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{{Otheruses||同名の雑誌|[[歌舞伎 (雑誌)]] および [[歌舞伎 (第1次)]]}}
[[Fileファイル:Odori Keiyō Edo-e no sakae by Toyokuni III.jpg|thumb|400px|安政年間の市村座
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[[歌川国貞|2代目歌川豊国]] 画『踊形容江戸繪榮』<!--(おどり けいよう えどえの さかえ)-->大判錦絵三枚続物。安政5年7月(1858年)7月江戸・[[市村座]]上演の『[[暫]]』を描いたもの。]]
 
'''歌舞伎'''(かぶき)は、[[日本]]の[[演劇]]で、[[伝統芸能]]のひとつ。[[1603年]]([[慶長]]8年)に[[京都]]で[[出雲阿国]]が始めた'''ややこ踊り'''、'''かぶき踊り'''(踊念仏)「[[チンドン屋]]と起源は同じ」が始まりで[[江戸時代]]に発展し、女歌舞伎から若衆歌舞伎、野郎歌舞伎と風俗紊乱を理由とした規制により変化していった。
 
日本の[[重要無形文化財]]に[[1965年4]]([[昭和]]40年)4月20日に指定<ref name="1965kokuji">同日文化財保護委員会告示第18号「無形文化財を重要無形文化財に指定する等の件」</ref>され、[[2005年]]([[平成]]17年)には[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]において傑作宣言され<ref>[{{Cite web|和書|url=http://www.bunka.go.jp/1osirase/unesco_3_200512.html |title=第3回ユネスコ「人類の口承及び無形遺産に関する傑作の宣言」について]、[|accessdate={{Unknown}}}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.bunka.go.jp/1hogo/mukeibunkaisan_hogo.html |title=人類の口承及び無形遺産に関する傑作の宣言](|work=文化庁|accessdate={{Unknown}}}}</ref>、[[2009年9]](平成21年)9月に[[無形文化遺産]]の代表一覧表に記載された。
 
== 語源 ==
歌舞伎という名称の由来は、「傾く(かたむく)」の古語にあたる「傾く(かぶく)」の[[連用形]]を名詞化した「'''かぶき'''」だと言われている<ref name="jenc_kabuki">[[日本大百科全書]](小学館)、歌舞伎の項</ref>。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の終わりから[[江戸時代]]の初頭にかけて[[京都|京]]で流行した、派手な衣装や一風変わった異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ることを指した語で、特にそうした者たちのことを「[[かぶき者]]」とも言った<ref>日本国語大辞典(小学館)、歌舞伎者の項</ref>。
 
そうした「かぶき者」の斬新な動きや派手な装いを取り入れた独特な「かぶき踊り」が[[慶長]]年間([[1596年]] - [[1615年]])に京で一世を風靡し、これが今日に連なる[[伝統芸能]]「かぶき」の語源となっている。
 
「かぶき踊り」はおもに女性が踊っていたことから、「歌舞する女」の意味で「歌舞姫」「歌舞妃」「歌舞妓」などの表記が用いられ<ref name="iwashin-p16" />が、江戸を通じて主に用いられたのは「歌舞'''妓'''」であった<ref name="iwashin-p16" />。現在用いられる「歌舞'''伎'''」の表記も江戸時代に使われないことはなかった<ref name="iwashin-p16" />が、一般化したのは近代になってからである<ref name="iwashin-p16" />。
 
なお、江戸時代には「歌舞伎」という名称は俗称<ref name="imaomokuami2">{{Cite bookHarvnb|和書|author = 今尾哲也|year = 2009|title = 河竹黙阿弥 : 元のもくあみとならん|series = ミネルヴァ日本評伝選|publisher = ミネルヴァ書房|isbn = 978-4-623-05491-6|page p= 2}} </ref>であり、公的には「[[狂言]]」もしくは「狂言芝居」と呼ばれていた<ref name="imaomokuami2" />。また[[能]]もその一つである。
 
「歌舞伎」「歌舞伎座」の[[商標]]は[[松竹]]が取得している<ref>{{Cite web|和書 |title=「歌舞伎」で商品化をお考えの方に |url=https://www.shochiku.co.jp/company/profile/hojin/kabuki/ |website=www.shochiku.co.jp |access-date=2022-10-11 |language=ja}}</ref>。
 
== 歴史 ==
=== 草創期 ===
{{Wikisource|慶長見聞集/巻之五#k-5-11|慶長見聞集|原文「歌舞妓をどりの事」}}
[[File:Okuni kabuki byobu-zu cropped and enhanced.jpg|thumb|200px|[[出雲阿国|お国]](今日でいう出雲阿国)]]
[[Fileファイル:阿国歌舞伎発祥地の碑Okuni kabuki byobu-zu cropped and enhanced.jpg|thumb|200px|出雲阿国(『阿國歌舞伎発祥地の碑(京都市東山区、南座前圖屏風』)]]
[[ファイル:阿国歌舞伎発祥地の碑.jpg|thumb|200px|阿国歌舞伎発祥地の碑(京都市東山区、南座前)]]
歌舞伎の元祖は、'''出雲阿国'''(いずものおくに)という女性{{Refnest|group="注釈"|現在、この女性を「出雲阿国」と呼ぶが、彼女と同時代の文献にはこの名称はなく、また出雲の出身であるかどうかにも確証がないため、軽々に用いるべき言葉ではないという意見もある<ref name="kouza">{{Harvnb|国立劇場|2009|pp=198~205}}</ref>。}}が創始した「'''かぶき踊'''」であると言われている。「かふきをとり」という名称が初めて記録に現れるのは『慶長日件録』、慶長8年(1603年)5月6日の女院御所での芸能を記録したものである。国たちの一座が「かぶき踊」という名称で踊りはじめたのはこの日からそう遡らない時期であろうと考えられている<ref name="#1">{{Harvnb|和田(2009)、|2009|p.=201}}</ref>。
 
<!--この記録-->『当代記』によれば、国が踊ったのは傾き者が茶屋の女と戯れる場面を含んだものであった<ref name="#1"/>。ここでいう「[[待合茶屋|茶屋]]」とはいわゆる色茶屋のこと<ref name="iwashin-p9">岩波新書661『歌舞伎の歴史』、{{Harvnb|今尾哲也著、p9|2000|pp=9-10}}</ref>で、「茶屋の女」とはそこで客を取る遊女まがいの女のことである<ref name="iwashin-p9" />。後述するように、「かぶき踊」は[[遊女]]に広まっていくが、もともと国が演じていたものも上述したようなエロティック性的シチュエーション場面を含んだものであって、国自身が遊女的な側面を持っていた可能性も否定できない<ref name="#2">{{Harvnb|和田(2009)、|2009|p.=207}}</ref>。
 
『時慶卿記』の慶長5年(1600年)の条には、国が「ややこ踊」というものを踊っていたという記録があり<ref name="#3">{{Harvnb|和田(2009)、|2009|p.=199}}</ref>、「かぶき踊」は「ややこ踊」から名称変更されたものだと考えられている<ref name="#3"/>。しかし内容面では両者は質的に異なった<ref name="kouza" />ものであり、「ややこ踊」がかわい可愛らしい少女の小歌踊であると考えられているのに対し<ref name="#1"/>、「かぶき踊」は前述のように傾き者の[[茶屋遊び]]というエロティック性的な場面を含んだものである。
 
現在、国のことを「出雲阿国(いずものおくに)」と呼ぶが彼女と同時代の文献にはこの名称はなく、また出雲の出身であるかどうかにも確証がないため、軽々に用いるべき言葉ではないという意見もある<ref name="kouza">国立劇場『日本の伝統芸能講座 舞踊・演劇』淡交社、2009年、ISBN 9784473035301、198頁~205頁</ref>が、このころの歌舞伎は[[能舞台]]で演じられており、現在の[[歌舞伎座]]をはじめとする劇場で見られる[[花道]]はまだ設置されていなかった<ref>{{Harvnb|江戸歌舞伎集』(『新日本古典文学大系』96 |1997年、岩波書店)の|p=430頁「元禄期の江戸の舞台」。}}</ref>。
 
「かぶき踊」が流行すると、当時数多くあった女性や少年の芸能集団が「かぶき」の看板を掲げるようになったとされる。そこには「ややこ踊」のような踊り主体のものもあれば、[[アクロバット|アクロバティックな[[軽業]]主体の座もあった<ref>{{Harvnb|和田(2009)、|2009|p.=206}}</ref><ref>新版 歌舞伎事典(平凡社)、若衆歌舞伎の項が</ref>。
 
その後、「かぶき踊」は遊女屋で取り入れられ('''遊女歌舞伎''')、当時各地の城下町に遊里が作られていたこともあり、わずか10年あまりで全国に広まった<ref name="kouza2">{{Harvnb|国立劇場『日本の伝統芸能講座 舞踊・演劇』淡交社、|2009年、ISBN 9784473035301、206頁~211頁|pp=206~211}}</ref>。今日でも歌舞伎の重要要素のひとつである'''[[三味線]]'''が舞台で用いられるようになったのも、遊女歌舞伎においてである<ref name="iwashin-p16">岩波新書661『歌舞伎の歴史』、{{Harvnb|今尾哲也著、p16|2000|p=16}}</ref>。当時最新の楽器である三味線をスター花形役者が弾き、50、60人の遊女を舞台へ登場させ、虎や豹の毛皮を使って豪奢な舞台を演出し、数万人もの見物を集めたという<ref>『新版歌舞伎辞典』</ref>。
 
ほかにも[[若衆]](12歳から17、18歳の少年)の役者が演じる歌舞伎('''若衆歌舞伎'''、わかしゅかぶき)が行われていた。男娼のことを[[陰間]]というのは「陰の間」の役者、つまり舞台に出ない修行中の役者の意味で、一般に男色を生業としていた<ref>人倫訓蒙図彙</ref><ref name="#2"/>ことからも分かるように好色性を持ったものであった<ref name="#2"/>。全国に広まった遊女歌舞伎と違い、若衆歌舞伎の広がりは京阪、坂・江戸の三を中心とした都市部に限られてい<ref name="#4">{{Harvnb|和田(2009)、|2009|p.=208}}</ref><ref name=":0">{{Harvnb|生田耕作、|坂井輝久『洛中洛外漢詩紀行』人文書院、|1994年、p202~p205|pp=202~205}}</ref>。
 
しかし、こうした遊女や若衆をめぐって武士同士の取り合いによる喧嘩や刃傷沙汰が絶えなかったため<ref>岩波新書661『歌舞伎の歴史』、{{Harvnb|今尾哲也著、p19|2000|p=19}}</ref>、遊女歌舞伎や若衆歌舞伎は、[[江戸幕府|幕府]]により禁止されることになった<ref name="kouza2" />。遊女歌舞伎が禁止された時期に関して、従来の通説では寛永6年([[1629年]])であるとされていた<ref group="注">この説は国史大辞典(吉川弘文館)などにみられる。</ref>が、全国に広まった遊女歌舞伎が一度の禁令でなくなるはずもなく、近年では10年あまりの歳月をかけて徐々に規制を強めていったと考えられている<ref name="kouza2" />。それに対し、若衆歌舞伎は17世紀半ばまで人気を維持していたものの、こちらも禁止されてしまった<ref name="#4"/>。
 
なお、古い解説書には、若衆歌舞伎は遊女歌舞伎が禁止された''あと''に作られたものだと書かれているものがある<ref>{{Refnest|group="注釈"|例えば河竹登志夫『演劇概論』</ref>。}}があるが、これはのちの研究で否定されており、実際には「かぶき踊」の最初の記録が残る慶長8年(1603年)にはすでに若衆歌舞伎の記録がある<ref name="#2"/>。また、こうした古い解説書では、若衆歌舞伎が禁止されたあと「物真似狂言づくし」にすることを条件に再興が認められ、'''野郎歌舞伎'''(役者全員が[[野郎|野郎頭]]の成年男子)へと発展していったという説明がなされることがあるが、現在では「物真似狂言づくし」を再興の条件としたことを否定するばかりでなく<ref>和田(2009)p.209</ref>、野郎歌舞伎という時代を積極的には認めない説も存在する<ref name="#5">{{Harvnb|和田(2009)、|2009|p.=209}}</ref>。
 
=== 元禄 ===
[[Fileファイル:Danjūrō_Ichikawa_I_as_Zōhiki.jpg|thumb|200px|初代 市川團十郎]]
[[Fileファイル:Hiroshige,_Night_View_of_Saruwaka-machi.jpg|thumb|200px|[[歌川広重]]画『猿わか町よるの景』{{smaller|手前から奥へ森田座、市村座、中村座。}}]]
次の画期が[[元禄]]年間(1688~1704)にあたるとするのが定説である。歌舞伎研究では[[寛文]][[延宝]]の頃を最盛期とする歌舞伎を「野郎歌舞伎」と呼称し<ref name=":1">{{CiteHarvnb|和書|author=[[岡本勝]]・[[|雲英末雄]]|title=新版近世文学研究事典|date=2006-02|pagesp=400|publisher=おうふう|ref=harv}}</ref>、この時代の狂言台本は伝わっていないものの、役柄の形成や演技類型の成立、続き狂言の創始や引幕の発生、野郎評判記の出版など、演劇としての飛躍が見られた時代と位置づけられている<ref name=":1" />。この頃には「演劇」といってはばかも憚りのないものになっていた<ref name="#5"/>。[[江戸三座|江戸四座]](後述)のうち格段に早くに成立した猿若勘三郎座を除き、それ以外の三座が安定した興行を行えるようになったのも寛文・延宝のころである<ref>{{Harvnb|和田(2009)、|2009|p.=210}}</ref>。
 
元禄年間(1688~1704)を中心とする約50年間で、歌舞伎は飛躍的な発展をげ、この時の歌舞伎は特に「元禄歌舞伎」と呼ばれている<ref>{{Cite web|和書|title=歌舞伎事典:元禄歌舞伎|文化デジタルライブラリー|url=https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/modules/kabuki_dic/entry.php?entryid=1122|website=www2.ntj.jac.go.jp|accessdate=2020-06-22}}</ref>。この時の特筆すべき役者として、'''荒事'''芸を演じて評判を得た江戸の[[市川團十郎 (初代)|初代市川團十郎]]<ref>和田(2009)、p211< name="#6"/ref>、「'''やつし事'''」{{Refnest|group="注釈"|高貴な人が一時的に零落して苦難を経験する場面<ref name="#4"/>。}}を得意とし<ref name="kouza3">{{Harvnb|国立劇場『日本の伝統芸能講座 舞踊・演劇』淡交社、|2009年、ISBN 9784473035301、211頁~216頁|pp=211~216}}</ref>て評判を得た京の[[坂田藤十郎 (初代)|初代坂田藤十郎]]がいる。藤十郎の演技は、のちの後に'''和事'''と呼ばれる芸脈の中に一部受け継がれ<ref name="kouza3" />、後になって藤十郎は和事の祖と仰がれた<ref name="#6">{{Harvnb|和田(2009)、|2009|p.=211}}</ref>。[[芳沢あやめ (初代)]]も京随一<ref name="kouza4-1">{{Harvnb|国立劇場『日本の伝統芸能講座 舞踊・演劇』淡交社、|2009年、ISBN 9784473035301、|loc=歌舞伎の発展II、p227|p=227}}</ref>の若女形として評判を博した。
 
なお藤十郎と團十郎がそれぞれ和事・荒事を''創始''したとする記述<ref>山川出版『詳説 日本史』。『日本の伝統芸能講座 舞踊・演劇』からの重引。</ref>が散見されるが、藤十郎が和事を演じたという同時代記録はない<ref name="#6"/>。当時「やつし事」を得意としたのも藤十郎だけではない<ref>{{Harvnb|和田(2009)、|2009|p.=212}}</ref>。また荒事の成立過程はよくわかっておらず<ref name="kouza3" />、「団十郎が坂田金時役で荒事を創始した」「金平浄瑠璃を手本にした」といった俗説は現在では信じられていない<ref name="#6"/>。
 
狂言作者の[[近松門左衛門]]もこの時代の人物で、初代藤十郎のために歌舞伎狂言を書いた。のちに近松門左衛門は人形浄瑠璃にも多大な影響を与えたが、ほかの人形浄瑠璃作品と同様、近松の作品ものちに歌舞伎に移され、今日においても上演され続けている。なお、今日では近松門左衛門は『[[曽根崎心中]]』などの世話物が著名であるが、当時人気があったのは時代物、特に『国性爺合戦』であり、『曽根崎心中』などは[[昭和]]になるまで再演されなかった。
 
作品面では延宝8年([[1680年ごろ]])頃には基本となる7つの役柄がすべて出揃った<ref name="iwashin-p40">岩波新書661『歌舞伎の歴史』、{{Harvnb|今尾哲也著、p40|2000|pp=40-41}}</ref>。すなわち[[立役]]、[[女方]](若女方)<!--←「女形」の誤植にあらず。原文で「女形」ではなく「女方」となっている。以下同様-->、若衆方、親仁方(おやじがた、老年の善の立場の男性)、敵親仁方役、花車方(かしゃがた、年増から老年の女性)、[[道外方]](どうけがた)である<ref name="iwashin-p40" />。
 
また作品づくりにおいて[[江戸幕府]]からの禁令ゆえの制限ができた。[[正保]]元年(1644([[1644]])に当代の実在の人名を作品中で用いてはならないという法令ができ<ref name="iwashin7"/>、元禄16年(1703([[1703]])には[[赤穂事件|赤穂浪士の事件]]に絡んで(当時における)現代社会の異変を脚色することが禁じられた<ref name="iwashin7"/>のである。これ以降、歌舞伎や人形浄瑠璃は、実在の人名を改変したり時代を変えたりするなど一種のごまかしをしながら現実を描くことを強いられることとなる。
 
江戸では芝居小屋は次第に整理されていき、[[延宝]]の初めごろ(1670年代)までには中村座・市村座・森田座・山村座の四座(江戸四座)のみが官許の芝居小屋として認められるようになり、[[正徳 (日本)|正徳]]4年(1714年) に'''[[江島生島事件]]'''が原因で山村座が取り潰され。以降、江戸時代を通して、江戸では残りの三座('''[[江戸三座]]''')のみが官許の芝居小屋であり続けた。
 
=== 享保 - から寛政===
[[Fileファイル:Toshusai Sharaku- Otani Oniji, 1794.jpg|thumb|200px|left|三代目大谷鬼次([[中村仲蔵 (2代目)|二代目[[中村仲蔵]])の江戸兵衛、寛政六年(1794年)五月、江戸河原崎座上演『恋女房染分手綱』(1794年)、[[東洲斎写楽]]画]]
 
歌舞伎の舞台が発展し始めるのは享保年間からである<ref name="kouza4">{{Harvnb|国立劇場『日本の伝統芸能講座 舞踊・演劇』淡交社、|2009年、ISBN 9784473035301、|loc=歌舞伎の発展II、p241~p242|pp=241~242}}</ref>。享保3年(1718([[1718]])、それまで晴天下で行われていた歌舞伎の舞台に屋根がつけられて全蓋式になる<ref name="kouza4" /><ref group="注">ここでは『日本の伝統芸能講座 舞踊・演劇』の記述に従ったが、「日本大百科全書(小学館、歌舞伎の項、歌舞伎の歴史、第2期)では屋根がついたのは享保2年([[1717年]])出来事になっている。</ref>。これにより後年盛んになる宙乗りや暗闇の演出などが可能になった<ref name="kouza4" />。また、享保年間には演技する場所として'''[[花道]]'''が演技する場所として使われるようになり<ref name="kouza4" /><ref group="注">日本大百科全書(小学館、歌舞伎の項、歌舞伎の歴史、第2期)によれば寛文6年([[1666年]])の段階で歩み板が客席を貫くように設置された。</ref>、<!--同じく享保年間には-->「'''せり上げ'''」が使われ始め<ref name="kouza4" />、'''[[廻り舞台]]'''もおそらくこの時期<!--享保年間-->に使われ始めた<ref name="kouza4" />。[[宝暦]]年間の大では[[並木正三 (初代)|並木正三]]が廻り舞台を工夫し、現在のような地下で回す形にする<ref name="kouza4" /><ref>日本大百科全書(小学館、回り舞台の項)</ref>など、舞台機構の大胆な開発と工夫がなされ、歌舞伎ならではの舞台空間を駆使した演出が行われた<ref name="kouza4" />。これらの工夫は江戸でも取り入れられた<ref name="kouza4" />。こうして歌舞伎は花道によってほかの演劇には見られないような二次元性(奥行き)を、[[迫|迫り]]によって三次元性(高さ)を獲得し、廻り舞台によって場面の転換を図る高度な演劇へと進化発展した。
 
作品面では18世紀から'''趣向取り・狂言取り'''の手法が18世紀から本格化した<ref name="iwashin3" />。これらは17世紀にもすの時点に行われていたが、17世紀点では特定の役者が過去に評判を得た得意芸や場面のみを再演する程度だったのが、18世紀になると先行作品全体が趣向取り・狂言取りの対象になったのである<ref name="iwashin3" />。これは17世紀の狂言が役者の得意芸を中心に構成されていたのに対し、18世紀になると筋や演出の面白さが求められるようになったことによる<ref name="iwashin3" />。
 
また、このころになると人形浄瑠璃からも趣向取り・狂言取りが行われるようになり、'''義太夫狂言'''が誕生した<ref name="iwashin3" />。すなわち歌舞伎が人形浄瑠璃の影響を受けるようになったが、それ以前には逆に人形浄瑠璃が歌舞伎に影響を受けていた時期もあり、単純化すれば「歌舞伎→人形浄瑠璃→歌舞伎」という図式であった<ref name="iwashin3" />。
 
[[延享]]年間にはいわゆる三大歌舞伎が書かれた。これらはいずれも人形浄瑠璃から移されたもので、三大歌舞伎にあたる『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』の(人形浄瑠璃としての)初演はそれぞれ延享3年([[1746年]])4年([[1747年]])5年([[1748年]])である。
 
またそれから少しさかのぼ享保16年([[1731年]])には[[瀬川菊之丞 (初代)|初代瀬川菊之丞]]が能の道成寺にヒント着想を得た『無間の鐘新道成寺』で成功をおさめ<ref name="iwashin3">岩波新書661『歌舞伎の歴史』、今尾哲也著、第3章「義太夫狂言と舞踊」</ref>、これにより舞踊の新時代の幕開きを告げた<ref name="iwashin3" /><ref group="注">なお「無限の鐘」とは遠江国にある無限山観音寺の鐘の事で、瀬川菊之丞はこの鐘をモチーフ題材にした舞踊を過去にも踊っている。</ref>。その後、道成寺をモチーフ題材にした舞踊がいくつも作られ、宝暦3年([[1753年]])には今日でも上演される『[[娘道成寺|京鹿子娘道成寺]]』が江戸で初演されている<ref name="iwashin3" />。なお当時の江戸はほかのどの土地にも増して舞踊が好まれており<ref name="iwashin3" />、上述の『無間の鐘新道成寺』や『京鹿子娘道成寺』があたりを取ったのはいずれも江戸の地であった<ref name="iwashin3" /><!--86ページ冒頭-->。
 
宝暦9年([[1759年]])、並木正三が『大坂神事揃(おおさかまつりぞろえ)』<!--←大「坂」は原文通りで誤植でない-->で「'''愛想尽かし'''」を確立した<ref name="iwashin4">岩波新書661『歌舞伎の歴史』、{{Harvnb|今尾哲也著。|2000|loc=第4章「歌舞伎再興」}}</ref>。これは女が諸般の事情で心ならずも男と縁を切らねばならなくなり、それを人前で宣言すると、男はそれを真に受けて怒る場面である。その後、男が女を殺す場面につながることが多い<ref name="iwashin4" />。<!--
[[宝暦]]・[[天明]]・[[寛政]]年間になると、上方歌舞伎では女形による舞踊が登場し、[[桜田治助|初代桜田治助]]や[[並木五瓶|初代並木五瓶]]の作品が人気を呼んだ。
-->
=== 文化 - 幕末 ===
[[File:Kanadehon Chūshingura by Toyokuni Utagawa III.jpg|thumb|350px|『十一段目』左から[[岩井半四郎 (8代目)|三代目岩井粂三郎]]の大星力弥、五代目澤村長十郎の大星由良助、[[市川團蔵 (6代目)|二代目市川九蔵]]の寺岡平右衛門。嘉永2年(1849年)7月、江戸中村座。三代目豊国画。]]
 
=== 文化 - から幕末 ===
これまで歌舞伎の中心地は京・大坂であった<!--。それは上方が中心だった[[人形浄瑠璃]]から書き換えられた演目の数からもわかる-->が、文化文政時代になると、[[鶴屋南北 (4代目)|四代目鶴屋南北]]が『[[四谷怪談|東海道四谷怪談]]』(四谷怪談)や『[[於染久松色読販]]』(お染の七役)など、江戸で多くの作品を創作し<ref>日本国語大辞典(小学館)、鶴屋南北の項。</ref>、江戸歌舞伎のひとつの全盛期が到来する。南北はまた'''生世話'''(侠客や相撲取りの意地の張り合いや心中事件などを扱う狂言<ref name="iwashin5">岩波新書661『歌舞伎の歴史』、今尾哲也著、第5章『鶴屋南北と棺桶』</ref>)を確立して評判を得た<ref name="iwashin5" />。
[[Fileファイル:Kanadehon Chūshingura by Toyokuni Utagawa III.jpg|thumb|350px|『十一段目』左から[[岩井半四郎 (8代目)|三代目岩井粂三郎]]の大星力弥、五代目澤村長十郎の大星由良助、[[市川團蔵 (6代目)|二代目市川九蔵]]の寺岡平右衛門。嘉永2年(1849年)7月、江戸中村座。三代目豊国画。]]
 
これまで歌舞伎の中心地は京・大坂であった<!--。それは上方が中心だった[[人形浄瑠璃]]から書き換えられた演目の数からもわかる-->が、文化文政時代になると、[[鶴屋南北 (4代目)|四代目鶴屋南北]]が『[[四谷怪談|東海道四谷怪談]]』(四谷怪談)や『[[於染久松色読販]]』(お染の七役)など、江戸で多くの作品を創作し<ref>日本国語大辞典(小学館)、鶴屋南北の項。</ref>、江戸歌舞伎のひとつの全盛期が到来する。南北はまた'''生世話'''(侠客や相撲取りの意地の張り合いや心中事件などを扱う狂言<ref name="iwashin5">岩波新書661『歌舞伎の歴史』、今尾哲也著、第5章『鶴屋南北と棺桶』</ref>)を確立して評判を得た<ref name="iwashin5" />。
天保3年(1832年)には[[市川團十郎 (7代目)|七代目市川團十郎]](当時は五代目市川海老蔵)が'''[[歌舞伎十八番]]'''の原型となる「歌舞妓狂言組十八番」として18の演目を明記した刷り物を贔屓客に配り、天保11年(1840年)に [[松羽目物]]の嚆矢となった『[[勧進帳]]』を初演した際に現在の歌舞伎十八番に固定した。
 
[[天保]]3年(1832([[1832]])には五代目市川海老蔵(後の[[市川團十郎 (7代目)|七代目市川團十郎]](当時は五代目市川海老蔵)が'''[[歌舞伎十八番]]'''の原型となる「歌舞妓狂言組十八番」として18の演目を明記した刷り物を贔屓客に配り、天保11年(1840年)に [[松羽目物]]の嚆矢となった『[[勧進帳]]』を初演した際に現在の歌舞伎十八番に固定した。
その後、大南北や人気役者の死去と[[天保の改革]]による弾圧が重なり、歌舞伎は一時大きく退潮した。[[天保の改革]]の影響は大きく、七代目市川團十郎が奢侈を理由に江戸所払いになったり(天保13年)、役者の交際範囲や外出時の装いを限定されたりと、弾圧に近い統制がなされたばかりか、堺町・葺屋町・木挽町に散在していた[[江戸三座]]と操り人形の薩摩座・結城座が一括して外堀の外<ref group="注">浅草聖天町。丹波[[園部藩]]下屋敷を収公した跡地。現在の[[浅草]]六丁目一帯。</ref>に移転させられた<ref>日本大百科全書(小学館)、猿若町の項。</ref>。移転先の聖天町は江戸における芝居小屋の草分けである猿若勘三郎の名にちなんで猿若町(さるわかまち)にと改名された。
 
その後、大南北や人気役者の死去と[[天保の改革]]による弾圧が重なり、歌舞伎は一時大きく退潮した。[[天保の改革]]の影響は大きく、天保13年([[1842年]])に七代目市川團十郎が奢侈を理由に江戸所払いになったり(天保13年)、役者の交際範囲や外出時の装いを限定されたりと、弾圧に近い統制がなされたばかりか、堺町・葺屋町・木挽町に散在していた[[江戸三座]]と操り人形の薩摩座・結城座が一括して外堀の外<ref group="注">浅草聖天町。丹波[[園部藩]]下屋敷を収公した跡地。現在の[[浅草]]六丁目一帯。</ref>に移転させられた<ref>日本大百科全書(小学館)、猿若町の項。</ref>。移転先の聖天町は江戸における芝居小屋の草分けである猿若勘三郎の名にちなんで[[江戸三座#猿若町|猿若町]](さるわかまち)と改名された。
しかし、江戸三座が[[猿若町]]という芝居町に集約されたことで逆に役者の貸し借りが容易となり、また江戸市中では時折悩まされた火事延焼による被害も減ったため、歌舞伎興行は安定を見せ、これが結果的に江戸歌舞伎の黄金時代となって開花した。
 
しかし、江戸三座が[[猿若町]]という芝居町に集約されたことで逆に役者の貸し借りが容易となり、また江戸市中では時折悩まされた火事延焼による被害も減ったため、歌舞伎興行は安定を見せ、これが結果的に江戸歌舞伎の黄金時代となって開花した。
[[幕末]]から明治の初めにかけては、[[河竹黙阿弥|二代目河竹新七(黙阿弥)]]が『[[小袖曾我薊色縫]]』(十六夜清心)、『[[三人吉三廓初買]]』(三人吉三)、『[[青砥稿花紅彩画]]』(白浪五人男)、『[[梅雨小袖昔八丈]]』(髪結新三)、『[[天衣紛上野初花]]』(河内山)などの名作を次々に世に送り出し、これが明治歌舞伎の全盛へとつながった<ref>国史大辞典(吉川弘文館)、河竹黙阿弥の項。</ref>。
 
[[幕末]]から[[明治]]の初めにかけては、[[河竹黙阿弥|二代目河竹新七(黙阿弥)]]が『[[小袖曾我薊色縫]]』(十六夜清心)、『[[三人吉三廓初買]]』(三人吉三)、『[[青砥稿花紅彩画]]』(白浪五人男)、『[[梅雨小袖昔八丈]]』(髪結新三)、『[[天衣紛上野初花]]』(河内山)などの名作を次々に世に送り出し、これが明治歌舞伎の全盛へとつながった<ref>国史大辞典(吉川弘文館)、河竹黙阿弥の項。</ref>。
江戸時代、歌舞伎役者らは伝統的に「河原者」([[賎民]])として身分上は差別された<ref>盛田嘉徳『中世賤民と雑芸能の研究』雄山閣出版、1994年2月5日 ISBN 9784639004363</ref>とされる。
 
江戸時代、歌舞伎役者らは伝統的に「[[河原者]]」([[賤民|賎民]])として身分上は差別された<ref>{{Harvnb|盛田嘉徳『中世賤民と雑芸能の研究』雄山閣出版、|1994|p={{要ページ番号|date=2023245日 ISBN 9784639004363}}}}</ref>とされる。
=== 明治以降 ===
[[File:SharakuTwoActors.jpg|thumb|200px|right|二代目沢村淀五郎の川連法眼と初代坂東善次の鬼佐渡坊]]
 
=== 明治以降から昭和初期 ===
[[明治]]になると新時代の世相を取り入れた演目('''[[散切物]]'''、ざんぎりもの)が作られた。これは明治の時代背景を描写し、洋風の物や語を前面に押し出して書かれていたが、構成や演出は従来の世話物の域を出るものではなく、革新的な演劇というよりは、むしろ流行を追随したかたちの[[生世話物]]といえる。<!--以下は直接歌舞伎の歴史に関係ないので、コメントアウト。内容的には「演目」の「特徴」節にほぼ取り込んだはず。
[[Fileファイル:SharakuTwoActors.jpg|thumb|200px|right|二代目沢村淀五郎の川連法眼と初代坂東善次の鬼佐渡坊]]
 
[[明治]]ると新時代の世相を取り入れた演目('''[[散切物]]'''、ざんぎりもの)が作られた。これは明治の時代背景を描写し、洋風の物や語を前面に押し出して書かれていたが、構成や演出は従来の世話物の域を出るものではなく、革新的な演劇というよりは、むしろ流行を追随したかたちの[[生世話物]]といえる。<!--以下は直接歌舞伎の歴史に関係ないので、コメントアウト。内容的には「演目」の「特徴」節にほぼ取り込んだはず。
 
確かに歌舞伎はある程度の基礎知識がないと物語の背景や人物設定が分かりにくいところがある。「見取り狂言」仕立ての興行で発達した歌舞伎では、複数の演目から人気の場や幕をのみを拾って見せるのが通常である。また仮に「通し狂言」を上演したとしても、そもそも歌舞伎には一日のうちに[[時代物]]と[[世話物]]、荒事と和事、狂言と舞踊といった相対する分野をくまなく網羅するという決まり事があるため、例えば江戸の遊郭の遊女たちが羨望する粋でいなせな美男の[[助六]]が実は姿を変えて父の仇討ちの機会を待つ武士の[[曾我時致|曾我五郎]]([[鎌倉時代]]に実在した人物)だったりする必然性があった。こうした歌舞伎を愛する者にとっては当たり前な設定は、洋行帰りの知識人にとっては奇妙奇天烈な展開にしか見えなかった。そしてそもそも作者と役者の双方が演出家の役割を兼ね、さらに「[[お家芸]]」という[[口伝]]がものをいう歌舞伎は、脚本家・演出家・俳優の役割が明確に分担されている西洋演劇を見慣れた者たちには混沌と混乱にしか見えなかった。
-->しかし明治5年([[1872年]])になると歌舞伎の価値観を根底から揺るがす要求が明治政府から出され政府はこの年<!--1872年-->から歌舞伎に対して干渉しはじめ<ref name="iwashin7">岩波新書661『歌舞伎の歴史』、{{Harvnb|今尾哲也著。|2000|loc=第7章「狂気と英雄」}}</ref>、「高い身分の方や外国人」が見るにふさわしいものを演じること、狂言綺語(作り話)を廃止することなどを要求した<ref name="iwashin7"/>のである。江戸時代にはむしろ現実そのままに書くことを禁じられていた歌舞伎にとって「狂言綺語」は長きにわたって大切にしてきた価値観であり<ref name="iwashin7"/>、政府の要求は江戸歌舞伎の持つ虚の価値観を全面否定するものであった<ref name="iwashin7"/>。
 
1886年(明治19年(1886年)には「日本が欧米の先進国に肩を並べうる文明国であることを顕示する目的で<ref name="iwashin7"/>'''[[演劇改良運動|演劇改良会]]'''が設立され、政治家、実業家、学者、ジャーナリストら<ref name="iwashin7"/>が参加した。翌年には、演劇改良会は歌舞伎誕生以来初となる天皇による歌舞伎鑑賞('''天覧歌舞伎''')を実現させ、役者たちの社会的地位の向上を助けるきっかけとなった<ref name="iwashin7"/>。
 
時代は前後するが、こうした要求に応じて作られたのが'''[[活歴|活歴物]]'''<ref {{Refnest|group="注">|[[活歴]]」という言葉は上述の新した政府の要求に対する新聞論評の中で初めて使われた<ref>岩波新書661『歌舞伎の歴史』。第7章「狂気と英雄」p157</ref>。}}と呼ばれる一連の作品群であり、役者として活歴物の芝居の中心となったのが[[市川團十郎 (9代目)|九代目市川團十郎]]である。芝居の価値観が政府のそれと一致していた團十郎は事実に即した演劇を演じ始め、彼の価値観に反した歌舞伎の特徴、たとえば七五調の美文、厚化粧、定型の動きを拒否した<ref name="iwashin7"/>。それに対して團十郎が工夫した表現技法がいわゆる「[[腹芸]]<ref name="iwashin7"/>、セリフと動きを極力減らし<ref name="iwashin7"/>、「目と顔」による表現<ref name="iwashin7"/>で演じ始めた。
 
こうした團十郎の芸は高く評価され<ref name="iwashin7"/>ながらも、活歴をよしとするのは一部の上流知識人のみ<ref name="iwashin7"/>で、世間の人はその芝居らしくない活歴には背を向けた<ref name="iwashin7"/>が、團十郎の演技志向に対する共感は次第に広がっていった<ref name="iwashin7"/>。しかし[[日清戦争]]前後の復古主義の風潮の中で團十郎は従来の狂言を演じるようになり、猥雑すぎるところ、倫理にもとるところ以外には手を入れないほうがよいと考えるようになった。それでもなお芝居が完全に旧来に復したわけではなく、創造方法において活歴の影響を受けたものであった<ref>今尾(2000)、pp168-169</ref>。こうして團十郎の人物造形が従来の歌舞伎にも適され<ref name="iwashin7"/>、それが今日の歌舞伎の演技の基礎になっていった<ref name="iwashin7"/>ことが活歴の歴史的意義である<ref name="iwashin7"/>。
 
劇場の面では、1889年(明治22年(1889年)に演劇改良会の会員であった[[福地桜痴]]が金融業者の[[千葉勝五郎]]と共同経営で'''[[歌舞伎座]]'''を設立。歌舞伎座には九代目市川團十郎、[[尾上菊五郎 (5代目)|五代目尾上菊五郎]][[市川左團次 (初代)|初代市川左團次]]らの名優が舞台に立ち、いわゆる「'''團菊左'''」の時代をもたらした。その後、経営者の内紛を得て、1913年([[大正]]2年)に今日の経営母体である[[松竹]]が歌舞伎座を買収した。
 
歌舞伎座は歌舞伎の歴史にさまざま様々な影響を与え、歌舞伎座とともに歌舞伎座を本拠とする九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎を頂点として、役者集団の階層性が定まった<ref name="iwashin7"/>。ほかにも歌舞伎の中央集権化<ref name="iwashin7"/>、改良演劇の確立<ref name="iwashin7"/>、歌舞伎演出の様式美化の促進<ref name="iwashin7"/>といった影響があったことが指摘されている。
 
一方の江戸三座は、歌舞伎座設立時に千歳座(のちの[[明治座]])と組んで歌舞伎座に対抗('''四座同盟''')するなどした。また大正のころの市村座では、[[尾上菊五郎 (6代目)|六代目尾上菊五郎]][[中村吉右衛門 (初代)|初代中村吉右衛門]]が'''菊吉時代・二長町時代'''と呼ばれる時代を築いた。しかしこれが江戸三座の放った最後の輝きであった。江戸三座は失火等で順に廃座になっていき、1932年([[昭和]]7年(1932年)に市村座の仮小屋が焼失したのを最後に江戸三座は潰え
 
19世紀末<ref name="iwashin8">岩波新書661『歌舞伎の歴史』、{{Harvnb|今尾哲也著。|2000|loc=第8章「新歌舞伎の創造」}}</ref>になると、'''[[新歌舞伎]]'''という新たな歌舞伎狂言が登場するした。これは「近代的な背景画や舞台照明」の採用<ref name="iwashin8" />、劇界外部の作者の作品や翻訳劇の上演<ref name="iwashin8" />、「新しい観客の掘り起こし」<ref name="iwashin8" />によって成立した、「近代の知性・感性に訴える歌舞伎」<ref name="iwashin8" />である。松井松葉の『悪源太』(明治38年・1899年)や坪内逍遥の『桐一葉』(明治43年・1904年)を皮切りに、以後さまざまな背景を持つ作者によって数々の作品が書かれた。それまでは各劇場に所属する座付きの狂言作者が、立作者を中心に共同作業で狂言をこしらえていたが、次第に外部の劇作家の作品が上演されるようになったのである。これが「黄金時代」と呼ばれた明治後期から大正にかけての東京歌舞伎によりいっそうの厚みを与えることにつながった。ほかにも[[岡本綺堂]]の『[[修禅寺物語]]』『[[鳥辺山心中]]』、[[真山青果]]の『[[元禄忠臣蔵]]』十部作などが著名である。<!--また、明治の名優[[市川團十郎 (9代目)|九代目市川團十郎]]と[[尾上菊五郎 (5代目)|五代目尾上菊五郎]]が古典の型を整備。[[大正]]には[[市川左團次 (2代目)|二代目市川左團次]]が埋もれていた古典の復活を行い、上方では[[中村鴈治郎 (初代)|初代中村鴈治郎]]が和事の芸を大成するなど、従来の作品の見直しも行なわれた。昭和には[[尾上菊五郎 (6代目)|六代目尾上菊五郎]]・[[中村吉右衛門 (初代)|初代中村吉右衛門]]、[[市村羽左衛門 (15代目)|十五代目市村羽左衛門]]、[[實川延若 (2代目)|二代目實川延若]]、[[中村梅玉 (3代目)|三代目中村梅玉]]など多くの名優が活躍し、今日の歌舞伎に大きな影響を与えた。-->
 
その一方では、従前からの[[梨園]]の[[封建制|封建]]なあり方に疑問を呈する形で[[市川猿翁 (初代)|二代目市川猿之助]]の[[春秋座]]結成に始まり、ついに歌舞伎界梨園での封建的な部分に反発して昭和6年([[1931年]](昭和6年)には[[河原崎長十郎 (4代目)|四代目河原崎長十郎]]、[[中村翫右衛門 (3代目)|三代目中村翫右衛門]]、[[河原崎國太郎 (6代目)|六代目河原崎國太郎]]らによる[[前進座]]が設立された<ref>大辞泉(小学館)、前進座の項。</ref>。
 
=== 第二次大戦後 ===
[[太平洋戦争]]([[第二次世界東亜]]の激化にともない、劇場の閉鎖や上演演目の制限など規制が行われ、歌舞伎の興行も困難になり、た。戦災による物的・人的な被害も多く、歌舞伎の興行も困難になった。
 
終戦後、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]は日本の民主化と軍国主義化の払拭との理由から「仇討ち物」や「身分社会を肯定する」の演目の上演を禁止した。1945年11月15日、GHQは東京劇場上演中の「菅原伝授手習鑑」寺子屋の段を反民主主義的として中止命令、11月20日、上演中止<ref>日本演劇全史 河竹繁俊</ref>となった。松竹本社ではGHQの指導方針に即して自主的に脚本の再検討を行った結果、『[[忠臣蔵]]』『千代萩』『寺子屋』『水戸黄門記』『[[番町皿屋敷]]』などの演目を締め出すこととした<ref>「忠臣蔵」などノー、総司令部が指導(昭和20年12月12日朝日新聞)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p15 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。しかし、[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]の副官[[フォービアン・バワーズ|バワーズ]]の進言で、古典的な演目の制限が解除され、昭和22年([[1947年]])11月、東京劇場で東西役者総出演による『[[仮名手本忠臣蔵]]』の通し興行が行われた。
 
終戦後の[[1945年]](昭和20年)[[9月22日]]、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]は日本の民主化と軍国主義化の払拭との理由から仇討ち物封建的忠誠」や「復讐の心情に立脚する」<ref>{{Cite book |和書 |author=世相風俗観察会 |title=増補新版 現代世相風俗史年表 昭和20年(1945)-平成20年(2008)|publisher=河出書房新社 |year=2003-11-07 |page=11 |isbn=9784309225043}}</ref>「身分社会を肯定する」の演目の上演を禁止した。1945年11月15日、GHQは東京劇場上演中の『[[菅原伝授手習鑑]]』寺子屋の段を反[[民主主義]]的として中止命令を出し、11月20日上演中止<ref>日本演劇全史 河竹繁俊</ref>となった。松竹本社ではGHQの指導方針に即して自主的に脚本の再検討を行った結果、『[[忠臣蔵]]』『千代萩』『寺子屋』『水戸黄門記』『[[番町皿屋敷]]』などの演目を締め出すこととした<ref>{{Cite news|和書|title=「忠臣蔵」などノー、総司令部が指導|date=昭和20年12月12日|newspaper=朝日新聞)『}}{{Cite book|和書|title=昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p15 |pages=15|publisher=毎日コミュニケーションズ|date=1994}}</ref>。しかし、[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]の副官[[フォービアン・バワーズ|バワーズ]]の進言で、古典的な演目の制限が解除され、昭和22年([[1947年]](昭和22年)11月、東京劇場で東西役者総出演による『[[仮名手本忠臣蔵]]』の通し興行が行われた。
[[1950年代]]、人々の生活に余裕が生まれ、娯楽も多様化し始めた。[[1953年]](昭和28年)2月1日、[[NHK総合テレビジョン|NHKテレビジョン]]の放送開始により日本のテレビ放送が開始された。同日同局が日本のテレビ史初の番組として放映したのが歌舞伎番組であったが、[[日本プロ野球|プロ野球]]やレジャー産業の人気上昇、映画や放送の発達が見られるようになり、歌舞伎が従来のように娯楽の中心ではなくなってきた。そして歌舞伎役者の映画界入り、関西歌舞伎の不振、小芝居が姿を消すなど歌舞伎の社会にも変動の時代が始まった。
[[File:助六(江戸東京博物館).jpg|260px|thumb|市川團十郎の助六(江戸東京博物館)]]
[[1950年代]]には人々の生活暮らし余裕が生まれ、娯楽も多様化し始めた。[[1953年]](昭和28年)2月1日、[[NHK総合テレビジョン|NHKテレビジョン]]の放送開始により日本のテレビ放送が開始された。同日同局が日本のテレビ史初の番組として放映したのが歌舞伎番組『道行初音旅』であったが、<ref>[https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009040010_00000 道行初音旅|番組|NHKアーカイブス]</ref>。一方でテレビ時代とともに[[日本プロ野球機構|プロ野球]]やレジャー産業の人気上昇、映画や放送の発達が見られるようになり、歌舞伎が従来のように娯楽の中心ではなくなってきた。そして歌舞伎役者の映画界入り、関西歌舞伎の不振、小芝居が姿を消すなど歌舞伎の社会にも変動の時代が始まった。
 
そのような社会の変動の中、昭和37年([[1962年]](昭和37年)の[[市川團十郎 (11代目)|十一代目市川團十郎]]襲名から、歌舞伎は人気を回復するした。役者も團十郎のほか、[[中村歌右衛門 (6代目)|六代目中村歌右衛門]]、[[尾上松緑 (2代目)|二代目尾上松緑]]、[[中村鴈治郎 (2代目)|二代目中村鴈治郎]]、[[中村勘三郎 (17代目)|十七代目中村勘三郎]]、[[尾上梅幸 (7代目)|七代目尾上梅幸]]、[[松本白鸚 (初代)|八代目松本幸四郎]]、[[片岡仁左衛門 (13代目)|十三代目片岡仁左衛門]]、[[市村羽左衛門 (17代目)|十七代目市村羽左衛門]]などの人材が活躍。日本国内の興行も盛んとなり、欧米諸国での海外公演も行われた。
 
戦後の全盛期を迎えた[[1960年代]]から[[1970年代]]には次々と新しい動きが起こった。特に明治以降、軽視されがちだった歌舞伎本来の様式が重要だという認識が広がった。[[昭和]]40年([[1965年]](昭和40年)に芸能としての歌舞伎が[[重要無形文化財]]に指定され{{Refnest|group="注釈"|保持者として[[伝統歌舞伎保存会]]の構成員を総合認定。}}、[[国立劇場]]が開場し、復活狂言の通し上演などの興行が成功するした。国立劇場はさかんに高校生のための歌舞伎教室を盛んに開催して、数十年後の歌舞伎ファンの創出につとめた。その後、大阪には映画館を改装した[[大阪松竹座]]、福岡には[[博多座]]が開場し、歌舞伎の興行はさらに充実さを増した。さらに、[[市川猿翁 (2代目)|三代目市川猿之助]]は復活狂言を精力的に上演し、その中では一時は蔑まれたケレン外連の要素が復活された。猿之助はさらに演劇形式としての歌舞伎を模索し、[[スーパー歌舞伎]]というより大胆な演出を強調した「[[スーパー歌舞伎]]」を創り出した。また[[2000年代]]では、[[中村勘三郎 (18代目)|十八代目中村勘三郎]]による[[コクーン歌舞伎]]、[[平成中村座]]の公演、[[坂田藤十郎 (4代目)|四代目坂田藤十郎]]などによる関西歌舞伎の復興<ref group="注">平成17年([[2005年]](平成17年)、三代目中村鴈治郎が、231年ぶりの上方歌舞伎の大名跡・坂田藤十郎を231年ぶりに襲名した。</ref>などが目を引くようになった。<!--、歌舞伎本来の姿と新しい時代にふさわしい歌舞伎の姿を同時に模索する活動といえる。-->また歌舞伎の演出にも[[蜷川幸雄]]や[[野田秀樹]]<!--、[[串田和美]]、[[三谷幸喜]]、[[わかぎえふ]]-->といった現代劇の演出家が迎えられるなど、新しいかたちの歌舞伎を模索する動きが盛んになっている<!--現代劇の要素を加えた歌舞伎公演や、[[前進座]]歌舞伎の上演も行われている。-->現代の歌舞伎公演は、劇場設備などをとっても、江戸時代のそれとまったく同じではない。その中で長い伝統を持つ歌舞伎の演劇様式を核に据えながら、現代的な演劇として上演する試みが続いている。このような公演活動を通じて、歌舞伎は現代に生きる伝統芸能としての評価を得るに至っている。
 
歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]][[無形文化遺産保護条約]]の発効以前<ref group="注">[[2003年]](平成15年)のユネスコ第32回総会において採択され、[[2006年]](平成18年)4月に発効した。</ref>の[[2005年]]([[平成]]17年)に「傑作の宣言」がなされ、「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に掲載され、無形文化遺産に登録されることが事実上確定していたが、[[2009年]](平成21年)9月の第1回登録で正式に登録された。
 
== 演目 ==<!--
読者の多くは歌舞伎に詳しくないからこそこの項目を読む⇒「歌舞伎狂言」という単語を知らない可能性あり⇒章タイトルが「歌舞伎狂言」だと目次を見ても何が書いてあるか分からずかなり不親切⇒「演目」という章タイトルに変更
-->
[[Fileファイル:Shibaraku, Kabukiza November 1895 production.jpg|thumb|320px|明治28年([[1895年]])11月、東京[[歌舞伎座]]上演の『[[暫]]』(中央で見得を切るのは[[市川團十郎 (9代目)|九代目市川團十郎]]の鎌倉権五郎)。[[1895年]](明治28年)11月、[[鹿島清兵衛]]撮影]]
 
=== 分類 ===
現代の歌舞伎の演目は普通の芝居である'''歌舞伎狂言'''と'''歌舞伎舞踊'''に分けられる<ref>日本国語大辞典(小学館)歌舞伎狂言の項</ref>。
 
歌舞伎狂言は、さらにその内容により'''時代物'''と'''世話物'''に大別される。[[時代物]]とは、江戸時代より前の時代に起きた史実を下敷きとした実録風の作品<ref>国史大辞典(吉川弘文館)、時代物の項</ref>や、江戸時代に公家・武家・僧侶階級に起きた事件を中世以前に仮託した作品をいう<ref>[https://kotobank.jp/word/{{Kotobank|%E6%99%82%E4%BB%A3%E7%89%A9-73717 |title=kotobank「時代物」(2011|accessdate=2011年11月24日閲覧)]}}</ref>。一方、[[世話物]]とは、江戸時代の市井の世相を描写した作品をいう<ref>国史大辞典(吉川弘文館)世話物の項</ref>。
 
時代物のうち、お家騒動を書いたものは'''御家物'''(おいえもの)、[[飛鳥時代]]から[[平安時代]]を描いたものは'''王朝物'''(おうちょうもの)と呼ばれる。また世話物のうち、特に写実的要素の濃いもの<ref>世界大百科事典 第2版[https://kotobank.jp/word/{{Kotobank|%E7%94%9F%E4%B8%96%E8%A9%B1-474075|title=世界大百科事典 第2版 気世話]の項目}}</ref>を'''生世話物'''(きぜわもの)という。明治になると当時の世相を描いた'''[[散切物]]'''という世話物のサブジャンルも生まれた。
 
また歌舞伎狂言はその起源によって分類することもでき、[[人形浄瑠璃]]の演目を書き換えたものを'''丸本物'''<ref name="#7">日本国語大辞典(小学館)</ref>といい、能・狂言の曲目を原作としてそれらに近い様式で上演する所作事を'''[[松羽目物]]'''<ref group="注">[[勧進帳]]を嚆矢とする能・狂言に近い様式で演出するものを指す。それ以前に作られた[[京鹿子娘道成寺]]は能の演目([[道成寺]])を換骨奪胎したものだが、普通松羽目物とは普通呼ばない。</ref>という。丸本物は'''義太夫物'''・'''義太夫狂言'''・'''でんでん物'''<ref>{{Cite web|和書|work=[[日本芸術文化振興会]] [|url=http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/edc_dic/dictionary/dic_ka/dic_ka_25.html |title=歌舞伎辞典「義太夫狂言」](2011|accessdate=2011年11月24日閲覧)}}</ref>などとも呼ばれる。なお丸本物の対義語は'''純歌舞伎'''<ref>{{Cite web|和書|work=日本芸術文化振興会 [|url=http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/edc_dic/dictionary/dic_sa/dic_sa_16.html |title=歌舞伎辞典「純歌舞伎」](2011|accessdate=2011年11月24日閲覧)}}</ref>である。
 
'''[[演劇改良運動|活歴物]]'''(かつれきもの)は明治時代に歌舞伎を近代社会にふさわしい内容のものに改めようとして生まれた演目の総称であり、'''[[新歌舞伎]]'''(しんかぶき)は、明治後期から昭和初期にかけて、劇場との関係を持たない独立した作者によって書かれた歌舞伎の演目の総称である。なお、第二次世界大戦の戦中から戦後以降に書かれた新しい演目は、'''新作歌舞伎'''(しんさくかぶき)または単に'''新作'''(しんさく)と呼んで、新歌舞伎とは区別している。
 
歌舞伎狂言の分類方法は人によって揺れがあり、時代物と世話物で2分する代わりにこれにお家物を加えて3分する用例<ref name="heibon-jiten-bunrui">{{Citation|和書|title=新版 歌舞伎事典|publisher=平凡社、[|url=http://www.jkn21.com/contents/hanrei/kabuki/general-remarks04.html |chapter=作品の分類]}}</ref>もある。<!--や丸本物と純歌舞伎で2分するかわりにこれに所作事を加えて3分する用例<ref name="heibon-jiten-bunrui" />もある。******原著は「歌舞伎の作品をごく大まかに分類すると」と書いてあります。歌舞伎狂言の分類じゃありません。-->
 
=== 特徴 ===
[[Fileファイル:Heike Nyōgo-ga-shima by Shibakuni and Hokushū.jpg|thumb|320px| 西光亭芝國・春好齋北洲画『故人市川團藏十七囘忌追善狂言 平家女護嶋』四枚續物、文政7年9月大阪角座上演『[[平家女護嶋]]』(1824年)]]
 
{{Anchors|世界}}歌舞伎の演目にはほかの演劇の演目にはない特徴がいくつかある。まず歌舞伎狂言は'''世界'''という類型に基づいて構成されている。「世界」とは物語が展開するうえでの時代・場所・背景・人物などの設定を、観客の誰もが知っているような伝説や物語あるいは歴史上の事件などの大枠に求めたもの<ref>{{Harvnb|須永朝彦氏『歌舞伎ワンダ|1990|p={{要ペランド』「世界 ― 予め設定される時間と人物」、新書館、1990ジ番号|date=20234月}}}}</ref>、たとえば「[[曾我兄弟の仇討ち|曾我物]]」「[[藤原景清|景清]]」「[[隅田川物]]」「[[義経記|義経物]](判官物)]]」「[[太平記|太平記物]]」「[[赤穂事件|忠臣蔵]]」などがあり、それぞれ特有の約束ごとが設定されている。当時の観客はこれらの約束事に精通していたため、世界が設定されていることにより芝居の内容が理解しやすいものになっていた。ただし世界はあくまで狂言を作る題材もしくは前提にすぎず、基本的な約束事を除けば原作の物語から大きく逸脱して自由に作られたものであることも多く、登場人物の基本設定すらも原作とかけ離れていることも珍しくない。
 
複数の世界を組み合わせてひとつの演目を作ることもあり、これを'''綯交ぜ'''(ないまぜ)とよぶ。世界ごとに描いている場所や時代が異なるはずであるが、前述のように世界はあくまで題材にすぎないので、無理やり複数の世界を結びつけてひとつの演目を作りだす。<!--
 
世界はあくまで狂言を作る題材もしくは前提にすぎず、実際の狂言はそこから換骨奪胎して元々の内容から大きく逸脱して自由に作られたものである事も多く、原作にない場面を描くばかりか名前をはじめとした登場人物に関わる基本設定すらも原作とかけ離れている事も珍しくない。この為「[[助六]]<small>実ハ</small>[[曾我時致|曾我五郎]]」のように世界の方の主人公(曾我五郎)が世を忍ぶ仮の姿として演目の主人公(助六)になっていると設定する。このように原作とかけ離れていても、世界が同一ならいくつかの基本的な約束事は同一なので、このような約束事に精通していた当時の観客は世界が設定されている事で芝居の内容が理解しやすいものになっていた。
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例えば[[助六]]という演目は侠客の助六が遊郭で敵の男から刀を奪い返す様子を描いたものだが、その世界である曽我物語の主人公は侠客ではないし遊郭で刀を奪う場面もない。また曽我物語の主題である仇討はこの演目では背景として沈み、「仇討に使う為に刀を奪う」という主人公の動機に関係するだけである。しかし「本来の目的は仇討である」、「助六は荒々しく、その兄はおとなしい」等他の曽我物の狂言と共通する特徴を持っており、芝居を見慣れた観客にとってはこの演目が曽我物と設定されている事により演目内容の理解が容易になる。こうした理由もあり、この演目では主人公に「助六「<small>実ハ</small>[[曾我時致|曾我五郎]]」という設定を与えてこの演目の主人公である助六と曽我物語の主人公である曾我五郎を無理やり結び付ける事でこの演目を「曽我物」という枠組みの中で描いている。--><!-- 世界は縦糸、趣向は横糸-->
 
江戸時代に作られた演目のその他の特徴として、その長さが長大なこと、本筋の話の展開の合間に数多くのサイドストーリーを挟んだり、場面ごとに違った種類の演出(時代物と世話物(後述))が行われたりすることなどがあげられる。前者はこれは当時の歌舞伎が日の出から日没まで上演した<ref {{Refnest|group="注">|歌舞伎は俗に「一番太鼓二番鶏」と言われ、早朝に始まった。劇場の一番太鼓は鶏が時を作るころだという意味である<ref>国史大辞典(吉川弘文館)、歌舞伎の項。</ref>。}}<ref group="注">夜間上演しなかったのは当時の[[劇場|芝居小屋]]では天窓から照明の明かりをとらざるを得なかったため<!--夜間だと大量の[[蝋燭]]を使用しても明るさが足りず-->(歌舞伎の夜間上演が行われるようになったのは明治初年になって[[ガス灯]]が使われるようになってからのことである)。<!---しかも常に火災の危険を伴うものだったからである(事実江戸の芝居小屋は昼間の興行でも頻繁に出火全焼を繰り返している)。****芝居小屋はしばしば焼失してますが、芝居小屋からの出火ってきいたことがありません。いつですか?----></ref>ことによる。一方、後者は興行の中にさまざまな場面を取り込むことで多種多様な観客を満足させることを狙ったものである。
 
現在<ref group="注">江戸時代後期以降</ref>ではこのような長大な演目の全場面を上演すること('''通し狂言''')<!--どこに対してrefがついているのか分らず。<ref>日本国語大辞典(小学館)、通狂言の項。</ref>-->はまれになり、複数の演目の人気場面のみを順に演じること('''ミドリ'''/'''見取り''')<ref {{Refnest|group="注">|「選り取り見取り」から<ref>日本大百科全書(小学館)、通し狂言の項。</ref>。}})が多い。[[昭和]]のはじめごろまでは、演目を並べるときに「一番目」(時代物)、「中幕<!--(なかまく)-->」<ref name="#7"/>(所作事または一幕物の時代物)、「二番目」(世話物)と呼ぶ習慣があったが、現在では行われていない。
 
また江戸時代には(当時における)現代の人物や事件やをそのまま演劇で用いることが幕府により禁止されていたため、規制逃れのため登場人名を仮名にしたうえで無理やり過去の出来事として物語が描かれるという特徴もある。しかし仮名といっても[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]のことを「真柴久吉」と呼ぶ程度のもので、このように歪曲された演目の内容から真に描きたい事件を読み解くのは容易であった<ref group="注">歴史上の人物に置き換える場合もあり、この場合はやや難しくなる。しかし、たとえば「太平記物」の『[[仮名手本忠臣蔵]]』では[[吉良義央]]を[[高師直]]に置き換えているが、吉良義央が「[[高家 (江戸時代)|高家]]」の出(高家=[[高氏]])であることを踏まえた置き換えであり、類推できるようにしてあった。</ref>。
 
=== 演目名と通称 ===
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** 『[[平家女護島]]』{{smaller|(へいけ にょごがしま)}}二段目切「鬼界が島の場」→『俊寛』<small>(しゅんかん)</small>
** 『[[恋飛脚大和往来]]』{{smaller|(こいびきゃく やまと おうらい)}}二段目「新町井筒屋の場」→『封印切』{{smaller|(ふういんぎり)}}
** 『[[義経千本桜]]』{{smaller|(よしつね せんん ざくら)}}四段目「道行初音旅の場」→『吉野山』<small>(よしのやま)</small>、四段目切「河連法眼館の場」→『四ノ切』<small>(しのきり)</small>
 
なお、'''返し'''(返し幕)とはいったん幕を引くが幕間を設けず、鳴り物などで間をつなぎ用意ができ次第すぐに次の幕を開けること<ref>日本国語大辞典(小学館)、返幕の項。</ref>、'''切'''とは義太夫狂言のその段の最後の場面のことで<ref>日本国語大辞典(小学館)、切・限の項、2-5-ハ。</ref>、すなわち『四ノ切』とは四段目の最後の場のことをいう。『義経千本桜』の四段目の切はケレンを使った派手な演出が有名な人気の場面で、これが上演されることが特に多かったことから、ただ「四ノ切」と言えばこの場面を指すようになった。
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== 演出 ==
[[Fileファイル:Kurogo.jpg|thumb|200px|舞台上の黒衣<!--]]
----
{{small|1932年2月[[東京劇場]]上演『一谷嫩軍記・熊谷陣屋』の一場面。}} -->]]
歌舞伎の舞台には役者に小道具を手渡すなど演技の手助けをする役割の人物がいることがあり、この人を'''後見'''(こうけん)という。特に全身黒装束に身を包んだ後見を'''黒衣後見'''(くろごこうけん)、あるいは略して'''[[黒衣]]'''(くろご)という。役者以外の人物が舞台に登場しないことが原則の通常の演劇と違い、黒衣をはじめとした後見は観客の目から見える位置に現れる。しかし後見たちが舞台にいないものとして扱うのが歌舞伎の暗黙のルール了解である。
 
黒衣以外にも、[[紋付]][[袴]]の後見('''着付後見'''(きつけごうけん)もしくは'''袴後見'''という)や[[裃]]の後見('''裃後見'''(かみしもごうけん)という)もいる<ref>{{Harvnb|今尾哲也 『歌舞伎をみる人のために』、玉川大学出版、p180|1993|p=180}}</ref>。さらに海や水辺の場面に登場する青装束の'''波後見'''(なみごうけん)、雪の場面に登場する白装束の'''雪後見'''(ゆきごうけん、'''白衣'''(しろご)とも)などの後見がいるが、波後見は幕末、白衣はおそらく明治以降に考案されたものである<ref>{{Harvnb|今尾哲也 『歌舞伎をみる人のために』、玉川大学出版、p182|1993|p=182}}</ref>。
 
<!--将来的には「効果音」という節を作って柝の記述をそっちに移した方がよいかも-->また歌舞伎の演出では'''[[拍子木]]'''(ひょうしぎ)あるいは略して'''柝'''(き)を用いる<!--今尾哲也 『歌舞伎をみる人のために』に「柝」は「拍子柝」の略称だと書いてある-->ことがあり、芝居の開始時の合図として打ったり幕切れで打ったりし、これらのときには2本を打ち合わせる<ref name="imao">{{Harvnb|今尾哲也 『歌舞伎をみる人のために』、玉川大学出版、|1993|loc=V「柝」}}</ref>。また役者の足取りに合わせて打たれたるなど、動作や物音を強調するためにも用いられ('''ツケ'''という)<ref {{Refnest|group="注">|「付け拍子木」の略<ref>{{Harvnb|今尾哲也 『歌舞伎をみる人のために』、玉川大学出版、p106|1993|p=106}}</ref>。}}という)、この場合には床に置いた板(ツケ板)に打ちつける<ref name="imao" />
 
[[Fileファイル:Oshimodoshi, from the series The Eighteen Great Kabuki Plays.jpg|thumb|200px|隈取の例]]
'''[[隈取]]'''はおもに時代物で行われる化粧法である。顔に線を描いたもので、もともとは血管や筋肉を誇張するために描かれたものだとされている。役柄により色が異なり、赤系統の色は正義の側の人間に、青系統の色は敵役に、茶色は鬼や妖怪などに用いられる。
 
{{See also|隈取}}
 
'''見得'''は演目の見せ場において役者がポーズを決めて制止することを指す。映画におけるストップモーション技法に相当し、役者を印象づけたり舞台の絵画的な美しさを演出したりするのに用いられる。'''[[六方]]'''(ろっぽう)は伊達や勇壮なさまなどを誇張したり美化した荒事の要素をもつ所作である。歌舞伎では、当初は舞台への出のときに行われたが、後代になるともっぱら花道への引っ込みのときにこれが行われる。
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== 役者 ==
=== 名跡と屋号 ===
一代に終わらず何代も受け継がれる歌舞伎役者の芸名は、'''[[名跡]]'''(みょうせき)と呼ばれている。名跡を継ぐことを'''襲名'''(しゅうめい)といい、役者たちは経験を経るにつれ、名跡を順々に取り換えて次第に大きな名跡を継いでいく。実子や血縁者が継承することが多いが、養子や実力のある高弟など<ref name="general-remarks05">{{Citation|和書|publisher=平凡社|title=新版 歌舞伎事典』総説、[|url=http://www.jkn21.com/contents/hanrei/kabuki/general-remarks05.html|chapter=総説 役者・俳優]}}</ref>に名跡を継がせることもある。ただし、ここでいう養子は法的な意味でのそれとは限らず、いわば芸の上での養子であることもあり、これを'''芸養子'''という。
 
役者たちは名跡とは別に名跡・芸名ごとにきまる'''屋号'''(やごう)を持っている([[歌舞伎役者の屋号一覧]]参照)。歌舞伎では役者の登場時やセリフ・見得が決まった時など<ref group="注">掛け声をいつかけるかについては、ある程度の習慣がある。</ref>に'''[[大向こう]]'''(≒後ろの方の席)などから役者に声をかける習慣があるが、その時は芸名でなく屋号で呼ぶのが基本である。
 
=== 役者の養成 ===
歌舞伎役者の家柄に生まれた者の場合、幼少時から芸の基礎となる習い事(日本舞踊、長唄、鳴物など)を始め、未就学のうちに役者の子や孫として舞台に上がる「初お目見え」<ref>{{Cite webnews|和書|title=【歌舞伎展望】20年後のスターは間違いなし! 未就学の御曹司が舞台に続々と初お目見え|url=https://www.sankei.com/article/20160508-UTSE537OOBI6VNY7U4VYESXLLQ/|websitenewspaper=産経ニュース|date=2016-05-06|accessdate=2021-07-02|languagepublisher=ja|first=SANKEI DIGITAL|last=INC産業経済新聞社}}</ref>、そして「初舞台」を経験し、子役として舞台経験を積む<ref>{{Cite webnews|和書|title=【歌舞伎】もうすぐ「初舞台」 伝統継ぐ、ちびっ子歌舞伎俳優たち|url=https://www.sankei.com/article/20170101-UK2GBF5O3JNUHGPV3MVBVF4IGY/|websitenewspaper=産経ニュース|date=2016-12-29|accessdate=2021-07-02|languagepublisher=ja|first=SANKEI DIGITAL|last=INC産業経済新聞社}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.eigeki.com/special/column/kabukisaika_n60|title=第60回 歌舞伎彩歌 ちょっと幕間 初舞台と初お目見え|accessdate=2021-07-02|publisher=衛星劇場}}</ref>。思春期になり変声をすると役がつかなくなり、20歳ごろまでは稽古をしながら学業に励む時期となるため、ここで自らの進路について考えることとなる<ref>{{Cite web|和書|title=幼児なのになぜ!? 歌舞伎俳優の子どもたちが舞台を立派に全うできるワケ {{!}} citrus(シトラス)|url=https://citrus-net.jp/article/25182|website=citrus(|date=2017年5月29日)|accessdate=2021-07-02|language=ja}}</ref>。歌舞伎役者になることを選ばない者もいる。
 
歌舞伎とは関係のない家に生まれた世襲以外の志望者については、国立劇場の新人育成研修([[歌舞伎#伝統歌舞伎保存会|後述]])、1997年に開塾した松竹上方歌舞伎塾<ref>{{Cite webnews|和書|title=【亀岡典子の恋する伝芸】どこを切っても上方色満載「晴の会」の挑戦-一般家庭出身、ゆかたは着崩れ、正座もできなかった塾生が…|url=https://www.sankei.com/article/20160727-LYG6IKK3NJPNLGDYI7WNIGOZ6E/|websitenewspaper=産経ニュース|date=2016-09-04|accessdate=2021-06-26|language=ja|first=SANKEI DIGITAL|lastpublisher=INC産業経済新聞社}}</ref><ref>{{Cite webnews|和書|title=はんなりした味わい 人間国宝の女形片岡秀太郎さん死去:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/articles/ASP5W41M9P5WPTFC007.html|website=朝日新聞デジタル(|date=2021年5月27日)|accessdate=2021-06-26|language=ja}}</ref>で研修生を募集しており、選考試験に合格した者が研修を受けることができる。研修終了後は国立劇場養成課などを通じ、歌舞伎俳優に弟子入りをして、師匠から芸名をもらう<ref>{{CitationCite web|和書|title=【素顔】歌舞伎役者ってどうやったらなれるの!?■ゲスト:成駒屋 中村橋吾《前編》【中村橋吾の新企画絶賛配信中!】|url=https://www.youtube.com/watch?v=0n8wCgg1nyg|accessdate=2021-07-02|language=ja-JP}}</ref>。また入門後に歌舞伎の世界の礼儀作法やしきたりなどを覚え、セリフの無い役や立ち廻り、後見や付き人などとして役者修行をはじめる<ref>{{CitationCite web|和書|title=《歌舞伎》女形のキャリアパスを聞いたら、神様の話になった。(前編)【中村芝のぶ新企画!絶賛配信中!】|url=https://www.youtube.com/watch?v=rR7ktdR_wHk|accessdate=2021-07-02|language=ja-JP}}</ref>。このような経緯を辿って役者となり、抜擢も受けるようになった例としては、[[市川笑也 (2代目)|二代目市川笑也]]や[[中村芝のぶ]]<ref group="注">2代目市川笑也と中村芝のぶは、2012年に伝統歌舞伎保存会に入会しており、重要無形文化財(総合認定)である。</ref>、[[喜多村緑郎 (2代目)|二代目市川月乃助]]や[[河合雪之丞|二代目市川春猿]]<ref group="注">市川月之助は2016年に、市川春猿は2017年に[[新派]]に移籍した。月乃助は[[喜多村緑郎 (2代目)|二代目喜多村緑郎]]を襲名、春猿は芸名を[[河合雪之丞]]と改名している。</ref>らが知られる。
 
ほか、子役で歌舞伎の舞台に出演したときに素質を見込まれて部屋子・芸養子となると、役者と同じ楽屋で鏡台を並べ、有力な役者の子弟(御曹司)と同様に教育を受けることとなる。このように育成された例としては、[[坂東玉三郎 (5代目)|五代目坂東玉三郎]]や[[片岡愛之助 (6代目)|六代目片岡愛之助]]などが知られている<ref {{Refnest|group="注">|子役は歌舞伎役者の子ども以外では、[[児童劇団]]に所属する子役俳優や日本舞踊を習っている児童などから選考され、集中稽古で行儀作法や発声・所作の指導を受けた後に出演となっている。そのため、一般家庭の子弟が歌舞伎役者の目に止まることがある。2014年4月に、松竹により「[https://web.archive.org/web/20140214001245/https://www.shochiku.co.jp/terakoya/index.html 歌舞伎アカデミーこども 歌舞伎スクール『寺子屋』]」が開校し、小学校卒業までの年齢の児童に稽古を行っている<ref>([{{Cite news|和書|url=https://www.jiji.com/jc/v4?id=kabukikids201911050005 |title=歌舞伎俳優になる!道を開く若者たち] |date=2019年11月5日 |work=時事通信)}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=部屋子、芸養子、御曹司 {{!}} 歌舞伎俳優名鑑 現在の俳優篇|url=https://meikandb.kabuki.ne.jp/word02/|accessdate=2021-07-02|language=ja}}</ref>。}}
 
歌舞伎界に入門して10年以上で幹部俳優の推薦を受けた役者は、[[日本俳優協会]]の名題資格審査(名題試験)を受験することができる。筆記・作文・実技の審査に合格して『名題適任証』を取得し、関係各方面の賛同を受けて名題昇進披露を行った者は「名題俳優」と呼ばれる。歌舞伎俳優の家に生まれた者も歌舞伎とは無関係な家に生まれた者も、同様に受検して資格を得ている<ref>{{Cite web|和書|title=片岡孝太郎『名題試験』|url=https://ameblo.jp/takataro-kataoka/entry-11387384272.html|website=片岡孝太郎オフィシャルブログ「片岡孝太郎の 話すことあり 聞くことあり」Powered by Ameba(2012年10月24日)|accessdate=2021-06-26|language=ja}}</ref>。名題に昇格していない者は「名題下」と呼ばれるが、『名題適任証』を取得しているにもかかわらず、あえて昇格をしない者もいる。単なる身分の上下ではなく、立ち廻りの演出を行う専門職の立師(たてし)は名題下の職分であるためである<ref>{{Cite webbook|和書|title=名題と名題下 {{!}} 歌舞伎俳優名鑑 現在の俳優篇|urlwebsite=歌舞伎 on the web|accessdate=2021-06-26|language=ja}}</ref>。
 
銀行員であったが[[市川流|市川宗家]]に婿入りしたことから29歳で役者修業に入った[[市川三升|五代目市川三升]]、[[市川猿翁 (2代目)|三代目市川猿之助]]と[[浜木綿子]]の息子として生まれたが両親の離婚のため母親に養育され、長らく本名([[香川照之]])で俳優活動を行った後に45歳で歌舞伎の世界に入った[[中車照之|九代目市川中車]]などは珍しい例といえる。
 
{{節スタブ}}
 
=== 伝統歌舞伎保存会 ===
社団法人伝統歌舞伎保存会は、[[1965(年]](昭和40)に[[文化財保護法]]に基づき設立された団体である。
 
[[1966年]](昭和414)4月に歌舞伎は国の重要無形文化財に認定され、同会はその保持団体として認定を受けた。会員は歌舞伎関係者のうち'''「舞台経験20年以上の技能に優れたもの」'''で、[[重要無形文化財]]「歌舞伎」の保持者として総合認定を受けている<ref name="1965kokuji" />。俳優、長唄(唄方、三味線方)、竹本(唄方、三味線方)、鳴物、狂言作者<ref>{{Cite web|和書|title=狂言作者と柝|url=https://www.kabuki-za.co.jp/sya/vol88.html|website=www.kabuki-za.co.jp|accessdate=2021-06-26}}</ref>など、2021年6月の時点で現会員は199名(引退・物故会員247名)である<ref>{{Cite web|和書|title=会員一覧 {{!}} 伝統歌舞伎保存会|url=http://www.kabuki.or.jp/about/kain.html|website=www.kabuki.or.jp|accessdate=2021-06-26|publisher=伝統歌舞伎保存会}}</ref>。
 
[[独立行政法人]][[日本芸術文化振興会]]([[国立劇場]])や松竹と協力し、歌舞伎俳優(1970(1970年より)と歌舞伎音楽演奏者(竹本は1975年、鳴物は1981年、長唄は1999年より)の新人養成事業を行っている<ref>{{Cite web|和書|title=新人研修 {{!}} 伝統歌舞伎保存会|url=http://www.kabuki.or.jp/densyou/sinjin.html|website=www.kabuki.or.jp|accessdate=2021-07-02}}</ref>。また若手俳優や演奏家に対して各劇場の稽古場で日常的に研修を行うほか、研修・勉強会に指導者を派遣するなど、歌舞伎という芸能の伝承と育成のための活動<ref>{{Cite web|和書|title=伝承と育成 {{!}} 伝統歌舞伎保存会|url=http://www.kabuki.or.jp/densyou/|website=www.kabuki.or.jp|accessdate=2021-07-02}}</ref>、中学生・高校生を対象としたワークショップも継続している<ref>{{Cite web|和書|title=普及活動 {{!}} 伝統歌舞伎保存会|url=http://www.kabuki.or.jp/fukyu/|website=www.kabuki.or.jp|accessdate=2021-07-02}}</ref>。
 
2020年5月28日に[[日本俳優協会]]と[[YouTube]]チャンネル「歌舞伎ましょう」<ref>{{Cite web|和書|title=「歌舞伎ましょう」日本俳優協会・伝統歌舞伎保存会【公式】 - YouTube|url=https://www.youtube.com/channel/UCrrqtFzHct-BLRalxkQtbDg/featured|website=www.youtube.com|accessdate=2021-08-30}}</ref>を開設しており、歌舞伎の魅力を伝えるための動画配信を行っている<ref>{{Cite web|和書|title=YouTubeチャンネル「歌舞伎ましょう」開設、松本幸四郎の隈取動画公開(動画あり)|url=https://natalie.mu/stage/news/380884|website=ステージナタリー(2020年5月28日)|accessdate=2021-08-30|languagepublisher=ja|first=Natasha|last=Incナターシャ}}</ref>。歌舞伎の舞台裏や役者の稽古の様子、自主公演のPRや私生活での趣味など多種多様な内容の動画がアップロードされており、[[市村竹松 (6代目)|六代目市村竹松]]・尾上音蔵による歌舞伎・歌舞伎化粧の英語解説の動画も作られている。<!--大名跡のほぼ全員が会員になっています-->
 
== 舞台 ==
[[Fileファイル:Kabuki-theater.gif|thumb|300px|歌舞伎座の舞台平面図<ref>[{{Cite web|和書|url=http://www.kabuki-za.co.jp/rebuild/news/151 |title=[歌舞伎座資料館]-廻り舞台について|accessdate=2014年1月閲覧。}}</ref>。]]
[[Fileファイル:Shibai_Ukie_by_Masanobu_Okumura.jpg|thumb|300px|[[奥村政信]]画『芝居浮繪』{{smaller|(しばい うきえ)寛保年間の葺屋町市村座。}}]]
 
=== 舞台の各部分 ===
歌舞伎の舞台を右図にしたがって説明する。なお客席から舞台を見たとき右側を'''上手'''(かみて)、左側を'''下手'''(しもて)という。
 
'''花道'''は舞台下手から客席を貫いて設けられている通路状の舞台である。正面の舞台は'''本舞台'''という。花道は役者の入退場に用いられるばかりでなく、ここで重要な演技も行われる。観客のすぐそばを通ることで役者の存在感をアピールするなどの演出が可能となる<ref group="注">本舞台では距離や時間がリアルであるが、花道ではそうではない。たとえば『勧進帳』では義経一行が登場してから本舞台にかかるまで数分だが、都から安宅の関までの時間と距離すべてを表している。弁慶が最後に飛び六法で花道を退場するが、そのときすでに義経はずっと先へ行っている。花道はわずかな長さしかないが、弁慶は何キロも走っているのである。</ref>。
 
舞台の両端には'''大臣囲い'''(だいじんがこい)があり、下手側の大臣囲いには太鼓などの演奏や長唄、効果音などを演奏するための場所で外側には黒い御簾(みす)がかけられている。この場所を'''黒御簾'''(くろみす)もしくは'''下座'''(げざ)ともいい、ここで奏でられる音楽を'''黒御簾音楽'''もしくは'''下座音楽'''という。一方、上手側の大臣囲いの2階は義太夫狂言(=[[人形浄瑠璃]]から取り込んだ演目)などで竹本という語り物とその伴奏である三味線を奏でる場所で、'''床'''(ゆか)と呼ばれる。大臣囲いの端の柱は'''大臣柱'''(だいじんばしら)と呼ばれている。これは現在では単なる柱にすぎないが、歴史的には歌舞伎舞台の先祖である能舞台で屋根を支える柱からきており<ref name="imao-miru154">{{Harvnb|今尾哲也著、『歌舞伎をみる人のために』、玉川大学出版、p154~158|1993|pp=154~158}}</ref>、歌舞伎においても古くは舞台の屋根を支えるために用いられていた<ref name="imao-miru154" />。
 
花道の舞台とは反対側の端には役者が入退場するための'''鳥屋'''(とや)という部屋があり、その入り口には部屋の中を隠すための'''揚幕'''(あげまく)という幕がかかっている。また本舞台と揚幕を3:7に分ける場所{{Refnest|group="注釈"|実際にはここよりも舞台によった場所<ref>平凡社『新版 歌舞伎辞典』の総説の[http://www.jkn21.com/contents/hanrei/kabuki/ name="general-remarks06.html 劇場・舞台]の箇所。<remarks05"/ref>。}}を'''舞台寄りの七三'''<ref name="imao-miru92">{{Harvnb|今尾哲也著、『歌舞伎をみる人のために』、玉川大学出版、p92~94|1993|pp=92~94}}</ref>、7:3に分ける場所を'''揚幕寄りの七三'''<ref name="imao-miru92" />といい、花道上の演技は多くの場合このいずれかの場所(特に前者)で行われる。舞台寄りの七三にはセリがあり、'''すっぽん'''と呼ばれている。すっぽんは妖怪や幽霊などを演じる役者が登場したり退場したりする場合に使われる。花道は通常下手にしかないが、演目によっては演出の都合上、上手側にも花道を仮設する場合があり<ref group="注">たとえば[[妹背山婦女庭訓]]の三段目山の段</ref>、これを'''仮花道'''(かりはなみち)という。
 
なお歴史的には'''七三'''といえば揚幕寄りの七三のことであった<ref name="imao-miru92" />、大正のころ<ref name="imao-miru92" />から混同が起こり「七三」という言葉が舞台寄りの七三のことも表すようになった<ref name="imao-miru92" />。混同された理由としては、揚幕寄りの七三が2階席から見づらいために演技の位置が舞台よりの七三に移ったこと<ref name="imao-miru92" />、無知なジャーナリストが誤用した可能性<ref name="imao-miru92" />などが挙げられている。また「鳥屋」という言葉は上方のものであり<ref name="imao-miru88" />、江戸ではこの部屋も揚幕と呼ばれた<ref name="imao-miru88">{{Harvnb|今尾哲也著、『歌舞伎をみる人のために』、玉川大学出版、p88|1993|p=88}}</ref>。
 
日本の家屋は床が地面よりもかなり高いため、舞台でもこの高さを作り出すことが多い。この高さの水準を二重舞台、略して二重といい、そのための大道具類も二重と呼ばれる。高さによって常足、中足、高足などがある。どれを使うかは場面によってだいたい決まっている<ref>新版 歌舞伎事典、「二重」の項、平凡社。</ref>。
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=== 舞台機構 ===
==== 廻り舞台 ====
'''[[廻り舞台]]'''(まわりぶたい)は舞台中央にあって、水平に回転する舞台である。手前側と向こう側に2つの場面の装置を仕込んでおき、回転させることによって素早く場面転換ができる。通常は役者が舞台に乗ったままの状態で、装置ごと回す。上演中であっても裏側に回った方の装置をこわし、さらに次の場面の装置を仕込むことができる。廻り舞台の回転は歌舞伎の見せ場のひとつで、照明を消さず幕を開けたまま廻り舞台を回転させ、場面転換を観客に印象づけることができる。この手法を'''明転'''(あかてん)という。また、たとえば悪だくみをたくらむ場面とその被害者宅の2つを廻り舞台の上に乗せ、一方から他方への転換を見せ、次に逆回転させて元の場面に戻るというようなことができる<ref group="注">例えば[[東海道四谷怪談]]</ref>。これを俗に「'''行って来い'''」といい、場面が戻るとともに時間も戻るかのように感じられるため、2つの場面の同時性を強く表現できる。
 
『佐倉義民伝』の子別れ、『入谷』などのように、少しだけ廻して建物の横などを見せることもある。半廻しという。歌舞伎以外の芝居では装置は通常、表側だけしか作らないが、歌舞伎ではこのように厚みのある装置を組むことがある。ときには裏側まで作る。
 
==== 迫り ====
'''迫り(セリ)'''は昇降装置で、地下('''奈落'''(ならく)という)からせり上がって役者の登場や退場に使われるほか、大道具それ自身をせり上げることで屋敷の地下が現れる<ref group="注">例えば[[伽羅先代萩]]の床下の場。[[楼門五三桐]]や[[青砥稿花紅彩画]]でも同様の演出がある。</ref>などの迫力のある演出を行う。回り舞台が場面を水平方向へ、迫りが鉛直方向に切り替えて立体感を出す。なおセリの配置や個数は劇場により異なるが、ここでは歌舞伎座のもの<ref>「かぶき手帖 2013年度版」、日本俳優協会編集・発行、p23</ref>を図示した。廻り舞台や迫りは今日ではさまざま様々な演劇に用いられているが、もともとは享保年間に歌舞伎に取り入れられたものである。
 
==== 幕 ====
[[Fileファイル:The Morita-za formal curtain.svg|thumb|歌舞伎座や京都南座の定式幕。森田座に起源を持つ。]]
[[Fileファイル:The Ichimura-za formal curtain.svg|thumb|国立劇場や大阪新歌舞伎座の定式幕。市村座に起源を持つ。]]
[[Fileファイル:The Nakamura-za formal curtain.svg|thumb|平成中村座の定式幕。中村座に起源を持つ。]]
歌舞伎では舞台と客席を仕切る幕として'''[[定式幕]]'''という引き幕(=横方向に引いて開閉する幕)が用いられる。現在用いられている定式幕は三色の縦縞であり、色は左から黒、柿、萌黄の順(歌舞伎座や京都[[南座]]など)もしくは柿、黒、萌黄の順である([[国立劇場]]や大阪[[新歌舞伎座 (大阪)|新歌舞伎座]]など)。[[平成中村座]]は例外的に左から黒、白、柿の順の三色を用いている。
 
また現在ではさらに上に開く'''[[緞帳]]'''も用いており、緞帳を開けるとその奥に定式幕が見えるようになっている。開場直後や長い幕間では緞帳が下りているが、芝居が始まるだいぶ前の段階で緞帳を上げ、その後定刻になると定式幕を下手から上手へ引き開けて芝居が始まる。
 
江戸時代に引き幕を使用することができたのは幕府から許可を得た芝居小屋だけであり、定式幕はいわば官許の芝居の証のひとつであった。江戸には幕府の許可を得た芝居小屋は3つのみ('''[[江戸三座]]''')であり、前述した3種類の定式幕はそれぞれ江戸三座の森田座、市村座、中村座に起源を持つ。ただし引き幕に関する事情は地方によって異なり、たとえば上方では紺無地一色の幕を中央から2つに分けて開いていた<ref name="imao-miru54">{{Harvnb|今尾哲也著、『歌舞伎をみる人のために』、玉川大学出版、p63|1993|p=54}}</ref>。
 
一方幕府の許可のない芝居小屋はさまざまな制限を受けており、引き幕を使えないため代わりに[[簾]]を上下させて幕の代わりに利用していた<ref name="imao-miru63">{{Harvnb|今尾哲也著、『歌舞伎をみる人のために』、玉川大学出版、p63|1993|p=63}}</ref><ref {{Refnest|group="注">|このためこうした芝居小屋は'''緞帳芝居'''と呼ばれる事があるが、この呼称がつかわれるようになったのは明治初年のことである。参考:今尾哲也著、『歌舞伎をみる人のために』、玉川大学出版、p63<ref name="imao-miru63"/ref>。}}。したがって歌舞伎における緞帳の歴史をさかのぼるとこうした許可のない芝居小屋にたどりつくが、現在歌舞伎で使われている緞帳の起源は別にあり、明治12年新富座の贈り幕(=大夫元や役者が贔屓客から貰った豪華な幕)がその起源である<ref>{{Harvnb|今尾哲也著、『歌舞伎をみる人のために』、玉川大学出版、p66|1993|p=66}}</ref>。
 
そのほかにも演出上の都合で別の幕が使われることもある。'''浅葱幕'''はその名の通り[[浅葱色]]の幕で、定式幕のすぐ後ろに配置される。舞台上部で吊られており、吊っている部分を引っ張ることで簡単に幕を落下させられる(「'''振落し'''(ふりおとし)」という)。通常であれば定式幕が横に開いていくとそれにしたがって役者や背景が順に観客の目に入っていくが、浅葱幕はそれを遮る目的で使用される。そして定式幕が完全に開いた段階で浅葱幕を振り落とせば舞台が一瞬にして観客の目の前に表れるため、舞台の鮮やかさを観客に印象づけることができる。逆に舞台上部の棒に縛った浅葱幕を芝居の途中で下ろすことで一瞬にして舞台を観客の目から隠す(「'''降りかぶせ'''」という)目的でも使用される。
 
'''道具幕'''は背景として用いられる。道具幕には'''浪幕'''(なみまく)、'''山幕'''(やままく)、'''網代幕'''(あじろまく)などがあり、それぞれ海の波、山、塀の築地が描かれている。'''黒幕'''(くろまく)は黒一色の幕で闇夜を表すための背景として用いられる。これらの幕は浅葱幕と同様の仕組みで振り落とされる場合もある。<!--あり、例えば黒幕を振り落とす事で夜が明けた事を演出したりする。****あれはなにかの様式美であって、朝になったわけじゃないと思う。-->
 
また不必要なものを隠す目的でも幕は使用され、消し幕は殺された人物の退場、'''霞幕'''(かすみまく)は竹本や清元などの演奏者の入退場や演奏していない状態を隠す目的で使用される<ref name="izanai-maku">{{Cite web|和書|work=独立行政法人日本芸術文化振興会|title=歌舞伎への誘い 歌舞伎「[幕|url=http://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/kabuki/jp/4/4_04_08.html 歌舞伎の幕]」のページ|accessdate={{Unknown}}}}</ref>。消し幕は時代物では[[フェルト|緋毛氈]](ひもうせん)、世話物では黒布を使用する<ref name="izanai-maku" />。霞幕は白い布に水色の雲が描かれた布で作られており、霞のよう<ref name="izanai-maku" />であることからこの名称で呼ばれる。また'''化粧幕'''は化粧を直している役者を隠す目的の緋色の幕で、[[鳴神]]など古風な演出を狙った狂言で用いられる<ref>{{Citation|和書|publisher=平凡社|title=新版  歌舞伎事典』総説の[|url=http://www.jkn21.com/contents/hanrei/kabuki/general-remarks03.html#03|chapter=総説 扮装と舞台美術]}}</ref>。
 
==== 照明 ====
歌舞伎の古典的な演目では舞台上のどこにも影がなく、均一な照明が好まれるため、通常の劇場の前明かりばかりでなく、舞台上・舞台脇にもさんの明かりがある。現在の歌舞伎座には7列のボーダーライトと5列のサスペンションライトが設備されている。ボーダーライトは作業用灯りの照明ではなく、上演中に点灯するためのものである<ref>[{{Cite web|和書|url=http://www.marumo.co.jp/result/datasheet/pdf/lds297.pdf Lighting Data Sheet |title=NO.297 歌舞伎座|work=丸茂電機株式会社]|accessdate={{Unknown}}}}</ref>。
 
== 歌舞伎音楽 ==
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: 人形浄瑠璃は、[[義太夫節]](浄瑠璃の一種)の演奏に合わせて劇が進行する構成であり、歌舞伎でも人形浄瑠璃から移入した演目(『[[義経千本桜]]』『[[仮名手本忠臣蔵]]』など)は同様に義太夫節が演奏される。人形浄瑠璃では登場人物の台詞と状況説明をすべて義太夫節の太夫(語り手)が行うが、歌舞伎での台詞は基本的に役者が担当し、太夫は状況の説明のみを語ることになる。このため、歌舞伎における義太夫節を「[[竹本]](チョボ)」といって区別することがある。義太夫狂言での義太夫節はおもに舞台上手上部にある専用の場所で演奏される。この場所を「床(ゆか)」または「チョボ床」と呼ぶ<ref>日本大百科全書(小学館)、竹本の項</ref>。
; 常磐津節・清元節
{{Main|常磐津節|清元節}}
: ともに浄瑠璃のひとつ。大坂で発展した義太夫節に対し、これらは江戸で発展したもので「江戸浄瑠璃」と呼ばれる<ref>大辞泉(小学館)、江戸浄瑠璃の項。</ref>。重厚な義太夫節に比べて軽妙洒脱な芸風が特徴で、清元節はさらに繊細な持ち味を備える。舞踊劇や舞踊で演奏される。それぞれ、[[常磐津節]]・[[清元節]]を参照(常磐津節『[[関の扉]]』『戻駕』、清元節『[[道行旅路の花聟|落人]]』『保名』など
; その他
: 上記のほか他に、[[大薩摩節]]、[[河東節]]<ref>国史大辞典(吉川弘文館)河東節の項、</ref>、[[新内節]]などが使われる演目がある。江戸浄瑠璃のひとつである[[富本節]](常磐津節と清元節の系譜の中間に位置する)は江戸時代に盛んに用いられたが、近代以降は衰退し、現在では歌舞伎の伴奏として演奏されることはない。
; 下座音楽
{{Main|下座音楽}}
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== 興行 ==
[[Fileファイル:Kabuki-za Theatre 2013 1125.jpg|thumb|200px|[[歌舞伎座]](東京都中央区)]]
[[Fileファイル:Kyoto Minamiza 2010-7 hanamichi.JPG|thumb|200px|[[京都四條南座]]]]
2014年現在、歌舞伎の興行は[[松竹]]がほぼ独占的に行っている。松竹の興行の名称の多くは'''大歌舞伎'''、'''花形歌舞伎'''のいずれかの名称がついており(例:三月大歌舞伎)、前者はベテランの役者が、後者は若手の役者が中心となる興行を指す。
 
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歌舞伎鑑賞の助けとして「筋書」の販売や、「イヤホンガイド」と「字幕ガイド」の貸し出し(いずれも有料)を行っている。
 
「筋書」は各演目の(上演する場面の)あらすじを書いた冊子(プログラム)である<ref group="注">午前の部、午後の部の両方の演目のあらすじが書いてある。「番付」ともいう。</ref>。「字幕ガイド」は役者がしゃべっている台詞を字幕で表示してくれる。
 
'''イヤホンガイド'''は歌舞伎上演中に上演内容の解説を無線で劇場内に飛ばし、観客がイヤホンでそれを聞くことができるサービス(有料)のことである。日本語版、英語版がある。劇場内で料金と保証金を払うことでイヤホンと無線の受信端末を借り受け、終演後にこれらを返却すれば保証金は返される。
 
イヤホンガイドでは「あらすじ・配役・衣裳・道具・独特な約束事など」<ref>[{{Cite web|和書|url=http://www.eg-gm.jp/e_guide/about.html |title=イヤホンガイドとは]|accessdate={{Unknown}}}}</ref>を聞くことができる。また歌舞伎興行では通常各演目は人気場面のみの上演となる(いわゆる見取り方式)が、イヤホンガイドは幕間に上演場面の前後のあらすじの解説も行ったり演目の背景知識を説明したりする。
 
1975年(昭和50年)11月の[[歌舞伎座]][[顔見世]]興行から導入された。邪道と言う者もいるが、イヤホンガイド登場以前も、歌舞伎観劇では、歌舞伎通が歌舞伎初心者に客席でひそやかに解説することがあった。歌を聞く[[オペラ]]や[[ミュージカル]]と違い、[[台詞]]を聞く歌舞伎だから許された観劇習慣だった{{要出典|date=2014年4月}}。
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* [[スーパー歌舞伎]]:[[市川猿翁 (2代目)|三代目市川猿之助]](二代目市川猿翁)が1986年に始めた現代風の歌舞伎で、特徴としては明治以降の歌舞伎では軽視されることが多い外連(けれん)の重視、現代の価値観に沿った演出などがあげられる。新橋演舞場などで上演されることが多い。2015年現在は三代目猿之助が二代目市川猿翁を襲名して事実上隠居したものの、[[市川猿之助 (4代目)|四代目市川猿之助]]が後を引き継ぎ「スーパー歌舞伎II(セカンド)」と銘打って新たな演目に挑戦している。
* [[コクーン歌舞伎]]:[[渋谷]]の[[Bunkamura]]の劇場[[シアターコクーン]]で行われる歌舞伎公演で、古典歌舞伎の演目を新たな演出で上演し、たとえば下座音楽の代わりにエレキギターやクラシック管弦楽を使う。
* [[平成中村座]]:[[中村勘三郎 (18代目)|十八代目中村勘三郎]]と演出家の[[串田和美]]らが中心となり、[[浅草]]の[[隅田公園]]内に江戸時代の[[江戸三座|中村座]]を模した仮設の芝居小屋で行われる。勘三郎逝去後は長男の[[中村勘九郎 (6代目)|六代目中村勘九郎]]が座主を引き継ぎ、2014年7月にニューヨークで復活公演を行った<ref>[{{Cite news|和書|url=http://www.sankei.com/entertainments/news/140712/ent1407120005-n1.html |title=「平成中村座」NY公演に喝采 早替わりに「アメージング!」] |newspaper=サンケイスポーツ |accessdate=2015年12月2日閲覧}}</ref>。
* [[前進座]]:公演は歌舞伎のみならず、歴史劇、現代劇や子ども向けミュージカルなど多彩。毎年5月の[[国立劇場]]公演を中心に、[[南座]]での初春公演、2月[[国立文楽劇場]]公演、9月の[[国立文楽劇場]]公演、秋の名古屋公演など都市部のみならず、地方での巡業公演も積極的に行っている。
* [[超歌舞伎]]:2016年の[[ニコニコ超会議|ニコニコ超会議2016]]より行われている公演で、バーチャルアイドル[[初音ミク]]と[[中村獅童 (2代目)|二代目中村獅童]]を中心とした歌舞伎役者が[[NTT]]による最新テクノロジーを駆使した演出により共演する。2019年8月には京都南座での公演も行われている<ref>{{Cite web|和書|title=八月南座超歌舞伎|南座|歌舞伎美人|url=https://www.kabuki-bito.jp/theaters/kyoto/play/573|website=歌舞伎美人|accessdate=2020-11-10|language=ja}}</ref>。
* 六本木歌舞伎:[[市川海老蔵 (11代目)|十一代目市川海老蔵]]を中心とした新作歌舞伎の公演で、[[三池崇史]]が演出している。2017年の六本木歌舞伎[[座頭市]]では女優の[[寺島しのぶ]]が盲目の少女と花魁で出演<ref>{{Cite book|和書|date=2018年5月1日|work=中日劇場(|publisher=中日新聞文化芸能局)発行「|title=中日劇場全記録}}</ref>。
* [[システィーナ歌舞伎]]:[[複製画]]の展示施設である[[徳島県]][[鳴門市]]の[[大塚国際美術館]]システィーナホールで行われる公演。2009年に初演されて以来ほぼ毎年の恒例行事となっており、「和と洋のコラボレーション」をテーマとして水口一夫による書き下ろし新作が上演される。
* [[滝沢歌舞伎]]:[[滝沢秀明]]を中心とした歌舞伎公演で、前身の「滝沢演舞城」から改題。バンジーやフライング、イリュージョンなどの要素を取り入れている。2019年以降は「滝沢歌舞伎ZERO」に改題。
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== 歌舞伎に由来する語 ==
* [[大向う]]をうならす(おおむうを うならす) - 大向うに座る目の肥えた芝居の見物客の賞讃を博する。転じて、人々の人気を集める。
<!-- * [[十八番]](おはこ)--><!-- *:七代目[[市川團十郎]]は、自分の家が代々、江戸歌舞伎の名役者を輩出してきた誇りと権威を持たせるために、定評のある演目十八種を「江戸市川流歌舞伎狂言組十八番」として定めた。これを「おはこ」と呼ぶ理由は、もともと「得意芸」を「はこ」と呼ぶ習慣があったためのようである。--><!-- リンク先に詳述があるので --><!--「十八番」というのは市川宗家の得意芸である[[歌舞伎十八番]]に由来し、そこから一般にも意味が広がって得意なもの、得意芸の意味となった。ただし「十八番」と書いてなぜ「おはこ」と読むのか、そのいわれについては諸説あるもいまだ定説を見ない。-->
[[Fileファイル:005-1134.jpg|thumb|200px|差金と黒衣]]
* 差金(さしがね) - 舞台に舞い踊る蝶・鳥・人魂などの小道具は、長い黒塗りの竿の先に差した針金にそれらを吊るし、[[後見]]や黒衣(後述)がこれを舞台上の物陰から操作したが、この[[小道具]]一式を差金と呼んだ<ref name="daijirin">大辞林(三省堂)</ref>。<!--また人形浄瑠璃でも人形を動かす部分に差金と呼ばれる部分がある。-->そこから意味が転じて、陰で人をそそのかしたり、入れ知恵したりする者がいると思われる場合に、「あれは誰々の差金に違いない」などと言い表すようになった。
* [[黒衣]](くろご) - 表には出ないものの、なくてはならない存在。縁の下の力持ち。ただし「黒子」「くろこ」はともに[[誤用]]が定着した慣用で、正しい表記は「[[黒衣]]」読みは「くろご」。黒装束に黒[[頭巾]]を着用し、舞台上で役者の介添や小道具を操作する者のことをいう。
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== 関連図書 ==
* {{CitationCite book |和書 |author=[[赤坂治績]] |title=江戸の歌舞伎スキャンダル |series=[[朝日新書]] 067 |publisher=[[朝日新聞社]] |year=2007 |isbn=9784022731678 }}
* {{CitationCite book |和書 |author=[[今尾哲也]] |title=歌舞伎の歴史 |series=[[岩波新書]]661 |publisher=[[岩波書店]] |year=2000 |isbn=4-00-430661-2 |ref={{SfnRef|今尾|2000}}}}
* {{CitationCite book |和書 |author=今尾哲也 |title=歌舞伎をみる人のために |publisher=玉川大学出版 |year=1993 |isbn=9784472094415 |ref={{SfnRef|今尾|1993}}}}
* {{Cite book|和書|others=[[河竹登志夫]] 監修 [[|editor=古井戸秀夫]]編 『|editor-link=古井戸秀夫|title=歌舞伎登場人物事典|publisher=[[白水社]]|date=2006年。ISBN |isbn=4-560-03596-2}}
* {{CitationCite book |和書 |author=[[神山彰]] |title=近代演劇の来歴――歌舞伎の「一身二生」|publisher=森話社 |year=2006 |isbn=4-916087-64-X }}
* {{CitationCite book |和書 |author=[[川添裕]] |title=江戸の大衆芸能――歌舞伎・見世物・落語|series=大江戸カルチャーブックス第9巻|publisher=青幻舎 |year=2008 |isbn=4-86152-145-9 }}
* {{Cite book|和書|others=国立劇場 企画・編|title=日本の伝統芸能講座 舞踊・演劇|publisher=[[淡交社]]|date=2009年。ISBN |isbn=9784473035301|ref={{SfnRef|国立劇場|2009}}}}
* {{CitationCite book |和書 |author=佐藤孔亮 |title=歌舞伎にみる日本史 |publisher=[[小学館]] |year=1999 |isbn=9784093860208 }}
* {{CitationCite book |和書 |author=[[中村哲郎]] |title=歌舞伎の近代――作家と作品 |publisher=[[岩波書店]] |year=2006|isbn=4-00-022466-2}}
* {{CitationCite book |和書 |author=[[服部幸雄]] |title=大いなる小屋――近世都市の祝祭空間|publisher=[[平凡社]] |year=1986 |isbn=458226011X }}
* {{CitationCite book |和書 |author=[[藤田洋]] |title=歌舞伎の事典 演目ガイド181選 |series=カラー版徹底図解 |publisher=[[新星出版社]] |year=2008 |isbn=9784405071070}}
* {{CitationCite book |和書 |author=藤田洋 |title=歌舞伎・主人公百選 |publisher=[[たちばな出版]] |year=2008 |isbn=9784813320975 }}
* {{Citation|和書|author1=和田修|author2=国立劇場|title=日本の伝統芸能講座 舞踊・演劇』「|chapter=第8章 歌舞伎の成立と発展I--3つの俗説を検証する」、|publisher=淡交社|date=2009年、ISBN |isbn=9784473035301|ref={{SfnRef|和田|2009}}}}
* {{Cite book|和書|author=児玉絵里子|title=初期歌舞伎・琉球宮廷舞踊の系譜考三葉葵紋、枝垂れ桜、藤の花ー』―|publisher=錦正社|date=2022年。ISBN |isbn=9784764601468}}
* {{Cite book|和書|author = 今尾哲也|year = 2009|title = 河竹黙阿弥 : 元のもくあみとならん|series = ミネルヴァ日本評伝選|publisher = ミネルヴァ書房|isbn = 978-4-623-05491-6|ref={{SfnRef|今尾|2009}}}}
* {{Citation|和書|title=江戸歌舞伎集|series=新日本古典文学大系96 1997|publisher=岩波書店|chapter=元禄期の江戸の舞台|ref={{SfnRef|江戸歌舞伎集|1997}}}}
* {{Cite book|和書|author1=生田耕作|authorlink1=生田耕作|author2=坂井輝久|title=洛中洛外漢詩紀行|publisher=[[人文書院]]|date=1994|ref={{SfnRef|生田|坂井|1994}}}}
* {{Cite book|和書|author1=岡本勝|authorlink1=岡本勝 (国文学者)|author2=雲英末雄|authorlink2=雲英末雄|title=新版近世文学研究事典|date=2006-02|pages=400|publisher=おうふう|ref={{SfnRef|岡本|雲英|2006}}}}
* {{Cite book|和書|author=盛田嘉徳|authorlink=盛田嘉徳|title=中世賤民と雑芸能の研究|publisher=[[雄山閣|雄山閣出版]]|date=1994年2月5日|isbn=9784639004363|ref={{SfnRef|盛田|1994}}}}
* {{Citation|和書|author1=須永朝彦|authorlink1=須永朝彦|title=歌舞伎ワンダーランド|chapter=世界 ― 予め設定される時間と人物|publisher=[[新書館]]|date=1990|ref={{SfnRef|須永|1990}}}}
 
=== 歌舞伎舞台、劇場建築史 ===
==== 注釈単行本 ====
* {{Cite book|和書 |title=日本の劇場回顧 |year=1947 |publisher=[[相模書房]] |author=[[図師嘉彦]] |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1125541}}
* {{Cite book|和書 |title=吉田暎二著作集 歌舞伎絵の研究 |year=1963 |publisher=[[緑園書房]] |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/2500573/1/24}}
* {{Cite book|和書 |title=日本劇場史 |year=1925 |publisher=岩波書店 |author=[[後藤慶二]] |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1824031/1/4}}
==== 出典雑誌 ====
* {{Cite journal|author=後藤慶二|year=1913|title=劇場の話|journal=[[建築工芸誌]]|publisher=[[建築工芸社]]}}
* {{Cite journal|author=後藤慶二|year=1913|title=劇場の話|journal=[[建築工芸誌]]|publisher=[[建築工芸社]]}}
* {{Cite journal|author=[[明石一夫]]|year=1915|title=江戸時代の劇場|journal=建築世界|publisher=建築世界社}}
* {{Cite journal|author=後藤慶二|year=1923|title=横断劇場舞台建築史|journal=中央建築|publisher=中央建築社}}
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"|2}}
 
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
== 関連項目 ==
* [[出雲阿国]] - [[安土桃山時代]]、[[江戸時代]]前期の女性芸能者。ややこ踊りを基にして'''かぶき踊り'''を創始したことで知られており<ref>{{Citation|和書|author=上田正昭ほか監修|editor=三省堂編修所|year=2009|title=コンサイス日本人名事典 第5版|publisher=[[三省堂]]|page=109}}</ref>、このかぶき踊りが様々な変遷を経て、現在の'''歌舞伎'''が出来上がったとされる<ref group="注">ただし、この従来説に対し、[[服部幸雄]]は、その著書『歌舞伎成立の研究』[[風間書房]](1968)において、阿国かぶきは中世以来の女性芸能の一つに過ぎず、歌舞伎の成立は[[若衆歌舞伎]]からだとしている。</ref>。
* [[名古屋山三郎]]
* [[厚化粧#歌舞伎]] - [[隈取]]
* [[松竹#歌舞伎]]
394 ⟶ 422行目:
 
== 外部リンク ==
{{SisterlinksCommonscat|commons=Category:Kabuki|d=Q199701}}
; 国際機関
* [httphttps://wwwich.unesco.org/cultureen/ichRL/index.php?pg=00011&RL=kabuki-theatre-00163 歌舞伎 - ユネスコ無形文化遺産(Intangible Cultural Heritage - ICH)]
; 歌舞伎上演元による解説
* [https://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/kabuki/jp/index.html 日本芸術文化振興会(国立劇場)・歌舞伎への誘い] - 歴史や表現様式、演目などを概観。動画資料も。
* [https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/ 国立劇場・文化デジタルライブラリー] - 演目の解説や上演記録など詳細な記録と解説。
* [https://www.kabuki-bito.jp/ 歌舞伎公式ウェブサイト] - 松竹による総合情報、上演情報もあり
** [https://www.kabuki-bito.jp/special/kabuki_column/todaysword/ 歌舞伎 今日のことば] - 上記ウェブサイト内の、歌舞伎に関する解説ページ
; 上演情報
* [https://www.shochiku.co.jp/play/ 松竹] - 歌舞伎座、南座などの上演情報
415 ⟶ 443行目:
* [http://www.kabuki-music.com/ 歌舞伎音楽専従者協議会(歌音協)]
; マスコミ・メディア
* [httphttps://allabout.co.jp/entertainmentgm/kabukigt/1683/ All About Japan「歌舞伎」]
* {{ニコニコチャンネル|kabuki0220|歌舞伎チャンネル}}
; その他
* [https://web.archive.org/web/20210124185330/http://watanabetamotu.la.coocan.jp/ 渡辺保の歌舞伎劇評] - 演劇評論家[[渡辺保]]による毎月の劇評
* [https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010361 番組エピソード 歌舞伎役者が演じた時代劇-NHKアーカイブス]
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"|2}}
 
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
{{日本の伝統芸能}}
438 ⟶ 458行目:
[[Category:重要無形文化財]]
[[Category:日本の無形文化遺産]]
[[Category:出雲阿国]]