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'''河内本'''(かわちぼん)は、[[源氏物語]][[写本|『源氏物語』の写本]]のうち、大監物[[源光行]]とその子[[源親行]](いわゆる[[河内方]])が作成したとされるものおよびそれを写して作成されたとされるものをいう。「河内本」という呼び名は光行・親行がともに[[河内守]]を歴任していることに由来する。
 
==概要==
[[源光行]]とその子[[源親行]]が協力して、当時乱れに乱れていた源氏物語の本文を正すために作られた。その当時伝来していた21部の源氏物語の古写本を集め、「数度の校合」と「重校」によって「殆散千万端之蒙(疑問を解消することが出来た)」として源光行の没後、いう。源光行によって{{和暦|[[1236}}年]](嘉禎2年)2月3日に始められ、源光行の没後、源親行によって{{和暦|[[1255}}年]](建長7年)7月7日に一旦これを完成させたとされるものである。

集められた古写本の中で源光行がもともと持っていた写本と以下の7つの写本を特に重要視していたとされる。
*[[藤原伊房|二条帥伊房]]本
*[[藤原朝隆|冷泉中納言朝隆]]本
*[[源俊房|堀川左大臣俊房]]本
*[[従一位麗子本源氏物語|従一位麗子]]
*[[藤原忠通|法性寺関白]]本
*[[藤原俊成|五条三位俊成]]本
*[[藤原定家|京極中納言定家]]本
これら以外にも、[[平瀬本源氏物語|平瀬本]]奥書などによって[[香本]]・花本・俊本・武衛本・江本・山本・馬本といった写本を参照していたことはわかるものの、これらの写本がどのような由来を持ちどのような本文を有する写本であったのかはほとんど不明である。

この本は源光行の没後、源親行によってほぼ完成され、定本として家に伝えたとされることになったが、その後も親行の子源義行、孫源友行等が代々加筆して伝えたとされている<ref>例えば旧平瀬家所蔵本の奥書によれば{{和暦|[[1265}}年]](文永2年){{和暦|[[1266}}年]](文永3年)及び{{和暦|[[1268}}年]](文永5年)にも校訂作業が行われたとの記述が見られる。</ref>。源光行・源親行がともに[[河内守]]を歴任しているため河内本の名称が冠せられている。[[鎌倉時代]]から[[室町時代]]前期にかけて重んぜられ、その後も大きな影響力を持った本文である。この「河内本」を書写した諸本の系統を「河内本系」と呼ぶ。
 
==特色==
校勘に校勘を重ねて「殆散千万端之蒙」にいたったとされる。つまり河内本とは、もともとあった本文に積極的に手を加えて新たに作り出された意味の通りやすい混成本文であったとみられる。河内本は南北朝期・室町初期までは[[青表紙本]]よりもむしろ盛んに用いられていたが、室町中期、[[宗祇]]・[[三条西実隆]]の頃から、定家の青表紙本を尊重すべきことが強調され、それ以後河内本は研究者の目にほとんど触れなくなり、近代まで世に埋もれてしまうこととなった。しかしながら河内本衰退後に有力になった青表紙本や青表紙本の系統に属するとされる[[絵入源氏物語]]や[[湖月抄]]などの[[江戸時代]]の版本の本文は河内本の影響を大きく受けていると見られる。
 
これは、青表紙本にはしばしば意味の通らない箇所や別の部分の記述と矛盾するように見える記述があり、該当部分の河内本を見ると意味が通るような記述になっていることが多いために、河内本にそって青表紙本に訂正を加えることがあったからだと見られる。最も良質な青表紙本の写本であると言われている[[大島本]]でも本来の本文に対して河内本に基づくと見られる多くの訂正の跡を確認することができる。
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==主要な写本==
主要な写本として以下のような写本があり、そのうちのいくつかは複製(影印)刊行されている
*[[尾州家本源氏物語|尾州家本]]
*:{{和暦|[[1258}}5年]](正嘉2年)5月に[[北条実時]]が出来上がったばかりの源親行所有の河内本原本を借用して能筆家に書写させ[[金沢文庫]]に入れたものとされている河内本として成立年次の最も古い写本である(一部後世に補写された巻がある)。[[室町時代]]の所在は不明であるが、[[関白]][[豊臣秀次]]の所有となった後[[徳川家康]]のものになり、{{和暦|[[1616}}年]](元和2年)、徳川家康の死去に伴い第九子の[[徳川義直]]に「駿河御譲本」と呼ばれた約3,000冊の蔵書の一つとして分与され[[尾張徳川家]]のものとなった。{{和暦|[[1931}}年]](昭和6年)尾張徳川家から第19代当主の[[徳川義親]]によって設立された[[徳川黎明会]]に管理が移り、{{和暦|[[1950}}年]](昭和25年)に[[名古屋市]]に管理が移り[[名古屋市蓬左文庫]]の管理となった。現在国の重要文化財に指定されている。
*[[御物本源氏物語|御物本]]
*[[東山御文庫]]本
*:『[[東山御文庫]]本』や『各筆源氏』とも呼ばれる。青表紙本や別本の本文を持つ巻も含まれている。
*:[[後醍醐天皇]]、[[足利尊氏]]、[[二条為明]]、[[慶雲]]、[[浄弁]]、[[吉田兼好]]、[[頓阿]]の七人の筆になるとされることから『七毫源氏』とも呼ばれる。
*[[高松宮家七毫源氏]]
*:旧[[高松宮家所蔵。現在は[[国立歴史民族博源氏語|高松宮家本]]所蔵。
*:代表的な[[耕雲本]]。旧高松宮家所蔵本。現在は[[国立歴史民俗博物館]]所蔵。
*中山家本
*[[中山本源氏物語|中山本]]
*平瀬本
*:現在は[[国立歴史民俗博物館]]所蔵。「若紫」、「絵合」、「行幸」、「柏木」、「鈴虫」、「総角」(一部)のみ現存する。元々の成立事情は異なると見られるがいずれも鎌倉時代の写本である。元はこの他に「末摘花」、「幻」があったらしいが現在は失われた。「柏木」と「総角」は青表紙本である。<ref>[[伊藤鉃也]]「中山本『源氏物語』(国立歴史民俗博物館蔵)」人間文化研究機構国文学研究資料館編『立川移転記念特別展示図録 源氏物語 千年のかがやき』思文閣出版、2008年10月、p. 94。 ISBN 978-4-7842-1437-2 </ref>
*:近代に入って行われた源氏物語の写本調査の中で{{和暦|1921}}に山脇毅によって良質な河内本の写本として初めて発見された写本。旧平瀬家所蔵。現在は[[文化庁]]蔵。
*[[平瀬本源氏物語|平瀬本]]
*大島本
*:54帖の揃い本。近代に入って行われた源氏物語の写本調査の中で[[1921年]](大正10年)に山脇毅によって良質な河内本の写本として初めて発見された写本<ref>山脇毅「平瀬本源氏物語」『藝文』[[1921年]](大正10年)12月号、のち『源氏物語の文献学的研究』創元社、[[1944年]](昭和19年)10月、pp.. 77-104。</ref>。発見時は大阪の平瀬家の所蔵であったが[[1998年]](平成10年)に[[文化庁]]が購入しその所蔵になった。
*:青表紙本の[[大島本]]とは別の古写本である。
*[[大島河内本源氏物語|大島河内本]](大島本とも)
*:青表紙本の[[大島本]]とは別の古写本であり、区別の為、普通「大島河内本」とよばれる。現在は[[中京大学]]図書館所蔵。
*[[天理河内本源氏物語|天理河内本]]
*:かつては[[池田亀鑑]]のもとにあり、「本書は学会の重宝として貴重すへき希有の珍本にしてよろしく校本源氏物語の底本として学界に弘布すへきものなり」としているため<ref>天理図書館編輯『天理図書館叢書 天理図書館稀書目録 和漢書之部 第三』天理大学出版部、[[1960年]](昭和35年)、p. 358。</ref>『源氏物語に関する展観書目録』において「校本源氏物語底本 河内本(禁裏御本転写) (室町時代)写 」と説明されている「校本源氏物語」(のちの『[[校異源氏物語]]』及び『[[源氏物語大成]]』)の底本であったと考えられている本。のちに[[天理図書館]]の所蔵となり、「天理河内本」との名称で『源氏物語別本集成 続』で校合対象の一つになっている。
*[[鳳来寺本源氏物語|鳳来寺本]]
*[[吉川本源氏物語#河内本|吉川本]]
 
== 校本 ==
校異を収録した本として、次のようなものがある。
*『[[源氏物語大成]] 校異篇』池田亀鑑編(中央公論社、1953年〜)
*『[[河内本源氏物語校異集成]]』加藤洋介編(風間書房、2001年)ISBN 4-7599-1260-6
 
== 参考文献 ==
*加藤洋介「源氏物語の諸本  河内本について」『国文学解釈と鑑賞 別冊 源氏物語の鑑賞と基礎知識 29 花散里』(至文堂、{{和暦|[[2003}}7年]](平成15年)7月8日) pp.. 205-212。
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
<references/>
 
{{源氏物語|state=collapsed}}
{{源氏物語の写本と関連書|state=uncollapsed}}
 
{{DEFAULTSORT:かわちほん}}
[[Category:源氏物語の写本|系*かわちほん]]
[[category:写本]]
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