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{{出典の明記|date=2014年9月}}
{{Otheruses|世界公会議とも呼ばれる"Οικουμενικές σύνοδοι"|ギリシャ語"σύνοδοι"単体で表される概念|シノド}}
'''公会議'''(こうかいぎ、{{lang-el|Οικουμενικές σύνοδοι}}, {{lang-la|Concilium Oecumenicum}}, {{lang-en|Ecumenical council}})とは、[[キリスト教]]において全世界の[[教会]]から[[司教]]([[主教]])等の正規代表者が集まり、[[教義]]・[[典礼]]・[[教会法]]などについて審議決定する最高会議<ref name="kiri">『キリスト教大辞典』(660頁、[[教文館]]、昭和48年改訂新版第二版)</ref>。
==概要==
それぞれの公会議は、開催地の名前を伴って~公会議と呼ばれ、同地域で複数回の公会議が行われた場合はそれぞれ第~を冠する。
別称として、'''世界公会議'''、'''エキュメニカル会議'''、'''普遍的公会議
公会議(公会)に対して、地方ごとに行われる[[教会会議]]も存在する。
特に、西ヨーロッパにおいて、地方ごとの教会会議もしばしば公会議 (concilium, council) と称されることがあるが(例:[[1095年]]の[[クレルモン教会会議]]を「クレルモン公会議」と称するなど)、世界公会議と、こうした地方ごとに開催された公会議とも呼ばれる教会会議の性格は異なる。
[[正教会]]は[[787年]]の[[第2ニカイア公会議]](第7回公会議)までのみを普遍的公会議と認め、7回の公会議を全地公会、[[全地公会議]]と呼ぶ。
正教会においては地方ごとに行われる教会会議も'''地方公会'''等と称し、「公会」の語義が広い。
== 歴史的経緯 ==
公会議は[[新約聖書]]の[[使徒行伝]]にみられる[[エルサレム]]会議がそのルーツであるといえる。初代教会では信仰についての議論が紛糾すると、各地域において代表者が会議を開き、決議を行っていた。だが、[[アレイオス派]]の問題が生じるにいたって、すべての地域の代表による会議の開催が必要となった。そうして開かれたのが最初の公会議である[[325年]]の[[第1ニカイア公会議]]であった。以後、多くの公会議が行われているが、場合によっては、後の公会議や教皇の勅令によって、公会議の無効、または議決の部分的修正がされる場合がある
西方教会においては、[[1378年]]の[[教会大分裂]]([[シスマ]])によってローマとアヴィニョンに教皇が並立し、教皇権の混乱と弱体化を引き起こした。この事態は教皇首位説のもとでは解決困難であり、公会議にこそ教会の最高決定能力があるとする[[公会議主義]]の主張が台頭した。[[1414年]]の[[コンスタンツ公会議]]では公会議主義者の主導によって公会議主義が決議されたが、[[教皇首位説|教皇至上主義]]派の巻き返しもあって後の[[バーゼル公会議]]では[[教皇首位説]]が決議されることになった。
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公会議に関しては、キリスト教の各教派によってその重要性の解釈は異なっている。
*[[カトリック教会]]では、325年の第1ニカイア公会議から1962-65年の[[第2
*[[プロテスタント]]諸教会は([[宗教改革]]期以降の公会議はもちろんのこと)すべての公会議を認めているわけではないが、
**当時優勢であった異端アリウス主義を大論争のうえ排斥し、アタナシオスらによって[[三位一体論]]を公式に採択した[[第1ニカイア公会議]](325年)および[[第1コンスタンティノポリス公会議]](381年)、さらに三位一体論が正統的な神学であることの再確認と、キリストの神人両性論が公式に採択された[[エフェソス公会議]](431年)および[[カルケドン公会議]](451年)は重要な歴史的な公会議であるとされている。
*[[
**なお、正教会では、自律した諸地方教会単位までの教会会議を便宜的に「地方公会」と呼ぶことがあり、これは使徒的な諸自律教会全体を包括する公会議を「全地公会」と区別される。現在でもローマ、コンスタンチノープル、ロシアなどの諸教会単位で行われる教会会議は地方公会であり、第1ニケアから第4コンスタンチノープル会議まで7回の会議のみが全地公会としての要件を満たした普遍的公会議(全地公会)であるとしている。
*近年出現した[[分派]]([[セクト]])またはキリスト教系新興宗教の大多数が、公会議の全ての権威や歴史的な信仰宣言をいっさい認めず、ことごとく“否定”する傾向がある。
**彼らの主張を分析してみると、ほぼ例外なく、伝統的なキリスト教の主流派を「歴史の中で教会に悪魔が入りこんで堕落した」「中世の暗黒時代に背教と腐敗が入り込んだ」「人間の罪の結果または異教の介入によって教会が堕落し本来の姿から離れてしまった」「聖書に預言された堕落した背教の徴」「歴史的な教会改革運動は全て失敗であった」などと主張し、公会議の歴史的な決定事項や信仰告白を完全に否定する傾向がある。それらの大多数が、教祖的人物の受けたとされる啓示や、ほんの一握りの組織上層部の聖書理解や自分勝手な神学が強調されたり、ある種のカリスマ的な[[神秘体験]]が強調されたり、自らの宗教組織のみが神によって選ばれた地上の可視的な唯一の真理(救いの道)であるなどと主張するなど、独特の特徴がある。
== 公会議一覧 ==
===備考===
843年に、[[イコノクラスム]]を決着したコンスタンティノープル公会議は、教会内の対立により表から除かれている。{{main|[[ピピンの寄進]]|イコノクラスム}}
===一覧===
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|+
! rowspan=3 | 回
! rowspan=3 style="width:4em" | 年
! rowspan=3 | 公会議の名称
! rowspan=3 | 概要
! colspan=5 | 有効性を認めている教会
|-
! colspan=2 | [[西方教会]]
! colspan=3 | [[東方教会]]
|-
! style="width:3.2em" | [[カトリック教会|カトリック]]
! style="width:3.2em" | その他
! style="width:3.2em" | [[正教会]]
! style="width:3.2em" | [[非カルケドン派正教会|非カルケドン派]]
! style="width:3.2em" | [[アッシリア東方教会]]
|-
! colspan=9 | [[全地公会議]](第1回〜第7回)<ref>第7回までは[[正教会]]でも有効性が認められる。正教会は、「第8回」以降全地公会議として認められる公会は存在せず地方公会があるのみである、とする。</ref>
|-
| 1
| [[325年]]
| [[第1ニカイア公会議]]
| style="text-align:left" | [[アレイオス派]]排斥および[[ニカイア信条]]採択、[[復活祭]]([[復活大祭]])の日付を確定
| ●
| ●
| ●
| ●
| ●
|-
| 2
| [[381年]]
| [[第1コンスタンティノポリス公会議]]
| style="text-align:left" | [[三位一体論]]の定義、[[ニカイア・コンスタンティノポリス信条]]採択
| ●
| ●
| ●
| ●
| ●
|-
| 3
| [[431年]]
| [[エフェソス公会議]]
| style="text-align:left" | [[ニカイア信条]]の正統性を確認。[[ネストリオス派]]の排斥と[[神の母|テオトコス]]論争の決着
| ●
| ●
| ●
| ●
| –
|-
| 4
| [[451年]]
| [[カルケドン公会議]]
| style="text-align:left" | {{仮リンク|エウテュケス|en|Eutyches}}らの唱えた[[単性説|単性論]](449年[[エフェソス強盗会議]]において認められたもの)の排斥
| ●
| ●
| ●
| –
| –
|-
| 5
| [[553年]]
| [[第2コンスタンティノポリス公会議]]
| style="text-align:left" | 三章問題([[:en:Three-Chapter Controversy|en]])の討議、カルケドン公会議の決定の再確認
| ●
| △
| ●
| –
| –
|-
| 6
| [[680年]]<br />–[[681年]]
| [[第3コンスタンティノポリス公会議]]
| style="text-align:left" | [[単意論]]の排斥。ホノリウス問題を討議
| ●
| △
| ●
| –
| –
|-
| 7
| [[787年]]
| [[第2ニカイア公会議]]
| style="text-align:left" | [[イコノクラスム|聖像破壊]]論者の排斥
| ●
| △
| ●
| –
| –
|-
! colspan=9 | [[カトリック教会]]のみが有効とする'''公会議'''(第8回〜第21回)<ref>[[正教会]]は、[[カトリック教会]]の称する「第8回」以後は(全地公会としての要件を欠いた)カトリック教会の地方的会議であると捉えている。また正教会は、「第8回」は後に追放された[[フォティオス]]が復権するなどして一旦棄却されたという歴史的事実があるので、(全地にせよ地方にせよ)公会議として扱うこと自体を不当とする。</ref>
|-
| 8
| [[869年]]<br />–[[870年]]
| [[第4コンスタンティノポリス公会議]]
| style="text-align:left" | [[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンディヌーポリ総主教]][[フォティオス]]を追放
| ●
| –
| –
| –
| –
|-
| 9
| [[1123年]]
| [[第1ラテラン公会議]]
| style="text-align:left" | [[ヴォルムス協約]]を承認、初めて西ヨーロッパで開催
| ●
| –
| –
| –
| –
|-
| 10
| [[1139年]]
| [[第2ラテラン公会議]]
| style="text-align:left" | 教会改革を実施し、対立教皇によって引きおこされた分裂を収拾
| ●
| –
| –
| –
| –
|-
| 11
| [[1179年]]
| [[第3ラテラン公会議]]
| style="text-align:left" | [[コンクラーヴェ]]のシステム改正(2/3の多数決制)。以降、参加司教の名簿が作成されるようになる
| ●
| –
| –
| –
| –
|-
| 12
| [[1215年]]
| [[第4ラテラン公会議]]
| style="text-align:left" | [[ヴァルド派]]・[[カタリ派]]を排斥。[[聖体]]の変化を示す「全実体変化 (Transsubstantiatio) 」を定義
| ●
| –
| –
| –
| –
|-
| 13
| [[1245年]]
| [[第1リヨン公会議]]
| style="text-align:left" | 神聖ローマ皇帝[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]を教会の敵対者として非難
| ●
| –
| –
| –
| –
|-
| 14
| [[1274年]]
| [[第2リヨン公会議]]
| style="text-align:left" | [[コンクラーヴェ]]の制定。ギリシャ教会との合同を模索
| ●
| –
| –
| –
| –
|-
| 15
| [[1311年]]<br />–[[1312年]]
| [[ヴィエンヌ公会議]]
| style="text-align:left" | [[テンプル騎士団]]の解散を命令
| ●
| –
| –
| –
| –
|-
| 16
| [[1414年]]<br />–[[1418年]]
| [[コンスタンツ公会議]]
| style="text-align:left" | 対立教皇を廃し、教会大分裂([[シスマ]])終結。[[ウィクリフ]]、[[フス]]を排斥。[[公会議主義]]的教令を採択
| ●
| –
| –
| –
| –
|-
| 17
| [[1431年]]<br />–[[1445年]]
| [[バーゼル公会議]]、[[フィレンツェ公会議|フェラーラ・フィレンツェ公会議]]<ref>1438年にフェラーラ、1439年にフィレンツェと移動したため、バーゼル・フェラーラ・フィレンツェ公会議などとも呼ばれる。</ref>
| style="text-align:left" | [[教皇首位説]](コンスタンツ公会議の修正)、[[フィリオクェ問題]]の決議。カトリック(西方教会)と正教会の合同を目指した<ref>会議には正教会も参加しているが、承認できる内容ではないとして全地公会と認めていない。</ref>
| ●
| –
| –
| –
| –
|-
| 18
| [[1512年]]<br />–[[1517年]]
| [[第5ラテラン公会議]]
| style="text-align:left" | 教会改革を志向したが果たせず、[[宗教改革]]運動を招くことに
| ●
| –
| –
| –
| –
|-
| 19
| [[1545年]]<br />–[[1563年]]
| [[トリエント公会議]]
| style="text-align:left" | 教義や教会の方向性が討議され、カトリック教会のアイデンティティーを再確認。刷新された[[典礼]]は以後400年変わらず
| ●
| –
| –
| –
| –
|-
| 20
| [[1869年]]<br />–[[1870年]]
| [[第1バチカン公会議]]
| style="text-align:left" | 近代思想を否定し、[[教皇不可謬説|教皇不可謬]]を宣言
| ●
| –
| –
| –
| –
|-
| 21
| [[1962年]]<br />–[[1965年]]
| [[第2バチカン公会議]]
| style="text-align:left" | カトリック教会のアジョルナメント(今日化)を目指し、典礼・信仰の表現を刷新。カトリック教会の他宗教・他文化との対話([[エキュメニズム]])を推進。
| ●
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| –
|}
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[ビザンティン・ハーモニー]]
*[[教条主義]]
== 外部リンク ==
*[http://www.piar.hu/councils/ All Catholic Church Ecumenical Councils]{{リンク切れ|date=2021年12月}} (英語)
{{Normdaten}}
[[Category:公会議|*]]
[[Category:教条主義]]
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