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* [[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]] (1984)
}}
'''江夏 豊'''(えなつ ゆたか、[[1948年]][[5月15日]] - )は、[[兵庫県]][[尼崎市]]出身([[奈良県]][[吉野郡]]生まれ<ref>{{Cite nameweb ja |url="tv-asahi-mother-200171">[https://web.archive.org/web/20040415173459/http://www.tv-asahi.co.jp/mother/contents/100/backnumber/10701.html |title=江夏豊の母 息子に貫いた不器用な愛 グレートマザー物語 2001年7月1日](2004年4月15 |website=テレビ朝時点の[[インターネットアーカイブ |アーカイブ]])date= |accessdate=2024-07-21}}</ref><ref name="新・家の履歴書">江夏豊「新・家の履歴書 江夏豊」『[[週刊文春]]』2009年12月31日、2010年1月7日号、p102-105 ただし、[[霧島酒造]]創業者との関係については、記事の信頼性に疑問あり。[[ノート:霧島酒造]]参照。</ref>)の元[[プロ野球選手]]([[投手]])、[[野球解説者|解説者]]・[[野球評論家|評論家]]・[[タレント]]。
 
2023年現在でも日本記録であるシーズン401[[三振#奪三振数に関する記録|奪三振]]を達成したほか、[[日本野球機構|NPB]]最多タイ記録となる[[最多セーブ投手 (日本プロ野球)|最優秀救援投手]](現在の最多セーブ投手)を6回獲得している。プレーそのものについても「[[江夏のオールスター9連続奪三振|オールスター9連続奪三振]]」「[[江夏の21球]]」など多くのエピソードを持つ。
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== 経歴 ==
=== 兄から言われて左利きに ===
1948年5月15日、奈良県吉野郡にて生まれる。[[鹿児島県]]出身の母は大阪にいた頃[[大阪大空襲]]に遭い疎開先の奈良県吉野郡で江夏の父親となる男性と出会い、豊が生まれた。江夏の母親にとって豊は三男に当たり、14歳年上の長男、7歳年上の次男、と3人とも父親が全員異なるという複雑な家庭環境であり<ref>江夏豊『左腕の誇り 江夏豊自伝』草思社、2001年、p.15</ref>、江夏姓も母方の姓だった。父親は豊が生まれてまもなく失踪。豊はこの頃のことを全く覚えておらず、物心がついた時から母から「お父さんはとっくに死んだ。生き別れた」と言い聞かせられて育った。なお、「江夏」とは[[南九州]]に多い姓で、母は「先祖を辿ると[[薩摩藩|島津藩]]の家老に行き当たる」と語っていた<ref>[{{Cite web ja |url=https://www.nikkei.com/article/DGXKZO24140220R01C17A2BC8000/ |title=江夏豊(2)左利き 長兄にたたき込まれる 社会人の草野球で助っ人に]『 |website=日本経済新聞 |date=2017-12月2日号「私の履歴書」 江夏豊-02 |accessdate=2024-07-21}}</ref>。また、[[霧島酒造]]を創業したのは[[祖父母|祖父]]だという{{R|新・家の履歴書}}。
 
江夏は、生後半年ほどで母親の故郷である鹿児島県[[日置郡]][[市来町]](現・[[いちき串木野市]])の実家へ引っ越して5年間を過ごす。その後、母親と2人の兄と共に[[兵庫県]][[尼崎市]]へ引っ越し、[[尼崎市立園田中学校]]を卒業、高校卒業まで尼崎で育った{{R|新・家の履歴書}}。
 
幼少期は、近所の子供達と粗末な道具で[[野球]]を楽しんでいた。小学校5年生の時に長兄から、ようやくまともなグラブを買ってもらえたが、買い与えられたのは[[左利き]]用のグラブであり、「お前は左でやれ」と言われ、右利きであったが、左投げに転向する事となった<ref>江夏、2001年、p.22</ref><ref>『なぜ阪神は勝てないのか? 〜タイガース再建への提言』(岡田彰布との共著)角川ONEテーマ21 (角川書店、2009年)p109</ref>。
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江夏が入団してしばらく経った頃に佐川と再会した際に入団時の話になると、「あれはオレの話術の戦術や。まともに言っても絶対OKと言わんのが分かっとったから怒らした」と言われ、江夏自身も「まんまと術中にはまった」と回顧している{{R|sponichi20230307}}。しかし、江夏と共に3人の仲間が進学を内定させていたが、江夏のプロ入りで3人の進学が白紙になり、進学先が高校の系列の[[大阪学院大学]]に変わったことで、これについて江夏本人は「申し訳ないことをした」と述べている{{R|sponichi20230307}}。
 
背番号は入団当初のみ「'''71'''」を着用していたが、のちに球団から「'''1'''」「'''13'''」「'''28'''」のどれかを着用することを薦められた江夏は、1は「ライバルである鈴木啓示と同じ番号で真似をするようだから」、13を「何となく縁起の悪い番号」という理由で候補から消し、消去法で28を選択した。28番について兄に相談した時には「末広がりみたいな数字で、いいんじゃないか」と言われたという<ref name="sponichi20230308">スポーツニッポン『「我が道」江夏豊 (8)』 2023年3月8日付 20面より</ref>。ちなみに[[2014年]]12月30日放送の「背番号クロニクル」([[NHK BS1]])の番組内では、28が[[完全数]]であることが紹介されているが、江夏本人は「『完全数』って何なのか、それすら僕は知りませんでした」と語っている。
 
{{by|1967年}}の春季キャンプでは、高校時代まで投げられなかった変化球を習得するために[[権藤正利]]をはじめとする先輩投手陣に教えを請うたが、どの投げ方も完全に習得できないまま公式戦が始まってしまった。それでも剛速球を武器に新人でありながらシーズン最多奪三振225を記録し、防御率2.74(リーグ10位)と一定の成績を残した。一方で与四球や被本塁打も多く、打撃力に乏しい当時のチーム事情{{Efn2|江夏は後年、「巨人でもチーム打率が.250に満たなかったのだから、阪神なんて.210~.220くらいだった」と述懐している<ref>『なぜ阪神は勝てないのか? 〜タイガース再建への提言』p130。</ref>。なお、1967年の実際のチーム打率は巨人が.265、阪神は.245である。}}も重なって12勝13敗と負け数が上回り、[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]のタイトルも[[武上四郎]]に阻まれて獲得はならなかった。ただ、球団とは1勝10万円のインセンティブ契約を結んでいたため、年俸相当の収入を得たという<ref name="Number2011年3月24日号">「あの時、君は若かった」ルーキー秘話『[[Sports Graphic Number]]』2011年3月24日号、[[文藝春秋]]、2011年、[[雑誌コード|雑誌]]26854・3・24、50頁。</ref>。
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{{by|1971年}}7月17日の[[1971年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]第1戦([[阪急西宮球場]])で登板した江夏は、速球と抜群の制球力で[[パシフィック・リーグ]]の打者から次々に三振を奪い、'''史上初の9者連続奪三振を記録'''した。オールスターゲームでの投手は規定により3イニングまでしか登板できないため、この記録は1試合における事実上の最多奪三振数であり{{Efn2|オールスターゲームでは、投手がイニング途中から登板した場合、次のイニングから数えて3イニングまで登板可能である。また、[[振り逃げ]]の場合は1イニング4奪三振以上も可能のため、極めて特殊なケースではあるがルール上では1試合10奪三振以上も不可能ではない。}}、現在でもオールスターゲームにおける単独記録である。打者がキャッチャーフライを打った際に捕手の[[田淵幸一]]が追いかけるも「捕るな!」と叫んで制したとされているが、実際には打球がそのまま観客席に入るために追わなくていいと江夏が思ったことに加えて、三振を奪っている最中だったこともあって江夏自身がテンポよく投球したかったために「追うな!」と叫んだものだと著書で語っている。
 
このあとセ・リーグは、江夏の後を受けて登板した[[渡辺秀武]]・[[高橋一三]]・[[水谷寿伸]]・[[小谷正勝]]の継投でパ・リーグを無安打1四球1失策16奪三振に抑え、継投による[[ノーヒットノーラン]]を達成している<ref>[{{Cite web ja |url=https://npb.jp/bis/scores/allstargame/boxscore1971_1.html |title=1971年度オールスター・ゲーム 試合結果(第1戦)] |website=NPB公式サイト.jp 日本野球機構 |date= |accessdate=2024-07-21}}</ref>。
 
9連続奪三振を記録した際のボールは江夏の手元に無く、行方不明となっている。これは、捕手の[[田淵幸一]]が江夏の記録達成を知らず、球審の三振コールを聞くと同時に無意識に観客席へ投げ入れてしまったためとされており、当時の映像を見ても田淵が球審の三振コールの確認直後に立ち上がり、ベンチ方向へ歩き出しながら後方の観客席へボールを投げ入れる様子が確認できる。ただ、後年になって江夏が番組で[[王理恵]]と共演した際に、「田淵というキャッチャーはボールを投げ入れてしまった。でも君のお父さん(王貞治)が拾ってくれてスッと渡してくれたんだよ」と述べている。
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江夏は監督の吉田と現役時代から仲が悪く、親しかった[[辻佳紀]]コーチが間に入ることでようやくコミュニケーションが取れる状態だった。江夏が長いイニングで球威が落ちるようになったのを見た吉田は、江夏に対し抑えへの転向をそれとなく打診したが、当時の江夏にはその気が全く無かったと語っている<ref>吉田義男『牛若丸の履歴書』日経ビジネス人文庫、2009年、P159</ref>。
 
そして、江夏は遂にトレードされることになる。1975年12月24日、日刊スポーツが「阪神が南海との間で江夏と[[江本孟紀]]を含む複数トレードが成立する見込みである」と報道<ref>日刊スポーツ1975年12月24日「江夏南海へ 江本と交換 球界初の"エース同士" 吉田、野村両監督の大英断」</ref>。これを知った江夏は球団事務所を訪れ、球団社長の[[長田睦夫]]に対し報道の真偽を確かめたが「君をトレードする気はない」と否定した。しかし翌月の1976年1月19日、球団から呼び出しを受け長田と話し合ったが長田は「チームに溶け込もうとする姿勢が見られない」としてトレードを通告<ref name="nikkansports19760120">日刊スポーツ1976年1月20日1面「阪神ついに江夏放出!南海・江本らとトレード」</ref>。報道陣に対し「寂しい。何のためにこれまで阪神で頑張ってきたのか」と球団に対し不満を露にした{{R|nikkansports19760120}}<ref>[{{Cite web ja |url=https://www.sankei.com/article/20201217-NJZT27PW3ZK6VJWNS3EAKCQ52I/ |title=【勇者の物語】トレード通告 江夏、首脳陣と不協和音の果て 虎番疾風録番外編132 - |website=産経ニュース] |date=2020-12-17 |accessdate=2024-07-21}}</ref>。23日、球団から南海ホークスへの複数トレードを通告され<ref>読売新聞1976年1月24日15面「『南海・江夏』は26日に」読売新聞縮刷版1976年p.673</ref>「2,3日考える時間が欲しい」と答えてすぐには了承しなかったものの<ref>読売新聞1976年1月24日15面「『二、三日気持ちの整理』」読売新聞縮刷版1976年p.673</ref>、26日に長田と会い南海へのトレードを受け入れると伝えると南海と阪神は即座に江夏・[[望月充]]と[[江本孟紀]]・[[池内豊 (野球)|池内豊]]・[[長谷川勉]]・[[島野育夫]]のトレードが成立したと発表<ref>読売新聞1976年1月27日17面「南海・江夏あす誕生 トレードを了承 阪神のファンには感謝」読売新聞縮刷版1976年p.765</ref>。江夏は入団以来9年間選手生活を過ごした阪神に別れを告げた。
 
監督の吉田は、江夏のトレードが成立した後、報道陣に対し「トレードはフロントが決めたことで私は知らなかった」と答えていた<ref>江夏、2001年、p.176</ref>。しかし後に、1975年の暮れに江夏のトレードを決断していたと認め、この時球団社長の長田から「君はトレードの話を知らなかったという事にしておこう」と持ち掛けられて同意し、あのような発言につながったと釈明している<ref>江夏、2001年、p.177</ref>。野村も、すでに1975年の夏に吉田から江夏のトレードを打診されていたことを認めている<ref name="江夏2001_p180">江夏、2001年、p.180</ref>。しかし江夏によると、吉田は実母や後援者など江夏の周囲の関係者に「江夏をトレードすることは絶対にない」と明言したということであり、実際はその逆であったため、江夏は吉田に対し「僕をトレードに出すのは結構だけれど、親まで騙すことはないだろう」と批判した{{R|江夏2001_p180}}。
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=== 広島移籍~江夏の21球 ===
{{by|1977年}}オフ、野村が公私混同を理由に南海の監督を解任され、退団が決定した。野村を慕う江夏は球団に対し「野村さんが辞める以上、南海を出して下さい」とトレードを志願。同年12月22日に金銭トレードで[[広島東洋カープ]]へ移籍した<ref>[{{Cite web ja |url=https://www.sankei.com/article/20210308-TV3ZAW2OTJIPNGN3X3427P5N4I/ |title=【勇者の物語】希望かなわず江夏が広島へ 柏原は… 虎番疾風録番外編181 - |website=産経ニュース] |date=2021-03-08 |accessdate=2024-07-21}}</ref>。この移籍には、野村による広島監督の[[古葉竹識]]への推薦もあった<ref>スポーツニッポン『「我が道」江夏豊 (23)』 2023年3月24日付 18面より</ref>。
 
広島移籍後、阪神時代の晩年から衰えていた直球の威力が回復しだし、これにより思い切り打者に投げられるようになって投球の幅が広がっていった<ref>江夏豊『燃えよ左腕 江夏豊という人生』日本経済新聞社、2017年、p.169</ref>。自信を回復した江夏は復調し、5勝4敗12セーブを挙げた。そして1979年には9勝6敗25セーブを挙げ、チームの4年ぶりのリーグ優勝に貢献。プロ13年目で初の優勝を味わい、優勝決定試合となった10月6日の阪神戦でセーブを挙げ、胴上げ投手になった。近鉄バファローズとの[[1979年の日本シリーズ|日本シリーズ]]は最終第7戦の7回裏から登板し、9回裏無死満塁のピンチを招くも、そこから佐々木恭介を三振、一死から石渡茂のスクイズを外して走者を刺して2死、そして石渡を三振に打ち取ってピンチを切り抜け、この年2度目の胴上げ投手となり、広島を初の日本一に導いた。この投球は翌1980年4月のスポーツ・グラフィック・ナンバー誌の創刊号で、[[山際淳司]]作による「[[江夏の21球]]」として知られるようになり、プロ野球史上最高の名場面の一つとして語り継がれている<ref>{{Cite web ja |url=https://www.daily.co.jp/baseball/carp/2022/07/14/0015469487.shtml |title=江夏の21球 “赤ヘル野球”軌道乗った1979年 |website=デイリースポーツ online |date=2022-07-14 |accessdate=2022-07-18}}</ref>。
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=== 西武時代~江夏の現役晩年 ===
{{by|1983年}}のシーズン終了後、大沢は監督を勇退。江夏はこれを受け、大沢に乞われて日本ハムに移籍した経緯があったため「大沢さんが身を引けば自分もそこまで」と考え大沢にそのことを伝えると、大沢は「俺がいなかったら、お前、でたほうがいいだろう」と答えた<ref name="江夏1985">江夏豊『このまま終わってたまるか プロ野球の世界に仁義はなかった』産業報知センター、1985年、p.41</ref>。この後、一軍投手コーチの植村義信が新監督に就任すると、植村は江夏を戦力構想から外し、江夏のトレードが決定した{{R|江夏1985}}。移籍にあたって江夏は、現場を離れるも常務取締役として球団本部に残る大沢から希望球団を問われ、「広島とか阪神とか、巨人を倒すチームなら行ってもいい。しかし西武は嫌である」と答えていた{{Efn2|江夏自身は、当時の日本ハムと同じ東京に本拠地を置く[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]あたりが移籍先ではないかと思っていたという。また、セ・リーグならヤクルト、パ・リーグなら[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]を希望していた<ref>『左腕の誇り』p254 - p255。</ref><ref>[{{Cite web ja |url=https://www.news-postseven.com/archives/20200609_1569154.html |title=1984年の江夏豊「西武への望まないトレード」の表と裏] |website=NEWSポストセブン |date=2020-06-09 |accessdate=2024-07-21}}</ref>。}}。しかし、同年12月13日に[[柴田保光]]・[[木村広]]との交換トレードで西武ライオンズへの移籍が決定した。西武は抑えとしてこの年2勝4敗34セーブを挙げた[[森繁和]]がいたにもかかわらず江夏を獲得した理由について、[[坂井保之]]球団代表は後年、「巨人が江夏獲得に乗り出してくるとみて、巨人に取られる前に自分のところへ引き入れる」という意図によるものだったと語っている<ref name="ベースボールマガジン7月21日">雑誌「週刊ベースボール」(ベースボールマガジン社刊)2008年7月21日号134ページ巻末コラム「期間延長、トレードの効能」</ref>。また大沢も、江夏に移籍を薦めた際には既に西武から申し入れがあり、厳しい広岡野球を知る方が江夏のためになると考えたと述べていた{{Efn2|大沢と江夏との対談では、のちに江夏が西武の在籍が1年で終わったこともあって、大沢が「結局、江夏の野球人生をオレが縮めたことになっちまったな」とも語っている<ref>『球道無頼』P187、P200。</ref>。}}。
 
{{by|1984年}}の開幕から江夏は調子が上がらず、シーズン途中で体調不良を訴えた。広岡は、江夏の体調報告が再三にわたって大きく食い違うことに不信感を抱き、二軍落ちと入院を命じた。その一方で江夏も、二軍落ちの決定を広岡本人からではなく新聞報道で知るなど、広岡が選手とコミュニケーションを取らないことに不満を募らせていた。チームも同年は優勝争いから早々と脱落し、シーズン途中で早くも来季を見据えた若手中心の起用に代わったことで、7月12日の登板を最後に江夏に出番が与えられることは無かった。江夏は、史上初の200セーブと通算3000奪三振を目前にしながら、同年限りで西武を退団、現役引退を表明した。阪神時代にバッテリーを組み、西武で再び同僚となった田淵と異なり、球団主催の引退試合は行われなかった。
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引退試合が行われなかったことに対して、かつて創刊時のCMに江夏を起用していた雑誌・[[Sports Graphic Number|Number]]の初代編集長で、当時は[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]の編集長だった[[岡崎満義]]らの計らいで、1985年1月19日に東京都多摩市の[[多摩市一本杉公園野球場|多摩市営球場]]にてNumberを発行する[[文藝春秋|文藝春秋社]]の主催、[[日本プロ野球名球会|名球会]]協力の下、「たったひとりの引退式」が実施され、球場の収容人数いっぱいの1万5000人の観衆が詰めかけた<ref>スポーツニッポン1985年1月20日3面「江夏が泣いた 別れの一本杉 球場こらえきれずに」</ref><ref>日刊スポーツ1985年1月20日3面「江夏別れの一本杉 『たった一人の引退式』に惜別ファン1万6000人 浩二が落合が胴上げ」</ref>。地元のリトルリーグ同士の試合の途中で監督役の[[ビートたけし]]が観衆の前に出て「私に一分だけ時間をください」と宣言すると<ref>報知新聞1985年1月20日5面「江夏感激の引退式 別れの一本杉球場 16000人が祝福」</ref>、阪神時代のユニフォーム{{Efn2|1974年・1975年に着用したホーム用ユニフォームのレプリカだったが、実物と違い左袖には『OSAKA』ではなく、1976年以降のものに準じた虎マークが入っていた。}}を着た江夏が登板、かつてバッテリーを組んだ[[辻恭彦]]が捕手を務めた。少年野球の選手から、[[落合博満]]、[[山本浩二]]、[[福本豊]]ら球団の垣根を超えて集まった選手・OBの8名を相手に日本での最後の投球を披露した。引退式の挨拶で江夏は[[日本人選手のメジャーリーグ挑戦|メジャーリーグ挑戦]]の意志を表明し、「江夏豊36歳、本当にバカな男かも分かりません。ですが、日本に帰ってきたときには、たった一言、『ごくろうさん』、それだけ言ってやってください」と語った<ref>日刊スポーツ1985年1月20日3面「江夏お別れメッセージ 胸張ってアメリカへ」</ref>。
 
江夏は1984年12月27日、ロサンゼルスにて[[団野村|ダン野村]]の立会いの元でミルウォーキー・ブルワーズとマイナー契約を結び<ref>デイリースポーツ1985年4月5日1面「ブ軍太平洋地域スカウト ダン野村氏に直撃インタビュー」</ref>、85年2月の同球団のスプリング・トレーニングにノン・ロースター・プレイヤーとして参加。背番号は「'''68'''」で<ref>[http{{Cite web ja |url=https://japanesebaseballcards.blogspot.com/2013/02/yutaka-entasu-milwaukee-brewer.html |title=Yutaka Entasu, Milwaukee Brewer] - |website=Japanese Baseball Cards |date=2013-02-25 |accessdate=2024-07-21}}</ref>、中継ぎ左腕の1枠としてメジャー昇格を目指した。2月21日にサンシティーでのキャンプに合流し、28日のフリー打撃に初登板。3月8日の紅白戦に初登板して1回を投げ無安打に抑えた。
 
3月13日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦でオープン戦に初登板し、2回を投げ無安打無失点の内容で上々のスタートを切り<ref>日刊スポーツ1985年3月15日1面「江夏決めた 2回6人を28球無安打1四球 初オープン戦にでSFジャイアンツバッサリ」</ref>、18日のシアトル・マリナーズ戦は2回1安打無失点で初勝利を挙げ、23日のサンディエゴ・パドレス戦で本塁打を浴びて初失点も2回を投げ3安打1失点、2イニング目に二死満塁のピンチを招きカウント0-3から強打者の[[テリー・ケネディ]]を三振に仕留めた<ref name="nikkansports19850325">日刊スポーツ1985年3月25日3面「見たか快投江夏 2死満塁0-3からパドレス強打者ケネディ三振」</ref>。監督の[[ジョージ・バンバーガー]]は18日に江夏のメジャー昇格の確率は「70パーセント」<ref>日刊スポーツ1985年3月20日1面「バンバーガー監督に質問」</ref>、25日には「75パーセント」だと語った{{R|nikkansports19850325}}。
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しかし、26日のシカゴ・カブス戦で1回4安打4失点<ref>日刊スポーツ1985年3月28日1面「江夏試練だ 初の中2日4失点 悪夢の打者10人 サムライマン斬られた」</ref>、30日のアスレチックス戦で2回4安打3失点<ref>日刊スポーツ1985年4月1日1面「江夏ピンチ 一発食って3失点 カブス戦に続きまた失敗」</ref>、4月2日のカリフォルニア・エンゼルス戦も2回4安打2失点で初の敗戦投手となり<ref>日刊スポーツ1985年4月4日1面「江夏無残 最終テストも失敗 2回2失点初黒星」</ref>、3試合連続で打ち込まれる。そして4月4日、球団は最終ロースター25人の最終選考を行ったが江夏はその中に選出されず、江夏は解雇を通告された<ref>日刊スポーツ1985年4月5日1面「江夏他球団の誘い待つ 3Aにも残れず 68番どこへ」</ref>。投手コーチのハーム・スターレットは「正直なところ、2週間前はリストの中に江夏を入れていた。ダメになったのは彼が2イニングしか投げられないこと。中継ぎ投手は3,4イニングは投げられないと‥」<ref name="nikkansports19850405">日刊スポーツ1985年4月5日1面「36歳の年齢がネックに」</ref>と指摘し、後半の打ち込まれた投球から、江夏は首脳陣から中継ぎで3イニングと持たないと判断された<ref>日刊スポーツ1985年4月5日2面「メジャー江夏が見たかった 3回持たないと苦しい」</ref>。
 
監督のジョージ・バンバーガーは「江夏はよくやった。若くて有望な選手が大勢いるので、36歳の江夏をマイナーリーグに置いておくことはできない。できることならそうしたかったが、やむを得ない。どこかほかのチームが江夏に興味を持っていないかを聞いてみるのが江夏に対してできることのすべてだ」と述べた{{R|nikkansports19850405}}。最終的にロースター入りには至らなかった為、公式の背番号記録には江夏の着用した68番は記載されていない<ref>[{{Cite web ja |url=https://www.baseball-reference.com/teams/MIL/uniform-numbers.shtml |title=Milwaukee Brewers Uniform Numbers] - |website=Baseball-Reference.com |date= |accessdate=2024-07-21}}</ref>。
 
江夏はサンシティーに止まり、他球団からのオファーを待った。だが江夏を獲得する球団は現れず4月8日にブルワーズのゼネラル・マネジャー、ハリー・ダルトンからブルワーズから1Aストックトンへの入団を持ち掛けられたが<ref>日刊スポーツ1985年4月10日2面「江夏1Aから誘い ブルワーズ傘下のストックトン 『意外、なぜなんだ?』入団の可能性少ない」</ref>これを断り、これによって江夏のメジャー挑戦は完全に終幕した。一部で南海入りが報じられたが江夏は日本球界復帰も完全否定し<ref name="nikkansports19850413">日刊スポーツ1985年4月13日3面「江夏南海行かん 日本でのプレー意思なし評論家で再出発」</ref>、野球評論家として再出発すると明言した{{R|nikkansports19850413}}。16日、同日の東京中日スポーツ紙上にて同誌の評論家に就任すると表明した<ref>東京中日スポーツ1985年4月16日1面「江夏本紙入り 評論家で再出発 一匹狼新たに挑戦 人生感じさせる技術を」</ref>。江夏は4月17日にアメリカから帰国した。
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=== 現役引退後 ===
[[{{by|1985年]]}}からは[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]・[[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ日本]]野球解説者、[[東京中日スポーツ]]野球評論家として活動する傍ら、映画・テレビドラマ・バラエティ番組に出演するなど、[[タレント]]・[[俳優]]としても活動していた。
 
1993年3月2日、[[覚醒剤取締法]]違反(所持・使用)の現行犯で逮捕される<ref name="asahi20060123">{{Cite web ja |url=https://www.asahi.com/jinmyakuki/TKY200601230194.html |title=野球、海を渡る-ニッポン人脈記 |website=朝日新聞 |date=2006-01-23 |accessdate=2020-07-21}}</ref>。逮捕数日前まで日本ハムファイターズの臨時投手コーチを務めており、世間に衝撃が走った。起訴された犯罪事実は、覚醒剤水溶液約0.25mlを左腕に注射した覚醒剤の使用{{R|hanrei}}と、覚醒剤合計52.117gおよび覚醒剤水溶液約0.5mlの所持である{{R|hanrei}}。裁判は同年行われ、情状証人として[[野村克也]]・[[江本孟紀]]が出廷<ref>{{Cite web ja |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/05/18/kiji/K20160518012609100.html |title=江夏豊氏の公判では衣笠祥雄氏、江本孟紀氏、故大島渚氏が情状証人 |website=スポーツニッポン |date=2016-05-18 |accessdate=2024-07-16}}</ref><ref>{{Cite web ja |url=https://diamond.jp/articles/-/86006 |title=清原容疑者が復活するための3つの必要条件(下) |website=ダイヤモンド・オンライン |date=2016-02-09 |accessdate=2024-07-16}}</ref>、また江夏の親友として証言台に立った[[衣笠祥雄]]は寛大な処置を訴えた<ref>[{{Cite web ja |url=https://web.archive.org/web/20220116181946/https://www.sankei.com/article/20160416-57WJ533YFBPBZEAD7AMEGURVPA/3/ |title=江夏豊は一度の過ちで立ち直った その「事実」こそが清原和博へのメッセージだ!] |website=産経新聞 |date=2016年4月-04-16日、 |accessdate=2021年6月3日閲覧-06-03}}</ref>。同年7月15日の[[横浜地方裁判所]]での一審判決では、「大量の覚醒剤(約100g)を入手し、本件で検挙されるまで数年にわたって使用し続け、昨年9月頃からは同居していた女性にも勧めて一緒に使用させた」ことが示された。そして「覚醒剤の所持量は約52gと、自己使用の物としては稀に見るほどの大量{{R|hanrei}}」「同居女性は覚醒剤使用の罪で有罪判決を受けており、そのきっかけを作った{{R|hanrei}}」と指摘され、「刑の執行猶予を相当とする事案とは到底認められない」として[[懲役]]2年4ヶ月の実刑判決を言い渡された<ref name="hanrei">横浜地方裁判所平成5年(わ)第555号覚せい剤取締法違反被告事件、判例タイムズ829号276-277頁</ref>。江夏側は実刑判決を不服として控訴したものの、同年12月24日、[[東京高等裁判所]]は控訴を棄却。江夏は上告せず刑が確定し、そのまま[[静岡刑務所]]に収監され{{R|asahi20060123}}、1995年4月に仮釈放された{{R|asahi20060123}}。
 
仮釈放されてから1ヶ月後の6月には[[文化放送]]のラジオに出演し、野球の論評を行っている。1996年から2010年まではデイリースポーツ野球評論家を務めたほか、[[テレビ大阪]]で[[野球解説者]]も務めており<ref>{{Cite web ja |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1793559.html |title=阪神本拠開幕戦で江夏&田淵“黄金バッテリー”復活 - 野球 |website=日刊スポーツ |date=2017-03-17 |accessdate=2017-07-09}}</ref>、わかりやすく明晰な技術論で高い評価を得ている。選手を君付けで呼ぶ野球解説者のはしりで、これは野球選手という職業へのリスペクトからであると本人は語っている。また、『[[週刊プレイボーイ]]』([[集英社]])で『江夏豊のアウトロー野球論』を連載中。2007年まで『[[週刊ベースボール]]』([[ベースボール・マガジン社]])で『江夏豊の球界にんげん交遊伝「球人蔵」』も連載していた。
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[[プロ野球マスターズリーグ|マスターズリーグ]]の東京ドリームスや[[モルツ球団]]に所属しているほか、阪神タイガースにおいては2015年には一軍春季キャンプ、2016年には二軍春季キャンプでそれぞれ臨時コーチを務めた。
 
2024年7月15日に東京ドームで開催された巨人-阪神OB戦では車椅子で来場した<ref>[{{Cite web ja |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202407150001211.html |title=【OB戦】阪神OB江夏豊さん、車いすで来場 王貞治さん田淵幸一さんらが寄り添い声かける] |website=日刊スポーツ |date=2024年7月-07-15日19時5分 (|accessdate=2024年7月17日閲覧)-07-21}}</ref>。サンケイスポーツの稲見誠は酸素ボンベを使用していることにも触れ、その姿に「衝撃を受けた」と語っている<ref>[{{Cite web ja |url=https://www.sanspo.com/article/20240721-BDK6VWVEHZNPPJT2L3QCZZMOUQ/?outputType=theme_tigers |title=【甘口辛口】衝撃受けた車いす姿の江夏豊氏 自己呼吸できないもどかしさ…〝人生の21球〟を見たい] |website=サンスポ |date=2024/-07/-21 05:00 (|accessdate=2024年7月-07-21日閲覧)}}</ref>。
 
== 選手としての特徴 ==
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日本ハム時代、監督に就任した[[広岡達朗|広岡]]は江夏の弱点を守備にあると見抜き、チーム一丸でバント練習に取り組み、プレーオフでは西武のバント攻めに屈した。この経験から、江夏は広岡の野球観に傾倒していくようになる。しかし1984年の西武移籍は、その厳格な管理野球に嫌気し、広岡に反発するようになる。
 
江夏の西武退団の直接的な原因は、広岡との確執だった。自著によると、江夏は事前に野村に言われていたことでヘッドコーチ格の[[森祇晶|森昌彦]]バッテリーコーチの言うことはよく聞いたが(野村と森はチームを超えて長年の親友である)、広岡とは全くそりが合わなかった。衝突の決定的な原因は、{{by|1984年}}のキャンプのある日に経営陣も参加した朝食会の席で、健康のための栄養学に重きを置いて玄米や豆乳などを選手に普段から強制する広岡や、他のコーチ・選手がいる中で「ねぇ監督、こんなもの食べてなんで[[痛風]]なの?」と問いかけて広岡の怒りを買ってしまい、それ以降は出場機会が減らされたとされている。江夏が二軍落ちとなったのはプロ18年目で初のことだった<ref>[{{Cite web ja |url=https://dot.asahi.com/articles/-/103569?page=1 |title=江夏豊 広岡監督に「なんで痛風なの」で2軍落ち?] |website=AERA dot. |date=2012-11-15 |accessdate=2024-07-21}}</ref>。
 
なお、江夏は前述の事情から広岡について「人間的に許せないところがあった」と語っているが、一方で日本ハム時代に西武から受けた執拗なバント攻めなどから広岡の野球観は高く評価しており、「人間として問題があっても、野球という面では教えられることが多かったし、素晴らしい指導者」と、監督としての広岡を高く評価している<ref>[{{Cite web ja |url=https://baseballking.jp/ns/column/55045 |title=球界に大きな影響を与えた広岡達朗-元・名物番記者が語るプロ野球ちょっと裏話-] |website=BASEBALL KING |date=2015-11-25 |accessdate=2024-07-21}}</ref>。広岡も「江夏は投げることに関しては素晴らしかったし、何と言っても抜群に頭がいい」と評価している<ref>ベースボール・マガジン社「日本プロ野球トレード大鑑」でのインタビュー。『左腕の誇り 江夏豊自伝』でも同趣旨の発言をおこなっている。</ref>。
 
== 趣味・嗜好 ==
[[司馬遼太郎]]作品を愛読しており、なかでも『[[燃えよ剣]]』をお気に入りとして挙げている。その理由は、刀一本で戦う[[新撰組]]と左手一本で戦う自分、さらには主役・[[土方歳三]]の最期の地である[[函館市|函館]]と、自身が現役時代にメジャーリーグへ挑戦した地である[[アリゾナ州]]が妙に重なって思えたことと、登場人物である一人の女性が非常に魅力的に思えたことだという<ref>文藝春秋 2005年7月号</ref>。
 
現在は飲[[アルコール飲料|酒]]しない。体質的に受け付けないわけでは無いが、阪神時代に1970年の7月末から[[心臓発作]]に悩まされており、主治医から「いまの無茶な生活を続ければ間違いなく数年以内に命を落とす。酒、[[タバコ]]、女、[[麻雀]]、どれかを止めろ」と言われて酒を止め、心臓病を克服してそのまま現在に至っている<ref>{{Cite web ja |url=https://dot.asahi.com/articles/-/101036 |title=伝説の左腕・江夏豊を襲った悲運…34人連続アウトなのに負け投手に |url=https://dot.asahi.com/articles/-/101036 |website=AERA dot. |date=2019-02-28 |access-date=2024-06-23}}</ref>。ただしタバコだけはどうしても止められないと、『[[ニュースステーション]]』([[テレビ朝日]])内のコーナー「最後の晩餐」で語っており、一時はタバコを多い時で1日あたり最大で約80本吸っていた<ref name="P192〜194">ナンバー『熱闘!プロ野球三十番勝負』[[文春文庫]]、1992年、P192〜194</ref>。
 
== その他 ==
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=== 通算打撃成績 ===
852打率.150(852打数 128安打(.150) )、7本塁打 52打点<ref>{{Cite web ja |url=https://npb.jp/bis/players/41343824.html |title=江夏 豊(西武ライオンズ) {{!}} 個人年度別成績 |website=NPB.jp 日本野球機構 |date= |accessdate=2024-07-21}}</ref>
 
=== タイトル ===
* [[最多勝利]]:2回 (1968年、1973年)
* [[最優秀防御率 (日本プロ野球)|最優秀防御率]]:1回 (1969年)
* [[最多奪三振 (日本プロ野球)|最多奪三振]](当時連盟表彰なし):6:6回 (1967年 - 1972年) ※6※当時連盟表彰なし、セントラル・リーグでは、1991年より表彰、6年連続受賞は最長タイ記録(他は[[鈴木啓示]])、6回受賞は[[金田正一]]に次ぐセ・リーグ2位。セントラル・リーグでは、1991年より表彰
* [[最多セーブ投手 (日本プロ野球)|最優秀救援投手]]:5([[最多セーブ投手 (日本プロ野球)|最多セーブ投手]]):6回 (1977年、1979年 - 19821983年) ※最優秀救援投手は最多タイ記録(他には[[赤堀元之]]、[[佐々木主浩]]、[[岩瀬仁紀]])、45年連続は歴代最長タイ記録(他。最優秀救援投手と最多セーブ投手を合わせた獲得数は歴代最多、セーブ数のみ佐々木主浩)よる表彰は2005年から再開
* 最多セーブ:6回(1977年、1979 - 1983年)※歴代最多、5年連続も歴代最長。セーブ数のみによる表彰は2005年から再開
 
=== 表彰 ===
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* 100勝100セーブ ※史上初(後に[[山本和行]]・[[斉藤明雄|斉藤明夫]]・[[大野豊 (野球)|大野豊]]・[[郭源治]]・[[佐々岡真司]]が達成、先発100勝100セーブは江夏と佐々岡の2人のみ)
* [[全球団勝利#全球団セーブ|全球団からセーブ]]:1984年5月3日、対日本ハムファイターズ6回戦(西武ライオンズ球場)、8回表1死に3番手で救援登板・完了、1回2/3を無失点 ※史上初、交流戦導入前の達成者は江夏のみ。
* [[全球団勝利#全球団敗戦|全球団から敗戦]] ※史上初<ref name="shincho20200808">[{{Cite web ja |url=https://www.dailyshincho.jp/article/2020/08080559/?all=1 |title=達成者は「江夏豊」ともうひとりだけ… 「全球団に勝利」「全球団に敗戦」した投手] - |website=デイリー新潮(2020年8月8日) |date=2020-08-08 |accessdate=2024-07-21}}</ref>(達成者は江夏と[[杉内俊哉]](=13球団敗戦)のみ){{Efn2|11球団から勝利しているが、阪神タイガースからは未勝利に終わったため、全球団勝利は達成出来なかった。}}
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:16回({{NPBオールスター|1967年|1968年|1969年|1970年|1971年|1972年|1973年|1974年|1975年|1976年|1978年|1979年|1980年|1981年|1982年|1983年}})
* オールスターゲーム15連続奪三振(1970年 - 1971年) ※オールスター記録
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[[Category:私の履歴書の登場人物]]
[[Category:大阪学院大学高等学校出身の人物]]
[[Category:奈良県出身の人物スポーツ選手]]
[[Category:兵庫県出身の人物スポーツ選手]]
[[Category:1948年生]]
[[Category:存命人物]]