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| 没月 = 4
| 没日 = 5
| 職業 = [[映画監督]]<br />[[アニメーション]][[演出家監督]]<br />[[プロデューサー]]
| ジャンル = [[アニメーション映画]]<br />[[テレビアニメ]]
| 活動期間 =
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| 全米映画俳優組合賞 =
| トニー賞 =
| 日本アカデミー賞 = '''話題賞'''<br />[[第15回日本アカデミー賞{{Plainlist|1991年]]『[[おもひでぽろぽろ]]』
* '''会長特別賞'''
| ブルーリボン賞 = '''特別賞'''<br />[[1988年]]『火垂るの墓』
* [[第42回日本アカデミー賞#会長特別賞|2019年]]
}}
| ブルーリボン賞 = {{Plainlist|
* '''特別賞'''
|* [[ブルーリボン賞 = '''特別賞'''<br />[[1988(映画)#第31回(1988年度)|1989年]]『火垂るの墓』
}}
| ローレンス・オリヴィエ賞 =
| その他の賞 = [[厚生省]]児童福祉文化賞<br />[[毎日映画コンクール]]教育文化映画賞<br />日本カトリック映画大賞<br />[[文化庁]]優秀映画<br />国際児童青少年映画センター賞<br />シカゴ国際児童映画祭最優秀アニメーション映画賞<br />シカゴ国際児童映画祭子供の権利部門第1位<br />モスクワ児童青少年国際映画祭グランプリ<br />ロカルノ国際映画祭名誉豹賞<br />毎日映画コンクールアニメーション映画賞<br />[[アヌシー国際アニメーション映画祭]]長編部門グランプリ<br />[[文化庁メディア芸術祭]]アニメーション部門優秀賞
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| 備考 =
}}
'''高畑 勲'''<ref group="注">別名義にテレビ版『じゃりン子チエ』の演出時に使った{{big|'''武元 哲'''}}(たけもと てつ)がある。</ref>(たかはた いさお、[[1935年]]〈[[昭和]]10年〉[[10月29日]] - [[2018年]]〈[[平成]]30年〉[[4月5日]])は、[[日本]]の[[映画アニメ監督]]、[[アニメ映画監督|アニメ演出家]]。畑事務所代表、[[公益財団法人]][[徳間記念アニメーション文化財団]][[理事]]。[[日本大学]][[芸術学部]][[講師 (教育)|講師]]、[[学習院大学]][[大学院]][[人文科学研究科]][[主任研究員]]、[[多摩美術大学]]客員教授<ref>httphttps://www.tamabi.ac.jp/accredit/jiko/2000-2003/repo/kyoiku.pdf</ref>などを歴任、[[褒章#紫綬褒章|紫綬褒章]]受章。[[映画プロデューサー]]や、[[フランス文学]]([[ジャック・プレヴェール]])の翻訳も手がけている。
 
[[1959年]]に[[東映動画]]に入社<ref name="mnp180406">{{cite news|title=アニメ「火垂るの墓」「ハイジ」高畑勲監督が死去|newspaper=毎日新聞|date=2018-04-06|url=https://mainichi.jp/articles/20180406/k00/00e/040/213000c|accessdate=2018-04-06}}</ref>。『[[太陽の王子 ホルスの大冒険]]』で長編をはじめて演出した後、[[1971年]]から[[Aプロダクション]]に移る<ref name="mnp180406"/>。以後『[[アルプスの少女ハイジ (アニメ)|アルプスの少女ハイジ]]』や『[[母をたずねて三千里]]』などのテレビアニメを経て、[[宮崎駿]]とともに設立した[[スタジオジブリ]]で監督作を手がけた<ref name="ssp"/>。アニメーション研究家からは、類型化されないキャラクターの演技や感情表現を持ち込んだこと、丹念な日常描写で生活感を与えたことや、背景とキャラクターの一体化といった革新的な表現に挑み続けた点を、アニメーションに対する功績として評価される<ref name="ssp">{{Cite news|url=https://www.sanspo.com/geino/news/20180406/geo18040612400026-n1.html|title=叶精二さん、高畑勲監督は「アニメーションを革新した巨人」|newspaper=[[サンケイスポーツ]]|accessdate=2018年4月7日|date=2018-04-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180408073311/http://www.sanspo.com/geino/news/20180406/geo18040612400026-n1.html|archivedate=2018-04-08}}</ref><ref>{{Cite news|url=httphttps://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20180406/0010192.html|title=高畑さん「日常生活の哲学貫く」|accessdate=2018年4月7日|newspaper=NHK NEWS WEB |date=2018-04-06 |archiveurl=https://megalodon.jp/2018-0407-1811-32/www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20180406/0010192.html |archivedate=2018-04-07}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20180410-T2BDAOCCVRJX3CDTKMD4PZOE4I/|title=【追悼】高畑勲さん 日本アニメの方向性大きく変えた功労者 明治大大学院特任教授・氷川竜介|newspaper=[[産経新聞]]|accessdate=2019-04-23|date=2018-04-10}}</ref>。
 
== 来歴 ==
{{出典の明記|date=2017年7月|section=1}}
=== 生い立ち ===
[[1935年]](昭和10年)、[[三重県]][[宇治山田市]](現・[[伊勢市]])で、高畑浅次郎<ref>小谷野敦『高畑勲の世界』青土社、2013年、p.20</ref>の三男として生まれる<ref name=":0">{{Cite web |title=〈特集〉高畑勲とその時代 ~『かぐや姫』を迎え撃つために~(2013.11.16) |url=https://www.kyoto-up.org/archives/1931 |website=京都大学新聞社/Kyoto University Press |access-date=2023-12-16 |language=ja}}</ref>。父の浅次郎は当時中学校の校長であり、戦後は岡山県の教育長となり、後に同県初の名誉県民にまでなった人物であった<ref name=":0" />。[[1943年]](昭和18年)に浅次郎が[[岡山県立岡山朝日高等学校|岡山一中]][[校長]]となり、[[岡山市]]へ転居した<ref>{{Cite news |url=httphttps://www.kyoto-up.org/archives/1931 |newspaper=京都大学新聞|title=〈特集〉高畑勲とその時代 ~『かぐや姫』を迎え撃つために~ |date=2013-11-16 |publisher=京都大学新聞社}}</ref>。またこの時に、岡山県立師範学校男子部附属国民学校(現・[[岡山大学教育学部附属小学校・中学校|岡山大学教育学部附属小学校]])に転校した{{Sfn|齊藤|2019|p=248}}。9歳のときに[[岡山大空襲|岡山市で空襲]]に遭った。これが高畑の人生における一番強烈な体験だった。高畑はすぐ上の姉とともに家族とはぐれ、火の雨と猛火のなかを逃げまどい、川のほとりで明け方に冷たい[[黒い雨]]に打たれていた{{Sfn|高畑|2013|p=93}}。[[1951年]](昭和26年)に[[岡山大学]]附属中学校卒業後、[[岡山県立岡山朝日高等学|岡山県立朝日高校]]に入学{{Sfn|齊藤|2019|p=248}}。[[1954年]](昭和29年)に同校を卒業し、東大に入った二人の兄に続いて自らも東京大学教養学部文科二類(東大文二、現在の[[東京大学文科三類]]{{Efn2|高畑の入学する当時、東京大学教養学部の文科は一類と二類の2つだけだっ。後に一類から経済学部系が分離して「二類」となり、それまでの二類は「三類」となった。}})に入学し{{Sfn|齊藤|2019|p=248}}上京する。
 
上京した大学生時代に、[[1955年]]に公開された[[ポール・グリモー]]の映画『[[やぶにらみの暴君]]』(のちに改作され『[[王と鳥]]』となる)が日本公開され、これに衝撃を受けて映画館に通うようになる{{Sfn|齊藤|2019|p=248}}。髙畑にとっては、これが、[[フランス]]の詩人・脚本家である[[ジャック・プレヴェール]]の作品との出会いであった。高畑はこれに影響を受け、後に彼の名詩集《''Paroles''》(邦訳題名『ことばたち』)の日本初完訳([[2004年]])という仕事を行う。また、フランスの長編アニメーション映画でプレヴェールが脚本を執筆した『[[王と鳥]]』の字幕翻訳も手がけた。『[[紅の豚]]』の劇場用パンフレットでは[[さくらんぼの実る頃]](原題: Le Temps des cerises)の訳詞を載せている。[[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|東京大学文学部]][[フランス文学|仏文科]]卒業{{Sfn|齊藤|2019|p=248}}。
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長編漫画映画『[[やぶにらみの暴君]]』(『[[王と鳥]]』の原型)に感銘を受けて{{Sfn|齊藤|2019|p=248}}、アニメーション映画を作る事を決意。[[1959年]](昭和34年)、大学卒業後に[[東映動画]]に入社。東映動画による演出助手公募の第一期生で、同期に[[池田宏 (映画監督)|池田宏]]がいる<ref name="ikeda">池田宏「永遠の『先達』のまま逝ってしまったパクさん』『[[キネマ旬報]]』2018年6月上旬特別号、キネマ旬報社、pp.18-19</ref>{{Refnest|group="注"|池田はその後もプライベートも含め高畑と長く親交を持った<ref name="ikeda"/>。池田は、高畑に「パクさん」という愛称を付けたのは自分だと記している<ref name="ikeda"/>。}}。
 
入社後間もない[[1960年]]前後に、[[内田吐夢]]監督による『[[竹取物語]]』の漫画映画化企画が立ち上がった{{Sfn|齊藤|2019|p=23}}。この時、[[東映動画]]社内で脚本プロットの募集がおこなわれたが、高畑は応募しなかった。しかしながら高畑はこのとき「ぼくたちのかぐや姫]」というメモや、「『[[竹取物語]]』をいかに構成するか」というノートを残している{{Sfn|齊藤|2019|p=23}}。
 
高畑は、その後、[[映画]]『[[安寿と厨子王丸]]』『[[わんぱく王子の大蛇退治]]』で[[演出助手]]になり{{Sfn|齊藤|2019|p=24-27}}、[[テレビアニメ]]『[[狼少年ケン]]』で演出デビュー。その仕事ぶりを認められ、[[大塚康生]]の推薦により、長編漫画映画『[[太陽の王子 ホルスの大冒険]]』の演出(監督)に抜擢される{{Sfn|大塚|2013|p=160-161}}。この作品はのちに高い評価を得た。しかし、予算やスケジュールの大幅な超過から当時高畑をはじめとするメインスタッフはその責任を負う形で他と待遇に差を付けられ、興行面でもターゲットと宣伝の不一致から不振だった{{Sfn|大塚|2013|p=170-171}}。
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『[[太陽の王子 ホルスの大冒険]]』の制作遅延や組合活動によって、高畑は東映動画で長編劇場作品の演出や「やりたい企画」のテレビアニメを任される可能性はほぼないと考えていた{{Sfn|高畑・宮崎・小田部|2014|p=136-138}}。そんな折に、[[シンエイ動画|Aプロダクション]]に移っていた[[楠部大吉郎]]と[[大塚康生]]から、『[[長くつ下のピッピ]]』のアニメ化(企画は[[東京ムービー]])のために移籍を勧誘される{{Sfn|高畑・宮崎・小田部|2014|p=136-138}}。大塚が手がけていた『[[ムーミン (アニメ)|ムーミン]]』にテレビアニメの可能性を感じていた高畑は、東映動画のテレビアニメにはないチーフディレクターによって作品全般を統括できる点にも魅力を感じて誘いに応じるも、宮崎駿・[[小田部羊一]]の2人が不可欠と、両者に移籍を説得した{{Sfn|高畑・宮崎・小田部|2014|p=136-138}}。高畑は「将来のある2人を巻き添えにする」ことに悩んだが{{Sfn|高畑・宮崎・小田部|2014|p=136-138}}、宮崎はすぐに決断し{{Sfn|高畑・宮崎・小田部|2014|p=64-65}}{{refnest|group="注"|宮崎はその理由として、宮崎も東映動画では将来がないと思っていたこと、自分は「画工」でスタジオに就職した意識はなかったこと、職場の半分の人間とは喧嘩しているような状態だったこと、意味ある仕事は高畑と一緒でなければできないと考えたことを挙げている{{Sfn|高畑・宮崎・小田部|2014|p=64-65}}}}、小田部は悩んだものの妻の[[奥山玲子]]が残ることで周囲から容認された{{Sfn|高畑・宮崎・小田部|2014|p=64-65}}。
 
[[長くつ下のピッピ]]』では、原作者([[アストリッド・リンドグレーン]])との交渉に向かう[[藤岡豊]](東京ムービー社長)に同行する形で宮崎がスウェーデンにロケハンに赴き、その経験を生かして大量のイメージボードを描く一方{{Sfn|高畑・宮崎・小田部|2014|p=65-69}}、高畑は「覚え書き」や「字コンテ」を作って作品の方向性を固めようとしたが、原作者の許可が下りず、企画は頓挫した{{Sfn|高畑・宮崎・小田部|2014|p=142-143}}。移籍の理由が消失した高畑らはAプロダクションの様々なテレビアニメの企画や制作への参加を余儀なくされ、高畑は東映動画の(残った)仲間に申し訳ないという思いを抱いたという{{Sfn|高畑・宮崎・小田部|2014|p=143-144}}{{refnest|group="注"|Aプロダクションの上にいた東京ムービーは、『[[巨人の星 (アニメ)|巨人の星]]』の大ヒットで、それと同じような「ど根性もの」を望んでいたと高畑は話している{{Sfn|高畑・宮崎・小田部|2014|p=143-144}}。}}。『[[ルパン三世 (TV第1シリーズ)]]』後半パートの演出を宮崎と共に担当したのも、そうした状況で受けた仕事の一つだった{{Sfn|高畑・宮崎・小田部|2014|p=144}}。{{要出典範囲|「のちのルパンシリーズの原型を作り上げた」とされるが、|date=2020-08}}高畑自身は「それなりに面白くできた話もありますけど、正直なところ投げ出すしかなくて、責任を取りたくない回もあります」と述べている{{Sfn|高畑・宮崎・小田部|2014|p=143-144}}。
 
1972年に映画『[[パンダコパンダ]]』、翌1973年に『[[パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻]]』の演出を務める。この映画の制作に際しては『[[長くつ下のピッピ]]』で作りかけた世界観や設定(少女の一人暮らし、三つ編みでそばかすのある主人公、オーブンのある台所など)が活用された{{Sfn|高畑・宮崎・小田部|2014|p=144}}。脚本の宮崎駿のアイデアが存分に盛り込まれ『[[となりのトトロ]]』のルーツとされる{{要出典|date=2020-08}}。
 
=== 日本アニメーションに移籍 ===
[[瑞鷹 (アニメ制作会社)|ズイヨー映像]](のちに[[日本アニメーション]]に改組)に移籍し、『[[アルプスの少女ハイジ (アニメ)|アルプスの少女ハイジ]]』『[[母をたずねて三千里]]』『[[赤毛のアン (アニメ)|赤毛のアン]]』の演出・監督を担当<ref>{{Cite web |title=高畑勲|人物|NHKアーカイブス |url=https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=D0009072586_00000 |website=高畑勲|人物|NHKアーカイブス |access-date=2023-12-16 |language=ja |last=NHK}}</ref>、海外ロケハンや徹底的に調べ上げた資料を元に生活芝居を中心としたリアリズムあふれるアニメを構築した。場面設計だった[[宮崎駿]]、絵コンテを担当していた[[富野由悠季|富野喜幸]]に与えた影響は大きい(詳細は後述)。『[[未来少年コナン]]』では数話のコンテ・演出を担当し、初監督で苦しむ宮崎駿をアシストした。
 
1977年、Aプロダクション時代に面識のあった[[楠部三吉郎]]が[[シンエイ動画]]での『[[ドラえもん]]』の再アニメ化を原作者の藤本弘([[藤子・F・不二雄]])に持ち込み、藤本から「どうやって『ドラえもん』を見せるのか、教えてもらえませんか」と問われた際に、楠部は高畑の自宅を訪れ『ドラえもん』の単行本を読ませた上で、企画書の執筆を依頼した<ref name="kusube">楠部三吉郎『「ドラえもん」への感謝状』[[小学館]]、2014年、pp.16-23</ref>。高畑は目にした『ドラえもん』を「子供の心をぐいっとつかまえる力がある」と絶賛した上で企画書を書き、数日後に楠部と二人で藤本を訪れると、企画書を読んだ藤本はアニメ化を承諾したという<ref name="kusube"/>。楠部は高畑を『[[ドラえもん (1979年のテレビアニメ)|ドラえもん]]』の「恩人のひとり」と記している<ref name="kusube"/>。
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『おもひでぽろぽろ』を作る前に、[[しかたしん]]原作の『国境』を元に、[[満州国]]と朝鮮半島における人々の日常生活を淡々と描く中で、日本人の現地人差別の実態を詳らかにする企画を進めていたが、1989年に起きた[[六四天安門事件|天安門事件]]の影響で企画が流れた。
 
1994年には自ら原作を手がけた『[[平成狸合戦ぽんぽこ]]』を公開、[[配給収入]]で26億円を得て邦画ではトップとなる<ref>{{Cite web |和書|url=http://www.eiren.org/toukei/1994.html |title=過去興行収入上位作品 1994年(1月~12月) |publisher=一般社団法人日本映画製作者連盟 |accessdate=2019-05-21}}</ref>。これは高畑の監督作品でも最高の成績となった<ref group="注">配給収入26億円は、興行収入ベースで約50億円に相当。</ref>。また、スタジオジブリ時代の監督作では唯一のオリジナル作品である。
 
1999年に『[[ののちゃん#ホーホケキョ となりの山田くん|ホーホケキョ となりの山田くん]]』を公開した後は、公開作品が10年以上途切れた。
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2000年代初頭、高畑の次回作と目されたのは『[[平家物語]]』のアニメ化であったが、メインアニメーターが同意しなかった事などにより断念<ref name="econte">「『かぐや姫の物語』への道」『ジブリ絵コンテ全集20 かぐや姫の物語』月報、徳間書店、2014年、pp.7-12</ref>。鈴木敏夫の発案により、日本の古典『[[竹取物語]]』を原作としたアニメ映画が次の企画となるも、進捗の不調から[[山本周五郎]]の『柳橋物語』や[[赤坂憲雄]]の『子守り唄の誕生』を原作やベースとした企画に変更される曲折を経る<ref name="econte"/><ref group="注">これらの企画の存在は当時は外部に秘されていた。</ref>。鈴木敏夫は2007年6月のTV番組において、なるべく早く高畑勲に映画を撮らせたいと語った。ただ、高畑の場合、自分で絵を描く事が出来ないので、彼のイメージを具現化出来るアニメーターが必要になるので、その点が難しいが何とかすると述べた。鈴木は実際に脚本段階まで進んでいる企画が複数あると明かした。[[2008年]]に高畑が新作長編を製作していることがアナウンスされた。この年に企画が最終的に『竹取物語』に戻った事が後に明らかになっている<ref name="econte"/>.
 
2009年10月、高畑の新作が『竹取物語』を原作に、『[[鳥獣戯画]]』の様なタッチで描いた作品である事が報じられた<ref>[httphttps://eiga.com/news/20091001/2/ スタジオジブリの次回作は、高畑勲監督の「竹取物語」的映画] [[映画.com]]([[2009年]]10月) 2013年5月26日閲覧。記事中にアジア映画専門ニュースサイト「Asian Movie Pulse」からの情報とある。</ref>。2010年1月には、高畑のコメントも含んだ形で『[[週刊文春]]』で紹介される<ref name="bunsyun">『週刊文春』2010年1月21日号、P134</ref>。この中で高畑は「ストーリーは変えずに印象が全く違う作品にしたいと思っています。なかなか進まなくて、大分先になっちゃうかもしれませんが」と語った<ref name="bunsyun"/>。高畑が述べたように制作には時間を要し、約3年が経過した2012年12月になって、スタジオジブリは『[[かぐや姫の物語]]』のタイトルで2013年夏に公開予定である事を正式に発表した<ref>{{Cite web |和書|url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1212/13/news096.html |title=ジブリ新作は宮崎駿「風立ちぬ」&高畑勲「かぐや姫の物語」 2013年夏2本同日! |work=ねとらぼ |publisher=ITmedia |date=2012-12-13 |accessdate=2012-12-31}}</ref><ref>{{Cite web |和書|url=https://www.cinra.net/news/2012-12-13-172119-php |title=宮崎駿監督『風立ちぬ』&高畑勲監督『かぐや姫の物語』、2013年夏公開決定 |work=CINRA.NET |publisher=CINRA |date=2012-12-13 |accessdate=2012-12-31}}</ref><ref>{{Cite web |和書|url=https://eiga.com/news/20121213/11/ |title=宮崎駿「風立ちぬ」&高畑勲「かぐや姫の物語」は同日公開 公開規模も同様 |work=映画.com |publisher=エイガ・ドット・コム |date=2012-12-13 |accessdate=2012-12-31}}</ref>。しかし2013年2月になり、制作の遅れから公開予定が2013年秋に延期される事が発表され<ref>{{Cite web |和書|url=https://mantan-web.jp/article/20130204dog00m200029000c.html |title=かぐや姫の物語 : 高畑勲の新作公開延期 宮崎駿との同日公開ならず|work=まんたんウェブ |publisher=毎日新聞 |date=2013-2-5 |accessdate=2013-2-5}}</ref>、同年11月23日に公開された。
 
アニメーション以外にも、[[人形劇]]の演出も行なっていた。晩年には、フランスの[[ミッシェル・オスロ]]監督の長編アニメーション映画『[[キリクと魔女]]』等の一連の作品の日本語版の字幕翻訳・演出や、原作本の翻訳も手がけた。
 
2015年6月、アメリカの[[映画芸術科学アカデミー]]会員候補に選ばれた<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.jiji.com/jc/zc?k=201506/2015062700042&g=soc |title= 高畑監督、アカデミー会員候補に=映画界に貢献-米 |publisher= 時事ドットコム |date= 2015-06-27 |accessdate= 2015-06-27 |archiveurl=https://archive.is/7NPm5 |archivedate=2015-06-27}}</ref>。
 
=== 死去 ===
最晩年に、[[西村義明]]と共に年来の夢であった『平家物語』の短編映画の制作に取りかかったが、病状悪化の為、死の3ヶ月前に断念した<ref>西村義明「追悼アニメーション映画監督高畑勲 その志は途絶えない」、『しんぶん赤旗』2018年4月17日付。</ref>。2018年4月5日1時19分、[[肺がん]]の為、入院先である[[帝京大学医学部附属病院]]で死去した<ref>{{Twitter status2|seijikanoh|1113947075710820353|2019年4月5日 |accessdate=2019-05-22}}</ref>。{{没年齢2|1935|10|29|2018|4|5}}([[享年]]84)。監督としては2013年公開の『かぐや姫の物語』が遺作となった。高畑の死去は海外メディアでも報道された<ref>[https://time.com/5230419/isaotakahata-studio-ghibli-died/ The Japanese Animation Director and Studio Ghibli Co-Founder Isao Takahata Has Died] Time 2018年4月6日</ref><ref>[https://www.welt.de/newsticker/dpa_nt/infoline_nt/boulevard_nt/article175212935/Anime-Regisseur-Isao-Takahata-gestorben.html Anime-Regisseur Isao Takahata gestorben] Die Welt 2018年4月6日</ref><ref>{{citeCite web|和書|url=https://www.cinemacafe.net/article/2018/04/06/56223.html|title=高畑勲監督、海外からも悲しみの声「アニメーションのパイオニア」|website=シネマカフェ|publisher=[[イード (企業)|株式会社イード]]|date=2018-04-06|accessdate=2018-04-16}}</ref><ref>{{cite news|author=文化部 高橋天地|url=https://www.sankei.com/article/20180414-GMWJPV3SIVKO5DDXVQIDXTH764/|title=世界も悼んだ ジブリ・高畑勲監督の死去を海外メディアはどう報じたか|newspaper=産経ニュース|publisher=[[産經新聞]]|date=2018-04-14|accessdate=2018-04-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=コラム:佐藤久理子「Paris, je t'aime」|date=2018-04-26|url=https://eiga.com/extra/paris/58/|title=フランス文化をこよなく愛した高畑勲監督 大使館、映画界も巨匠死去に大きな悲しみ…「フランスは西洋諸国の中で、宮崎作品と同じぐらい高畑作品が紹介されている唯一の国」|website=[[映画.com]]|publisher=株式会社エイガ・ドット・コム|accessdate=2019-03-12}}</ref>。
 
死去から1ヶ月余りが過ぎた5月15日に、[[三鷹の森ジブリ美術館]]で「お別れの会」が営まれ、宮崎駿・[[大塚康生]]・[[小田部羊一]]・[[久石譲]]がコメントを読み上げた<ref name="hp180515">{{Cite news|url=https://www.huffingtonpost.jp/2018/05/14entry/isao-takahata-farewell_a_23434642/farewell_jp_5c5a9173e4b074bfeb1648f3|title=高畑勲さん「お別れ会」 宮崎駿監督は声を詰まらせながら、亡き盟友を偲んだ(追悼文全文)|newspaper=ハフィントンポスト|date=2018-05-15|accessdate=2018-05-16}}</ref><ref name="snp1805152">{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20180515-RH3AG3EQWZKNHA37TFZFV3RDL4/|title=【高畑勲監督のお別れの会】アニメーター、大塚康生さんのお別れの言葉(全文)「悔しくて悔しくて」|newspaper=産経新聞|date=2018-05-15|accessdate=2018-05-16}}</ref><ref name="snp1805151">{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20180515-ECFKMRKVTJPZVLAEKMJRMWDHLQ/|title=【高畑勲監督のお別れの会】小田部羊一さんのお別れの言葉(全文)「これは完全な間違いです」|newspaper=産経新聞|date=2018-05-15|accessdate=2018-05-16}}</ref><ref name="ct180515">{{Cite news|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0100807|title=久石譲、涙浮かべ高畑勲さんにお別れ 名曲「君をのせて」への思い|newspaper=シネマトゥデイ|date=2018-05-15|accessdate=2018-05-16}}</ref>。大塚は『太陽の王子 ホルスの大冒険』でのエピソード等を語り、死去を「悔しくて悔しくてしようがないよ」と述べ<ref name="snp1805152"/>、小田部は2017年の闘病中に高畑から「大丈夫、治るから」と励ましを受けた事を踏まえて「納得出来ません。これはあべこべです」と悲しみを吐露した<ref name="snp1805151"/>。久石は『風の谷のナウシカ』で起用してくれた事への感謝と「[[君をのせて (井上あずみの曲)|君をのせて]]」の制作に高畑が関わった事を紹介し、「お別れは言いません。心からご冥福をお祈りしますが、またいつか、どこかでお会いしましょう」と結んだ<ref name="ct180515"/>。(宮崎のコメントについては次節で紹介)
 
また、子息が最晩年の高畑についてコメントし、2017年4月に手術を受けてからは体調不良(発熱、せき、味覚障害)に苦しめられながらも2018年2月までは講演等もこなしていた事、3月10日には共に公園を散歩したが、月末に入院した時には呼吸困難から会話も出来なくなっていた事などを紹介すると共に、「純粋な好奇心と、日頃の勉強から得た発見や着想を、実験的なやり方を交えて、各分野の才能豊かな仲間達と表現し続ける事が出来た。父は本当に幸せな人間だったと思います」と述べた<ref>{{Cite news|url=https://www.cinemacafe.net/article/2018/05/15/56722.html|title=高畑勲監督、息子が語る“父”の素顔と思い出…亡くなる1ヶ月前に公園で|newspaper=Cinema Cafe net|date=2018-05-15|accessdate=2018-05-16}}</ref>。
 
=== 没後 ===
2019年に開催された[[第91回アカデミー賞]]において、逝去した映画人を悼む“[[:en:In memoriam segment|{{La|''In Memoriam''}}]]”(''イン・メモリアム'')のコーナーで追悼された<ref>{{Cite web|和書|author=編集部・市川遥|date=2019-02-25|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0107051|title=アカデミー賞で高畑勲監督、橋本忍さん追悼|website=[[シネマトゥデイ]]|publisher=株式会社シネマトゥデイ|accessdate=2019-03-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=Ryo Uchida|date=2019-02-25|url=https://www.cinemacafe.net/article/2019/02/25/60445.html|title=【第91回アカデミー賞】注目すべき5つの瞬間、司会者不在は意外と好評!…映画人を追悼する“In Memoriam”|website=シネマカフェ|publisher=[[イード (企業)|株式会社イード]]|accessdate=2019-03-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=取材・文:細谷佳史|date=2019-02-26|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0107091|title=『未来のミライ』細田守監督、アカデミー賞直後に会見 高畑勲監督追悼に万感の思い…「非常にジーンとしましたね」|website=[[シネマトゥデイ]]|publisher=株式会社シネマトゥデイ|accessdate=2019-03-10}}</ref><ref group="注" name="movie" />。
 
2019年7月2日より10月6日まで[[東京国立近代美術館]]において、2020年8月1日から9月27日まで[[岡山県立美術館]]にて、2021年4月29日から7月18日まで福岡市美術館にて、また、2021年9月18日から11月14日まで新潟県立近代美術館にて、遺品の資料展示を含む「高畑勲展―日本のアニメーションに遺したもの」{{Sfn|齊藤|2019}}が開催される<ref name="mantan190702">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/337804|title=「高畑勲展」開幕!“絵を描かない”アニメ演出家の功績を、1000点超の資料で辿る|newspaper=コミックナタリー|date=2019-07-02|accessdate=2019-07-03}}</ref>。展覧会自体は高畑の生前から企画されており、当初の企画では高畑の好む作品(美術品・映画)と高畑の作品を並べて展示する趣向であったが、高畑が没したことで回顧展になったと説明されている<ref name="mantan190702"/>。
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宮崎駿の映画は[[久石譲]]が『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』以来、音楽を担当しているが、高畑が、まだ新進気鋭の作曲家に過ぎなかった久石を、この時抜擢したのが最初の出会いとなった<ref>{{Cite book |和書|title=ジブリの哲学 |author=鈴木敏夫 |publisher=岩波書店 |date=2008 |page=}}{{要ページ番号|date=2019-05-21}}</ref>。この起用に関して、当時無名同然の久石を起用する事にレコード会社と製作会社が難色を示し、公開前年の夏から年末にかけて難航する事態となったが、高畑が防波堤となり、反対意見を退けたという<ref>『I am 遥かなる音楽の道へ』久石譲 メディアファクトリー、1992年</ref>。
 
同じスタジオジブリで映画を制作していた関係だが、興行成績では高畑は宮崎の監督作品に遠く及ばない。ジブリでの監督作品では最も高いのが『[[平成狸合戦ぽんぽこ]]』が[[配給収入]]26.5億円であり、宮崎の『[[千と千尋の神隠し]]』の[[興行収入]]308億円<ref>{{citeCite web|和書|url=httphttps://www.kogyotsushin.com/archives/alltime/|accessdate=2016-09-28|title=歴代ランキング - CINEMAランキング通信|date=2016-09-26}}</ref><ref group="注">日本映画においては、2000年より、興行成績発表が興行収入ベースとなった。配給収入は興行収入から劇場の取り分を除いた金額で、通常興行収入の5 - 6割程度とされる。これに従うと『千と千尋の神隠し』は配給収入ベースで150 - 180億円程度となる。</ref>とは桁違いの差を付けられている。『ホーホケキョとなりの山田くん』は、当時ジブリの親会社だった[[徳間書店]]社長の[[徳間康快]]が東宝と「ケンカ」してしまった為、東宝よりも配給力で劣っていた松竹で配給せざるを得なくなった{{Sfn|鈴木|2008|p=130}}。これが原因となって製作費に20億円以上かけながら、興行収入16億円弱{{Sfn|鈴木|2008|p=130}}・配給収入8億円弱という失敗(松竹は60億円の興行収入を見込んでいた)に終わり、反って赤字が膨らむ事になった。以後、高畑は次の新作まで14年を要する事となった。
 
2018年5月15日の高畑の「お別れの会」で宮崎は東映動画時代を出会いから振り返り「教養は圧倒的だった。僕は得難い人に出会えたのだと嬉しかった」と述べ、自身も参加した『ホルス』で納期や予算を超過する「苦闘」の末に出来上がった初号試写で見たヒロイン・ヒルダが「迷いの森」をさまようシーンの表現に驚愕した体験から「僕等は精一杯、あの時を生きたんだ。膝を折らなかったパクさんの姿勢は、僕等のものだったんだ。」と、往時を偲んだ<ref name="hp180515"/>。
 
== 演出・仕事 ==
緻密な構成力を有し、アニメーションでありながら、リアルで自然な説得力のある世界観を追求している<ref name=":3">{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASL494F36L49UCVL018.html|title=東映同期生と「この世界の片隅に」監督が悼む高畑勲さん 朝日新聞DIGITAL|accessdate=2018年4月21日|publisher=}}</ref>。
 
高畑作品の[[絵コンテ]]は自身がまずラフコンテを描き起こし、それを元に優秀なアニメーターが清書するという共同作業で完成される。各場面のキャラクターの演技をどうするか、その心理を深く考え抜き、アニメーターにも深く考える事を求めた。自分の考えを押しつけはせず、民主的にアイデアを募り、有機的にまとめており、その中で頭角を現したのが宮﨑だった。宮﨑と組んだ時には、どんな物語にするか・プロット・一つ一つの情景を綿密に打ち合わせて、共通のイメージが出来上がった時点で絵にしていくという事を繰り返した。物語を作る際に宮崎は、膨大な量のイメージボードを描いている<ref name=":3" />。
 
高畑は自分で絵を描かない事で「自分で描く狭さから脱出」出来、『絵描きではないにしても、絵への感覚を研ぎ澄ませて「絵がわかる」という状態を持っていれば……「様々な才能と組む事が出来る」』と述べている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.1101.com/ghibli/2004-07-29.html|title=ジブリの仕事のやりかた。宮崎駿・高畑勲・大塚康生の好奇心。第11回 さまざまな才能と組む方法。―高畑勲監督|accessdate=2018年4月25日|publisher=}}</ref>。
 
アニメは「誇張」や「省略」の手法を用いて描く事が主流だった中で、徹底した生活描写や舞台設定を行ない、作品に「[[リアリズム]]」を持ち込んだ。「[[アルプスの少女ハイジ (アニメ)|アルプスの少女ハイジ]]」では当時のアニメ界では珍しい、海外への[[ロケーション・ハンティング]]を行なった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20180410-T2BDAOCCVRJX3CDTKMD4PZOE4I/|title=高畑勲さん 日本アニメの方向性大きく変えた功労者 明治大大学院特任教授・氷川竜介 産経ニュース|accessdate=2018年4月21日|publisher=}}</ref>。
 
アニメーションの本流への復帰を目指し、現実の日常生活の自然主義的な描写に留まっていてはアニメーションではないと考え、子供達の想像力を膨らませ、遊びの開放感と発見の喜びを味わわせる方向へと表現を高める事を要求した{{Sfn|高畑|1991|p=39}}。
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表現が記号やパターンでしか表現されないのでは実在感を感ずる事が出来ないと考え、生き生きとしたキャラクターは生き生きと、美しいものは観客にとっても美しく、楽しい事は楽しそうに、おいしそうなものはおいしそうに実質として表現した{{Sfn|高畑|1991|p=39}}。
 
演出の特色は原作を深く読み込み、ドラマとキャラクターに距離をおいて、[[客観的]]に描き切る所にある。人物に対しては過度な理想を抱かず、[[ペシミズム]]に陥るわけでもなく、[[リアリズム]]を基調にしている。シビアな題材を扱った場合には冷徹ですらあり、[[コメディ]]タッチの題材であっても、生真面目な視点で物語る<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.style.fm/as/05_column/365/365_030.shtml|title=WEBアニメスタイル アニメ様365日[小黒祐一郎]第30回 『赤毛のアン』|accessdate=2018年4月21日|publisher=}}</ref>。
 
高畑は原作への態度について、「原作が面白いと思ったら、その面白さをどう活かすか、どう発展させるかということに集中します」「原作に感心するから作るのであって、そうじゃなければ断りますよ。『原作には感心しないけど、換骨奪胎してこう作れば面白くなる』というのは原作者に対して失礼だと思うから。」と述べており、『かぐや姫の物語』だけがその例外だったとしている{{Sfn|高畑・宮崎・小田部|2014|p=143-144}}。『母をたずねて三千里』の次に『[[ペリーヌ物語]]』の監督が予定されていたが原作の内容に否定的な立場を表明して拒否したという、『ペリーヌ物語』スタッフによる証言がある<ref>池ヶ谷崇志「座談会 ペリーヌ、四方山話」『キャラクターデザイン・ワンダーランド ペリーヌ物語』pp.51-55、関修一、東京書籍、2019年5月10日。</ref>。
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キャラクターには平板な印象ではなく、靴を脱いだり履いたりといった日常の極めてささいな動作、立ち振る舞い家事等の表現を重視した。行動の過程をしっかり書く事で行動自体が楽しさや面白さが呼び起こすようにし、また、アニメーションの世界を現実のものとして感ずるようになる演出とショットの構成を求めた{{Sfn|高畑|1991|p=39}}。
 
『[[アルプスの少女ハイジ (アニメ)|ハイジ]]』は[[スポ根]]もの・[[ロボットアニメ|ロボット]]系・[[魔法少女]]が人気だった当時のアニメ界で、地味な生活や質素な衣食住を丁寧に描いていこうと作られ、[[平均視聴率]]20%超えの大成功を収めた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.excite.co.jp/news/article/00091088501431/|title=アルプスの少女ハイジ、マボロシのおさげ髪 Exciteニュース|accessdate=2018年4月21日|publisher=}}</ref>。
 
『[[ののちゃん#ホーホケキョ となりの山田くん|となりの山田くん]]』『[[かぐや姫の物語]]』では日本の絵画の描線で、スケッチ風の淡彩の画面でやりたいという意志があった。アニメーターが描いたラフな線が持つ生命力を、そのまま画面に出す事を可能にした<ref>{{Cite web|和書|url=httphttps://animestyle.jp/2014/02/05/6834/|title=西村義明プロデューサー インタビュー第1回 線の向こうにある本物を|accessdate=2018年4月8日|publisher=スタイル|}}</ref>。
 
[[音楽]]に対しても非常にこだわりを持っていた。[[主題歌]]や[[劇伴|挿入歌]]の[[作詞]]や訳詞も行なっている。『[[母をたずねて三千里]]』で、エンディングテーマ「かあさんおはよう」の作詞、『おもひでぽろぽろ』では[[ベット・ミドラー]]の「The Rose」を翻訳し、「愛は花、君はその種子」とタイトルを付けて[[都はるみ]]に歌わせた。宮崎駿監督作『[[紅の豚]]』では、シャンソンの名曲「[[さくらんぼの実る頃]]」の訳詞も手がけ、こちらは[[加藤登紀子]]が歌って話題になった。そして、『ホーホケキョ となりの山田くん』では、[[ドリス・デイ]]がヒッチコック映画で歌った「[[ケセラセラ|ケ・セラ・セラ]]」の訳詞も行なった。宮崎の監督作『[[魔女の宅急便 (1989年の映画)|魔女の宅急便]]』では高畑は「音楽演出」の担当者としてクレジットされている<ref>{{Cite web |title=高畑勲は“音楽の演出”も抜きん出ていた 監督作品などから功績を辿る |url=https://realsound.jp/2018/04/post-182838.html |website=Real Sound|リアルサウンド |date=2018-04-15 |access-date=2023-12-16 |language=ja}}</ref>。また、[[作曲]]も手がけており、『[[じゃりン子チエ]]』の挿入歌である「バケツのおひさんつかまえた」を[[惣領泰則]]と共作。『かぐや姫の物語』では劇中歌の「わらべ唄」と「天女の歌」を高畑が作詞作曲を手がけた(作詞は[[坂口理子]]との共作)。この際、[[ボーカロイド]]の[[初音ミク]]に歌わせてデモ作りを行ない、[[久石譲]]に曲のイメージを伝えた。久石譲や[[矢野顕子]]・[[上々颱風]]等、多数のミュージシャンを指名し起用した<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=https://realsound.jp/2018/04/post-182838.html|title=Real Sound 高畑勲は“音楽の演出”も抜きん出ていた 監督作品などから功績を辿る|accessdate=2018年4月21日|publisher=}}</ref>。高畑の没後に[[坂本龍一]]も依頼を受けたことがあったと明かしている。坂本によると音楽が「シリアス過ぎて」起用は見合せになったという<ref>{{Cite web|和書|author=取材・文・細木信宏 / Nobuhiro Hosoki|date=2018-05-05|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0100497/|title=坂本龍一、高畑勲監督からオファー&解雇されていた!「僕の音楽がシリアス過ぎて…」|website=[[シネマトゥデイ]]|publisher=株式会社シネマトゥデイ|accessdate=2021-08-09}}</ref>。坂本は作品名は答えていないが、2012年に坂本が[[鈴木敏夫]]と公開対談した際に鈴木から高畑作品への協力を要請されたことがあった<ref>{{citeCite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/entertainment/ghibli/cnt_eventnews_20120319c.htm|accessdate=2012-05-12|title=坂本龍一と鈴木敏夫が対談 映画音楽語る|date=2012-03-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120512154341/http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/ghibli/cnt_eventnews_20120319c.htm|archivedate=2012-03-19}}</ref>。
 
制作のスピードに関しては、宮崎が「パクさんは[[ナマケモノ]]の子孫です」と喩える程スローである。『太陽の王子 ホルスの大冒険』では、製作の遅れの責任を取って、プロデューサーが何度も交代する程であった{{要出典|date=2018-06}}。鈴木敏夫は高畑没後のインタビューで、(ジブリ時代に)高畑が「公開日に間に合わせて映画を作った事が、遂に一度もなかった」と述べている<ref name="kjsuzuki">鈴木敏夫「出会ってから40年。高畑さんとは本当に不思議な関係だったと思います」『[[キネマ旬報]]』2018年6月上旬特別号、キネマ旬報社、pp.14-17(取材・構成:金澤誠)</ref>。『火垂るの墓』では一部カットの彩色が間に合わず、未完成版を公開した<ref name="kjsuzuki"/>。『おもひでぽろぽろ』の時には遅延が明らかになって、宮崎がメインスタッフに「(間に合わせるには)今までのやり方を全部変えてくれ」と説明した後も、高畑は「今まで通りでいい」と主なアニメーターに話したが、彼等はそれに恐怖感を抱いて作業を早めた為、「何とか間に合った」という<ref name="kjsuzuki"/>。『平成狸合戦ぽんぽこ』では、鈴木はあらかじめ遅延を見越し、高畑には「3月公開」と伝えた上で本来の公開予定である7月に間に合わせる計略を仕掛けたものの、それでも間に合わなくなりそうになった為、10分削る事を約1ヶ月、高畑と交渉して間に合わせた<ref name="kjsuzuki"/>。『ホーホケキョとなりの山田くん』では「製作は順調に遅れています」という異色の予告編が作られた。『かぐや姫の物語』が一旦『風立ちぬ』と同日公開とされたのは、制作作業の遅れ(絵コンテの進捗が1ヶ月で2分相当で、企画から5年経過の時点で30分しか完成しなかった)に業を煮やしたプロデューサーの[[西村義明]]が鈴木敏夫と相談の末、高畑を奮起させて進捗を回復させる為に打った「大博打」だったという<ref>西村義明「映画監督・高畑勲との8年。」『かぐや姫の物語』パンフレット</ref>。
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かつては宮崎駿や鈴木敏夫と同じく愛煙家だったが、その宮崎と鈴木からの指示により2009年11月より禁煙に踏み切る{{Sfn|高畑|2013|pp=350-367}}。高畑は東大の先輩で良き理解者だった2011年の氏家齊一郎への追悼文の中で、宮崎と鈴木がその後もタバコをやめないことも踏まえ、二人の禁煙の指示は氏家の強い意向を受けてのものであったと記している{{Sfn|高畑|2013|p=127-130}}。
 
組合活動以来の縁で選挙では一貫して[[日本共産党]]を支持している<ref>[https://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-12-04/2012120401_04_1.html 「日本共産党に期待します」 各界著名49氏が表明] 2012年12月4日 しんぶん赤旗</ref>が、共産党員ではない<ref>{{Cite web|和書|title=https://twitter.com/akahata_pr/status/543237554175102977|url=https://twitter.com/akahata_pr/status/543237554175102977|website=Twitter|accessdate=2021-12-04|language=ja}}</ref>。
 
== 影響を受けた作家・作品 ==
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高畑は[[フレデリック・バック]]の『クラック!』を観て衝撃を受ける。その後も交流や日本での紹介を行ない、尊敬を持って接し続けた。2011年にスタジオジブリの企画により、バックの展覧会を日本で開催した際には、高畑は来日したバックとテープカットも行なっている<ref name="yomiuri2"/>。
 
高畑はバックの作風を参考にして『[[ののちゃん#ホーホケキョ となりの山田くん|ホーホケキョ となりの山田くん]]』『[[かぐや姫の物語]]』を製作した<ref>{{Cite web|和書|url=https://eiga.com/news/20110701/20/|title=“アニメ界の至宝”フレデリック・バック緊急来日、高畑勲の決断に感謝|accessdate=2018年4月11日|publisher=}}</ref>。スタジオジブリでは2011年に「フレデリック・バック展」を開催した。バックが亡くなる直前に高畑が自宅を訪れ、高畑の持参した『かぐや姫の物語』を鑑賞してもらっている<ref name="yomiuri2">{{Cite web |和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/entertainment/ghibli/gnews/20140114-OYT8T00832.htm?from=os2 |title=フレデリック・バックさん…死去直前に「かぐや姫」鑑賞 |newspaper=読売新聞 |date=2014年1月14日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140201150842/http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/ghibli/gnews/20140114-OYT8T00832.htm?from=os2 |archivedate=2014-02-01 |accessdate=2019-05-22}}</ref>。
 
=== 宮沢賢治 ===
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* [[1935年]][[10月29日]]、三重県宇治山田市(現・伊勢市)に生まれる。
* [[1938年]]、三重県津市に転居。
* [[1942年]]、三重県師範学校男子部属国民学校(現・[[三重大学教育学部附属小学校]])に入学。
* [[1943年]]、父の転勤に伴い、[[岡山県立師範学校]]男子部属国民学校(現・[[岡山大学教育学部附属小学校・中学校|岡山大学教育学部附属小学校]])に転入。卒業後、岡山大学教育学部附属中学校に進学し卒業。
* [[1954年]]、[[岡山県立岡山朝日高等学校]]を卒業、[[東京大学]][[教養学部]]文科二類に入学。
* [[1956年]]4月、東京大学[[文学部]][[仏文科]]に進学。同期に[[大江健三郎]]<ref name=":0" />、[[海老坂武]]らがいた。
* [[1959年]]3月、東京大学卒業。4月、[[東映動画]]に演出助手として入社。『[[安寿と厨子王丸 (映画)|安寿と厨子王丸]]』『鉄ものがたり』『わんぱく王子の大蛇退治』『[[狼少年ケン]]』『[[太陽の王子ホルスの大冒険]]』『[[ひみつのアッコちゃん]]』『[[ゲゲゲの鬼太郎 (テレビアニメ第1シリーズ)|ゲゲゲの鬼太郎(第1作)]]、[[ゲゲゲの鬼太郎 (テレビアニメ第2シリーズ)|(第2作)]]』『[[もーれつア太郎]]』『[[アパッチ野球軍]]』などに参加。東映動画[[労働組合]]で副委員長に就き、組合運動を通じ[[宮崎駿]]と知り合い親交を深める。
* [[1971年]]6月10日、宮崎駿、[[小田部羊一]]と共に[[Aプロダクション]]へ移籍。『[[ルパン三世 (TV第1シリーズ)]]』『[[パンダコパンダ]]』『[[パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻]]』『[[荒野の少年イサム]]』に参加。
351 ⟶ 357行目:
* [[2009年]] [[ロカルノ国際映画祭]]名誉豹賞
* 第68回毎日映画コンクールアニメーション映画賞(『[[かぐや姫の物語]]』)
* [[2014年]] [[東京アニメアワード]]特別賞「アニメドール」<ref>[https://animefestival.jp/ja/post/1257/ 高畑勲監督、TAAF初の「アニメドール」を授賞!!] - TAAFニュース2014年3月20日、2014年3月20日閲覧</ref><ref>{{cite news |url=httphttps://mainichi.jp/select/news/20140321k0000m040030000c.html |title=東京アニメアワード:「かぐや姫の物語」高畑監督に特別賞 |newspaper=毎日新聞 |date=2014年3月20日 |archiveurl=https://archive.is/XI2KA |archivedate=2014-03-20}}</ref><ref>[httphttps://eiga.com/news/20140320/12/ アニメドール受賞の高畑勲監督、敬愛するM・オスロ監督と熱い握手!] - 映画.com2014年3月20日、2014年3月20日閲覧</ref>
* 第23回[[日本映画批評家大賞]]アニメーション監督賞
* 2014年度アヌシー国際アニメーション映画祭「名誉賞」(Cristal d’honneur)<ref>{{Cite web |url=https://www.annecy.org/edition-2014/focus-2014:fr |title=Annecy > Edition 2014 > Focus 2014 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140725084512/http://www.annecy.org/edition-2014/focus-2014:fr |archivedate=2014-07-25 |website=アヌシー国際アニメーション映画祭公式サイト|lang=fr |accessdate=2019-05-21}}</ref><ref>[https://www.cinematoday.jp/news/N0062359 『かぐや姫』高畑勲監督、仏アニメ映画祭で名誉賞!] - シネマトゥデイ2014年4月19日</ref><ref>{{cite news |url=https://news.yahoo.co.jp/articles/dec3059cad5d169136753e2d1f6f6aa0323e1088 |title=高畑勲監督に名誉賞=仏アニメ映画祭 |newspaper=時事通信 |date=2014年6月10日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140614102942/http://headlines.yahoo.co.jp:80/hl?a=20140610-00000024-jij-int |archivedate=2014-06-14}}</ref>
* [[2015年]] 東京アニメアワード監督賞(『かぐや姫の物語』)<ref>[https://animefestival.jp/ja/post/3009/ TAAF2015アニメ オブ ザ イヤー部門グランプリは『アナと雪の女王』と『ピンポン THE ANIMATION』に決定!]東京アニメアワードフェスティバル2015 2015年3月22日</ref>
* 2015年 フランス[[芸術文化勲章]]オフィシエ<ref>{{Cite news |url= https://www.jiji.com/jc/zc?k=201504/2015040700749&g=soc |title= 高畑勲氏に仏芸術文化勲章=アニメ監督、詩集翻訳も |publisher= 時事ドットコム |date= 2014-04-07 |accessdate= 2015-04-07 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150725182946/http://www.jiji.com/jc/zc?k=201504/2015040700749 |archivedate=2015-07-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.ambafrance.org/article8752 |title=高畑勲監督が芸術文化勲章を受章|publisher=[[駐日フランス大使館]]|date=2019-01-17|accessdate=2021-06-19}}</ref>
* 2015年 [[ウィンザー・マッケイ賞]]<ref>{{Cite news|url= https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2015/12/02/kiji/K20151202011613100.html |title= 「火垂るの墓」高畑勲監督に米アニー功労賞 アニメへの長年貢献 |newspaper= Sponichi Annex |publisher= スポーツニッポン新聞社 |date= 2015-12-02 |accessdate= 2015-12-02 }}</ref><ref>{{cite news|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0080171|title=アニー賞功労賞に高畑勲監督喜び 有能な周囲の協力があってこそと感謝|newspaper=シネマトゥデイ|date=2016-02-07|accessdate=2017-10-12}}</ref><ref group="注" name="movie" />
 
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* [[鈴木敏夫]]『天才の思考 高畑勲と宮崎駿』[[文藝春秋]]<[[文春新書]]>、2019年5月
* 『高畑勲をよむ:文学とアニメーションの過去・現在・未来』三弥井書店、2020年4月
* ステファヌ・ルルー『シネアスト高畑勲 アニメの現代性』岡村民夫訳、[[みすず書房]]、2022年4月
 
== 研究 ==
* 高畑は自身の関心に基づき、「日本絵画史に見るマンガ的アニメ的なるもの」「絵で語る工夫の世界史―いわゆる異時同図を中心に―」というテーマで「素人研究」を行ってきた{{Sfn|高畑|1999|p-150}}。この研究のうち、[[12世紀]]の連続式絵巻に関する部分を出発点にまとめたものが『十二世紀のアニメーション:国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』{{Sfn|高畑|2008}}として出版されている。
* [[2005年]]から[[2007年]]にかけて、[[学習院大学]]大学院人文科学研究科身体表象文化学研究科による身体文化学プロジェクトに参加。共同研究テーマ「身体表象メディア論(映像芸術と身体表象メディア)」のリーダー(主任研究員)をめた。その成果は『世界の鏡としての身体:シェイクスピアからアニメーションまで』{{Sfn|身体表象文化学|2008}}として出版された。
 
== 関連する人物 ==
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=== 小田部羊一 ===
[[小田部羊一]]は高畑の初期作品から長年共に仕事をした同志である。『ハイジ』『母をたずねて三千里』などではキャラクターデザインを務めた。小田部のキャラクターはごく簡潔でありながら人間的な温かみと柔軟性を持ち地を通わせることができた。東映動画を退社する際も共に退社している{{Sfn|高畑|2013|p=108}}。<br />小田部が時代考証を担当した『[[なつぞら]]』(2019年度上期[[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]])では、若き演出家・坂場一久(演・[[中川大志 (俳優)|中川大志]])について、東大卒の経歴や長編映画『神をつかんだ少年クリフ(「太陽の王子 ホルスの大冒険」をモチーフにした作品)』担当した経緯について高畑をオマージュさせている。
 
=== 男鹿和雄 ===
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「戦後、商業的にアニメーションを大きく広げていこう、という状況の中で、高畑監督はもっと普遍的なテーマを持ったアニメーションができるのでは?と探っていました」と回想。
 
『[[この世界の片隅に (映画)|この世界の片隅に]]』を監督した時に「道しるべとなったのが『火垂るの墓』だった」「高畑さんの子ども時代の体験が反映されている。戦争を経験していない我々がどうすれば『火垂るの墓』に追いつけるのかと必死になりました。」「冒頭の空襲の状況、その場に立つと空襲がどう見えるのか、ものすごくきちんと描かれている。戦争を経験した高畑監督自身の経験からなのだと思います」と言及。高畑さんは『この世界の片隅に』を繰り返し見て下さったようで、『エールを送ります』との言葉をいただいたのが何よりうれしかった」と語る。片渕は高畑を「子どもだけでなく、大人も楽しむようになった今日の日本アニメーションの隆盛を築いた一番のキーパーソン」、「センスで作るのではなく、作品の中にセオリーを置いて人物を描く唯一の人とも言える」という<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASL463CY4L46ULZU004.html|title=「ジブリとして盛大なお別れの会を」高畑勲さん死去受け 朝日新聞DIGITAL|accessdate=2018年4月21日|publisher=}}</ref><ref>{{Cite news|title=「この世界の片隅に」片渕須直監督から見た“高畑勲監督”とは... TOKYO FM「未来授業」で語る {{!}} アニメ!アニメ!|url=https://animeanime.jp/article/2018/05/07/37663.html|accessdate=2018-05-18|language=ja|work=アニメ!アニメ!}}</ref>。
 
== 脚注 ==
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* {{Cite book |和書|title=映画を作りながら考えたこと Ⅱ 1991-1999 |author=高畑勲 |publisher=徳間書店 |date=1999 |isbn=978-4-19-861047-0 |ref={{SfnRef|高畑|1999}} }}
* {{Cite book|和書|author=高畑勲 |title=十二世紀のアニメーション:国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの |edition=初版 |date=1999-03-31 |publisher=徳間書店 |isbn=9784198609719 |ref={{SfnRef|高畑|1999}}}}
* {{Cite book|和書|author= |editor=学習院大学大学院人文科学研究科身体表象文化学プロジェクト |title=世界の鏡としての身体 : シェイクスピアからアニメーションまで |date=2008-03 |publisher=身体表象文化学出版会 |isbn=9784990398804 |ref={{SfnRef|身体表象文化学|2008}}}}
* {{Cite book |和書 |author=鈴木敏夫|title=仕事道楽 |publisher=岩波書店 |series=岩波新書 |date=2008 |isbn=9784004311430 |ref={{SfnRef|鈴木|2008}} }}
* {{Cite book |和書 |author=大塚康生|title=作画汗まみれ |edition=改訂最新版 |publisher=文藝春秋 |series=文春ジブリ文庫 |date=2013 |isbn=9784168122002 |ref={{SfnRef|大塚|2013}} }}
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* {{imdb name|0847223|Isao Takahata}}
* {{Tvdrama-db name}}
* {{NHK人物録|D0009250543_00000D0009072586_00000}}
* アニー賞 {{YouTube|_q8mS2hWno8|高畑勲 ウィンザー・マッケイ賞 受賞映像}} 代理出席:ジェフリー・ウェクスラー(スタジオジブリ海外事業担当)
* {{YouTube time|[https://web.archive.org/web/20190321044629/https://www.youtube.com/watch?v=npp6Zbi8i6I| 第91回アカデミー賞 {{La|''Inイン・メモリアム” Memoriam''}}”高畑勲 追悼|time=2m45s}}{{リンク切れ|date=2019年5月21日](02:44) (火)- 08:28 (UTC)}}(2:45~)[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|{{En|ABC}}テレビ]]公式
* [https://takahata-ten.jp/ 高畑勲展]
* [https://www.momat.go.jp/am/exhibition/takahata-ten/ 企画展「高畑勲展ー日本のアニメーションに遺したもの」、東京国立近代美術館(開催期間:2019年7月2日から10月6日まで)。] {{Wayback|url=https://www.momat.go.jp/am/exhibition/takahata-ten/|date=20190704111720}}
 
{{-}}
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[[Category:スタジオジブリの人物]]
[[Category:徳間記念アニメーション文化財団の人物]]
 
[[Category:紫綬褒章受章者]]
[[Category:芸術文化勲章受章者]]