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'''関 銀屏'''(かん ぎん、関銀瓶、関三小姐、関氏とも)は、現代[[]]で刊行された伝説集『三国外伝』まつわ登場す民間伝承より発祥した人物。[[関羽]]の娘考えら、実在す架空関羽人物娘をモデルとしている
 
== モデルについて略歴 ==
[[1986年]]に中国湖北省群衆藝術館より出版された伝説集『三国外伝』が初出である。
[[219年]]、[[劉備]]が[[漢中]]王になると、[[関羽]]は[[前将軍]]・仮節に任じられた。
丁度時期を同じくして、[[孫権]]の息子と関羽の娘の婚姻を孫権側が申し入れてきた。関羽がこれを拒否すると両者の関係が悪化したため、[[曹操]]軍の[[司馬懿]]と[[蒋済]]は「この隙をつき、孫権と同盟を結ぶように」と曹操に進言した。
 
劉備と共に[[荊州]]の[[劉表]]の下に身を寄せていた[[205年]]頃、関羽に色白の可愛い娘が生まれた。[[張飛]]はこの義姪を大変可愛がり'''関銀屏'''と名付けた。
関羽が孫権との婚姻を拒む逸話は『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』・『[[三国志演義]]』共に掲載されており、この逸話が[[民間伝承]]の下敷きになったと考えられる。
しかし『三国志』・『三国志演義』には、これ以上の「孫権の息子」・「関羽の娘」に関する詳しい挿話はなく、また「銀屏」・「関三小姐」などの名称も見られない。
 
関羽は、[[虎牢関]]で[[呂布]]と闘い勝利したとき、呂布が[[紫金冠]]につけていた[[真珠]]をお守りとして大切に所持していたが、これを関銀屏に贈った。魔除けの力があると信じられ、[[劉禅]][[張苞]][[関興]]ら宝玉や呪(まじな)いの類いに興味の無さそうな男子に贈るには惜しい品だった(真珠は関羽ではなく張飛が贈ったとも、2人から贈られたとも)。
== 民間伝承・逸話 ==
民国以前、古語(文言文)古語における民間記載はまったく存在しない、現代創作文の可能性がある。
 
[[219年建安 (漢)|建安]]24年([[219年]]、15歳ほどに成長した関銀屏は一層美しく、色白で賢明な淑女に育ち、多芸に通じ、関羽の娘の評判に縁談が絶えることはなかったという。
伝承によると、関銀屏(関三小姐(かんさんしょうしゃ)とも、[[204年]]頃 - [[271年]]頃<ref>文傳記載,此女生得美麗聰慧,十八歲便習得一身文采與武藝。東吳霸主孫權曾派諸葛謹出使,為兒子向關家提出結親,關羽不同意。後因荊州失守,關羽與長子關平敗走麥城,關銀屏懷著為父報仇、為國雪恨的宿願逃到成都,留在劉備身邊。蜀國眾人,皆對這個身懷家破人亡之痛的孤女備感心疼。無不視為己出,將己所長無私傳授予關銀屏。
過了幾年,南方地方勢力作亂,抗拒蜀漢,諸葛亮南征時,啟用了俞元(今澄江)的建寧太守:李恢,共同南征平叛,同時親自作媒,把關銀屏許配給李恢的兒子李遺為妻。為了鞏固國家安全,關銀屏義無反顧答應了這門親事,並隨李恢父子南征。南疆平定後,便與李遺定居俞元,一同在地方上教化百姓。中国語版ウィキペディアより。</ref>)、字は不明。司州河東郡解県の人。関羽の三番目に生まれた娘。
 
そんな中、孫権にも関羽の娘の評判は聴こえ、孫権から「貴殿の年頃の愛娘(関銀屏)を、是非、我が長男の[[孫登]](当時11歳ほど)の嫁に欲しい」という手紙が届いたとき、関羽は「[[ムジナ|狢]]の仔め、高望みが過ぎるわ(虎の娘を犬の仔にらんれるか)」と使者を一喝し、。これに面目を潰された孫権からは大いに怒り、関羽は孫権の恨みを一身にうこととなった<ref>「狢の仔」([[狢子]]、かくし)とは江東など南方の住人に対する蔑称の一つ。</ref>
劉備と共に[[荊州]]の[[劉表]]の下に身を寄せていた[[205年]]頃、関羽に色白の可愛い娘が生まれた。[[張飛]]は、この義姪を大変可愛がり'''関銀屏'''と名付けた。
関羽は、[[虎牢関]]で[[呂布]]と闘い勝利したとき、呂布が[[紫金冠]]につけていた[[真珠]]をお守りとして大切に所持していたが、これを関銀屏に贈った。魔除けの力があると信じられ、[[劉禅]]、[[張苞]]、[[関興]]ら宝玉や呪(まじな)いの類いに興味の無さそうな男子に贈るには惜しい品だった。(真珠は関羽ではなく張飛が贈ったとも、2人から贈られたとも)。
 
建安24年12月、かつての意趣返しと言わんばかりに孫権は関羽を攻め、関羽の荊州が陥落しそうになった。関羽は劉備と諸葛亮への救援を要請との理由を付けて、関銀屏を荊州から益州に逃した。関羽[[関平]][[周倉]]らは孫権軍の[[馬忠]][[呂蒙]]らに捕らえられ[[自刃]]、または首を撥ねられた(『演義』では[[10月14日]])。後に「荊州城は落ちても、(呂布の真珠のおかげで)関銀屏は命拾いをした」と噂された。
[[219年|建安24年]]、15歳程に成長した関銀屏は一層美しく、色白で賢明な淑女に育ち、多芸に通じ、関羽の娘の評判に縁談が絶えることはなかったという。
そんな中、孫権にも関羽の娘の評判は聴こえ、孫権から「貴殿の年頃の愛娘(関銀屏)を、是非、我が長男の[[孫登]](当時11歳程)の嫁に欲しい」という手紙が届いたとき、関羽は「[[ムジナ|狢]]の仔め、高望みが過ぎるわ(虎の娘を犬の仔にはやらん)」と使者を一喝し、面目を潰された孫権から関羽は恨みを買った。<ref>「狢の仔」([[狢子]]、かくし)とは江東など南方の住人に対する蔑称の一つ。</ref>
 
しかし関銀屏は、父の関羽や義兄の関平の仇をとりたいと、成都でろくに食事を取らず痩せてしまった。張飛に衣装を贈られても、関銀屏は涙を流すばかりで、「綺麗な装飾など今の私には似合いません。父の仇を雪ぎたいのです」と言った。関銀屏は、[[趙雲]]に武芸を習いたちまち腕を上げて行った。
[[219年|建安24年]]12月、孫権が関羽を攻めた。関羽の荊州が陥落しそうになった。
関羽は劉備と諸葛亮への救援を要請との理由を付けて、関銀屏を荊州から益州に逃した。関羽、[[関平]]、[[周倉]]らは孫権軍の[[馬忠]]、[[呂蒙]]らに捕らえられ[[自刃]]、または首を撥ねられた(『演義』では[[10月14日]])。後に「荊州城は落ちても、(呂布の真珠のおかげで)関銀屏は命拾いをした」と噂された。
 
[[225年建興 (蜀)|建興]]3年([[225年]]、[[雲南省|雲南]]で叛乱が起きたので、諸葛亮は反乱が頻発する[[南中]]へ自ら軍を率いて[[討伐]]に向かおうとしていた。関銀屏はこの制圧に赴くことになった。
しかし関銀屏は、父・関羽や義兄・関平の仇をとりたいと、成都でろくに食事を取らず痩せてしまった。
張飛に衣装を贈られても、関銀屏は涙を流すばかりで、「綺麗な装飾など今の私には似合いません。父の仇を雪ぎたいのです」と言った。
関銀屏は、[[趙雲]]に武芸を習いたちまち腕を上げて行った。
 
[[225年|建興3年]]、[[雲南]]で叛乱が起きたので、諸葛亮は反乱が頻発する[[南中]]へ自ら軍を率いて[[討伐]]に向かおうとしていた。関銀屏はこの制圧に赴くことになった。
関銀屏は本心では、雲南より先に荊州の孫権軍を討ちたかったが、「父母の仇(孫権)は、玄関から泥棒が入ったようなもの。いま雲南の叛乱は、裏庭が火事なっているようなものです。裏庭の火事を消せば、玄関から入った泥棒を捕まえることに、集中できるはずです。諸葛丞相は、それを見通しておられるのです」と、国家の方針に納得した。
 
諸葛亮は南中[[澄江市|兪元]]出身の[[李恢]]を副官に取り立て、その息子である李蔚([[李遺]]のこと)もまた優秀であることを知ると 自ら[[仲人]]となって関銀屏と娶わせ従軍させることにした。人々は箱入り娘が辺境へ遠征することを憂慮し、関銀屏を諌めたが、関羽の後を継いだ関興が縁談を承諾した。
 
関銀屏は李恢父子と南征で手柄を立て、3人はその後も兪元に落ち着き、地元の住民に養蚕農耕から読み書き算盤、果てには趙雲直伝の武術に至るまで色々助け教えたため、人々は彼女を慕い「'''関三小姐'''(かんさんしょうしゃ)'''」と呼び親しんだという。
 
関銀屏は南征以後、兪元を離れることはなかったが、[[金蓮山]](金連山とも)に毎朝登って北方を眺めながら化粧をして父と輝いた故郷を懐かしんでいた。
 
亡くなると、その村に夫の李蔚(李遺)と共に埋葬され、後に合祀された。毎年の[[清明]]の頃、現地住民がこぞって墓参りをし、彼女ら3人に尊敬の意を表している。または、金蓮山に関羽の形見の真珠と一緒に葬られ、それ故、今でも晴れた日には山の頂きが[[五色]]に煌めくともいう。
 
== モデルについて ==
史実では[[劉備]]が[[漢中郡|漢中]]王になると、[[孫権]]は自らの息子と劉備軍の関羽の娘の婚姻を申し入れてきた。しかし関羽がこれを拒否したため、劉備と孫権の関係が悪化することになった。[[曹操]]軍の[[司馬懿]]と[[蔣済]]は「この隙をつき、孫権と同盟を結ぶように」と、曹操に進言した。それ以外、[[呂蒙]]が城に入ると、関羽と他の兵士の家族はすべて保護されている。この家族の中に関羽の娘も含まれていたと思われる。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』にあるのはこれだけである。
 
小説『[[三国志演義]]』では、孫権が[[諸葛瑾]]と相談した際、諸葛瑾が「関羽は荊州出身の女子を娶った。妻との間に最初に息子を授かり、後に娘を授かりました。しかしその娘はまだ幼く、婚約者もおりません」と言及する設定になっている。
雲南省曲靖県の民間伝承より。
 
関銀屏という名前と、武勇に優れたといった逸話は、現代以前の記述には全く存在せず、演義などでもなく現代創作文の可能性がある。
== 史跡・旧跡 ==
漢興亭侯李恢の子、李蔚(李遺)と漢寿亭侯関羽の娘(関銀屏、または関三小姐)の合葬墓が現在、[[雲南省]]の[[玉渓市]]に遺る。
清[[宣統]]2年(西暦[[1910年]])の墓碑には「漢忠臣興亭侯子李蔚、寿亭侯女関氏三姐之墓」と刻まれている。
墓碑脇の墓聯には「墓近聖人宮、父女相睽祗數武」、「神游荊襄界、魂魄長恨於千秋」と刻まれている。
澄江人である李蔚と、その妻、関銀屏のために造られた墓とされている。
 
[[1910年]]([[宣統]]2年)の墓碑には「漢忠臣興亭侯子李蔚、寿亭侯女関氏三姐之墓」と刻まれている。墓碑脇の墓聯には「墓近聖人宮、父女相睽祗数武」、「神遊荊襄界、魂魄長恨於千秋」と刻まれている。澄江人である李蔚と、その妻の関三姐のために造られた墓とされている。また、三姐のような名前は、三国時代ではなく唐宋時代によく見られる女性名であり<ref>[[鮑三娘#実在人物疑惑]]を参照。</ref>。後世の創作史跡とされている。
1989年8月修復。2001年4月30日公布、玉渓市文物保護単位。
 
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
*『三国志外伝  民間説話にみる素顔の英雄たち』(立間祥介・岡崎由美訳)、[[徳間書店]]、1990年088  ISBN 978-4-19-224331-5
*『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』
*『[[三国志演義]]』
*『三国志外伝 民間説話にみる素顔の英雄たち』(立間祥介・岡崎由美訳)、[[徳間書店]]、1990年08月 ISBN 978-4-19-224331-5
 
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[[Category:架空の人物]]
[[Category:関氏 (中国)|きんへい]]
[[Category:生年不明関羽]]
[[Category:没年不明文学の登場人物]]
[[Category:架空中国の伝説の人物]]