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{{Infobox artwork
| image_file = 野原古墳出土 埴輪 踊る人々.JPG
| image_file = Haniwa in dancing form, excavated from Nohara Tumulus, Kumagaya-shi, Saitama, Kofun period, 500s AD, ceramic - Tokyo National Museum - Tokyo, Japan - DSC09381.jpg
| painting_alignment = right
| image_size = 300px
| title = 埴輪 踊る人々(踊る埴輪)
| caption = 向かって右が「小」(高56.5 cm)、左が「大」(高63.9 cm)
| year = [[6世紀]]
| type = [[埴輪]]
| material = [[テラコッタ]]
| accession = J-21428(小)<br />J-21429(大)
| city = [[東京都]][[台東区]][[上野公園 (台東区)|上野公園]]
| museum = [[東京国立博物館]]
| website = {{URL|1=https://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=J21428X|2=東京国立博物館名品ギャラリー}}
}}
 
'''埴輪 踊る人々'''(はにわ おどるひとびと)は、俗に'''踊る埴輪'''(おどるはにわ)とも呼ばれ[[東京国立博物館]]が所蔵する、[[踊り|踊る]]ような姿をした大小2体の人物[[形象埴輪]]。所蔵者俗に'''踊る埴輪'''(おどる[[東京国立博物館]]でにわ)とも呼ばれ、[[重要文化財]]等の指定はされていないが、強い[[デフォルメ]]と独特の顔の表情が印象的で、一般に[[古墳時代]]の[[埴輪]]の中でもよく知られた存在である。しかし近年の[[考古学]]界ではる姿ではなく[[手綱]]を持ち[[馬]]を引く「'''馬飼'''(うまかい)」('''馬子''':まご'''馬曳''':うまひき)を表した像とする説が有力視されている。
 
==概要==
===名称===
東京国立博物館における正式な展示資料名は『'''埴輪 踊る人々'''』である<ref name=tnmgallery>{{Cite web|和書|url=https://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=J21428X|title=埴輪 踊る人々(名品ギャラリー)|work=東京国立博物館|accessdate=2020-04-03}}</ref>。[[#後藤守一による分類|後述]]する考古学者の[[後藤守一]]による最初の呼称は『'''踊る男女'''』である([[#「踊る埴輪」説の提唱|後述]])、一般的には『'''踊る埴輪'''』がよく定着している。
 
===来歴・特徴===
この2体の埴輪は、1930年(昭和5年)3月21日に[[埼玉県]][[大里郡]][[小原村 (埼玉県)|小原村]]([[江南町]]を経て現・[[熊谷市]]大字野原字宮脇)の[[野原古墳群]]にあった「野原古墳」から農地の開墾中に出土した{{Sfn|水口|2015|p=58}}{{Sfn|江南町(熊谷市)教育委員会|2003|p=2}}。発見時には[[遺失物法]]と同法に基づく「学術技芸若ハ考古ノ資料トナルヘキ埋蔵物ヲ発見シタルトキノ取扱方並埋蔵物ノ処分ニ関スル件」(明治32年10月26日[[内務省 (日本)|内務省]]訓令第985号)<ref>{{Cite web|和書|url={{国立国会図書館デジタルコレクション|1337740/18}}|title=学術技芸若ハ考古ノ資料トナルヘキ埋蔵物ヲ発見シタルトキノ取扱方並埋蔵物ノ処分ニ関スル件|accessdate=2020-07-12}}</ref>に従って[[宮内省]]に通知された後、東京帝室博物館へ転送され、欠損部を石膏で補填する修理を受けると、同年10月16日から30日にかけて同博物館の表慶館にて開催された「埴輪特別展覧会」に出品され、初めて一般公開された{{Sfn|水口|2015|pp=59-63}}。2年後の1932年(昭和7年)、東京帝室博物館が正式に購入し<ref name=odoru>{{Cite web|和書|url=http://www.kumagaya-bunkazai.jp/kounanmatinoiseki/iseki5.pdf|title=江南町の遺跡5 野原古墳群 『踊る埴輪』を出土した古墳群|format=PDF|work=熊谷市立江南文化財センター|accessdate=2020-04-04}}</ref>、1947年(昭和22年)の帝室博物館から国立博物館への改組を経て、引き続き東京国立博物館が所蔵している。
{{Double image aside|left|Dancing Haniwa TNM J-21428.jpg|150|Dancing Haniwa TNM J-21429.jpg|150|埴輪 踊る人々(小)|埴輪 踊る人々(大)}}
[[File:Haniwa head of men wearing a hat TNM.jpg|thumb|150px|「埴輪 笠を被る男子頭部」(東京国立博物館所蔵)。「踊る埴輪」と同じく野原古墳から出土し、目と口の表現が共通する<ref>{{Cite web|url=https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/J-21431|title=埴輪 笠を被る男子頭部|work=ColBase 国立博物館所蔵品統合検索システム|accessdate=2020-04-08}}</ref>。なお[[円錐形]]の笠は「馬飼」埴輪に見られる特徴の1つである{{Sfn|塚田|2007|pp=156-157}}。]]
この2体の埴輪は、[[埼玉県]][[熊谷市]](旧・[[江南町]])大字野原字宮脇の[[野原古墳群]]にあった「野原古墳」から、1930年(昭和5年)に農地の開墾中に出土し{{Sfn|江南町(熊谷市)教育委員会|2003|p=2}}、1932年(昭和7年)に東京帝室博物館(後の東京国立博物館)が購入した<ref name=odoru>{{Cite web|url=http://www.kumagaya-bunkazai.jp/kounanmatinoiseki/iseki5.pdf|title=江南町の遺跡5 野原古墳群 『踊る埴輪』を出土した古墳群|format=PDF|work=熊谷市立江南文化財センター|accessdate=2020-04-04}}</ref>。
 
その後、「踊る埴輪」は経年によって本体に亀裂が入り、発掘直後に補填された石膏も劣化が進んだことから、2022年(令和4年)、東京国立博物館は創立150年記念事業「踊る埴輪&見返り美人修理プロジェクト」を発表、4月1日より2023年(令和5年)3月31日まで「踊る埴輪」および「[[見返り美人図]]」([[菱川師宣]]作)の修理費用として目標額1000万円の寄附を募る事業を展開し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tnm.jp/150th/project/fundraising.html|title=東京国立博物館創立150年記念 踊る埴輪&見返り美人 修理プロジェクト|work=東京国立博物館150周年記念特設サイト|accessdate=2022-05-05}}</ref>、最終的に目標額を上回る15,396,445円を集めた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2150|title=東京国立博物館創立150年記念 踊る埴輪&見返り美人 修理プロジェクト|work=東京国立博物館|accessdate=2023-06-04}}</ref>。「踊る埴輪」は2022年秋より修理が開始され、解体、古い石膏の除去と新たな補填材の追加、亀裂の接合などを施された上で2024年(令和6年)秋以降に公開される予定である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2152#2|title=「埴輪 踊る人々」・「見返り美人図」について|work=東京国立博物館|accessdate=2023-06-04}}</ref>。
製作年代は[[6世紀]]代とされている。省略的に表現されることが多い埴輪の中でも、この2体はより大胆な省略法に基づき制作されている{{Sfn|三木|1976|p=160}}。いずれも腰から下が表現されない半身立像で、復原高はそれぞれ、大きい方が63.9センチメートル、小さい方が56.5センチメートルである{{Sfn|江南町(熊谷市)教育委員会|2003|p=2}}。先を丸めて頭部を表した寸胴な円筒形を基調に、肩の左右に粘土棒を差し込み両腕とし{{Sfn|三木|1976|p=160}}、左腕を上に掲げ、右腕を前方斜め下に据えることで、正面から見ると両腕を逆S字形に構えたように見える仕草をしている。口と目の部分はほぼ同じ大きさの円形にくり貫かれ、目を見開き、口を大きく開けたかのように表現されているが、これも埴輪としては珍しく、剽軽な表情に見受けられる{{Sfn|三木|1976|p=160}}。首のくびれは表現されておらず、鼻筋は一本の粘土紐を前頭部まで伸ばして貼り付けた<ref name=odoru/>、特徴的な人物像となっている。衣服も腰帯を締める以外に詳細な表現はない{{Sfn|三木|1976|p=160}}。小さい方は腰帯から紐を下げ、後腰に[[鎌]]とみられる道具を装備し<ref name=odoru/>、その頭には両側に振り分けた髪型と、[[角髪]]とみられる表現があり、こちらが男子像とされる{{Sfn|江南町(熊谷市)教育委員会|2003|p=2}}。[[考古学者]]の三木文雄は、「拙劣なつくりながら、率直な表現にしたしみが感ぜられる」と評する{{Sfn|三木|1976|p=160}}。
 
==研究史=特徴===
[[File:Haniwa Head of a Man Wearing a Hat front.jpg|thumb|150px|「埴輪 笠を被る男子頭部」(東京国立博物館所蔵)。「踊る埴輪」と同じく野原古墳から出土し、目と口の表現が共通する<ref>{{Cite web|和書|url=https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/J-21431|title=埴輪 笠を被る男子頭部|work=ColBase 国立博物館所蔵品統合検索システム|accessdate=2020-04-08}}</ref>。[[円錐形]]の[[笠]]も「馬飼」埴輪に見られる特徴の1つである{{Sfn|塚田|2007|pp=156-157}}。]]
===後藤守一による分類===
「踊る埴輪」の製作年代は[[6世紀]]代とされている。省略的に表現されることが多い埴輪の中でも、この2体はより大胆な省略法に基づき製作されている{{Sfn|三木|1976|p=160}}。いずれも腰から下が表現されない半身立像で、先を丸めて頭部を表した寸胴な円筒形を基調に、肩の左右に粘土棒を差し込み両腕とし{{Sfn|三木|1976|p=160}}、左腕を上に掲げ、右腕を前方斜め下にすえることで、正面から見ると両腕を逆S字形に構えたように見える仕草をしている{{Sfn|禰冝田|2008|p=23}}。口と目の部分はほぼ同じ大きさの円形にくり貫かれ、目を見開き、口を大きく開けたかのように表現されているが、これも埴輪としては珍しく、剽軽な表情に見受けられる{{Sfn|三木|1976|p=160}}。これは、まるで踊りながら歌っているようにもみえる{{Sfn|禰冝田|2008|p=23}}。首のくびれは表現されておらず、鼻筋は一本の粘土紐を前頭部まで伸ばして貼り付けた<ref name=odoru/>、特徴的な人物像となっている。衣服も腰帯を締める以外に詳細な表現はない{{Sfn|三木|1976|p=160}}。小さい方の埴輪は頭部の両側に振り分けた粘土が貼り付けられており、これは「百姓[[角髪|みずら]]」と称される身分の低い者の髪型で、後腰に[[鎌]]とみられる道具を装備しているところから<ref name=odoru/>、こちらが男子像とされる{{Sfn|江南町(熊谷市)教育委員会|2003|p=2}}{{Sfn|禰冝田|2008|p=23}}。このため小さい方は男の農夫と考えらえる{{Sfn|禰冝田|2008|p=23}}。大きい方には頭の左右に耳孔を表した小孔がある以外は{{Sfn|江南町(熊谷市)教育委員会|2003|p=2}}、耳たぶや髪型の表現がない{{Sfn|禰冝田|2008|p=23}}。大小2体あるため、男女を表現したものであるという説と2体ともに男性だという説があるが、男女を表したものだとすると大きい方が女性になる{{Sfn|禰冝田|2008|p=23}}。
 
この埴輪2体の表現について、最初に公開された「埴輪特別展覧会」では「その作稚拙にして怪奇の風があ」ると解説されたが、「踊る像」に分類した後藤守一は、その後「稚拙愛すべきものがある」とコメントし{{Sfn|後藤|1942|p=12|ps= - 10コマ目}}、同じく考古学者の三木文雄は「拙劣なつくりながら、率直な表現にしたしみが感ぜられる」と評する{{Sfn|三木|1976|p=160}}。[[日本美術史|日本美術史家]]の[[野間清六]]は、「このような表現は一見原始的な段階にあるように思われるが、それは寧ろある程度発達していた埴輪の形式を、豪胆に簡略した時に生れたものと解され、その簡にして要を得た思い切った表現が、却って整ったものにも増した面白味を訴えるのである」<!--引用元の旧字と旧仮名遣いを新字と現代仮名遣いに置き換え-->と論じている{{Sfn|野間|1942|p=1|ps= - 41コマ目}}。
{{-}}
 
=== 詳細画像 ===
{{Gallery
|title=埴輪 踊る人々 小
|width=100
|height=100
|lines=1
|File:Dancing haniwa small front.jpg|前
|File:Dancing haniwa small left front.jpg|左前
|File:Dancing haniwa small left.jpg|左
|File:Dancing haniwa small left rear.jpg|左後
|File:Dancing haniwa small rear.jpg|後
|File:Dancing haniwa small right rear.jpg|右後
|File:Dancing haniwa small right.jpg|右
|File:Dancing haniwa small right front.jpg|右前
}}
{{Gallery
|title=埴輪 踊る人々 大
|width=100
|height=100
|lines=1
|File:Dancing haniwa large front.jpg|前
|File:Dancing haniwa large left front.jpg|左前
|File:Dancing haniwa large left.jpg|左
|File:Dancing haniwa large left rear.jpg|左後
|File:Dancing haniwa large rear.jpg|後
|File:Dancing haniwa large right rear.jpg|右後
|File:Dancing haniwa large right.jpg|右
|File:Dancing haniwa large right front.jpg|右前
}}
 
=== 計測値 ===
2体の計測値は以下の通り(熊谷市立江南文化財センターと東京国立博物館による)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kumagaya-bunkazai.jp/museum/haniwa/world/profile02.htm|title=踊る埴輪身体測定結果|work=熊谷市江南文化財センター|accessdate=2021-08-21}}</ref><ref name=colbases>{{Cite web|和書|url=https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/J-21428|title=埴輪 踊る人々 小|work=ColBase 国立博物館所蔵品統合検索システム|accessdate=2020-04-04}}</ref><ref name=colbasel>{{Cite web|和書|url=https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/J-21429|title=埴輪 踊る人々 大|work=ColBase 国立博物館所蔵品統合検索システム|accessdate=2020-04-04}}</ref>。長さの単位はいずれも[[センチメートル|cm]]、重量の単位は[[キログラム|kg]]。
{| class="wikitable" style="text-align:center; margin:0 auto"
|+ 埴輪 踊る人々
! - !! 小 !! 大
|-
! 復元高{{efn2|東京国立博物館では、小が57.0 cm、大が64.1 cm<ref name=tnmgallery/>、熊谷市立江南文化財センターの別の資料では、小が56.5 cm、大が63.9 cmとされている{{Sfn|江南町(熊谷市)教育委員会|2003|p=2}}。}} / 現存高 / 上半身高
| 56.8 / 41.0 / 30.5 || 63.2 / 32.7 / 32.0
|-
! 頭回り / 胴回り / 復元底径
| 25.2 / 33.7 / 44.6 || 26.9 / 35.6 / 50.7
|-
! 左手長 / 右手長
| 16.5 / 17.8 || 17.8 / 17.7
|-
! 左目径 / 右目径 / 口径
| 2.0 / 1.9 / 1.8 || 2.0 / 2.2 / 2.1
|-
! 鼻高 / 鼻長
| 2.2 / 10.5 || 3.2 / 13.0
|-
! その他
| 左みずら長 / 右みずら長<br />3.2 / 2.9 || 左耳孔径 / 右耳孔径<br />0.7 / 0.8
|-
! 重量
|3.4 || 3.5
|}
 
== 研究史 ==
=== 「踊る埴輪」説の提唱 ===
埴輪の[[研究史]]において、この2体を「踊っている人物」と定義したのは、当時東京帝室博物館に在籍していた考古学者の後藤守一である。
 
後藤は、1931年(昭和6年)発表の論文「埴輪の意義」にて、埴輪に表現される服飾や装備品、所作から分類を行い、個々の埴輪の表す職掌的性格について分析した。そこで[[群馬県]][[伊勢崎市]][[赤堀茶臼の上武士(剛志)天神山古墳]]出土の「琴弾く男子」と「太鼓を叩く男子」の存在から[[音楽]]を奏でる一群を見出だし、それに対応する歌舞を舞う人物の例として[[野原古墳群]]出土の2体を挙げて『踊る男女』とした{{efn2|ただし、後藤は同論文発表後に発行した出版物上では「踊る人々」の名称で2体を紹介し、「男女何れかは不明」と述べて性別を明確にすることは控えている{{Sfn|後藤|1942|p=12|ps= - 10コマ目}}。}}{{Sfn|塚田|2007|p=3}}。この他にも「[[巫女]]」や「[[鷹匠]]」など、職掌を冠する分類、名称の設定を行った。また、これらの人物・動物・器財を表した形象埴輪群に対し、死んで古墳に葬られる[[首長]]([[豪族]])を送る葬儀、葬列を表すものではないかとして、形象埴輪のもつ具体的な意義・解釈にも初めて言及した{{Sfn|後藤|1931|pp=26-50}}。
 
後藤による「踊る男女(埴輪)」をはじめとする各種埴輪の分類名称は、以後の学界の埴輪研究に大きな影響を与え、[[水野正好]]が1971年(昭和46年)に発表した、人物埴輪およびその配列(埴輪群像)の持つ意味について検討した「埴輪芸能論」などにも継承された{{Sfn|水野|1971|pp=255-278}}。
 
===馬飼埴輪説の登場 ===
[[File:Kofun Era Haniwa Terracotta Figurine (29435261864).jpg|thumb|150px|[[芝山古墳群|姫塚古墳]]出土の片腕をあげて馬を曳く「馬飼埴輪」([[芝山古墳・はにわ博物館]])。「踊る埴輪」と同じ野原古墳出土の「埴輪 笠を被る男子頭部」とも共通する[[円錐形]]の[[笠]]を被っている{{Sfn|塚田|2007|pp=156-157}}。]]
その後も、古墳や埴輪[[窯跡]]などの[[発掘調査]]が増加するにつれて形象埴輪の出土例も豊富になり、古墳に樹立される形象埴輪群像の意義について多くの学説・見解が現れたが、「踊る人物」や「巫女」・「鷹匠」などの埴輪の分類設定は基本的に継承されていった{{Sfn|塚田|2007|p=25}}。
 
しかしこうした中で、1990年代以降には後藤の研究以来使われてきたこれらの分類方法と名称に対して、その妥当性への疑問も提唱されるようになってきた。
 
例えば「踊る埴輪」の場合、後藤は片腕をあげる所作について、他の楽器を演奏する埴輪の例とを照らし合わせて「踊る」と見なしたのであるが、これは個々の埴輪がもつ一部の特徴的な所作や服装などに注目して推定されたものに過ぎず、果たして本当に踊っているのか、あるいは、「踊り」であるとする具体的な根拠は何かが示されていないと言う意見である{{Sfn|塚田|1996|pp=1-41}}{{Sfn|塚田|2007|pp=10-11}}。
 
この問題に対し、[[大正大学]]教授の塚田良道は<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tais.ac.jp/chinavi/result/no-0100/|title=教員プロフィール・塚田良道|work=大正大学|accessdate=2022-01-19}}</ref>、従来の人物埴輪研究では、[[考古学]]において基礎的な研究方法である[[型式学的研究法]]による検討が不足しているにもかかわらず、後藤以来の埴輪分類・名称設定がほとんど無批判に継承されてきたことを指摘した上で、人物埴輪の所作・服装・装備について形式(型式)学的手法での類型化を行った。その結果「踊る埴輪」の特徴的な属性である「片腕をあげる」「腰帯に鎌を装備する」「半身立像である」「頭の両側に振り分けた髪型をもつ」などの諸要素が、片腕をあげて[[手綱]]を持ち、馬を引く姿を表した「馬飼(うまかい、馬子・馬曳)」の埴輪と広く共通することを見出だしから、「踊る埴輪」も馬飼とみるのが妥当であると指摘の見解を示した。また複数古墳の埴輪群像の配置パターンを分析し、かつて後藤が「踊り(歌舞)」を想定する根拠の1つとした「琴を弾く(楽奏)埴輪」が、群像の中心的存在である座像主体の配置内にあり、より外側に配置される片腕をあげる埴輪(馬飼)とは違う配置形式にあるとして後藤の論理に疑問を示し{{Sfn|塚田|2007|pp=50-58}}{{Sfn|塚田|2007|p=167}}、形式学的には「踊る」所作として類型化できる一群は見出だせないとした{{Sfn|塚田|1996|pp=1-41}}{{Sfn|塚田|2007|pp=156-159}}{{Sfn|塚田|2007|pp=185-190}}。加えて、埴輪では女性を示すために[[乳房]]を表現することが多いが、「踊る埴輪」の大きい方にはそれがなく、塚田は2体とも男性の馬曳(馬飼)と考えてよいと述べ{{Sfn|宮代|2006|p=22}}、当該の埴輪を「踊っている」とみるのは「かなり恣意的な解釈」ではないかと批判している{{Sfn|宮代|2006|p=22}}。
 
なお片腕をあげ、鎌を装備するなどする人物埴輪の一群が「馬飼」であろうことは、このタイプ形式の埴輪が、埼玉県[[行田市]][[酒巻古墳群]]の例{{Sfn|藤川|1988|pp=80-84}}{{Sfn|大澤|1991|pp=175-183}}や[[群馬県]][[前橋市]]内堀遺跡群(内堀4号墳)の例{{Sfn|前橋市埋蔵文化財発掘調査団|1998|pp=49-50}}、また、[[千葉県]][[芝山古墳群]](姫塚古墳)の例{{Sfn|禰冝田|2008|pp=26-27}}などのような、樹立当時の原位置を保って遺存していた事例において、馬形埴輪の斜め前に立ち、掲げた片腕がちょうど馬形埴輪の前にくる位置で出土していることから確認されている。
 
[[西日本]]では、[[奈良県]][[磯城郡]][[田原本町]][[笹鉾山古墳群|笹鉾山2号墳]]の例(県指定文化財<ref>{{Cite web|和書|title=県指定文化財一覧|author=奈良県|url=http://www.pref.nara.jp/40279.htm|accessdate=2020-09-05}}</ref>)が知られ、本例では掲げた左手に手綱の表現とみられる粘土紐が握られている<ref>{{Cite web|和書|title=笹鉾山2号墳出土品一括|author=田原本町|url=http://www.town.tawaramoto.nara.jp/kanko/bunkazai/shitei/3448.html|accessdate=2020-09-05}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=人物埴輪(馬曳き2点)・馬形埴輪(2点)|author=田原本町|url=http://www.town.tawaramoto.nara.jp/karako_kagi/museum/search/history/haniwa/6/2147.html|accessdate=2020-09-05}}</ref>。
===馬飼埴輪説以後===
<gallery>
今日の考古学界では、この'''踊る埴輪は踊らない'''とする見解は有力化してきているが{{Sfn|高橋|2008|pp=113-114}}{{Sfn|若狭|2009}}、所蔵者の東京国立博物館はWebサイト上の紹介で、現在も葬送や[[殯|もがり]]の場で「踊る人々」とする見解を維持している<ref>{{Cite web|url=https://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=J21428X|title=埴輪 踊る人々(名品ギャラリー)|work=東京国立博物館|accessdate=2020-04-03}}</ref>。一方、[[国立文化財機構]]が運営する国立博物館所蔵品データベースサイト「ColBase 国立博物館所蔵品統合検索システム」の解説ページでは馬飼説にも触れている<ref>{{Cite web|url=https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/J-21428|title=埴輪 踊る人々 小|work=ColBase 国立博物館所蔵品統合検索システム|accessdate=2020-04-04}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/J-21429|title=埴輪 踊る人々 大|work=ColBase 国立博物館所蔵品統合検索システム|accessdate=2020-04-04}}</ref>。
ファイル:笹鉾山2号墳出土 馬形・馬曳き形埴輪-1.JPG|[[笹鉾山古墳群|笹鉾山2号墳]]出土埴輪
ファイル:笹鉾山2号墳出土 馬形・馬曳き形埴輪-2.JPG|笹鉾山2号墳出土埴輪
</gallery>
 
=== 両説のはざまで ===
野原古墳群がある旧[[江南町]](現・熊谷市)に所在する熊谷市立江南文化財センターは、馬飼説に対して、Webページのコラムにて『「踊る埴輪」をPRしたい本市としては、この展開はちょっと困ったものです』と、やや困惑気味であることを認めつつ、[[経済人類学]]における「[[暗黙知]]」の理論を引用して、「木」は多くの人がそれを「木」と思うから「木」であるように、この埴輪についても大半の人々が「踊っている」と共同認識しているため「踊る埴輪」という認識でよい、という主旨の見解を示している{{Refnest|group="注"|ただし、その後に『(説明が)ちょっとくるしい?』とも付け加えている<ref>{{Cite web|url=http://www.kumagaya-bunkazai.jp/museum/dokusyo/koramu/odori/odori.htm|title=コラム21・踊る埴輪と踊り|work=熊谷市江南文化財センター|date=2002-10-18|accessdate=2020-04-03}}</ref>。}}。
今日の考古学界では、この'''踊る埴輪は踊っていない'''とする見解が有力化してきているが{{Sfn|高橋|2008|pp=113-114}}{{Sfn|若狭|2009}}、所蔵者の東京国立博物館はWebサイト上の紹介で、現在も葬送や[[殯|もがり]]の場で「踊る人々」とする見解を維持している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=J21428X|title=埴輪 踊る人々(名品ギャラリー)|work=東京国立博物館|accessdate=2020-04-03}}</ref>。一方、[[国立文化財機構]]が運営する国立博物館所蔵品データベースサイト「ColBase 国立博物館所蔵品統合検索システム」の解説ページでは馬飼説にも触れている<ref name=colbases/><ref name=colbasel/>。
 
「馬飼埴輪」説が学界で有力化していく状況に困惑を見せたのが、埴輪出土地の野原古墳群があり、「踊る埴輪」を町の象徴として活用していた江南町(現・熊谷市)であった([[#熊谷市江南地域での活用|後述]]){{Sfn|宮代|2006|p=22}}{{Sfn|中村|角幡|2006|p=15}}{{efn2|この事態について、『朝日新聞』紙上では(江南町が学説の変化に)「踊らされている」と皮肉めいて報じられた{{Sfn|中村|角幡|2006|p=15}}。}}。2006年(平成18年)時の報道取材では、当時の同町教育委員会次長補佐は(「踊る埴輪」の場合は)「馬の埴輪が近くから出土したわけでなはいし、記録もない。馬子だったかどうかは、もう古墳がないため、永久に確認できない」と応じ、町長の福田征芳は「学説は学説。合併{{efn2|江南町は2007年(平成19年)2月13日に熊谷市へ編入合併した。}}しても地域のシンボルであることに変わりはない」とコメントしている{{Sfn|中村|角幡|2006|p=15}}。熊谷市立江南文化財センターは、馬飼説に対して、Webページのコラムにて『「踊る埴輪」をPRしたい本市としては、この展開はちょっと困ったものです』と、やや困惑気味であることを認めつつ、[[経済人類学]]における「[[暗黙知]]」の理論を引用して、「木」は多くの人がそれを「木」と思うから「木」であるように、この埴輪についても大半の人々が「踊っている」と共同認識しているため「踊る埴輪」という認識でよい、という主旨の見解を示している{{efn2|ただし、その後に『(説明が)ちょっとくるしい?』とも付け加えている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kumagaya-bunkazai.jp/museum/dokusyo/koramu/odori/odori.htm|title=コラム21・踊る埴輪と踊り|work=熊谷市江南文化財センター|date=2002-10-18|accessdate=2020-04-03}}</ref>。}}。
 
[[文化庁]]文化財部の禰冝田佳男は、「踊る埴輪」の新しい解釈(馬子説)は、人物形象埴輪全体の様相を踏まえたものであり説得力があるとしながら、こうした農民を表現した埴輪には、[[鍬]]を持つもの、笑っているもの、[[男性器]]を露出させたものなどもあり、これらが当時の農耕祭祀の中でおこなわれた仕草であるならば、踊っている農民がいても別におかしくはないという考え方もあるとしている{{Sfn|禰冝田|2008|p=27}}。
 
==社会との関わり==
おどけたような顔の表情と素朴な表現が特徴の「踊る埴輪」は、埴輪の概説書に掲載されることが多く{{Sfn|水口|2015|p=58}}、またその親しみやすさから学界だけでなく一般社会や日本国外でも広く認知されるようになった<ref name=odoru/>今日では埴輪と言うとこの2体のイメージが想起されることが多く、同じく東京国立博物館が所蔵する『[[埴輪 挂甲武人]]』([[国宝]])などと並んで埴輪の代表的存在となっている。
 
===キャラクター化===
2012年(平成24年)に東京国立博物館が開館140周年を記念して策定した公式キャラクター2体のうち、「踊る埴輪」をモチーフにした「トーハクくん」には、出身地が「埼玉県熊谷市野原古墳」で特技が「ダンス」といった、出土情報や従来説に基づいた設定が付与されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1799|title=公式キャラクター|work=東京国立博物館|accessdate=2020-04-03}}</ref>。
 
1990年代に発表された[[前嶋昭人]]の漫画『[[ハニ太郎です。]]』の主人公であるハニ太郎とその家族の埴輪のキャラクターデザインが「踊る埴輪」と似ている。
 
「踊る埴輪」とは直接関係しない地域である[[大阪府]][[堺市]]に所在する[[世界文化遺産]]の「[[百舌鳥・古市古墳群]]」をPRするキャラクター「ハニワ部長」(旧称・ハニワ課長、2020年(令和2年)8月28日からはハニワ特命部長)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.sakai.lg.jp/shisei/koho/citypromo/haniwa/index.html|title=ようこそ、私がハニワ部長・CHO(Chief Haniwa Officer)です|work=堺市長公室 広報戦略部 広報戦略推進課|accessdate=2020-04-04}}</ref>{{Refnest|group="注"|ハニワ課長は2014年(平成26年)から起用され{{Sfn|矢追|2019|p=10}}、2019年(令和元年)8月28日([[埴輪の日|ハ・ニワの日]])付で課長から部長に「昇進」、および正式に堺市の職員となり辞令交付を受けた。年齢1600歳を自称している。また2020年(令和2年)8月26日には「ハニワ特命部長」に昇進し、8月28日付けの任命書を受けた<ref>{{Cite news|url=https://www.mbs.jp/news/sp/kansainews/20200826/GE00034548.shtml|title=ハニワ部長→『ハニワ特命部長』に昇進!堺市全般PR担当になり「ワクワク土器土器」|newspaper=[[毎日放送]]|date=2020-08-26|accessdate=2020-08-28}}</ref>。}}と、その姪「ハニワちゃん」もまた「踊る埴輪」に似ている。これは、「埴輪としてイメージが湧きやすい」とする大手広告会社の提案によるという{{Sfn|矢追|2019|p=10}}。
特に、熊谷市の江南地域は江南町時代に「緑と踊るはにわの里」と記した看板を主要道路の町境に掲げていたほか、押切橋南公園に立つモニュメントをはじめ、熊谷市江南総合文化会館「ピピア」のホール緞帳の刺繍、町役場で発行した証明書の用紙イラストなど、「踊る埴輪」の意匠を各所で多用してその出土地であることを主張していたが、一部は熊谷市と合併した後も引き続き用いられている<ref>{{Cite web|url=http://www.kumagaya-bunkazai.jp/museum/frames/haniwa-town.htm|title=江南地域は埴輪のまち|work=熊谷市江南文化財センター|accessdate=2020-04-04}}</ref>。
 
===熊谷市江南地域での活用===
2012年(平成24年)に東京国立博物館が開館140周年を記念して策定した公式キャラクター2体のうち、「踊る埴輪」をモチーフにした「トーハクくん」には、出身地が「埼玉県熊谷市野原古墳」で特技が「ダンス」といった、出土情報や従来説に基づいた設定が付与されている<ref>{{Cite web|url=https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1799|title=公式キャラクター|work=東京国立博物館|accessdate=2020-04-03}}</ref>。
[[File:Danced clay image 踊る埴輪 - panoramio.jpg|thumb|250px|埼玉県熊谷市・押切橋南公園に立つ「踊る男女の埴輪」像。銘板の説明文には「収穫の喜びに感謝して、歌い踊っていることが想像され」とある<ref>{{Cite web|和書|date=2010-11-12 |url=http://www.atsuizo.com/modules/atsunavi2/index.php?lid=65&cid=2|title=踊る埴輪(はにわ)|website=あついぞ.com|accessdate=2021-01-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140323075433/http://www.atsuizo.com/modules/atsunavi2/index.php?lid=65&cid=2|archivedate=2014-03-23|url-status=dead|url-status-date=2020-02}}</ref>{{efn2|name=kansha|ただし、「踊る埴輪」の姿を「収穫感謝の踊り」とする解釈は、「葬送の場での踊り」とする東京国立博物館の見解とも異なるものである。}}。]]
[[File:野原古墳群「踊る埴輪」モニュメント.jpg|thumb|250px|2022年4月に建立した「踊る埴輪」像(野原八幡神社境内)]]
「踊る埴輪」が出土した野原古墳群の所在地である熊谷市江南地域は、旧・江南町時代より「踊る埴輪」を地域の象徴として活用してきた。江南町は町づくりの基本構想に「豊かな収穫に感謝するために踊った古代人の姿から、夢とロマンにあふれるまちづくりをめざす」と「踊る埴輪」の要素を盛り込み{{Sfn|中村|角幡|2006|p=15}}{{efn2|name=kansha}}、町公式ウェブサイトのトップページに「踊る埴輪」のイラストを載せ<ref>{{Cite web|和書|url=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/242251/www.town.konan.saitama.jp/index.html|title=ようこそ江南町へ|work=[[国立国会図書館]]インターネット資料収集保存事業|date=2007-2-10|accessdate=2020-12-25}}</ref>、「緑と踊るはにわの里」と記した看板を主要道路の町境に掲げていたほか、[[押切橋]]南公園に立つモニュメントをはじめ、熊谷市江南総合文化会館「ピピア」のホール緞帳の刺繍、町役場で発行した証明書の用紙イラストなど、「踊る埴輪」の意匠を各所で多用してその出土地であることを主張していたが、それらの一部は熊谷市と合併した後も引き続き用いられている<ref name=haniwa-town>{{Cite web|和書|url=http://www.kumagaya-bunkazai.jp/museum/frames/haniwa-town.htm|title=江南地域は埴輪のまち|work=熊谷市江南文化財センター|accessdate=2020-04-04}}</ref>。かつては地元の[[農業協同組合]]が、養蚕の桑から転作したキウイフルーツやブルーベリーを用いて醸造した[[フルーツワイン]]に「おどるわいん」と銘打ち、瓶に「踊る埴輪」をあしらったラベルを貼って販売していた(現在は生産終了)<ref name=haniwa-town/><ref>{{Cite news|author=朝日新聞|year=1992|date=1992-04-16|title=地域おこし狙い「おどるわいん」町内で限定販売 埼玉・江南町農協|newspaper=朝日新聞|edition=朝刊|location=埼玉|publisher=朝日新聞社}}</ref>。
 
2022年4月、熊谷市内の自治会と江南文化財センターが有志を募り、踊る埴輪出土の記憶を次世代に継承するという目的で出土地[[野原古墳群]]近くの野原八幡神社境内に新たな「踊る埴輪」像を建立し、同月23日に除幕式を行った<ref name=mainichi>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20220424/k00/00m/040/034000c|title=「踊る埴輪」次世代に-出土した埼玉・熊谷でモニュメント建立-|newspaper=[[毎日新聞]]|date=2022-04-24|accessdate=2022-05-05}}</ref>。傍らに建立された石碑には、埴輪の製作年代などの解説が刻まれているほか、馬飼埴輪説についても言及されている<ref name=mainichi/>。
また、[[大阪府]][[堺市]]は「踊る埴輪」とは直接関係しない地域だが、[[世界文化遺産]]の[[百舌鳥・古市古墳群]]をPRするキャラクター「ハニワ部長」(旧称・ハニワ課長){{Refnest|group="注"|ハニワ課長は、2019年(令和元年)8月28日(ハ・ニワの日)付で課長から部長に昇進、および正式に堺市の職員となり辞令交付を受けた。つまりそれ以前は市の職員でも公務員でもないのに課長を名乗っていたことになる。}}<ref>{{Cite web|url=https://www.city.sakai.lg.jp/shisei/koho/citypromo/haniwa/index.html|title=ようこそ、私がハニワ部長・CHO(Chief Haniwa Officer)です|work=堺市長公室 広報戦略部 広報戦略推進課|accessdate=2020-04-04}}</ref>は、「踊る埴輪」に酷似している。
 
===その他===
その他、1990年代に発表された[[前嶋昭人]]の漫画『[[ハニ太郎です。]]』の主人公であるハニ太郎とその家族の埴輪のキャラクターデザインも「踊る埴輪」と似ている。
[[群馬県]][[前橋市]]には、同市[[五代町 (前橋市)|五代町]]出土と伝わる「[[埴輪踊る男子像]]」(市の[[有形文化財]])が存在するが{{Sfn|林|1984|p=10}}<ref name=前橋市>{{Cite web|和書|url=https://www.city.maebashi.gunma.jp/bunka_sports_kanko/7/3/11370.html|title=市指定文化財一覧|work=前橋市教育委員会|date=2019-02-01|accessdate=2022-01-18}}</ref>、本項の埴輪2体とは全く別のものである。
 
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
 
===注釈===
{{notelist2}}
{{Reflist|group="注"}}
 
===出典===
{{Reflist|23}}
 
==参考文献==
*{{Cite journal|和書|lastauthor=後藤|first=守一|authorlink=後藤守一|year=1931|date=1931-01|title=埴輪の意義|ncid=BA54001667|journal=考古学雑誌|volume=21|issue=1|pages=26-50|publisher=考古学会|ref=harv{{SfnRef|後藤|1931}} }}
*{{Cite book|和書|lastauthor=水野|first=正好|authorlink=水野正好後藤守一|title=古代の日本(第2巻・風土と生活)|chapter=埴輪芸能論|publisher=[[角川書店アルス (出版社)|アルス]]|year=19711942|date=19711942-03-25|ncidurl=BN01878672{{国立国会図書館デジタルコレクション|1041321}}|ref=harv{{SfnRef|後藤|1942}} }}
*{{Cite book|和書|lastauthor=三木野間清六|firstauthorlink=文雄野間清六|title=原色日本の美術(第1巻・原始美術)|chapter=埴輪 踊る男女|edition=12版|page=160|publisher=[[小学館]]聚楽社|year=19761942|date=19761942-1011-05|ncidurl=BN01944609{{国立国会図書館デジタルコレクション|1123655}}|ref=harv{{SfnRef|野間|1942}} }}
*{{Cite book|和書|lastauthor=藤川水野正好|firstauthorlink=智之水野正好|title=酒巻墳群代の日本昭和61年度~昭和62年度発掘調査報告書第2巻・風土と生活)|chapter=酒巻14号墳の『馬曳き』人物埴輪の検討芸能論|publisher=行田市教育委員会|pages=80-84[[角川書店]]|year=19881971|date=19881971-03-31|ncid=BN04439373BN01878672|ref=harv{{SfnRef|水野|1971}} }}
*{{Cite book|和書|author=三木文雄|title=原色日本の美術(第1巻・原始美術)|chapter=埴輪 踊る男女|edition=12版|page=160|publisher=[[小学館]]|year=1976|date=1976-10|ncid=BN01944609|ref={{SfnRef|三木|1976}} }}
*{{Cite journal|和書|last=大澤|first=伸啓|year=1991|date=1991-03|title=馬飼の人物埴輪について|ncid=AN00173888|issn=09182705|journal=栃木県考古学会誌|issue=13|pages=175-183|publisher=栃木県考古学会|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=林喜久雄|title=昭和58年度文化財調査報告書|publisher=前橋市教育委員会|date=1984-03-31|year=1984|url=https://sitereports.nabunken.go.jp/16125|ncid=BN03637032|volume=14|page=10|ref={{SfnRef|林|1984}} }}
*{{Cite journal|和書|last=塚田|first=良道|year=1996|date=1996-03|title=人物埴輪の形式分類|ncid=AN00081939|journal=考古学雑誌|volume=81|issue=3|pages=1-41|publisher=[[日本考古学会]]|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=藤川智之|title=酒巻古墳群(昭和61年度~昭和62年度発掘調査報告書)|chapter=酒巻14号墳の『馬曳き』人物埴輪の検討|publisher=行田市教育委員会|pages=80-84|year=1988|date=1988-03-31|ncid=BN04439373|ref={{SfnRef|藤川|1988}} }}
*{{Cite journal|和書|author=大澤伸啓|year=1991|date=1991-03|title=馬飼の人物埴輪について|ncid=AN00173888|issn=09182705|journal=栃木県考古学会誌|issue=13|pages=175-183|publisher=栃木県考古学会|ref={{SfnRef|大澤|1991}} }}
*{{Cite journal|和書|author=塚田良道|year=1996|date=1996-03|title=人物埴輪の形式分類|ncid=AN00081939|journal=考古学雑誌|volume=81|issue=3|pages=1-41|publisher=[[日本考古学会]]|ref={{SfnRef|塚田|1996}} }}
*{{Cite book|和書|author=前橋市埋蔵文化財発掘調査団|title=内堀遺跡群X|publisher=前橋市|year=1998|date=1998-03-25|ncid=BN05451192|url=https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/15417|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|url=http://www.kumagaya-bunkazai.jp/kounanmatinoiseki/bunkazaipanf.pdf|author=江南町(熊谷市)教育委員会|title=踊る埴輪の里 江南町の文化財|publisher=江南町(熊谷市)教育委員会|format=PDF|year=2003|date=2003-03|ref=harv}}
*{{Cite news|和書|author=宮代栄一|year=2006|date=2006-04-20|title=踊る埴輪 踊ってない? 「馬曳く姿」説広がる|newspaper=[[朝日新聞]]|edition=朝刊|location=東京|page=22|publisher=[[朝日新聞社]]|ref={{SfnRef|宮代|2006}} }}
*{{Cite book|和書|last=塚田|first=良道|title=人物埴輪の文化史的研究|publisher=[[雄山閣]]|year=2007|date=2007-05-31|isbn=9784639019831|naid=500000351368|ref=harv}}
*{{Cite news|和書|author1=中村純|author2=角幡唯介|year=2006|date=2006-06-02|title=町おこしは踊れぬ? 有名埴輪、実は馬子説|newspaper=朝日新聞|edition=夕刊|location=東京|page=15|publisher=朝日新聞社|ref={{SfnRef|中村|角幡|2006}} }}
*{{Cite book|和書|last=高橋|first=克壽|title=埴輪群像の考古学|chapter=王権と埴輪生産|publisher=[[大阪府立近つ飛鳥博物館]]|pages=101-135|year=2008|date=2008-01-25|isbn=9784250208027|naid=BA84668981|ref=harv}}
*{{Cite bookjournal|和書|lastauthor=若狭|first=徹|authorlink=若狭徹禰冝田佳男|title=もっと知りたいはにわの世界-古代社会からのメッセージ-|chapter=賢問愚問 解説ラムーナー 踊る埴輪は踊らな」につ?て|journal=歴史と地理No.612 日本史の研究220|pages=23-27|publisher=[[東京美術山川出版社]]|year=20092008|date=20092008-0403-2520|isbnissn=978480870854213435957|naid=BA9004404040015966781|ref=harv{{SfnRef|禰冝田|2008}} }}
*{{Cite book|和書|author=高橋克壽|title=埴輪群像の考古学|chapter=王権と埴輪生産|publisher=[[大阪府立近つ飛鳥博物館]]|pages=101-135|year=2008|date=2008-01-25|isbn=9784250208027|ncid=BA84668981|ref={{SfnRef|高橋|2008}} }}
*{{Cite book|和書|author=塚田良道|title=人物埴輪の文化史的研究|publisher=[[雄山閣]]|year=2007|date=2007-05-31|isbn=9784639019831|naid=500000351368|ref={{SfnRef|塚田|2007}} }}
*{{Cite book|和書|author=若狭徹|authorlink=若狭徹 (考古学者)|title=もっと知りたいはにわの世界-古代社会からのメッセージ-|chapter=コラム 踊る埴輪は踊らない?|publisher=[[東京美術]]|year=2009|date=2009-04-25|isbn=9784808708542|ncid=BA90044040|ref={{SfnRef|若狭|2009}} }}
*{{Cite journal|和書|url=https://sakitama-muse.spec.ed.jp/cabinets/cabinet_files/view/261/55758e1b5a91a6e7e47af8e46b2ef8bf?frame_id=287|author=水口由紀子|year=2015|date=2015-03|title=いわゆる『踊る埴輪』の戦前の絵葉書から|naid=40020562157|ncid=AA12344352|issn=1883-7719|journal=埼玉県立史跡の博物館紀要|volume=|issue=8|pages=57-64|publisher=[[埼玉県立さきたま史跡の博物館]]|ref={{SfnRef|水口|2015}} }}
*{{Cite news|author=矢追健介|year=2019|date=2019-07-31|title=記者の目 百舌鳥・古市古墳群の名称 考古学の積み重ね生かせ|newspaper=[[毎日新聞]]|edition=朝刊|location=東京|page=10|publisher=[[毎日新聞社]]|ref={{SfnRef|矢追|2019}} }}
 
==関連項目==
{{columns-list|3|
*[[埴輪]]
*[[形象埴輪]]
92 ⟶ 180行目:
*[[土師器]]
*[[古墳時代]]
}}
 
==外部リンク==
*[https://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=J21428X 東京国立博物館名品ギャラリー]
*[http://www.kumagaya-bunkazai.jp/museum/ 熊谷市デジタルミュージアム] - 埼玉県熊谷市
**[http://www.kumagaya-bunkazai.jp/museum/frames/haniwa.htm 熊谷市デジタルミュージアム 踊る埴輪の部屋]
**[http://www.kumagaya-bunkazai.jp/museum/frames/dokusyo.htm 熊谷市デジタルミュージアム 読書室「コラム」]
**[http://www.kumagaya-bunkazai.jp/museum/frames/haniwa-sanko.htm 熊谷市デジタルミュージアム 埴輪関連参考文献]
*[https://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=J21428X 東京国立博物館名品ギャラリー]
*{{YouTube|wZqiK7GVpuE|踊る埴輪Polygon Animation 熊谷市立江南文化財センター}}
*{{YouTube|w897gIXg7BA|踊る埴輪輪切り Animation 熊谷市立江南文化財センター}}
*{{YouTube|SPby_G3hvGo|【はにわの館】踊る はにわをつくろう! 行田市産業・文化・スポーツいきいき財団}} - 「埴輪 踊る人々(小)」に倣った埴輪を作する様子を紹介する。
*{{Commonscat-inline}}
 
{{考古学}}
{{Good article}}
{{Japanese-history-stub}}
{{デフォルトソート:はにわ おとるひとひと}}
[[Category:古墳時代埴輪|おとるひとひと]]
[[Category:古墳]]
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[[Category:東京国立博物館の収蔵品]]
[[Category:熊谷市の歴史]]