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'''無懐氏'''(むかいし、[[ピンイン]]:wú huái shì)は、中国の古国時代における原初諸氏最後の氏族である。また、帝[[#蒼芒|蒼芒]]
陰康氏の後にその名が見られ、[[三皇五帝|五帝]]や[[夏 (三代)|夏王朝]]に入る前の時代に挙げられている中では最も新しい時代の統治者にあたる。無懐氏の世の後にあたるのが[[黄帝]]あるいは[[神農]]の時代であるとされているが、『[[史記]]』(三皇本紀)などの史書では、伏羲たちの時代の後ではなく[[人皇]]([[三皇五帝|三皇]]のひとり)のあとの時代<ref name="shiki">『史記国字解』 第1巻 早稲田大学出版部 1919年 22-24頁(三皇本紀)</ref>、あるいは伏羲たちの前の時代<ref>『史記国字解』 第2巻 早稲田大学出版部 1919年 457頁(封禅書)</ref>に位置するという解釈も存在している。
==姓==
帝蒼芒は
===大伏羲氏===
'''大伏羲氏'''(だいふっきし・だいふくぎし)は、
==統治==
'''蒼芒'''(そうぼう)は、初め無懐氏の族長だったが、突出した業績により伏羲女媧体制71代帝[[渭茂]]に執政として抜擢され、帝都で政権を補佐。執政任期中の公正明大な態度が部落の首領たちの支持を得、帝渭茂が[[天帝|神]]と大伏羲氏族の臣民に対して帝位の継承を推薦した
紀元前5241年に71代
晩年に姪である[[節曲]]を73代
===蒼芒===
在位は紀元前5241年〜紀元前5209年、生没年は帝[[澤治]]二十五年(紀元前5278年)〜帝'''蒼芒'''三十二年(紀元前5209年)とされる。出生地は懐城(現在の河南省[[焦作市]][[武陟県]]西陶鎮古城)、都は象城(現在の河南省漯河市舞陽県北東)元年は辛丑の年、紀元前5240年<ref group="注釈">即位は紀元前5241年。[[服喪|喪に服した]]ものと思われるが、当時そのような概念があったかは不明である。</ref>とされる。[[女王|性別は女]]で名は蒼芒、号が無懐氏とされる。中国氏族同盟伏羲女媧体制の72代帝、[[無懐氏#大伏羲氏|大伏羲氏族]]無懐氏の長である。
==以後==
懐城は無懐氏族の活動の中心であった。氏族同盟時代([[古国時代#原初諸氏|原初諸氏期]])が終わると無懐氏の部落は解体し、その一部が懐を姓として懐国を建国した。しかし西周時代に懐国は周の武王に征服されたため、[[諸侯国]]として臣従した。春秋初年に懐国は[[鄭|鄭国]]の所有となり、戦国時代には[[魏 (戦国)|魏国]]に所属した。
== 中国氏族同盟伏羲女媧体制の王たち ==
『[[史記]]』(三皇本紀)に見られるのは以下の17氏である。
* 人皇(三皇) ― 五竜氏・[[燧人氏]]・大庭氏・柏皇氏・中央氏・巻須氏・栗陸氏・[[驪連氏]]・赫胥氏・[[尊盧氏]]・[[渾沌氏]]・昊英氏・[[有巣氏]]・朱襄氏・[[葛天氏]]・陰康氏・無懐氏 ― 黄帝(五帝)<ref name="shiki" />
『[[帝王世紀]]』では以下の15氏が挙げられている。
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