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{{出典の明記|date=2020年1月}}
 
{{日本の皇室}}
'''宮家'''(みやけ)とは、[[日本]]において、'''[[宮号]]'''を賜った[[皇族]]の一家のことである。男子([[親王]]および又は[[王 (皇族)|諸王]])を祖とする、[[皇族]]のを指すことある。
 
==概要==
=== 全般 ===
宮(みや)とは、元々、[[天皇]]および皇族の邸の事を指し、転じて住んでいる皇族のことを指すに至った。
宮(みや)とは、元々、[[天皇]]および皇族の邸の事を指し、転じて(邸宅に住んでいる)[[皇族]]の尊称となった<ref>[[#荒木 1985|荒木 1985]] p.126</ref>。
 
さらに、親王の[[身位]]とともに「○○宮」との称号([[宮号]])を[[世襲]]することが認められる例が生じ、これが「宮家」と呼ばれるものであり、個別には宮号に応じて「○○宮家」と呼ばれることがある。ただし、現行法上はいずれも法的な根拠を持つものではない。また、'''宮号の授与と、宮家の創立は必ずしも同時ではない'''(例:[[賀陽宮]]家)。「○○宮」の称号は個人{{efn|name=katsura|[[宮号]]を保有するのは皇族男子(親王・又は王)が原則であるが、唯一、[[桂宮淑子内親王]]([[仁孝天皇]]第三皇女)が宮号を継承し、宮家を維持した。}}の[[称号]]であり、その家族は用いない。
 
宮家のうち、特に[[天皇]]の子や兄弟が創設した宮家を'''[[直宮家]]'''(じきみやけ)という。
 
=== 宮家の継承・創設・断絶 ===
江戸時代までは、特に定められた4つの宮家('''[[世襲親王家]]''')([[伏見宮]]、[[有栖川宮]]、[[閑院宮]]、[[桂宮]])のみが継承され、嗣子が不在の場合はほかの宮家あるいは内廷皇族(天皇の最近親)の男子が継承していた。
 
幕末になると[[伏見宮邦家親王]]の皇子達が複数の宮号を立て、1889年(明治22年)に施行された[[皇室典範 (1889年)|皇室典範]]により、[[永世皇族制]]が確立され、宮号の増減が起こるようになる。
 
{{see|旧皇族|臣籍降下}}
 
基本的に、各宮家の継嗣{{efn|基本的に第一男子だが、旧皇室典範では[[嫡出]]の男子を優先していた(→[[身位]]を参照)。}}が宮号を継承し、他の男子は新たに宮家を創設するか、あるいは[[臣籍降下]]する。
 
皇室典範では新旧ともに[[養子]]を認めていないため、宮家に嗣子が不在(男子が生まれない、あるいは早世等した場合)の場合は、他宮家の皇族への宮号継承は行えず、宮家は断絶する。嗣子がいない場合は、たとえ旧世襲親王家であっても、断絶は回避されない。また、嗣子に「不治の病」がある場合、[[廃嫡]]が行われたが(例:[[伏見宮]]家の[[邦芳王]])、宮号継承後に発病した場合は弟が健在でも、宮家存続の措置は取られなかった(例:[[山階宮]]家の[[山階宮武彦王|武彦王]])。
 
最後の宮号保有者{{efn|name=katsura}}が薨去後した後も、配偶者(未亡人)や未婚の女子等が皇族として留まっている間は、宮家としては存続する。
 
宮家に所属した最後の人物が薨去した後、1年後の命日に「一周年祭の儀」が執り行われる<ref name="kikuko1998-93">[[#高松宮妃喜久子 1998|高松宮妃喜久子 1998]] p.93</ref>。最後の人物に対する葬儀としては、これで終了する<ref name="kikuko1998-93"/>。
 
その2日後、最後の人物の御霊に通常の食事を供え、'''「権舎の儀」'''を執り行い、[[皇居]]内の[[皇霊殿]]に霊魂を移す<ref name="kikuko1998-93"/>。すなわち、最後の人物は、宮家の御霊舎には祀られない。そして、当該宮家の御霊舎で、御霊舎に残っていた御霊(過去に薨去した皇族の[[分霊]])に対し'''「神昇の儀」'''を執り行う<ref name="kikuko1998-93"/>。この儀式([[神事]])を経て、宮家は正式に'''絶家'''となる<ref name="kikuko1998-93"/>。
 
; 祭祀の継承例
さらに、親王の[[身位]]とともに「○○宮」との称号(宮号)を[[世襲]]することが認められる例が生じ、これが「宮家」と呼ばれるものであり、個別には宮号に応じて「○○宮家」と呼ばれることがある。
上述のように、旧・現皇室典範下では、宮家自体を他家の皇族が継承することはできないが、宮家の[[祭祀]]については他家の皇族が継承した例がある。
 
[[有栖川宮]]家は、1908年(明治41年)、嗣子の[[栽仁王]]が早世し絶家が確実になったのち、[[有栖川宮威仁親王]]は、[[伊藤博文]]に「有栖川宮先代ノ系統ヲ思ヘバ、先例ニ倣ヒ、皇子孫ノ入ラセラレンコトヲ希望スル他意ナシ」と認め、皇子孫による継承を強く希望した<ref>[[#威仁親王行実(下) 1926|威仁親王行実(下) 1926]] p.228</ref>。1913年(大正2年)6月、重篤となった威仁親王に、後継者問題の内諭が伝達された<ref name="kojitsuge-261">[[#威仁親王行実(下) 1926|威仁親王行実(下) 1926]] p.261</ref>。
ただし、現行法上はいずれも法的な根拠を持つものではない。
 
同年7月6日、大正天皇の第三皇子[[高松宮宣仁親王|光宮宣仁親王]]に「[[高松宮]]」の称号が与えられた<ref>大正2年宮内省告示第8号(『官報』号外、大正2年7月6日)({{国立国会図書館デジタルコレクション|2955398/18|format=NDLJP}})</ref>。高松宮は有栖川宮の旧称であり、また威仁親王の外孫[[宣仁親王妃喜久子|徳川喜久子]]と宣仁親王の婚約も内定した<ref name="kikuko1998-19">[[#高松宮妃喜久子 1998|高松宮妃喜久子 1998]] p.19</ref>。1923年(大正12年)、有栖川宮家は[[威仁親王妃慰子]]の薨去をもって断絶すると、高松宮はその葬儀で喪主を務め<ref>『官報』第3277号「宮廷録事」、大正12年7月3日({{国立国会図書館デジタルコレクション|2955400/4|format=NDLJP}})</ref>、高松宮家が有栖川宮家の祭祀を継承し、また、同家にまつわる資料を刊行した。
「○○宮」の称号は宮家の[[当主]]たる(あるいは生前当主であった)親王や王個人の[[称号]]であり、その家族は用いない。
 
祭祀の継承により、宣仁親王を実質的に有栖川宮家の後継に疑したことは、伊藤による「[[超法規的措置]]」として受け止められた<ref name="kojitsuge-230">[[#威仁親王行実(下) 1926|威仁親王行実(下) 1926]] p.230</ref>。
宮家のうち、特に[[天皇]]の子女や兄弟が創設した宮家を'''[[直宮家]]'''(じきみやけ)という。
 
この他、皇族男子が[[臣籍降下]]して断絶した宮家の祭祀を継承した例に、[[華頂博信]]([[侯爵]]、[[伏見宮博恭王]]の第3男子)や[[東伏見慈洽]]([[伯爵]]、[[久邇宮邦彦王]]の第3男子)がある。
また、当今の天皇([[今上天皇]])との血統の遠近に関わらず、代々[[親王宣下]]を受けることで[[親王]]の[[身位]]を保持し続けた宮家を'''[[世襲親王家]]'''(せしゅうしんのうけ)という。
 
== 現存する宮家 ==
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!'''宮家'''!! class="unsortable" style="text-align:right; padding-right:0px; border-right:hidden;" |名/読み!!
![[続柄]]
! [[世数]]<ref>{{efn|[[直系]][[尊属]]の[[天皇]]から数えた数</ref>}}!! colspan="2" |生年月日/年齢
! style="text-align:left;" |[[皇位継承順位|皇位継承<br />順位]]!! style="text-align:left; padding-left:1em;" |[[摂政]]<br />就任順位
|-
|rowspan="54"|[[ファイル:Japanese Crest of Akisino no miya.png|border|25x20px]] [[秋篠宮]]
| style="background-color:#B0E0E6"|[[秋篠宮文仁親王|文仁親王]]
|ふみひと
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|{{Display none|妃}}||{{生年月日と年齢|1966|9|11|no}}
|{{年数|1966|9|11}}歳|| || 
|-
| style="background-color:#FFC0CB"|[[眞子内親王]]
|まこ
|{{Display none|親等2/}}皇姪
|{{Display none|2}}二世||{{生年月日と年齢|1991|10|23|no}}
|{{年数|1991|10|23}}歳||||第{{Display none|0}}5位
|-
| style="background-color:#FFC0CB"|[[佳子内親王]]
96 ⟶ 112行目:
|{{Display none|親等2/}}皇姪
|{{Display none|2}}二世||{{生年月日と年齢|1994|12|29|no}}
|{{年数|1994|12|29}}歳||||第{{Display none|0}}65
|-
| style="background-color:#B0E0E6"|[[悠仁親王]]
136 ⟶ 152行目:
|{{Display none|親等5/}}[[続柄|皇再従妹]]
|{{Display none|3}}三世||{{生年月日と年齢|1981|12|20|no}}
|{{年数|1981|12|20}}歳|| ||第{{Display none|0}}76
|-
| style="background-color:#FFC0CB"|[[瑶子女王]]
142 ⟶ 158行目:
|{{Display none|親等5/}}皇再従妹
|{{Display none|3}}三世||{{生年月日と年齢|1983|10|25|no}}
|{{年数|1983|10|25}}歳|| ||第{{Display none|0}}87
|-
|rowspan="2"|[[ファイル:Japanese Crest of Takamado no miya.png|border|25x20px]] [[高円宮]]
155 ⟶ 171行目:
|{{Display none|親等5/}}皇再従妹
|{{Display none|3}}三世||{{生年月日と年齢|1986|3|8|no}}
|{{年数|1986|3|8}}歳|| ||第{{Display none|0}}98
|-
|}
 
== 概略歴史 ==
=== 古代~中世 ===
[[平安時代]]末期から[[鎌倉時代]]初期に掛け、皇族ゆかりの神官が特殊な舞や神事を継承した際に「宮」の名を持たせる習慣が生まれる。
 
そしてこの習慣は[[親王宣下]]の制度以降、特に皇族の慣習として顕著となり、本来その資格のない2世王以下の皇族が天皇・[[太上天皇]]の[[養子縁組]]・[[猶子]]となって代々親王宣下を受けることで[[親王]]の身位を保持し続けるようになり、後世「[[世襲親王家]]」と呼ぶようになった。これが現在の「宮家」の源流である。
 
たとえば、鎌倉時代中期に[[順徳天皇]]の皇子[[忠成王]]が'''[[岩倉宮]]'''、[[善統親王]]が'''[[四辻宮]]'''を名乗り、子孫に宮号が伝わっている。また、宮号は称していないものの、[[宮将軍|親王将軍]](宮将軍)も、[[惟康親王]]の娘が[[久明親王]]の正室となって後継者を儲けたことを考えると、初代の[[宗尊親王]]([[後嵯峨天皇]]の皇子)から最後(4代目)の[[守邦親王]]まで代々[[征夷大将軍]]の職と親王の身位を世襲した「親王将軍家」とみなすことが出来、これも「宮家」の先駆とみなす見解もある<ref>曽我部愛「〈宮家〉成立の諸前提」『中世王家の政治と構造』(同成社、2021年) ISBN 978-4-88621-879-7 P243-245.</ref>
 
本格的な世襲親王家の嚆矢とされるのが、[[室町時代]]に成立した[[亀山天皇]]の皇子[[恒明親王]]を始祖とする'''[[常盤井宮]]'''と、[[後二条天皇]]の皇子[[邦良親王]]を始祖とする'''[[木寺宮]]'''である。両親王とも、[[皇位]]を継承する可能性があったが、当時の[[持明院統]]と[[大覚寺統]]の[[両統迭立]]の情勢に翻弄され、実際には皇位に就く事がなかった。これらの親王には所領があり、子孫に代々経済的基盤として伝えられた。
 
常盤井宮、木寺宮両家は、室町時代の後期頃には断絶したと考えられるが、この2つの宮家に次いで創設され、以後、戦後の皇籍離脱まで約550年間の長きに渡って続いたのが'''[[伏見宮]]'''である。
 
さらに、[[室町時代]]には、旧[[南朝 (日本)|南朝]]の末裔である'''[[小倉宮]]、[[玉川宮]]'''のような例も見られる。いずれにしても、皇位継承争いに敗れた皇族が、皇位を確保した本家に政治的に対抗するかたちで分家を創立する、というパターンは共通する。そのときどきの天皇にとっては、むしろ不本意な事態として、世襲親王家は発足したのである。
 
しかし、[[応仁の乱]]以降は、[[朝廷 (日本)|朝廷]]の極度の衰退により、世襲親王家の創設は朝廷外部からの経済的支援がなければ不可能になり、朝廷にとってむしろ歓迎すべき事態へと変わってゆく。統一政権の成立以降に、'''[[桂宮]]、[[有栖川宮]]、[[閑院宮]]'''の3家が創設され、[[伏見宮]]とあわせて、この4つの世襲親王家を「四親王家」と呼ぶ。
 
中世の宮家の問題については、[[松薗斉|松薗斉の研究]]<ref>[httphttps://www.fletaris.agu.ac.jp/historyaiguhp/teacher01.htmlKgApp?resId=S000012 松薗 斉 (まつぞの ひとし)愛知学院大学文学部教員紹介]『中世の王家と宮家』(臨川書店、2023年7月)</ref>に詳しい。中世における宮家の成立ついて-南北朝・室町期をおける「王家(『愛知学院大学人間文化研究所紀要・人間文化』25、2010)に詳しの変容が関係深ことと、近世以降の「世襲親王家」という概念は、中世の宮の「家」には存在しないことなどを論じている。
 
=== 中世~近世:四親王家 ===
{{Main|世襲親王家#世襲親王家(四親王家)}}
{{See also|世襲親王家#世襲親王家(四親王家)}}[[伏見宮]]は、[[北朝 (日本)|北朝]]第3代[[崇光天皇]]の第一皇子、[[伏見宮栄仁親王|栄仁親王]](よしひとしんのう)が始祖である。第3代[[伏見宮貞成親王|貞成親王]](さだふさしんのう)の王子彦仁王が[[称光天皇]]の崩御後、[[正長]]元年([[1428年]])に[[後花園天皇]]となって皇位を継承した。伏見宮家の男系子孫は[[旧皇族]](旧宮家)として現在も残っている。
'''[[伏見宮]]'''は、[[北朝 (日本)|北朝]]第3代[[崇光天皇]]の第一皇子[[栄仁親王]]が始祖である。第3代[[貞成親王]](さだふさしんのう)の第一王子彦仁王が傍系にあたる[[称光天皇]]が後嗣なく崩御したことにより、[[正長]]元年([[1428年]])に第102代'''[[後花園天皇]]'''となって皇位を継承した。この後花園天皇が現在の皇室の男系の祖となっている。一方、貞成親王の第二王子[[貞常親王]](後花園天皇の弟)の男系子孫は代々伏見宮を継承し、特に第20代・23代[[邦家親王]]からは多くの子孫が宮家を創設した(いわゆる[[旧皇族|伏見宮系皇族]])。しかし敗戦を経て、[[昭和]]22年([[1947年]])に、現行の皇室典範下で臣籍降下を余儀なくされた。世襲四親王家の中では最古であり、現在の皇室並びに、以下に挙げる桂宮・有栖川宮・閑院宮は、全て伏見宮家が始祖である。
 
'''[[桂宮]]'''は、[[正親町天皇]]の第1皇子[[誠仁親王]]の第6王子[[八条宮智仁親王|智仁親王]](としひとしんのう)によって創設された。智仁親王は、[[豊臣秀吉]]の猶子であったが、[[天正]]17年([[1589年]])に秀吉に実子[[豊臣鶴松|鶴松]]が生まれたために縁組が解消された。秀吉の奏請により、智仁親王に所領が与えられ「八条宮」の宮号を賜ったのが始まりである。以後、常盤井宮」「京極宮そして「桂宮と改称し、[[明治]]14年([[1881年]])の第12代当主[[桂宮淑子内親王|淑子内親王]]{{efn|name=katsura}}薨去まで存続した。
 
'''[[有栖川宮]]'''は、[[寛永]]2年([[1625年]])[[後陽成天皇]]の第7皇子[[高松宮好仁親王|好仁親王]](よしひとしんのう)によって創設された。初めは高松宮と称した。好仁親王には後嗣が無く、[[後水尾天皇]]の第6皇子で親王の甥に当たる良仁親王(ながひとしんのう)が第2代を継承し、花町宮または、桃園宮と称した。ところが、[[承応]]3年([[1654年]])兄の[[後光明天皇]]が没したため、良仁親王は第111代'''[[後西天皇]]'''として皇位を継承した。宮家は後西天皇の第2皇子[[有栖川宮幸仁親王|幸仁親王]]が継承し有栖川宮と改称された。1913年(大正2年)6月、[[有栖川宮威仁親王]]が薨去し断絶した。
 
'''[[閑院宮]]'''は、皇統の断絶を危惧した[[新井白石]]の建言で創設された。[[東山天皇]]の第6皇子であり[[中御門天皇]]の傍系(弟)にあたる[[閑院宮直仁親王|直仁親王]](なおひとしんのう)が、幕府から1000石の所領を献上され、[[享保]]3年([[1718年]])祖父の[[霊元天皇|霊元法皇]]から「閑院宮」の宮号を賜った。新井白石の危惧は現実のものとなり、中御門天皇の曾孫にあたる[[後桃園天皇]]が[[安永 (元号)|安永]]8年([[1779年]])に後嗣なく崩御した事により、第2代[[閑院宮典仁親王|典仁親王]]の第六王子祐宮が第111代'''[[光格天]]'''として皇位儲けないまま[[崩御]]継承した[[{{efn|後桃園天皇]]には唯一跡を継ぎ、皇女として[[安永 (元号)|安永欣子内親王]]8年([[1779年]])[[がおり傍系にあたる光格天皇の中宮となり、[[温仁親王]]・悦仁親王をもうけるがどちらも後嗣く薨去。中御門天皇からの皇統は女系も含めて断絶した。}}。先帝の傍系にあたる宮家から皇位を継承したのは光格天皇が最後であり、光格天皇の[[仁孝天皇]]以後現在、そ男子([[皇太子]])が次代天皇家の系統即位し、現在の皇室まで連なっている。
 
一方で宮家としては、典仁親王第一王子[[閑院宮美仁親王|美仁親王]](光格天皇の兄)が第3代として継承するが、その孫の第5代[[閑院宮愛仁親王|愛仁親王]]が子孫なく薨去した為、一度途絶える。その後[[明治時代]]になって、伏見宮邦家親王の王子[[載仁親王]]が第6代として継承するも、その子である第7代[[春仁王]]に再び子孫なく、臣籍降下後の[[昭和]]63年([[1988年]])に死去した事で絶家した。
以上、宮家出身の皇族が皇統を継いだのは3例である。
=== 明治以降~大正・昭和・平成 ===
[[幕末]]から[[明治|明治時代]]にかけては新しい宮家が続々と新設され、それまで[[出家]]していた皇族<ref>[[法親王]]、[[入道親王]]、[[門跡#宮門跡(親王門跡)|宮門跡]] 参照のこと</ref>が[[還俗]]して天皇の藩屏としての役割を担うことになった。
 
以上、宮家出身の皇族が皇統を継いだのは、3例である。
まず、文久3年([[1863年]])に中川宮(のちに賀陽宮を経て[[久邇宮]]に改称)、元治元年([[1864年]])に[[山階宮]]、以後明治3年([[1870年]])までに[[梨本宮]]、聖護院宮、[[北白川宮]]、[[華頂宮]]、東伏見宮(明治15年に[[小松宮]]に改称)の各宮家が設立された。
# 第102代[[後花園天皇]]:[[伏見宮貞成親王]]の第1[[皇子]]。
# 第111代[[後西天皇]]:[[有栖川宮]]第2代当主。
# 第119代[[光格天皇]]:[[閑院宮典仁親王]]の第6王子。
 
=== 近現代 ===
明治22年([[1889年]])、[[皇室典範 (1889年)|旧皇室典範]]の制定によって[[永世皇族制]]が定められた。これにより、皇族の[[家格]]は廃止される。旧皇室典範の制定後、明治33年([[1900年]])には[[賀陽宮]]、明治36年([[1903年]])には[[東伏見宮]]、明治39年([[1906年]])には[[竹田宮]]、[[朝香宮]]、[[東久邇宮]]の3宮家が設立された。
{{seealso|永世皇族制}}
[[幕末]]から[[明治|明治時代]]にかけては新しい宮家が続々と新設され、それまで[[出家]]していた皇族{{efn|[[法親王]]、[[入道親王]]、[[門跡#宮門跡(親王門跡)|宮門跡]]を参照。}}が[[還俗]]して天皇の藩屏としての役割を担うことになった。
 
まず、文久3年([[1863年]])に中川宮(のちに賀陽宮を経て'''[[久邇宮]]'''に改称)、元治元年([[1864年]])に'''[[山階宮]]'''、以後明治3年([[1870年]])までに'''[[梨本宮]]'''、聖護院宮(改称し'''[[北白川宮]]''')、'''[[華頂宮]]'''、'''[[東伏見宮]]'''(改称し[[小松宮]])の各宮家が設立された。
その後、[[大正天皇]]の3皇子のうち、大正2年([[1913年]])に[[高松宮宣仁親王|宣仁親王]]が断絶した[[有栖川宮]]の祭祀を継承するために8歳の時に[[高松宮]]の宮号を賜り宮家を創立した。また、20歳で独立したのを機に、大正11年([[1922年]])に[[秩父宮雍仁親王|雍仁親王]]が[[秩父宮]]の宮号を、昭和10年([[1935年]])に[[三笠宮崇仁親王|崇仁親王]]が[[三笠宮]]の宮号を賜り、それぞれ宮家を創設した。
 
明治22年([[1889年]])、[[皇室典範 (1889年)|皇室典範]](いわゆる旧皇室典範)の制定によって[[永世皇族制]]が確立された。これにより、皇族の[[家格]]は廃止される。皇室典範の制定後、明治33年([[1900年]])には'''[[賀陽宮]]'''が諸王家に列せられ{{efn|[[賀陽宮邦憲王|邦憲王]]への[[宮号]]の授与自体は、[[1892年]](明治25年)[[12月17日]]。<ref>『官報』第2843号「宮廷録事」、明治25年12月17日({{国立国会図書館デジタルコレクション|2946108/2|format=NDLJP}})</ref>}}、明治36年([[1903年]])には[[東伏見宮]]、明治39年([[1906年]])には'''[[竹田宮]]、[[朝香宮]]、[[東久邇宮]]'''の3宮家が設立された。竹田・朝香・東久邇の各宮家は、いずれも[[明治天皇]]皇女を妃に迎えている。
旧皇室典範は当初は永世皇族主義を本則として採用する一方、明治40年([[1907年]])に公布された皇室典範増補は、王が勅旨または情願により[[華族]]に列せられるべきことを定めていた。さらに大正9年([[1920年]])には「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」が制定され、この準則が制定されてから旧皇室典範が廃止されるまで宮号を有しない又は継承しない王のうち、12人が華族に列せられている。
 
その後、[[大正天皇]]の3皇子のうち、大正2年([[1913年]])に[[高松宮宣仁親王|宣仁親王]]が断絶した[[有栖川宮]]の祭祀を継承するために8歳の時に'''[[高松宮]]'''の宮号を賜り宮家を創立した。また、20歳で独立したのを機に、大正11年([[1922年]])に[[秩父宮雍仁親王|雍仁親王]]が'''[[秩父宮]]'''の宮号を、昭和10年([[1935年]])に[[三笠宮崇仁親王|崇仁親王]]が'''[[三笠宮]]'''の宮号を賜り、それぞれ宮家を創設した。
[[第二次世界大戦]][[日本の降伏|敗戦]]後には[[連合国軍占領下の日本|占領下]]での[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)の指令に基づいて、[[皇室財産]]の国有化、皇族の財産に関する特権の停止などが決定され、敗戦後の窮乏した国家財政では従前の規模の皇室を維持できなくなったことから、秩父宮、高松宮、三笠宮の三[[直宮家]]([[大正天皇]]所生)を除く11宮家51人が皇族の身分を離れることとなった。現在の[[皇室典範]]は昭和22年([[1947年]])[[5月3日]]に施行され([[日本国憲法]]施行と同日)、同年[[10月14日]]に11宮家の[[臣籍降下|皇籍離脱]]となった([[旧皇族]]も参照)。
 
旧皇室典範は当初は[[永世皇族制]]を本則として採用する一方、明治40年([[1907年]])に公布された皇室典範増補は、王が勅旨または情願により[[華族]]に列せられるべきことを定めていた。さらに大正9年([[1920年]])には「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」が制定され、天皇から5~8世王は請願の有無を問わず賜姓降下することとされた。以降、12人が降下し、華族(次男は侯爵、三男は侯爵又は伯爵、四男・五男は伯爵)に列せられている。
宮家創設は、当主を引き継ぐ最年長の男子以外の男子が結婚や独立するのを機に行われてきた<ref>[http://www.kunaicho.go.jp/about/ 宮内庁Webサイト 皇室]</ref>。
 
[[第二次世界大戦]][[日本の降伏|敗戦]]後には[[連合国軍占領下の日本|占領下]]での[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)の指令に基づいて、[[皇室財産]]の国有化、皇族の財産に関する特権の停止などが決定され、敗戦後の窮乏した国家財政では従前の規模の皇室を維持できなくなったことから、秩父宮、高松宮、三笠宮の三[[直宮家]]([[大正天皇]]所生)を除く11宮家51人が皇族の身分を離れることとなった。
== 現在かかえている問題 ==
 
現在の[[皇室典範]]は昭和22年([[1947年]])[[5月3日]]に施行され([[日本国憲法]]施行と同日)、同年[[10月14日]]に11宮家51名(いわゆる[[旧皇族]]・伏見宮系皇族)が、形式上は自発的な意思によって[[臣籍降下]](いわゆる皇籍離脱)した。
 
現代では、宮家創設は、当主を引き継ぐ最年長の男子以外の男子が結婚や独立を機に行われてきた<ref>[https://www.kunaicho.go.jp/about/ 宮内庁Webサイト 皇室]</ref>。昭和39年(1964年)に'''[[常陸宮]]'''、昭和59年(1984年)に'''[[高円宮]]'''、昭和63年(1988年)に'''[[桂宮]]'''の、各宮家が創設されたが、いずれも嗣子がいない。そして、1990年(平成2年)に'''[[秋篠宮]]'''家が創設された。
 
== 現在抱えている問題 ==
{{See also|皇位継承問題}}
平成18年([[2006年]])に秋篠宮文仁親王に[[悠仁親王]]が誕生した。それ以外の宮家(常陸・三笠・高円)については、昭和29年([[1954年]])の[[高円宮憲仁親王]]以来、宮家を継承する、あるいは新たに宮家を創設することができる皇族男子は誕生していない。よってこの3宮家は、現在の規定では、将来の絶家が確実である。
 
[[旧皇族|伏見宮系皇族]](旧皇族)が皇籍を離脱した昭和22年([[1947年]])10月以降、宮号保持者の子女に宮家を継承できる男子(若宮)が存在したのは以下の2例しかない。
平成18年([[2006年]])に秋篠宮文仁親王に[[悠仁親王]]が誕生したが、それ以外の宮家については、昭和29年([[1954年]])の[[高円宮憲仁親王]]以来、宮家を継承する、あるいは新たに宮家を創設することができる皇統に属する男系の皇族男子は誕生していない。[[旧皇族]]が皇籍を離脱した昭和22年([[1947年]])以降、宮家当主の子女に宮家を継承できる男子(若宮)が存在した例は、平成24年([[2012年]])に[[薨去]]した[[寬仁親王]](三笠若宮)及び現在若宮である[[悠仁親王]](秋篠若宮)の2例しかなく、このうち寛仁親王は、父の[[三笠宮崇仁親王]]よりも先に[[薨去]]したため、令和2年([[2020年]])現在、若宮が宮家当主から当主の地位を継承した例は[[旧皇族]]の皇籍離脱以降1例もない。一方、平成14年([[2002年]])に高円宮憲仁親王が、平成24年([[2012年]])に[[寬仁親王]]が、平成26年([[2014年]])に[[桂宮宜仁親王]]が男子を残さず薨去し、平成28年([[2016年]])には前述の3人の親王の父の[[三笠宮崇仁親王]]が薨去したため、平成時代には男子皇族の人数は減少した。現在の[[皇室典範]]では第9条で「天皇及び皇族は、養子をすることができない。」とされており、第12条で「皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる。」とされている。
#三笠若宮:[[寬仁親王]](平成24年([[2012年]])に[[薨去]])
#秋篠若宮:[[悠仁親王]]
このうち寛仁親王は、父の[[三笠宮崇仁親王]]よりも先に[[薨去]]したため、宮号が次代に継承された例は、1例もない。
 
皇族男子の著しい減少による皇位継承問題と共に、宮家の存続も危機的な状況である。
令和元年([[2019年]])5月1日に皇太子[[徳仁]]親王が第126代天皇に即位したが、この時点で皇位継承権を有する男子皇族は秋篠宮文仁親王、その長男たる悠仁親王と[[常陸宮正仁親王]]の3人になっており、秋篠宮を除けばいずれの宮家も近い将来に断絶してしまうことになり([[徳仁|今上天皇]]も即位までに男子が誕生していない)、皇室全体の活動や安定的な皇位継承に影響する可能性が指摘されており、宮家の存続をめぐり様々な意見がある。例えば「既存の宮家の後継者としていわゆる[[旧皇族]]の男系子孫から養子(第1内親王・女王の婿等)を迎える」・「旧皇族を復籍させる」・「[[内親王]]・[[女王_(皇族)|女王]]が民間出身の男性と結婚しても皇族のままでいるように認める([[女性宮家]])」などさまざまな意見はあるが結論は出ておらず、またこれらを実現させるにはいずれも皇室典範の改正または特別な法律(特例法・特別法)の制定が必要である。
 
== その他 ==
=== 皇室における「宮」 ===
{{main|宮号|御称号}}
 
=== 名字 ===
法的に名字に「宮(ノミヤ)」を付してはならないという定めはなく、現代でも、特異な神事や舞を継承成し得た神官([[神職]]者)に対し「宮(ノミヤ)」を付した全く異なる名字とする習慣が残っているが、それは[[宮号]]ではなく、[[皇族]]に関係するという定義に於ける現代で云われているところの「宮家」とは一切関係がない。但し特異な神事や舞は、皇族ゆかりの作法や古き神道の作法であることから、[[神道]]内では宮家という単語を「連なる者・継承する者」の意味で使うこともある。
 
なお[[神職者]]が[[襲名]]や改名に於いて「宮(ノミヤ)」を付すことについて[[神社庁]]は禁止してはおらず、[[平成]]期にあっても[[家庭裁判所]]の許可は問題なくおりている([[神道]]関係者以外の者で「宮(ノミヤ)」を付す許可を得た者は、[[終戦]]以降一人もいない)。
 
== 参考文献 ==
== 御称号としての「宮」 ==
*{{Cite book|和書|author= 威仁親王行実編纂会|title= 威仁親王行実|volume = 下|publisher = 威仁親王行実編纂会|date=1926|id={{全国書誌番号|43052156}}|ref =威仁親王行実(下) 1926}}
{{main|御称号}}
**{{国立国会図書館デジタルコレクション|1876691|威仁親王行実(下)|format=EXTERNAL}}
家名の「宮」とは別に日本の皇族の幼少時に与えられる呼び名。現在は[[天皇]]または[[皇太子#日本の皇太子|皇太子]]の子女にのみ与えられる。
* {{Cite book |和書 |author=荒木敏夫|authorlink=荒木敏夫 |title=日本古代の皇太子|publisher=[[吉川弘文館]] |series=[[古代史研究選書]]|date=1985-10|isbn=978-4642021586|ref=荒木 1985}}
* {{Cite book|和書|author=高松宮妃喜久子|authorlink=宣仁親王妃喜久子|year=1998|month=11|title=菊と葵のものがたり|publisher=[[中央公論社]]|isbn=978-4120028397|ref=高松宮妃喜久子 1998}}
** {{Cite book|和書|author=高松宮妃喜久子|authorlink=宣仁親王妃喜久子|year=2002|month=1|title=菊と葵のものがたり|publisher=[[中央公論社]]|series=中公文庫|isbn=978-4122039599|ref=高松宮妃喜久子 2002}}
 
== 脚注 ==
* [[上皇明仁|上皇]] - 継宮(つぐのみや)
{{脚注ヘルプ}}
* [[徳仁|今上天皇]] - 浩宮(ひろのみや)
=== 注釈 ===
* [[秋篠宮文仁親王]] - 礼宮(あやのみや)
{{Notelist}}
* [[愛子内親王]] - 敬宮(としのみや)
=== 出典 ===
* [[常陸宮正仁親王]] - 義宮(よしのみや)
{{Reflist|2}}
 
== 脚注・参照 ==
{{Reflist}}
 
== 関連項目 ==
{{Commonscat|miyake}}
{{Wiktionary|宮家}}
*[[宮家一覧]]
*[[直宮家]]
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*[[親王宣下]]
*[[世襲親王家]]
*[[女性宮家]] - [[桂宮淑子内親王]](女性で唯一の宮号保持者)
*[[皇族]]
*[[旧皇族]]
*[[臣籍降下]]
*[[皇別]]
*[[皇別摂家]]
*[[皇位継承問題]]
*[[女性宮家]]
 
== 外部リンク ==
{{Wiktionary|宮家}}
*{{Wayback|url=http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/ssk.html |title=『日本の親王・諸王』 |date=20041117153026}}
*[https://miyake.yaekumo.com/index.html 旧宮家旧皇族写真館]
 
{{宮家一覧}}