「スターリングラード攻防戦」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
(9人の利用者による、間の12版が非表示)
18行目:
|combatant1 = '''{{DEU1935}}'''<br />{{ROM1881}}<br />{{ITA1861}}<br />{{HUN1920}}<br />{{HRV1941}}
|combatant2 = '''{{SSR1923}}'''
|commander1 = {{flagicon|DEU1935}} [[アドルフ・ヒトラー]]<br/>{{flagicon|DEU1935}} [[エーリッヒ・フォン・マンシュタイン]]<br />{{flagicon|DEU1935}} [[フリードリヒ・パウルス]][[File:White flag icon.svg|16px]]<br />{{flagicon|DEU1935}} [[ヘルマン・ホト]]<br />{{flagicon|DEU1935}} [[ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン]]<br />{{flagicon|DEU1935}} [[マクシミリアン・フォン・ヴァイクス]]<br />{{flagicon|ROM1881}} [[ペトレ・ドゥミトレスク]]<br />{{flagicon|ROM1881}} [[{{仮リンク|コンスタンチン・コンスタンチネスク・クラップス]]|en|Constantin Constantinescu-Claps}}<br />{{flagicon|ITA1861}} [[イータロ・ガリボルディ]]<br />{{Flagicon|HUN1918}} [[ヤーニ・グスターフ]]<br />{{flagicon|HRV1941}} [[ヴィクトル・パヴィチッチ]]
|commander2 = {{flagicon|SSR1923}} [[ヨシフ・スターリン]]<br/>{{flagicon|SSR1923}} [[ゲオルギー・ジューコフ]]<br />{{flagicon|SSR1923}} [[ニコライ・ヴォロノフ]]<br />{{flagicon|SSR1923}} [[アレクサンドル・ヴァシレフスキー]]<br />{{flagicon|SSR1923}} [[アンドレイ・エリョーメンコ]]<br />{{flagicon|SSR1923}} [[ニキータ・フルシチョフ]]<br />{{flagicon|SSR1923}} [[ハジ・アスラノフ]]<br />{{flagicon|SSR1923}} [[コンスタンチン・ロコソフスキー]]<br />{{flagicon|SSR1923}} [[ニコライ・ヴァトゥーチン]]<br />{{flagicon|SSR1923}} [[ワシーリー・チュイコフ]]<br />{{flagicon|SSR1923}} [[ロディオン・マリノフスキー]]<br />{{flagicon|SSR1923}} [[セミョーン・チモシェンコ]]<br />{{flagicon|SSR1923}} [[ミハイル・シュミロフ]]<br />{{flagicon|SSR1923}} [[ワシーリー・ゴルドフ]]
|strength1 = [[B軍集団]]<br />戦闘開始時 270,000戦車500大砲3,000航空機600~1600<br />赤軍反撃時 1,040,000(ドイツ軍400,000+イタリア軍220,000+ハンガリー軍200,000+ルーマニア軍143,296+ロシア解放軍40,000)
|strength2 = [[スターリングラード戦線 (ソ連軍)|スターリングラード戦線]]<br />戦闘開始時 187,000<br />赤軍反撃時 1,700,000
25行目:
|casualties2 = 戦死・行方不明 478,741<br />負傷 650,878<br />民間人死者 40,000<br />計 1,129,619<br />航空機 2,769<br /><ref>Россия и СССР в войнах ХХ века - Потери вооружённых сил, Russia and USSR in wars of the XX century - Losses of armed forces, Moskow, Olma-Press, 2001.</ref>
|}}
'''スターリングラード攻防戦'''(スターリングラードこうぼうせん、{{Lang-en|Battle of Stalingrad}}, [[1942年]][[6月28日]] - [[1943年]][[2月2日]])は、[[第二次世界大戦]]の[[独ソ戦]]において、[[ソビエト連邦]]領内の[[ヴォルガ川]]西岸に広がる工業都市[[ヴォルゴグラード|スターリングラード(現[[ヴォルゴグラード]]を巡り繰り広げられた、[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]、[[ルーマニア王国|ルーマニア]]、[[イタリア王国|イタリア]]、[[ハンガリー王国 (1920年-1946年)|ハンガリー]]、および[[クロアチア独立国|クロアチア]]からなる[[枢軸軍]]と[[赤軍|ソビエト赤軍]]の戦いである。
 
スターリングラードは元来[[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]の[[ブラウ作戦]]における副次的目標の一つに過ぎなかったが、戦略上の要衝の地であったことに加え、時のソビエト連邦最高指導者[[ヨシフ・スターリン]]の名を冠した都市でもあったことから熾烈な攻防戦となり、史上最大の[[市街戦]]に発展、やがては[[日露戦争]]の[[奉天会戦]]や[[第一次世界大戦]]の[[ヴェルダンの戦い]]を上回る動員兵力、犠牲者、ならびに経済損失をもたらす[[野戦]]に拡大した。
34行目:
 
== 戦いの背景 ==
[[バルバロッサ作戦]]に着手したドイツ軍は、1941年12月に首都[[モスクワ]]の攻略[[モスクワの戦い|タイフーン作戦]]を試みたが、補給の限界や冬季ロシアという気象条件に遭遇して失敗した。一方、モスクワ前面でのドイツ軍の敗退を過大評価したスターリンは、追い討ちをかけるべく反転攻勢を命じ、ソ連軍は1月にレニングラードからクリミアまでの全戦線で攻勢をかけた。しかし、それは戦力や補給能力を超えたものであり、攻勢は失敗して戦線に若干の凸凹をつけた程度で終わり、雪解け期を迎えた。一方、ドイツ軍は大きな損害を出したものの、[[ノゴロド]]、[[スモレンスク]]、[[ハルキウ|ハリコフ]]といった重要拠点を維持した。なお、ハリコフの南方にはソ連軍の大きな突出部が形成された。
 
雪解け期の間、独ソ両軍はさらなる戦略を検討したが、ソ連軍は突出部を利用して南北からハリコフを挟撃し、奪還するという春季攻勢を立案した。一方、ドイツ軍は夏季攻勢プランとして、[[ブラウ作戦]]を立案したが、その前の準備的作戦として、ソ連軍突出部を裁断する[[フレデリクス計画]]を策定していた。
42行目:
=== ブラウ作戦発動 ===
{{main|ブラウ作戦}}
ブラウ作戦の第一段階ではドン川西岸でソ連軍を撃破し、第二段階では、攻勢軸を2つに分け、一つはスターリングラード近郊でボルガ河に到達し、一つは、ロストフを通過して、[[コーカサス]]地方を南下して、[[マイコープ]][[グロズヌイ|グローズヌイ]]付近の油田を占領し、最終的には[[バクー油田]]を占領するものであった。背景には、前年の対米宣戦を踏まえ、できるだけ早くソ連を降伏に追い込みたいというドイツの戦争指導部中枢の思惑があった。さらにコーカサスの占拠により、当時世界最大級だったバクー油田からの石油供給を断ち切ることでソ連の戦争継続能力に打撃を与え、降伏に追い込むことを図った。
 
そうした中、作戦準備の最終段階となっていた6月18日に、第23装甲師団(第40装甲軍団隷下)の首席作戦参謀ヨアヒム・ライヘル少佐が、ブラウ作戦の命令書を所持したまま軽飛行機で敵状偵察を行ったが、敵陣内で乗機が撃墜されたうえ、機密文書の回収に失敗するという事件が起きた。これは、師団長はもちろんのこと、第40装甲軍団長および参謀長までもが軍法会議にかかるほどの重大事件で、その不首尾にヒトラーは激怒したが、変更する時間的余裕がないため作戦はそのまま進められた。
76行目:
当時人口60万だったスターリングラード市は、ソ連邦最高指導者[[ヨシフ・スターリン]]が革命時の[[ロシア内戦]]において[[デニーキン]]将軍の[[白衛軍]]に勝利した記念地を都市名の由来としていたが、地理的に見た場合、ロシア南部でヴォルガ川がドン川に向かって最も西側に屈曲した地点にあり、ここを抑えることはコーカサスや黒海・カスピ海からロシア中心部に至る、水陸双方にわたる複数の輸送路を遮断することにつながった。さらに経済および国防の観点によるならば、スターリングラードは[[五カ年計画]]において重点的にモデル都市として整備された結果、国内屈指の製鉄工場である赤い10月製鉄工場、大砲を製造していた[[ティターン・バリカディ|バリカドイ(バリケード)兵器工場]]、さらにスターリングラード・トラクター工場(別名[[フェリックス・ジェルジンスキー|ジェルジンスキー]]工場)など、ソ連にとって国家的に重要な大工場が存在する有数の工業都市へと発展していた。
 
特にスターリングラード・トラクター工場は、中戦車[[T-34]]の主要生産拠点であった。ドイツ軍装甲部隊に対抗可能な2種の新型戦車のうち、中戦車T-34は[[V・O・マールィシェウ記念工場|ハリコフ機関車工場]]、重戦車[[KV-1]]は[[レニングラード]]のキーロフスキー工場が開発工場であり、主工場でもあったが、これらの工場はドイツ軍の進撃により疎開を強いられていた。その後、新たな戦車生産拠点となるクラスノエ・ソルモヴォ工場([[ニジニ・ノヴゴロド|ゴーリキー]]市)やハリコフ機関車工場の疎開先でもある[[ウラル戦車工場]]([[ニジニ・タギル]]市)の操業が本格化する以前においては、スターリングラード・トラクター工場こそが、最も有力な主力戦車組立工場であった。
 
市内では、これら工場群の男女労働者や、未成年の[[コムソモール]](共産主義青年同盟)団員で編成された、ソ連共産党に忠実な市民勢力による義勇兵のほか、ティモシェンコ元帥とともにドン川方面から組織的に撤退して再編された将兵、さらには前年以来ウクライナから逃れてきた難民も市内に収容されており、スターリングラードはロシア南部最後の拠点という性格を有していた。また、もしソ連赤軍が反撃に転じた場合は、[[ロストフ・ナ・ドヌ|ロストフ]]奪回の策源地にもなりえた<ref group="注釈">[[朝鮮戦争]]中に30代で韓国軍の参謀総長を務めた[[白善燁]]大将の『若き将軍の朝鮮戦争 ― 白善燁回顧録』(草思社、2000年)によると、1941年に[[満州国軍官学校]]で独ソ戦について講演した関東軍情報参謀の[[甲谷悦雄]]中佐は、「間もなくヴォルガ川畔のスターリングラードという街で一大決戦が行われるだろう。そして、この決戦の勝者が世界を制する」と予言した。当時生徒だった白将軍は戦後に甲谷と再会する機会もあったが、スターリングラードに関する予言の根拠について、惜しいことに聞く機会を逸したという。</ref>。
84行目:
 
[[画像:Bundesarchiv Bild 183-B22081, Russland, Kampf um Stalingrad, Luftangriff.jpg|thumb|ドイツ軍機の爆撃に曝される市街地]]
まず、ヴィータースハイム大将指揮の第14装甲軍団は、早朝にドン川から出撃した[[ハンス=ヴァレンティーン・フーベ|ハンス=ヴァレンティーン・フーベ中将]]の第16装甲師団を先鋒に急進し、85mm[[高射砲]]を使ったトラクター工場の女性労働者たち([[コムソモール]]の少女たちともいわれる)による抵抗を排除して、午後4時過ぎに市の北郊ルイノクで待望のヴォルガ河畔に達した。しかし、市街地への南下は阻止される。このほか、第6軍と第4装甲軍は連携して徐々に外郭防衛線を突き崩してスターリングラードを包囲していったが、本格的攻撃の再開は、A軍集団の側面支援に向かった第4装甲軍の主力部隊がスターリングラード方面での展開を終えるまで、3週間もずれ込んでしまった。この間、ドイツ空軍は連日のように猛烈な爆撃を加えて市街のほとんどを廃墟にするとともに、ヴォルガ川を航行する船舶にも昼夜にわたり砲撃と航空攻撃を加えている。ヒトラーもパウルスも、スターリングラードは数日の攻撃で陥落できると楽観的に考えていた。8月28日になってスターリンは非戦闘員の退去を許可したが、その間の爆撃で数万人の一般市民が犠牲となった。しかし、爆撃がもたらした廃墟と瓦礫は遮蔽物をもたら形成し、ソ連赤軍将兵にとっての要塞となっていく。
 
スターリングラード防衛のため、7月12日にスターリングラード方面軍が編成され、チモシェンコ元帥が司令官に任命された。ただし、彼は5月のバルベンコボ攻勢の失敗を引きずっていたため、スターリンの判断によってすぐに安定した[[北西戦線 (ソ連軍)|北西方面軍]]へ異動となり、[[ワシーリー・ゴルドフ|ワシーリー・ゴルドフ中将]]が交代した。しかし、ゴルドフはドン川湾曲部の防衛戦で成果が上げられなかったために更迭され、8月1日に[[アンドレイ・エリョーメンコ]]大将が方面軍司令官となった。エリョーメンコは、2月に行われた[[デミャンスク包囲戦]]の際、第4打撃軍を指揮して[[トロペツ]]を攻略中に重傷を負って入院中だったが、スターリンに懇願して前線に復帰した。エリョーメンコは着任するや、ドイツB軍集団の集中が遅れているのを活用し、ドン川西岸方面から撤収してきた各部隊を短期間に再編した。さらに市内の工場労働者や市民を部隊編成させ、対岸からも補給を受けて防衛線の構築に努めた。
190行目:
包囲されたドイツ第6軍と枢軸国軍の将兵30万余りのうち、2万5,000人の傷病兵などが空軍によって救出されたが、パウルス元帥と24人の将軍を含む、生き残りの9万6000人が降伏した<ref name = "stahl59"/>。[[捕虜]]の運命は過酷で、ベケトフカの仮収容所まで雪道を徒歩で移動する際に落伍した将兵は、そのまま見捨てられ凍死するかソ連兵に殺害された。ソ連軍は自軍に支給される食料の半分を捕虜に回したものの全員には行き届かず、さらに仮収容所で[[発疹チフス]]が大流行し、数週間のうちに約5万人が死亡した。
 
生存者はその後、中央アジアや[[シベリア]]の[[強制収容所|収容所]]に送られるが、ここでも過酷な労働で多くの者が命を落とし、戦後に生きて祖国へ帰国できたのは僅か6,000人であった<ref group="注釈">ヒトラーの甥(姉の子)である[[レオ・ラウバル|レオ・ルドルフ・ラウバル]](ヒトラーの愛人と噂された[[ゲリ・ラウバル]]の弟)は負傷していたもののヒトラーに仲間と戦うよう命じられ、捕虜となったが戦後に解放されて帰国した。他にもう一人の甥(異母兄の子)ハインツ・ヒトラーも捕虜となるが捕虜収容所で死亡した。従兄弟の子ハンス・ヒトラーも従軍していたが、からくも包囲網を逃れる事ができた。また、[[アルベルト・シュペーア|アルベルト・シュペーア軍需相]]の弟エルンスト一等兵もこの戦いで行方不明となっている。</ref>。しかし、パウルス元帥や捕虜となった軍たちは優遇された。校の中にはザイトリッツのように、「[[ドイツ将校同盟]]」の議長として反ヒトラー宣伝に積極的に協力する人物もいた。
[[画像:Disfatta.jpg|thumb|捕虜となり強制収容所まで歩かされるドイツ兵たち。一列10人としても10万人に近い捕虜の列がいかに長いかを物語るであろう。落伍した兵は射殺された。]]
 
278行目:
*** 第1装甲師団
*** 混成砲兵連隊
*'''第4軍(Armata a 4-a Română)'''
** 第Ⅵ軍団(Corpul Ⅵ Armată)
*** 第1歩兵師団(Diviziei 1 Infanterie.)