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<!--この記録-->『当代記』によれば、阿国が踊ったのは傾き者が茶屋の女と戯れる場面を含んだものであった<ref name="#1"/>。ここでいう「[[待合茶屋|茶屋]]」とはいわゆる色茶屋のこと<ref name="iwashin-p9">{{Harvnb|今尾|2000|pp=9-10}}</ref>で、「茶屋の女」とはそこで客を取る遊女まがいの女のことである<ref name="iwashin-p9" />。後述するように、「かぶき踊」は[[遊女]]に広まっていくが、もともと阿国が演じていたものも上述したような性的な場面を含んだものであって、阿国自身が遊女的な側面を持っていた可能性も否定できない<ref name="#2">{{Harvnb|和田|2009|p=207}}</ref>。
 
『時慶卿記』の慶長5年(1600年)の条には、阿国が「ややこ踊」というものを踊っていたという記録があり<ref name="#3">{{Harvnb|和田|2009|p=199}}</ref>、「かぶき踊」は「ややこ踊」から名称変更されたものだと考えられている<ref name="#3"/>。しかし内容面では両者は質的に異なった<ref name="kouza" />ものであり、「ややこ踊」が可愛らしい少女の小歌踊であると考えられているのに対し<ref name="#1"/>、「かぶき踊」は前述のように傾き者の[[茶屋遊び]]という性的な場面を含んだものである。
 
なお、この頃の歌舞伎は[[能舞台]]で演じられており、現在の[[歌舞伎座]]をはじめとする劇場で見られる[[花道]]はまだ設置されていなかった<ref>{{Harvnb|江戸歌舞伎集|1997|p=430}}</ref>。
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[[第二次世界大戦]]の激化にともない、劇場の閉鎖や上演演目の制限など規制が行われた。戦災による物的・人的な被害も多く、歌舞伎の興行も困難になった。
 
終戦後の[[1945年]](昭和20年)[[9月22日]]、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]は日本の民主化と軍国主義化の払拭との理由から仇討ち物封建的忠誠」や「復讐の心情に立脚する」<ref>{{Cite book |和書 |author=世相風俗観察会 |title=増補新版 現代世相風俗史年表 昭和20年(1945)-平成20年(2008)|publisher=河出書房新社 |year=2003-11-07 |page=11 |isbn=9784309225043}}</ref>「身分社会を肯定する」の演目の上演を禁止した。1945(昭和20年)1111月15日、GHQは東京劇場上演中の『[[菅原伝授手習鑑]]』寺子屋の段を反[[民主主義]]的として中止命令を出し、11月20日に上演中止<ref>日本演劇全史 河竹繁俊</ref>となった。松竹本社ではGHQの指導方針に即して自主的に脚本の再検討を行った結果、『[[忠臣蔵]]』『千代萩』『寺子屋』『水戸黄門記』『[[番町皿屋敷]]』などの演目を締め出すこととした<ref>{{Cite news|和書|title=「忠臣蔵」などノー、総司令部が指導|date=昭和20年12月12日|newspaper=朝日新聞}}{{Cite book|和書|title=昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年|pages=15|publisher=毎日コミュニケーションズ|date=1994}}</ref>。しかし、[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]の副官[[フォービアン・バワーズ|バワーズ]]の進言で、古典的な演目の制限が解除され、[[1947年]](昭和22年)11月、東京劇場で東西役者総出演による『[[仮名手本忠臣蔵]]』の通し興行が行われた。
[[File:助六(江戸東京博物館).jpg|260px|thumb|市川團十郎の助六(江戸東京博物館)]]
 
[[1950年代]]には人々の暮らしにも余裕が生まれ、娯楽も多様化し始めた。[[1953年]](昭和28年)2月1日、[[NHK総合テレビジョン|NHKテレビジョン]]の放送開始により日本のテレビ放送が開始された。同日、同局が日本のテレビ史初の番組として放映したのが歌舞伎番組『道行初音旅』であった<ref>[https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009040010_00000 道行初音旅|番組|NHKアーカイブス]</ref>。一方でテレビ時代とともに[[日本野球機構|プロ野球]]やレジャー産業の人気上昇、映画や放送の発達が見られるようになり、歌舞伎が従来のように娯楽の中心ではなくなってきた。そして歌舞伎役者の映画界入り、関西歌舞伎の不振、小芝居が姿を消すなど歌舞伎の社会にも変動の時代が始まった。
 
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歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]][[無形文化遺産保護条約]]の発効以前<ref group="注釈">[[2003年]](平成15年)のユネスコ第32回総会において採択され、[[2006年]](平成18年)4月に発効した。</ref>の[[2005年]](平成17年)に「傑作の宣言」がなされ、「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に掲載され、無形文化遺産に登録されることが事実上確定していたが、[[2009年]](平成21年)9月の第1回登録で正式に登録された。
 
 
== 演目 ==<!--
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[[ファイル:Oshimodoshi, from the series The Eighteen Great Kabuki Plays.jpg|thumb|200px|隈取の例]]
'''[[隈取]]'''はおもに時代物で行われる化粧法である。顔に線を描いたもので、もともとは血管や筋肉を誇張するために描かれたものだとされている。役柄により色が異なり、赤系統の色は正義の側の人間に、青系統の色は敵役に、茶色は鬼や妖怪などに用いられる。
 
{{See also|隈取}}
 
'''見得'''は演目の見せ場において役者がポーズを決めて制止することを指す。映画におけるストップモーション技法に相当し、役者を印象づけたり舞台の絵画的な美しさを演出したりするのに用いられる。'''[[六方]]'''(ろっぽう)は伊達や勇壮なさまなどを誇張したり美化した荒事の要素をもつ所作である。歌舞伎では、当初は舞台への出のときに行われたが、後代になるともっぱら花道への引っ込みのときにこれが行われる。
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* {{Cite book|和書|author=盛田嘉徳|authorlink=盛田嘉徳|title=中世賤民と雑芸能の研究|publisher=[[雄山閣|雄山閣出版]]|date=1994年2月5日|isbn=9784639004363|ref={{SfnRef|盛田|1994}}}}
* {{Citation|和書|author1=須永朝彦|authorlink1=須永朝彦|title=歌舞伎ワンダーランド|chapter=世界 ― 予め設定される時間と人物|publisher=[[新書館]]|date=1990|ref={{SfnRef|須永|1990}}}}
 
=== 歌舞伎舞台、劇場建築史 ===
==== 単行本 ====
* {{Cite book|和書 |title=日本の劇場回顧 |year=1947 |publisher=[[相模書房]] |author=[[図師嘉彦]] |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1125541}}
* {{Cite book|和書 |title=吉田暎二著作集 歌舞伎絵の研究 |year=1963 |publisher=[[緑園書房]] |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/2500573/1/24}}
* {{Cite book|和書 |title=日本劇場史 |year=1925 |publisher=岩波書店 |author=[[後藤慶二]] |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1824031/1/4}}
==== 雑誌 ====
* {{Cite journal|author=後藤慶二|year=1913|title=劇場の話|journal=[[建築工芸誌]]|publisher=[[建築工芸社]]}}
* {{Cite journal|author=後藤慶二|year=1913|title=劇場の話|journal=[[建築工芸誌]]|publisher=[[建築工芸社]]}}
* {{Cite journal|author=[[明石一夫]]|year=1915|title=江戸時代の劇場|journal=建築世界|publisher=建築世界社}}
* {{Cite journal|author=後藤慶二|year=1923|title=横断劇場舞台建築史|journal=中央建築|publisher=中央建築社}}
 
== 脚注 ==