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== 歴史 ==
=== 1789年-1850年 ===
タマニー・ホールの前身たるタマニー協会は、[[1772年]]に[[フィラデルフィア]]で結成された関連諸団体の一地方支部として、[[1789年]][[5月12日]]、[[マンハッタン]]で家具職を営んでいた[[ウィリアム・ムーニー]]<ref name="The History of New York State">[http://www.usgennet.org/usa/ny/state/his/bk12/ch5/pt1.html The History of New York State<!-- Bot generated title -->]</ref> を初代[[会長]]に据えニューヨークにて設立<ref>[httphttps://books.google.comco.jp/books?id=zEcSAAAAYAAJ&redir_esc=y&hl=ja Frederick Webb Hodge, editor, ''Handbook of Indians North of Mexico''] (Washington: Smithsonian Institution, Bureau of American Ethnology Bulletin 30. GPO 1911), 2:683-684</ref>。タマニーの語源は[[植民地]]時代の[[デラウェア州|デラウェア]]に居住していた[[アメリカ先住民]][[レナペ|レナペ族]]の首領[[タマネンド]](セント・タマニー)に由来するものであるが、[[アメリカ独立戦争|独立戦争]]時には独立を志向する愛国派グループの名に用いられて以来一般にも広まった<ref>[[斎藤眞]]他監修『新訂増補 アメリカを知る事典』[[平凡社]]、[[2000年]]1月、p.286</ref>。こうした事情から協会は先住民族の語や習慣までをも取り入れており、とりわけ本部のあるホールは「[[ウィグワム]]」(樹皮・獣皮などを張った先住民族の小屋の意)と呼ばれたほか、代表者は「サチェム」(アメリカ先住民族の首領の意)と称した。
 
[[ファイル:Aaron Burr.jpg|250px|thumb|2代会長を務めたアーロン・バー]]慈善団体として出発した協会も[[1798年]]までには政治色を帯び、非協会員の[[アーロン・バー]]<ref name="The History of New York State"/> が会長に就任したのを切っ掛けとして政治的マシーンに変貌し、市政では民主共和党の中心にまで登り詰める。バーは自身が[[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]]に当選した[[1800年アメリカ合衆国大統領選挙|1800年の大統領選]]で協会をフル活用したこともあり、協会が無ければ現職の[[ジョン・アダムズ]]が再選されていたであろうと言われている<ref>Parmet and Hecht 149–150</ref>。民主共和党が解散した[[1829年]]以後は民主党に合流し市議会を牛耳るようになるが、この間協会の新たな本部が「'''タマニー・ホール'''」として東[[14丁目 (マンハッタン)|14丁目]]に完成。ホールの名が団体名として広く知られ始めたのはこの頃のことである。
 
[[1830年代]]には民主党内に反独占を標榜する分派[[ロコフォコス]]が誕生、労働者階級へのアピールを通じて協会への一大抵抗勢力となった。しかしその中にあっても、[[1830年代]]から[[1840年代]]を通じて、増え続ける移民の支持を以って政治的支配を一層強め、票田を確固たるものとしてゆく。なお、ニューヨークは[[1686年]]から[[1938年]]まで最小の行政区画として[[区 (行政区画)|区]](ward、[[行政区 (ニューヨーク)|現在のもの]]とは異なることに注意)制を敷いていたが、これに合わせ区毎に移民の世話と集票と請け負うボスが叢生した。
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=== トウィード・マシーン ===
[[File:Tweed-Boss-LOC.jpg|thumb|right|250px|マシーン政治を展開した「ボス・トウィード」こと[[ウィリアム・M・トウィード]]]]
[[Image:Nast-Tammany.jpg|thumb|250px|[[ハーパーズ・ウィークリー]]の風刺画([[トマス・スト]]作)<BR /><SUB>タマニー・ホールが民主主義を食い殺す虎として、またそれを皇帝(トウィード)が見守る様が描かれている</SUB>]]
[[19世紀]]後半までには、移民からの支持がニューヨーク市政において強大な力を発揮したのみならず、実業界や法の執行にも影響を及ぼすに至った。経営者が従業員に供応を行い、これと引き換えに支援(大概は民主党所属)候補への投票を呼び掛けるなど、いわゆる「企業ぐるみ選挙」が大々的に展開されたのはこの時代である。1854年には擁立候補が市長に初当選したが、これとて「ボス」およびその支持者による違法行為の賜物であった。中でもニューヨーク州上院議員となった「ボス・トウィード」ことウィリアム・M・トウィードが最も悪名高きボスとして知られる。なお、彼は[[1872年]]、同じく民主党知事の[[サミュエル・ティルデン|サミュエル・J・ティルデン]]による改革運動の一環として除名処分が下ると、配偶者であるフランシス・I・A・ブールとともに収監され政治生命に終止符が打たれた。また、[[1892年]]には牧師[[チャールズ・ヘンリー・パークハースト]]がホールを告発したのを機に、[[大陪審]]による追及などが行われ、ために[[1894年]]の市長選では改革派の候補が当選した。
<gallery>
File:Tammany Ring, Nast.jpg|[[トマス・スト]]の風刺画「タマニーの輪」
ファイル:Smell of Tammany.png|トマス・ストの風刺画「腐臭を放つタマニー」
File:Tammany Tiger Hunted 1893.jpg|『パック』誌に掲載された風刺画。虎(タマニー)が多くの政敵に追い込まれているところを描いたもの([[1893年]]、F・オッパー作)
File:New York's New Solar System2.jpg|タマニー・ホール会長[[リチャード・クロッカー]]の周囲を配下の政治家が回遊している様子を描いた『パック』誌の風刺画([[1899年]])
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タマニー・ホールは市はおろか州政にまで影響力を保っていたため、幾度かの逆風にもかかわらず生き延び、繁栄の限りを尽くした。[[1896年]]の市長選で[[ウィリアム・ジェニングス・ブライアン]]が勝利し野党に回ったのを除けば、ジョン・ケリーや[[リチャード・クロッカー]]、[[チャールズ・フランシス・マーフィー]]および[[ティモシー・サリヴァン]]らの下で民主党市政は安定期を迎える。
 
しかし[[1901年]]、反タマニー陣営が改革派の共和党候補[[セス・ロウ]]を擁立し当選、一方ホールでは翌[[1902年]]から彼が[[1924年]]に死ぬまでマーフィーがボスを務めた。これに追い討ちをかけるかの如く、[[1932年]]にはマシーン政治に衝撃を与える2つの出来事が発生した。現職の[[ジミー・ウォーカー]]市長が解任され、同じく民主党でも改革派寄りの[[フランクリン・ルーズベルト|フランクリン・デラノ・ルーズベルト]]が合衆国大統領に初当選を果たしたのである。ルーズベルトは当選早々、ホールに対する政府の支援を打ち切り(その分ニューディール政策関連の政府支出が増大したが)、翌[[1933年]]の市長選挙では共和党の[[フィオレロ・ラ・ガーディア]]候補を支持し、勝利に導く。ラ・ガーディアは従前の「改革派」市長ですら成し得なかった手口でタマニー派を少数派に追い込んだのが奏功し、[[1937年]]、[[1941年]]の各市長選で当選を重ね、初めて反タマニー派が再選されることとなった。
 
それまで政府への口利きや雇用利権などで政治への影響力を行使してきたタマニー・ホールは、この間衰微の一途を辿った。[[公共事業促進局]](WPA)や[[市民保全部隊]](CCC)などのニューディール政策に伴う救済プログラムにより、連邦政府は雇用や公共事業の利権を各地のマシーンから取り上げたが、タマニー・ホールはかろうじてこれらを支持者の獲得やつなぎ止めに利用してきた。しかし[[1940年]]以降はこれらのプログラムも先細りとなり、存立基盤すら危ういものとなった。[[クリストファー・D・サリヴァン]]下院議員は崩壊に瀕したタマニー・ホールにおける最後の「ボス」の一人であった。その後も往時の勢いを取り戻すことが出来なかったものの、1950年代初頭に入ると、カルミネ・デサピオ会長の下で一定程度ではあるが勢力の回復がなされた。デサピオは[[1953年]]の市長選で[[ロバート・ワグナー・ジュニア]]を、翌[[1954年]]の州知事選では[[W・アヴェレル・ハリマン]]をそれぞれ当選させた。なお、[[1954年]]には州政府の[[司法長官]]のポストを巡って、特に[[フランクリン・デラノ・ルーズベルト・ジュニア]]ほか対立陣営から組織的な妨害を受けている。
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協会の設立当初は[[チャタムストリート]](現[[パークストリート]])にある宿屋の一室を非公式の選対本部として用いており、これを'''タマニアル・ホール'''と称した<ref>Burrows & Wallace p.322</ref>。[[1791年]]には協会及び合衆国の歴史に関する文物を一堂に集めた博物館を市庁舎の上階に開館したが、手狭になったため商業取引所へ移転した。しかし博物館は不成功に終わり、[[1795年]]協会は博物館との関係を絶った<ref>Burrows & Wallace p.316</ref>。
 
なお、協会の本部機能を担うタマニー・ホールは1830年、マンハッタンの[[3番街]]及び[[5番街 (マンハッタン) |5番街]]に挟まれた[[14丁目 (マンハッタン)|14丁目]]に初めて建てられたが、元から政治家の[[クラブハウス]]として用いられたわけではなかった。
<blockquote>タマニー・ホールは政治と娯楽が一体化した施設である。なぜなら協会が一室のみを確保し、残りはドイツの興行主であるドン・ブライアント一座に貸していたからだ。地階にはパントマイムや軽演劇が楽しめるフランス風のカフェがあったし、市場やバーも営業していた。こうした店はドン・ブライアント一座を除き午前7時から深夜まで開いていて、50セントという手頃な値段だったのも人気の秘訣だった<ref>Burrows & Wallace p.995</ref></blockquote>
 
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*[http://www.u-s-history.com/pages/h705.html タマニー・ホール]
*[http://www.preserve2.org/gramercy/proposes/new/district/100_102e17.htm 第二タマニー・ホールビル]
*[http://greatcaricatures.com/articles_galleries/nast/html/02_nast.html トマス・ストが描いたボス・トゥイードとタマニー・ホールの風刺画]
*[httphttps://books.google.comco.jp/books?id=ym0AAAAAYAAJ&printsec=titlepage&redir_esc=y&hl=ja#PPA378,M2 1903年に書かれたタマニー・ホール関連の記事]
 
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[[Category:ニューヨーク市の歴史]]
[[Category:アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918)]]
[[Category:アメリカ合衆国の政治団体]]
[[Category:民主党 (アメリカ合衆国)]]