削除された内容 追加された内容
m 曖昧さ回避ページ甲子園へのリンクを解消、要曖昧さ回避を追加(DisamAssist使用)
 
(9人の利用者による、間の14版が非表示)
1行目:
{{Infobox 人物
{{柔道家
| = 松本 安市
|ふりがな = まつもと やすいち
| ラテン文字 = Yasuichi Matsumoto
|画像 = Yasuichi Matsumoto 2.jpg
| 原語表記 =
| 画像サイズ = Yasuichi Matsumoto.jpg200px
| 画像サイズ説明=
|出生名=
| キャプション =
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1918|05|25|died}}
| 代表国 = {{JPN}}
|地 = [[福岡県]][[久留米市]]通町
|失踪年月日=
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1918|5|15|no}}
|失踪地=
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1918|5|15|1996||}}
|現況=
| 愛称 =
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1918|05|25|1996|03|06}}
| 身長 = 184~185cm
|死没地=
| 体重 = 97~100kg強
|死因 = [[肺炎]]
| 性別 = 男
|遺体発見=
| 階級 =
|墓地=
| 所属 =[[天理大学]]
|記念碑=
| 段位 = 八段
|住居=
| 世界ランキング=
|国籍 = {{JPN}}
| コーチ=
|別名=
| 引退 =1956年
|民族=
| JudoInside =
|市民権=
| medaltemplates =
|教育=
|更新日時=2013年12月18日
|出身校 = [[大日本武徳会武道専門学校 (旧制)|武徳会武道専門学校]]
|職業 = [[柔道家]]、[[警察官]]
|活動期間=
|雇用者=
|団体=
|代理人=
|著名な実績 = [[昭和天覧試合]]準優勝<br/>[[日本柔道選士権大会]]優勝<br/>[[全日本柔道選手権大会]]優勝
|業績=
|流派 = [[講道館]]([[柔道#段級位制|8段]])
|師 = [[磯貝一]]、大黒浅太郎
|弟子=
|影響を受けたもの=
|影響を与えたもの=
|活動拠点=
|給料=
|純資産=
|身長 = 184cm
|体重 = 97kg
|テレビ番組=
|肩書き = [[天理大学]]柔道師範<br/>[[福岡工業大学]]柔道師範 ほか
|任期=
|前任者=
|後任者=
|政党=
|政治運動=
|敵対者=
|取締役会=
|宗教=
|宗派=
|罪名=
|刑罰=
|犯罪者現況=
|配偶者=
|非婚配偶者=
|子供=
|親=
|親戚=
|コールサイン=
|受賞=
|署名=
|署名サイズ=
|公式サイト=
|補足=
}}
'''松本 安市'''(まつもと やすいち、[[1918年]]([[大正]]7年)[[5月25日]] - [[1996年]]([[平成]]8年)[[3月6日]])は、[[日本]]の[[柔道家]]。[[段級位制|段位]]は[[講道館]]8段<ref name="近代柔道198104">{{Cite news|author = 松本安市|authorlink=|url=|title = わたしの得意技 –松本安市8段 私の上達法-|newspaper = [[近代柔道]](1981年4月号)、54頁|publisher = [[ベースボール・マガジン社]]|date = 1981-04-20|accessdate=}}</ref>。
 
[[昭和天覧試合]]([[1940年]])準優勝者、第1回[[全日本柔道選手権大会|全日本選手権大会]]([[1948年]])優勝者であり、後に[[天理大学]]等で柔道師範や[[1964年東京オリンピック]]日本代表の監督を務めた。
'''松本 安市'''(まつもと やすいち、[[1918年]]([[大正]]7年)[[5月15日]] - [[1996年]]([[平成]]8年))は、[[日本]]の[[柔道家]]。[[段級位制|段位]]は8段<ref name="近代柔道198104">{{Cite news|author = 松本安市|authorlink=|url=|title = わたしの得意技 –松本安市8段 私の上達法-|newspaper = [[近代柔道]](1981年4月号)|publisher = [[ベースボール・マガジン社]]|date = 1981-04-20|accessdate=}}</ref>。
 
== 経歴 ==
[[昭和天覧試合]]([[1940年]])準優勝者、第1回[[全日本柔道選手権大会]]([[1948年]])優勝者であり、後に[[天理大学]]や1964年[[前東京オリンピック|東京オリンピック]]柔道日本代表の監督を務めた。
=== 学生時代 ===
[[福岡県]][[久留米市]]で洋品雑貨の[[卸売|卸売業]]を営む家の[[長男]]として生まれる。[[福岡県立明善高等学校|福岡県中学明善校]]入学後は授業で柔道を経験したが、クラブ活動では[[バレーボール]]部に所属<ref name="近代柔道198104"/>。中学3年の始めに上級生の強引な勧誘を受け、嫌々ながら柔道を始めたというのが柔道人生への第一歩となった<ref name="近代柔道198104"/>。
 
[[1937年]][[4月]]に[[大日本武徳会武道専門学校 (旧制)|武道専門学校]]に入学するも、親元を離れた解放感から酒色に溺れ、不摂生が祟って2年生の9月には体調を崩して[[結核]]を患い、故郷・福岡での安静生活を余儀なくされる{{Refnest|group="注釈"|松本曰く「故里では[[枕]]を濡らす日々が続いたが、一方で柔道人生の開眼ともなった」との事。}}。10カ月後に再2年生として復帰すると、一心不乱に柔道に打ち込んで先輩の[[阿部謙四郎]]らに鍛えられたほか<ref name="当世畸人伝">{{Cite news|author = [[白崎秀雄]]|authorlink=|url=|title=|newspaper = 当世畸人伝|publisher = [[新潮社]]|date = 1987-01|accessdate=}}</ref>、[[大外刈]]の打ち込みで[[松]]の木を枯らすほどの鍛錬を重ねた{{Refnest|group="注釈"|後のライバルとなる[[木村政彦]]も、得意技の[[一本背負投]]の打ち込みで木を枯らしている。}}。
==経歴==
猛稽古の甲斐もあり、[[1940年]]2月には[[全日本東西対抗柔道大会|皇紀二千六百年奉祝第2回全日本東西対抗大会]]へ西軍選手として選抜されて東軍の猿丸貞満4段を得意の[[大外刈]]に降し、2人目の宮内英二4段とは引き分けた。6月には[[昭和天覧試合#紀元二千六百年奉祝天覧武道大会|紀元二千六百年奉祝天覧武道大会]]の府県選士の部に出場、全国から52名の猛者が集って争われた同部では天覧の光栄に浴して[[藤原勇]]5段に次ぐ準優勝という成績を残した。11月に[[甲子園]]{{要曖昧さ回避|date=2024年7月}}で開催の第1回全国学生柔道大会([[全日本学生柔道選手権大会|全日本学生選手権大会]]の前身)では栄えある初代チャンピオンに輝いた。
===現役時代===
[[福岡県]][[久留米市]]に生まれる。[[福岡県立明善高等学校|福岡県中学明善校]]入学後は授業で柔道を経験したが、クラブ活動では[[バレーボール]]部に所属<ref name="近代柔道198104"/>。中学3年の始めに上級生の強引な勧誘を受け、嫌々ながら柔道を始めたというのが柔道人生への第一歩となった<ref name="近代柔道198104"/>。
 
[[1941年]]になっても勢いは衰えず、4月の第10回[[日本柔道選士権大会|日本選士権大会]]で一般の部に出場し決勝戦で角田良平5段を[[大外刈]]で破るなどして優勝を果たすと、5月には[[済寧館]]で開催の全国選抜選手権大会も制し、当時の柔道界においてその地位を不動のものとした。
[[1937年]][[4月]]に[[大日本武徳会武道専門学校 (旧制)|武道専門学校]]に入学するも、親元を離れた解放感から酒色に溺れ、不摂生が祟って2年生の9月には体調を崩して[[結核]]を患い、故郷・福岡での安静生活を余儀なくされる{{Refnest|group="注釈"|松本曰く「故里では枕を濡らす日々が続いたが、一方で柔道人生の開眼ともなった」との事。}}。10カ月後に再2年生として復帰すると、一心不乱に柔道に打ち込んで[[阿部謙四郎]]らに鍛えられたほか<ref name="当世畸人伝">{{Cite news|author = [[白崎秀雄]]|authorlink=|url=|title=|newspaper = 当世畸人伝|publisher = 新潮社|date = 1987-01|accessdate=}}</ref>、[[大外刈]]の打ち込みで[[松]]の木を枯らすほどの鍛錬を重ねた{{Refnest|group="注釈"|後のライバルとなる[[木村政彦]]も、得意技の[[一本背負投]]の打ち込みで木を枯らしている。}}。その甲斐もあり、復帰後の[[1940年]]には[[昭和天覧試合]](府県選士の部)に出場して準優勝という成績を残し、同年の第1回[[全日本学生柔道選手権大会|全日本学生柔道選手権]]では栄えある初代チャンピオンに輝いた。
同年に武道専門学校を卒業し[[拓殖大学]]へ就職するが、[[1942年|翌42年]]2月に入隊のため同大を退職。この年、[[皇宮警察 (宮内省)|皇宮警察]]主催で実施された済寧館武道大会の5段の部で優勝している。
 
=== 戦後の柔道界を牽引 ===
[[File:Matsumoto vs. Itō in 1948.jpg|250px|right|thumb|1948年全日本選手権を制した松本(上)]]
[[日本の降伏|終戦]]後の[[1946年]]7月に6段位を允許。福岡県柔道協会の結成を記念して[[1947年]][[7月1日]]に開催された西日本選手権大会では個人戦・団体戦に出場。個人戦の決勝リーグでは[[木村政彦]]6段(熊本)と[[吉松義彦]]6段(鹿児島)との三つ巴戦になり、木村には延長2回の末に判定で敗れ、吉松には延長戦で[[縦四方固]]に抑え込まれ一本負けを喫して優勝を逃すも(優勝は[[一本背負投]]で吉松を宙に舞わせた木村)<ref name="近代柔道197911">{{Cite news|author = 福山大樹|authorlink=|url=|title = 名選手ものがたり -8段 松本安市の巻-|newspaper = [[近代柔道]](1979年11月号)、61頁|publisher = [[ベースボール・マガジン社]]|date = 1979-11-20|accessdate=}}</ref>、団体戦では福岡県の優勝に貢献した<ref name="近代柔道197911"/>。
[[1941年]]になっても勢いは衰えず、4月に現在の[[全日本柔道選手権大会|全日本選手権]]の前身となる[[日本柔道選士権大会|日本選士権]](一般の部)、6月に全国選抜選手権と立て続けに制し、柔道界においてその地位を不動のものとした。その後[[1944年]]にも全日本選士権で優勝<ref name="近代柔道198104"/>。
 
[[File:Matsumoto vs. Itō in 1948.jpg|250px|left|thumb|1948年全日本選手権を制した松本(上)]]
[[日本の降伏|終戦]]後は[[福岡県警察]]に属し、福岡県柔道協会の結成を記念して[[1947年]][[7月1日]]に開催された西日本柔道選手権大会では個人戦・団体戦に出場。個人戦の決勝リーグでは[[木村政彦]]5段(熊本)と[[吉松義彦]]5段(鹿児島)との三つ巴戦になり、木村には延長2回の末に判定で敗れ、吉松には延長戦で[[縦四方固]]に抑え込まれ一本負けを喫して優勝を逃すも(優勝は[[一本背負投]]で吉松を宙に舞わせた木村)<ref name="近代柔道197911">{{Cite news|author = 福山大樹|authorlink=|url=|title = 名選手ものがたり -8段 松本安市の巻-|newspaper = 近代柔道(1979年11月号)、61頁|publisher = [[ベースボール・マガジン社]]|date = 1979-11-20|accessdate=}}</ref>、団体戦では福岡県の優勝に貢献した<ref name="近代柔道197911"/>。
[[1948年]][[3月15日]]に全関西・全九州対抗戦形式で行われた第2回新生大会では団体戦で強豪・[[広瀬巌 (柔道)|広瀬巌]]7段と引き分け、個人戦では決勝戦にて木村政彦7段と激突。後述の通り両者激しい熱戦を展開したが引き分けに終わり、前年の雪辱はならなかった。
[[1948年]]5月に開催された第1回[[全日本柔道選手権大会|全日本選手権大会]]では準決勝戦で吉松義彦6段を破り、決勝戦では武専の先輩にあたる[[伊藤徳治]]6段を延長3回の末に判定で破り優勝を飾って念願の“柔道日本一”に。
大会直後の6月には[[国家地方警察福岡県本部]]へ奉職し、10月に平和台特設道場で行われた県下警察柔道大会では5人掛を実演、代わる代わる[[警察官]]の猛者5人を立て続けに豪快な[[大外刈]]で[[畳]]に叩き付けて観衆を驚嘆せしめた。[[11月13日]]に[[国家地方警察|国家地方警察本部]]が主催した第1回[[全国警察柔道大会|全国警察大会]]では管区対抗戦で福岡管区の一員として出場し東京管区を相手に7対0の大勝を飾り、個人戦は決勝戦で[[国家地方警察鹿児島県本部]]の吉松義彦に敗れるも、九州勢の強さを見せ付けた。
 
[[19481949年|翌49年]]3月に[[5月2日宮崎市]]に開催された[[警察官]]の13九州各県対抗戦でも優勝。8月には第3回西日本選手権各県対抗戦の6段の部は、準決勝で[[吉松義彦]]6段と引き分けた。福岡県は鹿児島県と決勝戦を争い3対0でこれを破り、決では武専の先輩にあを果し、嘗て[[西文雄]]や島井安之助、[[陸奥錦建市|須徳治金作]]6段を延長3回らが築き上げた柔道王国・福岡末に判定で破り優勝復活飾っ印象付けた。翌49また同には11月の第2回[[全国警察柔道選手権大会|全国警察選手権大会]]でも松本は個人優勝を果たしている
 
檜舞台である全日本選手権大会にはその後[[1953年]]の第6回大会まで続けて出場するも、[[1949年]]は初戦で伊藤徳治7段に、[[1950年]]は3回戦で[[石川隆彦]]7段に、[[1951年]]は3回戦で[[醍醐敏郎]]7段に、[[1952年]]は3回戦で[[山本博 (柔道)|山本博]]6段に、[[1953年]]は4回戦で[[吉松義彦]]7段にそれぞれ敗れ、2度目の優勝栄冠はならなかった段位はいずれも当時、またこのうち1952年は棄権負)。
それでも[[1950年]]4月に[[鹿児島市]]で開催の全九州対県試合で福岡県を率いて優勝へ導き、11月の第3回全国警察大会では府県対抗戦で[[国家地方警察宮城県本部]]を6対1、[[国家地方警察大阪府本部]]を5対1で圧倒し、決勝戦でも[[警視庁]]を降して優勝。同大会の管区対抗戦でも優勝を成し遂げた。管区対抗は[[1951年]]11月の第3回大会も制し、国家地方警察福岡県本部の勇名をいよいよ全国に轟かせている。
 
その後、[[1956年]][[4月29日]]の[[1956年世界柔道選手権大会|第1回世界選手権大会]]の代表決定戦に38歳で出場し、決勝戦で[[夏井昇松義彦]]と時間一杯20分を戦った末判定で敗れて代表の座はならず。この試合を以って松本は選手を引退した。永い現役生活を送ったが、選手として最も脂ののる20歳代半ばの時代を[[戦争]][[徴兵制度|兵役]]で迎えた事は、松本にとって不運であったと言える。
 
=== 指導者として ===
[[File:Tenri University1.jpg|250px|right|thumb|天理大学では初代師範として、<br/>今日に至る強豪柔道部としての礎を築いた]]
[[1953年]]、[[天理大学]]柔道部設立と共に初代師範に就任。3年目には同大学を[[全日本学生柔道優勝大会|全日本学生優勝大会]]で優勝に導いたほか、[[アントン・ヘーシンク]]や出稽古に来ていた[[ウィレム・ルスカ]]らを、体で覚えさせる、いわゆる[[スパルタ教育]]で指導して後の世界チャンピオンにまで育て上げた。しかし[[1958年]][[7月6日]]の第7回[[全日本学生柔道優勝大会|全日本学生優勝大会]]では天理大学と[[明治大学]]との決勝戦にて、監督の松本は判定を不服として副審の1人に暴行を加えてしまい{{Refnest|group="注釈"|事の発端は天理・田村4段と明治・小林4段との三将戦で、この試合は時間一杯を戦って決着が着かず判定となり、副審の1人である[[川村禎三]]は田村に旗を上げたが主審の清水正一と副審の[[山本博 (柔道家)|山本博]]は引き分けとし、結果この試合は引き分けとなった。最終的にこの決勝戦は7人を戦って雌雄決せず、代表戦にて明治の[[神永昭夫]]が勝利を収めて明治が薄氷の優勝を手に。三将戦での田村の勝利を確信していた松本はこれに激高し(仮に三将戦で天理が勝利となっていれば代表戦にまで至らず、天理が3年振りの優勝を飾っていた)、武専の先輩でもある副審の山本が試合場を降りたのを掴まえて何か一言・二言抗議をしたかと思うと、観衆の前で突如山本に殴り掛かって更に蹴り上げるという前代未聞の珍事に<ref name="秘録日本柔道">{{Cite news|author = 工藤雷介|authorlink=|url=|title = 戦後の学生柔道界|newspaper = 秘録日本柔道、341-343頁|publisher = 東京スポーツ新聞社|date = 1973-05-25|accessdate=}}</ref>。しかし松本自身も前大会にて主審として[[反則]]を巡る誤審論争を巻き起こしていた(この時は松本主審の裁定を不服として審判長[[工藤一三]]が[[日本大学|日大]]側から3時間半吊し上げられる事態となっている)事から同情の声は無く、大会関係者も「今年ほど見応えのある大会は無かったが、怒りに任せた松本の暴力で“有終の美”ならぬ“有終の醜”となった」と嘆いていたという<ref name="秘録日本柔道"/>。}}、この結果、松本は全日本学生柔道連盟役員の座から追放されるとともに、1年後に“改悛の情、顕著なり”として解除されるまで活動を禁じられている<ref name="秘録日本柔道"/><ref name="毎日新聞19580715">{{Cite news|athor=|authorlink=|url=|title = 天理大柔道チームの松本監督に処分|newspaper = 毎日新聞、7面|publisher = [[毎日新聞社]]|date = 1958-07-15|accessdate=}}</ref>。
[[1953年]]、3月に国家地方警察を退職して4月より[[天理大学]]柔道部の初代師範に就任、[[1955年]]4月に同大に[[体育学部]]が創設されて[[助教授]]となった。[[吉松義彦]]や[[胡井剛一]]を講師に招いて学生達を鍛え上げ、就任4年目の[[1956年]]7月には[[全日本学生柔道優勝大会|全日本学生優勝大会]](団体戦)で天理を優勝に導き、同年11月の[[全日本学生柔道選手権大会|全日本学生選手権大会]](個人戦)でも天理副将の米田圭佑4段が選手権を獲得するなど一躍“天理”の名を世に知らしめた。
それでも[[1961年]]の[[世界柔道選手権大会|世界選手権]]の優勝者をヘーシンクと予測し当時の[[全日本柔道連盟]]の強化委員長を激怒させたほか<ref>世界柔道を100倍楽しむためのコラム -第16回 柔道界の内外から見たヘーシンクVSルスカ最強論争-(フジテレビ)</ref>、[[1972年]]の[[ミュンヘンオリンピック]]でも優勝者をルスカと予測しまたも的中させるなど、指導者としての目は確かだったようである。なお、[[1964年]]の[[前東京オリンピック|東京オリンピック]]では柔道日本代表の監督も務め、コーチの[[曽根康治]]と共に、日本選手団を4階級のうち無差別を除く3階級で[[金メダル]]に導いている{{Refnest|group="注釈"|なお、無差別を制したヘーシンクは、松本に育てられて獲得した金メダルという意味を込めて、この時のメダルを「日本の四つ目の金メダル」と語っている。}}。
その後、[[アントン・ヘーシンク]]や[[ヴォルフガング・ホフマン]]、[[金義泰]]といった柔道留学生や出稽古の[[ウィレム・ルスカ]]らを相次いで受け入れ、体で覚えさせる、いわゆる[[スパルタ教育]]で指導して後のオリンピックの[[メダリスト]]にまで育て上げた。
 
{|class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small; float:left; margin-right:1.5em"
天理大学では[[二宮和弘]]や[[野村豊和]]、[[藤猪省太]]ら後の世界チャンピオンを輩出し、その後[[国際武道大学]]や[[東海大学]]、[[福岡工業大学]]でも柔道部師範として後進の指導に当たった。
|+'''講道館での昇段歴'''
!style="width: 3em;" |段位
!style="width: 9em;" |年月日
!style="width: 3em;" |年齢
|-
!入門
|[[1935年]][[6月20日]]||17歳
|-
!初段
|[[1935年]][[7月10日]]||17歳
|-
!2段
|[[1936年]][[1月12日]]||17歳
|-
!3段
|colspan="2"|[[大日本武徳会]]にて取得
|-
!4段
|colspan="2"|〃
|-
!5段
|colspan="2"|〃
|-
!6段
|[[1947年]][[7月15日]]||29歳
|-
!7段
|[[1950年]][[5月10日]]||31歳
|-
!8段
|[[1961年]][[5月2日]]||42歳
|}
 
一方で、[[1958年]][[7月6日]]の第7回全日本学生優勝大会では天理大学と[[明治大学]]との決勝戦にて、天理監督の松本は判定を不服として副審の1人に暴行を加えてしまい{{Refnest|group="注釈"|事の発端は[[天理大学|天理]]・田村盛4段と[[明治大学|明治]]・小林健児4段との三将戦で、この試合は時間一杯を戦って決着が着かず判定となり、副審の1人である[[川村禎三]]は田村に旗を上げたが主審の[[清水正一]]と副審の[[山本博 (柔道)|山本博]]は引き分けとし、結果この試合は引き分けとなった。最終的にこの決勝戦は7人を戦って雌雄決せず、代表戦にて明治の[[神永昭夫]]が勝利を収めて明治が薄氷の優勝を手に。三将戦での田村の勝利を確信していた松本はこれに激高し(仮に三将戦で天理が勝利となっていれば代表戦にまで至らず、天理が3年振りの優勝を飾っていた)、武専の先輩でもある副審の山本が試合場を降りたのを掴まえて何か一言・二言抗議をしたかと思うと、観衆の前で突如山本に殴り掛かって更に蹴り上げるという前代未聞の珍事に<ref name="秘録日本柔道">{{Cite news|author = 工藤雷介|authorlink=|url=|title = 戦後の学生柔道界|newspaper = 秘録日本柔道、341-343頁|publisher = [[東京スポーツ|東京スポーツ新聞社]]|date = 1973-05-25|accessdate=}}</ref>。しかし松本自身も前大会にて主審として[[反則]]を巡る誤審論争を巻き起こしていた(この時は松本主審の裁定を不服として審判長[[工藤一三]]が[[日本大学|日大]]側から3時間半吊し上げられる事態となっている)事から同情の声は無く、大会関係者も「今年ほど見応えのある大会は無かったが、怒りに任せた松本の暴力で“有終の美”ならぬ“有終の醜”となった」と嘆いていたという<ref name="秘録日本柔道"/>。}}、この結果、松本は[[全日本学生柔道連盟]]役員の座から追放されるとともに、1年後に“改悛の情、顕著なり”として解除されるまで活動を禁じられている<ref name="秘録日本柔道"/><ref name="毎日新聞19580715">{{Cite news|author=|authorlink=|url=|title = 天理大柔道チームの松本監督に処分|newspaper = [[毎日新聞]]、7面|publisher = [[毎日新聞社]]|date = 1958-07-15|accessdate=}}</ref>。
現在、[[福岡県]][[宗像市]]の複合スポーツ施設[[グローバルアリーナ]]には、松本の功績を記念した[[道場|柔道場]]「松本安市記念道場」が設けられ、道場脇にある展示スペースでは松本の年譜や功績等を紹介している。
それでも[[1961年]]の[[世界柔道選手権大会|世界選手権大会]]の優勝者をヘーシンクと予測し当時の[[全日本柔道連盟]]強化委員長を激怒させたほか<ref>世界柔道を100倍楽しむためのコラム -第16回 柔道界の内外から見たヘーシンクVSルスカ最強論争-([[フジテレビ]])</ref>、[[1972年]]の[[1972年ミュンヘンオリンピック|ミュンヘン五輪]]でも優勝者をルスカと予測しまたも的中させるなど、指導者としての目は確かだったようである。なお、[[1964年]]の[[1964年東京オリンピック|東京五輪]]では柔道日本代表の監督を務め、コーチの[[曽根康治]]と共に、日本選手団を4階級のうち無差別を除く3階級で[[金メダル]]に導いている{{Refnest|group="注釈"|なお、無差別を制した[[アントン・ヘーシンク|ヘーシンク]]は、松本に育てられて獲得した[[金メダル]]という意味を込めて、この時のメダルを「日本の四つ目の金メダル」と語っている。}}。
 
[[1971年]]まで全日本チーム監督の重責を担う傍ら、天理大学では[[1966年]]に[[岡野功]]を講師に迎え、[[1967年|翌67年]]には全日本学生優勝大会で4度目の優勝を遂げた。[[1969年]]に天理大学を退職するまでの間に松本は[[二宮和弘]]や[[野村豊和]]、[[藤猪省太]]ら後の世界チャンピオンを指導している。
==人物==
その後、[[1969年]]7月から[[1975年|75年]]3月まで[[東海大学]]、[[1977年]]1月から[[1984年|84年]]3月まで[[福岡工業大学]]、[[1986年]]4月から[[1993年]]3月まで[[国際武道大学]]で柔道部で後進の指導に当たった{{Refnest|group="注釈"|[[国際武道大学]]では[[1993年]]3月に[[教授]]を辞すも、引き続き理事として在籍した。}}。
現役当時の身長184~185cm、体重97~100kg強{{Refnest|group="注釈"|ただし松本は専門誌『[[近代柔道]]』のインタビューで、自身の事を「全盛期は身長は187cm、体重81kgで、電信柱のごとき」と表現している。}}。
永らく最長の8段保持者であった松本だったが、柔道界に対する功績とは裏腹に終に9段に昇段する事は無く、[[1999年]]3月に[[肺炎]]のため死去。[[法名]]は「柔順院釈大安」。
 
現在、福岡県[[宗像市]]の複合スポーツ施設[[グローバルアリーナ]]には「松本安市記念道場」が設けられており、施設内の展示スペースでは松本の年譜や功績等を紹介してほか、[[日本柔道選士権大会|日本選士権大会]]優勝時の[[賞状]]や国際武道大師範時代に着用していた道衣を目にする事ができる。
得意技は大外刈で、相手の体重や状況等に使い分けられるよう、5種類の大外刈を持っていたという
<ref name="技の大百科">{{Cite news|author= [[佐藤宣践]]|authorlink=|url=|title=松本安市「打倒・木村に燃えた第1回全日本覇者」|newspaper = 体型別技の大百科 第2巻 大外刈・内股・払腰|publisher = ベースボールマガジン社|date = 1999|accessdate = }}</ref>。試合結果を見ても、勝利の90%が大外刈によるものである<ref name="近代柔道198104"/>。
 
== 人物 ==
試合となると常に激しい気迫を露(あらわ)にするスタイルで、特に1歳年長の[[木村政彦]]との試合は異常なまでに闘志を燃やした。当時の木村は、試合場に上がった途端に会場が静まり返る程の強さで、相手選手の間では「木村相手に何分もつか」が己の力量を測る1つの手段であった時代であり<ref>『[[大山倍達]]に帰れ!』(メディアエイト)</ref>、そのような中で臆する事なく木村に挑み続けた唯一の柔道家が松本であった。この事は木村自身も、木村の師である[[牛島辰熊]]も認めている<ref name="近代柔道200602">{{Cite news|author = 今村春夫|authorlink=|url=|title = 続・柔道一路 番外編|newspaper = [[近代柔道]](2006年2月号)|publisher = [[ベースボール・マガジン社]]|date = 2006-02-20|accessdate=}}</ref>。[[1948年]][[3月15日]]に行われた全関西と全九州との対抗戦(新生柔道大会)個人戦・決勝にて、50分以上の激闘の末に木村の飛び関節の[[腕挫]]で右腕を折られ、唇が避けて流血しながら、それでも木村に決戦を挑み終に審判により痛み分け(引き分け)を宣せられた試合が有名である{{Refnest|group="注釈"|ただし松本は後に、木村と同体で場外に落ちた際に落ちた机の足が折れ「ボキっ」と音がしただけで、自身の腕は折れていなかったと語っている。}}。
現役当時の[[身長]]184~185cm・[[体重]]97~100kg強{{Refnest|group="注釈"|[[1965年]]刊の『柔道名鑑』に拠れば[[身長]]184cm・[[体重]]97kgとの事<ref name="柔道名鑑">{{Cite news|author = 工藤雷介|authorlink=|url=|title = 八段 松本安市|newspaper = 柔道名鑑、56頁|publisher = 柔道名鑑刊行会|date = 1965-12-01|accessdate=}}</ref>。一方で松本は、専門雑誌『[[近代柔道]]』のインタビューで、自身の事を「全盛期は身長187cm・体重81kgで[[電柱|電信柱]]のごとき」とも表現している。}}。
 
得意技は[[大外刈]]で、相手の体重や状況等に使い分けられるよう、5種類の大外刈を持っていたという
===エピソード===
<ref name="技の大百科">{{Cite news|author= [[佐藤宣践]]|authorlink=|url=|title = 松本安市「打倒・木村に燃えた第1回全日本覇者」|newspaper = 体型別技の大百科 第2巻 大外刈・内股・払腰|publisher = [[ベースボール・マガジン社]]|date = 1999|accessdate=}}</ref>。試合結果を見ても、勝利の90%が大外刈によるものである<ref name="近代柔道198104"/>。
[[福岡市]]の[[警察署]]に勤務していた頃は、[[ヤクザ]]の取締担当だった。剽悍な連中が多い事で知られる福岡のヤクザも、松本の名が出ると羊のように大人しくなったそうである<ref name="近代柔道200602"/>。
 
試合となると常に激しい気迫を露(あらわ)にするスタイルで、特に1歳年長の[[木村政彦]]との試合は異常なまでに闘志を燃やした。当時の木村は、試合場に上がった途端に会場が静まり返る程の強さで、相手選手の間では「木村相手に何分もつか」が己の力量を測る1つの手段であった時代であり<ref>『[[大山倍達]]に帰れ!』(メディアエイト)</ref>、そのような中で臆する事なく木村に挑み続けた唯一の柔道家が松本であった。この事は木村自身も、木村の師である[[牛島辰熊]]も認めている<ref name="近代柔道200602">{{Cite news|author = 今村春夫|authorlink=|url=|title = 続・柔道一路 番外編|newspaper = [[近代柔道]](2006年2月号)|publisher = [[ベースボール・マガジン社]]|date = 2006-02-20|accessdate=}}</ref>。[[1948年]][[3月15日]]に行われた第2回新生柔道大会(個人戦)では決勝戦にて木村と激突し、松本得意の[[大外刈]]と木村得意の[[一本背負投]]との攻防となり、延長6回・試合時間49分の激闘の末に木村の飛び関節の腕挫で右腕を折られ、[[唇]]が避けて流血しながら、それでも木村に決戦を挑み終に審判により痛み分け(引き分け)を宣せられた試合が有名である{{Refnest|group="注釈"|ただし松本は後に、[[木村政彦|木村]]と同体で場外に落ちた際に落ちた[[机]]の足が折れ「ボキっ」と音がしただけで、自身の腕は折れていなかったと語っている。}}。
1969年の世界選手権の直前に渡米した日本代表選手が何も知らずに[[密輸]]の片棒を担がされている事を、選手団に同行していた松本の知る所となった。[[メキシコ]]の[[空港]]で密輸物([[腕時計]])を受け取りに来たヤクザ連中に対し松本は「貴様らはそれでも日本人か! 恥を知れ!」と[[閻魔]]の如き形相で説教し、ヤクザは這う這う(ほうほう)の体で逃げ去ったという逸話が残っている<ref name="近代柔道200602"/>。
 
=== エピソード ===
[[福岡市]]の[[警察署]]に勤務していた頃は[[ヤクザ]]の取締担当だった。剽悍な連中が多い事で知られる福岡のヤクザも、松本の名が出ると[[羊]]のように大人しくなったそうである<ref name="近代柔道200602"/>。
 
[[1969年世界柔道選手権大会|1969年の世界選手権]]の直前に渡米した日本代表選手が何も知らずに[[密輸]]の片棒を担がされている事を、選手団に同行していた松本の知る所となった。[[メキシコ]]の[[空港]]で密輸物([[腕時計]])を受け取りに来たヤクザ連中に対し松本は「貴様らはそれでも[[日本人]]か! 恥を知れ!」と[[閻魔]]の如き形相で説教し、ヤクザは這う這う(ほうほう)の体で逃げ去ったという逸話が残っている<ref name="近代柔道200602"/>。
 
== 脚注 ==
75 ⟶ 165行目:
=== 出典 ===
{{Reflist}}
 
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Yasuichi Matsumoto}}
* [[柔道家一覧]]
* [[福岡県出身の人物一覧]]
* [[拓殖大学の人物一覧]]
* [[天理大学の人物一覧]]
* [[東海大学の人物一覧]]
* [[福岡工業大学の人物一覧]]
* [[国際武道大学の人物一覧]]
 
 
{{柔道 全日本選手権優勝者 - 男子}}
{{Normdaten}}
 
{{DEFAULTSORT:まつもと やすいち}}
[[Category:日本の男子柔道家]]
[[Category:大日本武徳会武道専門学校出身の人物]]
[[Category:大日本武徳会の武道家]]
[[Category:昭和天覧試合出場者]]
[[Category:日本の警察官]]
[[Category:拓殖大学の教員]]
[[Category:天理大学の教員]]
[[Category:東海大学の教員]]
[[Category:福岡工業大学の教員]]
[[Category:国際武道大学の教員]]
[[Category:福岡県出身の人物]]
[[Category:福岡県立明善高等学校出身の人物]]
[[Category:大日本武徳会武道専門学校出身の人物]]
[[Category:1918年生]]
[[Category:1996年没]]