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{{Otheruses||同名の雑誌|[[歌舞伎 (雑誌)]] および [[歌舞伎 (第1次)]]}}
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[[歌川国貞|2代目歌川豊国]] 画『踊形容江戸繪榮』<!--(おどり けいよう えどえの さかえ)-->大判錦絵三枚続物。安政5年
'''歌舞伎'''(かぶき)は、[[日本]]の[[演劇]]で、[[伝統芸能]]の
日本の[[重要無形文化財]]に[[1965年
== 語源 ==
歌舞伎という名称の由来は、「傾く(かたむく)」の古語にあたる「傾く(かぶく)」の[[連用形]]を名詞化した「'''かぶき'''」だと言われている<ref name="jenc_kabuki">[[日本大百科全書]](小学館)、歌舞伎の項</ref>。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の終わりから
そうした「かぶき者」の斬新な動きや派手な装いを取り入れた独特な「かぶき踊り」が[[慶長]]年間([[1596年]] - [[1615年]])に京で一世を風靡し、これが今日に連なる[[伝統芸能]]「かぶき」の語源となっている。
「かぶき踊り」は
なお、江戸時代には「歌舞伎」という名称は俗称<ref name="imaomokuami2">{{
「歌舞伎」「歌舞伎座」の[[商標]]は[[松竹]]が取得している<ref>{{Cite web|和書 |title=「歌舞伎」で商品化をお考えの方に |url=https://www.shochiku.co.jp/company/profile/hojin/kabuki/ |website=www.shochiku.co.jp |access-date=2022-10-11 |language=ja}}</ref>。
== 歴史 ==
=== 草創期 ===
{{Wikisource|慶長見聞集/巻之五#k-5-11|慶長見聞集|原文「歌舞妓をどりの事」}}
[[
[[ファイル:阿国歌舞伎発祥地の碑.jpg|thumb|200px|阿国歌舞伎発祥地の碑(京都市東山区、南座前)]]
歌舞伎の元祖は、
<!--この記録-->『当代記』によれば、
『時慶卿記』の慶長5年(1600年)の条には、
「かぶき踊」が流行すると、当時数多くあった女性や少年の芸能集団が「かぶき」の看板を掲げるようになったとされる。そこには「ややこ踊」のような踊り主体のものもあれば、[[アクロバット|アクロバティックな
その後、「かぶき踊」は遊女屋で取り入れられ('''遊女歌舞伎''')、当時各地の城下町に遊里が作られていたこともあり、わずか10年あまりで全国に広まった<ref name="kouza2">{{Harvnb|国立劇場
ほかにも[[若衆]](12歳から17、18歳の少年)の役者が演じる歌舞伎('''若衆歌舞伎'''、わかしゅかぶき)が行われていた。男娼のことを[[陰間]]というのは「陰の間」の役者、つまり舞台に出ない修行中の役者の意味で、一般に男色を生業としていた<ref>人倫訓蒙図彙</ref><ref name="#2"/>ことからも分かるように好色性を持ったものであった<ref name="#2"/>。全国に広まった遊女歌舞伎と違い、若衆歌舞伎の広がりは京
しかし、こうした遊女や若衆をめぐって武士同士の取り合いによる喧嘩や刃傷沙汰が絶えなかったため<ref>
なお、古い解説書には、「若衆歌舞伎は遊女歌舞伎が禁止された''あと''に作られたもの」だと書かれているもの
=== 元禄 ===
[[
[[
次の画期が[[元禄]]年間(1688~1704)にあたるとするのが定説である。歌舞伎研究では[[寛文]]・[[延宝]]の頃を最盛期とする歌舞伎を「野郎歌舞伎」と呼称し<ref name=":1">{{
元禄年間
なお藤十郎と團十郎がそれぞれ和事・荒事を''創始''したとする記述<ref>山川出版『詳説 日本史』。『日本の伝統芸能講座 舞踊・演劇』からの重引。</ref>が散見されるが、藤十郎が和事を演じたという同時代記録はない<ref name="#6"/>。当時「やつし事」を得意としたのも藤十郎だけではない<ref>{{Harvnb|和田
狂言作者の[[近松門左衛門]]もこの時代の人物で、初代藤十郎のために歌舞伎狂言を書いた。
作品面では延宝8年([[1680年
また作品づくりにおいて
江戸では芝居小屋は次第に整理されていき、
=== 享保
[[
歌舞伎の舞台が発展し始めるのは享保年間からである<ref name="kouza4">{{Harvnb|国立劇場
作品面では18世紀から'''趣向取り・狂言取り'''の手法が
また、この
[[延享]]年間にはいわゆる三大歌舞伎が書かれた。これらはいずれも人形浄瑠璃から移されたもので、三大歌舞伎にあたる『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』の(人形浄瑠璃としての)初演はそれぞれ延享3年([[1746年]])、4年([[1747年]])、5年([[1748年]])である。
またそれから少し
宝暦9年([[1759年]])、並木正三が『大坂神事揃(おおさかまつりぞろえ)』<!--←大「坂」は原文通りで誤植でない-->で「'''愛想尽かし'''」を確立した<ref name="iwashin4">
[[宝暦]]・[[天明]]・[[寛政]]年間になると、上方歌舞伎では女形による舞踊が登場し、[[桜田治助|初代桜田治助]]や[[並木五瓶|初代並木五瓶]]の作品が人気を呼んだ。
-->
=== 文化 - 幕末 ===▼
[[File:Kanadehon Chūshingura by Toyokuni Utagawa III.jpg|thumb|350px|『十一段目』左から[[岩井半四郎 (8代目)|三代目岩井粂三郎]]の大星力弥、五代目澤村長十郎の大星由良助、[[市川團蔵 (6代目)|二代目市川九蔵]]の寺岡平右衛門。嘉永2年(1849年)7月、江戸中村座。三代目豊国画。]]▼
これまで歌舞伎の中心地は京・大坂であった<!--。それは上方が中心だった[[人形浄瑠璃]]から書き換えられた演目の数からもわかる-->が、文化文政時代になると、[[鶴屋南北 (4代目)|四代目鶴屋南北]]が『[[四谷怪談|東海道四谷怪談]]』(四谷怪談)や『[[於染久松色読販]]』(お染の七役)など、江戸で多くの作品を創作し<ref>日本国語大辞典(小学館)、鶴屋南北の項。</ref>、江戸歌舞伎のひとつの全盛期が到来する。南北はまた'''生世話'''(侠客や相撲取りの意地の張り合いや心中事件などを扱う狂言<ref name="iwashin5">岩波新書661『歌舞伎の歴史』、今尾哲也著、第5章『鶴屋南北と棺桶』</ref>)を確立して評判を得た<ref name="iwashin5" />。▼
▲[[
▲これまで歌舞伎の中心地は京・大坂であった<!--。それは上方が中心だった[[人形浄瑠璃]]から書き換えられた演目の数からもわかる-->が、文化・文政時代になると、[[鶴屋南北 (4代目)|四代目鶴屋南北]]が『[[四谷怪談|東海道四谷怪談]]』(四谷怪談)や『[[於染久松色読販]]』(お染の七役)など、江戸で多くの作品を創作し<ref>日本国語大辞典(小学館)、鶴屋南北の項。</ref>、江戸歌舞伎のひとつの全盛期が到来する。南北はまた'''生世話'''(侠客や相撲取りの意地の張り合いや心中事件などを扱う狂言<ref name="iwashin5">岩波新書661『歌舞伎の歴史』、今尾哲也著、第5章『鶴屋南北と棺桶』</ref>)を確立して評判を得た<ref name="iwashin5" />。
天保3年(1832年)には[[市川團十郎 (7代目)|七代目市川團十郎]](当時は五代目市川海老蔵)が'''[[歌舞伎十八番]]'''の原型となる「歌舞妓狂言組十八番」として18の演目を明記した刷り物を贔屓客に配り、天保11年(1840年)に [[松羽目物]]の嚆矢となった『[[勧進帳]]』を初演した際に現在の歌舞伎十八番に固定した。▼
▲[[天保]]3年
その後、大南北や人気役者の死去と[[天保の改革]]による弾圧が重なり、歌舞伎は一時大きく退潮した。[[天保の改革]]の影響は大きく、七代目市川團十郎が奢侈を理由に江戸所払いになったり(天保13年)、役者の交際範囲や外出時の装いを限定されたりと、弾圧に近い統制がなされたばかりか、堺町・葺屋町・木挽町に散在していた[[江戸三座]]と操り人形の薩摩座・結城座が一括して外堀の外<ref group="注">浅草聖天町。丹波[[園部藩]]下屋敷を収公した跡地。現在の[[浅草]]六丁目一帯。</ref>に移転させられた<ref>日本大百科全書(小学館)、猿若町の項。</ref>。移転先の聖天町は江戸における芝居小屋の草分けである猿若勘三郎の名にちなんで猿若町(さるわかまち)にと改名された。▼
▲その後、大南北や人気役者の死去と[[天保の改革]]による弾圧が重なり、歌舞伎は一時大きく退潮した。
しかし、江戸三座が[[猿若町]]という芝居町に集約されたことで逆に役者の貸し借りが容易となり、また江戸市中では時折悩まされた火事延焼による被害も減ったため、歌舞伎興行は安定を見せ、これが結果的に江戸歌舞伎の黄金時代となって開花した。▼
▲しかし、江戸三座が
[[幕末]]から明治の初めにかけては、[[河竹黙阿弥|二代目河竹新七(黙阿弥)]]が『[[小袖曾我薊色縫]]』(十六夜清心)、『[[三人吉三廓初買]]』(三人吉三)、『[[青砥稿花紅彩画]]』(白浪五人男)、『[[梅雨小袖昔八丈]]』(髪結新三)、『[[天衣紛上野初花]]』(河内山)などの名作を次々に世に送り出し、これが明治歌舞伎の全盛へとつながった<ref>国史大辞典(吉川弘文館)、河竹黙阿弥の項。</ref>。▼
▲[[幕末]]から[[明治]]の初めにかけては、[[河竹黙阿弥|二代目河竹新七(黙阿弥)]]が『[[小袖曾我薊色縫]]』(十六夜清心)、『[[三人吉三廓初買]]』(三人吉三)、『[[青砥稿花紅彩画]]』(白浪五人男)、『[[梅雨小袖昔八丈]]』(髪結新三)、『[[天衣紛上野初花]]』(河内山)などの名作を次々に世に送り出し、これが明治歌舞伎の全盛へとつながった<ref>国史大辞典(吉川弘文館)、河竹黙阿弥の項。</ref>。
江戸時代、歌舞伎役者らは伝統的に「河原者」([[賎民]])として身分上は差別された<ref>盛田嘉徳『中世賤民と雑芸能の研究』雄山閣出版、1994年2月5日 ISBN 9784639004363</ref>とされる。▼
▲江戸時代、歌舞伎役者らは伝統的に「[[河原者]]」([[賤民|賎民]])として身分上は差別された<ref>{{Harvnb|盛田
=== 明治以降 ===▼
[[File:SharakuTwoActors.jpg|thumb|200px|right|二代目沢村淀五郎の川連法眼と初代坂東善次の鬼佐渡坊]]▼
[[明治]]になると新時代の世相を取り入れた演目('''[[散切物]]'''、ざんぎりもの)が作られた。これは明治の時代背景を描写し、洋風の物や語を前面に押し出して書かれていたが、構成や演出は従来の世話物の域を出るものではなく、革新的な演劇というよりは、むしろ流行を追随したかたちの[[生世話物]]といえる。<!--以下は直接歌舞伎の歴史に関係ないので、コメントアウト。内容的には「演目」の「特徴」節にほぼ取り込んだはず。▼
▲
確かに歌舞伎はある程度の基礎知識がないと物語の背景や人物設定が分かりにくいところがある。「見取り狂言」仕立ての興行で発達した歌舞伎では、複数の演目から人気の場や幕をのみを拾って見せるのが通常である。また仮に「通し狂言」を上演したとしても、そもそも歌舞伎には一日のうちに[[時代物]]と[[世話物]]、荒事と和事、狂言と舞踊といった相対する分野をくまなく網羅するという決まり事があるため、例えば江戸の遊郭の遊女たちが羨望する粋でいなせな美男の[[助六]]が実は姿を変えて父の仇討ちの機会を待つ武士の[[曾我時致|曾我五郎]]([[鎌倉時代]]に実在した人物)だったりする必然性があった。こうした歌舞伎を愛する者にとっては当たり前な設定は、洋行帰りの知識人にとっては奇妙奇天烈な展開にしか見えなかった。そしてそもそも作者と役者の双方が演出家の役割を兼ね、さらに「[[お家芸]]」という[[口伝]]がものをいう歌舞伎は、脚本家・演出家・俳優の役割が明確に分担されている西洋演劇を見慣れた者たちには混沌と混乱にしか見えなかった。
-->しかし明治5年([[1872年]])になると歌舞伎の価値観を根底から揺るがす要求が
1886年(明治19
時代は前後するが、こうした要求に応じて作られたのが'''
こうした團十郎の芸は高く評価され<ref name="iwashin7"/>ながらも、活歴をよしとするのは一部の上流知識人のみ<ref name="iwashin7"/>で、世間の人はその芝居らしくない活歴には背を向けた<ref name="iwashin7"/>が、團十郎の演技志向に対する共感は次第に広がっていった<ref name="iwashin7"/>。しかし[[日清戦争]]前後の復古主義の風潮の中で團十郎は従来の狂言を演じるようになり、猥雑すぎるところ、倫理にもとるところ以外には手を入れないほうがよいと考えるようになった。それでもなお芝居が完全に旧来に復したわけではなく、創造方法において活歴の影響を受けたものであった<ref>今尾(2000)、pp168-169</ref>。こうして團十郎の人物造形が従来の歌舞伎にも適
劇場の面では、1889年(明治22
歌舞伎座は歌舞伎の歴史に
一方の江戸三座は、歌舞伎座設立時に千歳座(
19世紀末<ref name="iwashin8">
その一方では、従前からの[[梨園]]の[[封建
=== 第二次大戦後 ===
[[
終戦後、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]は日本の民主化と軍国主義化の払拭との理由から「仇討ち物」や「身分社会を肯定する」の演目の上演を禁止した。1945年11月15日、GHQは東京劇場上演中の「菅原伝授手習鑑」寺子屋の段を反民主主義的として中止命令、11月20日、上演中止<ref>日本演劇全史 河竹繁俊</ref>となった。松竹本社ではGHQの指導方針に即して自主的に脚本の再検討を行った結果、『[[忠臣蔵]]』『千代萩』『寺子屋』『水戸黄門記』『[[番町皿屋敷]]』などの演目を締め出すこととした<ref>「忠臣蔵」などノー、総司令部が指導(昭和20年12月12日朝日新聞)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p15 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。しかし、[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]の副官[[フォービアン・バワーズ|バワーズ]]の進言で、古典的な演目の制限が解除され、昭和22年([[1947年]])11月、東京劇場で東西役者総出演による『[[仮名手本忠臣蔵]]』の通し興行が行われた。▼
▲終戦後の[[1945年]](昭和20年)[[9月22日]]、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]は日本の民主化と軍国主義化の払拭との理由から、「
[[1950年代]]、人々の生活に余裕が生まれ、娯楽も多様化し始めた。[[1953年]](昭和28年)2月1日、[[NHK総合テレビジョン|NHKテレビジョン]]の放送開始により日本のテレビ放送が開始された。同日同局が日本のテレビ史初の番組として放映したのが歌舞伎番組であったが、[[日本プロ野球|プロ野球]]やレジャー産業の人気上昇、映画や放送の発達が見られるようになり、歌舞伎が従来のように娯楽の中心ではなくなってきた。そして歌舞伎役者の映画界入り、関西歌舞伎の不振、小芝居が姿を消すなど歌舞伎の社会にも変動の時代が始まった。▼
[[File:助六(江戸東京博物館).jpg|260px|thumb|市川團十郎の助六(江戸東京博物館)]]
▲[[1950年代]]
そのような社会の変動の中、
戦後の全盛期を迎えた[[1960年代]]から[[1970年代]]には次々と新しい動きが起こ
歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]][[無形文化遺産保護条約]]の発効以前<ref group="注釈">[[2003年]](平成15年)のユネスコ第32回総会において採択され、[[2006年]](平成18年)4月に発効した。</ref>の[[2005年]](
== 演目 ==<!--
読者の多くは歌舞伎に詳しくないからこそこの項目を読む⇒「歌舞伎狂言」という単語を知らない可能性あり⇒章タイトルが「歌舞伎狂言」だと目次を見ても何が書いてあるか分からずかなり不親切⇒「演目」という章タイトルに変更
-->
[[
=== 分類 ===
現代の歌舞伎の演目は普通の芝居である'''歌舞伎狂言'''と'''歌舞伎舞踊'''に分けられる<ref>日本国語大辞典(小学館)歌舞伎狂言の項</ref>。
歌舞伎狂言は、さらにその内容により'''時代物'''と'''世話物'''に大別される。[[時代物]]とは、江戸時代より前の時代に起きた史実を下敷きとした実録風の作品<ref>国史大辞典(吉川弘文館)、時代物の項</ref>や、江戸時代に公家・武家・僧侶階級に起きた事件を中世以前に仮託した作品をいう<ref>
時代物のうち、お家騒動を書いたものは'''御家物'''(おいえもの)、[[飛鳥時代]]から[[平安時代]]を描いたものは'''王朝物'''(おうちょうもの)と呼ばれる。また世話物のうち、特に写実的要素の濃いもの<ref>
また歌舞伎狂言はその起源によって分類することもでき、[[人形浄瑠璃]]の演目を書き換えたものを'''丸本物'''<ref name="#7">日本国語大辞典(小学館)</ref>といい、能・狂言の曲目を原作としてそれらに近い様式で上演する所作事を'''[[松羽目物]]'''<ref group="注釈">[[勧進帳]]を嚆矢とする能・狂言に近い様式で演出するものを指す。それ以前に作られた[[京鹿子娘道成寺]]は能の演目([[道成寺]])を換骨奪胎したものだが、
'''[[演劇改良運動|活歴物]]'''(かつれきもの)は明治
歌舞伎狂言の分類方法は人によって揺れがあり、時代物と世話物で2分する代わりにこれにお家物を加えて3分する用例<ref name="heibon-jiten-bunrui">
=== 特徴 ===
[[
{{Anchors|世界}}歌舞伎の演目には
複数の世界を組み合わせて
世界はあくまで狂言を作る題材もしくは前提にすぎず、実際の狂言はそこから換骨奪胎して元々の内容から大きく逸脱して自由に作られたものである事も多く、原作にない場面を描くばかりか名前をはじめとした登場人物に関わる基本設定すらも原作とかけ離れている事も珍しくない。この為「[[助六]]<small>実ハ</small>[[曾我時致|曾我五郎]]」のように世界の方の主人公(曾我五郎)が世を忍ぶ仮の姿として演目の主人公(助六)になっていると設定する。このように原作とかけ離れていても、世界が同一ならいくつかの基本的な約束事は同一なので、このような約束事に精通していた当時の観客は世界が設定されている事で芝居の内容が理解しやすいものになっていた。
155 ⟶ 157行目:
例えば[[助六]]という演目は侠客の助六が遊郭で敵の男から刀を奪い返す様子を描いたものだが、その世界である曽我物語の主人公は侠客ではないし遊郭で刀を奪う場面もない。また曽我物語の主題である仇討はこの演目では背景として沈み、「仇討に使う為に刀を奪う」という主人公の動機に関係するだけである。しかし「本来の目的は仇討である」、「助六は荒々しく、その兄はおとなしい」等他の曽我物の狂言と共通する特徴を持っており、芝居を見慣れた観客にとってはこの演目が曽我物と設定されている事により演目内容の理解が容易になる。こうした理由もあり、この演目では主人公に「助六「<small>実ハ</small>[[曾我時致|曾我五郎]]」という設定を与えてこの演目の主人公である助六と曽我物語の主人公である曾我五郎を無理やり結び付ける事でこの演目を「曽我物」という枠組みの中で描いている。--><!-- 世界は縦糸、趣向は横糸-->
江戸時代に作られた演目のその他の特徴として、その長さが長大なこと、本筋の話の展開の合間に数多くのサイドストーリーを挟んだり、場面ごとに違った種類の演出(時代物と世話物(後述))が行われたりすることなどがあげられる。前者はこれは当時の歌舞伎が日の出から日没まで上演した
現在<ref group="注釈">江戸時代後期以降</ref>ではこのような長大な演目の全場面を上演すること('''通し狂言''')<!--どこに対してrefがついているのか分らず。<ref>日本国語大辞典(小学館)、通狂言の項。</ref>-->はまれになり、複数の演目の人気場面のみを順に演じること('''ミドリ'''/'''見取り'''
また江戸時代には(当時における)現代の人物や事件やをそのまま演劇で用いることが幕府により禁止されていたため、規制逃れのため登場人名を仮名にしたうえで無理やり過去の出来事として物語が描かれるという特徴もある。しかし仮名といっても[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]のことを「真柴久吉」と呼ぶ程度のもので、このように歪曲された演目の内容から真に描きたい事件を読み解くのは容易であった<ref group="注釈">歴史上の人物に置き換える場合もあり、この場合はやや難しくなる。しかし、たとえば「太平記物」の『[[仮名手本忠臣蔵]]』では[[吉良義央]]を[[高師直]]に置き換えているが、
=== 演目名と通称 ===
181 ⟶ 183行目:
** 『[[平家女護島]]』{{smaller|(へいけ にょごがしま)}}二段目切「鬼界が島の場」→『俊寛』<small>(しゅんかん)</small>
** 『[[恋飛脚大和往来]]』{{smaller|(こいびきゃく やまと おうらい)}}二段目「新町井筒屋の場」→『封印切』{{smaller|(ふういんぎり)}}
** 『[[義経千本桜]]』{{smaller|(よしつね せん
なお、'''返し'''(返し幕)とはいったん幕を引くが幕間を設けず、鳴り物などで間をつなぎ用意ができ次第すぐに次の幕を開けること<ref>日本国語大辞典(小学館)、返幕の項。</ref>、'''切'''とは義太夫狂言のその段の最後の場面のことで<ref>日本国語大辞典(小学館)、切・限の項、2-5-ハ。</ref>、すなわち『四ノ切』とは四段目の最後の場のことをいう。『義経千本桜』の四段目の切はケレンを使った派手な演出が有名な人気の場面で、これが上演されることが特に多かったことから、ただ「四ノ切」と言えばこの場面を指すようになった。
188 ⟶ 190行目:
== 演出 ==
[[
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{{small|1932年2月[[東京劇場]]上演『一谷嫩軍記・熊谷陣屋』の一場面。}} -->]]
歌舞伎の舞台には役者に小道具を手渡すなど演技の手助けをする役割の人物がいることがあり、この人を'''後見'''(こうけん)という。特に全身黒装束に身を包んだ後見を'''黒衣後見'''(くろごこうけん)、あるいは略して'''[[黒衣]]'''(くろご)という。役者以外の人物が舞台に登場しないことが原則の通常の演劇と違い、黒衣をはじめとした後見は観客の目から見える位置に現れる。しかし後見たちが舞台にいないものとして扱うのが歌舞伎の暗黙の
黒衣以外にも、[[紋付]][[袴]]の後見('''着付後見'''(きつけごうけん)もしくは'''袴後見'''という)や[[裃]]の後見('''裃後見'''(かみしもごうけん)という)もいる<ref>{{Harvnb|今尾
<!--将来的には「効果音」という節を作って柝の記述をそっちに移した方がよいかも-->また歌舞伎の演出では'''[[拍子木]]'''(ひょうしぎ)あるいは略して'''柝'''(き)を用いる<!--今尾哲也 『歌舞伎をみる人のために』に「柝」は「拍子柝」の略称だと書いてある-->ことがあり、芝居の開始時の合図として打ったり幕切れで打ったりし、これらのときには2本を打ち合わせる<ref name="imao">{{Harvnb|今尾
[[
'''[[隈取]]'''はおもに時代物で行われる化粧法である。顔に線を描いたもので、もともとは血管や筋肉を誇張するために描かれたものだとされている。役柄により色が異なり、赤系統の色は正義の側の人間に、青系統の色は敵役に、茶色は鬼や妖怪などに用いられる。
{{See also|隈取}}
'''見得'''は演目の見せ場において役者がポーズを決めて制止することを指す。映画におけるストップモーション技法に相当し、役者を印象づけたり舞台の絵画的な美しさを演出したりするのに用いられる。'''[[六方]]'''(ろっぽう)は伊達や勇壮なさまなどを誇張したり美化した荒事の要素をもつ所作である。歌舞伎では、当初は舞台への出のときに行われたが、後代になるともっぱら花道への引っ込みのときにこれが行われる。
208 ⟶ 212行目:
== 役者 ==
=== 名跡と屋号 ===
一代に終わらず何代も受け継がれる歌舞伎役者の芸名は、'''[[名跡]]'''(みょうせき)と呼ばれている。名跡を継ぐことを'''襲名'''(しゅうめい)といい、役者たちは経験を経るにつれ、名跡を順々に取り換えて次第に大きな名跡を継いでいく。実子や血縁者が継承することが多いが、養子や実力のある高弟
役者たちは名跡とは別に名跡・芸名ごとにきまる'''屋号'''(やごう)を持っている([[歌舞伎役者の屋号一覧]]参照)。歌舞伎では役者の登場時やセリフ・見得が決まった時など
=== 役者の養成 ===
歌舞伎役者の家柄に生まれた者の場合、幼少時から芸の基礎となる習い事(日本舞踊、長唄、鳴物など)を始め、未就学のうちに役者の子や孫として舞台に上がる「初お目見え」<ref>{{Cite
歌舞伎とは関係のない家に生まれた世襲以外の志望者については、国立劇場の新人育成研修([[歌舞伎#伝統歌舞伎保存会|後述]])、1997年に開塾した松竹上方歌舞伎塾<ref>{{Cite
ほか、子役で歌舞伎の舞台に出演したときに素質を見込まれて部屋子・芸養子となると、役者と同じ楽屋で鏡台を並べ、有力な役者の子弟(御曹司)と同様に教育を受けることとなる。このように育成された例としては、[[坂東玉三郎 (5代目)|五代目坂東玉三郎]]や[[片岡愛之助 (6代目)|六代目片岡愛之助]]などが知られている
歌舞伎界に入門して10年以上で幹部俳優の推薦を受けた役者は、[[日本俳優協会]]の名題資格審査(名題試験)を受験することができる。筆記・作文・実技の審査に合格して『名題適任証』を取得し、関係各方面の賛同を受けて名題昇進披露を行った者は「名題俳優」と呼ばれる。歌舞伎俳優の家に生まれた者も歌舞伎とは無関係な家に生まれた者も、同様に受検して資格を得ている<ref>{{Cite web|和書|title=片岡孝太郎『名題試験』|url=https://ameblo.jp/takataro-kataoka/entry-11387384272.html|website=片岡孝太郎オフィシャルブログ「片岡孝太郎の 話すことあり 聞くことあり」Powered by Ameba(2012年10月24日)|accessdate=2021-06-26|language=ja}}</ref>。名題に昇格していない者は「名題下」と呼ばれるが、『名題適任証』を取得しているにも
銀行員であったが[[市川流|市川宗家]]に婿入りしたことから29歳で役者修業に入った[[市川三升|五代目市川三升]]、[[市川猿翁 (2代目)|三代目市川猿之助]]と[[浜木綿子]]の息子として生まれたが両親の離婚のため母親に養育され、長らく本名
{{節スタブ}}
=== 伝統歌舞伎保存会 ===
社団法人伝統歌舞伎保存会は、[[1965
翌[[1966年]](昭和41年
[[独立行政法人]][[日本芸術文化振興会]]([[国立劇場]])や松竹と協力し、歌舞伎俳優
2020年5月28日に[[日本俳優協会]]と[[YouTube]]チャンネル「歌舞伎ましょう」<ref>{{Cite web|和書|title=「歌舞伎ましょう」日本俳優協会・伝統歌舞伎保存会【公式】 - YouTube|url=https://www.youtube.com/channel/UCrrqtFzHct-BLRalxkQtbDg/featured|website=www.youtube.com|accessdate=2021-08-30}}</ref>を開設しており、歌舞伎の魅力を伝えるための動画配信を行っている<ref>{{Cite web|和書|title=YouTubeチャンネル「歌舞伎ましょう」開設、松本幸四郎の隈取動画公開(動画あり)|url=https://natalie.mu/stage/news/380884|website=ステージナタリー(2020年5月28日)|accessdate=2021-08-30|
== 舞台 ==
[[
[[
=== 舞台の各部分 ===
歌舞伎の舞台を右図にしたがって説明する。なお客席から舞台を見たとき右側を'''上手'''(かみて)、左側を'''下手'''(しもて)という。
'''花道'''は舞台下手から客席を貫いて設けられている通路状の舞台である。正面の舞台は'''本舞台'''という。花道は役者の入退場に用いられるばかりでなく、ここで重要な演技も行われる。観客のすぐそばを通ることで役者の存在感をアピールするなどの演出が可能となる<ref group="注釈">本舞台では距離や時間がリアルであるが、花道ではそうではない。たとえば『勧進帳』では義経一行が登場してから本舞台にかかるまで数分だが、都から安宅の関までの時間と距離すべてを表している。弁慶が最後に飛び六法で花道を退場するが、そのときすでに義経はずっと先へ行っている。花道はわずかな長さしかないが、弁慶は何キロも走っているのである。</ref>。
舞台の両端には'''大臣囲い'''(だいじんがこい)があり、下手側の大臣囲いには太鼓などの演奏や長唄、効果音などを演奏するための場所で外側には黒い御簾(みす)がかけられている。この場所を'''黒御簾'''(くろみす)もしくは'''下座'''(げざ)ともいい、ここで奏でられる音楽を'''黒御簾音楽'''もしくは'''下座音楽'''という。一方、上手側の大臣囲いの2階は義太夫狂言(=[[人形浄瑠璃]]から取り込んだ演目)などで竹本という語り物とその伴奏である三味線を奏でる場所で、'''床'''(ゆか)と呼ばれる。大臣囲いの端の柱は'''大臣柱'''(だいじんばしら)と呼ばれている。これは現在では単なる柱にすぎないが、歴史的には歌舞伎舞台の先祖である能舞台で屋根を支える柱からきており<ref name="imao-miru154">{{Harvnb|今尾
花道の舞台とは反対側の端には役者が入退場するための'''鳥屋'''(とや)という部屋があり、その入り口には部屋の中を隠すための'''揚幕'''(あげまく)という幕がかかっている。また本舞台と揚幕を3:7に分ける場所
なお歴史的には'''七三'''といえば揚幕寄りの七三のことであった
日本の家屋は床が地面よりもかなり高いため、舞台でもこの高さを作り出すことが多い。この高さの水準を二重舞台、略して二重といい、そのための大道具類も二重と呼ばれる。高さによって常足、中足、高足などがある。どれを使うかは場面によってだいたい決まっている<ref>新版 歌舞伎事典、「二重」の項、平凡社。</ref>。
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=== 舞台機構 ===
==== 廻り舞台 ====
'''[[廻り舞台]]'''(まわりぶたい)は舞台中央にあって、水平に回転する舞台である。手前側と向こう側に2つの場面の装置を仕込んでおき、回転させることによって素早く場面転換ができる。通常は役者が舞台に乗ったままの状態で、装置ごと回す。上演中であっても裏側に回った方の装置をこわし、さらに次の場面の装置を仕込むことができる。廻り舞台の回転は歌舞伎の見せ場のひとつで、照明を消さず幕を開けたまま廻り舞台を回転させ、場面転換を観客に印象づけることができる。この手法を'''明転'''(あかてん)という。また、たとえば悪だくみをたくらむ場面とその被害者宅の2つを廻り舞台の上に乗せ、一方から他方への転換を見せ、次に逆回転させて元の場面に戻るというようなことができる<ref group="注釈">例えば[[東海道四谷怪談]]</ref>。これを俗に「'''行って来い'''」といい、場面が戻るとともに時間も戻るかのように感じられるため、2つの場面の同時性を強く表現できる。
『佐倉義民伝』の子別れ、『入谷』などのように、少しだけ廻して建物の横などを見せることもある。半廻しという。歌舞伎以外の芝居では装置は通常、表側だけしか作らないが、歌舞伎ではこのように厚みのある装置を組むことがある。ときには裏側まで作る。
==== 迫り ====
'''迫り(セリ)'''は昇降装置で、地下('''奈落'''(ならく)という)からせり上がって役者の登場や退場に使われるほか、大道具それ自身をせり上げることで屋敷の地下が現れる<ref group="注釈">例えば[[伽羅先代萩]]の床下の場。[[楼門五三桐]]や[[青砥稿花紅彩画]]でも同様の演出がある。</ref>などの迫力のある演出を行う。回り舞台が場面を水平方向へ、迫りが鉛直方向に切り替えて立体感を出す。なおセリの配置や個数は劇場により異なるが、ここでは歌舞伎座のもの<ref>「かぶき手帖 2013年度版」、日本俳優協会編集・発行、p23</ref>を図示した。廻り舞台や迫りは今日では
==== 幕 ====
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歌舞伎では舞台と客席を仕切る幕として'''[[定式幕]]'''という引き幕(=横方向に引いて開閉する幕)が用いられる。現在用いられている定式幕は三色の縦縞であり、色は左から黒、柿、萌黄の順(歌舞伎座や京都[[南座]]など)もしくは柿、黒、萌黄の順である([[国立劇場]]や大阪[[新歌舞伎座 (大阪)|新歌舞伎座]]など)。[[平成中村座]]は例外的に左から黒、白、柿の順の三色を用いている。
また現在ではさらに上に開く'''[[緞帳]]'''も用いており、緞帳を開けるとその奥に定式幕が見えるようになっている。開場直後や長い幕間では緞帳が下りているが、芝居が始まるだいぶ前の段階で緞帳を上げ、その後定刻になると定式幕を下手から上手へ引き開けて芝居が始まる。
江戸時代に引き幕を使用することができたのは幕府から許可を得た芝居小屋だけであり、定式幕はいわば官許の芝居の証のひとつであった。江戸には幕府の許可を得た芝居小屋は3つのみ('''[[江戸三座]]''')であり、前述した3種類の定式幕はそれぞれ江戸三座の森田座、市村座、中村座に起源を持つ。ただし引き幕に関する事情は地方によって異なり、たとえば上方では紺無地一色の幕を中央から2つに分けて開いていた<ref name="imao-miru54">{{Harvnb|今尾
一方幕府の許可のない芝居小屋はさまざまな制限を受けており、引き幕を使えないため代わりに[[簾]]を上下させて幕の代わりに利用していた<ref name="imao-miru63">{{Harvnb|今尾
その
'''道具幕'''は背景として用いられる。道具幕には'''浪幕'''(なみまく)、'''山幕'''(やままく)、'''網代幕'''(あじろまく)などがあり、それぞれ海の波、山、塀の築地が描かれている。'''黒幕'''(くろまく)は黒一色の幕で闇夜を表すための背景として用いられる。これらの幕は浅葱幕と同様の仕組みで振り落とされる場合もある。<!--あり、例えば黒幕を振り落とす事で夜が明けた事を演出したりする。****あれはなにかの様式美であって、朝になったわけじゃないと思う。-->
また不必要なものを隠す目的でも幕は使用され、消し幕は殺された人物の退場、'''霞幕'''(かすみまく)は竹本や清元などの演奏者の入退場や演奏していない状態を隠す目的で使用される<ref name="izanai-maku">{{Cite web|和書|work=独立行政法人日本芸術文化振興会
==== 照明 ====
歌舞伎の古典的な演目では舞台上のどこにも影がなく、均一な照明が好まれるため、通常の劇場の前明かりばかりでなく、舞台上・舞台脇にも
== 歌舞伎音楽 ==
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: 人形浄瑠璃は、[[義太夫節]](浄瑠璃の一種)の演奏に合わせて劇が進行する構成であり、歌舞伎でも人形浄瑠璃から移入した演目(『[[義経千本桜]]』『[[仮名手本忠臣蔵]]』など)は同様に義太夫節が演奏される。人形浄瑠璃では登場人物の台詞と状況説明をすべて義太夫節の太夫(語り手)が行うが、歌舞伎での台詞は基本的に役者が担当し、太夫は状況の説明のみを語ることになる。このため、歌舞伎における義太夫節を「[[竹本]](チョボ)」といって区別することがある。義太夫狂言での義太夫節はおもに舞台上手上部にある専用の場所で演奏される。この場所を「床(ゆか)」または「チョボ床」と呼ぶ<ref>日本大百科全書(小学館)、竹本の項</ref>。
; 常磐津節・清元節
{{Main|常磐津節|清元節}}
: ともに浄瑠璃のひとつ。大坂で発展した義太夫節に対し、これらは江戸で発展したもので「江戸浄瑠璃」と呼ばれる<ref>大辞泉(小学館)、江戸浄瑠璃の項。</ref>。重厚な義太夫節に比べて軽妙洒脱な芸風が特徴で、清元節はさらに繊細な持ち味を備える。舞踊劇や舞踊で演奏される。
; その他
: 上記の
; 下座音楽
{{Main|下座音楽}}
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== 興行 ==
[[
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2014年現在、歌舞伎の興行は[[松竹]]がほぼ独占的に行っている。松竹の興行の名称の多くは'''大歌舞伎'''、'''花形歌舞伎'''のいずれかの名称がついており(例:三月大歌舞伎)、前者はベテランの役者が、後者は若手の役者が中心となる興行を指す。
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歌舞伎鑑賞の助けとして「筋書」の販売や、「イヤホンガイド」と「字幕ガイド」の貸し出し(いずれも有料)を行っている。
「筋書」は各演目の(上演する場面の)あらすじを書いた冊子(プログラム)である<ref group="注釈">午前の部、午後の部の両方の演目のあらすじが書いてある。「番付」ともいう。</ref>。「字幕ガイド」は役者がしゃべっている台詞を字幕で表示してくれる。
'''イヤホンガイド'''は歌舞伎上演中に上演内容の解説を無線で劇場内に飛ばし、観客がイヤホンでそれを聞くことができるサービス(有料)のことである。日本語版、英語版がある。劇場内で料金と保証金を払うことでイヤホンと無線の受信端末を借り受け、終演後にこれらを返却すれば保証金は返される。
イヤホンガイドでは「あらすじ・配役・衣裳・道具・独特な約束事など」<ref>
1975年(昭和50年)11月の[[歌舞伎座]][[顔見世]]興行から導入された。邪道と言う者もいるが、イヤホンガイド登場以前も、歌舞伎観劇では、歌舞伎通が歌舞伎初心者に客席でひそやかに解説することがあった。歌を聞く[[オペラ]]や[[ミュージカル]]と違い、[[台詞]]を聞く歌舞伎だから許された観劇習慣だった{{要出典|date=2014年4月}}。
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* [[スーパー歌舞伎]]:[[市川猿翁 (2代目)|三代目市川猿之助]](二代目市川猿翁)が1986年に始めた現代風の歌舞伎で、特徴としては明治以降の歌舞伎では軽視されることが多い外連(けれん)の重視、現代の価値観に沿った演出などがあげられる。新橋演舞場などで上演されることが多い。2015年現在は三代目猿之助が二代目市川猿翁を襲名して事実上隠居したものの、[[市川猿之助 (4代目)|四代目市川猿之助]]が後を引き継ぎ「スーパー歌舞伎II(セカンド)」と銘打って新たな演目に挑戦している。
* [[コクーン歌舞伎]]:[[渋谷]]の[[Bunkamura]]の劇場[[シアターコクーン]]で行われる歌舞伎公演で、古典歌舞伎の演目を新たな演出で上演し、たとえば下座音楽の代わりにエレキギターやクラシック管弦楽を使う。
* [[平成中村座]]:[[中村勘三郎 (18代目)|十八代目中村勘三郎]]と演出家の[[串田和美]]らが中心となり、[[浅草]]の[[隅田公園]]内に江戸時代の[[江戸三座|中村座]]を模した仮設の芝居小屋で行われる。勘三郎逝去後は長男の[[中村勘九郎 (6代目)|六代目中村勘九郎]]が座主を引き継ぎ、2014年7月にニューヨークで復活公演を行った<ref>
* [[前進座]]:公演は歌舞伎のみならず、歴史劇、現代劇や子ども向けミュージカルなど多彩。毎年5月の[[国立劇場]]公演を中心に、[[南座]]での初春公演、2月[[国立文楽劇場]]公演、9月の[[国立文楽劇場]]公演、秋の名古屋公演など都市部のみならず、地方での巡業公演も積極的に行っている。
* [[超歌舞伎]]:2016年の[[ニコニコ超会議|ニコニコ超会議2016]]より行われている公演で、バーチャルアイドル[[初音ミク]]と[[中村獅童 (2代目)|二代目中村獅童]]を中心とした歌舞伎役者が[[NTT]]による最新テクノロジーを駆使した演出により共演する。2019年8月には京都南座での公演も行われている<ref>{{Cite web|和書|title=八月南座超歌舞伎|南座|歌舞伎美人|url=https://www.kabuki-bito.jp/theaters/kyoto/play/573|website=歌舞伎美人|accessdate=2020-11-10|language=ja}}</ref>。
* 六本木歌舞伎:[[市川海老蔵 (11代目)|十一代目市川海老蔵]]を中心とした新作歌舞伎の公演で、[[三池崇史]]が演出している。2017年の六本木歌舞伎[[座頭市]]では女優の[[寺島しのぶ]]が盲目の少女と花魁で出演<ref>{{Cite book|和書|date=2018年5月1日|work=中日劇場
* [[システィーナ歌舞伎]]:[[複製画]]の展示施設である[[徳島県]][[鳴門市]]の[[大塚国際美術館]]システィーナホールで行われる公演。2009年に初演されて以来ほぼ毎年の恒例行事となっており、「和と洋のコラボレーション」をテーマとして水口一夫による書き下ろし新作が上演される。
* [[滝沢歌舞伎]]:[[滝沢秀明]]を中心とした歌舞伎公演で、前身の「滝沢演舞城」から改題。バンジーやフライング、イリュージョンなどの要素を取り入れている。2019年以降は「滝沢歌舞伎ZERO」に改題。
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== 歌舞伎に由来する語 ==
* [[大向う]]を
<!-- * [[十八番]](おはこ)--><!-- *:七代目[[市川團十郎]]は、自分の家が代々、江戸歌舞伎の名役者を輩出してきた誇りと権威を持たせるために、定評のある演目十八種を「江戸市川流歌舞伎狂言組十八番」として定めた。これを「おはこ」と呼ぶ理由は、もともと「得意芸」を「はこ」と呼ぶ習慣があったためのようである。--><!-- リンク先に詳述があるので --><!--「十八番」というのは市川宗家の得意芸である[[歌舞伎十八番]]に由来し、そこから一般にも意味が広がって得意なもの、得意芸の意味となった。ただし「十八番」と書いてなぜ「おはこ」と読むのか、そのいわれについては諸説あるもいまだ定説を見ない。-->
[[
* 差金(さしがね) - 舞台に舞い踊る蝶・鳥・人魂などの小道具は、長い黒塗りの竿の先に差した針金にそれらを吊るし、[[後見]]や黒衣(後述)がこれを舞台上の物陰から操作したが、この[[小道具]]一式を差金と呼んだ<ref name="daijirin">大辞林(三省堂)</ref>。<!--また人形浄瑠璃でも人形を動かす部分に差金と呼ばれる部分がある。-->そこから意味が転じて、陰で人をそそのかしたり、入れ知恵したりする者がいると思われる場合に、「あれは誰々の差金に違いない」などと言い表すようになった。
* [[黒衣]](くろご) - 表には出ないものの、なくてはならない存在。縁の下の力持ち。ただし「黒子」「くろこ」はともに[[誤用]]が定着した慣用で、正しい表記は「[[黒衣]]」読みは「くろご」。黒装束に黒[[頭巾]]を着用し、舞台上で役者の介添や小道具を操作する者のことをいう。
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== 関連図書 ==
* {{
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* {{Cite book|和書|others=[[河竹登志夫]]
* {{
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* {{Cite book|和書|others=国立劇場 企画・編
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* {{
* {{Citation|和書|author1=和田修
* {{Cite book|和書|author=児玉絵里子
* {{Cite book|和書|author = 今尾哲也|year = 2009|title = 河竹黙阿弥 : 元のもくあみとならん|series = ミネルヴァ日本評伝選|publisher = ミネルヴァ書房|isbn = 978-4-623-05491-6|ref={{SfnRef|今尾|2009}}}}
* {{Citation|和書|title=江戸歌舞伎集|series=新日本古典文学大系96 1997|publisher=岩波書店|chapter=元禄期の江戸の舞台|ref={{SfnRef|江戸歌舞伎集|1997}}}}
* {{Cite book|和書|author1=生田耕作|authorlink1=生田耕作|author2=坂井輝久|title=洛中洛外漢詩紀行|publisher=[[人文書院]]|date=1994|ref={{SfnRef|生田|坂井|1994}}}}
* {{Cite book|和書|author1=岡本勝|authorlink1=岡本勝 (国文学者)|author2=雲英末雄|authorlink2=雲英末雄|title=新版近世文学研究事典|date=2006-02|pages=400|publisher=おうふう|ref={{SfnRef|岡本|雲英|2006}}}}
* {{Cite book|和書|author=盛田嘉徳|authorlink=盛田嘉徳|title=中世賤民と雑芸能の研究|publisher=[[雄山閣|雄山閣出版]]|date=1994年2月5日|isbn=9784639004363|ref={{SfnRef|盛田|1994}}}}
* {{Citation|和書|author1=須永朝彦|authorlink1=須永朝彦|title=歌舞伎ワンダーランド|chapter=世界 ― 予め設定される時間と人物|publisher=[[新書館]]|date=1990|ref={{SfnRef|須永|1990}}}}
=== 歌舞伎舞台、劇場建築史 ===
* {{Cite book|和書 |title=日本の劇場回顧 |year=1947 |publisher=[[相模書房]] |author=[[図師嘉彦]] |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1125541}}
* {{Cite book|和書 |title=吉田暎二著作集 歌舞伎絵の研究 |year=1963 |publisher=[[緑園書房]] |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/2500573/1/24}}
* {{Cite book|和書 |title=日本劇場史 |year=1925 |publisher=岩波書店 |author=[[後藤慶二]] |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1824031/1/4}}
* {{Cite journal|author=後藤慶二|year=1913|title=劇場の話|journal=[[建築工芸誌]]|publisher=[[建築工芸社]]}}
* {{Cite journal|author=後藤慶二|year=1913|title=劇場の話|journal=[[建築工芸誌]]|publisher=[[建築工芸社]]}}
* {{Cite journal|author=[[明石一夫]]|year=1915|title=江戸時代の劇場|journal=建築世界|publisher=建築世界社}}
* {{Cite journal|author=後藤慶二|year=1923|title=横断劇場舞台建築史|journal=中央建築|publisher=中央建築社}}
== 脚注 ==▼
{{脚注ヘルプ}}▼
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"|2}}▼
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}▼
== 関連項目 ==
* [[厚化粧#歌舞伎]] - [[隈取]]
* [[松竹#歌舞伎]]
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== 外部リンク ==
{{
; 国際機関
* [
; 歌舞伎上演元による解説
* [https://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/kabuki/jp/index.html 日本芸術文化振興会(国立劇場)・歌舞伎への誘い] - 歴史や表現様式、演目などを概観。動画資料も。
* [https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/ 国立劇場・文化デジタルライブラリー] - 演目の解説や上演記録など詳細な記録と解説。
* [https://www.kabuki-bito.jp/ 歌舞伎公式ウェブサイト] - 松竹による総合情報、上演情報もあり
** [https://www.kabuki-bito.jp/special/kabuki_column/todaysword/ 歌舞伎 今日のことば] - 上記ウェブサイト内の、歌舞伎に関する解説ページ
; 上演情報
* [https://www.shochiku.co.jp/play/ 松竹] - 歌舞伎座、南座などの上演情報
415 ⟶ 443行目:
* [http://www.kabuki-music.com/ 歌舞伎音楽専従者協議会(歌音協)]
; マスコミ・メディア
* [
* {{ニコニコチャンネル|kabuki0220|歌舞伎チャンネル}}
; その他
* [https://web.archive.org/web/20210124185330/http://watanabetamotu.la.coocan.jp/ 渡辺保の歌舞伎劇評] - 演劇評論家[[渡辺保]]による毎月の劇評
* [https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010361 番組エピソード 歌舞伎役者が演じた時代劇-NHKアーカイブス]
▲== 脚注 ==
▲{{脚注ヘルプ}}
▲=== 注釈 ===
▲{{Reflist|group="注"|2}}
▲=== 出典 ===
▲{{Reflist|2}}
{{日本の伝統芸能}}
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[[Category:重要無形文化財]]
[[Category:日本の無形文化遺産]]
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