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[[1937年]][[4月]]に[[大日本武徳会武道専門学校 (旧制)|武道専門学校]]に入学するも、親元を離れた解放感から酒色に溺れ、不摂生が祟って2年生の9月には体調を崩して[[結核]]を患い、故郷・福岡での安静生活を余儀なくされる{{Refnest|group="注釈"|松本曰く「故里では[[枕]]を濡らす日々が続いたが、一方で柔道人生の開眼ともなった」との事。}}。10カ月後に再2年生として復帰すると、一心不乱に柔道に打ち込んで先輩の[[阿部謙四郎]]らに鍛えられたほか<ref name="当世畸人伝">{{Cite news|author = [[白崎秀雄]]|authorlink=|url=|title=|newspaper = 当世畸人伝|publisher = [[新潮社]]|date = 1987-01|accessdate=}}</ref>、[[大外刈]]の打ち込みで[[松]]の木を枯らすほどの鍛錬を重ねた{{Refnest|group="注釈"|後のライバルとなる[[木村政彦]]も、得意技の[[一本背負投]]の打ち込みで木を枯らしている。}}。
猛稽古の甲斐もあり、[[1940年]]2月には[[全日本東西対抗柔道大会|皇紀二千六百年奉祝第2回全日本東西対抗大会]]へ西軍選手として選抜されて東軍の猿丸貞満4段を得意の[[大外刈]]に降し、2人目の宮内英二4段とは引き分けた。6月には[[昭和天覧試合#紀元二千六百年奉祝天覧武道大会|紀元二千六百年奉祝天覧武道大会]]の府県選士の部に出場、全国から52名の猛者が集って争われた同部では天覧の光栄に浴して[[藤原勇]]5段に次ぐ準優勝という成績を残した。11月に[[甲子園]]{{要曖昧さ回避|date=2024年7月}}で開催の第1回全国学生柔道大会([[全日本学生柔道選手権大会|全日本学生選手権大会]]の前身)では栄えある初代チャンピオンに輝いた。
 
[[1941年]]になっても勢いは衰えず、4月の第10回[[日本柔道選士権大会|日本選士権大会]]で一般の部に出場し決勝戦で角田良平5段を[[大外刈]]で破るなどして優勝を果たすと、5月には[[済寧館]]で開催の全国選抜選手権大会も制し、当時の柔道界においてその地位を不動のものとした。
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[[1948年]][[3月15日]]に全関西・全九州対抗戦形式で行われた第2回新生大会では団体戦で強豪・[[広瀬巌 (柔道)|広瀬巌]]7段と引き分け、個人戦では決勝戦にて木村政彦7段と激突。後述の通り両者激しい熱戦を展開したが引き分けに終わり、前年の雪辱はならなかった。
[[1948年]]5月に開催された第1回[[全日本柔道選手権大会|全日本選手権大会]]では準決勝戦で吉松義彦6段を破り、決勝戦では武専の先輩にあたる[[伊藤徳治]]6段を延長3回の末に判定で破り優勝を飾って念願の“柔道日本一”に。
大会直後の6月には[[国家地方警察福岡県警察本部]]へ奉職し、10月に平和台特設道場で行われた県下警察柔道大会では5人掛を実演、代わる代わる[[警察官]]の猛者5人を立て続けに豪快な[[大外刈]]で[[畳]]に叩き付けて観衆を驚嘆せしめた。[[11月13日]]に[[国家地方警察|国家地方警察本部]]が主催した第1回[[全国警察柔道大会|全国警察大会]]では管区対抗戦で福岡管区の一員として出場し東京管区を相手に7対0の大勝を飾り、個人戦は決勝戦で[[国家地方警察鹿児島県警察本部]]の吉松義彦に敗れるも、九州勢の強さを見せ付けた。
 
[[1949年|翌49年]]3月に[[宮崎市]]で催された[[警察官]]の第3回九州各県対抗戦でも優勝。8月には第3回西日本各県対抗戦の6段の部で吉松義彦と引き分けた。福岡県は鹿児島県と決勝戦を争い3対0でこれを破り優勝を果たし、嘗て[[西文雄]]や島井安之助、[[陸奥錦建市|須藤金作]]らが築き上げた柔道王国・福岡の復活を印象付けた。また同年11月の第2回[[全国警察柔道選手権大会|全国警察選手権大会]]でも松本は個人優勝を果たしている。
 
檜舞台である全日本選手権大会には[[1953年]]の第6回大会まで続けて出場するも、[[1949年]]は初戦で伊藤徳治7段に、[[1950年]]は3回戦で[[石川隆彦]]7段に、[[1951年]]は3回戦で[[醍醐敏郎]]7段に、[[1952年]]は3回戦で[[山本博 (柔道)|山本博]]6段に、[[1953年]]は4回戦で[[吉松義彦]]7段にそれぞれ敗れ、2度目の栄冠はならず(このうち1952年は棄権負)。
それでも[[1950年]]4月に[[鹿児島市]]で開催の全九州対県試合で福岡県を率いて優勝へ導き、11月の第3回全国警察大会では府県対抗戦で[[国家地方警察宮城県警察本部]]を6対1、[[国家地方警察大阪府警察本部]]を5対1で圧倒し、決勝戦でも[[警視庁]]を降して優勝。同大会の管区対抗戦でも優勝を成し遂げた。管区対抗は[[1951年]]11月の第3回大会も制し、国家地方警察福岡県警察本部の勇名をいよいよ全国に轟かせている。
 
その後、[[1956年]][[4月29日]]の[[1956年世界柔道選手権大会|第1回世界選手権大会]]の代表決定戦に38歳で出場し、決勝戦で[[夏井昇吉]]と時間一杯20分を戦った末に判定で敗れて代表の座はならず。この試合を以って松本は選手を引退した。永い現役生活を送ったが、選手として最も脂ののる20歳代半ばの時代を[[戦争]]・[[徴兵制度|兵役]]で迎えた事は、松本にとって不運であったと言える。
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=== 指導者として ===
[[File:Tenri University1.jpg|250px|right|thumb|天理大学では初代師範として、<br/>今日に至る強豪柔道部としての礎を築いた]]
[[1953年]]、3月に[[福岡県国家地方警察]]を退職して4月より[[天理大学]]柔道部の初代師範に就任、[[1955年]]4月に同大に[[体育学部]]が創設されて[[助教授]]となった。[[吉松義彦]]や[[胡井剛一]]を講師に招いて学生達を鍛え上げ、就任4年目の[[1956年]]7月には[[全日本学生柔道優勝大会|全日本学生優勝大会]](団体戦)で天理を優勝に導き、同年11月の[[全日本学生柔道選手権大会|全日本学生選手権大会]](個人戦)でも天理副将の米田圭佑4段が選手権を獲得するなど一躍“天理”の名を世に知らしめた。
その後、[[アントン・ヘーシンク]]や[[ヴォルフガング・ホフマン]]、[[金義泰]]といった柔道留学生や出稽古の[[ウィレム・ルスカ]]らを相次いで受け入れ、体で覚えさせる、いわゆる[[スパルタ教育]]で指導して後のオリンピックの[[メダリスト]]にまで育て上げた。
 
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一方で、[[1958年]][[7月6日]]の第7回全日本学生優勝大会では天理大学と[[明治大学]]との決勝戦にて、天理監督の松本は判定を不服として副審の1人に暴行を加えてしまい{{Refnest|group="注釈"|事の発端は[[天理大学|天理]]・田村盛4段と[[明治大学|明治]]・小林健児4段との三将戦で、この試合は時間一杯を戦って決着が着かず判定となり、副審の1人である[[川村禎三]]は田村に旗を上げたが主審の[[清水正一]]と副審の[[山本博 (柔道)|山本博]]は引き分けとし、結果この試合は引き分けとなった。最終的にこの決勝戦は7人を戦って雌雄決せず、代表戦にて明治の[[神永昭夫]]が勝利を収めて明治が薄氷の優勝を手に。三将戦での田村の勝利を確信していた松本はこれに激高し(仮に三将戦で天理が勝利となっていれば代表戦にまで至らず、天理が3年振りの優勝を飾っていた)、武専の先輩でもある副審の山本が試合場を降りたのを掴まえて何か一言・二言抗議をしたかと思うと、観衆の前で突如山本に殴り掛かって更に蹴り上げるという前代未聞の珍事に<ref name="秘録日本柔道">{{Cite news|author = 工藤雷介|authorlink=|url=|title = 戦後の学生柔道界|newspaper = 秘録日本柔道、341-343頁|publisher = [[東京スポーツ|東京スポーツ新聞社]]|date = 1973-05-25|accessdate=}}</ref>。しかし松本自身も前大会にて主審として[[反則]]を巡る誤審論争を巻き起こしていた(この時は松本主審の裁定を不服として審判長[[工藤一三]]が[[日本大学|日大]]側から3時間半吊し上げられる事態となっている)事から同情の声は無く、大会関係者も「今年ほど見応えのある大会は無かったが、怒りに任せた松本の暴力で“有終の美”ならぬ“有終の醜”となった」と嘆いていたという<ref name="秘録日本柔道"/>。}}、この結果、松本は[[全日本学生柔道連盟]]役員の座から追放されるとともに、1年後に“改悛の情、顕著なり”として解除されるまで活動を禁じられている<ref name="秘録日本柔道"/><ref name="毎日新聞19580715">{{Cite news|athorauthor=|authorlink=|url=|title = 天理大柔道チームの松本監督に処分|newspaper = [[毎日新聞]]、7面|publisher = [[毎日新聞社]]|date = 1958-07-15|accessdate=}}</ref>。
それでも[[1961年]]の[[世界柔道選手権大会|世界選手権大会]]の優勝者をヘーシンクと予測し当時の[[全日本柔道連盟]]強化委員長を激怒させたほか<ref>世界柔道を100倍楽しむためのコラム -第16回 柔道界の内外から見たヘーシンクVSルスカ最強論争-([[フジテレビ]])</ref>、[[1972年]]の[[1972年ミュンヘンオリンピック|ミュンヘン五輪]]でも優勝者をルスカと予測しまたも的中させるなど、指導者としての目は確かだったようである。なお、[[1964年]]の[[1964年東京オリンピック|東京五輪]]では柔道日本代表の監督を務め、コーチの[[曽根康治]]と共に、日本選手団を4階級のうち無差別を除く3階級で[[金メダル]]に導いている{{Refnest|group="注釈"|なお、無差別を制した[[アントン・ヘーシンク|ヘーシンク]]は、松本に育てられて獲得した[[金メダル]]という意味を込めて、この時のメダルを「日本の四つ目の金メダル」と語っている。}}。
 
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永らく最長の8段保持者であった松本だったが、柔道界に対する功績とは裏腹に終に9段に昇段する事は無く、[[1999年]]3月に[[肺炎]]のため死去。[[法名]]は「柔順院釈大安」。
 
現在、[[福岡県]][[宗像市]]の複合スポーツ施設[[グローバルアリーナ]]には「松本安市記念道場」が設けられており、施設内の展示スペースでは松本の年譜や功績等を紹介してほか、[[日本柔道選士権大会|日本選士権大会]]優勝時の[[賞状]]や国際武道大師範時代に着用していた道衣を目にする事ができる。
 
== 人物 ==