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{{出典の明記|date=2022年7月}}
{{Infobox 哲学者
| region = [[西洋哲学]]
| era = 20世紀の哲学
| image_name = Chinmoy Guha with Derrida (cropped).jpg
| image_size = 200px220px
| image_alt =
| image_caption = ジャック・デリダ(右)
| name = ジャック・デリダ<br />Jacques Derrida
| other_names =
| birth_date = {{生年月日と年齢|1930|7|15|no}}
| birth_place = {{FRA1870}}<br>[[フランス領アルジェリア|アルジェ県]][[アルジェ]]
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1930|7|15|2004|10|9}}
| death_place = {{flagicon|FRA}} [[フランス共和国]]<br>[[パリ]]
| school_tradition = [[大陸哲学]]、[[ポスト構造主義]]、[[脱構築]]、[[解釈学]]、[[現象学]]、[[デリダ派]]
| main_interests = [[現象学]]、[[解釈学]]、[[形而上学]]、[[言語哲学]]、[[文学理論]]、[[美学]]、[[倫理学]]、[[社会哲学]]、[[教育哲学]]、[[時間]]
| notable_ideas = [[脱構築]]、[[差延]]、[[散種]]、男根ロゴス中心主義、[[エクリチュール (哲学)|エクリチュール]]、痕跡、現前の形而上学、挿入、メシア的なもの
| influences = [[アントナン・アルトー]]、[[ジャン・ジュネ]]、[[プラトン]]、[[ジェイムズ・ジョイス]]、[[フリードリヒ・ニーチェ]]、[[フェルディナン・ド・ソシュール]]、[[マルティン・ハイデッガー]]、[[エマニュエル・レヴィナス]]、[[ジークムント・フロイト]]、[[エトムント・フッサール]]、[[ジャン=ジャック・ルソー]]、[[カール・マルクス]]、[[井筒俊彦]]など
| influenced = [[ポストモダン]][[哲学]]、[[デリダ派]]、[[ガヤトリ・C・スピヴァク]]、[[ポール・ド・マン]]、[[フィリップ・ラクー=ラバルト]]、[[ジェフリー・ハートマン]]、[[ジョン・D・カプート]]、[[カトリーヌ・マラブー]]、[[東浩紀]]、[[鵜飼哲]]、[[高橋哲哉]]、[[宮﨑裕助]]、[[亀井大輔]]など、[[柄谷行人]]、[[國分功一郎]]
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| signature_alt =
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== 生涯 ==
=== 1930年から1967年まで ===
[[1930年]][[7月15日]]、当時[[フランス領アルジェリア]]の[[アルジェ]]にあるエルビアールという町で、ユダヤ系の[[ピエ・ノワール]]と呼ばれるユダヤ系フランス人家庭に生まれた。父はジェオルジェット・エメ・デリダ、母はスルタナ・エステル・サファ<ref>Geoffrey Bennington, ''Jacques Derrida'', University of Chicago Press, 1999{{要ページ番号|date=2022年7月}}</ref>。家族の祖先は[[セファルディム]]であり、1870年にフランス国市民権を取得した。五人兄弟の三男で両親はハリウッドの映画俳優にちなんでジャッキーと名付ける。のちパリに出て、「正しい読み」としての「ジャック」に本人が変更した<ref> [http://books.guardian.co.uk/obituaries/story/0,11617,1324460,00.html Obituary in ''The Guardian''], accessed 2 August 2007.</ref>。
 
[[パリ]]に出て[[リセ・ルイ=ル=グラン]]に学ぶが、なじめなかったという。[[リセ]]ではサッカーを好み、将来の夢はサッカー選手だったという。精神的な危機のなか、ルソーや[[アルベール・カミュ]]、ニーチェや[[アンドレ・ジッド]]などを読む<ref name=takahashi>高橋哲哉『デリダ』講談社{{要ページ番号|date=2022年7月}}</ref>。2度の受験に失敗したのち、1951年、エコール・ノルマル・シュペリウール([[高等師範学校 (フランス)|高等師範学校]])に入学する。エコール・ノルマルでは[[ルイ・アルチュセール]]や[[ミシェル・フーコー]]の講義に出席し、のち友人となった。このころにハイデガー、キルケゴールなどを読書後、[[エトムント・フッサール]]の[[現象学]]を研究することを決意し、ベルギーのルーヴェンにある「フッサール文庫<ref group="注">Husserl-Archives Leuven</ref>」に行く。1954年の[[アグレガシオン]](教授資格論文)はフッサールについてのものだった。のち1990年に『フッサール現象学における発生の問題』として出版。教授資格論文の指導教官はジャン・イポリットとモーリス・ド・ガンディヤック<ref group="注">Maurice de Gandillac ,1906-2006。哲学者でベンヤミン、ヘーゲル「精神哲学」のフランス語訳をした。ネオプラトニズムの研究も行った。エリザベート・ルディネスコの『ジャック・ラカン伝』(藤野邦夫訳、河出書房新社)に記載あり。[http://uicp.blog123.fc2.com/blog-entry-10.html 宇波彰による]</ref>で、ほかにこの時点では[[w:Tran Duc Thao|チャン・デュク・タオ]]<ref group="注">デリダはインタビューで自身の哲学者としての履歴を語る時にしばしばチャン・デュク・タオについて言及している。[http://www.scribd.com/doc/14663819/Alan-D-Schrift-TwentiethCentury-French-Philosophy-Key-Themes-and-Thinkers Alan D. Schrift, ''Twentieth-Century French Philosophy (Key Themes and Thinkers)'']p120</ref>や、数学者・哲学者のジャン・カヴァイエス<ref group="注">Jean Cavaillès(1903-1944年)。カンギレムはカヴァイエス伝を1996年に刊行している</ref>にも影響を受けた。アグレガシオンには落第するが1956年に合格する。[[ハーヴァード大学]]に留学し、[[1957年]]には[[精神分析]]を研究していたマルグリット・オークチュリエ<ref group="注">のちマルグリット・デリダ。メラニー・クラインやウラジミール・プロップの翻訳なども刊行している。</ref>と[[ボストン]]で結婚。同年より[[1959年]]までの[[アルジェリア独立戦争]]中には軍事学校で兵士たちにフランス語や英語を教えていた。
 
[[ジャック・ラカン]]の熱心な生徒だった作家[[フィリップ・ソレルス]]の主宰する「テル・ケル」グループと親交をむすぶ。1960年から1964年にかけてソルボンヌ大学で哲学講師。[[1962年]]にはフッサールの『幾何学の起源』に長大な序文をつけ翻訳出版し、ジャン・カヴァイエス賞(エピステモロジー賞)受賞。注目を集める。[[1963年]]に長男ピエールが生まれる。アルチュセールとイポリットの推薦で1964年から[[高等師範学校 (フランス)|高等師範学校]]の哲学史講師。のち同校哲学教授となり、1984年までつとめる。1966年には[[ジョンズ・ホプキンス大学]]で教鞭をとり、当時米国で開催された会議での発表"Structure, Sign, and Play in the Discourse of the Human Sciences(人間科学の言説における構造、記号、遊戯)"<ref>[http://www.hydra.umn.edu/derrida/sign-play.html "Structure, Sign, and Play in the Discourse of the Human Sciences(人間科学の言説における構造、記号、遊戯)"]</ref>で、[[クロード・レヴィ=ストロース]]を批判し、有名になる一歩を踏み出した。同会議で[[ポール・ド・マン]]やジャック・ラカンと知り合う。1967年には次男ジャンが生まれる。同年、『グラマトロジーについて』『声と現象』『エクリチュールと差異』を続々と発表し、以降、哲学界に影響を与え続けた。
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[[1986年]]、[[カリフォルニア大学アーバイン校]](UCI)人文学教授。なおデリダ死後、生前UCIに非公式に遺稿を譲与する約束をしていたとして、大学と遺族との間に法的折衝があった<ref>[https://web.archive.org/web/20071109090936/http://today.uci.edu/news/uciinthenews_070716.asp "The Chronicle of Higher Education", 20 July 2007], 2007年8月閲覧</ref>。ほかアメリカではイエール大学、ニューヨーク大学、ストーニー・ブルック大学、新社会科学研究院(The New School for Social Research)などでも教鞭をとった。
 
アメリカ学士院(American Academy of Arts and Sciences)会員。2001年[[フランクフルト大学・アム・マイン|フランクフルト市]]から[[テオドール・アドルノ賞]]受賞。ケンブリッジ大学、コロンビア大学、新社会科学研究院、エセックス大学、ルーヴェン大学、ウィリアムズ学院、シレジア大学から名誉博士号授与。ケンブリッジ大学名誉博士号授与の際には大変な議論が起こり、クワインらが反対したことは有名である<ref name=takahashi/><ref>John Rawlings (1999) [http://prelectur.stanford.edu/lecturers/derrida/ Presidential Lectures: Jacques Derrida: Introduction] at [[Stanford University]]</ref> 。
 
[[2002年]]映画『デリダ』出演。[[2003年]] [[膵癌]]にかかる。[[モーリス・ブランショ]]の葬儀で弔辞を読む。[[2004年]]に[[パリ]]にて没す<ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/3729844.stm Deconstruction icon Derrida dies], accessed 2 August 2007.</ref>。
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1962年、フッサールの論文への序説『「幾何学の起源」序説』について後年のインタビューでデリダは、この著作のプロブレマティックにはすでに「差異・[[差延]]」のアイデアがあり、意識、現前、科学、歴史、科学の歴史、起源の消失または遅延などについて論じており、『声と現象』と連携したものであるといっている<ref>''Positions''(1972), p. 5.</ref>。なおデリダは『声と現象』を自分の著作のなかではもっとも好きだといっている<ref> ''Positions'' (Eng. 1981, pp. 4-5)</ref>。
 
論文「発生、構造、現象学」(1959)では「構造は生成を持つべきではないのか?そして起源、すなわち発生点は、生成するためにすでにあらかじめ構造化されているのだろうか?」と問うている<ref namegroup=hassei"注">「発生、構造、現象学」『エクリチュールと差異』所収</ref>。デリダはあらゆる構造的ないしサンクロニック(共時的)な現象は歴史を持ち、そして構造はといえば、その発生ないし生成の側面も考えないと理解することはできないとする<ref namegroup=hassei"注">「発生、構造、現象学」『エクリチュールと差異』所収</ref>。
 
=== 差延 ===
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=== 脱構築(ディコンストラクション) ===
{{Main|脱構築}}
なお「脱構築」という訳語は英文学者の[[由良君美]]が考案した<ref>四方田犬彦『先生とわたし』新潮社、2007年{{要ページ番号|date=2022年7月}}</ref>。
 
=== グラマトロジー ===
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{{出典の明記|section=1|date=2018-02}}
デリダは、以下に挙げる[[思想家]]や[[哲学者]]と論争し、または批判を受けた。
*[[エマニュエル・レヴィナス|レヴィナス]]
*:「暴力と形而上学」(1964年)でレヴィナスの『全体性と無限』を取り上げ、レヴィナスの言説が存在論的言語を免れ得ない点に於いてその試みが不十分なものに終っていると指摘した。その後レヴィナスは『存在するとは別の仕方で 或いは存在の彼方へ』(1974年)でこの批判の超克を試みることとなる。デリダ自身も1980年代以降、レヴィナスとの思想的共鳴を強めるようになり、[[1995年]]のレヴィナスの訃報に際して弔辞を読む。これが『アデュー -エマニュエル・レヴィナスへ-』(1997年、邦訳2004年)として刊行された。
 
*[[ポール・リクール|リクール]]
*:デリダの『世紀と赦し(世俗と赦し)』をリクールが『記憶、歴史、忘却』の中で引用し、「赦し」(pardon)の観念についての議論がはじまることとなる。デリダは議論を通じて、「赦しはただ赦されえぬものを赦す」と定式化する。
*[[ユルゲン・ハーバーマス|ハーバーマス]]
*:ハーバーマスは、『近代的ディスクルス』において、デリダをニヒリストと論難している。しかし、[[アメリカ同時多発テロ事件|911テロ]]ハーバーマスはデリダと共闘し、[[ジョヴァンナ・ボッラドリ]]と三者で『テロルの時代と哲学の使命』(邦訳、岩波書店、2004年)を刊行した。
*[[ハンス・ゲオルク・ガダマー|ガダマー]]
*:ガダマーは、1981年にフランスで「テクストと解釈」という講演を行なった。それについて、デリダは、「権力への善き意志」などを発表し、論争に至った<ref>ガダマー、デリダ他『テクストと解釈』邦訳、産業図書、1990年</ref>。ガダマーは、解釈においては、著者の意図を正しく理解しようとする「よき意思」が必要であるとした。それに対して、デリダは、ガダマーの説く「善き意志」は、意志を絶対的・最終的な審級とする意志の形而上学であると批判し、「あらかじめ暴力を行使すること」とした。また、デリダは、ガダマーが前提としている「全体性の概念」を批判する。中山元によれば、二人の議論は、「まったくかみ合わない論争」であったが、それまでドイツでは「デリダの思想の内在的な批判は行われていなかった」ため、デリダの著作が検討されるきっかけになった<ref name="nakayama">[http://www.melma.com/backnumber_26258_1844164/ 中山元 哲学クロニクル 第106号,2001年3月31日号]</ref>{{リンク切れ|date=2021年4月}}。また、中山は、「ガダマーが講演の中で、比喩や地口などを批判しているのは、デリダを念頭においてのことだろうから、ガダマーはもう少し真面目に(笑)デリダ批判をすべきだったろうが、ガダマーが身をかわしたので、デリダの再批判の焦点がぼけた」とも評している<ref name="nakayama">[http://www.melma.com/backnumber_26258_1844164/ 中山元 哲学クロニクル 第106号,2001年3月31日号]</ref>。
*[[ミシェル・フーコー|フーコー]]
*:フーコーの『狂気の歴史』に対して、デリダは、1963年コレージュ・ドゥ・フィロゾフィックにおいて、『コギトと「狂気の歴史」』<ref name=nomura>野村英夫訳、パイデイア1972春号、竹内書店</ref>という書評講演を行った。フーコーは、「狂気の歴史」第二章の冒頭において、デカルトのコギトが狂気や異常さ・錯乱・不条理などを哲学の領域の圏外へと排除したとしている。しかし、これに関して、デリダは、まず「デカルトの意図に関してそこに提出されている解釈は正当化されるかという、いわば偏見の問題」を提起し、この偏見について「ひとはシーニュ(兆候・記号)を理解しているだろうか。デカルトが言い、また言おうとしたことを理解しているだろうか」としながら、兆候を理解するには、たとえば精神分析家は患者の言葉を話さなくてはならないとする<ref group="注">>デリダは、フロイトの『夢判断』第三章二節を注で参照している</ref>。また、「デカルトの意図が兆候として理解されれば、それの属する歴史的構造とそく関係を持つことになるだろうか。つまり、ひとが付与しようとする歴史的意味を持つだろうか」と問いを出す。次にデリダは、「フーコーの企図はあまりに豊かであり、ひとつの方法とか、語の伝統的な意味でのひとつの哲学によってさえ先立たれるにはあまりに多方面にわたる兆候を示している」<ref name=nomura/>として「デカルト的な型のコギトがコギトの最初にして最後の形ではない」という。さらに、フーコーが「近づきえない原初的な純粋さ」として狂気を語り、理性がロゴス的絶対者に依拠することのない(頼るべきもののない)相対性に自身を位置づけることについて、「しかし誰がその依拠不可能性を語るのか。誰がそのような言表不可能な狂気について語りうるのか」と問いかける。デリダは、フーコーについて、このような語りが困難であることには鋭敏であるが、この問題については、方法論的・哲学的な前提条件としての特徴を認めようとしていないと批判した<ref>野村英夫訳、パイデイア1972春号、竹内書店、p96</ref>。フーコーはこうしたデリダに批判に対して「私の身体、この紙、この炉<ref group="注">『狂気の歴史』1972年の増補版に収録</ref>」を執筆し、また「デリダへの回答<ref name=nomura/>(1971)」を日本の雑誌「パイデイア」に寄稿した。デリダの批判に激怒したフーコーは以後、絶交し、デリダの論文掲載を編集者として拒否したこともあった<ref>エリボン『ミシェル・フーコー伝』{{要ページ番号|date=2022年7月}}</ref>。またデリダの論敵であったサールとの対談ではデリダの方法を「テロリスト的な[[蒙昧主義]]」と評した<ref name="Reality">“Reality Principles: An Interview with John R. Searle.” Reason.com February 2000 12 May 2008 [http://www.reason.com/news/show/27599.html]</ref>。しかしフーコーはデリダがのちにチェコスロバキアで収監されたときには救援活動を行った。
*[[ジョン・サール]]
*:デリダ/サール論争は、1971年から1977年にかけて行われた。中山元によればサール(オースティン)の「真面目」への批判は、1981年にガダマーとの論争における「よき意思」への批判と連携している<ref name="nakayama">[http://www.melma.com/backnumber_26258_1844164/ 中山元 哲学クロニクル 第106号,2001年3月31日号]</ref>。サールはフーコーの「テロリスト的な蒙昧主義」という表現をうけて、「デリダはあまりに曖昧に書くため、読者はなにを理解したのかいうことができないほどであり、これが蒙昧主義ゆえんである。また、デリダを批判すると、彼は必ず「あなたは理解していない」つまり「あなたは馬鹿」という。これがテロリズム的側面である」といっている<ref name="Reality"/>。
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日本では
*[[柄谷行人]]
*:[[1975年]]に、柄谷は、[[イェール大学]]で、[[ポール・ド・マン]]と出会う。そして、ド・マンを通して、1978年に'''ジャック・デリダ'''にも出会い、以後親交を深めた。1990年代は、[[ポストモダン建築]]・[[脱構築主義建築]]の代表的作家である、[[磯崎新]]、[[ピーター・アイゼンマン]]、イグナシ・デ・ソラ・モラレスが主宰した、建築と多領域の対話の場としての国際会議Any conference[http://www.ntticc.or.jp/Archive/2000/Any_Symposium/about_j.html](1991 - 2000)に参加し、ロサンジェルスで行われたANYの第1回目の会議では、[[デリダ]]と一緒に壇上に並んだ。1995年には、[[カリフォルニア大学]]アーヴァイン校で、「[[エクリチュール (哲学)|エクリチュール]]と[[ナショナリズム]]」<ref group="注">『ヒューモアとしての[[唯物論]]』収録</ref>という論文を「人文科学の言説に関する国際会議」で発表。[[デリダ]]がコメンテーターを務めた[http://www.pum.umontreal.ca/revues/surfaces/vol5/derrida.html]。2004年11月には、[[京都大学]]での[[デリダ]]の追悼シンポジウム(自主ゼミ主催)に参加し<ref group="注">他に[[鵜飼哲]]・[[浅田彰]]がシンポジウム出席者/京都大学現代思想自主ゼミ主催:2005年2月『[[新潮]]』に「Re-membering Jacques Derrida」として採録</ref>、その中で「トランスクリティークとは[[ディコンストラクション]]の否定ではなくその徹底化であると考えてもらってもいい」と述べた。
*[[豊崎光一]] - デリダは「ポール・ド・マンの記憶」のなかで豊崎の記憶について記述している。
*[[蓮實重彦]]
115 ⟶ 119行目:
*[[東浩紀]]
*[[十川幸司]]
などが影響をうけ、デリダをひろく知らしめた。ほか、日本におけるデリダ研究者・翻訳者としては、[[高橋哲哉]]、[[鵜飼哲]]、[[小林康夫]]、[[藤本一勇]]、[[宮崎裕助|宮﨑裕助]]、増田一夫、港道隆、[[西山雄二]]、[[國分功一郎]]
らがいる。
 
130 ⟶ 134行目:
*:『エクリチュールと差異』 [[法政大学出版局]]
* ''Marges, de la philosophie'' (1972)
*:『哲学の余白』 [[法政大学出版局]]
*''Positions''(1972)
*:『ポジシオン』 [[青土社]]
* ''La Dissémination'' (1972)
*:『散種』 [[法政大学出版局]]
*''Éperons. Les styles de Nietzsche''(1972)
*:『衝角―ニーチェの文体』
142 ⟶ 146行目:
*:『弔鐘』
*''La vérité en peinture''(1978)
*:『絵画における真理』 [[法政大学出版局]]
* ''La Carte postale, de Socrate Freud et au delà'' (1980)
*:『絵葉書 I─ソクラテスからフロイトへ、そしてその彼方』 [[水声社]]
154 ⟶ 158行目:
*:『境域』 [[書肆心水]]
*''Ulysse gramophone''(1987)
*:『ユリシーズグラモフォン』 [[法政大学出版局]]
* ''Feu la cendre'' (1987)
*:『火ここになき灰』 [[松籟社]]
* ''Psyché, Inventions de l'autre'' (1987)
*:『プシュケー──他なるものの発明I』[[岩波書店]]、2014年
* ''Mémoires, pour Paul de Man'' (1988)
*:『メモワール、ポール・ド・マンのために』
*''Signéponge''(1988)
*:『シニェポンジュ』 [[法政大学出版局]]
* ''Limited Inc.''' (1990)
*:『有限責任会社』 [[法政大学出版局]]
*''De l'esprit''(1990)''Heidegger et la question''(1990)
*:『精神について―ハイデッガーと問い』 [[人文書院]]
*''Mémoires d'aveugle. L'autoportrait et autres ruines''(1990)
*:『盲者の記憶―自画像およびその他の廃墟』 [[みすず書房]]
*''Du droit à la philosophie''(1990)
*:『哲学への権利』 [[みすず書房]]
175 ⟶ 179行目:
*''Donner la mort''(1992)
*:『死を与える』 [[筑摩書房]]
*: [[廣瀬浩司]]、[[林好雄]]共訳、 [[ちくま学芸文庫]](2004)
*''Points de suspension''(1992)
*:『パサージュ―外傷から約束へ』
180 ⟶ 185行目:
*:『割礼告白』
*''L'autre cap'' (1991)
*:『他の岬』 [[みすず書房]]
* ''Passions'' (1993)
*:『パッション』 [[未來社]]
*''Khôra''(1993)
*:『コーラ』 [[未来社]]
*''Sauf le nom''(1993)
*:『名を救う』 [[未来社]]
* ''Spectres de Marx'' (1993)
*:『マルクスの亡霊たち』 [[藤原書店]]
* ''Force de loi'' (1994)
*:『法の力』 [[法政大学出版局]]
* ''Politiques de l'amitié'' (1994)
*:『友愛のポリティックス』 [[みすず書房]]
*''Moscou aller-retour''(1995)
*:『ジャック・デリダのモスクワ』 [[夏目書房]]
* ''Mal d'archive'' (1995)
*:『アーカイヴの病』 [[法政大学出版局]]
*''Apories''(1996)
*:『アポリア―死す 「真理の諸限界」を“で/相”待‐期する』 [[人文書院]]
202 ⟶ 207行目:
*:『精神分析の抵抗―フロイト、ラカン、フーコー』 [[青土社]]
*''Le monolinguisme de l'autre''(1996)
*:『たった一つの、私のものではない言葉』 [[岩波書店]]、(2001)
*:『他者の単一言語使用 あるいは起源の補綴(プロテーゼ)』 文庫化改題 、[[岩波文庫]]、(2024)
*''Échographies – de la télévision''(1996)
*:『テレビのエコーグラフィー―デリダ<哲学>を語る』(ベルナール・スティグレールとの共著)[[NTT出版]]
*''Adieu à Emmanuel Lévinas''(1997)
*:『アデュー―エマニュエル・レヴィナスへ』 [[岩波書店]] のち岩波文庫(2024)
*''Cosmopolites de tous les pays, encore un effort''(1997)
*:『万国の世界市民たち、もう一努力だ』
212 ⟶ 218行目:
*''Marx en jeu''(1997)
*''De l'hospitalité''(1997)
*:『歓待について』 [[産業図書]]
*''Demeure, Maurice Blanchot''(1998)
*:『滞留』([[モーリス・ブランショ]]論) [[未来社]]
*''Voiles''(1988)
*:『ヴェール』 [[みすず書房]]
* ''Le Toucher, Jean-Luc Nancy'' (1998)
*:『触覚、──ジャン=リュック・ナンシーに触れる』 [[青土社]]
*''Feu la cendre''(1999)
*:『火ここになき灰』 [[松籟社]]
*''Sur parole''(1999)
*:『言葉にのって』 [[筑摩書房]]
*''États d'âme de la psychanalyse''(2000)
*:『精神分析の気分』
*''Tourner les mots. Au bord d'un film''(2001)
*:『言葉を撮る―デリダ/映画/自伝』 [[青土社]]
*''Foi et Savoir''(2001)
*:『信仰と知』
249 ⟶ 255行目:
* ''Chaque fois unique, la fin du monde, présenté par Pascale-Anne Brault et Michael Naas'' (2003)
**『そのたびごとにただ一つ、世界の終焉 1』 [[岩波書店]]
**『そのたびごとにただ一つ、世界の終焉 2』 [[岩波書店]]
*''De quoi demain...''(2003)
*:『来たるべき世界のために』[[エリザベート ルディネスコ]]との共著 [[岩波書店]]
*''Voyous''(2003)
*:『ならず者たち』 [[みすず書房]]
*''Béliers''(2003)
*:『雄羊』 [[筑摩書房]]
*''Genèses, généalogies, genres et le génie''(2003)
*''Apprendre à vivre enfin. Entretiens avec Jean Birnbaum, Galilée / Le Monde''(2005)
*:『生きることを学ぶ、終に』 [[みすず書房]]
*''L'animal que donc je suis''(2006)
*:『動物を追う、ゆえに私は〈動物で〉ある』(遺稿)[[筑摩書房]]
*:[[鵜飼哲]]訳、[[ちくま学芸文庫]]、(2023) 
*''Séminaire''vol. 1、vol. 2(2008、2010)
*:『セミネール』
*''Demeure, Athènes''(2009)
*:『留まれ、アテネ』 [[みすず書房]]
*''Politique et amitié''(2011)
*:『対話集:政治と友愛』
272 ⟶ 279行目:
*:『赦し』
*''Séminaire La bête et le souverain''(2012)
*:『獣と主権者 1・2』 [[白水社]]
*''Séminaire : La peine de mort''(2012)
*:『死刑 1』 [[白水社]]
*''A dessein, le dessin''(2013)
*''Heidegger : la question de l'Être et l'Histoire''(2013)
*:『ハイデガー−存在の問いと歴史−』 [[白水社]]
*''La Vie la mort. Séminaire (1975-1976)'', (2019)
*:『生死』 [[白水社]]
*''Donner le temps II''.(2021)
*:『ジャック・デリダ講義録 時を与えるⅡ』 [[白水社]]
*''Penser, c'est dire non''(2022)
*:『思考すること、それはノンと言うことである』 [[青土社]]
 
== 映画 ==
* ''D'ailleurs, Derrida'' (1999)
*: 『デリダ、異境から』
* [[:en:Derrida (film)|''DERRIDA'']] (2002)
*: 『デリダ』
 
== デリダの評伝 ==
*[[ブノワ・ペータース]]『デリダ伝』 [[原宏之]]、[[大森晋輔]]共訳 [[白水社]]、2014年 (原著『''Derrida''』刊行年:2010年)
*吉松覚『生の力を別の仕方で思考すること ジャック・デリダにおける生死の問題』 [[法政大学出版局]] 2021年
*森脇透青『ジャック・デリダ「差延」を読む』 読書人 2023年
*ピーター・サモン『ジャック・デリダ──その哲学と人生、出来事、ひょっとすると』伊藤潤一郎、松田智裕、桐谷慧、横田祐美子、吉松覚共訳 [[Pヴァイン]]、2024年 (原著『''An Event, Perhaps: A Biography of Jacques Derrida.''』刊行年:2020年)
 
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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