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{{出典の明記|date=2024年2月}}
[[File:Annotated edition of Wen Xuan.jpg|thumb|文選集注]]
『'''文選'''』(もんぜん)は、[[中国]][[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]、南朝[[梁 (南朝)|南朝梁]]の[[蕭統]](昭明太子)によって編纂された[[集]]・文集。全30巻<ref>現在最も通行する唐の李善注系統の版本は60巻。</ref>。[[春秋戦国時代]]から当時までの文学者131名による[[賦]]・詩・文章800余の作品を、37のジャンルに分類して収録する。[[隋]][[唐]]以前を代表する文学作品の多くを網羅ており中国古典文学の研究者にとって必読書とされる。収録作品のみな蕭統が自ず、昭明太子自身による序文も[[六朝時代]]の文学史論としを書い高く評価され。全30巻
 
== 成立の背景 ==
『文選』の撰者である昭明太子[[蕭統]]の父は、南朝梁の皇帝[[蕭衍|武帝]]の長子として生まれたである武帝蕭衍は[[斉 (南朝)|南斉]]の宗室の出身であり、学問・文才にも長じ、即位前は竟陵王[[蕭子良]]のもとで、[[沈約]]・[[謝チョウ|謝朓]]ら当時を代表する文学仲間である「竟陵八友」の一人に数えられていた。太子蕭統このような学問好きなやそ方針により、他周囲兄弟と同じく、幼い頃から当代一流の学者・文人を教師として学問や文学を学んだ。こうした環境のもと影響育てられた太子は、学問文学をするのならず文化の保護や育成にも心を砕くようになった。[[皇太子の居所|太子]]である蕭統の[[東宮]]には約3万巻の書が集められた。こうして蕭統周囲には下へも多数の学者・[[文人]]たちが、学問研究や著作活動に従事する集うことなった。
 
『文選』が編纂されたのに形式上、こうした昭明太子の文化的環境が大きな役割を果たしていた。『文選』の撰者昭明太子1蕭統一人に擬されているが、実際の編纂には[[劉孝綽]]ら彼の周囲にいた[[文人]]たちが関わっていたと考えられている<ref>おり、例えば、[[空海]]『[[文鏡秘府論]]』南巻には「南朝梁の昭明太子蕭統の劉孝綽等と『文選』を撰集するが如きに至りては、自ら謂(おも)へらく『天地を畢(つ)くし、諸(これ)を日月に懸く』と」とある。</ref>
 
== 後世における受容と注釈 ==
[[]]・[[]]代以降、官吏登用に[[科挙]]が導入され、詩文の創作が重視されると、『文選』は科挙の受験者に詩文の制作の模範とされ、代々重視されてきた。唐の詩人[[杜甫]]は『文選』を愛読し、「熟精せよ文選の理」(「宗武生日」)と息子に教戒の言葉漢詩まで残している。<ref>これは杜甫が生まれた子供に与えた詩で、主要部分は『全唐詩』によれば以下の通りである。「小子何時見,高秋此日生。自從都邑語,已伴老夫名。詩是吾家事,人傳世上情。熟精文選理,休覓綵衣輕。(以下略)」。唐詩では[[襄陽]]を歌うときに『文選』が持ち出されることが多いが、これは編者蕭統が襄陽出身だからである。例えば李頎の『送皇甫曾遊襄陽山水兼謁韋太守』には「峴山枕襄陽,滔滔江漢長。山深臥龍宅,水淨斬蛟鄉。元凱春秋傳,昭明文選堂。風流滿今古,煙島思微茫。」とある。</ref>また[[宋 (王朝)|宋]]の時代には「文選爛すれば、[[秀才 (科挙)|秀才]]半ばす」(『文選』に精通すれば、科挙は半ば及第)という俗謡ことわざが生まれている<ref>南宋[[陸游]]の『老学庵筆記』より。原文の意味は「宋の初め、文人はみな『文選』を真似て詩を作っていたので、使う語句も文選風のものばかりだった。だから、文選を覚えたら科挙の試験は半分通過したようなものだと言われた。その後、あまりに『文選』は陳腐だと言うので[[蘇軾]]の文章が流行った。」というものである。</ref>。このため『文選』は早くから研究され、多くの人により注釈がつけられた。
 
『文選』の注釈として文献上最も古いものは、隋の[[蕭該]]([[蕭恢]]の孫昭明太子蕭統の従甥)の『文選音』である。少し後の隋唐の交代期には、江都(現在の[[揚州 (江蘇省)|江都]][[揚州市]])の曹憲が『文選音義』を著した。曹憲のもとには魏模・公孫羅・許淹・[[李善 (唐)|李善]]ら多くの弟子が集まり、以後の「文選学」(「選学」)隆盛のきっかけとなった。
 
曹憲の弟子の一人である李善は、浩瀚な知識を生かして『文選』に詳細な注釈をつけ、[[658年]]([[顕慶]]3年)、[[]]の[[高宗 (唐)|高宗]]に献呈した。これが『文選』注として最も代表的な「'''李善注'''」である。李善注の特徴は、過去の典籍を引証することで、作品に用いられている言葉の出典とその語義を明らかにするという方法を用いていることにある。また李善が引用する書籍には現在では散佚しているものも多く、それらの書籍の実態を考証する際の貴重な資料にもなっている。
 
李善注の後の代表的な注釈としては、呂延済・劉良・張銑・[[呂向]]・李周翰の5人の学者が共同で執筆し、[[718年]]([[開元]]6年)、唐の[[玄宗 (唐)|玄宗]]に献呈された、いわゆる「'''五臣注'''」がある。五臣注の特徴は、李善注が引証に重きを置きすぎるあまり、時として語義の解釈がおろそかになる(「事を釈きて意を忘る」)ことに不満を持ち、字句の意味をほかの言葉で解釈する訓詁の方法を採用したことにある。そのため注釈として李善注とは異なる価値があるが、全体的に杜撰な解釈や誤りが多く、後世の評価では李善注に及ばないというのが一般的である。
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このほか重要なものとして、日本に写本として伝わる『文選集注』(120巻、存23巻)がある。これは李善・五臣の注釈のほか、これらの注釈が通行することによって散佚した唐代の注釈が保存されており、『文選』研究にとって不可欠の資料となっている。
 
== 構成 ==
== 収録する主な作品 ==
太子の書いた『文選』の序文には、作品の収録基準を「事は沈思より出で、義は翰藻に帰す」とし、深い思考から出てきた内容を、すぐれた修辞で表現したと見なされた作品を収録したとある。また収録する分野についても、[[四部分類]]でいうところの経部・子部・史部<ref>ただし歴史評論の類(論・讃・序・述)は例外とする。</ref>を除く、集部に相当する文学作品をもっぱら選録の対象としている点で、文学の価値を明確に意識した総集となっている。
 
{{Wikisourcelang|zh|昭明文选|文選}}
『文選』はもともと全30巻だが、前述の[[李善 (唐)|李善]]の注釈をつけた版は全60巻であり、以下のような構成になっている。下記の括弧内の数字は収録巻数で、'''太字'''は表内に複数作品のある作者である。
*[[屈原]]「[[離騒]]」
 
*[[宋玉]]「高唐賦」「神女賦」
{| class=wikitable width=100%
*[[武帝 (漢)|漢の武帝]]「秋風辞」
|-
*[[司馬相如]]「子虚賦」「上林賦」
! width=15%| 巻号 !! width=15%| ジャンル !! width=70%| 著名な作品
*[[司馬遷]]「[[司馬遷#2 宮刑|報任少卿書]]」
|-
*[[班固]]「[[両都賦]]」
| 1-19 ||[[賦]]||
*[[張衡 (科学者)|張衡]]「[[帰田賦]]」
*'''[[宋玉]]'''「高唐賦」(19)
*無名氏「[[古詩十九首]]」
*[[曹操]]'''宋玉'''短歌行神女賦(19)
*'''[[司馬相如]]'''「子虚賦」(7)
*[[曹丕]]「燕歌行」「典論論文」
*'''司馬相如'''「上林賦」(8)
*[[曹植]]「洛神賦」「贈白馬王彪」
*[[王粲班固]]「登楼[[両都]]「七哀詩」(1)
*[[諸葛亮張衡 (科学者)|張衡]]「[[出師表帰田賦]]」(15)
*'''[[阮籍王粲]]'''詠懐詩登楼賦(11)
*'''[[曹植]]'''「洛神賦」(19)
*[[ケイ康|嵆康]]「与山巨源絶交書」
*'''[[潘岳]]'''「秋興賦」「悼亡詩」(13)
*'''[[李密 (蜀)|李密陸機]]'''陳情事表文賦(17)
*'''[[陸機左思]]'''三都賦」「赴洛詩」(4)
*'''[[左思鮑照]]'''三都蕪城賦」「詠史詩」(11)
|-
*[[陶淵明]]「帰去来兮辞」
|19-31||[[漢詩|詩]]||
*[[謝霊運]]「登池上楼」「於南山往北山経湖中瞻眺」
*無名氏「[[古詩十九首]]」(29)
*[[鮑照]]「蕪城賦」「東武吟」
*[[曹操]]「短歌行」(27)
*[[謝チョウ|謝朓]]「遊東田」「晩登三山還望京邑」
*'''王粲'''「七哀詩」(23)
*[[沈約]]「宋書謝霊運伝論」
*'''[[曹丕]]'''「燕歌行」(27)
*[[崔エン (書家)|崔瑗]]「座右銘」(「[[中国の書家一覧#後漢]]」を参照)
*'''曹植'''「贈白馬王彪」(24)
*[[阮籍]]「詠懐詩」(23)
*'''潘岳'''「悼亡詩」(23)
*'''陸機'''「赴洛詩」(26)
*'''左思'''「詠史詩」(21)
*'''[[謝霊運]]'''「登池上楼」(22)
*'''謝霊運'''「於南山往北山経湖中瞻眺」(22)
*'''鮑照'''「東武吟」(28)
*'''[[謝朓]]'''「遊東田」(22)
*'''謝朓'''「晩登三山還望京邑」(27)
|-
|32-33||騒||
*[[屈原]]「[[離騒]]」(32)
|-
|34-35||七||
|-
|35||詔||
|-
|35||冊||
|-
|36||令||
|-
|36||教||
|-
|36||文||
|-
|37-38||表||
*[[孔融]]「薦禰衡表」(37)
*[[諸葛亮]]「[[出師表]]」(37)<ref>いわゆる「前出師表」</ref>
*[[李密 (蜀)|李密]]「陳情事表」(37)
|-
|39||上書||
|-
|39||啓||
|-
|40||弾事||
|-
|40||牋||
|-
|40||奏記||
|-
|41-43||書||
*[[司馬遷]]「[[司馬遷#『史記』の完成とその後|報任少卿書]]」(41)
*[[嵆康]]「与山巨源絶交書」(43)
|-
|44||檄||
*[[陳琳]]「為袁紹檄豫州」(44)<ref>袁紹に依頼された作者が曹操の先祖代々の悪事を暴き立てたもの。豫州とは[[劉備]]のことで、劉備に極悪人曹操に従わずに我らとともに曹操を倒そうと勧めている。</ref>
*[[鍾会]]「檄蜀文」(44)<ref>鍾会が蜀を攻めたときの降伏勧告文。</ref>
|-
|45||対問||
|-
|45||設論||
|-
|45||[[辞 (文体)|辞]]||
*[[武帝 (漢)|漢武帝]]「秋風辞」(45)
*[[陶淵明]]「帰去来兮辞」(45)
|-
|45-46||序||
|-
|47||頌||
|-
|47||贊||
|-
|48||符命||
|-
|49-50||史論||
*[[沈約]]「宋書謝霊運伝論」(50)
|-
|50||史述贊||
|-
|51-55||論||
*'''曹丕'''「[[典論|典論論文]]」(52)
*'''陸機'''「弁亡論上下二首」(53)<ref>呉の発展を褒め称え、[[孫晧]]の暴政による滅亡を悲しむ文。</ref>
|-
|55||連珠||
|-
|56||箴||
|-
|56||銘||
*{{仮リンク|崔瑗|en|Cui Yuan (Han dynasty)}}「座右銘」(56)
|-
|56-57||誄||
|-
|57-58||哀||
|-
|58-59||碑文||
|-
|59||墓誌||
|-
|60||行状||
|-
|60||弔文||
|-
|60||祭文||
|-
|}
 
[[賦]]と[[漢詩|詩]]で過半を占める。
 
蕭統の書いた『文選』の序文には、作品の収録基準を「事は沈思より出で、義は翰藻に帰す」とし、深い思考から出てきた内容を、すぐれた修辞で表現したと見なされた作品を収録したとある。また収録する分野についても、[[四部分類]]でいうところの経部・子部・史部<ref>ただし歴史評論の類(論・讃・序・述)は例外とする。</ref>を除く、集部に相当する文学作品をもっぱら選録の対象としている点で、文学の価値を明確に意識した総集となっている。
 
[[三国志演義]]に引用されている作品も「為袁紹檄豫州」「短歌行」「出師表」などがある。
 
なぜか[[王羲之]]の「蘭亭集序」は収録されておらず、古来論議を呼んでいる。これについては、以下の説がある。
*文章が下手なうえ、思想性が低くて不採用だと言う説。
**『文選』収録の名文と比べると、とっさに書いたものなので描写に重複が多く、語句も春の宴会の描写で秋の風景描写の「天朗らかに気清む」(天が高く空気が澄んでいる)を使うなどおかしなところがある。
**また、文章の内容も悲観的で、生死を超越すべきと説く老荘思想や仏教思想に通じた蕭統からすれば貧相だと思われたのではないか。
*『文選』は君主と臣下の関係を扱った政治的な文学が多いので、自然描写が多い「蘭亭集序」は編者の好みに合わなかったために不採用だったという説
*そもそも後世の偽作なのでこの当時存在しなかったという説
<ref>祁小春『「蘭亭序」はなぜ『文選』に採録されなかったか』、 「東アジア研究」32、大阪経済法科大学アジア研究所、2001参照</ref>
 
== 日本における『文選』 ==
『文選』は上代の日本に伝わり、日本文学の進展にも重大な影響を与えた。[[奈良時代]]は、貴族の教養として必読の対象となっており、『[[日本書紀]]』や『[[万葉集]]』などに『文選』からの影響を指摘する見解もある([[小島憲之]]など<ref>[https://mainichi.jp/articles/20190401/k00/00m/040/256000c 令和の出典、漢籍の影響か 1~2世紀の「文選」にも表現] - [[毎日新聞]]</ref>)。後の[[平安時代]]から[[室町時代]]でも、「書は[[白氏文集|文集]]・文選」(『[[枕草子]]』)、「文は文選のあはれなる巻々」(『[[徒然草]]』)とあるように、貴紳の読むべき書物としての地位を保ち続けた。現在でも『文選』の用語は、[[日本語]]の[[語彙]]で活かされ、[[故事]]教訓として使用されている。
 
== 『文選』出典の熟語 ==
[[ヒーロー|英雄]]、栄華、[[wikt:炎上|炎上]]、[[解散]]、禍福、[[家門]]、岩石、器械、奇怪、行事、凶器、金銀、[[経営]]、[[傾城]]、軽重、形骸、権威、[[賢人]]、光陰、後悔、[[功臣]]、[[故郷]]、[[国家]]、[[国王]]、国土、国威、[[虎口]]、骨髄、骨肉、紅粉、鶏鳴、夫婦、父子、天罰、[[天子]]、天地、元気、学校、娯楽、万国、主人、貴[[感激]],疲弊…など<ref>[[佐藤喜代治]]『漢語漢字の研究』より、明治書院 1998年</ref>
 
== 訳注書 ==
'''(;全訳
*[[岡田正之]]『文選 國訳漢文大成』(全3巻、國民文庫刊行会、1939 - 1941年) 
*小尾郊一・花房英樹 『文選』(全7巻、[[集英社]]『[[全釈漢文大系]]』、1974年 - 1976年)
::現代語訳はなく、書き下しと文語体の訳文を収載
*内田泉之助・網祐次ほか 『文選』(全8巻、[[明治書院]]『[[新釈漢文大系]]』、1963年 - 2001年)
*[[小尾郊一]]・[[花房英樹 (漢文学者)|花房英樹]] 『文選 [[全釈漢文大系]]』(全7巻、[[集英社]]、1974 - 1976年)
'''(抄訳)
*斯波六郎・花房英樹 『文選 [[新釈漢文大系]]』(全8巻、[[筑摩明治]]『世界文学大系』、1963年、1977年、1994 - 詩の部分の抄訳2001年)
*:内田泉之助・網祐次・中島千秋・[[原田種成 (漢文学者)|原田種成]]・[[竹田晃]]・高橋忠彦
*網祐次 『文選』([[明徳出版社]]『中国古典新書』、1969年) - 賦・詩・文章の抄訳
;抄訳版
*高橋忠彦・神塚淑子 『文選』(上下、[[学研ホールディングス|学習研究社]]『中国の古典』、1985年) - 賦・文章の抄訳
*[[興膳宏]]斯波六郎[[川合康三]]花房英樹 『文選 世界文学大系70』([[角川筑摩]]『鑑賞 中国の古典』19881963年) - 賦・・文章抄訳部分の選集
*内田泉之助ほか網祐次 『文選 中国古典新書』([[明治書院徳出版社]]『[[新書漢文大系]]』全4巻2003年 - 20071969年) - 上記『新釈漢賦・詩・大系』章の選集判。
*高橋忠彦・[[戸川芳郎]]・[[神塚淑子]] 『文選 中国の古典』(上下、[[学研ホールディングス|学習研究社]]、1985年)- 賦・文章の選集
*川合康三・富永一登ほか全6名 『文選 詩篇』([[岩波文庫]] 全6巻、2018年1月 - 2019年6月)
*[[興膳宏]]・[[川合康三]] 『文選 鑑賞 中国の古典12』([[角川書店]]、1988年)- 賦・詩・文章の選集
**『精選訳注 文選』([[講談社学術文庫]]、2023年)- 改訂版([[電子書籍]]も刊)
*『文選 [[新書漢文大系]]』(全4巻、明治書院、2003 - 2007年)- 上記『新釈漢文大系』の選集普及版(原文は未録)
*『文選 詩篇』(全6巻、[[岩波文庫]]、2018 - 2019年)
::編者代表:川合康三、富永一登・釜谷武志・和田英信・浅見洋二・緑川英樹
 
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
*[http://home.hiroshima-u.ac.jp/cbn/wenxuan.htm 『文選』]
*[httphttps://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/cl/koten/simizu/INDEX.HTM 「新文選学の世界」]
 
{{中国詩}}
{{DEFAULTSORT:もんせん}}
[[Category:6世紀の中国語書籍]]
[[Category:6世紀の中国語文学]]
[[Category:中国の詩集]]
[[Category:中国の文学作品]]
[[Category:6世紀の書籍]]
[[Category:中国の南北朝時代]]
[[Category:前近代の日本の中国系文化]]
[[Category:梁 (南朝)]]
[[Category:日本遺産]]