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== 概要 ==
「[[南アメリカ|南米]]の[[パリ]]」の名で親しまれ<ref name="a-short-history">''Argentina: A Short History'' by Colin M. Lewis, Oneworld Publications, Oxford, 2002. ISBN 1-85168-300-3</ref><ref>[http://travel.canoe.ca/Travel/SouthAmerica/2005/03/06/953104-sun.html 'Paris of the South'] by Kenneth Bagnell, [[Canadian Online Explorer|Canoe]] travel, 7 March 2005.</ref>、南米の中で美しい町の1つとして数えられる。
'''「南米のパリ」の異名を持つブエノスアイレスは、南米屈指の美しい都市である。'''
 
'''[[ラプラタ川|ラ・プラタ]]{{lang|es|Río de la Plata}} スペイン語で「銀の川」の意を挟んでに面しており、対岸は[[ウルグアイ]]の[[コロニア・デル・サクラメント]]と対峙するこの街は、[[スペイン語]]で「良い空気」という意味を持つ。''' かつて船乗りにとって順風を願う象徴だったこの名前は、まさに街の活気と魅力を体現している
 
意味はスペイン語で「buenos(良い)aires(空気、風)」の意。船乗りの望む「順風」が街の名前になったものである。
'''独立当時は人口5万人ほどの小さな町だったブエノスアイレスは、サルミエント政権による[[欧化政策|欧州化政策]]によって多くの移民を受け入れ、中南米の中でも最も欧州的な街へと変貌を遂げた。''' その後、20世紀には南米随一の繁栄を誇った[[アルゼンチン]]の首都として、長らく南米最大級の都市として君臨していた。
 
独立当時は「偉大な田舎」と呼ばれる人口5万人程の小さな町だったが、[[ドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエント|サルミエント]] (Sarmiento) 政権による欧州化、文明化政策の実施以降数多くの移民が[[イタリア]]・[[スペイン]]などから渡来し、中南米の中でも最も欧州的な街になった。
'''1970年代以降の経済悪化により、南米最大の都市の座は[[ブラジル]]の[[サンパウロ]]に譲ったものの、ブエノスアイレスは現在でもスペイン語圏都市として重要な役割を果たしている。''' 2019年のアメリカのシンクタンクによる世界都市ランキングでは、南米の都市の中で首位に輝き、その国際的な評価を証明している。
 
かつて南米随一の豊かさを誇ったアルゼンチンの首都として、20世紀において長らくブエノスアイレスは南米最大級の都市であった<ref>{{Cite web|url=http://worldpopulationreview.com/world-cities/|title=World City Populations 2020|accessdate=2020年1月9日|publisher=}}</ref>。1970年代以降のアルゼンチン経済の悪化に伴い、南米最大の都市は[[ブラジル]]の[[サンパウロ]]に移ってしまったものの、現在でもブエノスアイレスはスペイン語圏の都市として重要性を保ち、アメリカのシンクタンクが2019年に発表した世界都市ランキングでは24位に評価され、南米の都市の中で首位であった<ref>{{Cite web|title=Read @ATKearney: Una Cuestión de Talento: Cómo el Capital Humano Determinará los Próximos Líderes Mundiales|url=http://www.atkearney.com/global-cities/2019|website=www.atkearney.com|accessdate=2020-01-09|language=en-US}}</ref>。
'''かの有名な[[アルゼンチン・タンゴ]]はこの街のボカ地区で生まれ、サッカー強豪国としても知られるアルゼンチンを代表する街である。''' [[ディエゴ・マラドーナ]]を輩出した[[ボカ・ジュニアーズ]]や[[CAリーベル・プレート]]など、名門チームを数多く擁し、常に熱い戦いが繰り広げられている。
 
'''かの有名な[[アルゼンチン・タンゴ]]はこの街のボカ地区で育った。[[サッカー強豪国]]が盛んなこして知られるアルゼンチンを代表する街有名ある。''' [[ディエゴ・マラドーナ]]を輩出が在籍した[[ボカ・ジュニアーズ]]や[[CAリーベル・プレート]]など名門チームを数多く擁し、常に熱い戦いが繰り広げられている。
'''ブエノスアイレスの市民はポルテーニョと呼ばれる。''' 港の街という意味を持つこの呼び名は、海と共にあるこの街のアイデンティティを象徴している。
 
市民は[[ポルテーニョ]](porteño, 女性はポルテーニャporteña; 港の人、浜っ子の意)と呼ばれる<ref>{{cite web|url=http://www.portenospanish.com/word/138/Porte%C3%B1o|title=What is Porteño in English? – Porteño Spanish|publisher=Portenospanish.com|accessdate=2011-09-15}}</ref>。
'''ブエノスアイレスは、美しい街並み、豊かな文化、情熱的な人々など、多くの魅力を持つ街である。''' 一度訪れれば、誰もがその虜になること間違いなしだろう。
 
== 歴史 ==
[[1516年]][[スペイン君主一覧|スペイン王]]の命により新大陸の[[探検]]をしていた[[スペイン]]航海者 [[フアン・ディアス・デ・ソリス]]は、[[ラプラタ川|ラ・プラタ川]]に到達した。ソリスは今日のプラタ地域に到達したとされる最初のヨーロッパ人であだと思われ。しかし現在今日の[[ウルグアイ|ウルグアイ領]]で、先住民の[[チャルーア族]]に襲撃され、命を落とした。ソリスの死後、ラプラタ地域の探検は一時中断されたが、その後、他のスペイン人探検家によって再開り殺害され、地域の詳細な調査が進められた
 
[[ファイル:Buenos Aires shortly after its foundation 1536.png|left|thumb|200px|1536年創設当初のブエノスアイレス市の風景図。]]
[[1536年]][[2月2日]][[バスク人]]貴族でスペインの探検家だった{{仮リンク|ペドロ・デ・メンドーサ|es|Pedro de Mendoza}}の植民団一行の人々、[[リオ・デ・ラ・プラタ|リオ・デ・ラ・プラタ川]]流域を探検していた際に、現在の[[アルゼンチン]]首都ブエノスアイレス近郊南部の[[サン・テルモ地区]]ヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリーア・デル・ブエン・アイレ市{{lang-es-short|''Ciudad de Nuestra Señora Santa María del Buen Ayre''}} 直訳すると「良き風の我々の聖母マリア市<ref name="a-short-history">''Argentina: A Short History'' by Colin M. Lewis, Oneworld Publications, Oxford, 2002. ISBN 1-85168-300-3</ref> を建設しました。しかしグアラニー族やチャルーア族を始めとする先住民の食糧や物資の略奪、住民への襲撃などの包囲攻撃と、それに伴う飢餓のために町は[[1541年]]にやむを得ず放棄され<ref>[http://www.laeducacion.com/vinculos/materias/historia/not020107.htm Aborígenes de la Argentina] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140605092500/http://www.laeducacion.com/vinculos/materias/historia/not020107.htm |date=2014年6月5日 }}. (Spanish) John D. Torres Barreto. Retrieved 9 February 2012.</ref><ref>[http://www.mendoza.edu.ar/efemerid/p_mendoz.htm Pedro de Mendoza] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140711021051/http://www.mendoza.edu.ar/efemerid/p_mendoz.htm |date=2014年7月11日 }}. (Spanish) Retrieved 8 February 2012.</ref>、生き延びた人々残りは[[パラナ川]]沿いに北て[[アスンシオン]](現在の[[パラグアイ]]首都)を建設しました。
 
[[1580年]]、ヨーロッパ人植民団が[[アスンシオン]]から[[パラナ川]]を下って来た、[[フアン・デ・ガライ]]の指揮のもと率いるヨーロッパ人植民団により街はラ・トリニダー (La Trinidad) 市として再建しましされ。当初、<ref name="provincia">[[ラプラタhttp://www.buenosaires.gov.ar/areas/ciudad/historico/calendario/destacado.php?menu_id=23203&ide=44 Calendario Histórico – Segunda fundación de Buenos Aires] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20121024201506/http://www.buenosaires.gov.ar/areas/ciudad/historico/calendario/destacado.php?menu_id=23203&ide=44 |date=2012年10月24日 }}. (アルゼンチンSpanish)| Gobierno de la Ciudad de Buenos Aires. Retrieved 9 February 2012.</ref>。町は当初ラ・プラタ]]地域の皮革などを輸出する貿易港として繁栄を誇賑わたこの街でしたが、16世紀から17世紀の大半にかけて、スペイン植民地政府は[[ヨーロッパ]]への輸出品をすべは全て[[ペルー]]の[[リマ]]を経由することを強制しましつづけ。こ政策により、市内の貿易業者不満を募らせが高まり[[イギリス]]、[[フランス]][[オランダ]]との[[密貿易]]が盛んになりまし<ref name="a-short-history" />
 
[[1776年]]、[[ブラジル]]方面から侵攻を続ける[[ポルトガル]]から[[バンダ・オリエンタル]]を防衛するためそして[[ペルー副王領]]が分離され[[リオ・デ・ラ・プラタ副王領]]が設置されると、[[ブエノスアイレス]][[副王領]]の首府となり、正式に開港されました。しかし、完全な[[スペイン自由貿易]]当局による貿易制限に不満募らせていた求める[[クリオーリョ]]たちにとっては、この措置は未だに不十分なものであり、スペイン当局への憤懣を鬱積らな自治拡大もとになった。[[フランス革命]]後、ヨーロッパでの戦乱の中でスペインがフランスと同盟求める声結ぶと、スペインの敵対国となったイギリスはこの地域の支配を目論み、1806年、ブエノスアイレスに侵攻を試みた({{仮リンク|イギリスのラプラタ侵略|en|British invasions of the Río de la Plata}})。ラ・プラタ副王は逃亡した、[[ポルテーニョ]]民兵隊は副王不在のっていき[[イギリス軍]]を撃退、翌1807年再侵略をも撃退すると、自信をつけポルテーニョ達のスペインへの忠誠は揺らいでいった。現在もブエノスイアレス市民のことをポルテーニョ(港の人)と呼ぶのはこの時の民兵隊の名前から来ている
 
[[ファイル:Cabildoabierto-Subercaseaux.jpg|thumb|220px|left|[[五月革命 (アルゼンチン)|五月革命]]]]
[[フランス革命]]後、[[ヨーロッパ]]での戦乱の中で[[スペイン]]が[[フランス]]と同盟を結んだ結果、[[イギリス]]は[[スペイン]]の敵対国となりました。[[イギリス]]は南米における[[スペイン]]の影響力拡大を阻止するため、[[1806年]]に[[ブエノスアイレス]]侵攻を試みました。当時の副王は逃亡しましたが、ポルテーニョ民兵隊は副王不在のまま[[イギリス軍]]を撃退し、翌[[1807年]]再侵略をも撃退しました。この勝利で自信をつけたポルテーニョたちは、[[スペイン]]への忠誠心を揺るがせていき、独立への意識を高めていきました。現在も[[ブエノスアイレス]]市民のことをポルテーニョ(港の人)と呼ぶのは、この時の民兵隊の名前が由来となっています。[[ファイル:Cabildoabierto-Subercaseaux.jpg|thumb|220px|left|[[五月革命 (アルゼンチン)|五月革命]]]]
 
[[1808年]]に[[ナポレオン・ボナパルト]]率いの指導す[[フランス軍]]帝国が[[半島戦争|スペインに侵攻]]し、兄の[[ジョゼフ・ボナパルト]]をホセ1世侵攻す据えると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。[[1810年]]5月25日[[五月革命 (アルゼンチン)|五月革命]]が勃発し、ラ・プラタ副王はポルテーニョたちより追放され自治政府が樹立され発足した。[[1816年]]7月9日には[[サン・ミゲル・デ・トゥクマン|トゥクマン]]の議会]][[ブエノスアイレス]]を首都とするに定めた[[アルゼンチン#国名|リオ・デ・ラ・プラタ]]連合州]]の独立が宣言された。独立後すぐに[[連邦同盟]]のアルティーガス派(ウルグアイ独立運動家ホセ・アルティーガス率いる派閥)との内戦が続いたが、各州の妥協により、ブエノスアイレス州連合政府の外交権を行使すること委譲さ認められた。1821年に[[1821年]]、ベルナルディーノ・リバダビア]]が州内務大臣として腕を発揮し振るいさらに[[ブエノスアイレス大学]]が設立された。
 
[[ファイル:Bernardino Rivadavia 2.jpg|thumb|200px|[[ベルナルディーノ・リバダビア]]]]
 
1825年の[[アルゼンチン・ブラジル戦争|ブラジル戦争]]の最中に連合州は[[アルゼンチン|アルゼンチン共和国]]へと改名されまた。ベルナルド・リバダビア大統領、中央政府の権限強化を目的とし、ブエノスアイレス市をブエノスアイレス州から切り離した連邦直轄区としたの首都に定める憲法を公布しました。しかし、この憲法はブエノスアイレス港の管理権を中央政府に移譲す奪われることなどめぐり、嫌って反対運動を起こした連邦派統一派双方激しい反発を受け利害よって流れ、結局頓挫しました。さらに、この憲法とブラジル戦争の指導失敗も重なり、が下でリバダビア大統領は失脚することとなりました。
 
リバダビア政権崩壊失脚後、連邦派の[[マヌエル・ドレーゴ]]が戦争の指導を継続したするが、イギリスの圧力により、1828年の[[モンテビデオ条約]][[ウルグアイ]]の独立を認めさせられると(事実上の引き分け)帰還兵たちは、戦争での犠牲に見合う報酬や社会復帰支援を受けられず、経済的困窮と政治的冷遇に苦しんでいた。この不満が高まる中は募り1828ドレーゴは統一派の[[フアン・ラバージェがドレーゴを]]によって暗殺されラバージェが自ら州知事なった。しかし、ラバージェもまた独裁的な統治を行い、このことがさらに連邦派と統一派の対立は戦いを激化した。させ、1829年、帰還兵たちの支持を背景とした連邦派勢力がラバージェを打倒した[[フアン・マヌエル・デ・ロサス]]が州知事に就任した。ロサスは独裁的権力を行使し、アルゼンチンにおける連邦主義と統一主義の対立をさらに深化させた。
 
'''1835年、ロサスが再び州知事に返り咲いた。ロサスは州内一の「馬上の人」''' (モントネ) '''として知られ)であり、自らも[[ガウチョ]]より巧み上手に馬を操ったと伝えらいわる。''' 、[[黒人]]や都市下層民、ガウチョ、友好的なインディオから圧倒的な支持を得ていたおり、ロサス時代にそのような人々からなる派閥街に「ロサシート」を率いてと呼ばれるロサス派が練り歩き、街はロサスの肖像画と、ロサスが好んだ連邦派の赤色で埋め尽くされた。また、秘密警察が市民を監視し、多くの自由主義者がチリのサンティアゴをはじめとする国外亡命することた。しかし、1852年、連邦派でロサスの腹心だった[[フスト・ホセ・デ・ウルキーサ]]が、ブラジル、ウルグアイと同盟を結んで[[エントレ・リオス州]]からロサスに対して反旗を翻すと、1852年2月3日ブエノスアイレス郊外のカセーロスの丘(現在は市街地になっている)でロサスはウルキーサを迎え撃つが、ウルキーサ軍に破れるとイギリスに亡命し、ロサスは失脚した。
 
'''ウルキーサは連邦主義を体制化することを望み、[[フアン・バウティスタ・アルベルディ]]が起草した1853年憲法を連邦憲法に制定し同年[[アルゼンチン連邦]]の成立を宣言した。''' しかしが、ブエノスアイレス州は連邦派の支配を嫌って離反し、連邦はエントレ・リオス州のパラナ首都としを置いた。その後、連邦とブエノスアイレスの間でが繰り返されたが、1862年11月州知事の[[バルトロメ・ミトレ]]がウルキーサを[[バポンの戦い]]で破ると、ここにブエノスアイレスが連邦を併合する形で国家統一が実現し、アルゼンチン共和国の成立が宣言された。
'''しかし1852年、連邦派でロサスの腹心だったフスト・ホセ・デ・ウルキーサは、ブラジル、ウルグアイと同盟を結んでエントレ・リオス州からロサスに対して反旗を翻す。''' 1852年2月3日、ブエノスアイレス郊外のカスエロスの丘(現在は市街地化されている)でロサスはウルキーサ軍と激突するが敗れ、イギリスへ亡命し、失脚することとなった。
 
ミトレは当時のアルゼンチンの自由主義者の御多分に漏れず、ヨーロッパを崇拝し、ガウチョ、インディオ、黒人を野蛮なものとして嫌っていたが、こうした自由主義者が政権を握ったことにより、以降ブエノスアイレスから黒人は消えていくことになる。1865年にアルゼンチン初の国政調査が行われた際、全人口の165万人の内およそ2万人が黒人だったが、1864年に[[パラグアイ]]の[[フランシスコ・ソラーノ・ロペス|ロペス]]元帥が起こした[[三国同盟戦争]]により、黒人は人口に対して不釣合いな規模が徴兵された。1871年に[[黄熱|黄熱病]]が流行したが、これが黒人のコミュニティに止めを刺し、僅かな黒人もウルグアイなどの周辺国に出国していった。
'''ウルキーサは連邦主義を体制化することを望み、フアン・バウティスタ・アルベルディが起草した1853年憲法を連邦憲法に制定し、同年アルゼンチン連邦の成立を宣言した。''' しかしブエノスアイレス州は連邦派の支配を嫌い離反し、連邦はエントレ・リオス州のパラナを首都とした。その後、連邦とブエノスアイレスの間で戦争が繰り返されたが、1862年11月、州知事のバルトロメ・ミトレがウルキーサをバポンの戦いで破ると、ブエノスアイレスが連邦を併合する形で国家統一が実現し、アルゼンチン共和国の成立が宣言された。
 
[[ファイル:Muelle de La Boca.jpg|thumb|210px|1880年のラ・ボカの港]]
ミトレは、当時のアルゼンチン自由主義者と同様に、ヨーロッパ文化を崇拝し、ガウチョ、インディオ、黒人を野蛮なものとして嫌悪していました。こうした自由主義者が政権を握ったことが、ブエノスアイレスから黒人が消えていく大きな要因の一つとなりました。
 
1880年にブエノスアイレス州の反対を押し切ってブエノスアイレス市が分離され、ブエノスアイレスは連邦直轄区となり、正式にアルゼンチンの首都になった。また、この頃に[[カサ・ロサダ]]が大統領府となった。自由主義者の政権はヨーロッパから多数の移民を導入し、アルゼンチンの発展を目指した。[[リアチュエロ川]]河口の港に面した[[ラ・ボカ]]地区ではイタリア系移民が多く集まり、彼等によって[[タンゴ]]が発達した。また、輸出経済の進展と共にアルゼンチンには広大な鉄道網が建設され、国内の全ての鉄道がブエノスアイレスのレティーロ駅に行き着いた。
1865年に行われたアルゼンチン初の国勢調査では、全人口165万人のうち、黒人は約2万人を占めていました。しかし、1864年にパラグアイのロペス元帥が起こした三国同盟戦争では、黒人が人口比に比べて不均衡な規模で徴兵されました。さらに、1871年には黄熱病が流行し、黒人コミュニティに大きな打撃を与えました。これらの出来事により、生き残った黒人はウルグアイなどの周辺国へ移住することを余儀なくされ、ブエノスアイレスから黒人の姿が消えていくことになったのです。[[ファイル:Muelle de La Boca.jpg|thumb|210px|1880年のラ・ボカの港]]
 
[[1911年]]にはスペイン語圏、及び[[南半球]]初の[[地下鉄]](A線)が五月広場から市内西部に向かって開通した。1920年代以降はアルゼンチンの富裕さを反映して南北アメリカ大陸最大規模の都市の一つとして成長すると同時に、内陸部諸州からの国内移民が増加し、市内に吸収しきれなかった人口が郊外に巨大な[[スラム]]街([[ビジャス・ミセリアス]])を築いた。
1880年、ブエノスアイレス市はブエノスアイレス州の強い抵抗を押し切って分離独立し、連邦直轄区となりました。これにより、ブエノスアイレスは正式にアルゼンチンの首都となり、政治・経済・文化の中心地としての役割を確立しました。
 
[[1976年]]に[[ホルヘ・ラファエル・ビデラ]]将軍が治安維持のために「[[汚い戦争]]」に従事し、多くの反体制、左翼、及び全く政治活動に無関係の市民を暗殺したが、しかし経済の回復は全く見込めず、日夜スト、デモ、暴動が起き、情勢はより悪化した。こうして殺害された市民の数はおよそ30,000人と見積もられている<ref name="Millions">''We are Millions: Neo-liberalism and new forms of political action in Argentina'', Marcela Lópéz Levy, Latin America Bureau, London, 2004. ISBN 189936563X.</ref>。[[1987年]]には[[急進市民同盟]]の[[ラウル・アルフォンシン]]政権の下で、ブエノスアイレスの一極集中を緩和するため首都を[[パタゴニア]]北端の[[リオネグロ州]]の州都[[ビエドマ]]に移転する法案が下院を通過したものの、上院で否決され遷都案は立ち消えとなった。
同時期、カサ・ロサダはアルゼンチン大統領府として使用されるようになりました。この建物は1819年に建てられ、当初は郵便局として利用されていました。その後、政府機関や議事堂として使用され、1886年に大統領府となりました。
 
1992年5月17日、[[イスラエル]]大使館が[[イスラーム|イスラム]]系のテロ組織に爆破され、多くの死傷者を出した。[[カルロス・メネム|メネム]]大統領(たまたま[[アラブ人|アラブ]]系である)はこの事件を非難した。
自由主義政権を担ったロカ大統領は、積極的な移民政策を推進しました。欧州各国から多くの移民がブエノスアイレスに流入し、都市の発展に大きく貢献しました。特にラ・プラタ川河口に位置するラ・ボカ地区には、イタリア系移民が多く集住しました。彼らによって、タンゴは活気あふれるダンスへと進化を遂げ、アルゼンチンを代表する文化となりました。
 
近年は政情の安定を反映して暴動などはあまり起きていないが、それでもサッカーの試合の際にサポーターが暴動を起こしたり([[ボカ・ジュニアーズ|ボカ]]が負けると危険である)、[[フォークランド紛争|マルビナス戦争]]帰還兵がデモを行うことが多い。
輸出経済の進展に伴い、アルゼンチンには広大な鉄道網が整備されました。主要な鉄道は全てブエノスアイレスのレティーロ駅に接続され、国内各地との物流網が確立されました。この鉄道網は、アルゼンチンの経済発展を支える重要なインフラとなり、都市化や人々の生活にも大きな影響を与えました。
{{-}}
 
1911年、ブエノスアイレス地下鉄A線が五月広場から市内西部へ開通。これは、スペイン語圏及び南半球初の地下鉄として歴史的な出来事だった。1920年代以降、アルゼンチンは第一次世界大戦後の好景気により繁栄を極めました。その結果、ブエノスアイレスは南北アメリカ大陸最大規模の都市の一つへと成長し、国内各地から多くの人々が仕事を求めて移住してきました。しかし、都市への人口流入が急増した一方で、十分な住宅やインフラ整備が追い付かず、郊外には多くの貧困層が居住する巨大なスラム街(ビジャス・ミセリアス)が形成されました。
 
'''1976年、ホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍率いる軍部は、国家再組織過程と称し「汚い戦争」と呼ばれる弾圧を展開しました。''' この弾圧は、反体制派や左翼活動家だけでなく、政治活動に関与していない一般市民も巻き込み、多くの人命が失われました。'''犠牲者数は3万人とも言われています。'''
 
しかし、経済の回復どころか、日々のストライキ、デモ、暴動が頻発し、社会情勢は悪化の一途を辿りました。
 
1987年、急進市民同盟のラウル・アルフォンシン政権下では、ブエノスアイレスの一極集中を緩和するため、首都をパタゴニア北端のリオネグロ州ビエドマ市に移転する法案が下院を通過しました。
 
しかし、上院で否決され、遷都案は頓挫してしまいました。
 
1992年3月17日、ブエノスアイレスにあるイスラエル大使館がイラン政府と関連するイスラム過激派組織によるテロ攻撃を受け、22人が死亡、300人以上が負傷しました。当時、レバノン系アルゼンチン人であったカルロス・メネム大統領は、このテロ行為を強く非難しました。この事件はアルゼンチン史上最悪のテロ事件であり、その後の両国関係に大きな影響を与えました。
 
近年、ブエノスアイレスでは政情が安定し、大規模な暴動は減少傾向にあります。しかし、'''小規模な衝突やデモは依然として発生'''しており、特に注意が必要です。
 
'''サッカーの試合'''では、'''サポーター同士の衝突'''が稀に起こります。'''ボカジュニオルの試合'''では、'''特に負け試合'''の際に暴動が発生しやすいので、十分な注意が必要です。
 
'''マルビナス戦争帰還兵'''による抗議活動も時折行われます。デモの規模や内容は、'''政治情勢や経済状況'''によって変動します。
 
ブエノスアイレスを訪れる際には、最新の情報を確認し、'''人通りの多い場所や夜間の外出を避ける'''など、基本的な防犯対策をしっかりと行うことが重要です。{{-}}
 
== 景観 ==
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* {{Flagicon|ESP}} [[マドリード]]([[スペイン]], 1975年)<ref name="hermanadas">{{citeCite web |title=Mapa Mundi de las ciudades hermanadas |publisher=Ayuntamiento de Madrid |url=http://www.munimadrid.es/portal/site/munimadrid/menuitem.dbd5147a4ba1b0aa7d245f019fc08a0c/?vgnextoid=4e84399a03003110VgnVCM2000000c205a0aRCRD&vgnextchannel=4e98823d3a37a010VgnVCM100000d90ca8c0RCRD&vgnextfmt=especial1&idContenido=1da69a4192b5b010VgnVCM100000d90ca8c0RCRD |work=Madrid city council |accessdate=2009-07-22 |archiveurl=https://archive.is/20120526204453/http://www.munimadrid.es/portal/site/munimadrid/menuitem.dbd5147a4ba1b0aa7d245f019fc08a0c/?vgnextoid=4e84399a03003110VgnVCM2000000c205a0aRCRD&vgnextchannel=4e98823d3a37a010VgnVCM100000d90ca8c0RCRD&vgnextfmt=especial1&idContenido=1da69a4192b5b010VgnVCM100000d90ca8c0RCRD |archivedate=2012年5月-05-26 |deadlinkdateurl-status=dead|url-status-date=2017年9月-09 }}</ref>
* {{Flagicon|ESP}} [[カディス]]([[スペイン]], 1975年)<ref name="Listado de ciudades hermanas" />
* {{Flagicon|ESP}} [[セビリア|セビージャ]]([[スペイン]], 1976年)<ref>''[http://www.femp.es/index.php/femp/content/download/7117/65153/file/070202_con_latinoamérica.pdf Hermanamientos con Latinoamérica] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20160313081200/http://femp.es/index.php/femp/content/download/7117/65153/file/070202_con_latinoam%C3%A9rica.pdf |date=2016年3月13日 }}'' (102,91 kB). [29-9-2008]</ref>
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* {{Flagicon|NED}} [[ロッテルダム]]([[オランダ]], 1990年)
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[http://www.buenosaires.gov.ar/areas/internacionales/docs/berlin_buenos_aires_convenio_de_cooperacion_2.pdf Ley Nº 682]</ref><ref>{{citeCite web|url=http://www.berlin.de/rbmskzl/staedteverbindungen/index.en.html|title=Berlin's international city relations|publisher=Berlin Mayor's Office|accessdate=2009-07-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080822100321/http://www.berlin.de/rbmskzl/staedteverbindungen/index.en.html|archivedate=2008年8月-08-22|deadlinkdateurl-status=dead|url-status-date=2017年9月-09}}</ref>
* {{Flagicon|UK}} [[ロンドン]]([[イギリス]])
* {{flagicon|GRE}} [[アテネ]]([[ギリシャ]], 1992年)
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* {{flagicon|LIB}} [[ベイルート]]([[レバノン]])
* {{flagicon|SYR}} [[ダマスカス]]([[シリア]], 1989年)
* {{flagicon|EGY}} [[カイロ]]([[エジプト]], 1992年)<ref name="Listado de ciudades hermanas">{{citeCite web|url=http://estatico.buenosaires.gov.ar/areas/internacionales/hermanamientos.pdf|title=Listado de ciudades hermanas|accessdate=2010-10-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110716150342/http://estatico.buenosaires.gov.ar/areas/internacionales/hermanamientos.pdf|archivedate=2011年7月-07-16|deadlinkdateurl-status=dead|url-status-date=2017年9月-09}}</ref>
* {{flagicon|ARM}} [[エレバン]]([[アルメニア]])
* {{flagicon|TUR}} [[イスタンブール]]([[トルコ]])