「郭璞」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
Melckebeke (会話 | 投稿記録) |
編集の要約なし |
||
(20人の利用者による、間の33版が非表示) | |||
1行目:
{{Portal|文学}}
[[File:Guo Pu.jpg|thumb|220px|郭璞 / 『列仙酒牌』]]
'''郭 璞'''(かく はく、[[276年]] - [[324年]])は、[[中国]][[西晋]]・[[東晋]]の文学者・卜者。[[字]]は'''景純'''。
== 生涯 ==
寒門の家に生まれ、訥弁であったが、博学で文章に巧みであった。また郭公なる人物から『青嚢中書』という書物を授かり、これによって五行・天文・卜筮のあらゆる術に通じ
{{節stub}}▼
▲寒門の家に生まれ、訥弁であったが、博学で文章に巧みであった。また郭公なる人物から『青嚢中書』という書物を授かり、これによって五行・天文・卜筮のあらゆる術に通じるようになり、いにしえの[[京房]]や[[管輅]]をも凌ぐほどであったという。
[[八王の乱]]により中原が戦乱に見舞われると、郭璞は筮竹で将来を占い、この地が遠からず異民族に蹂躙されることを予見した。そこで親類・友人たち数十家とともに江南に避難した。史書によると、江南までの道中、様々な術や予言を行い、それによって難を逃れたという。
江南に来た郭璞は、その後、[[元帝 (東晋)|司馬睿]](後の[[東晋]]の元帝)の腹心[[王導]]に招かれ、彼の参軍となり、その
東晋が建国されると、郭璞は「江賦」「南郊賦」を献上し、それらは世間で大いに評判になった。元帝にも賞賛され、著作左郎に任じられ、ついで尚書郎に移った。皇太子[[明帝 (東晋)|司馬紹]](後の明帝)
== 著作 ==
{{節stub}}
*『[[山海経]]』
== 著名な作品 ==
36行目:
|-
|'''未若託蓬萊'''
|未だ蓬
|-
|'''臨源挹清波'''
54行目:
|-
|'''萊氏有逸妻'''
|
|-
|'''進則保龍見'''
66行目:
|-
|'''長揖謝夷齊'''
|長揖して伯夷
|-
|}
== 伝記資料 ==
*『[[晋書]]』巻72
{{Wikisourcelang|zh|作者:郭璞|郭璞の作品}}
{{経書と注釈書}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:かく はく}}▼
[[category:3世紀中国の詩人]]
▲{{DEFAULTSORT:かくはく}}
[[category:4世紀中国の詩人]]
[[Category:
[[Category:西晋の人物]]
[[Category:東晋の人物]]
[[Category:276年生]]
[[Category:324年没]]
|