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ポツダム宣言と領土問題について、日本政府の見解を追記
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[[ファイル:President Truman announces Japan's surrender.jpg|thumb|250px|1945年[[8月14日]]、[[ホワイトハウス]]にて日本のポツダム宣言受諾を発表する[[ハリー・S・トルーマン]]米国大統領]]'''ポツダム宣言'''(ポツダムせんげん、{{lang-en-short|Potsdam Declaration}})は、[[1945年]]([[昭和]]20年)[[7月26日]]に[[イギリス帝国|イギリス]]、 [[アメリカ合衆国]]、[[中華民国の歴史 (1912年-1949年)|中華民国]]の政府首脳の連名において[[日本]]に対して発された全13か条で構成される宣言。正式名称は、'''日本への降伏要求の最終宣言'''(にほんへのこうふくようきゅうのさいしゅうせんげん、{{lang|en|Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender}})。宣言を発した各国の名をとって「'''米英支三国宣言'''(べいえいしさんごくせんげん)」<ref>下記邦訳、および下記外部リンク「ポツダム宣言 - 国立国会図書館」参照</ref>ともいう<ref group="注釈">大東亜戦争終結ノ詔書([[玉音放送]]の原文)では「米英中蘇」となっている。複数国による宣言や協定や条約の場合、その宣言や協定や条約に参加したからといって宣言中で定められる権利等の全てが宣言、協定、条約国全てに等しく与えられるとは限らない。権利や義務は宣言中で具体的に明示された事項について具体的に明示された参加者にのみ与えられたり負わされる。宣言参加者には宣言内で定められる事項について遵守義務が発生する</ref>。[[ソビエト連邦]]は、後から加わり追認した。そして、日本政府は[[1945年]][[8月14日]]にこの宣言を受諾し、[[9月2日]]に[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]への[[日本の降伏文書|降伏文書]]調印・即時発効に至って[[第二次世界大戦]]・[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])は終結した([[日本の降伏]])
[[ファイル:President Truman announces Japan's surrender.jpg|thumb|250px|1945年[[8月14日]]、[[ホワイトハウス]]にて日本のポツダム宣言受諾を発表する[[ハリー・S・トルーマン]]米国大統領]]
'''ポツダム宣言'''(ポツダムせんげん、{{lang-en-short|Potsdam Declaration}})は、[[1945年]]([[昭和]]20年)[[7月26日]]に[[イギリス帝国|イギリス]]、 [[アメリカ合衆国]]、[[中華民国の歴史|中華民国]]の政府首脳の連名において[[日本]]に対して発された全13か条で構成される宣言。正式名称は、'''日本への降伏要求の最終宣言'''(にほんへのこうふくようきゅうのさいしゅうせんげん、{{lang|en|Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender}})。宣言を発した各国の名をとって「'''米英支三国宣言'''(べいえいしさんごくせんげん)」<ref>下記邦訳、および下記外部リンク「ポツダム宣言 - 国立国会図書館」参照</ref>ともいう<ref group="注釈">大東亜戦争終結ノ詔書([[玉音放送]]の原文)では「米英中蘇」となっている。複数国による宣言や協定や条約の場合、その宣言や協定や条約に参加したからといって宣言中で定められる権利等の全てが宣言、協定、条約国全てに等しく与えられるとは限らない。権利や義務は宣言中で具体的に明示された事項について具体的に明示された参加者にのみ与えられたり負わされる。宣言参加者には宣言内で定められる事項について遵守義務が発生する</ref>。[[ソビエト連邦]]は、後から加わり追認した。
 
日本政府は[[1945年]][[8月14日]]にこの宣言を受諾し、[[9月2日]]に[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]への[[日本の降伏文書|降伏文書]]調印・即時発効に至って[[第二次世界大戦]]・[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])は終結した([[日本の降伏]])。
 
== 概要 ==
[[ナチス・ドイツ]]降伏後の[[1945年]](昭和20年)[[7月17日]]から[[8月2日]]にかけ、[[ベルリン]]郊外[[ポツダム]]において、英国、米国、ソ連の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]主要3カ国の首脳([[イギリスの首相]][[ウィンストン・チャーチル]]および[[クレメント・アトリー]]<ref group="注釈">[[1945年イギリス総選挙|総選挙]]での[[政権交代]]に伴う首相交代による。[[保守党 (イギリス)|保守党]]党首チャーチルは[[7月26日]]まで。[[労働党 (イギリス)|労働党]]党首アトリーは[[7月27日|27日]]以降(ただ、前半も次席として参加)。</ref>、[[アメリカ合衆国大統領]][[ハリー・S・トルーマン]]、[[ソビエト連邦共産党]][[書記長]][[ヨシフ・スターリン]])が集まり、第二次世界大戦の戦後処理について討議された([[ポツダム会談]])。
 
ポツダム宣言は、この会談の期間中、イギリスのチャーチル首相と中華民国の[[蔣介石]][[国民政府]][[国民政府主席|主席]]およびアメリカのトルーマン大統領の3首脳連名で日本に対して発せられた降伏勧告である。事後報告を受けたソ連のスターリン共産党書記長は署名していない。
 
[[1945年]](昭和20年)[[8月14日]]、日本政府は本宣言の受諾を駐[[スイス]]および[[スウェーデン]]の日本公使館経由で連合国側に通告、この事は翌[[8月15日]]に国民に[[ラジオ]]放送を通じて発表された([[玉音放送]])。[[9月2日]]、東京湾内に停泊する戦艦[[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ]]甲板で日本政府全権の[[重光葵]]と[[大本営]](日本軍)全権の[[梅津美治郎]]および連合各国代表が、宣言の条項の誠実な履行等を定めた[[日本の降伏文書|降伏文書]](休戦協定)に調印した。これにより、宣言は初めて外交文書として固定された。
 
== 内容 ==
===英文===
原文である。
 
ウィキソース「[[:s:en:Potsdam Declaration]]」または下部[[#外部リンク]]参照
 
===日本語文語訳===
ウィキソース「[[:s:ポツダム宣言]]」または下部[[#外部リンク]]参照
 
=== 日本語口語訳 ===
{{Notice|この口語訳は、Wikipedia編集者によりなされたものです。利用の際はご注意ください。}}
 
{{Squote|
'''ポツダム宣言'''
 
'''[[アメリカ合衆国|合衆国]]、[[中華民国 (1912年-1949年)|中国]]及び[[イギリス|連合王国]]首脳の承認による[[日本の降伏]]のための定義及び規約'''
 
'''[[1945年]][[7月26日]]、[[ポツダム]]にて'''
 
{{0}}1. 我々[[ハリー・S・トルーマン|合衆国大統領]]、[[蔣介石|中華民国政府主席]]、及び[[ウィンストン・チャーチル|英国総理大臣]]は、我々の数億の国民を代表し協議の上、[[大日本帝国|日本国]]に対し[[太平洋戦争|戦争]]を終結する機会を与えることで一致した。
 
{{0}}2. 3ヶ国の[[軍隊]]は増強を受け、日本に最後の打撃を加える用意を既に整えた。この[[軍事力]]は、日本国の抵抗が止まるまで、同国に対する戦争を遂行する一切の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の決意により支持され且つ鼓舞される。
 
{{0}}3. 世界の[[自由主義|自由]]な人民に支持されたこの軍事力行使は、[[ナチス・ドイツ]]に対して適用された場合に[[ドイツ国|ドイツ]]と[[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]に[[欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)#ドイツの降伏|完全に破壊をもたらした]]ことが示すように、日本と[[日本軍]]が完全に壊滅することを意味する。
 
{{0}}4. 日本が、無分別な打算により自国を滅亡の淵に追い詰めた[[軍国主義]]者の指導を引き続き受けるか、それとも理性の道を歩むかを選択すべき時が到来したのだ。
 
{{0}}5. 我々の条件は以下の条文で示す通りであり、これについては譲歩せず、我々がここから外れることも又ない。執行の遅延は認めない。
 
{{0}}6. [[日本国民]]を欺いて、[[世界征服]]に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、[[平和]]と[[安全]]と[[正義]]の新秩序も現れ得ないからである。
 
{{0}}7. 第6条の新秩序が確立され、日本国の戦争遂行能力が破砕されたことの確証があるに至るまで、[[連合国軍占領下の日本|連合国は日本国領域内の諸地点を占領]]するであろう。
 
{{0}}8. [[カイロ宣言]]の条項は履行されなければならず、又日本国の主権は[[本州]]、[[北海道]]、[[九州]]及び[[四国]]並びに我々の決定する諸小島に限定されることになる。
 
{{0}}9. [[日本軍]]は[[武装解除]]された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る機会を与えられる。
 
10. 我々の意志は[[日本人]]を民族として[[奴隷]]化し、また[[ジェノサイド|日本国民を滅亡]]させようとするものではないが、日本における[[捕虜]]虐待を含む一切の[[日本の戦争犯罪|戦争犯罪人]]は[[極東国際軍事裁判|処罰される]]であろう。日本政府は日本国国民における[[大正デモクラシー|民主主義的傾向]]の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除されるし、[[言論の自由|言論]]、[[信教の自由|宗教]]及び[[思想の自由]]並びに基本的[[人権]]の尊重は確立されるであろう。
 
1945年8月10日(金)午前2時過ぎ、[[天皇]]の国法上の地位存続のみを条件とする外務大臣案(原案)を[[昭和天皇]]が採用し、ポツダム宣言を受諾した<ref>{{Cite journal|date=1942-05-01|title=自 昭和16年4月 至 昭和17年3月|url=http://dx.doi.org/10.1253/circdj.8.2_app2|journal=The Nippon Journal of Clinical Angio-Cardiology|volume=8|issue=2|pages=App2|doi=10.1253/circdj.8.2_app2|issn=2433-0663}}</ref>。
11. 日本は経済復興し、課された賠償の義務を履行するための生産手段、[[戦争]]と[[再軍備]]に関わらないものが保有出来る。また、将来的には国際[[貿易]]に復帰が許可される。
 
[[1945年]](昭和20年)[[8月14日]]、日本政府は本宣言の受諾を駐[[スイス]]および[[スウェーデン]]の日本公使館経由で連合国側に通告<ref>{{Cite news|和書 |title=戦争終結の大詔渙発さる/新爆弾の惨害に大御心 帝国、4国宣言を受諾 畏し、万世の為太平を開く |newspaper=東京朝日新聞 |date=昭和20年(1945)8月15日 |edition=朝刊1頁}}</ref>、この事は翌[[8月15日]]に国民に[[ラジオ]]放送を通じて発表された([[玉音放送]])<ref>{{Cite news|和書 |title=けふ正午に重大放送 國民必ず嚴肅に聽取せよ |newspaper=東京朝日新聞 |date=昭和20(1945)年8月15日 |edition=号外}}</ref>。[[9月2日]]、東京湾内に停泊する戦艦[[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ]]甲板で日本政府全権の[[重光葵]]と[[大本営]](日本軍)全権の[[梅津美治郎]]および連合各国代表が、宣言の条項の誠実な履行等を定めた[[日本の降伏文書|降伏文書]](休戦協定)に調印した。これにより、宣言は初めて外交文書として固定された。
12. 日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある[[政府]]の樹立を求める。この項目並びにすでに記載した条件が達成された場合に、[[連合国軍最高司令官総司令部|占領軍]]は撤退するであろう。
 
'''==ポツダム宣言'''の内容==
13. 我々は[[日本国政府|日本政府]]が全[[日本軍]]の即時[[無条件降伏]]を宣言し、またその行動について日本政府が十分に保障することを求める。右以外の日本国の選択肢は、迅速且つ完全なる[[壊滅]]があるのみである。
{{Wikisource|en:Potsdam_Declaration|ポツダム宣言|英語原文}}
{{Wikisource|ポツダム宣言|ポツダム宣言|日本語訳文}}
=== ポツダム宣言受諾詔書の内容 ===
{{main|玉音放送#全文}}
{{Multiple image
|align=center
|header = 詔書原本
|image4 = Imperial Rescript on the Termination of the War1.jpg
|image3 = Imperial Rescript on the Termination of the War2.jpg
|image2 = Imperial Rescript on the Termination of the War3.jpg
|image1 = Imperial Rescript on the Termination of the War4.jpg
|caption4 = 1頁目
|caption3 = 2・3頁目
|caption2 = 4・5頁目
|caption1 = 6・7頁目
|width4 = 119
}}
 
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{{単一の出典|section=1|date=2014-08}}
=== 背景 ===
1943年1月の[[カサブランカ会談]]において、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]は[[枢軸国]]の[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]、[[イタリア王国|イタリア]]、[[大日本帝国|日本]]に対し、[[無条件降伏]]を要求する姿勢を明確化した。この方針はアメリカの[[フランクリン・ルーズベルト]]大統領の意向が強く働いたものであり{{sfn|山下祐志|1995|pp=11}}、11月17日の[[カイロ宣言]]においてもこの姿勢は確認された。ソ連の最高指導者[[ヨシフ・スターリン]]やイギリスの[[ウィンストン・チャーチル]]首相は条件を明確化したほうが良いと考えていたが、結局ルーズベルトの主張が通った{{sfn|山下祐志|1995|pp=11}}。政府内のグループには「[[天皇制]]維持などの条件を提示したほうが、早期に[[太平洋戦争|対日戦]]が終結する」という提案を行う者も存在したが、大きな動きにはならなかった{{sfn|山下祐志|1995|pp=14}}。ルーズベルト大統領が閣僚たちに相談もせずに突然決めたこの方針は、敵国の徹底抗戦を招き、無用に戦争を長引かせるとして、陸海軍の幹部はもとより、[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]の[[コーデル・ハル]]も反対したが、ルーズベルトは死去するまでこの方針に固執した<ref>[[有馬哲夫]]『歴史問題の正解』新潮新書2016年、pp.87-88, pp.99-100</ref>。
 
この方針は、表明されてから8ヶ月後に早くも破綻した。[[1943年]]9月にイタリアが[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]に和平を打診してきたとき、連合国側は無条件降伏を突きつけなかった。これまでと同じく、[[休戦協定]]によって戦闘が停止したのち、立場の強い側が弱い側に、自分に有利な終戦協定を押しつけるという従来の形で終戦がもたらされた。敗北した側が条件にこだわるのは当然であったが、ルーズベルトはあくまで勝者の論理で、漠然としか考えていなかった<ref>[[有馬哲夫]]『歴史問題の正解』新潮新書2016年、pp.101-104</ref>。
 
1945年2月の[[ヤルタ会談]]においてはルーズベルトが既に病身であったために強い姿勢に出られず、[[樺太|樺太]]、[[千島列島]]、[[満]]における権益などの代償を提示してソ連に対して[[ソ連対日参戦|対日戦への参加]]を要請した。4月12日にルーズベルトが死去し、副大統領に就任してわずか3か月であった[[ハリー・S・トルーマン]]が急遽大統領となった。トルーマンは[[外交]]分野の経験は皆無であり、また外交は主にルーズベルトが取り仕切っていたため、[[アメリカ合衆国の外交政策|アメリカの外交政策]]は事実上白紙に戻った上で開始されることとなった{{sfn|山下祐志|1995|pp=13}}。トルーマン大統領は就任後、4月16日の[[アメリカ合衆国議会|アメリカ議会]]上下両院合同会議で、前大統領の無条件降伏方針を受け継ぐと宣言し、4月22日、日本とドイツに無条件降伏を求める方針に変わりはないことをソ連の[[ヴャチェスラフ・モロトフ]]外相に伝えたが、彼もまた、それをどう規定するのかはっきり考えてなかった<ref>有馬哲夫『歴史問題の正解』新潮新書2016年、p.104</ref>。
 
5月7日に[[ナチス・ドイツ]]が無条件降伏して崩壊した後、できる限り早期に対日戦争を終結させる必要に迫られ、トルーマン大統領は日本に降伏を呼びかけるために、無条件降伏を定義する必要に迫られた。そこで彼は5月8日、[[戦争情報局]]が用意し、大統領[[軍事顧問]][[ウィリアム・リーヒ]]が賛同した、次のような無条件降伏の定義と和平の呼びかけを、[[日本]]に対して発表した。「我々の攻撃は日本の陸軍と海軍が無条件降伏して武器を置くまでやむことはないだろう。日本国民にとって無条件降伏とは何を意味するのか。それは戦争が終わることを意味する。日本を現在の災厄へ導いた軍事的指導者の影響力が除去されることを意味する。無条件降伏とは日本国民の絶滅や奴隷化を意味するのではない。」またアメリカ政府による日本に降伏を求める、[[アメリカ海軍情報局]]から戦争情報局に出向していた[[エリス・M・ザカライアス]]海軍大佐の「[[ザカライアス放送]]」が8月4日までに14回行われている{{sfn|山下祐志|1995|pp=14}}<ref>有馬哲夫『歴史問題の正解』新潮新書2016年、pp.104-105</ref>。もともとアメリカ軍の幹部は、無条件降伏が政治的スローガンにすぎず、早期和平の妨げになると思っていたので、無条件降伏とは軍事に限定されるのであって、政治的なものではないことを明らかにすることによって、日本に受け入れられやすいものにしようとした<ref>[[有馬哲夫]]『歴史問題の正解』新潮新書2016年、pp.105-106</ref>。しかし日本政府は5月9日に徹底抗戦を改めて表明するなど、これを受け入れる姿勢をとらなかった{{sfn|山下祐志|1995|pp=14}}。
 
=== 降伏勧告路線の本格化 ===
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[[7月27日]]、日本政府は宣言の存在を論評なしに公表した。ところが翌28日の新聞報道では、[[讀賣報知]]([[読売新聞]])で「笑止、対日降伏条件」、[[毎日新聞]]で「笑止! 米英蔣<ref group="注釈">[[蔣介石]]のこと。当時日本は南京の[[汪兆銘政権]]を承認していたため</ref>共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戦飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」などという新聞社による論評が加えられていた。また、陸軍からは「政府が宣言を無視することを公式に表明するべきである」という強硬な要求が行われ{{sfn|山下祐志|1998|pp=2}}、同日、[[鈴木貫太郎]]首相は記者会見で「共同声明は[[カイロ会談]]の焼直しと思う、政府としては重大な価値あるものとは認めず「'''黙殺'''」し断固戦争完遂に邁進する」(毎日新聞、[[1945年]](昭和20年)[[7月29日]])と述べ(記事見出しは全て[[現代仮名遣い]]に修正)、翌日[[朝日新聞]]で「政府は黙殺」などと報道された。この「'''黙殺'''([[w:Mokusatsu|Mokusatsu]])」は日本の国家代表通信社である[[同盟通信社]]では「ignore(無視)」と[[英語]]に[[翻訳]]され、また[[ロイター]]と[[AP通信]]では「reject(拒否)」と訳され報道された。東郷は「鈴木の発言が閣議決定違反である」と抗議している{{sfn|山下祐志|1998|pp=2}}。なお、[[ラジオ・トウキョウ]]がどのように応えたかは確認されていない。
 
トルーマンは、7月25日の日記で「日本がポツダム宣言を受諾しないことを確信している」と記載したように、日本側の拒否は折り込み済みであった{{sfn|山下祐志|1995|pp=16}}。むしろ宣言のみによる降伏ではなく、宣言の拒否が[[原子爆弾]]による[[核攻撃]]を正当化し、また組み合わせて降伏の効果が生まれると考えていた{{sfn|山下祐志|1995|pp=16}}。[[8月6日]]には[[広島市への原子爆弾投下]]が行われ、[[広島市]]における甚大な被害が伝えられた。また[[8月9日]](日本時間)の未明にはソ連が[[日ソ中立条約]]を一方的に破棄し、[[満国]]、[[朝鮮半島]]北部、[[樺太|南樺太]]への侵攻を開始([[ソ連対日参戦]])、ポツダム宣言に参加した。これらに衝撃を受けた鈴木首相は、同日の最高戦争指導会議の冒頭で「ポツダム宣言を受諾する他なくなった」と述べ、意見を求めた。強く反対する者はおらず、また会議の最中に[[長崎市への原子爆弾投下]]が伝えられたこともあり、「[[国体]]の護持」「自発的な武装解除」「日本人の戦犯裁判への参加」を条件に、宣言の受諾の方針が優勢となった。しかし、陸軍大臣[[阿南惟幾]]はなおも戦争継続を主張し、議論は[[御前会議|昭和天皇臨席]]の最高戦争指導会議に持ち越された。
 
===英文受諾===
10日未明の<ref>通説では[[8月9日]]深夜に始まったとされていたが、『[[昭和天皇実録]]』において[[8月10日]]0時3分開始と確認された([https://web.archive.org/web/20180814202415/https://www.yomiuri.co.jp/feature/TO000304/20140909-OYT1T50007.html 「昭和天皇、苦悩の日々…実録1万2千ページ公表」] 読売新聞 2014年9月9日)。</ref>[[御前会議]]でもポツダム宣言の受諾につき、天皇の国法上の地位存続のみを条件とする外務大臣案(原案)と、これに自主的な軍隊の撤兵と内地における武装解除、戦争責任者の日本による処断、保障占領の拒否の3点を加えて条件とする陸軍大臣案とが対立して決定を見ず、午前2時過ぎに議長の鈴木から、[[昭和天皇]]に[[聖断]]を仰ぐ奏上が為された。天皇は外務大臣案(原案)を採用すると表明、その理由として、従来勝利獲得の自信ありと聞いていたが計画と実行が一致しないこと、防備並びに兵器の不足の現状に鑑みれば、機械力を誇る米英軍に対する勝利の見込みはないことを挙げた。次いで、軍の武装解除や戦争責任者の引き渡しは忍びないが、大局上[[三国干渉]]時の[[明治天皇]]の決断の例に倣い、人民を破局より救い、世界人類の幸福のために外務大臣案で受諾することを決心したと述べる。このあと、「天皇の国法上の地位を変更する要求を包含し居らざることの了解の下受諾する」とした外務大臣案に対して、[[枢密院 (日本)|枢密院]]議長の[[平沼騏一郎]]元首相から異議が入り、その結果“「天皇統治の大権を変更する」要求が含まれていないという了解の下に受諾する”という回答が決定された。これは3時からの閣議で正式に承認され、[[スウェーデン]]と[[スイス]]に向けて送信された{{sfn|山下祐志|1998|pp=5}}。これとは別に[[同盟通信社]]からモールス通信で交戦国に直接通知が行われた<ref>読売新聞社編『昭和史の天皇 4 玉音放送まで』中公文庫 p.117 2012年</ref>。また受諾方針については勅語の発表まで公表を行わないことにした{{sfn|山下祐志|1998|pp=5}}。
 
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[[8月14日]]に改めて御前会議を開き、昭和天皇のいわゆる「[[聖断]]」による宣言受諾が決定され、同日付で終戦の[[詔勅]]が発せられた。同日、[[加瀬俊一 (1920年入省)|加瀬俊一]]スイス公使を通じて、宣言受諾に関する詔書を発布した旨、また受諾に伴い各種の用意がある旨が連合国側に伝えられた。
 
[[8月15日]]正午、日本政府は宣言の受諾と降伏決定をラジオ放送による昭和天皇の肉声を通して国民に発表([[玉音放送]])。なお、陸海軍に停戦命令が出されたのは[[8月16日]]、更に正式に[[日本の降伏|終戦協定及び降伏が調印された]]のは[[9月2日]]である。宣言受諾とその発表を巡っては国内で混乱が見られ、宣言受諾が決定したという報が入ると、[[クーデター]]によって玉音放送を中止させて「[[本土決戦]]内閣」を樹立しようという陸軍青年将校の動きがあり、15日未明に一部部隊が[[皇居]]の一部や[[社団法人]][[日本放送協会]]などを占拠したものの、陸軍首脳部の同意は得られず失敗に終わった([[宮城事件]])。なお、クーデター起きる中、[[阿南惟幾]]陸相は15日早朝に自決している。
 
宣言受諾後も、ソ連や中国との間で戦闘が継続した。[[9月2日]]、日本政府は[[ミズーリ (戦艦)|米戦艦ミズーリ]]の艦上で[[日本の降伏文書|降伏文書]]に調印した。降伏文書の最終文節には、バーンズ回答にあった「"subject to"」の内容が盛り込まれ、日本政府はこれを「制限ノ下ニ置カルル」と訳した。その後も各戦線に残存していた日本軍と中国軍・アメリカ軍との小規模の戦闘は続いた。
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== ポツダム宣言と領土問題 ==
ポツダム宣言8条の規定は戦後日本の[[領土問題]]あるいは外交問題の焦点としてしばしば論じられる。{{See also|北方領土問題}}
 
なお、日本政府は「第二次世界大戦後の日本の領土を法的に確定したのはサンフランシスコ平和条約であり、カイロ宣言やポツダム宣言は日本の領土処理について、最終的な法的効果を持たない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/qa_1010.html#q12|title=尖閣諸島情勢に関するQ&A |quote=第二次世界大戦の場合,同大戦後の日本の領土を法的に確定したのはサンフランシスコ平和条約であり,カイロ宣言やポツダム宣言は日本の領土処理について,最終的な法的効果を持ち得るものではありません。 |publisher=[[外務省]] |accessdate=2024-03-11 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b189376.htm|title=衆議院議員緒方林太郎君提出中国の南シナ海等に対する認識に関する質問に対する答弁書 |author=内閣総理大臣 [[安倍晋三]] |publisher=[[衆議院]] |quote=御指摘のカイロ宣言及びポツダム宣言は、領土の最終的処理を決定したものではない。 |date=2015-08-18 |accessdate=2024-03-11 }}</ref>」としている。

{{See also|北方領土問題}}

[[ソビエト連邦|ソビエト社会主義共和国連邦]](現在の[[ロシア|ロシア連邦]])については[[ソ連対日宣戦布告|対日宣戦布告]]の8月8日にポツダム宣言への参加を表明しており、これは[[日ソ中立条約]]の廃止通告後の処理に違反している<ref group="注釈">[[日ソ中立条約]]のソ連邦による廃棄通告は1945年4月5日であり、同条約は1946年4月25日に失効することになっていた。なおこの条約では日ソ両国は領土保全と不可侵を相互に尊重しあう義務を負っていた(第一条)。</ref><ref>{{PDF|[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/1992.pdf 「日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集」]}} 外務省</ref>。ソビエトはポツダム宣言や[[日本の降伏文書|降伏文書]]に参加したものの[[日本国との平和条約|サンフランシスコ平和条約]]に署名しておらず、南樺太および千島列島の領土権は未確定である。ソビエトは1945年9月3日までに歯舞諸島に至る全千島を占領し、1946年1月の連合軍最高司令官訓令SCAPIN第677号(指定島嶼部での日本政府の行政権停止訓令)直後に自国領土への編入宣言を行った。この時点での占領地の自国への併合は形式的には領土権の侵害であり、とくに[[北方地域|北方四島]]については1855年の[[日露和親条約]]以来一貫した日本領土であり平和的に確定した[[国境|国境線]]であったため、[[台湾]]や[[満]]・[[朝鮮]]などとは異なり、カイロ宣言およびその条項を引き継ぐポツダム宣言に明白に違反しているとしている<ref>外務省「北方領土」HP[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/hoppo.html][https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/hoppo_keii.html]</ref><ref group="注釈">なお、平和的に確定したと言う点では[[樺太・千島交換条約]]においても同様であり、これを根拠として[[日本共産党]]は"南樺太を除く"千島列島全島の返還を要求している。</ref>。一方でソビエトは[[ヤルタ会談]]における協定による正当なものと主張している。その後、返還を条件に個別の平和条約締結交渉が行われることになっていたが[[日ソ共同宣言]]の段階<ref group="注釈">日ソ共同宣言は外交文書(条約)であり同条約の締結と批准により戦争状態は終了し両国の国交が回復、関係も正常化したが、国境確定問題は先送りされている{{要出典|date=2011年4月}}</ref>で停滞しており、2023年現在も戦争状態が終了したのみで平和条約の締結は実現していない。
{{See also|尖閣諸島問題}}
[[中華人民共和国]]についてはポツダム宣言、[[日本の降伏文書|降伏文書]]に参加しておらず(当時国家として存在しなかった。成立は[[1949年]](昭和24年))、サンフランシスコ平和条約に署名もしていない。直接の領土に関する規範は[[日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明|日中共同声明]]および[[日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約|日中平和友好条約]]が基礎であり、日中共同声明において(台湾について)ポツダム宣言8項に立脚して処理することと声明し<ref>「三、中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する。」</ref>、日中平和友好条約において領土保全の相互尊重を正式に締約した。また中華民国についてはポツダム宣言、[[日本の降伏文書|降伏文書]]に参加しているがサンフランシスコ平和条約に参加しておらず、直接の領土に関する規定は[[日本国と中華民国との間の平和条約|日華平和条約]](1952年8月5日発効)による。ただし[[1972年]](昭和47年)[[9月29日]]に共同声明発出・平和友好条約締結による日中国交回復のために「終了」(事実上破棄)された。[[南沙諸島]]は1938年の領有宣言以来、日本領として台湾の一部を形成していたが、ポツダム宣言受諾による台湾の放棄が規定化されるなかで1949年フィリピンによる領有宣言、サンフランシスコ条約による日本の正式な放棄後の1973年にはベトナムの併合宣言、翌1974年の中華人民共和国の抗議声明など係争の対象となっている。{{See also|台湾問題|第一列島線}}
 
[[北マリアナ諸島]]については1899年に[[ドイツ帝国]]領となって以降り、第一次世界大戦の後、日本の[[委任統治]]下にあったが、ポツダム宣言受託による行政権放棄にしたがい、1947年にアメリカ合衆国の[[信託統治]]に変更され、現在は北マリアナ自治領を形成している。
 
== ポツダム宣言の効力等 ==
日本政府は「(世界征服の記述がされた)ポツダム宣言第6項は当時の連合国側の政治的意図を表明した文章であり、その詳細について政府としてお答えする立場にない」「ポツダム宣言は[[日本国との平和条約]](サンフランシスコ平和条約)により連合国との間で戦争状態が終結されるまでの間の連合国による日本国に対する占領管理の原則を示したものであり、ポツダム宣言の効力は日本国との平和条約が効力を発生すると同時に失われた」としている<ref>[https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/189/syuh/s189146.htm ポツダム宣言とサンフランシスコ平和条約についての政府の認識に関する質問主意書]提出者は[[和田政宗]]</ref><ref>[https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/189/touh/t189146.htm 参議院議員和田政宗君提出ポツダム宣言とサンフランシスコ平和条約についての政府の認識に関する質問に対する答弁書]</ref>。
 
==ポツダム宣言の受諾に伴い施行された主な法令==
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* [[公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令]](昭和22年1月4日勅令第1号)
* ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く[[陸軍刑法]]を廃止する等の政令(昭和22年5月17日政令第52号)
===1952年===
* ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く警察関係命令の措置に関する法律(昭和27年3月28日法律第13号)
* ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く大蔵省関係諸命令の措置に関する法律(昭和27年3月31日法律第43号)
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* ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く外務省関係諸命令の措置に関する法律(昭和27年4月28日法律第126号)
* ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く法務府関係諸命令の措置に関する法律(昭和27年5月7日法律第137号)
 
===1959年===
* 連合国財産の返還等に伴う損失の処理等に関する法律(昭和34年5月15日法律第165号)
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* 梅津美治郎刊行会「最後の参謀総長梅津美治郎」芙蓉書房、1976
* 有末精三「ザ・進駐軍 有末機関長の手記」芙蓉書房、1984
* [[有馬哲夫]]「アレン・ダレス 原爆・天皇制・終戦をめぐる暗闘」 講談社、2009
* 有馬哲夫「『スイス諜報網』の日米終戦工作」新潮選書、2015
* [[河辺虎四郎]]「河辺虎四郎回想録 市ヶ谷台から市ヶ谷台へ」毎日新聞社、1979