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{{Portal|文学}}
[[File:Guo Pu.jpg|thumb|220px|郭璞 / 『列仙酒牌』]]
'''郭 璞'''(かく はく、[[276年]] - [[324年]])は、[[中国]][[西晋]]・[[東晋]]の文学者・卜者。[[字]]は'''景純'''。[[河東郡 (中国)|河東郡]]聞喜県(現在の[[山西省]][[運城市]][[聞喜県]]の人。文才と卜占の術により建国まもない東晋王朝の権力者たちに重用され、史書や『[[捜神記]]』などの[[志怪小説]]では、超人的な予言者・妖術師として様々な逸話が残されている。卜占・五行・天文暦法に通ずるのみならず、古典にも造詣が深く、『[[爾雅]]』『[[方言 (辞典)|方言]]』『[[山海経]]』に注したことで知られる。文学作品では「遊仙詩」「江賦」などが代表作とされる。
 
== 生涯 ==
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江南に来た郭璞は、その後、[[元帝 (東晋)|司馬睿]](後の[[東晋]]の元帝)の腹心[[王導]]に招かれ、彼の参軍となり、その卜筮の術によって大いに重用された。司馬睿が皇帝に即位する前後、その将来を占い、銅鐸の出土や泉の出現などの東晋中興の正統性を裏付ける瑞祥を予見し、司馬睿の寵愛も受けるに至った。
 
東晋が建国されると、郭璞は「江賦」「南郊賦」を献上し、それらは世間で大いに評判になった。元帝にも賞賛され、著作左郎に任じられ、ついで尚書郎に移った。皇太子[[明帝 (東晋)|司馬紹]](後の明帝)からは、その才能と学識を尊敬され、当時の有力者であった[[温キョウ|温嶠]]・[[庾亮]]らと同等の待遇を受けた。
 
324[[太寧 (東晋)|太寧]]2(324年)、[[王敦]]が再び反乱を企て、郭璞にその成否を占わせたところ「成る無し」の結果がでた。王敦はかねてから郭璞が温嶠・庾亮らと親しく、彼らに自らの討伐をそそのかしていると疑っていたので、占いの結果に激怒し郭璞を処刑した。享年49。王敦の乱が平定されると、[[弘農郡]][[太守]]を追贈され、子の郭驁が父の後を継いで、官位は[[臨賀郡]]太守に至った。
 
== 著作 ==
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|'''未若託蓬萊'''
|未だ蓬に託すに若かず
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|'''臨源挹清波'''
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|'''萊氏有逸妻'''
|氏に逸妻有り
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|'''進則保龍見'''
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|-
|'''長揖謝夷齊'''
|長揖して・叔斉に謝せん
|-
|}
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{{Wikisourcelang|zh|作者:郭璞|郭璞の作品}}
{{経書と注釈書}}
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[[category:3世紀中国の詩人]]