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* [[アリゾナ大学]]
* [[ニューヨーク・ヤンキース]] (1992)
* [[ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム|カリフォルニア・エンゼルス]] (1993 - 1996)
* [[サンフランシスコ・ジャイアンツ]] (1997 - 2005)
* [[ボストン・レッドソックス]] (2006)
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}}
'''ジャック・トーマス・スノー'''('''Jack Thomas Snow''', [[1968年]][[2月26日]] - )は、[[アメリカ合衆国]]・[[カリフォルニア州]][[ロングビーチ (カリフォルニア州)|ロングビーチ]]出身の元[[プロ野球]]選手([[一塁手]])。左投左打({{by|1998年}}までは両打[[スイッチヒッター]]<ref>「30球団マンスリー・リポート サンフランシスコ・ジャイアンツ 左打ち一本にして苦手左腕を克服 交流戦通算成績で打点王のスノー」『[[月刊メジャー・リーグ]]』 2000年9月号 [[ベースボール・マガジン社]] 57頁</ref>)。
 
父の[[:en:Jack Snow (American football)|ジャック・スノー]]は元[[NFL]]選手で、屈指の[[ワイドレシーバー (アメリカンフットボール)|ワイドレシーバー]]だった。
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=== エンゼルス時代 ===
1992年[[12月6日]]に[[ジム・アボット]]との[[トレード]]で、[[ラス・スプリンガー]]他1選手と共に[[ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム|カリフォルニア・エンゼルス]]へ移籍。
移籍1年目の{{by|1993年}}はレギュラーに定着し、開幕戦の[[ミルウォーキー・ブルワーズ]]戦でメジャー初本塁打を放つなど、4月は打率.343・6本塁打を記録。その後調子を落とし途中にマイナー降格もあったが、打率.241・16本塁打・57打点の成績を残す。{{by|1994年}}は[[エドゥアルド・ペレス]](後[[阪神タイガース|阪神]])にポジションを奪われ、開幕をマイナーで迎えるものの、ペレスの不振に伴いメジャーに昇格。しかし[[1994年から1995年のMLBストライキ]]によるシーズン打ち切りもあって打率.220・8本塁打・30打点に終わった。{{by|1995年}}は打率.289・24本塁打・102打点を記録。チームは途中2位に最大11ゲーム差を付けたが終盤に失速し、[[シアトル・マリナーズ]]とのワンゲーム・プレイオフで敗れ、9年ぶりの地区優勝を逃した。オフに初の[[ゴールドグラブ賞]]を受賞。{{by|1996年}}は打率.257・17本塁打・67打点と成績を落としたが、2年連続でゴールドグラブ賞を受賞する。[[11月26日]]に2選手との交換トレードで[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]へ移籍。
 
=== ジャイアンツ時代 ===
{{by|1997年}}は打率.281・28本塁打・104打点・96四球を記録し、チームの8年ぶりの地区優勝に貢献する。[[マイアミ・マーリンズ|フロリダ・マーリンズ]]との[[1997年のナショナルリーグディビジョンシリーズ|ディビジョンシリーズ]]は3連敗で敗退。ジャイアンツの組織内で最も大きな影響を与えた人物を、選手・球団スタッフ・コーチが選ぶ「[[ウィリー・マッコビー|ウィリー・マック]]賞」を受賞した。{{by|1998年}}は24本塁打・98打点。新球場[[AT&Tオラクル・パーク|パシフィックベル・パーク]]が開場した{{by|2000年}}は19本塁打・96打点を記録し、チームは3年ぶりの地区優勝。[[ニューヨーク・メッツ]]との[[2000年のナショナルリーグディビジョンシリーズ|ディビジョンシリーズ]]第2戦で、9回に[[クローザー]]の[[アーマンド・ベニテス]]から同点3点本塁打を放つが延長10回の末敗れ、チームは1勝3敗で敗退した。{{by|2001年}}は故障もあって打率.246・8本塁打と不本意な成績に終わる。{{by|2002年}}も6本塁打と振るわなかったが、チームは[[ワイルドカード (スポーツ)|ワイルドカード]]を獲得。ポストシーズンを勝ち上がり、13年ぶりのリーグ優勝を果たす。史上初めてワイルドカード同士の対戦となった古巣・エンゼルスとの[[2002年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]では、第1戦で本塁打を放つなど打率.407の活躍を見せるが、チームは3勝4敗で敗退し、移転後初のシリーズ制覇はならなかった。
 
{{by|2003年}}は[[6月5日]]の[[ミネソタ・ツインズ]]戦で球団史上3人目のスプラッシュ・ヒット(本拠地[[AT&Tオラクル・パーク|SBCパーク]]の右翼フェンス後方のサンフランシスコ湾に飛び込む本塁打)を放つ。{{by|2004年}}は、規定打席不足ながら打率.327・出塁率.429・長打率.529を記録。オフには2度目のウィリー・マック賞を受賞。当時の監督[[フェリペ・アルー]]は「彼の存在感は、このクラブハウスでとても大きい。彼の練習に取り組む姿勢から、プロの姿勢を学んでいるチームメイトも多い」と語っている。{{by|2005年}}は[[ランス・ニークロ]]とのツープラトン起用ながら117試合に出場。堅実な守備を披露する一方で、若手にアドバイスを送るなど、ベテランらしい一面ものぞかせた。オフに[[フリーエージェント (プロスポーツ)|FA]]となった。
 
=== 以後 ===
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|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1993}}
|rowspan="4" style="text-align:center;"|[[ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム|CAL]]
|129||489||419||60||101||18||2||16||171||57||3||0||7||6||55||4||2||88||10||.241||.328||.408||.736
|-
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* 各年度の'''太字'''はリーグ最高
 
=== 獲得タイトル・表彰・記録 ===
* [[ゴールドグラブ賞]] 6回:(1995年 - 2000年)
* [[インターナショナルリーグ]]MVP 1回:(1992年)
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{{Baseball-biography-stub}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:すのお しえいてい}}
[[Category:アメリカ合衆国の野球選手]]
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[[Category:サンフランシスコ・ジャイアンツの選手]]
[[Category:ボストン・レッドソックスの選手]]
[[Category:アリゾナ大学出身の野球選手]]
[[Category:ロングビーチ出身の人物]]
[[Category:1968年生]]