yak-1 (航空機)|Yak-1]]を駆使する[[セルゲイ・ルジェーンコ|セルゲイ・ルジェーンコ空軍大将]]の第16航空軍による邀撃が激しくなってきた。その中には、ドイツ空軍将兵から「スターリングラードの白い薔薇」と注目された[[リディア・リトヴァク]]のような女性操縦士も含まれていた。ドイツ戦闘機の消耗とともに、低速力で軽武装の[[Ju 52 (航空機)|Ju 52輸送機]]は、ソ連軍戦闘機にとって格好の攻撃対象となっていく。さらに地上では、包囲環外周に1平方キロあたり100門の高射砲という対空陣地が待ち受け、多くの輸送機が撃墜された。
 
第6軍は1日700トン、最低でも300トンの補給を求めたが、平均到着量は110トン前後に過ぎず、純粋な部隊維持用の補給も一度としてなされることはなかった。これにより、機械化されていないドイツ軍が多数保持しなければならなかった馬匹は飼料欠乏により維持不能となり、同時に馬を食料にせざるを得ないという結果がもたらされた。併せて、撤退時にはすべての重砲や砲弾、車両を放棄することを意味していた。また、タツィンスカヤ、モロゾフスカヤといった[[飛行場]]も次々にソ連軍に占領され、輸送機の飛行距離は増大していった。ピトムニクとグムラクの着陸地が奪われた後は、第6軍の維持は[[パラシュート落下傘]]による補給品投下に頼らざるを得なかった。このような方法によって十分な量の補給は困難であり、さらに投下された補給品の多くは、ドイツ兵がたどりつく前にソ連兵に回収された。
 
ヒトラーから直接総統命令を受けたことで無謀な任務を負わされ、現地で空輸作戦を統括した[[エアハルト・ミルヒ|エアハルト・ミルヒ元帥]]は、ゲーリングの無知と怠慢に憤った。さらに、実現困難な命令に反発した空軍兵による[[サボる|サボタージュ]]すら発生した。最終的には、この空中補給作戦を遂行するために488機もの輸送機と1000人を越える[[パイロット操縦士 (航空)|パイロット操縦士]]が失われた。多くの輸送機を喪失したことは結果として更なる輸送力の低下につながることとなり、戦線を拡大しすぎた[[ドイツ国防軍]]にとって大きな痛手となった。特に、Ju 52は飛行学校の訓練機としても用いられていた上に飛行学校の教官が操縦士を担っていたため、これらを多数失ったことは、[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]]が弱体化する要因の一つとなる。そして、「第6軍を養う」という約束を実行できなかったゲーリング国家元帥の威信も、英米軍によるドイツ本土爆撃の本格化とあいまって損なわれ、[[ナチス党]]率いるドイツ政府No.2という地位を実質的に失うことになる。しかしながら、権限を持ったままのゲーリングの存在は空軍の統帥をますます混乱させることになるのである。
 
==編成<ref name=Haupt211_212>{{cite book|last=Haupt|first=Werner|title=Army Group South: The Wehrmacht in Russia 1941-1945|year=1998|publisher=[[Schiffer Publishing]]|location=Atglen, PA|isbn=0-7643-0385-6|pages=211–212}}</ref> ==
 
==枢軸軍の編成==
==編成*参考文献<ref name=Haupt211_212>{{cite book|last=Haupt|first=Werner|title=Army Group South: The Wehrmacht in Russia 1941-1945|year=1998|publisher=[[Schiffer Publishing]]|location=Atglen, PA|isbn=0-7643-0385-6|pages=211–212}}</ref> ==
[[File:Stalingrad Encirclement it.png|thumb|right|180px|[[ウラヌス作戦]]発動後の独ソ両軍の状況]]
[[File:Stamp Croatian Legion.jpg|thumb|right|180px|スターリングラードで戦う[[クロアチア独立国]]第369強歩兵連隊を描いた切手]]
 
=== ドイツ軍 ===
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*** 第1装甲師団
*** 混成砲兵連隊
*'''第4軍(Armata a 4-a Română)'''
** 第Ⅵ軍団(Corpul Ⅵ Armată)
*** 第1歩兵師団(Diviziei 1 Infanterie.)
310 ⟶ 305行目:
** コンサリク、ハインツ・G(小説):『第6軍の心臓:1942-1943年スターリングラード地下野戦病院』、フジ出版社、1984年
** [[高橋慶史]]:『ラスト・オブ・カンプフグルッペ』、2001年第I部第5章、第II部第1章
** [[逢坂冬馬]]:『[[同志少女よ、敵を撃て]]』 早川書房、2021年
* 映画
** コンサリク、ハイン[[ゲァ・フォンG ラドヴァニ]]監督西ドイツ映画):『[[スターリングラードからの医者]]』、1958年
** [[フランク・ヴィスパー]]監督(西ドイツ映画):''Hunde, Wollt Ihr Ewig Leben'' (邦題[[壮烈第六軍!最後の戦線]])、1959年、西ドイツ
** [[ニキータ・クリーヒン]]+[[レオニード・メナケル]]監督(ロシアソ連映画):『[[鬼戦車 T34T-34]]』、1964年
** [[ヴィットリオ・デ・シーカ]]監督(イタリア・ソ連合作映画):『[[ひまわり (1970年の映画)|ひまわり]]』、1970年
** [[ガブリール・エギアザーロフ]]監督(ロシアソ連映画):『[[白銀の戦場 スターリングラード大攻防戦]]』、1972年
** [[セルゲイ・ボンダルチュク]]監督(ソ連映画):『[[祖国のために]]』、1975年
** [[ヨゼフ・フィルステンマイヤー]]監督(独米合作映画):『[[スターリングラード (1993年の映画)|スターリングラード]]』、1993年
** [[ジャン=ジャック・アノー]]監督(アメリカ映画、Robbins作の小説を原作とする):『[[スターリングラード (2001年の映画)|スターリングラード]]』、2001年
** [[押井守フョードル・ボンダルチューク]]監督ラジオドラマロシア映画):『[[押井守シアターリングラード ケルベロス鋼鉄史上最大猟犬市街戦]]』、2006年 - 20072013
** [[セルゲイ・ポポョード (映画監督)|セゲイボンダルチュークポポフ]]監督(ロシア映画):''[[:en:Stalingrad (2013 film)|Stalingrad]]''(邦題『[[スターリングラード 史上最進撃 ヒトラー市街戦蒼き野望]]』20132015
* ラジオドラマ
 
** [[押井守]]:『[[押井守シアター ケルベロス鋼鉄の猟犬]]』、2006年 - 2007年
* ゲーム:
** 『[[Call of Duty]]』(ゲーム)
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== 参考文献 ==
* アントニー・ビーヴァー 著、堀たほ子 訳、『スターリングラード「運命の攻囲戦 1942-1943」』、朝日新聞社、2002年、ISBN 4-02-257682-0
*{{Cite book|和書|author=アレクサンダー・シュタールベルク著|translator=鈴木直|year=1995|title=回想の第三帝国〈下〉―反ヒトラー派将校の証言1932‐1945|publisher=[[平凡社]]|ISBN=978-4582373363|ref=シュタールベルク}}
 
{{Normdaten}}
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[[Category:エーリッヒ・フォン・マンシュタイン]]
[[Category:ゲオルギー・ジューコフ]]
[[Category:イータロ・ガリボルディ]]