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{{出典の明記|date=2021年4月}}
'''トゥパク・カタリ'''
==人物==
本名はフリアン・アパサ (''{{Lang|es|Julián Apaza}}'')であるが、後にトゥパク・カタリと名乗るようになる。この名前は、当時インディオの指導者として著名だった2人の名前を組み合わせたものである。その一人はトゥパク・アマル(本名[[ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ]])で、もう一人はチャヤンタ (''Chayanta'')の首長トマス・カタリ (''{{Lang|es|Tomás Katari}}'') である。なお、コンドルカンキが名乗っていた[[トゥパク・アマル]]という名前は[[インカ帝国]]最後の[[サパ・インカ]](皇帝)の名前でもある。([[トゥパク・アマル (初代)]]を参照。)
[[アイリュ]]の一つであるチャヤンタの[[クラカ]](''curaca'' : 首長)であったトマス・カタリは、ある時[[植民地]]統治政権からその地位を罷免された。彼の闘争は、彼を承認した[[ブエノスアイレス]]の副王領本部まで伝えられるが、地方行政官は彼の権利復帰を邪魔する工作を図り、トマス・カタリは投獄されてしまった。そして彼の支持者たちが救出に向かった時、彼は殺害されてしまう。これにより全アルト・ペルーが抗議の声を上げ始めた。
この抗議行動の一環として、[[1781年]]、トゥパク・カタリは4万人の武装集団を率いて[[ラパス]](チュキアゴ: ''Chuquiago'')を2度に渡って包囲した。1度目の包囲は統治軍により破られた。
2度目のラパス包囲の際には、[[ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ|トゥパク・アマル]]も加わったが、統治政権の政治的・軍事的作戦のほうが上回り、武装蜂起に反対するインディオの首長も出てきたことにより、包囲は破られた。トゥパク・カタリらは逮捕され、[[処刑]]された。
[[18世紀]]末に起こったこのインディオの蜂起({{仮リンク|トゥパク・アマルー2世の反乱|es|Rebelión de Túpac Amaru II|en|Rebellion of Túpac Amaru II}})は、地理的な広がりが最も大きく、最も多く
ボリビアにおいて彼は現在に至るまで先住民族の英雄として語り継がれており、先住民族の権利拡大運動を行なう人はしばしば「カタリスタ」(''Katarista'': カタリ主義者の意)と呼ばれることがある。
[[Category:ボリビアの歴史|とうはくかたり]]▼
== その他 ==
[[2013年]]12月に中国の[[長征3号]]により打上げられたボリビア初の[[人工衛星]](TKSat-1)には、この名前が付けられた。
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:とうはく かたり}}
[[Category:アメリカ大陸史]]
[[Category:ボリビアの人物]]
[[Category:1750年生]]
[[Category:1781年没]]
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